第29話 再び、手をつないで

「早く起きなさいよっ」

「――ッ!」


 旅館で迎えた朝。俺は雅の声で目を覚ました。


「さあ、早くっ。旅館を出る支度をしないと」


 見ると、四人がせっせと帰る支度をしている。なぜそんなに、と思い時計を見ると、午前九時。旅館のチェックアウトは早いらしく、いつもの寝坊癖がここでも足を引っ張る。


「もうちょっとだけ待って……」

「もうっ」


 寝起きで頭がぼーっとする。昨日はあの後、部屋に戻りすぐに就寝した。走って帰った雅は布団の中に隠れていて表情を確認する事はできなかった。だが、初めての手つなぎ、本当に良かった。もう一度してみたい。そう思い立ち、


「雅」

「えっ、なに?」

「ちょっと手を引っ張って?」

「えーーー。なに甘えたこと言ってんのよ」

「お願い」


 帰り支度の手を止め、俺の元へ来てくれる。そうして右手を差し出す雅。


「ほら」

「ありがとう」


 優しく引っ張り上げてくれた雅に欲情した俺は、


「メルシー、マドモアゼル。ちゅ」

「――ッ!」


 そう言いながら雅の手の甲にキスをした。


「いぃぃぃやぁぁぁあああああ! 汚らしいっ! 消毒しないとっ!」

「何を言うんだ! 外国ではあいさつ代わりだぞ!」

「ここは日本よっ!」


 二人の口論を制するために千鶴先生が割って入る。


「ちょっと、そこの若夫婦! 早くして! 時間がないんだから」

「なっ! 先生っ!」

「ふふふ、冗談よ、じょーーだん」

「もうっ」


 雅は怒りながら、俺はウキウキしながら帰り支度を整えた。


 五人そろって受付へ行くと、昨日混浴場で目撃したくんずほぐれつカップルが挨拶をしてきた。


「皆さん、昨晩はどうでしたか? よく寝られましたでしょうか?」

「はい。五人ともゆっくり休めました。とても良い旅館でみんな喜んでいます」

「それは良かったです」


 女性仲居と先生が話す中、俺は小声で雅に耳打ちする。


「(あの二人はなかなか寝付けなかったようだが)」

「(ちょっとっ。やめなさいよっ)」

「(うしろからあんなに突かれたら、それはもう)」

「(だからやめなさいって)」

「(雅はあの体位、嫌いか?)」

「(いや、そうでも――ってなに言わすのよ、ばかっ)」


 二人の間でだけ話が盛り上がっていた。あのカップルのフィニッシュシーンを見逃したことだけは悔いが残るが。


 受付で支払いを済ませると、女将や仲居が総出で見送ってくれた。こちらもお辞儀をして旅館を後にする。


 そこから車まで三十分歩いた。だが、昨晩よく寝られたので昨日より随分楽に感じた。


 車が駐められた所まで到着して、


「みんな、おつかれさま。昨日は私がビールを飲んじゃったせいで……。ごめんね」


 千鶴先生が手を合わせて謝っている。それを見た鏡花が、


「大丈夫ですよ。先生のおかげで遊びに来られたんですから。それに、良い思い出もできましたし。……なっ」


 そう声をかけ、俺と雅の方を向いてくる鏡花。おそらく手つなぎデートのことを言っているのだろう。


「ああ、最高だったな雅!」

「……」


 黙って下を向く雅。それを見た千鶴先生は驚いた表情で、


「えっ!? あなた達、まさか……。ダメよ未成年でそんな……。ちゃんと避妊した?」

「わ、私たち、そんなことしてませんからっ! 先生、やめて下さい!」

「えっ、そうなの? 顔が真っ赤だったからてっきり」


 それを言われ、また黙り込む雅。俺が追い打ちをかける。


「だが雅。あれほどねっとりと汗をかいていたじゃないか」

「ちょ、バカっ! わざと勘違いされるような言い方してっ!」


 千鶴先生はニヤついた顔で、


「やっぱり若いと元気なのねぇ」

「ち、違いますっ。手です、手の汗ですっ」

「まあ手は当然びっしょりになるわよねぇ」

「違うんですっ。信じてぇぇええ!」

「はいはい……むふふ」


 口に手を当てながら千鶴先生は運転席に乗り込んだ。その後に俺たちも続く。


 車に乗ってすぐ、左隣から小声で、


「(アンタ! 後で覚えてなさいよっ)」

「(ご、ごめん。悪さが過ぎました)」

「(ふんっ)」


 雅を怒らせてしまったようだ。まあ、雅ならすぐ許してくれることだろう。


 行きに出発した場所まで戻るには車で一時間かかる。走り出して十分ほど経過した時、俺の左肩に何かがのしかかってくるのを感じた。


 ――ッ!


 見ると、雅が目を閉じて、自分の頭を俺の肩に預けている。誘っているのか、と思ったが、寝息を立てていたので寝ていることはすぐに分かった。少し残念だったが。

 俺たちの様子に気付いた三人がクスクス笑いながら眺めている。雅を起こさないように小声で鏡花が呟く。


「(よかったな、和哉)」

「(ああ。まるで赤ちゃんのようだ。こんな素直な雅、なかなか見られないな)」

「(そうだな。ゆっくり堪能しておくと良い)」

「(うん)」


 それから三十分ほど、この状態が続いた。本当に幸せな気分だった。愛する者に寄りかかられている。よほど気を許した相手にしかしない行為だ。

 そんなことを考えていると、もうすぐ駅だという時に雅が起きてしまった。


「あっ、寝ちゃったぁ。――ッ!」


 起きてすぐ今の状況を理解した雅は、俺からすぐに距離を取る。


「な、なにすんのよっ、変態っ!」

「おかしいなぁ。雅から寄りかかってきたというのに」

「う、うそよ!」

「なあ、鏡花?」


 俺が鏡花に助けを求めると、


「ああ、安心したように和哉の肩に寄りかかっていたな」

「そ、そんな」

「ごちそうさま」

「や、やめてよっ」


 ふと気になったので聞いてみた。


「昨日、すぐ寝たんじゃないの?」

「えっ!? ね、寝たわよ。もうぐっすりとね」

「じゃあ、なんで朝から眠気が来るの?」

「う、うるさいわねっ! 放っといてっ!」


 雅は言及しなかったが、おそらく手つなぎの恥ずかしさから寝付けなかったのだろう。可愛すぎるよ、雅ちゃん。


 駅に着き、俺と雅は車を降りた。後の二人は先生に家の近くまで送ってもらうらしい。発車する直前、窓を開けて鏡花が言ってきた。


「二人が来てくれて良かった。三人でも楽しかっただろうが、五人だともっと楽しかった」


 月乃さんも続いて言ってきた。


「私も楽しかったです。和哉さんにも少し慣れた気がします」


 そして、千鶴先生が最後に締める。


「二人とも気を付けて帰るのよ。元気だからってもう一泊しちゃダメよ?」


 千鶴先生の言葉にはブチ切れていた雅だったが、最後には皆に手を振り、最高の別れの瞬間を過ごした。俺は良い友達を持ったな、と心からそう感じていた。


 車が見えなくなり、俺たちは駅で二人きりになった。


「じゃあ、行こうか」

「ええ」


 自宅まで三十分の帰り道。俺はもう一度、と言う思いから決死の覚悟で頼んでみた。


「雅」

「なに?」

「手、つないでくれないか?」

「えっ、イヤよ」

「お願い。もう一度つないでほしい」

「……しょうがないわねぇ」


 そう言って顔を赤くしながら右手を差し出してくれた。その手を俺は左手でそっと掴む。


「あああ、最高だ」

「おおげさね」

「おおげさじゃないさ。世界で一番好きな相手とこうしているんだから」

「……ばか」


 いつも歩いている道。いつもと変わらぬ景色だというのに、全く見え方が違う。まるでバラを散りばめたかのような輝かしさがそこにはあった。天国、まさにそんな感じだった。

 横を見ると、赤い顔をしているものの、口元の緩んだ雅が目に入る。雅も喜んでいるようだ。

 自宅付近まで来た時、


「ここまで」

「えっ?」

「お姉ちゃんに見られたくないから」

「わかった」


 俺は雅の手を放した。一生掴んでいたかったのだが、仕方がない。

 雅が自宅の玄関ベルを鳴らす。すると、楓さんが出迎えてくれた。


「おかえり、二人とも。楽しかった?」

「ええ。なかなか良かったわよ」

「そう。ふたりも進展したみたいでお姉ちゃん涙が……うっうっ」

「はあ!? 進展なんてしてないからっ」


 雅の言葉にニンマリしながら楓さんが言い返す。


「あらっ、手をつなぎながら帰ってきたのに?」

「なっ、なんでそれを?」

「お姉ちゃん、今か今かと二階の窓から張り込んでましたぁ」

「くっ! なんて姉なの」

「やっと一歩前進ってところね」

「そんなんじゃないからっ。私は手なんて……」


 その言葉にショックを受けた俺は、


「えっ、い、嫌だったのか……」

「ご、ごめん……。嫌じゃなかったっ!」


 そう言い残して家へと入って行った。


「あの子なりの愛情表現よ。たぶん、あなたにぞっこんよ」

「そうですかねぇ?」

「そうよ。頑張って! それじゃあねーーー」


 楓さんは手を振って家に入って行った。ひとり取り残された俺はそのまま隣の自宅に戻っていくのだった。

 本当に雅が惚れてくれているのだったら嬉しいことではあるが、女の子の心情は難しい。これからも苦労することだろう、俺はそうしみじみと感じていた。

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