第陸話 隠匿の蒸留酒


 手のひらに収まる小さなチューリップ型のグラスに液体が注がれる。歴史を感じる重い香りに男が心奪われそうになる。そう、なる。奪われたではなく、あくまでもなる。


「今日はそれが最後ですからね」


「……お前ねェ」


 自分だけの世界へと入り込むことすら許されない。

 現実へと引き戻す少女の行動にも、プロのバーテンダーであればあえて何も指摘することなかったかもしれないが、残念ながら男の酒を注いでくれたのは恰幅の良い宿屋の女将である。


「娘さんの言うことは聞いておくべきさね」


「はァ……」


 返事とも溜息とも決まらない男に、女将は大きな声で笑いながら酒をテーブルへと置き、戦場へと戻っていった。


「一人で、とは言わないから偶には静かに酒ぐらい飲ませてくれないものかね」


「放っておくといつまでも飲んでる師匠を助けてあげているんですよ、むしろ私に感謝すべきです」


「労働したあとの些細な楽しみすら奪われるとはな」


「対して苦労していないじゃないですか」


「二人分稼ぐのがどれだけ大変か知りやがれ」


 先日、オベリベリの街にて散財をしてしまった男は、失った金を取り戻すためにまさしく雑用作業に勤しんだ。魔物や危険な動物を退治して一攫千金を得ることが出来たのははるか昔のことである。

 腕さえあればいくらでものし上がることが出来た冒険者は、いまやその日暮らしの何でも屋でしかなかった。


「それにしても、そのお酒は何なんですか? いつも飲んでいる奴じゃないですよね」


「ブランデー」


「ぶらんでー」


「ワインの蒸留酒だよ」


「ええ……、時間掛けて造ったワインを更に蒸留させるんですか? 本当に酒飲みの業は深いですね」


「美味しい物を求めることに終わりはないんだよ」


 男はグラスの中身を舌の上に転がした。

 強い酒気ががつんと男の鼻の先まで抜けていく。喉へと通せば、まるで燃えるかのように身体が火照るのが分かる。


「良いねェ……」


「それにしても、ブランデーですか。さすがはワインの生産地ですね。色んなお酒があるものです」


「しかも安いしな」


「普通はもっと高いのですか?」


「手間がかかる分な」


 男と少女が居るのは、オベリベリの街から東へ三日ほど歩いた先にあるシボサムと呼ばれる町である。

 この地もまた畑作地帯に属しているため、勿論農業で生計を立てて居るのだが、穀物や野菜中心のオベリベリとは異なり、この町では葡萄作りが盛んに行われていた。


「ところで、葡萄ってもっと温かいところの果物じゃなかったでしたっけ」


「名産品にするために品種改良を繰り返したらしいぞ」


「そこまでして酒が飲みたいものか……」


「平和な証拠だよ」


 長年の努力が実を結び、この地で生まれた葡萄からつくられるワインは他にはない風味があると言う。それでいて口当たりはまろやかで誰でも飲みやすいと評判であった。


「あと、ここはワインの生産地じゃねえぞ」


「え? 葡萄を造っているんですよね?」


「葡萄を作っているだけ。ワインは別の土地が生産地だ」


「……? いや、ここで造れば良いじゃないですか」


 少女の疑問が的を得ているのは、この地で作られる葡萄はほぼ全てがワインへと変わるからである。

 実を食すのではなく、ワインに加工するために品種改良が施された葡萄。それを生み出したにも拘わらず、その地でワインを造らないとはこれ如何に。


「この辺一帯を統治してる貴族様の意向らしいな」


「はァ……? どうしてまた」


「町から町に物が移動すれば税が発生するからだとか、一箇所に財が集中するのを防ぐためだとか……、さて、何だろうかね」


「つまりはくだらない理由ですか」


「せめて声を落として言え」


 酒の席での会話を誰かに咎められることもなく。少量ずつ舐めるようにブランデーを嗜む男を余所に、少女はこの辺りのご当地飯である豚丼を注文した。なお、これで五回目のおかわりである。


「見てください、この肉の厚み!」


「見ているだけで胃がもたれる」


「もっと食べないと大きくなれませんよ」


「大きくなったのが今なんだよ、俺は」


 厚みはあれど、決して固くはない肉は頑丈な少女の歯も合わさって簡単に食い千切られる。少し甘めに味付けされたタレと米との相性は抜群としか言いようがない。

 六杯目だというのに一向に落ちる様子の見られない少女の食す速さには遠巻きに見ていた女将からしても圧巻である。それが、美しいドレスを身に纏った少女が行っているのであればなおさらだ。


「この国のお米はふっくらしてて美味しいですよね」


「俺はいつものパサパサしている方が安心するな」


「言いたいことは分かりますけど、単体でも食べられる甘さはすごくないですか?」


「比較的食べ物に執着する文化が原因かもな」


「素晴らしい文化ですね」


「酒にも造形が深い」


「駄目な文化ですね」


 結果だけで見てみれば、一杯のブランデーを嗜む男よりも多くの料理を胃に収めていく少女の出費のほうが遙かに高くついてしまうのだが、男も少女もその点を気にする様子は見られず、店の女将からすれば旦那の作る料理を気に入ってくれることに嬉しさこそあれ止めるつもりもなかった。

 大の大人が十人集まっても食べきれるか不安になるほどの量をぺろりと少女が食べ終えた時、男もようやくブランデーを楽しみ終わり、男と少女は宿の二階に借りた部屋へと戻っていった。



 ※※※



「師匠!」


「ごふッ」


「師匠! 起きてください、師匠! なにを惰眠を貪っているんですか!」


「よ、良いから……、上から、どけ……」


「一攫千金のチャンスですよ! 師匠の普段無駄に終わっている微妙な腕の良さを活かすチャぎゃァ!?」


 腹の上に飛び乗っていた少女を男が放り投げる。可愛らしくない悲鳴をあげておきながら、猫のようにしなやかに着地する少女は、普段なら投げ飛ばされたことを怒るものの、今日はそれよりも興奮の方が勝っていた。


「さァ! さっそく世のため人のため! そして私の美味しいごはんのために働きましょう!」


「太陽が昇ったらな……」


「もう昇ってます!」


「顔を出しただけだ」


 隣の部屋の借主から抗議の壁ドンを喰らうまで、男と少女の戦いは続いた。

 町に暮らす者達であればともかく、男のような旅人には幾分早い朝の時間。押し問答のせいですっかり目が覚めてしまった男は、ぼさぼさの寝癖を残した大きな欠伸と合わせて少女に問いかける。


「んで……? なにがチャンスだって……?」


「魔物退治です!」


「おやすみ」


「町のはずれに大きなお城があったじゃないですか! あそこには幽霊が住み着いてしまっているそうなんです! あんな近くに魔物の脅威が残っているなんて儲け話じゃなかった可哀想ですよ!」


「長年付き添っていたなら問題ねえよ」


「師匠はそれでも冒険者ですか!」


 町が見える前から存在を主張していた古い城。聞くところによれば、過去の戦争での遺物であり、人類が魔王と戦っていた際に利用されていたもので、正確には城ではなく砦であるとのこと。


「実際、こんな近くに物騒な場所があるのに何もしないってことはお前が聞いていた話はデマカセなんだよ」


「そんなはずありませんよ! この耳! この耳でしっかりと!」


「聞いた内容が嘘なら聞いたところで意味ないだろうが」


「一階で酔い潰れていた冒険者くずれの人がぶつぶつと!」


「信憑性零じゃねえか」


 話し込んでいる間にすっかり出立の準備を完了させた男と少女が階段を降りていく。城へ行く気満々の少女とは違って、男はやる気のやの字も見られない。そもそもがあまり仕事をしたがらない男ではあるものの、ここまで乗り気ではないのは少女からしても珍しくもあった。


「やめておきなよ」


「ん?」


「はい?」


「あの城だろう? 行っても無駄骨だよ」


 争う男と少女に口を挟んだのは、宿の女将である。彼女の口調は軽い。のだが、なにかを堪えているかのようでもあった。


「どうしてですか! 魔物がいるのは皆さんにとっても困り事でしょう!」


「居ないからねぇ」


「え」


「あァ……、つまりは流した嘘か」


「嘘ォ!?」


 居ないと断言する女将の力強さに、男の方がいち早く事態に気がついた。


「あの城は老朽化が激しくて危ないんだけど、子ども達からすると面白い遊び場だろう? だから、魔物が出るって大人達が嘘を流しているんだよ」


「じゃ、じゃあ私が聞いたのは!」


「あたしらが流した嘘に引っかかった馬鹿の戯言だね!」


「ごはッ」


 引っかかった馬鹿の言葉を信じた更なる馬鹿は、ショックで床に倒れ込んだ。


「危ないのは事実だから、あんた達も近づかないことだね。崩壊に巻き込まれて……、なんて嫌だろう?」


「まったくだな。教えてくれてありがとう」


「良いってことさ。間違っても行くんじゃないよ」


「分かっているよ」


 蹲ったままの少女を小脇に抱えて、男は念を押す女将へ挨拶もそこそこで宿をあとにする。しばらく生きた屍と化していた少女だが、諦めが悪いのか往生際が悪いのか。自棄を起こしてやる気を取り戻した瞳には最早引き返せない愚か者の炎が宿っていた。


「もしかしたら何かお金になるものが残っているかもしれません! こうなったら家探しならぬ城探しです!」


「却下」


「どうしてですか! 師匠なら城が崩壊しようが爆発しようが問題ないじゃないですか!」


「この町の住民に恨まれる気はねえ」


「仮に師匠が侵入したことで城が壊れてしまっても怒りはしませんよ。だって、もう誰もずっと使っていない城なんですよ」


「そうじゃないから怒るんだよ」


「はい?」


 地面に降ろされた少女は目を合わせてくれない男の顔を覗き込む。その顔には心底どおうでも良さげな無気力さが浮かんでいた。


「つまり……?」


「子供向けの嘘って言うのが嘘なんだよ」


「やっぱり魔物が!?」


「酒だろうなァ」


「……酒?」


 次の町へ向かう男と少女の歩みは早い。あっという間に町の外を歩く二人の会話を聞くものなど誰も居なかった。


「酒の生産地でもないのに安すぎたからなァ……、きっとあの城でこっそり造ってんじゃないか」


「でもそれって、このあたりの領主の意向に背くんじゃ」


「だからこっそりなんだろうよ」


「犯罪じゃないですか、それ」


「おかげで俺は安くてうまい酒が飲めた。何も問題はないな」


 なにかを堪えていた女将の態度。

 笑われていると少女は思っていたが、実は内心大いに焦ってのことだったとしたら。


「こういう話には首を突っ込まないのが吉なんだよ」


「ちなみに、城を調べるのが面倒くさい師匠が適当ぶっこいているという可能性は?」


「約八割」


「調べましょうよォ!!」


 足に纏わりつく少女をそのままにして、男は次の町へと歩き続ける。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

二人の旅路 @chauchau

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ