法厳寺関白の今様ヘルメノイティーク

@rexincognita

序言、『波浮の港』他4曲

序言

 ジャック・デリダによれば、「パロール」(音声)重視は西洋の巨悪・権威主義であり、「エクリチュール」(文字)は読者による自由な脱構築が可能であるから、「エクリチュール」にこだわらなくてはならないそうだ。

 この思想は、ルターの焼き直しそのものである。パロール重視はカトリシズムの教権主義、説教原理に対応し、エクリチュール重視は「聖書のみ」を説くプロテスタントにあたる。

 エクリチュール偏重の精神である立憲主義をもたらした啓蒙思想・フランス革命の起源が、宗教改革にあると喝破したメーストル伯が、如何に慧眼であったことか。

 ところで「歌」というものにおいては、当然ながらパロールを前提としており、エクリチュールは非本来的なものであるはずだ。しかし、その前提を無視する形で、エクリチュールにのみ頼って、歌詞の自由解釈・脱構築をすることは、聖書や憲法の自由解釈や脱構築をすることよりも低級なものであるという意見に、よもや当世の相対主義先生方が賛同なさることはなかろう。

 それどころか、楽府が人民の声にして、天命そのものであるとするならば、世々移り変わりゆく里謡を採集して、これを解釈することは、最も神聖で高尚な作業ということになるはずである。

 それゆえ私は、ルター師が聖書を自らの霊感の赴くままに切り刻み、あらゆる伝統と歴史を竈に放り込んだひそみにならい、当世の神々にして全知全能の主権者たる人民のお歴々の間で生まれた歌謡の歌詞の、神聖不可侵なる文字にのみ頼り、自らの独断・偏見以外の全ての夾雑物を排除して、当世の託宣の真意を延べ伝える伝道師とならんと思う。

 要は、歌詞中心の流行歌レビューです。当面は昭和3年から始めて、一年あたり一曲ずつレビューしていき、ある程度現在に近づいたらまた昭和3年に戻って別の曲をレビューするという形にしようと思います。



■波浮の港 

昭和3年 歌:佐藤千夜子 作詩:野口雨情 作曲:中山晋平

 日本の商業レコードの中では初ヒットとされている曲。日本(商業)レコード歌謡史の劈頭を飾る曲にしては、実にけだるい、というか、神秘的な寂寥感に満ちている。

 波浮(はぶ)の港というのは伊豆大島の東側の港のことで、大島の主要港湾は西側の元町港だから、大島の中でも当時から比較的寂びれた港(主に漁港)であったようだ。三番の歌詞では「島で暮らすにゃ乏しゅうてならぬ 伊豆の伊東とは郵便だより 下田港とはヤレホンニサ風だより」などと、その僻地性、寂しさがよく表現されている。

 また、二番の歌詞に「島の娘たちゃ御神火ぐらし なじょな心でヤレホンニサいるのやら」とある。この4年後の昭和8年に小唄勝太郎の『島の娘』という曲が大ヒットに至るが、この『波浮の港』のオマージュと言える。

 その後、伊豆の島の娘をテーマにした曲は陸続していて、ヒット曲以外も入れたら、歌謡曲の歴史の中に一角を占めるほどの量であろう。特に有名なものでは、昭和24年の岡晴夫の『アンコ可愛や』、昭和39年の都はるみの『アンコ椿は恋の花』あたりか(なお、「アンコ」というのは、「餡子」のことではなくて、大島方言で「姉御」のことである)。

 そもそも野口雨情がどのような発想でこの「波浮の港」というテーマを選んだのかはわからないが、彼は実際には波浮港には行かずに作詩をしたらしい(茨城県の平潟港をイメージしたそうだ)。

 作詞者が実景を一度も見ていないため、波浮港は島の東側にあり、島の中央には三原山があって西側は見えないのに、一番の歌い出しからして「磯の鵜の鳥ゃ日暮れにゃ帰る」となっていて、実景とは全く異なっている。しかも、鵜の鳥も大島にはおらず、やはり平潟港の情景だそうだ。

 昔、古典和歌の時代に都人が、行ったこともないし、行くつもりもない東国の歌枕をテーマにして、多くの和歌を詠み続けたことに通じている。これは歌の観念主義であり、自然主義嫌いの私にとっては、却って面白く思う。

 しかし、何故に「島の娘」が歌謡曲の主題になり続けたのであろうか。いわゆる戦前日本の「南洋幻想」の世界観によるものか。大島は南洋と言うには本土に近すぎる気がするが。

 この『波浮の港』に限って言えば、元町港や岡田港ではなく、波浮港がテーマになっているのは、単なる偶然ではないとすれば、野口雨情が敢えて寂びれた港を題にしたというのが考えられる。本土との連絡の乏しい鄙びた漁村で、御神火(噴煙)とともに暮らす異郷の娘たち。手近ではあるが、この憧憬、ある種の手頃な南洋幻想・オリエンタリズムが、『波浮の港』のヒット及び、その後の「島の娘」系の歌謡曲の系譜につながっていくのではないか。

 寂びれた島に火山といえば、思い出される場面が、平家物語巻第二「大納言死去」である。かの俊寛僧都らが流された薩摩潟鬼界が島(今の鹿児島県鹿児島郡三島村の硫黄島と言う)の描写として次のように語られる。「彼島は都を出てはるばると、浪路をしのいで行所也。おぼろけにては舟も通はず、島にも人まれなり。おのづから人はあれども、此土の人にも似ず、色黒うして、牛の如し…島のなかには、たかき山あり。鎮(とこしなえ)に火もゆ。硫黄と云物みちみてり。かるがゆゑに硫黄が島とも名付たり。いかづち常になりあがり、なりくだり、麓には雨しげし。一日片時人の命たへてあるべき様もなし。」

 これは全く中世の異郷観だが、『波浮の港』発売後13年で日米開戦に至る。戦時下においては、南洋に派遣された兵隊や、その家族なども、時にはこの少し古い歌を、自らの境遇に重ね合わせて、思い出すこともあったろうと思う。



■東京行進曲

昭和4年 歌:佐藤千夜子 作詩:西條八十 作曲:中山晋平

 題名だけ見ると陽気でアップテンポな曲調を想像してしまいがちだが、実際は全くマーチらしさがない、流行歌における中山晋平特有の短調でヘンテコなメロディの曲である。

 現在からすると、商業レコード最初の大ヒットということで、新時代を切り開いた昭和モダンの元祖とも言うべきな曲のはずなのだが、歌詞は出だしからして「昔恋しい銀座の柳 仇な年増を誰が知ろ」と、明治ノスタルジー(銀座の柳は明治初期に植えられたが、この頃は道路拡幅で撤去されていた)と、年老いた自己への自虐という極めて後ろ向きな内容であり、西條八十の面目躍如というべき面白さがある。

 その後の歌詞ではモダンな東京の情景が活写されるが、西條八十としては俗物的な当時の風俗の諷刺として書いたようで、決してモダニズム讃歌などといった趣の歌詞ではない。

 しかしこの曲もヒット曲としてかなりのインパクトを後年の流行歌たちに及ぼしているようで、たとえば二番の「ラッシュアワーに拾った薔薇」という、印象的ながらよくわからない(ナンセンスな)シチュエーションは昭和24年の岡晴夫の『捨てられたバラ』という曲の主題となったのであろうし、三番の「粋な浅草忍び逢い」というという歌詞は、昭和14年の淡谷のり子の『東京ブルース』(これは西條八十作詞)、「誰も知らない浅草の可愛い小ちゃな喫茶店」に生きている。古典和歌同様に、流行歌の本歌取りの世界である。

 四番「変わる新宿あの武蔵野の 月もデパートの屋根に出る」。これも何気ない無意味な歌詞のようだが、実は「行末は空もひとつの武蔵野に草の原より出づる月かげ」(後京極摂政、新古今)や「武蔵野は月の入るべき嶺もなし尾花が末にかかる白雲」(大納言通方、続古今)のような古典和歌の故事を踏まえて書かれた詩であり、単なる戯作のようではあっても、このような古典が背景にあると、一気に深みを増して見えてくる。さすが西條八十である。



■祇園小唄

昭和5年 歌:藤本二三吉 作詞:長田幹彦 作曲:佐々紅華

 一番から四番まで、祇園の四季を歌ったもの。歌手の二三吉さんは声量はあるものの、投げ槍感が強い歌い方が特徴の人で、それがかえって余裕があるように感じられて、私の好きな歌い手の一人である。とはいえ、市丸さんによる戦後(といってもかなり後年)のリメイク版の方が編曲が圧倒的に華やかで(ステレオだから当然?)、よりとっつきやすいことはとっつきやすいのだが。

 歌詞では秋を歌った三番と冬を歌った四番が秀逸である。三番「鴨の河原の水やせて咽ぶ瀬音に鐘の声 枯れた柳に秋風が泣くよ今宵も夜もすがら」。四番「雪はしとしと丸窓につもる逢瀬の差向い 灯影冷たく小夜更けてもやい枕に川千鳥」。

 三番はまさに枯淡美。柳といえば春の風物だが、春の柳の瑞々しい青さの情景を前提とすると、秋の枯れた風情がひときわ引き立つというもの。古典和歌では、やはり、革新的な玉葉集、風雅集くらいにしか秋の柳の例がない。「川遠き夕日の柳岸はれて鷺の翼に秋風ぞ吹く」(光厳院御製、風雅)。

 四番は雪の夜の静かな情景がよく表現されている。「もやい」というのは舟を係留する綱のこと。男女の冬の共寝を、川千鳥のつがいが綱を枕に寝ている情景に重ねているのだろう。少し深読みすると、かなりあだっぽい歌詞の内容なのに、表面上は冬の川の冷たさ、薄暗さしか感じられないのが、実に粋なところだ。

 作詞の長田幹彦は東京の飯田町の生まれなので江戸っ子なのだろうが、祇園に憧れて大正期には祇園ものの小説を多く書いていたらしい。この『祇園小唄』の歌詞は、彼の祇園への「思い」・「情熱」というよりは、理知的で清澄な、完成された「形」・「技」というものが強く感ぜられる。



■丘を越えて

昭和6年 歌:藤山一郎 作詞:島田芳文 作曲:古賀政男

 「牧歌」の記念碑のような、葛藤ゼロソング。「讃えよわが青春(はる)を」という歌詞の異常な屈託のなさが印象的。

 西洋のパストラル詩の翻訳のようで、日本らしさが全く感じられない。具体的な事物もほとんど出てこない。丘の他は、空と、遠くに鳴る鐘のみ。そして「胸の血潮」「胸の泉」と、生命主義的だ。

 同じ島田芳文作詞の『キャンプ小唄』も同じく昭和6年で、田園詩のようだが、こちらは「東雲千里」「朝餉の舌鼓」「山彦木霊」など、より古風で具体的な表現が出て来るのでまだ「歌謡曲」チックなのだが。

 古賀政男は多摩川の稲田堤をイメージして『丘を越えて』を作曲したというが、島田芳文は北軽井沢の浅間牧場をイメージして作詞したという。浅間牧場は、最後の輪王寺宮、北白川宮能久親王が還俗の後に開いた牧場という。

 この歌のエピソードといえば、後年矢野顕子がこの曲をNHKのオーディションだかで歌って、歌い方が気に入らなかった審査員の藤山一郎本人に怒られたというもの。ただ、実際は怒ったのではなくて評価したという説もあるようだ。

 更に後年のテレビ番組『今夜は最高!』に藤山一郎がゲストで出た時、タモリが藤山さんの前で矢野顕子に扮して『丘を越えて』を変な風に歌うという再現シーンもあったりした笑。多分世間的には、保守的な藤山一郎が、革新的な矢野顕子に怒ったという構図になっているのだろう。



■満洲行進曲

昭和7年 歌:徳山璉 作詞:大江素天 作曲:堀内敬三

 満州事変の軍歌。これは昭和4年の『東京行進曲』のような行進曲に非ざる行進曲とは違い、軍歌だから勇ましい曲だろうと思うかもしれないが、実際はずっこけるくらい間抜けな編曲である。歌い手もA面はコミカルな味のある歌声の徳山璉、B面は投げ槍な葭町芸者の二三吉姐さんで、しかも日本調アレンジだったりするので、余計軍歌らしくない。

 ただ、三船浩による戦後のリメイクなどは、意外と勇ましく聞こえたりするものだから、歌の雰囲気は、当たり前の事かもれしないが、曲や詩というよりかは編曲や歌声に大きく依存しているのだろう。

 作詞は朝日新聞社の社員とのことで、六番まであって、一番と六番は割と精神的で勇ましい歌詞なのだが、二番~五番が結構写実主義的(?)で、割と兵隊視点での苦労を描こうと努力しているように見受けられる。

 二番「防寒服が重いぞと互いに顔を見合わせる」 四番「かしぐ飯盒に立つ湯気の温みに探る肌守り故郷いかにと語り合う」 五番「背嚢枕に夜もすがら眠れぬ朝の大吹雪」など。日露戦争時の『戦友』を強く意識しているようで、『戦友』の明るいバージョンとも言えるだろう。

 しかし比較的アップテンポなA面(1番~3番)はともかく、日本調の楽器・スローテンポのB面(4番~6番)で、「東洋平和のためならば 我らが命捨つるとも・・・」と二三吉姐さんに適当に歌われても、レコードを聴くだけでは戦意高揚的な面では効果はゼロに近かろうと思われる。

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