第肆話 紫の花と忘れられた石像


 ユーパロの町をあとにした男と少女が次に寄ったのは、二千メートルを超える標高を持つ高い山の麓にあるフラヌイと呼ばれる町である。

 山の中腹あたりまで紫の花が年中咲き誇る美しい町であるのだが、山より流れる川には魚が一匹も住み着かない死の川であり、見た目の美しさとは裏腹に決して生きるのが楽な環境ではなかった。


「随分と古ぼけていますね」


「二百年も経てばな」


「え? そんなに歴史のあるものなのですか」


 人が歩む道から離れた山の中、微かに捉えた音を頼りに二十分ほど歩いてようやく見つけたのは、二十五メートルはあろう荘厳な滝の姿であった。

 獣のみが寄り付くその場所に、風化し捨てられていたのは三体の石像である。雨風によって削り取られ、苔が取り込んだその姿は、もはや像ではなくただの石の塊と言ったほうが正しいか。


「そもそも……、この像は何の像なのでしょう? こんな神の使い様が居ましたっけ?」


「驚いた」


「はい?」


「お前にも学が備わっていたんだな」


「失礼な! 実に失礼な!! 私だって興味がないとはいえ、一般常識くらいは身に着けていますよ!」


 少女の蹴りを後ろ脚に受けながら、男は石像へと手を合わせる。蹴り続けても普段の様に騒がず、ただひたすらに祈り続ける様子に少女のほうが不安になってきてしまう。


「それほどすごい使い様なのですか?」


「そもそも何の像か知らん」


「手を合わせていた意味!?」


「どんなものでも感謝の意を示すことは大事だというのを知らんのか」


「普段、全然熱心に祈らないくせに!」


 少女が知る限り、周りに合わせる時を除けば男が神に祈ることはなかった。大きな街に着いた時も教会にだけは決して近づかないのだ。たとえ、その日その場で無料で食事が振舞われていたとしても。


「そういう気分だっただけだよ」


「きっと博打とか酒とかを司る使い様なんですね」


「居ねぇ……こともねえけど、違うわい」


 世界はたったひとりの神が創り給うた。

 神はそして、多くの使い様を産み出し、彼らによって世界には彩りが生まれたとされる。

 ユーパロの老夫婦のように、自然そのものを神聖視する考え方がないわけではないが、それもひとりの神という大きな存在が在った上での捉え方である。


 神に逆らう者たちが、魔族であり、それらを統治したのが魔王であったとされている。


「おぉ……、冷たくて気持ち良いです」


「飲むなよ」


「え? 毒ですか!?」


「山からの硫黄が混ざってるとかなんとか。別に死にはしないが、大量に飲んで良いものでもない」


「硫黄……? …………、そんな匂いしますか?」


「成分に溶け込んでいるらしいが、詳しいことは俺も知らん」


 少女がどれだけ鼻を鳴らそうとも、硫黄特有のつんとする匂いがすることはない。肺を占めるのは木々が生み出す森の香りだけだった。


 手を合わせて熱心に祈りはしても、苔むした石像を綺麗にすることなどする気はないのか、男は来た道を戻り始める。


「良いんですか?」


「この辺の名産品は花を使ったケーキだそうだ」


「さぁ、早く行きましょう!!」


 男の切り替え以上の速さで石像を気にしなくなった少女が山の中を走り出す。道のない場所を不釣り合いな美しいドレスで一切の問題なく駆けていく少女のあとを男を歩いて追いかけた。


 人々がこの地に住み続けるのは、山で取れる硫黄もさることながら、なによりも花に魅了されてしまったからである。

 町の面積の四分の三を占める花畑に咲き誇る紫の花は、ラベンダーである。この花から取れる精油が香料として使われる他、食欲増進のハーブとして食用としても多く用いられている。

 乾燥して涼しい気候を好むこの花の本来の開花時期は初夏なのだが、フラヌイの町ではそのラベンダーが年中咲き誇るのだ。

 たとえ大地が豪雪によって閉ざされたとしても、この地のラベンダーが枯れることはない。ひたすらに咲き誇るのである。


 解明されることのない謎に、人々が感じたのは恐怖以上に利であった。

 結果、この町はラベンダーによって財を成し続けている。


「ふぉぉぉ……ッ」


「花のケーキなんざどうかと思ったけど、まあ……大丈夫だな」


「大丈夫だなァ!? 何を言うか、この馬鹿は! 馬鹿馬鹿ばァァか!」


 若い女性が集まる可愛らしいカフェに響くのは、似合わない鈍い音。

 涼し気にラベンダーティーを嗜む男の横で、ひとりの少女が涙目になって自分の頭を抑えていた。


「しっかし、ケーキだけだと思ってたのに……、なんでもかんでもラベンダーだな」


 テーブルに並べられたのは、ケーキを筆頭に紅茶、クッキー、マフィンにそしてジャムとバターが塗られたクラッカー。

 そのどれもこれもにラベンダーが活用されていたのである。


「甘い物こそ至高にして至上! 師匠! 提案があります!」


「却下」


「却下を却下しました。この町にあと三日は滞在しましょう!」


「明日には出る」


「聞くところによると近くの村から乳製品を輸入しているそうで、美味しいピザがあるそうですよ」


「…………」


「さらにはこの土地特有のぶどうを使ったワインも」


「……、よし、その生産地に向かうか」


「しまったァァ!」


 策士策に溺れる。

 そもそもどれだけ頼み事をしようとも、男が同じまちに数日滞在することはなかった。特別な理由がない限り、必ず次の日には出立するのである。


「もっとゆっくりしましょうよォ……、どうせあてもない旅なんですから」


「路銀の関係もある。ずっと同じ場所になんざ居られるかっての」


 説得できないのが分かっているからこそ、説得を試み続ける少女が不貞腐れながらケーキを口に運ぶ。

 甘酸っぱさが届くと同時に、全身を内側からラベンダーの香りが包み込んでくれる。旅をしている以上、どうしても甘味を入手する機会が少ない少女にとってこれほどの娯楽などそうそう存在しないのだ。


「師匠は良いですよ、お酒はどこに行ってもだいたいあるんですから」


「つまりは人にとって重要なのはどっちかという話だな」


「世界が駄目な大人に満ち溢れている証明では?」


「忘れてしまいたい過去があるのが大人ってことだ」


「言い訳がもはや駄目でしかない」


 それでも薄い財布がさらに薄くなってしまうまで少女の欲に付き合った男には、少しは優しさが残っているのかもしれなかった。

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