第弐話 おもてなしの味噌ラーメン
「これがオオウバユリ、確か……トゥレなんとかって呼ばれていたはずなんだが、この辺じゃ普通に食べるらしい」
「……」
「もっともどうやって食べるのか知らないから意味がないわけなんだが」
立ち枯れした二メートルばかりある茎の先端にはこぶし大の実が四つばかり成っていた。なかには無数の種が詰まっており、男の言う通り現地ではこの植物の根が食用として重宝されている。
知識とは今日を生きる術となる。いまもまた、知っていれば助かる命が二つばかり存在しているのだ。
そう。
知っていれば。
「もう一歩も歩けませんッ!!」
「もう少しだから諦めるな」
「その台詞何度目ですか!」
「二百五十と一回目」
「きぃぃやァァ!!」
蹲る少女の悲痛な叫びを真顔で受ける男の非情さに、少女はとうとう髪の毛を掻きむしって抗議した。
世に生きる全ての女性が羨みを向けてしまうほどに美しい彼女の髪は、時間による劣化を一切受ける様子が見られず、見る者を魅了すると同時にある種の恐怖を植え付けるほどである。
「師匠があんなこと言い出すから!」
「そういう話があるって言ったら絶対に行きましょうって言い続けたのはお前だろうに」
「本当なら今頃サリポロの街で美味しいシペ料理を堪能していたはずなのに!」
「シペは一昨日たらふく食ったじゃねえか」
「素人料理と料理人様の料理を一緒にしないでください!」
男のミスからシペの川上りを経験した二人は、大量に岸辺に打ち上げられたシペをこれでもかと堪能した。
少女に至っては、大型のシペを四匹丸々食べたというのであるからして、常人離れしていると言う他なかった。
それが二日前の話。
どれだけ予想外に道のりが長くとも、とっくの昔に目的地に到着しているはずの二人が舗装された道から山奥へと場所を移動しているのは、とある噂を求めてのことである。
「だいたいこんな山奥にお店なんてあるはずがないじゃないですか! 少し考えればあり得ないと分かることなのに、師匠は馬鹿ですか! 馬鹿ですね! ばーかァ!!」
「それも昨日の時点で言ったぞ、俺がな」
それでも二人が山道を歩いているのは、きっとこの先に必ずお店はありますと少女が男の背中を押し続けていたからである。
だが、二日という時間のなかで男が保有していた食料が底を尽き、先に音を上げたのは少女のほうであったのだ。
「もう駄目です、私はここで餓死する運命なんです。お父様、お母様、先立つ不孝をお許しください……、すべてはこの甲斐性なしの師匠が悪いので恨むなら師匠を恨み続けてください」
「置いていくぞ」
「人でなしィィ!!」
男が二人分の荷物を持っているため、手ぶらな少女が先を歩く男の背中を叩き続ける。口ではどれだけ文句を言おうとも少女の体力が尽きるにはまだまだ時間が必要なようである。
人気の感じ取れない山の中、男の肌が感じ取るのは自分たちを見張り続ける山の住人達の気配である。
幾分とおかしなものを感じ取りはしても、悪さをしないのであればと男が自ら事を荒立てることはしなかった。
「そもそも師匠の目指している方向が違っているとかじゃないですか……」
「人が歩いて出来た道の形跡が残っているから間違っていないと思うんだがなぁ」
「形跡な時点で最近使われていないって言いません、それ?」
「そうとも言う」
やはり悪びれない男の態度に少女は拳を打ち込むことに一生懸命で、だから、気付かなかったのだ。
「お、こっちだ」
周囲に漂いだしたおなかを刺激する良い香り。
「え? 師匠どこ……に、…………」
香りが少女の鼻に届くと、どばどばと湧き出す涎がせっかくの美少女を台無しにしてくれました。
鼻をひくひくとさせて、まるで操り人形のようにふらふら歩き出す少女は知り合いに決して見せられない状態です。
「あれかバ!?」
「何しているんですか、師匠!! 置いていきますよ!!」
少し離れた場所に建つ山小屋を発見した男は、少女の突進を受けて宙を舞う。三回転半を以て地面に顔からめり込んだ男の心配など少女の辞書には載っている気配がない。
「ごはん! ごはんッ! 居るのは分かっているのです! ごはんんッ!!」
「山賊かお前は」
少女の蛮行に口では突っ込もうとも決して止める素振りは見せない。男は自分の命が大事なのである。
「ごはんッ! 出てきなさい、ごはん!!」
「その扉、外開き」
「ごバッ!?」
「だよな、やっぱり」
「え? うわ、だ、大丈夫かい!?」
「ご、……は……ッ」
叩き続けられた可哀そうな扉を中から開けたのは、ひ弱そうではあるものの背丈だけは高い一人の青年であった。あれだけ外で暴れていれば恐怖で顔色が悪くなってしまっているのも仕方がないことかもしれない。
鼻を赤く染め上げてもなお食事への執念を燃やし続ける少女を小脇に抱えて、男は青年へと謝罪を込めた挨拶を送る。
「悪いけど、ここが噂の飯屋で合っているのなら、何か食わしてくれないか」
※※※
「随分と山奥に構えたもんだな」
「そのせいでどれだけひどい目にあったか分かりますか!!」
「あはは……、すいません、自分でもおかしな所に店を作ったものだと常々……」
復活した少女が出された水を一飲みして、木彫りのコップをカウンターに叩き付ける。木と木がぶつかる乾いた音に青年店主は苦笑の色を深めた。
「連れが阿呆で申し訳ない」
「いえいえ」
男に無理やり頭を下げさせられている少女の空になったコップに水を注ぎながら、二人の行動をじゃれ合いと判断して止めないのは客商売をしているからこそ身に着いた青年の目であった。
「そんなことよりも! 早くごはんが食べたいのです!」
「重ね重ねすまない」
「こちらとしてもそれだけ言ってもらえるのは嬉しい限りですよ。では、すぐにつくりますね」
店主は木箱から小さく纏め上げていた麺の束を二つ、丁寧に、だが素早く湯気が立ち込める大きな寸胴鍋へ放り込む。
放り込まれた量からすれば随分と贅沢な湯のなかで、麺は生き物のように踊り出す。
麺を茹でている間に、店主はお湯を入れて温めていたどんぶりの水気を取って、なかへ二種類のスープを流し込む。と、同時に熱したフライパンへもやしを投げ込んだ。
そして、何よりも大事そうに取り出した壺の中身は。
「味噌か」
「よくご存じですね。他国の方ですと知らない方も多いのですが」
「それなりに見聞は広めているほうで」
「主に酒とか女の人のことばっかりぁ、痛ァ!?」
余計なことを言う少女の口は、物理的に塞がれる。
二人の様子を微笑みながらも、店主は手を止めることがない。壺から取り出した味噌をスープへと溶かし込む。すると、店の中いっぱいに強い味噌の香りが広がり出した。
「ああ……、外で嗅いだ匂いだ」
「初めて嗅ぎますけど、落ち着く香りですね」
「味噌は大豆や米を発酵させてつくるのですが、材料はもとより発酵の仕方や組合せで何通りにも種類がありまして、……なんとも飽きることのない食品です」
少しだけ色味がついていた澄んだスープへ味噌の茶色が溶けていく。
再び涎の洪水を生み出し始めた少女の口元が決壊する前に、男が厚手のタオルを抑え込むことで防いでいた。
ゆで上がった麺を手早く湯切りして、スープのなかへと滑り込ませる。
麺の上に炒めたもやしと青ネギ、叉焼と少しばかしのすりおろし生姜を乗せて。
「はい、お待ちどうさまです。当店自慢、おもてなしの味噌ラーメンです」
「こいつは……、うまそ」
「いただきまーす!!」
「う……、もう少し落ち着きってもんがないのか、お前は」
どこからともなく取り出したマイ箸で少女はずるずると麺を啜り出す。大きな音を立てて下品だなんてマナーに御執心な御仁などはここには存在していない。
「んッ!?」
「いかがですか?」
「うまーッ!! 師匠! 師匠なにしているんですか食べないなら私が全部もらいますよ!! うっまッ! なにこれうっま!!」
「自分の分食べてろ!!」
男の器へ伸びる少女の箸を避けて、男は店の箸を利用して麺を啜る。
「もやしを炒めているのが良いな。かなり香ばしい」
「この味噌! 師匠! 私これ気に入りましたよ! 買いましょうよ、味噌!!」
「生姜が良いアクセントだな……、冷えた身体が温まるよ」
「叉焼ゥ!! お肉! お肉ですよ、師匠!!」
テンションに差が開き過ぎてはいるものの、そろって二人の手が止まることはない。店主はそんな二人をとても幸せそうに眺めていた。
「御馳走様。実に美味しかった」
「ぷはーッ!!」
どんぶりに残った一滴までも飲み干して、店主渾身のラーメンはすべてが胃のなかへと納まった。
「そう言ってもらえて良かったですよ」
「正直、噂を信じてはいなかったんだがこれほどまでとは」
「そうですよ! どうしてこんな山の中で店を開いているのですか? もっと街のなかでやれば儲かりますよ!」
「儲けは……、まあ大事ですけれど。ここには水がありますから」
「へえ」
「水?」
綺麗に食べきった二人のどんぶりを回収し、店主はコップへと綺麗な水を注ぐ。
「この辺の湧き水がとても私の口に合いまして、それで」
「えええ……、でも所詮は水ですよね? そんなに変わるんですか?」
「いや、もう本当に……」
心底理解出来ないと言わんばかりの少女の表情に、男は頭を抱えるしかなかったが、店主が気分を害したようには見られない。
「いえ、むしろお嬢さんの反応が正しいと思います。ですから……、私の、単なる我儘ですよね」
「大事なことだと思うよ。そういうのって」
「私は私がすぐに食べられる場所にあることのほうが大事だと思います」
「あとは……、この辺、この季節だと分かりにくいのですが冬になるとそれはもうすさまじいほどの雪が降るんです」
「ああ、この島はそうらしいな」
「雪! ふわふわしているから私は好きですよ!」
両手を上げる少女の声はとても明るく、そして、とても軽いものであった。
「御二人は雪国出身ではないのですね」
「え? そうなんですか?」
「知っとけ、そういうことは。こいつはそうだよ。俺もそうだけど、あんたが言いたいことはだいたい分かる」
須らくすべての自然がそうであるように、ただ綺麗で美しいだけのものなどありはしない。
雪は、世界のすべてを覆いつくし、飲み込む。
「いまは下に新しい道が出来たのですが、少し前までこの山は街と街とを繋ぐ唯一の行路だったんです」
「なるほど、だからただの店にしては大きいわけだ」
「自宅兼お店兼、宿屋ですかね」
「お兄さんはここで一人で暮らしているんですか?」
「ええ、もう十年になります」
「え!? じゃあ、意外に歳くっているんですね、って痛ったい!!」
「悪気はないんだ」
「新しい道が出来てから、お客さんの数も減りまして……。そろそろ引退しようかな、とは」
「それが良いですよ! で、街の中につくりましょうよ!!」
「それも……、良かったかもしれませんね」
おそらくは出されている水もまた、店主が惚れこんだ湧き水なのだろう。
その後も、どこの街に出すか勝手に盛り上がる少女を余所に、男はコップ一杯の水を舌で転がし続けた。
「また必ず来ますから! 店の場所変えた時は教えてくださいね!」
「どうやってだよ。じゃあ、御馳走様。美味かったよ」
「お気を付けて」
来た道を戻ることはない。
当初の目的地であったサリポロへは行けなくなってしまうが、元々目的地などあってないのが二人の旅路である。
加えていえば、戻るにはまた二日かかる道のりも、進めば半日で町に着くと言う。では、どちらを選ぶかと言われれば食料の切れた二人に選択肢などそもそもないのだ。
※※※
「山奥の? ああ、三年前に山賊に襲われて殺された店主の店か」
「……え?」
「良い奴だったんだよ、宿っていってもほとんど金も取らねえで。味も良いって言うんだからみんな愛したんだが、人が死ぬのなんてあっけないものだよな」
お前らも山賊には気を付けろよ、といかつい顔のおっさんが似合わない優しい言葉を投げて宿を出て行った。
残された少女は壊れたおもちゃのようにゆっくりと男のほうへと顔を向ける。
「……え、いや、……え?」
「気付いてなかったのか?」
そんな少女へ、男はなんでもないことのように簡単に言葉を送る。
「えぇぇええ!?」
「誰かが生きているなら道があんな風に荒れるはずねえだろうが」
「で、でもでも!」
「匂いも急に現れたしな」
「て、ててててッ!」
「つーか、直接見たら分かるだろう普通」
馬鹿にするを通り越して心配している男の声色に、少女は頑丈な木の椅子を投げつけしか出来なかった。
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