第参話 神々が住まう滝
「薬のような、生姜のような……?」
「独特さは強いが……、癖にもなりそうだな」
「お酒よりはきっと健康に良いですよ!」
「本当にこんなもので良かったんかねぇ……?」
男と少女が飲み干したコップをお盆に受け取った老婆が不安気に二人の顔をのぞき込んだ。
「何を言うんですか! 新鮮なお米とお魚! そしてよく分からない飲み物に寝床! これほどのものがあると言えましょうか!」
「働いたのは俺だけどな」
かつて石炭の産地として栄えたユーパロの町の外れで夫と二人農家を営む老婆を悩ませていたのはこの地に住まう大型の熊であった。
歳を重ねた熊は時に魔物よりも強くなる。そして、人の味を覚えてしまえば、彼らは小さな村ひとつ滅ぼしかねない化け物へと変わり果ててしまうのだ。
「ちゃんと応援してあげたじゃないですか」
「嘘つけ、滝のほうばっかり見てたくせに」
「あれだけ壮大な滝を見ないだなんて感性がおかしいとしか思えませんね」
「俺が必死で戦っている最中の話でなければ頷いてやるよ」
男と少女が軽口を言い合っている傍らで、男が退治した熊の毛皮を老翁が丹寧になめしていた。熊はその身どれもが金となる。だが、老翁が皮をなめしているのは売るためではない。
「見事な太刀筋だ。若いの、随分と腕が立つようだね」
「それほどで」
「いやいや! 師匠なんてまだまだですよ!」
「お前が言うな」
「はひふふんへふはァ!!」
老翁の言葉に男が軽く頭を下げきる前に割って入る少女。そんな彼女の口を男はお餅のように伸ばし続ける。
「苦しまないように死なせてくれたようで……、本当に感謝しきれないよ」
「でも、本当に良かったんですか? その熊さんはこの辺の守り神だったのでしょう?」
男の脇腹に重い一撃を喰らわせることで頬伸ばしから抜け出した少女が、老翁へと話しかける。なお、少女の攻撃によって男が地べたへと倒れ込んでいた。
「そうだね……、お嬢ちゃんが感動してくれた滝のあたりは、神様が住まう土地だと言われていてね。この熊は……、この熊の一族はそこをずっと根城としてきたんだ」
男が退治した熊は、農家より少し離れた場所にある村で祀られることとなっている。危険な生物であることは変わりはないが、それでも、この熊は長年にわたって近辺を守ってくれていたのだ。
勿論、熊が人間を守ろうとしていたわけではない。ただ、テリトリーに侵入してくる魔物を排除していたにすぎないが、それでも、神聖な場所に住む熊を神聖視するのはそれほどおかしなことではなかったのかもしれない。
「わしの爺さんの爺さんの……、それこそ人間がこの地に住み着くよりもずっと昔から彼らはこの地で住んでいた」
「そう思うとちょっとだけ悲しいですね」
人の味を覚えた熊の危険度は計り知れないものがある。
神聖視していた熊の退治を老翁が男に依頼したのは、この熊が人の味を覚えてしまったから。
冒険者くずれの愚かな山賊が、熊の身目当てでテリトリーへと近づいてそのまま食べられたのだ。
「つまりは、わしらはどこまで言っても自分勝手なんだと言う話さ」
ありがたい守り神だと称えておきながら、人食いとなれば害獣として処理してしまう。誰が悪いのか、なにが悪いのかとどうやって決めつけられようか。
「思うんですけど、熊さんも案外大して何も思ってないと思いますよ」
「うん?」
「守り神とか人食いとか、だって勝手に言われているわけで、それでこの熊さんの生活が変わってたわけじゃないですし」
思う感情をどう表現すれば良いのか分からない老翁へ、少女へただ言葉を投げる。
その瞳に浮かぶのは、同情でも優しさでも蔑みでもなく。
「師匠のほうが熊さんより強かったから、師匠が勝って熊さんが負けただけですよ。それをどうこう言ったって、仕方ないですし、どうでも良いですし」
「どうでも、良いか……」
「そうですよ、そういう暗い話に付き合わされる私たちの身にもなれっていう、ぁ痛ァ!?」
「元を辿れば守り神を殺して良かったのかと聞いたのはお前だろうが」
地べたに潰れていた男が復活と同時に少女へと拳骨を落とす。
星が舞うほどの衝撃を受け、それでも少女は涙目ではありつつも男へと噛み付いていく。
「私は良いんです、私は!」
「お前が誰よりも自分勝手じゃ、ド阿呆!」
二発目の拳骨は、少女が避けたために空を切る。
馬鹿にするように舌を出して挑発する少女へと男は数度拳を振るうがそのすべてを少女は避け続けた。
「そうだな……、どうせ殺してほしいと依頼した時点で自分勝手。ならば、堂々と自分勝手と叫ぶほうが心地良いか」
「あ、ほら! お爺さんが元気になりました! これぞ私の見事な話術と言えようではありませんか!」
「向こうがどれだけも大人だっただけの話だ、ド阿呆!!」
お爺さんを指差して叫ぶ少女へ繰り出される男の拳。じゃれ合いと言うには過激すぎな二人の攻防はまるで舞踏のように美しくもあったが、それを止める無茶をしようと思うほど老翁も老婆も若くはなかった。
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