恋の未来図

「れーーいーーちゃーーん!!」


 玄関先で声高に叫べば、止めて神威くん、の声と同時に素早くドアが開いた。


「……小学生?」

「お迎えにあがりました!」


 俺は満面の笑みを顔中に浮かべているというのに、礼ちゃんは苦虫噛んだ様に複雑な表情。を、俺の背後に控えている武瑠と心へ向けている。


「なっ、ちょっと! 何故に俺を差し置いて見つめ合っちゃってんの?!」

「……ミコちゃん、御愁傷様」

「御子柴の放置プレイゆえ」

「……弓削くん。私にかような趣味嗜好はございません」

「反動だ、反動」

「なぁんか振り切っちゃったんだね、神威メーター」


 何だよ、みんなして楽しそうじゃないか。

 礼ちゃんの背後にトテトテと姿を現したのは、トモくんとお母さん。


「れいちゃん! いってきます!」

「……うん。いってらっしゃい、かな? 智」


 苦笑まじりに礼ちゃんは智くんの小さな掌とハイタッチをしている。俺はキラリと悪戯な視線を投げてくる礼ちゃんのお母さんへ、深々とお辞儀をした。


「おはようございます。“礼ちゃんの”お母さん」

「……何なの? その薄気味悪い強調」

「いやいや、残り僅かな肩書きでらっしゃるかと。あと…9ヶ月?」

「……そう上手くいく? 」


 また意地悪く上がりましたね、片方の口角だけ。

 俺は礼ちゃんの手を引くと、行ってきます、とだけ言い残し、他人様の家の玄関を出発した。



 スズキヌさん宅を後にし、礼ちゃん家へ到着したのは、日曜日へと日付が変わった頃だった。天気予報通り、昨日はどしゃ降り。今日は一転、澄んだ青空。礼ちゃんの登校初日に相応しい空気。


 何となく礼ちゃんを一人で行かせたくなくて、俺は強引に月曜日の朝から自宅へ押しかけた。職員室へ早目に顔を出し、神保先生との初対面や、新しい教科書を揃えたりしなくちゃならない礼ちゃんに合わせ、いつになく早い時間の登校。若干、湿り気の残る朝の空気はちょっぴりひんやりして、校門までの長く緩い坂道を彩る紫や薄紅の紫陽花とよく似合っていた。


「何か……、良いね」

「何が?」

「だってさ、初めてだよ? 朝から二人で登校するの」

「俺達もいるぞー」

「正確には四人だよ!」

「……神威くんって。わりと乙女ね」

「あああー、なんか、メガホン欲しい」

「……何を雄叫びたいの?」

「俺は礼ちゃんの彼氏ですー! って」

「うん、止めてね。私、久しぶりの登校で緊張してるから」

「……気持ち悪い。山田、頭のネジ、どっかズレちゃったんじゃないの?」


 校門に差し掛かった時、否が上にも耳に入ってきた滑らかな毒舌。

 あ、やっぱり。こちらから言わずとも常に的確な情報はお持ちでらっしゃる。しかもいつもよりお早い登校、豪華絢爛 高級外車にも乗らず。


「おはよう、妹尾さん」

「……万葉……、」


 礼ちゃんは、どちらかと問われればノンビリさんに属すると思うんだけど、万葉、と呟いた後、瞬く間に妹尾さんの身体に寄り添っていた。ビックリしたのは俺だけじゃなく、妹尾さんも同じく。目を瞠り、口が“え”の形に開いてる。


 ここでヤキモチは、駄目だ、俺。人として駄目でしょ。

 や、でもさ。通学バッグはうっちゃって、妹尾さんの両手をキュッと握って、妹尾さんの肩辺りに頭を埋めてる礼ちゃんの姿。

 何ですか、お相手が妹尾さんならではの安心感というか、女子ならではの距離ゼロ構図というか。


「万葉、本当にありがとう」

「………え……?」

「私と友達でいてくれて。複雑な想いをずっと抱えてたのは、きっと万葉の方だったのに。ごめんね、私は自分のことだけしか考えてなくて。勝手で……、だから」

「待って!」


 妹尾さんだけじゃない。俺達だって気になった。一気に流れ出た礼ちゃんの言葉。淡々と、とても柔らかな声で激情が感じられないからこそ、行方が気になった。“だから”の後は、どう続くの?

 妹尾さんの方が背が高いから、妹尾さんの身体から瞬時に引き剥がされた礼ちゃんは、戸惑い気味に視線を斜め上へ向かわせている。


「……一方的に謝らないでよ。礼に言いたいこと、たくさんあったのに。何もかも、飛んじゃった」


 ごめんね、と再度口にした礼ちゃんへ、妹尾さんの指が超速で鋭いデコピンを繰り出した。

 うわ、痛そう。礼ちゃんから、ぐぬ、だか訳の分からない擬音が漏れたし、両手でおでこを覆い俯いている。俺は背後から出来るだけ控え目に声をかけた。


「……礼ちゃん、大丈夫?」

「……だ、いじょ、ぶ」


 相当、痛いんだな。覚えとこう。妹尾さんのデコピンはかなりの威力だ、って。

 あぁ、でも。何だろう。展開が分からなかったせいか、ほんの少し不透明だった妹尾さんと礼ちゃんを包む雰囲気が、揺らいで和んで明るくなったような。


「私はね、嫌だから。友達でいてくれて、って何? 過去形? 現在完了形? 私達はこの先、友達じゃないっての? そんなの、嫌だから」

「うん。だから、やり直させて?」

「いや、それも何なのよ? やり直す、って。私らは倦怠期のカップルか。いや、離婚間近の夫婦? 他に言い方ないの?」

「……う、えーっと。これからも変わらずよろしくお願いします…?」


 何だかな、それも。

 苦笑いの妹尾さんは歩を進め、礼ちゃんが捨て置いたバッグを拾い上げながらも、なかなか合格点をつけない。


「私は、あんたがいいの。隣にいるのは、礼じゃなきゃスッゴい違和感あるの。ここがポッカリ空いてると」


 言いながら妹尾さんは礼ちゃんへバッグを手渡し、そのまま右手を大きく横へ広げた。ここ、って、そこだよ? 礼ちゃん。


「……うちのパパとママが駄目になった原因が例え万が一、礼のお母さんにあったとしても、よ? それを知ったところで、私はあんたと友達やめようとは思わなかった。もうひとつ言うと、同情や憐憫でもない。純粋に、単純に、礼が好きだから。ずっと、これが言いたかった」

「………ありがとう」

「……それとも。山田が傍にいてくれるから私はもう、お役御免?」


 フルフルと激しくかぶりを振る礼ちゃん。短くなった髪の毛が、キラキラと朝の光に反射して跳ねる。


「……山田まで振るなよ」

「……あ。ごめん」

「万葉、訊いても良い?」


 礼ちゃんはポツ、と切り出した。柔らかな優しい声音で。あぁ、ほら何ヶ月か前までの当たり前を取り戻したみたいに。


「私は万葉の隣にいていいの? とかバカな質問だったら、却下」

「! ……ぅ」


 ……図星、だったんだね。礼ちゃん。息をのんで次の質問を繰り出そうとしてる。


「私のどこを好きなの? なんつーベタな質問は答え終わるまでに日が暮れるから却下」

「! ……もう、」

「そういうのは、山田に向けて言いなよ。あいつ、徹夜で答え続けんじゃないの」


 妹尾さん。お嬢様なんだから俺のこと、あいつ、って、顎で指すの止めてもらえますか。そりゃあ、全力でどんだけでも答えますけど。

 顔、ニヤニヤしてるよ。自分では気づいてないんだろうな。いっそ、清々しい様な気もするけど。


「私も礼に訊きたいことがあるよ」

「……何?」

「山田とは、もうヤったの?」

「「!!」」


 妹尾さん……、朝から何という……。何ですか、その楽しくて堪らなさそうな表情。武瑠が構ってた時には、ついぞ見せてくれなかった表情。武瑠も同じ様に感じたのか、万葉ちゃん楽しそう、と切なく呟いている。


「まだ、なのか。そっか」

「……万葉。あのねぇ」

「そうだよね。じゃなきゃ礼が私に抱きついたくらいで、あんな羨ましそうな顔しないよな」


 俺は慌てて片手を顔に当て、それまでの表情を崩そうとした。いや、もう遅いか。俺、そんな羨ましそうな顔してた? 視線だけで妹尾さんへ問うたのに、全開で、と即答された。


「よっぽど欲求不満なんだな、山田」

「……うーん、否定はしない」

「大変だな、煩悩多いと」

「精進します」


 妹尾さんは礼ちゃんの背中を緩く押し、昇降口へと目線を移す。礼ちゃんはちょっと朱に染まったままニッコリ微笑むと、身体の向きを妹尾さんへ従わせた。それを合図の様に、俺達も止まっていた動きを再開し始める。


 女子の友情、ってよく分からない。いや、そもそも俺は女の子をよく分かってないんだろうけど。俺が武瑠や心へ感じている居心地の好さは、きっと礼ちゃんと妹尾さんの間にも横たわっている。

 ずっと続いていくと良いな。礼ちゃん、あんなにニコニコなんだから。

 ま、あのニコニコを俺が提供出来ている訳じゃない、という点に、多少のヤキモチはあるんですが。



 俺達の先頭に立った礼ちゃんが職員室の引き戸をカラカラと開ければ、神保先生と、隣の席で話し込む葛西先生の姿が皆の目に入ってきた。


「お、……わぁ、御子柴」

「御子柴?」


 葛西先生の何だか抜けた声に続き、聞こえてきたのは神保先生の野太い声。葛西先生より若干 歳上らしい、この学校じゃ数少ない三十代に仲間入りした神保先生は世界史を教えていて、うちのクラスでも教壇に立つ。



 初対面の日、授業後に俺の席までゆったり歩み寄ると、神保先生は歩調と同じ様にゆったりと、確かこう言った。


『山田、王子様なんだってなぁ』


 一瞬、からかわれてるのかと思ったんだ。皮肉、とか。何かと女子の噂に上ってきた俺を、あまり良く思わない先生だっているから。


『こんな傷物の王子様なんて、いないですよ』

『……あぁ、すまん。いや、見てくれ云々じゃなくてな、葛西先生の話を聞いて。ハートのこと』


 ハート、って。内面が、ってことですか? 神保先生は一本一本がそれは太く長い指を広げ、胸元をポンポンと叩いている。


『……あまり良い話とは思えませんけど』

『良い話だったよ。御子柴の帰りを、俺も楽しみにしてる』


 学校一の可愛い子ちゃんらしいし、とつけ足された情報の出所は、間違いなく葛西先生だ。笑うと目尻が下がり、更に細くなった目の奥に温かな光を感じて、俺はその瞬間で何となく、神保先生が好きになったんだ。


「御子柴 礼、です。いろいろと…、ご迷惑をおかけしました」

「あ、葛西先生、ビンゴ」


 礼ちゃんの至極丁寧な自己紹介とご挨拶に続き、神保先生のそれが返されるのかと思いきや。ビンゴ、とは。


「御子柴はね、開口一番“ご迷惑をおかけして”云々言いますよ、って。そういう謙虚な子なんですよ、って。葛西先生、力説するもんだから」


 神保先生はチラリと葛西先生を盗み見つつ、礼ちゃんへ穏やかな瞳を向けている。どっしりとした重厚感あふれる体格は、神保先生そのものを投影しているかの様な、包容力を感じさせる。うちの父ちゃんより、お父さんって感じかも。


「かけたのは迷惑じゃないよ、御子柴。心配。何度言ったら分かるの?」

「……すみません、あの。ご心配も、おかけしました」


 礼ちゃんの短い髪を凝視したまま、隣の席から穏やかに参加してきた葛西先生へ、礼ちゃんはペコリとお辞儀をして言う。


「葛西先生、礼ちゃん見つめすぎ。減りますから」

「へぇ、山田王子は独占欲強いんだな」

「そうなんですよ、神保先生。最近の若者は器が小さい、っつーか。減る、とかあり得ないでしょ」

「分かんないですよ。これ以上ちっちゃくなったらどうしてくれるんですか!」

「あ、そしたらポータブルミコちゃんだねー」

「持ち運びに便利だな」


 溜め息と共に、みんなしてひどい、と呟いた礼ちゃんの頭を、妹尾さんがまぁまぁ、とクシャクシャに掻き回した。


「ところで、御子柴……心身共に大丈夫、なんだな? 戻ってきたということは、そう捉えて良いんだよな?」


 さざ波の様に広がっていた笑いを含んだ雰囲気は、ちょっと恐縮そうな神保先生の声で変えられた。心身共に。そう、礼ちゃんはたぶん、しばらくの間、耐えなくちゃならない。


「はい、大丈夫です。三月の件を仰ってるんですよね? あの…、みんなが支えてくれましたから。あ、これからのことも、でしょうか?」


 神保先生は古びた椅子をギ、と鳴らしながら机に向かって座り直し、前者かな、と答えると何やら資料を用意し始めた。


「これからのことはさほど心配してないよ。王子様はじめ、これだけサポーターがいるんだもんなぁ」


 グルリと俺達へ視線を巡らせる神保先生の瞳はやっぱり温かい。ゾロゾロと連れ立ってやって来た俺達を奇異な目で見るでもなく、排除もせず、ありのまま受け入れてくれる懐の広さ。見習わないとね、俺。


「しばらくは、オーディエンスの声が煩いと思うが仕方ないな。御子柴がやったことは御子柴に還ってくるから」

「……はい。甘んじて受け止めます」


 はい、これ。

 礼ちゃんへ手渡されたのは、プリントの束。


「勉強な、相当 遅れてるから。覚悟は出来てるんだろ?」


 はい、と答える礼ちゃんの声は心なし弾んでいる。

 教科書は購買部で揃えて、来週末までに進路相談な、と繰り出される神保先生の指示にも楽しそうに頷いて。


 うん。やっぱり。一緒に帰ってきて、間違いなかった…と、思う。これからしばらく続くであろう、衆人達の心無さを乗り越えてから確定しよ。礼ちゃんはきっと、大丈夫よ、って一人で立ち向かおうとするだろうけどさ。一緒に。みんなでね。


「……神威」

「何ですか? 先生」

「御子柴、ショートヘアも似合ってるね」

「も、マジで! 見ないで下さい!」



 見ないで下さい、なんて葛西先生には言えるけど、実際問題、全校生徒の目を閉じて回る訳にもいかないし。

 職員室を出て購買部に寄って、教室へ向かおうとしたその頃には、登校してきた大勢の不躾な視線に晒され始めた。


 俺は、別に構わないんだ。傲るつもりはないけれど、良くも悪くも慣れてるから。

 でも、礼ちゃんは? 可愛い、とあちこちで囁かれても妹尾さんがそれなりにガードして、きっと心穏やかな高校生活を送ってきてたんだろうに。


「礼ちゃん……、大丈夫?」

「……どうしたの?」

「いや、会話になってないから。質問に応えてよ」

「私は大丈夫。神威くんは?」

「……俺?」


 覗き込む様に見上げられたもんだから、ちょっとたじろいで階段から足を踏み外すかと思った。大きな瞳が、誤魔化しは駄目だと暗に物語っている。でも、正直に、なんて言えるか。


 不安だなんて。礼ちゃんが俺のこと、嫌になっていかないか心配だなんて。

 耳に入るヒソヒソ声も好奇の視線も向けられる悪意も、俺の彼女、だから。それが理由の全てでなくとも、大部分であることに間違いはないから。


「……悲しそうな、不安そうな顔してるよ?」

「……そんなことないよ」


 そ? と聞こえたけど、ウソ、だったのかもしれない。礼ちゃんは俺より一足先に階段を上りきると、クルンと振り向いてたおやかな微笑みをくれた。


「もう、無理だからね? 私」


 何? と問えば礼ちゃんの瞳は綺麗な弧を描く。3組と4組の間に広がる踊り場で、一瞬、喧騒が消えた。礼ちゃんがつ、と一歩、俺との距離を縮めたから。


「どんなにお願いされても、神威くんを嫌いになんてなれないから」

「礼ちゃん……」

「神威くんこそ、気を遣いすぎて嫌になったりしないでね?」

「あり得ない」


 頭で考えるより早く口をついて出た言葉は最早 反射の域で、だからこそ嘘や迷いが一切なく、礼ちゃんに届いてくれたんだと思う。にーっこり、満面の笑み。本当だ。ショートカットも似合ってる。

 何だろ。俺ってば、単純。単細胞。あぁ、何か、大丈夫なんだ、ってすんなり思えた。


 礼、と妹尾さんに呼びかけられ、微笑みを残したまま、またゆるりと俺との距離を開けた礼ちゃんの背中へ、休み時間に行くね、と声をかける。


「来なくて良いよ、山田。目立つんだから。どうせオマケも付いてくんだろ?」

「あ、ひでー! 万葉ちゃん!」

「行く。行きます。心配だもん」

「そんなにしつこいと飽きられるよ」

「そ、…んなこと…、」

「ないよ! ないない! 神威くん! 万葉、神威くんはデリケートなので、」

「逢えない時間は愛を育てるかもしれないぞ」

「わ、渋いねー、心」


 そんなことを言い合いながら、俺達三人は右側、礼ちゃんと妹尾さんは左側、それぞれの教室へと歩き始めた。

 5組へ入るなり、おー神威ー、と複数の低い声に呼び止められた。真っ先に近寄って来たのは、野田。


「神威、廊下で見たよ! ミコちゃん!」

「あぁ、うん。今日から…、」

「良かったなぁ、マジで!」


 見れば野田の向こう側にも、こちらの様子を窺いながら話に参加したそうな顔がいくつかあって、机に浅く腰かけたり椅子をまたいだり、銘々の格好で、良かった、と頷いている。


「うん。ありがと」

「! ちょ、神威ー…ごめんなぁ」

「え、何、いきなり」


 なんで、どうして、野田が泣き出しそうな顔をしてんだ? 背後を省みても、心や武瑠がガンつけてる訳じゃないし。

 いや、むしろ。心や武瑠は、笑ってるし。


「面白おかしく騒ぎ立ててさぁ。神威やミコちゃんの気も知らないで…。ちょっとケンカでもしたんだろうなぁ、くらいに思ってて」

「んー、もう済んだことだよ。詳しい説明した訳でもないし」

「……すぐ復活すると思ってたんだ。こんな長いこと……。なんか、謝るタイミングもなくて。てか、正直、僻みもあったし」


 バツが悪そうに頬を掻き、視線を俺達にそれぞれ置きながら、野田は言葉を続ける。野田だけの言葉じゃないんだね、きっと。何人かの代表なんだろ? 大変だな、人が好いと。


「……神威、イケメンだしさ。何でもそこそこ出来るし、女子からいっつもキャーキャー言われてるわりに良いヤツだし。でも彼女がミコちゃん、って。出来すぎだろ? あり得ねーし、持って行きすぎだろ? って」


 なるほど。何だか、新鮮だ。他者からの評判や評価って、本人が耳にする機会はそう多くない。


「……このまま別れてしまえ、と。念じてたワケね? 野田」

「や! 別に念じてねーよっ! そんなんしてたら弓削に殺されてます! ま、でもほら! ブサメンのジェラシーとしては! 神威も挫折感とか味わったっていんじゃね? 神様! とか……、思ったりして……、って、怖い、弓削」


 野田は心が放つ黒いオーラにたじろいで二・三歩 後ずさる。俺は振り向き、まぁまぁ、と心をいなすと、席に着こうと促した。そろそろ葛西先生が現れる時間。


「もう、良いよ。悪いけど、礼ちゃんとの絆はより一層深まっちゃったし」

「はっ?! な、ええっ?! お、大人の階段、上ったのか? 神威!」

「……いや、そこはまだ」

「あ……あ、そう。何か、神威って」

「何?」

「そんな柔らかい表情するんだな、ミコちゃんの話になると。意外。怖い」

「……怖い、って何だ」

「あー、でもスッキリ! いや、怖いって言えば弓削よりも」


 ……心よりも?

 不思議顔の俺に野田は、笑わない吉居、と言い置いて席に着く。確かに、という賛同の声がチラホラ聞こえた。俺は飄々としている武瑠の腕を小突く。


「武瑠くん、怖かったってよ?」

「んー、ダークサイドで生きてこうかなー。ギャップ萌えをウリにしてさ?」

「……吉居に萌えたくはないな」


 いつからそこにいたのか、教室前方の出入口付近から動けずにいた俺達の背後に葛西先生がそびえ立っている。ひっでー、先生! という武瑠の抗議をかき消す様に、席に着いて、と低音の心地好い声が響いた。

 葛西先生は毎朝教壇へ立つと、教室内をぐるりと見渡すだけで特に出欠を取らない。“だって見えるから”ってそんな単純な理由。その代わり誰がどんな理由で欠席してるとか、伝達事項はものすごく丁寧に説明されるし、余った時間でちょっとした時事ネタまで繰り広げられる。


「……他のクラスのことなんだけど」


 今朝はその控え目な切り出し方で、礼ちゃんの話だと何となく察しがついた。視線が巡らされたついさっき、俺は他の誰より長く、先生と目が合った気がしていた。


「1組の御子柴が、今日から登校してきてる。もう、知ってるよね」


 野田や回りの席のみんなはそれぞれで頭を縦に振っている。先生はそれを確認すると、ふ、と口元を若干緩め、こう言った。


「御子柴が無事に戻ってきたから。神威の前で事件の話をしても良い?」


 さりげなくやんわり問われた俺は、クラスの連中の真剣な眼差しの前に、嫌だなんて言えるはずがない。

 俺自身の興味もあったから。一体、何が語られるんだろう。あの日、一番近い場所で俺と礼ちゃんを見ていた先生の口から。

 一気に胸がザワザワと落ち着かなくなって、俺は慌てて諾、の意を表した。


「今はまだ、穏やかに守られてるんだよ、みんなは。家庭や学校や、限られたコミュニティの中で。そんな当たり前のありがたさに気づいてる?」


 葛西先生の声はマイナスイオンを放出してるみたいだと礼ちゃんが言ってたっけ。本当だ。低く心地好い音は静まり返った教室内を優しく包み込む。不思議な時間。俺は机の上に両腕を置き、所在なげに手を組み、ぼんやりと親指の爪を眺めていた。


「……これから先、社会に出て。世界は広がっていくね。味方はいても、ピンチの時にタイミング良く助けてくれるヒーローはいないってことをようやく知って。そうしていつか隣り合わせになることがあるかもしれない。悪意、ってやつに」


 この前置きはどこでどう事件の話になるのやら、と思案していた時だった。悪意、という言葉が瞬間、俺の脳裡に右京の姿を呼び起こさせた。


「俺は教師だし大人だし。神威や御子柴を守るべき立場だった。危険や悪意に晒しちゃいけなかった。今でも本当に悔やんでる」


 軽く脚を組んで、黒板にもたれかかっていた先生は俯き加減だった顔を上げた。眼鏡の縁が冷たい光を放っていても、その奥の瞳は静かな熱を帯びている。


「野田」

「え? あ、はい」

「謝れたの? 神威に」


 はい! と即座に返ってきた明るい声に、そうか良かった、と先生は微笑む。


「もう一人いたね……、平井」

「……はい」


 平井? 委員長がなんだろ?

 髪型も身だしなみも典型的な優等生タイプで、生真面目とか実直とかいう形容がピッタリな委員長と俺は、あまり接点が無い。あ、いつも心と学年1・2位を争っている、という補足情報は持ってるな。

 カタン、と音をたて引かれる椅子。委員長は、窓際最後尾に座る俺を教卓付近からクルリと振り向くと、その身体の線と同じくらい細い声を絞り出した。


「……山田くん。ごめん。本当に申し訳ないと」

「……え、ちょ、なんで謝られてるんだか―—」

「僕なんだ。……真坂右京にメールを送ったの」

「メール……?」


 ……メール。メール? 右京へ送った、メール?


『スパイがいるから』


 不意に右京の言葉が断片だけ再生された。

 スパイ。友達、の隠喩じゃあ、ないよな。関係性はなんだろう。右京とは対極に位置する、縁遠そうな委員長は何故、右京とメールをし合う仲なんだ?


「……あの日、右京へ。山田くんは休みだと知らせた。お母さんの付き添いで病院へ行っている、と。病院の名前も」


 俺は委員長から目を逸らせない。眉間に深く皺を寄せ、苦しそうに重たい口を無理やり動かしている様子の委員長から伝わってくる感情。


「……委員長は。右京と友達なの?」

「まさか、そんな訳―—」

「それならどうしてアイツとメールなんか……、」


 マズイことに触れたのかも、と思った時には既に遅く、委員長の顔色は血管が見えそうなくらい蒼白くなっていた。


「……中学の頃からなにかと…たかられて、というか…、いじめられて、たんだ、ずっと。こんなことになるなんて、思わなかった…。本当に――」


 申し訳ない、と。

 委員長が深々と頭を下げたもんだから、俺の視界には静かに佇む葛西先生の姿が飛び込んでくる。

 誰かにたかったり誰かをいじめたり、あの右京ならばもれなく構図がすぐ浮かんだ。


「いいよいいよ、本当に! メールを送ったのが誰か、なんて気にもしてなかったし、俺。委員長、そんなに自分を責めなくても。大丈夫だよ、あの」

「……と神威が言ってるよ、平井」


 委員長は頭を元の位置に戻すと、俺に泣き出しそうな顔を向け、それをそのまま葛西先生の方へ向けた。

 俺、今日はあの表情、よく向けられるな。


「平井、ずっと気にしてたんだ。でも、御子柴が戻って来ない間は神威のキャパもさすがに狭かろうと思って」


 あぁ、だからの今日なのか。

 確かに礼ちゃんの行方ばかりを気にしてた先週まで、生きてるんだか、ただ息だけしてるんだか分からなかったから。誰かのせいにしたところで、決して気持ちは晴れなかっただろうけど。


「ごめんね、委員長。もっと早く謝りたかったよね? でも、葛西先生が言う通り、礼ちゃんが見つかったからこそ、気にしてない、って言えるんだと思う」

「! 山田くん……、」


 俺は机に身を乗り出す様にして、素直な気持ちをそのまま伝えようとした。

 気にしてないよ、本当に。もう、良いんだ、大丈夫なんだよ。

 俺達は、起こってしまったことは受け止めて受け入れたのだから。これからまた、乗り越えて強くなってかなくちゃいけないんだから。


 山田くんって、そんな優しい顔をする人だったっけ。

 委員長の心の声はダダ漏れで、周囲の席から小さな笑いが起こっている。


「……オイ、何てことを言いやがる」

「あ、ごめん……いや、御子柴さんのこと、礼ちゃんってのも…」

「礼ちゃんっつって良いのは俺だけなんだよ! 気安く呼ぶな!」


 あぁ、ごめん。

 泣き出しそうに歪んでいた顔は、一変 憑き物が落ちた様に晴れやかなそれ。よしよし。みんな、そんな顔の方がいいって。


「……さて。ちょっと長くなったな。1時間目は俺の授業だし、このままもう少し続けても良い?」


 葛西先生は委員長へ着席するよう促すと、それまでのもたれかかっていた姿勢から黒板の前に真っ直ぐ立ち、教室内を圧する力で包み込んだ。凛とした、ほんの少し下がった声音が、ここからが本題だと俺達に告げている。


「俺は理学部だったから。解剖したこともあるし、それなりに喧嘩も無茶もしてきたし。傷口や流血に、抵抗はないはずだった。少なくとも、そう思ってた」


 葛西先生の視線は教室内のどこかを見つめているようで、その実、何も捉えてはいないのかも。あの日の俺が、先生の瞼にはずっと焼きついているのかな。リアルに蘇ってきたのであろう惨状に、先生は眉をひそめながら続ける。


「俺は歳いってるし男だよ。それでもあの神威の姿には茫然とした。心臓を抉り出されるかと思った。それは傷口の酷さでも血の紅さによるものでもなくて、神威だったからだ。可愛い教え子の、神威が…、あんな目に遭ったから。俺は独身だし子どももいないから説得力に欠けるだろうが、教え子は我が子同然なんだ」


 先生は一気にそこまで吐き出すと、肩を上下に揺らし小さく溜め息を漏らした。

 あんな目、を俺は結局、よく知らない。意識を失っていたのだから。

 教室内のみんなはきっと、それぞれの想像力を駆使して俺の傷口を流血の様を思い描いている。新聞やニュースの情報も加味して。みんな、息してるのか?


 あんな目、を俺達は今、共有している。そうすることの意味が、意義が、分かりません、先生。

 そう口にしたかったけれど、言葉は喉の奥にじっとりと貼りついて、声の出し方を忘れてしまったほどに、音となって出ることはなかった。


「……神威は、最後の最後まで御子柴を守ろうとしてた。二人の名誉のために修正すると、加害者の子は御子柴の昔のオトコじゃないからな」


 葛西先生はまた黒板にもたれかかり、軽く腕を組む。何人かの肩がピクリと震えた様に見えた。一番後ろの席だと、みんなの様子がよく見渡せる。

 そうか。俺は耳に入れる余裕が無かっただけで、そんな根も葉もない噂は、今日もどこかでまことしやかに囁かれているんだろうな。


「きっと神威は、あんな姿を御子柴に見られたくはなかったと思うよ。俺は連行される加害者の子へ怒りをぶつけないように自制するのが精一杯でそんな思いやり、持てなかった」

「……先生……、」


 やっと吐き出せた言葉は掠れた声のせいで葛西先生まで届かない。いや、目は合ってるから、気づいているのかもしれない。俺が考えていること。


 もう、これ以上は、いいんじゃないか、って。みんながこれ以上、重苦しい空気を共有する必要はないんじゃないか、って。謝ってくれたヤツもいるし。これからの礼ちゃんを、俺達が支えて守っていければいいんじゃないか。

 それでも葛西先生の言葉は、止まらない。俺達は抗う力も持てずに、ただただ聴き入るばかり。


「……考えてみて? 一番大切な存在の、血まみれの姿を見て、平気でいられる? 真剣に、考えてみて? 遠い世界のどこかで起こったことじゃないよ。そんな経験をした子は、この廊下の端のクラスにいる。同じ高校3年生の、女の子だよ」


 平気な訳ないです、と。誰かの席からポツリと聞こえた。同意のさざ波がほんのちょっとザワザワと広がって、ミコちゃんにも謝らなきゃ、という野太い声も聞こえる。

 俺は葛西先生が使った“女の子”って響きがどうにも優しくて、嬉しくて。不覚にも目頭が熱くなってしまったけれど、誰にも気づかれたくなくて、両手で鼻から下を覆った。


「腫れ物に触る様に扱わなくても良いけどね? 御子柴のこと。それでも、思いやってほしいんだ。どれだけの想いを重ねてここへ戻ってきたのか、考えてやって?」


 俺、母ちゃんくらいの眼力があれば良かったのに。離れた席からでも葛西先生にありがとう、ってどれだけでも伝えられるのに。

 こんな話、受験生の貴重な授業を潰してまでする必要ない、とか反発が起こらないのも、きっと葛西先生が持つ不思議なオーラのせいだから。


「勿論、神威が必死に守ろうとするだろうけどサポーターは多いに越したことないし。誰の心にも、悪意は潜んでるからね」


 ほっと一息ついた感のある教室内を、またぐるりと見渡すと、葛西先生は横を向いて軽く咳払いをした。


「それが明らかな刃となり傷を負わせる類いでなくとも、不用意な発言や行動は、結果、同じ様な傷をつけていく……忘れないで」


 本当に格好良すぎるよ、先生。

 じゃあ、授業始めるよ、と教科書を開く姿も、板書する後ろ姿も。

 右隣の席の心が、ふぅ、と大きく息を吐き、首をコキコキと鳴らした。


「……裁判員裁判だったな、まるで」

「え?」

「同じ痛みを俺達は共有した。もう、皆等しく無関心ではいられない。神威のことも御子柴のことも……アイツ、気に入らなかったのかな」

「アイツ? ……先生? 何がお気に召さなかったって?」


 俺がブチ切れた時、と鼻の横を長い指で掻きながら心は言う。


「本当のことが分からないなら分からないなりに思いやれ、ってクラスの連中へ怒鳴った。それだけじゃ不十分で。より深く、分かろうと。神威や御子柴の気持ちを推し量ろうと、時間をかけて欲しい、ってことだろ?」

「……そうなのかな」


 俺達だけで一足跳びに大人になれる訳もないから、やっぱり時々は、確認したい。俺達は間違っていないのか。父ちゃんや母ちゃんや姉ちゃんとはまた別の視点で、ほんのり心に灯る温かさをくれる葛西先生が担任で良かった、と俺は改めて感じていた。




 授業合間の休み時間は10分間。こんなに短かったっけ?

 5組から1組への廊下を急ぎ足で進む。あー、くそ。こんなに長かったっけ?

 足早に通り過ぎたい空間には、授業が終わった他のクラスの連中や教室移動し始めた連中で見る間に溢れかえり、俺の苛立ちを募らせる……カルシウム足りないな。

 あぁ、しかも。1組の後方出入口に手が届くすんでのところで、山田くん、と呼び止められた。


「……教室、入らない方が良いよ」

「ちょっと、ピリピリしてる」


 遠野と西條のありがたい進言。

 でも、と言いかけた俺に、何を察したのか遠野は慌てて、違うよ、とつけ加える。


「ミコちゃんが直接やられてる訳じゃないから」


 じゃあ、何なんだ。

 憮然とした俺の表情に苦笑しながら今度は西條が口を開く。君達は交互に喋る約束でもしてんのか?


「和泉が、売られた喧嘩を買ってるの。相手は山田くんのファンの子」

「どうして、そんなことに」

「んー、朝からさぁ、ミコちゃんに嫌味ばっか言っててさ……って、山田くん。

 まだ怒るポイントじゃないよ」

「……あ、あー、ごめん」


 追いついた武瑠がどうどう、と言いながら俺の肩へ手と顎を乗せる。心の威圧感はたちまち出入口付近にたむろしていた生徒を追い払った。そんな二人へチラと視線を送ると、西條は話を続ける。


「ミコちゃんは黙って受け流してた。賢いよね、相手にしちゃうとつけあがらせるだけだから」

「妹尾も庇ってたしね。それが逆効果だったというか……、矛先が和泉に向かっちゃって」


 どうして。

 また口をついて出た俺の疑問符に、遠野は頬に妙な皺を寄せながら慎重に言葉を選ぶ。


「……和泉さ。ミコちゃんのこと、階段から、その…、」

「! あぁ、うん。あれがどうかした?」

「結局さ。あの後、ファンクラブ解散しちゃったじゃん? 和泉は納得ずくなんだけど、他の女子がさ、ミコちゃんにやりこめられたとか」

「偉そうなこと言っといて和泉も大したことないとか。煽っちゃって」


 ガタン、と室内から聞こえた音。机か椅子が倒れたんだろう。和泉の怒声と礼ちゃんのやめて、という悲痛な声が聞こえてきた。

 俺の身体は礼ちゃんの声に見事に反応し、即座に大きく一歩を踏み出したところで、武瑠と心から羽交い締めにされる。


「な、何――」

「待って、神威!」

「落ち着け、今は駄目だ」


 なんで? どうして?

 肩越しに二人を振り返ると、行ってどうするつもりさ? と武瑠。


「女子の揉めごとはデリケートだよ、取扱注意だよ? むやみにミコちゃん庇っても火に油」

「信じろ、神威。御子柴を見損なうな」


 二人の視線の向かう先には、和泉を庇う様にしてクラスの女子と相対する礼ちゃん。俺から見える姿は礼ちゃんの右斜め後ろ。クラスの野次馬達は俺の姿を認め、目を瞠ったり、何かを囁いたりしているけれど、礼ちゃんはきっと気づいていない。

 もう、良いでしょう? と凛とした声をぶつけている。


「……っ、わ、私が神威くんの彼女だ、ってこと染井さんは、気に入らないのよね? その件に、和泉さんは関係ないわ。もう、良いでしょう?」


 染井、ってのが礼ちゃんと対峙してる女子か。よし、顔 覚えたぞ。俺は自慢じゃないけど、こと礼ちゃんに関しては許容範囲が狭いからな。


「気に入らなかったら何なの? 和泉のことも上手く取り込んだんでしょ? お上手ー、御子柴さん」

「だーかーらーっ! 取り込まれてなんかないっつーのっ!」

「何 言ってんのよ! 御子柴のこと痛めつけるとかほざいてた割にあっさり引き下がってさ! 和泉が一番、御子柴のこと気に入らなかったくせに! 一人だけ良い子ちゃんになるつもり?」


 ヒートアップしていく和泉と染井の間に立って、礼ちゃんは染井さん聞いて、と声を張り上げている。

 野次馬達のニヤニヤが収まらないことへもイライラするし、俺はいつまで我慢しなきゃならない? あぁ、でも妹尾さんも同じ気持ち? 礼ちゃんの少し後ろで腕を組んで唇を固く結んで、堪らない衝動と葛藤しながら、機を窺ってるの?


「あのね、分かるわ。誰が神威くんの彼女になったって、嫌よね? 許せないと思う。私もね、私だって、そうだと思う。二年前の3月25日に市役所で初めて神威くんを見た時から目が離せなくて、ずっとずっと好きだったから、どんなに完璧で敵わない女の子が彼女になったって、納得出来ないと思う。でも私は、」


 礼ちゃんはそこで一瞬、息をのんだ。俺、気のせいじゃなければ、ものすごい告白されてる、よね? 礼ちゃんのあまりの早口に圧倒されて、脳の回路がきちんと処理を行ってくれないけど。


「神威くんの隣にいけるほどキラキラしてないし想像も出来なかった。遠くから見てるだけで、寂しいけどそれ以外の行動を起こそうともしなかった。図書室で、たまたま神威くんを介抱して、その奇跡的な偶然にまんまと乗っかったの。乗っかったまま、今ここに至るの。やり方、汚いでしょう? 正攻法じゃない……でも、誰にも譲りたくないの」


 暫く、誰も口を開けなくて、それでも勝ち気そうに見える染井は、唇を歪めると、は、と息を漏らした。


「……そんなん聞かされてさ。あたしにどうしろってのよ」

「うん。私のことは認めてくれなくて良いから、気に入らないならどれだけ暴言吐かれても構わないし。でも和泉さんは、懐が広い良い人なので」

「……ちょっと! あんたに良い人認定されるとムカつくわ」

「あ、ごめんなさい。えーっと、良い女? って言うべきだった?」

「何かそれも違うよ!」

「あ、ツンデレだっ…」

「もっと違うだろ! バカミコ!」


 何なんだろ。礼ちゃんと和泉の間で交わされてる会話、まるっきり仲良しさんの会話じゃん。ほら、みんなもポカーンとしてますよ? 俺は空気読めてないのは百も承知で、ぶふ、と噴き出した。


「あ」

「神威くん……」


 礼ちゃんと和泉はほぼ同時に俺を振り向き、視認する。みるみる紅く染まっていく礼ちゃんの白い肌、一方の和泉は眉間に深い皺。


「山田くん、いつからそこにいたのよ? 趣味悪っ」

「あー、うん。ごめんなさい」

「バカミコお気の毒ー。みーんなの前であんな恥ずかしいセリフ、しかも彼氏に聞かれてるなんて」

「え? バカミコって決定事項?」

「あんた、やっぱりバカね? 気にするとこ、そこ?」

「バカって言う方がバカなのよ?」

「子どもかっ!」


 俺はまた ぶふ、と噴き出す。ちょっと俺も入れて欲しいんだけど。

 とは言え10分間の休み時間は、もうすぐ終わってしまう。この頃には武瑠と心の力も消えて、俺はようやく1組へ足を踏み入れた。礼ちゃんへ近づく毎にザワザワとさざめき揺れる空気、チクチクと細胞を突き刺しそうな誰しもの視線。

 大丈夫。俺が守りたい人は、すぐ傍にいてくれる。


「……染井さん? いや、他にもいるのかな。礼ちゃんを傷つけようとしてる人」


 神威くん? と穏やかな礼ちゃんの声が斜め下から聞こえる。大きな瞳から見上げられれば、俺はもう瞬殺ですよ。前髪が伸びて、ちょっと目に入りそう。俺は人差し指で僅かな毛束をそっと掬うと横に流し、俺なりに極上と思われる笑顔を浮かべた。

 ……オイ、そこで沸き起こるざわめきは何なんだ? 失礼な。


「人の気持ちは簡単に変えられないけど、慣れさせていくことは出来るよね。バカップル、見せつけていくから、そのうち何もかもどうでも良くなるよ」


 ね? と礼ちゃんへ同意を求めたのに礼ちゃん、固まってるし。妹尾さんと和泉の声が重なって、もー痛いわー、とか言うし。


「神威くーん。教室帰りましょー」

「もう良いだろ、神威。皆、HPはゼロだ」


 ちぇ。もうひとつ締まりに欠ける気がするんだけども。なかなか葛西先生みたくはいかないな。


「礼ちゃん、また次の休み時間に来るね」

「山田、3・4時間目は移動教室」

「あ、じゃあ昼休みにね」


 目の前で掌をヒラヒラさせると、ようやく礼ちゃんはトリップから戻ってきた。無意識にコクコクと頷く顔は、まだまだ朱に色づいている。多数の表情が読み取りづらい面々を縫って、俺は1組を後にした。




「……山田、あれわざと?」


 昼休み。1組へ礼ちゃんを迎えに行って、流石に居座るには視線が多くて痛くて、俺達のクラスへ逆戻りしている時。廊下で妹尾さんが、ふいに切り出した。


「……あれ、とは? お嬢様」

「ちょ、デコ貸せ、山田」

「すみませんすみません! 何の話? いや、ほんとあれ、って何だ?」


 バカップル宣言、と端的なお答え。

 妹尾さんは頭の回転が速いし賢い。話の筋道も通っているし、結論が明確で分かりやすい。俺の浅はかな考えなんてお見通し、ってことですか。


「……自分の噂とか、女子からどう見られてどう思われてるとか。知りたくもない話ほど結構耳に入ってくるんだよね、興味ないのに」

「あぁ、うん。そうなんだろうね」

「誰が好きこのんでドSクールビューティーな俺様王子を演じないといけないんだか。全くもってキャラじゃねーっつの」

「正体は裏切りのデレ男だったもんな。皆、開いた口が塞がらないといった風で」

「好き勝手なイメージ押しつけられる方はたまったもんじゃないんだよ?」


 妹尾さんはまた先程の教室内の空気を思い出したのか、噴き出しながら傑作だった、と笑った。妹尾さんの追加情報によると、あの後、そこかしこの女子集団から、イヤー、だの、ないわー、幻滅、といった批判的なご意見が声高に上がっていたそうで。ま、俺の目論見もあながち外れまくってる訳じゃないらしい。


「そうやって、守ってくのか。自己犠牲だな」

「今のところこれくらいしか思いつかなくて。この学校での俺のイメージなんて俺が努力して確立したものでもないしね」


 そっか。

 頷きながら妹尾さんが放つ頑張れよ、は、憧れの先輩にやっと貰えた念願の励ましみたいな威力を持ってる。ニヤニヤが止まらない俺は、礼ちゃんの手作り弁当がある、ともたらされた吉報で更に破顔させられた。


「礼ちゃん、お弁当って?」


 武瑠達と連れ立って先に5組へ入っていた礼ちゃんの小さな背中へ勢い込んで声をかける。

 と、野田? あぁ、また? 人が好いったらないな。


「ミコちゃん! ごめんね!」

「えーっと、何のこと…、」

「俺ら、ミコちゃんの気持ちも考えないで、あることないこと…いや! ないことないこと、好き勝手に」


 野田くん? そう言いながら礼ちゃんは小さな手を野田の顔の前でパタパタと振って、制止だか否定だかの動きを見せる。神威くん? みたく、語尾がちょーっと上がる感じの可愛い呼びかけが野田に向けられて、俺はちょーっとムッとした。いや本当にカルシウム足りないよね。


「大変だったのは神威くんで、辛くて悲しい想いをしたのも神威くんなの。私はみんなの言う通り、逃げてただけだから。謝るところは、ないよ?」

「! ……っ、ミコちゃぁぁぁんっ!」

「……何するつもり? 野田」


 まったく! 油断も隙もないったら! 俺が割って入らなければ、お前はその伸ばした両腕で礼ちゃんに何をする気だったんだ?!


「神威のケチー! ちょっとくらいミコちゃんに親愛の情を示しても良いじゃんよー!」

「……武瑠くん、心くん。俺は恋愛初心者なのですが、大事な彼女がハグハグされるのを黙認すべきなんですかね?」

「神威、日本人だしねー」

「加えてガキだからな」

「いや、ハグハグは上級者でもかなりの精神的鍛練が」

「そうだな、神威のレベルでは即死だ」

「じゃあ野田、寝技と足技とどっちが良い?」


 じゃあ、の意味が分かんないよ! と怒鳴る野田へ武瑠の華麗なる足技が決まる。えええ、と困惑気味の礼ちゃんと、男子クラスって、と呆れた様に溜め息を吐く妹尾さんを俺は苦笑しながら誘い、俺の机と心の机を向い合わせにした。机の回りに近くの席から椅子を引き寄せ、礼ちゃんと妹尾さんをどうぞ、と座らせる。

 吉居の悪魔! という捨て台詞を背に何故か意気揚々と武瑠がこちらへ歩み寄り、口元に柔らかい笑みを浮かべた心もそれに続く。


「神威、オレら購買に―—」

「あ! 吉居くん! 弓削くんも……お弁当、作ってきたんだけど…」

「「え」」


 礼ちゃんが手にしていたバッグから出てきた大きめの弁当箱三つ。武瑠も心も、立ったまま目を剥いている。いや、もちろん俺もビックリしている。お弁当、って、俺の分だけじゃなくて。


「あ、や、あのー、事前予告なしで勝手に作ってきちゃったし、パンが好きならちょっとこれは持って帰りますし。好き嫌いのリサーチもしてませんので。えーっと」


 いやー、無理もないよね? 俺だって感無量で言葉が出ない。

 彼女からの手作り弁当、って! 最高にベタな展開だけど最高に嬉しい。ましてや頼んでもいないのに、大切な友達の分まで作ってきてくれる彼女、ってあああもう! なんでここ教室なんだ! 闘え! 俺の理性!


「…っ、ミコちゃん!」

「御子柴」

「あー、困ってる? ごめんね、こういうの勝手がよく分からなくて。お母さんから、喜ばれるわよ、とか言われて真に受けちゃって」

「ちょっ! 困る訳ないじゃんっ! 感動! 感激! オレらの分も、って! ミコちゃん、やっぱ超好きー!」

「……負担、じゃなかったか? 無理、とか。してないか?」


 手放しで喜びを表現する武瑠とは逆に、神妙な面持ちで礼ちゃんを窺っている心。一旦、挙げた万歳! の両手をそろそろと下ろしながら武瑠も頷いている。


「えー、やだな。負担も無理もないよ? ……友達、でしょう?」


“友達、でしょう?” ってああああもうっ! 可愛いすぎる! 良い子すぎる! 優しすぎる! 気を遣わせないように気を遣う天才!


「これ、神威くんの……って、どうしたの?」

「……理性と本能が激突してんの」


 俺の表情を見て煩悩の全てを察知したのか、それまで静観していた妹尾さんが、ぶふ、と噴き出した。妹尾さんも手元のバッグからお弁当箱を取り出し、食べよう、と俺達へ視線を巡らせる。


「あー、オレもミコちゃんみたいな彼女欲しいなー!」

「いや、むしろ御子柴が欲しい」

「心! 止めて! 真顔で冗談言うの!」


 ホッとした様子の礼ちゃんを前に、俺達は柄の異なる巾着に入れてある弁当箱を取り出す。蓋を取って開ければ、彩り豊かなおかずが目に楽しい。ただ、ちょっと待って。


「……礼ちゃん。こう、ピンクの何かでハート、とか、無いの?」

「ええっ?! そこまで乙女?!」


 だってさ、武瑠と心のお弁当と同じに見える。駄目なのか。そこに彼氏スペシャルを求めてしまう俺はまだまだなのか。


「……唐揚げひとつ多いよ? 神威くんの」

「よし!」

「あ、それで良いんだ」

「明日は卵焼きも多くしてくれる?」


 いちいち面倒なヤツだな、山田。

 きんぴらごぼうを口へ運びながら妹尾さんが苦々しく言葉を寄越す。美味しい、と一口毎に感嘆の声をあげている武瑠と心を見つめる礼ちゃんの瞳。優しくて、見てるこっちまで胸がほんわかと温かくなる。


 本当に三日前まで想像出来なかった幸せな時間。穏やかな空気。素直に今日、ここに生きていることを喜べる自分。

 礼ちゃんの何もかもをもっともっと欲しくて、でも満ち足りた気分だったりして、胸の奥からクツクツと笑いが込み上げてきそう。

 そんなことをボンヤリ考えていれば、礼ちゃんとカチリと目が合った。キラキラの笑顔を向けられれば顔中 溶けそうになる。あ、と小さく呟くと礼ちゃんは俺から目を逸らさずに澄んだ声で問うてきた。


「……神威くん。今度の土曜日、何か予定ある?」


“今度の土曜日” “何か予定ある?”


 礼ちゃんの涼やかな声が脳内で何度となくリフレインしてる。俺は今日、死んでしまうんじゃないだろうか、あまりにもいろんな幸せが一度に押し寄せ過ぎて怖い! 彼女手作り弁当に感動した後に続く、週末予定の確認! これはもう! いまだ未経験なアレだとしか!


「……山田。勝手にどっか行ってないで礼の顔見て」

「……は」

「“は”じゃないよ、青少年。デートの誘い、ではないよね? この表情」


 飛ばしていた意識を取り戻すと、はは、と目の前で苦笑いする礼ちゃんがいた。あれ、心ときめく展開じゃないの?


「質問の仕方が悪かったのね? ごめんね、神威くん」

「………イエイエ、俺の早とちり。で、土曜日、どうしたの?」


 うん。

 そう言ったまま、礼ちゃんはしばらく沈黙を保つ。がっつくようにお弁当へ食らいついていた武瑠と心も、不思議に感じて箸を止めるほどに。


「……礼ちゃん? ごめんね?」


 え、の口の形のまま固まった礼ちゃんは俺を凝視している。うん、何のことやら分からないだろうな、俺、肝心なことを忘れてたから。


「お弁当、ありがとう、って言ってなかった……浮かれちゃってダメだね、俺」

「……あ、そういう…、私が勝手に作ってきたんだし。楽しかったし、気にしないで?」


 いや、と胸の前に片方の掌をつき出す。

 本当に不甲斐ない。嬉しすぎて父ちゃん母ちゃんからの教えまで失念するとは。


「人にしたことは忘れても良し、でも人からしていただいたことは忘れちゃいけない。これ、山田家 家訓ですよ。ごめんね、本当に。ダメ彼氏、見捨てないで?」


 本当にありがとうね、と重ねて伝えると、武瑠と心の感謝の意も続く。礼ちゃんはほんのり頬を染めると、プルプルとかぶりを振った。


「いいのに、本当に。誰かに作ってあげるのは嬉しいし、前の日の残り物とか冷凍食品とか入ってるし……あの、お、いしかった?」

「もっちろん! とびきり、美味しかった」


 照れているのか、あちこちさ迷う礼ちゃんの視線がいじらしくて、俺だけに留めたくて。空っぽになったお弁当箱を礼ちゃんへかざして、ご馳走さまでした! と笑みを向ける。

 御子柴、ありがとう。ミコちゃんありがとうー! と両の掌を合わせ終わった二人が、蓋をかぶせる弁当箱はこれまた空っぽで、礼ちゃんは綺麗な笑みを浮かべ、ほんのちょっと肩を竦めると、良かった、と安堵の溜め息と共に漏らした。

 バッグの中へ巾着三つをしまい、視線を俯け自身の残りのお弁当へ箸をつけ始めた礼ちゃん。そんな一挙手一投足をじっと見つめながら、俺は机に腕を組み肘をついて、さて、と切り出した。


「……俺がこんなダメダメ感たっぷりだから、礼ちゃんから何でも打ち明けてもらえないのかな?」

「ん?」

「土曜日。さっき言いにくそうだったの、何だった?」


 はた、と思考を巡らせた礼ちゃんの動きが一瞬止まる。天使の輪が艶めく黒髪が揺れたかと思うと、ほんの少しトーンが落ちた声が小さく聞こえた。


「……自分から切り出して後悔したから。うやむやになってくれないかと思ってたのに」

「……うん。そうかな、って思ったからね、敢えて話を逸らしてみたけど。やっぱり気になるのが、ダメダメ彼氏所以ですよ」


 礼ちゃんはクス、と口元を緩め、最後のご飯を箸で運ぶと、ご馳走さまでした、と軽く頭を下げた。大判のハンカチに包まれるお弁当箱は、俺らへ用意されたものと比べようがないくらいに小さい。


「ご飯、それだけで足りるの?」

「燃費良いの、私。また、話を逸らしてくれるの?」


 キュ、と音が出そうなほど手際よく、礼ちゃんはハンカチの四隅を結び終えた。白くて細くて小さな指。爪は丸く指からはみ出ることなく綺麗に切り揃えられていて、自分の手は俺ほどに綺麗じゃないから見せたくない、なんて言っていた礼ちゃんをふと思い出した。


 同じくらいのタイミングでお弁当を食べ終わった妹尾さんは、一番窓際の椅子を陣取り、窓外に広がるグラウンドを眺めている。武瑠や心はストレッチをしたり、椅子に座ったまま伸びをしたり。でもきっと、皆の耳はこっち向いてると思うな。なんて思っていたら。


 だらしなく机の上に伸ばしていた俺の左腕中ほどを、す、と迷いなく礼ちゃんの右手がなぞった。衣替えを済ませた制服は半袖。触れられたそこから全身へ何かが走る。ゾワリ、と。

 寒気からではない鳥肌って、あるのか? それとも、もっと本能が発している快感? うわー、やらしい俺。止まれ、妄想。


「怒らないでね?」

「別れ話なら、怒る」


 そんな訳ないでしょ。

 言いながら礼ちゃんは接点を小さくトントンと二度叩く。分かってるでしょう? みたいに、困ったちゃん、みたいに。


「……右京くんに、会いに行きたいの」


 時が止まったようだと感じたのはきっと俺だけではなくて、妹尾さんも武瑠も心も、ピタリとその姿勢を数瞬 保った後、皆一斉に礼ちゃんの名を呼んだ。

 礼? ミコちゃん? 御子柴?

 それぞれが最大限の親愛を込めて問いかける声には、明らかに戸惑いの色が感じ取られた。

 そりゃそうだ。俺だってそうだ。


「……どうして?」


 熟慮するより前に辛うじて俺の口から出た無難な言葉は掠れていて、思いの外、低い響きだった。怒っている、訳じゃない、はず。礼ちゃんの考えていることをきちんと受け止められなくて、そんな自分に苛立っているだけ。いや、やっぱり怒ってるのには代わりないのか。


「質問、良い?」


 礼ちゃんの答えを待たずして、いつの間にか顔を俺達へと向け、目を細め眉根を寄せている妹尾さんの声がした。その視線の先には礼ちゃん。どうぞ、と優しく反ってきた音は、妹尾さんの感情を抑えた様な低いそれとは、あまりに対称的だった。


「会って、どうしたいの? 山田へ謝罪させるの? アイツのせいでみんな辛い想いをしたのに、関わりのないどこか遠くから一生憎み続ける、ってんなら分かるけどわざわざ会いに行きたい、なんて。さすがに理解に苦しむ」

「……そっか」


 礼ちゃんは妹尾さんの質問には応えず、流れる様な弁論の最後の部分にだけ反応した。薄い溜め息と共に俺の左腕との小さな接点はゆるゆる離れていき、礼ちゃんの膝上へおさまろうとする。俺は咄嗟にその手を掴んだ。


「待って。駄目だよ、質問に応えて? 俺のにも、妹尾さんのにも、ね?」


 礼ちゃんは掴まえられた自身の右手をじっと見つめ、それから俺をじっと見つめた。目は口ほどにものを言う、なんて言い得て妙、だ。ちょっと、クラクラしそうだけど。だって今、礼ちゃんの大きな黒目に映っているのは、俺だけ。チラチラと細かく揺れる漆黒は確実に俺に訴えかけている。


「分かってるよ、言いたいことがあるんでしょ? でも考えがまとまらないまま切り出しちゃって。後悔して、でも言いたいんでしょ? どっからでも、どうでも良いよ。礼ちゃんの好きなように口に出して?」

「神威くん……」

「独りで脳内でモジャモジャ考えないで?」


 ぶ、と心が噴き出した。

 え、笑いのツボがどこにあった? 俺はいたって真面目なのに!


「神威…、その擬態語はいかがなものかと」

「ぎた……あ、モジャモジャ?」

「そうだねー、せっかく途中までカッコ良かったのに」

「途中まで、って失礼な。モジャモジャ、良いでしょうが。グチャグチャだと、こう…、何か礼ちゃんに当てはめるには美しくないし」

「過保護か、山田。モヤモヤ、とかじゃ駄目なの?」

「そんな霞がかってないでしょ? 俺の彼女さんは独りで考えて独りでスッパリ決めることができちゃう子ですよ」


 ね? と礼ちゃんを覗き込めば、ふふ、と困ったような笑みが伝わってくる。そう、こうやって笑顔の礼ちゃんと俺とみんなとで、考えていければ良い。


「……礼ちゃんは。きっと会いに行くよ、俺達が異議を唱えようと。こんがらがって上手く伝えられないだけで、答えは出てるんだよ。でも俺は、どうしてそう考えたのか。何のために行くのか。ちゃんと知りたい。教えて、ね? 礼ちゃん」


 はい、と綺麗な返事が聞こえた。礼ちゃんは俺の掌からするりと抜けると、指先を握り直してくる。うん、この期に及んでそんな所作まで可愛いと思う俺は、ちょっと痛い。いやいや、余裕があると思うべきか? なんだろな、ありがとう、ってそんな嬉しそうに言われちゃったら、ここが教室だ、ってリアルが吹っ飛びそうになる。恋の伝達物質でも出てますか? 指先から。


「……手紙がね、来てたの。一ヶ月くらい前の日付で、右京くんから。昨日、お母さんから手渡されて…、何故だか、グシャグシャだったけど」


 何故だか、なんて理由はおそらく。礼ちゃんのお母さん、手渡すつもりはなかったのだろう。少なくとも当初は。


 ストーカー規制法だとか、迷惑行為防止条令だとか、右京の影から礼ちゃんを守れるのかと思えたそれら小難しい法律は結局、礼ちゃんの自由は何ら“著しく害されていない”という薄っぺらい見解のもと、何もしてはくれなかった。礼ちゃんのお母さんが静かに歯噛みしていたのを、俺は知っている。


「謝りたいです、って書いてあったの。だから、会いたいです、って。それは私に対してなのか、神威くんに対してなのか分からないけれど」

「……うん」

「嘘なのか本心なのか分からないけれど」

「……うん」

「……“何かを得て。キラキラしていたミコちゃんから、オレは何かを失わせたかった。オレ側へ堕ちればいい。だけど結局、失ったのはオレの方だった”」

「礼ちゃん……、」


 何度読み返したら、誰かからの手紙って暗記出来るものなのか。きっと何度も何度も、礼ちゃんは一字一句を真剣に追っていったのだろう。誰かが、それがたとえ右京であっても、わざわざ手に筆記具を持ち、便箋を用意して、おそらくは読み手を思い浮かべながら探る様にしたためた気持ちを、行為を、無碍に出来る子じゃないんだ、礼ちゃんは。


「……少年刑務所にいるんだよね? アイツ」


 妹尾さんの相変わらず低い声に、コクリと頷く礼ちゃん。その前は、と穏やかに俺達へ向けて言葉を紡いでいく。


「拘置所で四週間、鑑別所で四週間過ごして。審判が終わって、最近やっと…そこへ」


 いわゆる“親告罪”については、被害者のご家族が難色を示したこともあって立件に至らなかったケースもあったみたいだけど、クスリの常用や売買、俺への意図的な暴力行為、隠蔽工作や余罪を鑑みると、数年は閉ざされた世界で暮らすことになるだろう、と。刑事さんから連絡があった、と母ちゃんが言っていた。


 真坂市議は当然と言うべきなのか、政治の世界を追われ、後始末や取り調べに奔走しているせいか、俺への謝罪なんてあるはずもなく、だけどそれが、右京を取り巻く環境の悪さだと家裁での審判でマイナス評価に繋がってしまったらしい。


 俺の父ちゃんは、仕事を辞めなくても良かった。強力な支援者を失ってプロジェクト自体が暗礁に乗り上げてしまったようだけど、納得のいかない働き方をする必要はなくなった、と、やっぱり父ちゃんはサバサバしていた。

 葛西先生も、不問に付されて…、妹尾さんのお父さんの力添えはあったのかもしれないけれど。

 確かに、何かを失ったのは、右京だけなのかもしれない。


「……確かに、なんて。思ってるんだろう? 神威」

「……よくお分かりで」

「人が好すぎるよー、神威もミコちゃんも」

「そんなことない。みんなもよ。ね?」


 礼ちゃんは皆、と俺達へ大きな瞳をクルリと巡らせ顔を綻ばせる。

 わ、何それ。ふにゃあ、って。ちょっ、やめてください! 可愛いです!


「……事の発端を遡れば、きっと私が世間知らずで浅はかだったせいなのに」

「「礼「御子「ミコちゃ――」」」」


 それは違う! は綺麗な四重奏を響き渡らせ教室内の注目をしばし浴びてしまう。ほらね、とまた破顔の礼ちゃん。


「みんな、いつでも私の心に寄り添おうとしてくれる。甘やかされてる。分かってる。人が好すぎるのは、みんなよ。みんな、大好き」

「礼ちゃん………、俺、何番目?」


 あああー! くだらないっ!

 妹尾さんの低かった声はいつもの強さと明るさを取り戻し、俺に罵声を投げつけてきた。俺の情けない表情を目にし、武瑠も心も噴き出している。


「万葉ちゃんが正しいよ! 神威、マジでくだらねー」

「や、だって―—」

「神威、あれだろ? ガキの頃、お袋さんに“神威が一番”って言われて育ったクチだろ?」

「そうだなー、それでよく姉ちゃんと喧嘩に―—なんで分かるの?」


 分からいでか、と男前な妹尾さんにまた一喝された。

 身体、くの字に折り曲げてお腹抱えて笑い過ぎなんですけど、礼ちゃん。


「私、そんなに、出てないかな? こう、ラブラブなオーラ?」


 ひとしきり笑った後、顔中に笑みを浮かべたまま、礼ちゃんは俺に問う。


「や、出て……え、出してたの?」

「女子力、足りないのかなぁ」

「それはじゅぅぅぅぶんっ! 感じられます! ありすぎです! 可愛いです!」

「バカップル、話 逸れてんだけど」


 あ、ごめんね? と妹尾さんへ向き直ると礼ちゃんは、調べたんだけどね、と表情を真摯なものへと戻し、話し始めた。


 面会、といっても簡単に叶う訳ではない。刑が決まり入所したての右京くんへ面会が可能なのは、ごく近しい親族に限られる。今後、右京くんの素行が良ければ、ある程度の期間経過後、緩和される場合があるかもしれないけれど、それも規準が定かではない。私達はどちらか、と問われれば被害者側だし、よしんば面会が許されたとしても、一日の面会人数と時間には制限がある。


「手紙は、月に四回まで許可されるみたい。内容はたぶん、検閲されるんじゃないかと」

「本当に、閉ざされた世界、なんだね」


 お人好しバカップル、と妹尾さんの呟きが大きな溜め息と共に漏れた。


「アイツの自業自得。あんた達がそんな神妙な顔してる意味が分からないわよ、本当に。で、会って…、会えないかもだけど。どうしたいの? あんた」

「……信じてみます、って。伝えたいの」


 あぁ、そういうことか。

 俺は何となく、本当に何となくなんだけど礼ちゃんが言わんとしている方向性が見えて、さっきまで抱えていたはずの苛立ちは、あっけなくほどけていった。


「会えなかったら、どうするの? 手紙でも渡してもらう?」

「うん。そのつもり」

「……そっか。行きたいんだね、じゃあ土曜日、一緒に行こうか」


 ごめん! ちょっと! 勢い良く挙手したのは武瑠。

 ね、確認して良い? と視線を礼ちゃんへ合わせて問いかける。


「ごめんね? 自己完結が間違ってるとイヤだからさ」

「ううん。私の説明が足りなかったよね」


 そうじゃない御子柴、と心も口を添える。心の力強い視線は礼ちゃんだけでなく俺へも向けられた。


「……赦せるのか? 赦す、ってことか?」


 武瑠の瞳も妹尾さんのそれも同じように訝しく俺と礼ちゃんを交互に見つめているから、それぞれの胸中で蠢く疑問は等しいのだと察せられた。俺はとっても嬉しいことに礼ちゃんと目で会話する。言いたいことはほぼイコールなはず。どうぞ、と礼ちゃんへ笑顔を向け、独壇場を譲った。


「赦せないわ。右京くんがしたことは正しくないし間違ってる。たぶん一生赦せない。私は神威くんのおでこや頬をじーっと見るたびに、そう思う……、だけど」


 そう言い置いて、一旦息を継ぐ礼ちゃん。窓外にさんざめく明るい声も陽射しも、教室内の喧騒も生活音も、それら全てから俺達だけ切り抜かれて聴こえてくるのは礼ちゃんの声だけ。


「右京くんは、はじめからからあんな右京くんだった訳じゃない。私はそれを、知ってる。ちょっと……、気の毒な面もあるから。謝りたい、って言葉を嘘だと決めつけることは、私には出来ないの」




 ――結局。



 昼休みに話せたのはそこまで。

 今は放課後。俺は進路の打ち合わせに行った礼ちゃんを5組で待っているところで、隣の席には心。机を挟んで向かいの椅子には武瑠。


“神保先生のところへ行かなくちゃ”と。

 SHRが終わり、我がクラスの後方出入口へヒョイと顔を覗かせた礼ちゃんの愛くるしさったら、もう零号機に乗ってらっしゃるレイちゃん以上の破壊力ですよ。

 そんな礼ちゃんの前に、あのね、と立ち塞がったのは武瑠だった。昼休み以降、武瑠の表情からは笑みが消え、何かをずっと考えこんでいた。それが何なのか、よほど礼ちゃんが右京のところへ行きたいと決めたそれが気に入らなかったのか、俺にも心にも見当がつかなかったんだけど、礼ちゃんと二言三言、喋った後にはどことなくスッキリした様子だった。


 武瑠は、俺や心に比べると断然とっつき易い。サッカー部の後輩からも慕われているし、よく相談事なんか持ちかけられているし。ただしそれは、ニコニコの時だけ、野田が“一番怖い”と称したのも頷ける。ニコニコじゃない武瑠が纏う空気は、重くて厚い。さっきまで、まさにそうだった。


「……神威」

「……何?」

「ミコちゃん、て不思議だな。弱いんだか強いんだか、わっかんね」


 言外に何か含まれているのかと勘繰りそうになったけれど、武瑠は心底そう感じている様子。俺は、そうだね、と相槌を打つ。


「さっきさ、訊いたんだ。“罪を憎んで人を憎まず”なのか? って」

「うん」

「ミコちゃん、笑ってさ。“孔子様ほど悟れてないけど、そんな感じ”って」

「……悟り開かれても嫌だな」


 やらしーな、神威。

 武瑠は俺の健全な青少年妄想を見抜いたかのように、明るく茶化す。そこから続いていく言葉も、明るく誤魔化していきたいと暗示しているかのように。


「……神威と心と。小5で同じクラスになるちょっと前までオレ、二宮 武瑠だった」


 初めて耳にする武瑠の姓は、聞き慣れないせいか、ひどく違和感があった。

 にのみや たける。

 何か、が武瑠の家庭に起きなければ、それは今も武瑠の当たり前だった訳で、そうであれば“やゆよトリオ”なんてあり得なかったな、と俺はちょっと思考を逸らそうとした。武瑠の瞳に浮かんだあまりに切ない色が深くて悲しくて、チラリと心へ視線を流せば、変わらず頬杖をついたまま、眉間に皺を寄せている。


「オヤジは浮気して、浮気が本気になって、母ちゃんはブチ切れて、離婚した。小4だったけど、大体のことは分かった」


 修羅場、ってやつを。礼ちゃんも何度となく経験したらしいそれを、武瑠も味わってたのか。そんなこと、おくびにも出さず。


「……オレにサッカー教えてくれたのはオヤジだったし、クラブの練習なんかにも、結構つき合ってくれてたしね。好きだった、かな。でも母ちゃんに洗脳されてさ」

「洗脳?」

「そう。悪いオヤジだ、こうなったのは全部オヤジのせいだ、って。ばーちゃんは悲しそうにしてたけど…、あ、ばーちゃんはオヤジの母親だからさ。でも、ばーちゃんと母ちゃんと綱渡りみたく何とか仲良く暮らしていくためには、そう思いこむしかなかった。小学生の考えることなんて……、」

「武瑠……」


 武瑠は通学バッグに必要最低限の教科書を放り入れると、左腕の時計を気にした。そろそろ部活に行く時間。


「オレね、オヤジに逢いに行ったことあって。高校合格した時だったか。住所は知ってたから、日曜にこっそり」

「……逢えたの? 逢えなかった?」

「んー、見た、だけ。遠くから」


 閑静な住宅街の一画に位置する中古の一軒家は、小さな庭に彩りよく植えられた多くの花が家人の温かな暮らしぶりを如実に映し出していて、それを目にしただけで、武瑠はもう、逢わずに帰ろうと思ってしまったらしい。

 武瑠が過ごした二宮家には無かったもの。それがこの二宮家にはあるんだな、とそうボンヤリしていたら、見覚えのある男の人と、よく似た小さな男の子が家から出てきて、年季の入ったサッカーボールでパスの練習をし始めた。植えてある綺麗な花を気にしながら。


「……オレのボール、だった。いやまぁ、オヤジが買ってくれたんだけど何を思って持ってたんだか。武瑠、ってたぶん名前書いてあったはずなのに、使わせてる奥さんも人が好すぎやしないか、って」

「なんで」

「どうして」


 俺と心が放った疑問符はほぼ同時。俺は自然と心と視線を合わせた。今度はどうぞ、と譲られる。昼間、譲ってただろ、と俯き加減でサラリと言ってのける心が格好良くて憎らしい。


「俺達も一緒に連れてってくれれば良かったのに。行きも帰りも一人、って、思ったことも感じたことも一人で抱え込んでそんなの寂しすぎる……、今だって、武瑠はこんなに巻き込まれてくれてんのに」

「それは、神威。オレが勝手に――」

「俺だって、巻き込まれたかったよ」


 心の背後でコトリと微かな音がした。立っていたのは、綺麗な笑みを浮かべた礼ちゃん。


「……ごめんなさい、お邪魔して。私も、巻き込まれたいので。良いでしょうか、ここ?」


 ここ、と言いながら礼ちゃんは、武瑠と向かい合わせに椅子を引き寄せ、ゆっくりと座った。ちょっと目を瞠っている武瑠から視線を逸らさずに。


「……吉居くんは、私よりずっと強いわ」

「え、な、何の―—」

「お父さんのこと、もうとっくに赦しちゃってるし憎んでもいない。自分の境遇を恨むでも苛むでもなく、受け止めて受け入れて、悟り開き中の私よりずっと強い」

「礼ちゃん、褒めすぎ」


 ちょっと膨れた俺の顔を目にし、礼ちゃんと心が噴き出した。

 だって、ねぇ? 武瑠の顔がみるみる輝いていくんですよ。嬉しいんだけど、嬉しいんだけど、沸き上がるヤキモチが抑えられないと言いますか。


「ありがとー、ミコちゃん……オレ、部活行かなきゃ」

「うん、頑張ってね」

「はー、それ今度の試合の前にもいただけますか?」


 却下! と即答した俺へ武瑠はじと目を送ってくる。声は出ずとも口は見事に動いてんな。ケ チ、だと?! 礼ちゃんが減ったらどうすんだ!


「試合って、いつ?」

「今度の日曜。だからオレ、土曜日はつき合えないよ。ごめんね?」

「あ、良いのよ? そんな。気にしないで。試合、応援に行くね」

「御子柴、俺も土曜日は子守りで」

「や、弓削くんも気にしないで?」

「……そう言えば」


 礼ちゃん、神保先生と進路の打ち合わせをしてたんじゃなかったっけ? どこまでこみ入った話か分からないけど、それにしても早く終わったような。


「もう帰れるの? 進路の話は?」

「あ、うん。すぐ終わっちゃったから」

「……えーっと」


 俺、まだ礼ちゃんと進路の話 してなかった。いや、かなり前に一緒の大学が良い、とは伝えてたはずだけど、トモくんのお世話があるから地元から離れられないだろうと思っていたし。ただ、あの頃と今とでは、礼ちゃんのお母さんの存在も考えると、俺達を取り巻く環境は幾分違っている。


「5組の山田くんと同じ大学に行きます、って言って、すぐ終わっちゃったの」

「……あれまあ」


 俺の間抜けな、でも驚きの感嘆を耳にすると、礼ちゃんはまた、ぶ、と噴き出した。次いで、ちょうど良かった、と慌てて追加する。


「葛西先生からこっそり聞いたんだけど、弓削くんも吉居くんも、神威くんと同じ大学にしてるんでしょう? 第一志望」

「ああ」

「うん、そうだよ?」

「私も、良いかな」


 もちろん、は綺麗にハモり、武瑠と心は互いに顔を見合わせると、少々気味悪そうに苦笑していた。


「……ね、ちょっと、待って、武瑠も心も礼ちゃんも。良いの? 何か……、何基準? その、サッカーの推薦とか東大とかトモくんのこととか。そんなあっさり……、」


 えー、今更、と武瑠の笑い声。いやいや、笑いごとじゃなくて。


「推薦の話なんてそうそう無いよ? せっかくの実力なのに。心だって、東大行けるのに」


 礼ちゃん、についてを、俺は言及出来なかった。本当に本当に、一緒のとこへ行きたいと思っててそれはもう完全に俺のエゴなんだけど。礼ちゃんと物理的に離れてしまったら、俺は人間らしい生活を送ることすら放棄しそうな、だらしないヘタレだとよくよく自認したから。いや、だからって武瑠と心とは離れて平気、って訳じゃないけれど。


「えー、オレ達とは離れても平気、みたいな発言」

「ち、違っ――」


 武瑠、それは意地が悪い。

 心の穏やかな声が武瑠を戒めた。武瑠は腕を交互に頭の上で肘から曲げ、背筋を伸ばしながら、ごめん、と屈託なく笑った。


「あのねぇ、神威。スポーツってさ、努力だけでどうにかなる伸びしろって、限界あると思わない?」


 オレはね、と武瑠は軽やかに続ける。あぁ、もしかして二人共、俺が礼ちゃん捜しに我を失っている間、何度となくこんな話を重ねてたんだろうか。


「本当に本当に練習っていう努力だけでここまでやってきた。それがオレの実力。スポーツ推薦で大学行ってまた努力したって未来は知れてる。この先、通用したり開花したりする絶対的な天賦の才、ってのがオレには無いんだ」


 いや、センスって言うかな。

 言い終えた武瑠はちょっとだけ反省の弁を漏らし、センスだったらよほど神威の方がある、と笑いながら追加した。


「……そういうの、自分で決めるもの? 自分の限界なんて、きっと自分だけじゃ分からないよ」

「んー、いや分かるよ。感じてきたんだ。世の中には恐ろしいことに、努力を重ねる天才がいっぱいいるし。思い通りに身体が動かせて、なおかつあとプラス0.1ミリ、とかが要所要所でオレには、無い」


 それよりも。

 武瑠は部活道具一式が入ったバッグを肩からかけると、椅子からゆるゆる立ち上がり俺と礼ちゃんへ上から声を落とす。


「この先、神威達と一緒にいて、何かを持ってる自分を見つけたいワケ。別にミコちゃんみたく神威に未来預ける訳じゃねーんだからお気兼ねなく!」


 そう歌う様に明るく言い残すと、じゃあねー、と大股で出入口まで歩を進めていく武瑠。出入口の開いたドアから顔を覗かせているのは、サッカー部の後輩達。とっくに部活は始まってるのに、なかなか現れない武瑠を捜しに来たのだろう、俺も慌てて武瑠の背中を追った。


「ごめん、三人共! 武瑠、引き留めてたのは俺だから! 武瑠は悪くないから」


 あ、神威先輩!

 武瑠に続く俺の姿まで認めるとそれぞれが似たような角度で頭を下げてきた。と思ったら、その視線は俺や武瑠を越えていく?


「神威先輩、ミコちゃん先輩復活、っすねー」


 ……あー、そういうこと。


「やっぱ、ピカイチ! 超可愛い! 応援に来てくんないかなー、存在だけで頑張れる!」

「あー、応援ね? 来てくれるよ、日曜日。だからお前ら頑張ってくださーい」

「え、武瑠先輩、マジっすか!」


 武瑠は目を細めた俺の憮然とした表情をチラリと盗み見、笑いをかみ殺しながら、コレ、と親指を向けた。

 コレ、って、武瑠くん。人を指差しちゃいけない、って習わなかった?


「超ヤキモチ妬き彼氏がもれなく付いてくるけどなー」

「あー、神威先輩、マジ要らんです」

「っ、なんだと?! テメ!」

「絵的には美しいっす!」

「見世物じゃ―—」

「てかヤキモチとかそんなキャラ設定でしたー?」

「ほらほら、行くよー」


 武瑠に追い立てられる様にして、仲良くじゃれ合う微笑ましい光景が俺の目の前から遠ざかっていく。俺は武瑠の背中へ、ありがとう、と声を投げた。


 うん。左手グーにしたまま真っ直ぐ高く突き上げて、あの漫画のあのポーズでしょ。ちょっと使い方、間違ってるよね。


 さて、と振り向いた途端、もう良いだろ? と心の声が飛んできた。もう良いだろ? って良くないから、気になるから、心の本音が聴きたいんじゃないか。

 いや、と言いつつ俺が安心したいだけ、じゃないか。俺きっかけで選んで決めた武瑠や心の未来に、俺は何も責任を持てないから。


 未来のいつか、こんなはずじゃなかった、なんて。二人共、きっと口に出したりしない。それが分かっているだけに。


「あのな、神威。東大だけが大学じゃない。肝心なのはどう学ぶか、何を得ようとがむしゃらになるか、でそれは別に東大じゃなくても良い」


 俺はまた自席に腰を下ろしながら、訥々と語る心の端整な横顔を眺めていた。バッグを手にしたまま俯き加減の礼ちゃんも、耳だけは心に傾いている。


「……東大を出たって、順風満帆な人生の勝ち組になれるとは限らない。うちの親父を見ていると切実にそう思う。学ぶべきはここにないともしも明白になったら、また入り直せば良い。俺達は、何度でも生まれ変われるはずなんだから」

「……心」

「俺だって未来まで神威に預ける訳じゃない。ただ今は、皆一緒にいられるのならその道を、と思うだけ……、妹尾は、致し方ないか」


 心の最後の言葉に礼ちゃんはコクコクと頷いた。妹尾さん、の進路は。


「万葉ね、アメリカの大学へ行くんだって。MBA取ってお父さんを手伝います、って神保先生に言ってた」

「……アメリカ……。日本じゃ――」


 日本でも取得できる資格だろうと思う。でも、それじゃきっと意味がないんだ。妹尾さんが目指したい場所にそれでは足りないんだ。妹尾さんには分かってる、礼ちゃんにも分かってる。

 礼ちゃんが見つかるまで、進路は決めないと言い張っていたらしい妹尾さん。でもそれは口にしないと誓っていただけで、彼女は尊敬するお父さんの後をきちんと継ぐために、何が必要で自分はどうすべきで、どうあるべきかを物凄く整然と考えている。


 大好きな友達と離れても。その強さが眩しいと思った。未来の自分に大丈夫だと思える強さが。

 俺なんて、礼ちゃんを好きになればなるほど、脆くて弱い自分を露呈してばかりじゃないか。守って、傷なんか少しもつかないように。いつも礼ちゃんが笑っていられるように。そんな純粋で綺麗な予感が、恋のはじまりには描かれていたはずなのに何だか不甲斐ない。


「……万葉がね。山田がいるから大丈夫だよね? って。でも女子トイレにまで付いては来られないから」

「……うん」


 礼ちゃんはバッグを膝に抱え込み、組んだ掌の小さな指を伸ばしたり握ったりしている。その何気ない動きから、目が離せないでいると、ふふ、と心地好い笑い声がまた意識を拐っていく。


「あんた一人でも、しゃんとしなさいよ、って、山田ばっかり犠牲になるのはフェアじゃない……と、怒られました。ごめんね? 神威くん」


 昇降口の人影はまばらで、グラウンドから聞こえる張りのある大きなかけ声が、澄んだ蒼から紫がかったオレンジへ変わりかけの空へ突き抜けていく。スニーカーを履き終えた心や礼ちゃんと共に向かう正門までの道すがら、俺はそう言えば、と切り出した。


「武瑠に、何て言ったの?」

「ん?」

「罪を憎んで人を憎まず、の他に」


 んん、と礼ちゃんは言い淀む。スルーか打ち明けるか、しばしの逡巡の後、結局は無言の圧力の前に口を割った。

 ごめんね? だって気になってさ。心だって、気になってるはず。


「……吉居くんは、ね。綺麗ごとじゃない? って。オレは浮気が本気になって家族を捨てたオヤジを憎んでる。少なくとも自分をそう思いこませて生きてきたから、事の背景にまで想いを寄せて憎まずに努めようとするミコちゃん達は、やっぱり人が好すぎて嫌になる、って」

「……そう」

「でもね、私は。オレは弱いから、って自嘲する吉居くんは本当に強い人だと思って」


 それならどうして。

 憎しみが生きる糧だったのならどうして、吉居くんはいつもニコニコなの? そのニコニコがどれだけ周りの人を幸せにしてるか気づいてないでしょ? とぼけたフリして誰よりも聡い吉居くんが、ニコニコの後ろに何も隠してない訳なくて。そんな人が弱い訳ない。


「……とか何とか、偉そうに。物申しました……、すみません」

「謝るとこないじゃん、ね? 心」

「ああ。俺達、知らなかったんだ武瑠の親父さんのこと……、きっとあいつ、ずっと無理して―—」


 そう。武瑠はきっと、ずっと無理して、親父さんを憎もうとしてた。お母さんの気持ちを汲んで、だけどおばあちゃんには申し訳なく。

 誰がどれだけ我慢してきたのか。吉居家を住み心地好く、何か良いことが待っている場所へと変えるために、ニコニコの魔法を使って。


 憎むことないんだ、って。親父さんがしたことの是非も、誰が本当に悪いのかも、お人好しの新しい家族も、まるごと。好きでいりゃ良いんじゃん、って思えたかな、武瑠。

 礼ちゃんが右京へ対して貫こうとしている姿勢。何となく伝わったかな。


 メンバーへ指示を出しながらグラウンドを踊る様に飛び跳ねる武瑠が、いつもより3割増くらい眩しく見えるのは夕陽のせいだけじゃない。

 妹尾さんも。心は言わずもがな。俺の隣で優美な日本語を華麗に紡ぎ出す礼ちゃんも。


 みんな一様に眩しくて、俺の男子力だけが未だ向上出来てない気がして。礼ちゃんの頭の上で小さく漏らす溜め息ひとつ。


「神威くん?」

「何?」

「明日からは一人で登校出来るから。お迎えは、大丈夫だからね?」

「えー、バカップルなのに」

「いろいろ、無理しなくて良いから」

「無理じゃないし。ナチュラルだし」


 俺達の押し問答は、夕陽が影を伸ばすほどに続いていく。呆れ顔の心の口元には終始、笑みが浮かんでいた。




 ***




 ――土曜日。



 梅雨真っ只中に相応しく、注意報は解除されることなく前日からの雨がしとしとと続いている。礼ちゃんとの待ち合わせ場所に指定したのは、歩きでそれぞれの自宅からちょうど等距離に位置するJRの駅。俺は傘を畳み水滴をゆるりと払うと、構内入口付近の大きな柱へもたれかかった。ここなら駅へ向かって歩いてくる人全体が見渡せる。


 今日の目的地が、まぁ、アレだけに。心浮き立つとまではいかずとも、それでもデートっぽい、っちゃあデートっぽい。


 昨夜の電話で、待ち合わせ時間には遅れずに行く、と言っていた礼ちゃん。A型だから、とキッパリ追加された言葉が何やら意味不明で可愛かった。いや、俺、O型だけど遅れないからね? だって、ほらやっぱりちょっとやってみたいじゃん。あれ。


『ごめんね、待った?』

『いや。今 来たとこ』


 ……ってやつ。


 分かってるよ、痛い自分! たとえ20分30分待っていようと! そんな素振りはサラサラ見せず! まぁ、姉ちゃんから待たされ慣れてるからね、俺! あー、礼ちゃん、どんなカッコで現れるかな。


「あのー」

「……は?」


 お一人ですか? にキャーだかワーだかの効果音を被せた下方からの複数の声は、顔の主を確かめるまでもなく明らかに礼ちゃんじゃない。

 う、わー。何ですかね。俺は今日、生まれて初めてのデートもどき体験をする、っつーのに。逆ナン、ってやつですかね、これは。こんな中途半端な地方都市でもありますか、実際。こんな苦手な、ハードル高いオプションは要らないんだけど!


 こんな場面、礼ちゃんが目にしたら不快さだけしか残らない、きっと。バレンタインの時どころじゃないだろ。俺だって礼ちゃんのこんな場面 目にしたら、ナンパ男への怒りでブチ切れるだろうし。


「……一人じゃないです。待ち合わせしてるんで」


 低く、およそ感情のこもらない声で俺は最大限丁寧に拒絶の意を表した。大丈夫か? こんな断り方で。突然、泣き出したりしないよな? 本当に、それだけは勘弁して。もしかすると、ひょっとすると、ものすごーく勇気を振り絞ってかけてくれた誘いの声かもしれないけれど、どうぞ他の、ボランティア活動とかに向けてください、それ。


 大抵、三人でつるんでるから、そうそう声をかけられる、なんてことないんだ。修学旅行先でケバい女の人達に拉致られそうになったけど、あの時は心や武瑠が上手にかわしてくれたし。そう、ヘタレの俺はこんな場面での深意の伝え方講座へ通っておくべきだった。


「あ、でもまだなんでしょ? あそこのカフェでお茶しませんか?」


 もう、何なんだ。俺、相当な仏頂面だと思うんだけど。あそこ、と指差された駅前のコーヒーショップへチラリと視線を送り、俺は小さく溜め息を吐いた。読んでくれ、空気。察してくれ、この黒いオーラ。


 詰め寄られた距離が息苦しくて、俺はもたれかかっていた背を柱から離し姿勢を正した。目の前に広がる景色がほんの少し変わった瞬間、視界の隅に不愉快極まりない光景が飛び込んできた。



 ――え。誰だ、アイツ。


 待て待て待て! ちょい待て! 礼ちゃんに、気安く声かけてんじゃねーぞ! チクショ、背高いな! 何なんだ今日って日は本当に! こんな一度に押し寄せてくんなよ! 越えられるもんも越えられなくなんじゃん!


「……っ、礼ちゃんっ!!」


 俺が立っていた場所よりも、やや後方に位置する柱の影に隠れて見えなかった礼ちゃんの姿。いやいや! その礼ちゃんを見えなくしてるのは、どこのどいつだバカヤロウ! 立ち塞がってんじゃねーよ!


「礼ちゃん!」


 え、だか、あ、だか。礼ちゃんの言葉も表情もきちんと確かめる余裕なんてこれっぽっちも無く、ズンズン近寄った勢いそのままに礼ちゃんの細い腕を引き寄せ、俺の後ろへ。俺は目一杯の眼力でもって、バカヤロウを真正面から睨みつけた。


「! っ、うわあああ……、すみません、先生」

「いや、本当に。俺、なんでそんなに睨まれてんの? 貴重な休日を可愛い生徒のために捧げてるってーのに」

「いやもう! 心の底から誠に申し訳ございませんでした! てっきりナンパかと……、」


 いや、それ、お前でしょ。

 葛西先生のいともあっさりなご指摘は、ね? と礼ちゃんへの同意を伴って放たれた。

 あぁ、見てたの? 見られてたの? 俺。

 何だか胸がチクリと痛い。いや、痛む必要ないのかもしれないけれど後ろ暗いことなんて何も無いんだから。でも嫌な気分にはさせちゃったはず。俺は恐る恐る背中を振り返った。


「……神威くん?」

「……何ですか」

「……お断り、してきて?」


 もちろん、と言うより速く俺は礼ちゃんの右手を取り、元来た数歩の距離をまたズンズン戻る。

 情けない、俺。礼ちゃんに、笑顔が最高に可愛い礼ちゃんに、こんな複雑な表情をさせるなんて。泣きたいんだか、腹立たしいんだか、心中穏やかでないのは明らか。ごめんね、ごめんね、礼ちゃん。俺はただただ心の中で詫びながら、立ち竦んでいた三人組へ言葉をかけた。


「彼女、と待ち合わせしてたんです。だから…、あぁ、いや、語弊があるか。彼女以外とは、お茶とか、しませんから。すみません」


 えー、彼女いたんだ。なんだぁ。ち、行こ。

 それぞれが思いのままに期待が外れた落胆を口にし、揃って礼ちゃんへ何やら意味深な視線を投げかけて去って行く。

 舌打ちしたぞ、誰か。怖いな。


「……あぁ、目で喧嘩売られたわ」


 見ると礼ちゃんは眉で不思議な山を作り、目を細め、口を一文字に結んでいる。


「“こんなダッサいチビがこんなイケメンの彼女?” みたいな」

「……ごめんね、礼ちゃん。嫌な気分にさせて」


 今日はデートもどき、なのに、と心の中でつけ足した。


「どうして神威くんが謝るの? なかなか貴重な体験でしたよ」

「……今日も、可愛い。礼ちゃん」


 ポツリと漏らした本音に、礼ちゃんの表情筋はみるみる緩み、ほにゃあぁ、って感じの笑顔が顔中に広がる。ヤバい。か、可愛い。


「ありがとう」


 お手、みたいに広げられた礼ちゃんの掌につられて俺のも広げると、何やらカサリと握らされた。俺の手を包み込んでいた礼ちゃんの小さな手はすぐに離れてしまってそれが、ひどく、残念。まぁ、仕方ないか。葛西先生いらっしゃるし。


「……アメちゃん?」


 指を開いた中から現れたのはイチゴのイラストが描かれた三角の小さな包み。

 いや、甘いもの好きだけどね? イライラには糖分摂取ってこと? 褒めてくれたお礼って意味? 口の中に含めば、ほんのり行き渡る懐かしい甘さにささくれた気持ちが凪いでいく。

 行こうか、と車のキーをチャラチャラ鳴らしながら駅構内へ進む葛西先生と、その後をついて歩き始めた礼ちゃんの姿を、俺は慌てて追いかけた。


「え、礼ちゃん、どっちから来たの?」

「うちからだと南口が近いから。あ、葛西先生も南口の駐車場に車停めてたよ。二人で駅構内を通って来たの」

「……あああ、そっかぁ。しくったな」


 まだまだ思考が独りよがりだな。てっきり駅正面の北口に向かって歩いてくるかと思ってたのに。


「ありがとう」

「ん? 何?」

「待っててくれたんでしょう? 20分も前から」

「え? あ、いや……、いやいや! ちょっと待って! なんで知ってるの? 20分も、って? 礼ちゃん、一体いつ来たの?」


 しまった墓穴掘った、ってまさしくそんな表情をチラリと見せたのに、短い髪がサラリと揺れた風だけ残し、昨日の夜から泊まり込み、と優しい嘘をつく礼ちゃん。


「遅れたくなかったの、初めての待ち合わせに。あ、先生の車に寝袋積んでもらってて」

「もー、……」


 駅構内を縦断し終えた俺達は南口脇にある駐車場へ向かい、葛西先生のハイブリッドカーを探し当てる。

 想われてんなー、神威。

 後部座席へ乗り込む俺へ、運転席から茶化すような声が飛んできた。


「御子柴、30分前には来てたぞ。俺はコーヒー飲もうと思ってあえて早目に来たけど。一人であんなとこつっ立ってたらナンパして下さい、って言ってるようなもんだから」

「え、そうなんですか? 私、そんなつもりは」

「あぁ、分かってるよ、御子柴にそんなつもりは無いってこと。男側に都合の良い解釈をするもんなのよ、ナンパの場合」


 経験談ですか? と意地悪く問うと、超速で低い声に、降りるか? とやり込められた。すみません。


 俺達はこれから、右京が日々を送っている場所へと向かう。

 恐らく妹尾さん経由で情報を得たんだと思うんだけど、葛西先生は昨日、明日は俺が連れて行く、と突然申し出てくれた。


「ああいう…、公的な機関は土日祝日、休みだよ。面会出来ないと思うけど」

「あ、はい。それは礼ちゃんも分かってると思います」


 なら何故?

 優しく重ねて問われれば、変に隠しごとなんて出来ないと思わされる。

 礼ちゃんはたぶん、右京がどんな場所でこれからの生を全うしようとしているのか、気になっているのだと思う。どんなに否定したところで、事の発端は僅かなりとも自分に原因があると思っている礼ちゃんだから。

 こんな現状は避けられて、俺も傷つかずに、もちろん右京が閉ざされた世界へ投じられることもなく、毎日は変わらず続いていく。そんなリアルがあったのかもしれない、と。


「何と言うか…うん、後悔してるなりに、行動して何らかけじめをつけようとしてる、んですきっと。土曜でも、差し入れは出来るみたいだから」

「それにつき合うの? 神威」


 お人好しだね、と言外に含められた呆れた匂いを嗅ぎとることが出来る。まぁ、そうなのかもしれないな。


「アイツ…右京…、礼ちゃんへ手紙を送ってて。謝りたいです、って書いてあったそうです。礼ちゃんはそれを、信じてみたい、って。俺はそれを、まんま受け止めようかな、と」


 お馴染みの進路指導室。

 俺はそこまで話し終えると、葛西先生が机にトン、と差し出してくれた紙パック飲料へと手を伸ばす。お礼を伝えてから細いストローを口に含むと、乳酸菌が15%増量されたそれの優しい甘さが喉を潤して、自然と口元が緩んだ。


「俺、礼ちゃん好きすぎておかしいのかもしれませんけど」


 そう前置きすると、葛西先生は存外大きく口を開けて笑った。自覚してんだな、神威、と。あぁ、失礼です、先生。


「……右京は、はじめからあんな右京だった訳じゃない、って、礼ちゃんは言って。あー、そこは分かるな、って思うんですよね」


 机に片肘をついて、その先の掌に顎を乗せて少し斜めに椅子に座って長い脚を組んでいる先生は、そこに存在するだけで様になっている。ふーん、と柔らかく添えられた相槌も。


「同じ括りにしたらぶっ飛ばされそうだけど、家はお金持ち、親は権力者、ってカテゴリーだと、妹尾さんと右京はイコールだと思います……けど」


 実際はあんなにも二人は違う。力の使い方を間違っていない妹尾さんと、間違った力の使い方ばかり吸収した右京と。俺達は独りで産まれて独りで育ってきた訳ではなくて、でも用意された環境まで選ぶ余地はなくて。


「……憐れだな、って感じるのは、ひどく上からなのかもしれない」


 そんなことないよ、神威。

 静かに訂正される言葉は胸にじんわり響いてありがたい。


「島で。礼ちゃんのおばちゃん達が言ってたんですけど。子どもは人と共にあるべきだ、って。子どもの“供”って字は、確かにそう書きますよね。あー、なるほど、って。右京は、誰と共にあったのか、誰と共に育ってきたのか……そこは、アイツだけの責任じゃない」


 突然、先生の長い指が俺の髪の毛を掬ってぐしゃぐしゃと掻き乱した。ね、とひどく綺麗な笑顔で俺の顔を覗き込みながら。


「……こんな、悲しい事件からでもみんな、何かを拾ってくんだな。凄いよ、お前達」


 男女問わず、好きだと思う人からの言葉には魔法みたいな力が溢れていると思う。その瞬間に、だって俺は嬉しくて嬉しくてたまらなくなって、俺の髪の毛をとにかくぐしゃぐしゃにしていく先生の大きくて力強い手は、いろんなことひっくるめて、俺はこのまま進めば良い、と押してもらった太鼓判のようだった。

 俺が勝手に、ね。そう思っただけ。



 ハイブリッドの仕組みを葛西先生から丁寧に教わる楽しげな礼ちゃんを右隣に感じながら、俺は昨日の嬉しさを思い出し、自然と頬が緩む自分を認めた。

 葛西先生はこの一年とちょっと、俺のことを相当 褒め倒して上手に持ち上げて、相当 成長させてくれたなぁ、なんて。一教師としての境界線は、とうに越えてくれている範疇まで。右京の兄ちゃんだって、葛西先生と交わった時間はあったはずなのに、何も感じなかったのか、何も得られなかったのか。


 そりゃあ、昔の葛西先生より年齢を重ねたことで磨きあげられた今のスペックなのかもしれないけど、誰に対してだって真摯に向き合ってくれるこの人から、発せられた信号が何もなかったなんて信じがたくて、そこにやっぱり、憐れさを嗅ぎとってしまう。


 葛西先生みたいな大人は、真坂家では異端だった? 真っ直ぐな言葉に耳を貸す穏やかさすら持てなかった?


「……神威くん?」

「……あ。何?」

「具合、悪いの? 大丈夫? 何か飲む? お茶が良い? ジュースもあるけど。あ、朝御飯 食べてきた?」


 葛西先生お得意の、ぶくくくく、って笑いが運転席から聞こえてくる。俺をじいっと見つめてくる礼ちゃんは、たぶんその笑いの根拠に気づいていない。


「……礼ちゃん。俺ね、17歳」

「うん、知ってる。来月で18歳」

「トモくんじゃないからね? そんな心配してくれなくて大丈夫。朝御飯は…、食べ損ねたけど」


 そう言った途端、礼ちゃんのトートバッグからラップに包まれた小さなおにぎりと、個包装されたマフィンが出てきた。どっちか食べない? と。


「え、どっちも食べてい? てか、何入ってるの? その中」


 内緒ー、と笑いながら礼ちゃんは小さな水筒も取り出して、先生へドリンクホルダーをお借りしていいですか、と礼儀正しく断っている。神威くん、お茶もあるからね、と。何ですか、ネコ型ロボットの四次元ポケットみたいですよ。あ、ウェットティッシュも? ありがと、本当にいろいろ出てくるなぁ。


「御子柴、俺には無いの?」

「あります…けど。運転しながら食べられますか?」

「信号待ちの時に食べさせてよ。あーん、って」

「いやいやいや! オカシイでしょ! 信号待ってる時に自分で食べりゃあ良いでしょ!」


 おー鋭いツッコミ、とボサボサ頭を手ですきながら、葛西先生はまたくぐもった笑いを溢す。


「神威くん、ごめんね? 朝早くからつき合わせちゃって。先生も、お腹空きましたよね?」

「俺、朝メシなにかしら食う派だから大丈夫。でもそのお菓子みたいなの食わせて? 御子柴の手作り?」


 はい、と遠慮がちに答える礼ちゃんはちょっと頬を紅く染める。まずはウェットティッシュ、次いで個包装から取り出したマフィンを、信号待ちの葛西運転手へ背後から優しく手渡して……。


「神威、残念な顔になってる」


 ルームミラー越しに両の口角が綺麗に上がった先生と目が合った。気がした。


「……っ、俺! 18になったら免許取ろう!」

「卒業まで禁止だよ、校則で。何なのさ、急に?」

「だって、そういうの! 助手席の礼ちゃんからやってもらえるし! あーん、とかも! 先生ズルいです! 羨ましい!」


 ガキだねぇ、とマフィンを口に放り込みながら、先生はまた優しく笑った。


「……羨ましいの?これ」


 礼ちゃんはてんで理由が分からないといった風で俺に問うてくる。俺は勢いよく頷いた。憧れのひとつじゃない? 大好きな彼女にさ、隣でかいがいしくお世話焼かれるってさ。シチュエーションは運転中でも、海辺でも、遊園地でも、公園でもまぁ、結局俺は礼ちゃんとだったら、どこでも何だって良いんだけどね?


 なんて俺の暴走妄想はさておき。ふーん、と反応が極めて平淡ですね? 礼ちゃん。


「そうなんだ、よく分からないけど。大抵、トモとしか出かけたことないから」

「あ! だから? ちびっこ向け? だからこんなに準備万端?」

「……え? 違うの? 普通、お出かけっていろいろ準備万端じゃない? 万葉もそんなこと言ってたけど」


 うむ。今日のこれがデートと認識されるのには若干の異論がありますが。だって完全二人きりじゃ、ないしさ。あぁまた、ルームミラー越しにニンマリ顔の葛西先生と目が合った気がする。俺の思惑、お見通しですか。


「いや、俺だって何が普通か知らないし。妹尾さんは……、何て?」

「昨日ね、電話があって。明日は山田とお出かけだねぇ、デートと言ってもいいねぇ、いろいろな事態を想定して準備万端で臨むんだよ、って。でもお弁当はね、この湿度で悪くなっちゃうな、と思って持ってこなかったの。あと…タオル、ビニール袋とか、撥水スプレーとか」


 それ、携帯電話片手に妹尾さんがどんな表情してるか、目に浮かぶかも。もうちょっと、その…色気のある意味だったんだろうな、準備万端。礼ちゃんには伝わってなさそうだけど。いやまぁ、良いけど。


 俺はトートバッグの中身を真面目に確認している礼ちゃんが可愛くて、顔を俯けた拍子に頬にかかった髪の毛を掬って、小さな耳にかけた。

 礼ちゃんは頬につと触れた俺の指先に反応し目を瞠ると、普通じゃないのねこれ、とくぐもった低い声で呟いた。珍し。何だって、そんな声音?


「神威くんの目が、世間知らずの子どもの勘違いをどうやって慰めて正そうかという憐れみに満ちてるわ」

「うん。物凄く細かな状況設定だけど、まるで見当違いだからね?」

「じゃあ、何? その緩んだ顔」

「ゆる、…あのね。俺の彼女は可愛いなぁ、ってしみじみ感じてたのに」


 俺へと向けられていた顔は途端に真正面のヘッドレストへと直った。礼ちゃんの白い肌は見る間に紅くなっていく。トリコロールカラーのボーダーのカットソーに重ね着された柔らかな素材のシャツが真っ白で、それとの対比が何だか綺麗。


「……先生、窓開けて良いですか?」

「はは、暑いねぇ、御子柴。エアコン強めにしようか」


 先生の“暑いねぇ”が“熱いねぇ”に聞こえますよ。本当にいちいち絡んでくるんだから。


「や、だってさ、朝早くから、考えてくれてたんでしょ? 俺が朝メシ食ったか、食ってなかったら何か食べられる物を、とか、車内で食べやすいようにして、手も拭かなきゃ、雨ひどいから濡れるな、とかさ。今日のお出かけのお相手は、トモくんじゃなくて俺で、いろんな場面 想定して、準備万端整えて、30分も前から待っててくれたんでしょ?」

「俺もね? 入れてね、神威」

「も、先生…、スッゴい良いとこなのに」


 ふざけんな、神威。

 笑いを含んだ葛西先生の声が前方から飛んでくる。こんな狭い空間で二人だけのインナーワールドにトリップすんじゃないよ、と。


「……大人げない」

「神威に言われたくないね、このガキ。たまに恥じらえ」

「ガ……う、まぁそうですけど。恥じらってる時間は勿体ないです。恥じらいません!」

「何だ、妙にキッパリと。じゃあ、御子柴に謝れ」


 じゃあって何ですか。意味が分かりません。

 そう返そうとした俺よりも先に、先生、と制止する様な礼ちゃんの声と困り顔が俺の聴覚と視覚を刺激する。

 何? 本当に。二人で何を共有してるの?


「いくら御子柴がいろんな場面を想定してたとしても、自分の彼氏がナンパされる姿なんざ範囲外だよね。何やってんだか、神威。隙 ありすぎでしょ」


 忘れてた訳じゃない。謝ったからオシマイってもんでもない。いや、でも正直な気持ちとしては、無かったことにしてほしかった。狡い考え、それじゃ駄目なんですね、先生。


「良いのよ、神威くん。先生も……、約束が違います」


 礼ちゃんは俺に柔らかい笑顔を見せると、次いで先生の後頭部に向かって鋭い視線を送った。


「神威くんは、学校で会えるアイドル、みたいな存在なので。大丈夫ですよ、今朝みたいなことも想定の範囲内、です」

「……礼ちゃん。何か…、俺、何か、いろいろ言いたい」


 俺の表情があまりに情けなかったからなのか、礼ちゃんはすぐに俺の瞳いっぱいに礼ちゃんしか映らないくらいの距離へ急接近してきた。シートベルトにゆるりと拘束されている身体がジリ、と反応する。にっこり微笑まれれば、それだけでもう脱力しそう。


「うん。何を言いたいの?」

「……嫌になってく? 俺のこと」

「また不安になる? まだ、不安になる?」


 礼ちゃんの黒々とした瞳は子どもみたいに澄んでいて、白眼は本当に白くて、当たり前なんだけど、綺麗なそこに映ってる自分を見つけると安心できた。いろいろ、嘘は無いんだな、って。


「安心して良いのに、神威くんは。絶対、嫌いにならないから」


 慢心しちゃ駄目だからね、と。

 運転席からフロントガラスへ放たれた言葉は跳ね返って俺へと突き刺さる。分かってます、本当に。


「ごめんね、礼ちゃん。本当に俺、あんな場面、二度と見せないから……、だから」

「? ……だから?」

「お嫁さんになって? 早目に」

「…………」

「ね?」

「…………ね? ってそんな可愛く言われても。脈絡が、まったく、分からないわ」


 ぶくくくく、って。

 葛西先生の笑い声が車内に響き渡ってる。

 笑いすぎです、先生。短絡的、ってハンドル叩きながら目尻の涙 拭うのやめてもらえますか。


「分かりやすいじゃん、御子柴。結婚して朝から晩まで一緒にイチャコラしてたら他のヤツが声をかける隙もないよ、っつー極めて単純、良く言えば純粋、悪く言えば」

「ガキ、ですね! 分かってますよ!」


 先生の言葉を引き継いだ俺は身体を深くシートへ沈める。あぁ、そういう…と納得した礼ちゃんの顔はいつの間にか窓外を向いていた。何? 見られたくないの? 先生の車、後部座席の窓は遮光のフィルム貼ってあるから意外と映ってるんだよ? その、可愛いニコニコ顔。

 心の中までは見せられないから、と静かに切り出された礼ちゃんの言葉を合図の様に、先生の笑い声はピタリと止んだ。


「神威くんは、不安になるのよね。言葉だけじゃ、足りないから。見てもらえたら、良いのに」


「……うん。でもそれは、礼ちゃんも同じでしょ?」

「私は、ね……」


 礼ちゃんの声が止んで突然の静寂が訪れた。葛西先生が運転する車はいつの間にか高速道路を下りて市街地へと通じる国道を通っているらしい。そんな喧騒も、流れるメロディも、何もかも瞬間消えて、礼ちゃんの次の言葉を待っている。


「……みんなと一度、離れて。神威くんとも。毎日、泣くことしか出来ないくらい寂しかったから。もう一度逢えたなら、もう二度と離れたくない。本当にそう思ったの。みんなの優しい言葉を信じられなくて、逃げて、後悔したから。誰も心の中までは見えないけれど、その人の言葉を嘘とする根拠もないなら。信じる、って決めたから」

「礼ちゃん……」


 ふっくらとした形の良い唇から紡ぎ出される日本語は相変わらず綺麗で、でも包括的すぎて。ピンポイントで確認したかった俺は、礼ちゃんの左手にそっと右手を重ねて、ずっと窓の外を向いていた礼ちゃんの視線を取り戻した。


「俺、まだまだ足りないけど。礼ちゃんのこと、不安にさせない。嫌な気持ちにもさせない……ように、努力するから」

「ぶ。分かってる。努力とか…無理しなくて良いよ? 長続きしないわ」

「長続き……してくれる? 俺と」

「もちろん」

「じゃあ、お嫁さん…」

「……それは、また別」

「……チ」

「舌打ち?!」


 ちょっと、俺のこと忘れすぎ!

 信号待ちで葛西先生は半身を捩ってじと目で訴えてくる。スミマセン、と苦笑とともに頭を下げつつ、ね、と礼ちゃんへ問いかけた。ずっと、心のどこかに引っ掛かっていたこと。さっきの礼ちゃんの言葉で何となく確信めいたもの。


「だから、右京のことも…そうなの?」

「……そうなの、って?」

「信じてみたい、ってこと」


 俺の右手の下にある礼ちゃんの左手がピクリと動いた。その小さな所作が正解だと告げている。大丈夫、礼ちゃん。何でも、話して? その喉から出かかっている想い。礼ちゃんが俺をまるごと受け入れてくれるように、俺もちゃんと受け入れるから。強く強く瞳で訴える。


「……右京くんは。二番目に話しかけてくれた人なの。変な時期に転校して変な目で見られてた私に、万葉の次に。放課後の、掃除当番が一緒で」


 溜め息の後で、礼ちゃんの顔はまた窓の外を向いてしまう。ルームミラー越しに、見えてるんだろうか、葛西先生には。市街地の彩り豊かな景色が邪魔して、薄いグレーの遮光フィルムに映る礼ちゃんの表情を俺は正確になぞることが出来ない。


「……掃除用具の場所が分からなくてボンヤリしてたら、はい、って。ホウキをね、渡してくれて。女の子はホウキで掃いてよ、って。雑巾がけは、オレがやるよ、手が荒れちゃうからね……、私には、分からなかった。その言葉に、他意があったのか無かったのか。本心だったのか偽りだったのか」


 島で、特に性を意識することなく遊んでいたどんな“男子”とも毛色が違っていた、真坂 右京、という人。爽やかな風貌。形容は、モッサリ、でも、ゴツい、でもなくスラリ。それに違わず滑らかに紡がれる気の利いたセリフ。あんまり読んだことなかったけど、少女マンガに出てくる男子が実在した。島と都会とじゃ違うんだな。何か、何もかも。


「……似てたの、右京くんと、私」


 ポツリと呟かれたその言葉に俺は正直、絶句する。俺の、可愛くて大切でたまらない愛くるしい彼女と? あの悪の権化みたいな右京と?

 いや、語弊があるか。少なくともそうは感じられなかった、俺が対峙した右京と? 礼ちゃんに? 共通項が、一体どこに?


 重ねた掌から小さく小さく震えが伝わってきている。何らかの感情の昂りを表しているのだろうけれど、それが何なのか俺にはよく分かっていない。窓の外へ顔を背けたままの礼ちゃんが回想しながら抱いているのは、懐かしさよりも恐怖なのか哀しみなのか後悔なのか、それも俺にはよく分かっていない。ただ分かるのは、話を止めさせちゃいけない、ってことだけ。


「……掃除当番が、よく一緒になったの。当番制なのにね」

「……代わって、あげてたの?」


 久しく沈黙を破って言葉を吐いた俺に、礼ちゃんはゆっくり振り向いて視線をくれた。あーあ、さっき“不安にさせない”なんてほざいた青二才はどこのどいつだ、本当に。礼ちゃんの大きくてパッチリな二重瞼の綺麗な瞳は、眉と共にひそめられていて揺れる気持ちを代弁してる。


「……俺は、大丈夫。ちゃんと聴けてるよ。礼ちゃんは? ……話せる?」


 出来る限りの満面の笑み。そりゃあ、礼ちゃんの口から他の男の話なんざ聞きたくもないけど、コクリと頷かれれば、話を続けるよ、の合図。


「……私は……その頃、お母さんがお腹大きくてね。見るにつけ、何だか生々しくてあまり、早くに、家に帰りたくなかった。右京くんも、そうだったみたいで。部活もしてなかったから、掃除当番がちょうど良い理由になったの」


 あれ、また一緒だね。

 人懐っこい爽やかな笑顔は警戒心を抱かせることなく、不安だらけの転校生をすんなり笑顔へ変えさせたのだろう。手にしていた雑巾は、その言葉と共にいつもホウキと取り替えられた。

 くっそ。アイツ、フェミニストなんだな。良いとこの坊っちゃんはレディーファーストなんつー概念を日々の暮らしの中で植えつけさせられるもんなんだろうか。


『オレね、あんま家に帰りたくないんだよ。別に誰が待ってる訳じゃなし』


 偶然が三回ほど重なった時、右京からそう切り出してきたらしい。

 お手伝いさんとかいるんじゃないの?

 真坂家は資産家だと耳にしていた礼ちゃんがそんな風に返すと、右京は相変わらずの爽やかさでサラリと言ってのける。


『親父の周りには人がたくさんいるけどオレにはいないよ……、金が置いてあるだけだもんなぁ。それよりメシ作っといて欲しかったりして』


 軽やかな口調の割に内容に影があって、それはきっと右京の心の闇そのもの。追及しても良さそうな緩さはあまり感じられず、13歳の礼ちゃんが立ち竦んだとしても無理はないと思った。


「……私もね、って自分の話をするだけで精一杯だった。テーブルにお金が乗ってるだけ、って寂しいよね。おかえり、も聞こえない、部屋中の灯りを自分で点けて買ってきたご飯を一人で食べて、会話の相手はテレビ。怒られもしない代わりに褒められもしなくて、何してるんだろ、って時々思う。私もうずっと、そんな感じで暮らしてきたよ、ってそんな話をして。右京くんの瞳に、何か……、灯った気がした」


 奇妙な同調。不可思議なシンクロ。初めて、揺さぶられる様な情に触れた未熟な若者が、それを“愛情”なのかと勘違いしても、致し方ないのか。客観的に耳を傾ければ、同情なのではないかと偉そうに定義づけたりできそうだけど、妹尾さんから指摘を受けた通り、男子との距離の取り方が近かった礼ちゃんだから、右京の勘違いを促進させる余地は、あったのかもしれない。


 俺は子どもすぎて、ぶつけられた感情のかわし方や持っていく場が分からずに、うやむやにして逃げて関わらないように遠ざかっていたんだから。その時の、礼ちゃんなりの精一杯を、非難することなんて出来やしない。


「お兄さんが跡を継ぐって決まってるし、二人目は女の子が良かった、ってずっと言われて育ったとか。親御さんは忙しくて、あまり構ってもらえなかったとか。ご両親揃ってるから羨ましいよ、って言ったら仮面夫婦だよ、お互いに愛人がいるんだ…なんて」


 大きく深く、礼ちゃんは息を漏らす。俺の右手の下にあった礼ちゃんの左手がひっくり返り、俺のゴツゴツした指の間に礼ちゃんのそれが差し入れられた。今日は、冷たい。雨のせい? 違う? 身体中で泣いてるせい?


「……自分だけでは、どうしようもない寂しさ。埋められない空虚。これから誰の力を借りても、遡って修復することなんて出来ない欠陥。恨むべきは、親。黒く、黒く……、私と右京くんが抱えていたものは、きっと、すごく、似てたの」


 礼ちゃんが息を継いで、車内に再び静寂が訪れた。降り続く雨の滴が窓に打ちつける不規則なリズムに耳を傾ける。あれ、そういえばこの車、以前はフィルム貼ってなかったな、と礼ちゃんが階段から落ちて怪我をした日を思い出し、思考をほんの少し逸らした。


 俺を見ない方が喋りやすいのなら、それでも構わない。俺は礼ちゃんの細い指を俺の指に挟んだまま、キュと切なく力を込めた。


「……オレ達、似てるね。そう言われて違和感はなかった。そうなんだろうと思った」


 同類相憐れむ?

 深く考えるより先に口をついて出た俺の呟きは疑問形だったけれど、礼ちゃんは丁寧に、そうね、と相槌を打ってくれた。そうして、でもね、と力なく続ける。


「オレ達つき合おう、と求められても、素直に頷けなかった。隣のクラスに彼女がいるでしょ、って理由ではなくて」



『ミコちゃんなら、オレを救ってくれるよね?』



 そう続けられた囁きは、相変わらず滑らかで爽やかだったけれど、一瞬で、怖くてたまらなくなった。私が、右京くんを? 確かに理解できる心情は存在する。だけど、救うなんて。そうしてそれは、私がすべきことなの?


「……その時の私には、すぐ近くに万葉がいたから。何だろう、万葉の凛とした正しさや強さに触れて、私も、そうなりたくて。でもそれはきっと、右京くんが望むものとは相反する世界で」



 私は、万葉を選んだ。



 礼ちゃんの選択は、間違ってない。そう、思うのに。どうしてこんなに、苦しいんだろ。


「……救えなかった。捕まえられた腕が、痛くて。間近で見た瞳に、私が……、私だけが映っていて、怖くて。深い闇に、連れて行かれそうで…」


 出逢った頃の泣き虫 礼ちゃんなら、最早涙腺は決壊してるレベルだと思った。けれど今日は違っていて、何度も何度も深呼吸を繰り返し、自身を叱咤して、泣くのは違うと言い聞かせているよう。


 そんな姿を真横で見ているから苦しいのかな。違うな。

 どうして、礼ちゃんだったんだろ、って、どうして、親とか学校の先生とかじゃなくて、礼ちゃんに救いを求めたんだろ、って。この世に生を受けてたかだか十数年の女の子が、一体どうすれば良かった? 何が、正解だった?


 右京。お前は、狡いよ。

 真面目な礼ちゃんの気持ちをいとも容易く掴んだまま、ずっと離れないでいるんだな。物理的な距離がどれだけ開こうと、どれだけの時間が経過しようと、礼ちゃんの心の深い深い場所に、お前はいつまでも居座ってるんだ。


「……中途半端な同情なんて、寄せるべきじゃなかったのかもしれない。でも、その時の私は、錯覚してた。どこかを、くすぐられてた。何も与えてもらえなかった私が、何かを与えてあげられるのかもしれない、なんて……、誰かから、好きだなんて、言われたことなかったから。結局、手酷く拒絶して逃げ回っただけ」


 自嘲気味にふ、と漏れた唇。見えないけれどきっと、紅く血が滲みそうなほど噛みしめているんじゃないだろうか。


 その頃から、右京くんはいろんな悪いことに手を出すようになったと思う。爽やかな人気者だったのに、反面、良くない噂がそこかしこに出回るようになった。私のせいで。



 車はいつの間にか市街地を抜け、郊外の目的地へと近づきつつあった。

 礼ちゃん。

 俺は俺の中で最高に優しく届いてくれそうな声音で、大好きな子の名前を呼んだ。ピクリと肩が震えるものの、顔がこちらへ向くことはない。


「聴いて? ちょっと…、言わせて?」


 力なく頭は下げられ、でも細い指には白い肌の色が紅く変わるほどの痛みが加わる。


「自分のせいだ、って考えるのは、もう止めようよ。それは、礼ちゃんの傲りだと思うから」


 思いがけない言われ方を耳にしたからか、礼ちゃんは強く握りしめていた指を見、俺を見た。やっと、俺のこと見てくれた。それだけで安堵する俺は、やっぱりバカみたいに礼ちゃんを好きなんだ。


「……俺だったら、って考えてた。話を聴きながら俺だったらどうしただろう、って。でも、救えないよ。きっと、誰も、救えない。重い荷物を抱えて困ってるお婆ちゃんに手を貸してあげるのとは訳が違う。もう一度右京を、産まれた瞬間からやり直させてあげられるとしたら、それが、本当の救いじゃない?」


 俺は必死で、必死すぎてちょっと息をすることすら忘れて、一気に想いの丈を声に乗せた。分からない。正しいのかどうか、なんて。分からない。話の筋が通ってるか、なんて。でもきっと、葛西先生は止めないから、あながち的外れじゃないと信じたい。


「ねぇ、そんなの、誰にも出来ないでしょ? 神様くらいしか出来ないでしょ? 中学生女子には無理でしょ? よしんばそれが叶ったとして、結局のところ大切なのは、誰と共に生きて、誰から愛されて想いをかけられてきたのか、そうしてそれに気づかなきゃ。アイツの心はずっと黒いままでしょ?」


 息を継ぐ。葛西先生はまだ俺を止めない。


「……気づける、って、思ってるんだよね? 礼ちゃんも、ちゃんと気づけたから。謝りたいっていうアイツの言葉を信じてみたい、って、そういうことなんでしょ?」

「……っ、先生、シートベルト外して良いですか…?」


 どうぞ、と葛西先生が応えるが速いか、礼ちゃんはカチャリと音を立てると同時に俺の胸元へ頭を埋めた。

 え。え? 何? これ。あれ? やっぱり涙腺決壊? 俺、さっきまで礼ちゃんと指 絡めてたよね? ちょっと鎖骨辺りに湿り気を感じますがえーっと、良い、のかな。背中に手を回しちゃっても…。


「……神威くんっ……、」

「……うん。何? 礼ちゃん」

「ありがと…っ、こんな、嫌な話…、ちゃんと、聴いて……!」

「……ぶ。本当だよ、礼ちゃん。俺がヤキモチ妬きのガキだ、って知ってんでしょ?」

「ご、ごめ……」

「お願いだから、右京のこと信じてみるの、今の半分にして?」


 は、って半分の は? それとも意味が分からない、の は? 礼ちゃん、ちょっとマヌケ面。それでも可愛いってズルくない?


「俺が残り半分受け持つから。俺、基本的に性善説派だし。信じてやろーじゃん? 二人して、ね?」

「神威くん……!」

「あ、十分の一とかでも良いよー。俺、スゴくない? 他の男の存在を胸に留め置く彼女を優しく包み込む感じ? 寛容? 包容力出てきた?」


 自分で言ってりゃ世話ないね、とそれまでの沈黙を破って辛辣なご意見を吐かれた先生のタイミングの良さは、一気に場の空気を和ませ、最終的にオイシイところを持って行かれた気がして憮然とした。


 先生は、続ける。着いたよ、と。

 もしかすると、もうとっくに着いていたのかもしれない。無機質な、簡単に出入りを許さない門扉を越え、先生の車は駐車スペースへ佇んでいた。

 四角四面、上へと言うより左右に長く伸びた建物全体に無駄がなく、勿論、華美な装飾も無い。今日の雨空にお似合いのコンクリート色には、簡素という形容がぴったりだと思った。公的な機関って、どこもそんな感じかもしれない。国民の血税が投じられてる訳だしね。


 なんて。えも言われぬ目の前の圧迫感を認めたくなくて思考を歪ませてみる。バタン、とその重さに任せて車のドアを閉めると、手早く傘を広げ、運転席側の礼ちゃんと葛西先生の傍へ歩み寄った。


「こっちだよ、受付」


 駐車スペース脇の案内板をチラと確認した葛西先生は、軽く手招きをする様を残し、身体をひらりと翻すとスタスタと迷い無く進んでいく。俺は礼ちゃんの背中をほんの少し押してとても重そうな礼ちゃんの歩みを前へと促した。


 それは、猛省を強いるためのわざとなのか。木の温もり、なんてまるで感じられない、息づかない無機的な素材で建物の中に暮らす人を覆い隠している空間を俺達は進み、受付、と示された矢印を辿っていく。



 ――スズキヌさん家のマイナスイオン溢れる心地好さとは大違いだな。



 ふいに浮かんできたあの丸っこい二つの顔が、冷めた胸をどくんと鳴らす。檜、だったか。あれ。


 自業自得、なんだろう。右京が今、ここにいるのは。人を傷つけた罪を償うために。

 ……人、って。俺だけど。


 過去は、人の手では変えられない。右京を本当に本当の意味で救うことは出来なかったんだ。でも、それでも、この現状をどうにか避けられたかもしれない、と誰よりも一番強く思っているのは、俺の隣を歩く、礼ちゃんなんだろう。

 受付、と一際大きく書かれたプレートは誰の目にも留まりやすく主張されていて、ドアのない入口から中へ入ると、駅の切符売り場の様な光景が目の前に広がった。


 俺の表現力には限界があるな。相変わらず。

 置いてある物の数が少なく、空間の多さが物寂しさを醸し出している。市役所より、覇気はない感じ。記帳台らしき場所で書類へ記入している先客が二人いて、葛西先生はカウンターの向こう側へ座っている、建物と同じ様に薄暗いシャツを着た担当の人へ声をかけ、差し入れ希望なんですが、と的確に目的を告げる。


 大人になる、っていうのは、こういう一連の行動をテキパキとこなせるしなやかな力を身につけることでもあるんだな。初めての場所に気圧されて茫然とするのではなくて。葛西先生がいてくれて良かった、と安堵して頼るのではなくて。俺が礼ちゃんを、きちんと守って支えてあげたいのに。


「……ごめんね、礼ちゃん」


 気づけば口に出していた。そういえば車を降りてから、初めて声を出した。


「……どうしたの?」

「俺、頼りないね。葛西先生が全部仕切ってる」

「……そんな」


 礼ちゃんはふ、と柔らかな息を吐く。

 さっきまで足取り重く強ばっているように見えた礼ちゃんからすると、不思議に感じられるほどの空気の緩み。見下ろせば大きな瞳は優しい光を宿して細められ、俺を綺麗に包み込む。


「……そんな、急いで大人になろうとしないで? 私が一番しっかりしないといけないのに。変に身構えて上手く動けないのに。神威くんまで私のこと置いていかないで」


 置いてはいかないよ、とそっと訂正する。

 でも、葛西先生みたく、礼ちゃんをいつ何時でも安心感で一杯にしたいんだ。未来を預かる身としては。


「安心してるよ? 神威くんが傍にいてくれるから……、こんな場所まで、文句も言わずに付いてきてくれる彼氏なんて、いないと思うの。本当に、感謝してる」


 御子柴、と葛西先生は短く礼ちゃんの名前を呼び、記帳台へ向かうよう暗に促された。ペラ、と乾いた音がして広げられたA4サイズの用紙。備え付けのペン立てからボールペンを抜き取り、葛西先生は長い指を操りながら簡潔に記入箇所を指示していく。礼ちゃんは何度か小さく頷くと、手に持っていたトートバッグを開き、あの絵本と白いメッセージカードを台の上へ取り出し置いた。


 俺は記帳台の横に行儀良く立ち、そういえば初めて礼ちゃんの書く字を見るかも、とボンヤリ考えていた。

 いや、ケーキに書いてあったのは見たな。あ、でもあれは英語だった。

 そうしている間に礼ちゃんの白い指はサラサラと綺麗な文字を生み出していく。ちょっと右上がりで、本人によく似た細く姿勢が良い漢字達。


 あの絵本を渡すのか。その深意は。メッセージカードには何が書いてあるんだろう。二つ折りのそれは、ほんのちょっと開いているけれど、中身までは見えやしない。

 いや、見ちゃ駄目だよね。人として。自分のみみっちさに嫌気がさすほど気になるけど。

“入所者との関係”の欄へ迷うこと無く“知人”と書いた礼ちゃんへ、奇妙な安堵を覚えた瞬間。礼ちゃんはふと顔を上げると、俺を真っ直ぐ見据え小さな声で語り始める。


「ここを出てからも、本当に本当に謝りたいと思う気持ちが続いているならば、この絵本を私達へ返しに来て下さい。私はきっと、もう一匹のうさぎと、いつもいつもいつまでも、一緒にいると思います」

「……礼ちゃん?」

「私は、本物を見つけることが出来ました。右京くんにも、見つけられる。自分勝手と思われても、私はそう信じたい。もしも、独りで見つけられなかったら、その時にも、私達を訪ねて下さい。私の周りにいる人達は、誰も優しくて心温かく素敵なのできっと、手伝ってくれるでしょう」


 俺の顔に見えないカンペでも貼ってあるのかと思うほど、俺に澄んだ瞳を置いたまま、礼ちゃんは噛むこともなく、聴き心地の好い綺麗な日本語を繰り出した。それはきっと、メッセージカードの中身。


「………どうして」

「逆の立場だったら、私は気になって夜も眠れない」


 礼ちゃんはそこまで言うとやっと視線を記帳台へ落とし、書き終わった申請用紙と差し入れを手に、カウンターへ向かう。俺も弾かれるように、その場から動き出した。


 刑務官、というんだっけ。担当の男の人は礼ちゃんが差し出した用紙と差し入れの品を見、念のため、といった程度に学生証の提示を求め、絵本もカードも検閲すること、スタンプを押す決まりごとなどを、恐らく何度も繰り返してきたのであろう口調で抑揚無く伝えてくる。礼ちゃんは生真面目に逐一 相槌を打って応え、俺と葛西先生は礼ちゃんの背後でそのやり取りをじっと見入っていた。

 それでは、と特に感慨も残さず品物は受け取られ、型通りの受付は終わったかに思えた時。


「……あの、」


 礼ちゃんは刑務官の男性に姿勢良く向き合い、お訊ねしても良いでしょうか、と断りを入れた。何か、という相変わらず抑揚の無い声を待って、礼ちゃんは緊張が明らかな口調で切り出す。


「ご家族は、面会に来られてますか? あ、あの…今月、一緒に来られるかと、思って」


 礼ちゃんが面会に来ようと思っている点に驚く、というよりも何となく、何を訊きたいのかボンヤリしている質問だな、と思った。一ヶ月の面会回数は限られてるんだ、と葛西先生が耳打ちしてくれたけれど、それにしても、礼ちゃんが訊きたいのはそこではなく。


「……まだ、一度も」


 刑務官の男性は、カウンターの下、俺達からは見えない手元で何らかの資料を手繰った後、余計な言葉は何一つくっつけずシンプルに答えた。

 それは今月、なのか。いや、今月はまだ始まって間もない。ということは。


「彼が入所してからまだご家族の面会はないよ。君は…、同級生?」


 はい、と礼ちゃんは頷く。間違っては、ない。同級生だ。


「そう。ご家族と一緒なら、面会許可が下りることがあるから、平日に都合が合えば、また来てあげて。面会は、嬉しいものなんだよ。励みにもなるしね」


 こんな施設で働く人は皆一様に表情が硬く、体躯も頑強そうに見え、俺はそれだけで臆する要素満載だったというのに。その相好が崩れ、声音に温かな彩りが混じったと分かると、無駄に自分の身体中に力が入っていたことに気づかされ、何となく気恥ずかしくなった。

 礼ちゃんもそうだったのか、あからさまにホッと胸を撫で下ろすと、はい、と丁寧に答える。こっちに背を向けているけれど、口元に笑みが浮かんでいる表情は容易に想像出来た。



 ――まだ、一度も。



 過去は、人の手では変えられない。そうなんだ、確かに。そうなんだけど。


 俺は理由が分からないまま、何かの媒体で見た覚えがある “真坂元市議” の顔を思い出そうとしていた。



 そうと意識しないまま、俺と礼ちゃんは葛西先生に背中を押される様にして、元来た廊下を進んでいた。俺と葛西先生のスニーカー、礼ちゃんのレインブーツ。それぞれの靴底のゴム部分が、リノリウムの床に擦れ、キュッと切ない音をたてる。


「……神威も御子柴も。何考えてる?」


 傘立てに突っ込んでいた男性用の大きめの傘を取り出した先生は、俺と礼ちゃんの傘も瞬時に探しあて手渡してくれた。名前なんて書いてないのに。礼ちゃんの柄物の傘は分かるとしても。充分理解しているはずなのに、いちいちの格好良さを目の当たりにすると、分類し難い種類の溜め息が漏れる。お礼を言いながら受け取る際に、突然、そんな風に問われた。


 目を瞠り、立ち止まる。俺は咄嗟に首をフルフルと振った。考えているけれど、いろいろすぎて纏まらない。礼ちゃんは、と見下ろせば、ほんの少し眉をひそめ、困った様に葛西先生を見つめていた。


「……ま、乗って」


 雨足は依然 弱まらず、建物内から駐車スペースまでの短い距離でも足元は濡れそぼる。車内へ乗り込むとすぐ、葛西先生はナビを操り周辺地図を画面に出し、お茶でも飲もうか、とどこぞの商業施設を案内先へ指定した。

 さりげない誘い方。さっきの質問は一旦 置いといて、優しく流れる様な声。否、なんてあり得ない。


「……先生。どうして、彼女 いないんですか?」

「……何なんだ、神威。喧嘩 売ってるなら買うけど?」

「……こんな素敵なのにな、って。思っただけですすみません」


 素敵かぁ、と笑いを含んだ様な声で葛西先生は呟く。それはどうもありがとう、と続けられた言葉は、とんでもなくカタコトで機械的で、ミラー越しには見えないけれど、口の端が意地悪く上がってるんじゃないだろうかと思われた。


「御子柴、質問」

「あ、はい」

「私の周りの素敵な人達、に。俺は、含まれてる?」


 後部座席のシートにもたれることなく姿勢を正したまま、礼ちゃんは明らかに返答に詰まった。含まれてる、と思うのに、何かを、言い淀んでいる。唇を開き、一旦閉じて、渇きを潤す様に噛みしめ舐めると、また開いて今度は声を出した。


「……先生に、断りもなく、勝手に…、含みました。事後で、すみません」

「……水くさい言い方」

「すみません。私……、」


 神威くんも、みんなにも、事後で、ごめんなさい。

 礼ちゃんは恐らく何も映していない瞳を窓外へ向けようとした。俺は右手を伸ばし、礼ちゃんのやわやわな頬を掴まえる。


「……いふぁい」

「礼ちゃんのおバカ。俺は礼ちゃんの何? 彼氏ですよね。そんでもって、いつもいつもいつまでも一緒にいる、もう一匹のうさぎですよね? 嬉しかったのに。ごめん、なんて謝らないでよ」

「そうだよ。俺、初めて御子柴の未来図に入れてもらえたのにね」

「……え、っ…と」


 良いんでしょうか、と礼ちゃんは訊いた。葛西先生の後頭部へ向かって。俺、まだ礼ちゃんの頬っぺた引っ張ったままだったから、そう聞こえた、というのが正確なところだけど。名残惜しく右手を離すと、礼ちゃんは俺の指を優しくいなす。その繊細な動きに、俺は一人勝手に背筋をぞわりと震わせる。礼ちゃんは静かに、先生、と言葉を紡ぎ出した。


「……私、学校の先生との接触って、担任の一年間、とかで。プライベートでの関わりなんて、持ったことありませんでした」

「あれ、また水くさい。俺、御子柴にはすでに一宿一飯の恩義を」

「泊めてない! 泊まってないでしょ!」

「……細かいな、神威」

「先生が大雑把すぎるんですよ!」

「O型だからねー」

「俺もO型ですけど! そんな括り方しませんよ!」


 礼ちゃんは俺と先生とのやり取りに、ぶふ、と噴き出すと、だから分からなくて、とちょっと砕けた口調で続ける。


「学校を卒業して、先生が直接的な意味での先生じゃなくなっても、個人の人生につき合っていただいて良いのか。ましてや葛西先生は、私の担任という訳でもないのに」

「良いんだよ。というかむしろ、つき合わせて。学校は出逢う場として存在したけど、それを取っ払ったら、俺達の繋がりまで消えてなくなる? 生徒として以上にもう、俺はお前達が好きだよ」


 アルファ波だかマイナスイオンだか放出中の心地好い声は、また憎らしいくらい耳を傾けている者の胸を打つ。いや、撃つ、って感じだよ。射抜かれて動けなくなっちゃうよね。


 車は大型ショッピングモールの屋内駐車場へ滑り込む。

 雨の土曜日。空きスペースを見つけるべく往生している車も多い中、この人はまたタイミング良く空間を見つけ、綺麗に白線枠内へ愛車を停めた。

 葛西先生だって初めての場所なんだろうに、そんなのおくびにも出さない。駐車場から店内入口へ続く通路脇にある総合案内板をチラと見ただけで、スタバ行こ、と目的地に向かってスタスタ先を歩き始める。


 赤いランプの下で注文の品を受け取ると、俺達は大きめのソファー席へ座り込んだ。

 何となく、深い吐息。何をして、疲れたという訳でもないのに。初めての場所、初めての経験、初めての空気。気持ちの面で朝は満タンだった何かが削がれたのは間違いない。


 で、と切り出した葛西先生の声にどこかへ飛んでいきそうだった俺の意識は瞬時に引き戻された。フカフカのソファーへ埋もれそうだった礼ちゃんも、その小さな身体をきちんと正す。


「……親御さんにも、気づいて欲しいよね」


 前置きも確認も、何もかもをすっ飛ばして葛西先生の口から出た言葉は、まず礼ちゃんへ向けられた。傍から聞くと不思議な会話だけれど、それでも礼ちゃんの心中では、考えていた進行形と先生の意図は合致したのか、はい、と頷けている。


「……私は、やっぱり。今回、いろいろなことに気づけたのは、お母さんと話をした、あれが大きかったと思うんです」


 長年、蓄積された礼ちゃんの心に巣喰う黒い蟠りは、お母さんからの謝罪で全てが綺麗に払拭された訳ではないと思う。それでも礼ちゃんのお母さんは、お母さんなりに変わりたいと願い、実際変わろうと行動し続けている。過去を帳消しに出来ない代わりに、これから先の未来に本当の親子像を描いているような。


「……自分は可哀想だ、って思いこんで決めつけて。勝手に記憶を改ざんしたり、してたんですよ」

「……神威も、そんな感じ?」


 ガムシロップを入れた黒い液体をストローでクルクルとかき混ぜていた俺は、急に話を向けられて慌てた。小さな咳払いを、ひとつ。俺が、考えていたことは。


「礼ちゃんが書いてたメッセージ。あれを聴いて。右京の未来は、たった独りで変えていくのはとても難しいと思うんだけど、誰かが応援してくれたり、支えてくれたりすると、違うんだろうな、って。かと言って」


 俺はちょっと息を継ぎ、プラスチックのカップについた水滴を意味もなく指で掬った。礼ちゃんがそっとペーパーナプキンを差し出してくれて、その小さな気遣いや優しさに感激、というより、長年連れ添った夫婦の阿吽の呼吸みたいだ、と逸れた思考に笑いが零れた。ありがと、礼ちゃん。


「俺はそこまで心が広くないし、優しくもないから。その“誰か”に、積極的には、なれない。ましてや、礼ちゃんや葛西先生がその“誰か”になるのも嫌で……、そんな自分も、嫌になる。右京のご両親が、礼ちゃんのお母さんみたいに自分で気づいてくれると良いな、って思いますけど。無理なのかな…」


 うーん、と葛西先生はゆったりとした背もたれに身体を沿わせる様に伸びをした。骨ばった長い腕が空を舞い降りるゆったりとした動きを、俺も礼ちゃんも何となく目で追う。


「俺もね、真坂家にはそれなりに遺恨があるし、聖人君子じゃないから。いくら自分が教師である、って建て前を自身に言い聞かせようとしても……、上手くはいかないんだよね、今回ばかりは」


 軽蔑する? と何でもないことのように訊いてくる葛西先生の瞳は何でもないなんてことなくて、眼鏡越しでも葛藤に満ちているのは分かる。丁寧に視線を置かれた俺も礼ちゃんも、即座にかぶりを振った。


「……私もそこまでお人好しじゃないです。神威くんが嫌がるであろうことはしたくないから。自ら進んで“誰か”になるつもりなんて、ないのよ?」


 礼ちゃんは少し前屈みになって俺の顔を覗き込む。

 柔らかな微笑み。優しい礼ちゃん。自ら進んで、はないけれど。でも、が続くんでしょ?


「……でも、もし」

「あ、やっぱり」


 ほぼ同時、というのか、俺が礼ちゃんの言葉尻にかぶせたというのか、想像出来た展開。息をのんで大きく見開かれた礼ちゃんの瞳に映る俺は、大丈夫、ちゃんと笑えている。


「分かってるよ、礼ちゃん。礼ちゃんの未来を全部もらう、ってそういうことだ」

「神威?」

「葛西先生、優しすぎる彼女を持つと大変ですね」


 俺は礼ちゃんから視線を逸らさずに笑みを絶やさずに言い切った。

 でも、もし。その先に、礼ちゃんが続けたかった言葉。


「右京が途方に暮れてたら。悲しいことに誰の応援も得られなくて、どんな未来も描けずに黒い闇に覆われたまま、あの絵本を返しに来たら。一緒に考えるよ、礼ちゃんの素敵彼氏が、一緒に」


 上手くいくかどうかは置いといて、とつけ足した。だって俺はガキだから、頭で考えている程に心は付いていかないかもしれない。それでも礼ちゃんが望むのなら、無理をせずにそれに沿いたいと思ってしまう。


 礼ちゃんは確かに、俺達よりも右京に近い心情を抱いていた昔があったのだから。右京を否定し拒絶する態度は、まんま礼ちゃんへ向けてしまうような気がして。無理でしょ? 無理無理。俺、そんな態度とれないと思う。惚れた弱味だ、何とでも言って。


「……優しすぎるのは、神威くんよ。自分の気持ちをねじ曲げてまで、右京くんのこと考えることなんて…、」

「ねじ曲げてないよ? 大丈夫。言わなかったっけ? 俺ね、バカみたいに礼ちゃんのこと好きだから。好き、ってだけでは上手くいかないことがある、それは、よくよく分かった。でも、好き、ってだけで簡単に何もかもを超越できる大きさ、って、あると思うよ」


 礼ちゃんの黒い瞳はみるみるうちに潤んでいって、あ、泣いちゃうのかな、とボンヤリ考えていた。実際は、バッグから物凄い勢いでハンカチを取り出すと、トイレ、って立ち上がってお店から飛び出して行っちゃったんだけどね。

 むー、何か、強くなってってんのかな、礼ちゃん。複雑な気分だわー。俺が無条件にハグハグチュッチュ出来るチャンスが減っちゃうじゃん。


「……俺、いるんだけど」

「……おや、先生」

「や、良いけど。そこまで存在忘れられると逆に潔いけど」

「すみません、キューピッドに対して失礼を」


 カラン、と葛西先生の驚きに合わせる様に、礼ちゃんの飲みかけのカップの中で大きめの氷が揺れた。


「ありがとうございました。俺のこと…、礼ちゃんへオススメしてくれて」


 何か、また例によって軽口が何かしら飛んでくると思っていた、のに。先生は俺をじっと見つめたまま、アイスコーヒーを最後まで飲み干すと、カップをローテーブルへ置き、ソファーへもたれ脚を組んだ。今日は平日比若干ボサボサの髪を長い指で梳きながら、あのね、と口を開く。


「神保先生の席、前は大江先生の席だった。御子柴の去年の担任。現国担当のおじいちゃん先生」

「はい。…先生?」

「いつだったかな。原稿用紙が俺の机に紛れ込んでてさ」


 この話の行方は、一体? 先生は、俺じゃないどこか遠くへ細めた穏やかな瞳を向けたまま、緩んだ口元で言葉を紡ぎ続ける。


「優しくて 真っ直ぐで 抱きしめて欲しい人

 限りない想いを 無限の愛を いつも惜しみなくくれる人」

「……誰かの詩、ですか?」

「うん。誰のだろう、って見てみたら御子柴のでね。自習の時間にお遊びで書いたものらしいけど。タイトルは“私の光”。それを読んで、思ったんだ。御子柴は、神威のこと、好きなんだろうな、って。望んで、でも手が届かなくて、眩しくて、でも近づきたい……、」

「……え?」

「え?」

「な、何で? それで、何で、俺?」

「……おま、分かんない? 真剣?」


 真剣、と即答すると葛西先生は深い溜め息を漏らした。察しが良いんだか悪いんだか分かんないヤツ、と。


「コナンくんに教えてもらえよ。謎解きの基本だぞ、こんなの」

「……武瑠に借りよう」


 礼ちゃん、どこのトイレまで行ったんだろ、遅いな。

 俺はもう一度礼ちゃんの詩とやらを先生に諳んじてもらいながら、チラリと左腕の時計に目をやった。15分以上経ってないか? そんなに混んでる?


「美男美女バカップルは大変だな」

「え? 誰のこと…、」

「他人事と思うなかれ、若人よ。ヤキモチ妬きすぎて神経すり減らさないようにね?」


 何の話ですか、と問うより速く、ローテーブル越しに身を乗り出してきた先生は、大きな両の掌で俺の頭を包み込むと端整な顔に優しい笑みを浮かべて、首から180度回転させた。


「ぅげっ!」

「お姫様のピンチ!」

「ぬあああっ!」


 葛西先生の視線の先、俺の顔が不自然な角度で無理やり向けられた先には、ちっちゃい礼ちゃんを俺から隠し囲む様に群がる二人の男。

 デジャヴ?! 朝の駅前広場での不愉快さが一気に蘇ってくる。俺はソファー席を飛び越えて一目散に礼ちゃん目がけて駆け出した。

 礼ちゃんが囲まれている場所まで数歩もない距離だと思う。待ち合わせ場所には好適そうな天井までの吹き抜けには、大きな柱に目立つ売り出し文句の垂れ幕がかけられていて、でも、その数歩がやけに長い。遠い。恋はきっと、いろんな場面でいろんな感覚を麻痺させていく。


「離せ。そんで離れろ」


 礼ちゃんと一人目の男との間に割って入った。コイツ、今、礼ちゃんの左肩に触ってやがった! どこの誰が聞いても俺の熱い怒りが伝わるくらいの低い低い声で見下ろしてやる。無駄に背が高いことを、今この瞬間物言わぬ武器に感じた。


「あ、神威くん、ちょうど良かった。時計見せて?」


 ……礼ちゃん。おかしいな。


 俺の熱い怒りはアナタには届いてませんか? 何なの? そんなホワって笑わないで! 俺の顔も緩むから!


「と、時計……?」

「そう、私してなくて。時間、訊かれたんだけど分からなくてね、携帯電話もバッグの中だし」

「あぁ、そゆこと……、」


 改めて男二人に冷たい視線を送ると、さすがにきまり悪そうな表情を見せる。俺の左腕を覗き込んだ礼ちゃんは、11時47分ですよ、と律儀に答えてるし。良いんだよ! 教えなくて!


「礼ちゃん」

「はい」

「あそこ!」


 俺は片手で礼ちゃんの頭を抱え反転させると、反対の手の指先からビシイッと効果音が飛び出すほどにショッピングモールの高い壁を指した。


「大きな壁かけ時計がありますよね?! 見えてたはずだよ! コイツらにも!」

「……あれ、本当だ」

「本当だ、じゃないよ? この期に及んでボンヤリなの? ナンパだよこれ! 

 ナンパされてたんだよ?!」


 気づけば礼ちゃんの細い両肩を鷲掴みにして、俺はゆっさゆっさと揺さぶっていた。ちょっと彼氏! ってナンパ野郎に止めに入られた俺は一体何してんだ! 今朝の自分は棚の上の手が届かない所に上げまくって!


「ちょ、この子、目回しちゃうよ?!」

「テメーが馴れ馴れしく割って入んなあっっ!」

「可哀想だ、って!」

「はいはい、神威、落ち着いてー」


 葛西先生の心地好い声が尖りまくっていた俺の気勢を一瞬で削いだ。大丈夫? 御子柴、と優しいいたわりの言葉。俺の腕の中に目を瞠り身じろぎ出来ずにいる礼ちゃんの姿が戻ってきた。


「あ……、」

「……ごめんね? 神威くん、ごめんなさい」


 どうして。どうして礼ちゃんが謝るの? 開口一番、どうして。


「嫌な想いさせちゃった。ごめんね?」

「ねー、やめたらー?」


 礼ちゃんの熱が籠もった謝罪に俺は微動だに出来なかった。不甲斐なくて恥ずかしくて情けなくて、そんな俺を嘲笑う様にナンパ野郎は不躾な言葉を投げつけてくる。


「そーんな嫉妬深い彼氏。これくらいのことでさあ。きっと疲れちゃうよ?」

「……これくらいのこと、ってテメーが言うな」


 礼ちゃんは、そんな声が聞こえているのかいないのか、柔らかな視線を俺に置いたまま、閉じられていたふっくらとした唇をゆっくり開いてとても綺麗な笑みの形にした。

 俺は、本当に何やってんだ。これじゃあ変わらない、小学生の頃の俺と。何が“何もかもを超越する大きさ”だ。誰のどの口が言ったんだ。


「カワイソ。彼女、信用されてないんだ?」

「うん、もう良いから負け犬は遠吠えしといて?」


 年長者の圧倒的なオーラを纏った先生の口から吐き出されるのは、いつもの穏やかな日本語ではなくどこかしら冷たい空気で、それはそのままナンパ野郎を不機嫌そうなぼやきと共に遠ざけてくれた。


「……神経すり減らさないようにね、って言った傍からこのザマ? 神威」

「……すみません……、」

「先生、ごめんなさい。私がちゃんと」


 葛西先生は礼ちゃんの言葉をやんわりと遮る様に俺に一歩近づくと、店内から持ってきてくれた礼ちゃんのバッグを手渡してきた。ナチュラルに俺へ手荷物を預けるところが、この人の男スペックの高さを物語る。


「一時間後にここ集合。険悪ムードだったら置いて帰るから。ラブラブすぎても乗せてやんない」


 そう言い残すと、また迷いなくどこぞへと歩を進めていく。真っ直ぐな背中がいつも以上に大きく見えるのは、俺の小ささが身に沁みているせいだ。身長は、そう変わらないのに。

 神威くん、と礼ちゃんは俺のシャツの袖口を摘んだ。

 その瞬間、何故なのか。俺は12月の、あの図書室での出来事を瞼の裏に描いていた。季節は巡り、いろんなことがあって、今日の俺は長袖ブレザーではないけれど。


 摘まれる柔らかさは、相手への気配りと思いやりに満ちている加減。優しくて無償で真っ直ぐで。あの日から、いやあの日よりずっと前から、礼ちゃんは俺のことを見つめてくれていた。それを思い出せた一瞬で、俺のささくれ立った気持ちは凪いでいく。魔法使いみたいだ、礼ちゃん。


「……謝りすぎだよ、礼ちゃん。謝るべきは、俺の方だ」

「どうして? 朝は神威くんが謝ってくれたじゃない」

「あれは、隙があった俺が悪い」

「じゃあ、私だって」

「……違うんだ、きっと。女子と男子のそういうのは、きっと求めてるものが違うよ。俺は、男だから。いや、ナンパとかしたことはないけど、やらしい狙いは男のがあるよ」


 礼ちゃんはふぅ、と軽く肩を上下させた。礼ちゃんの反応が怖くて気になって、俺はずっと目を逸らせずにいる。呆れられたら、どうしよう。失望されて、愛想尽かされたら。


「肉食系女子って、最近多いらしいよ?」

「ぶ。肉食系…」


 何だろう、この似合わない感。真逆に位置するはずのボンヤリ礼ちゃんからそんな単語が出ようとは。


「あ、やっと笑った! 良かったあ」


 歩こうと誘われているように、摘まれた袖口に動きが加わった。

 俺、礼ちゃんにはきっと一生かなわない。好きになった、そのスタート地点からしてだいぶ遅れをとっている俺だから。礼ちゃんの気持ちに考えに過去に未来に想いを馳せて、全力で追いつこうとしてるつもりなんだけど。

 まだまだだな。半歩くらい、先を行かれている。


「ボンヤリしてたの、本当に。トイレから戻る途中にアクセサリー屋さんがあってね」


 でも、神威くんが作ってくれたものほど素敵なのはないな、って。

 礼ちゃんが軽やかに操る“素敵”って言葉は、そのもの以上の威力を持っているんじゃないかと思わされ、舞い上がらないようにするのが大変だ。恋は盲目、とはよく言ったもの。まぁこの場合、俺の聴覚ですけどね、おかしいのは。 


「……恐れ入ります」

「ごめんね? 本当に。重ね重ね」

「もう良いって。止めて、本当に。あんなのにいちいち妬く俺がどうしようもないガキ」


 そんなこと、と言いかけた礼ちゃんをかぶりを振って制した。


「礼ちゃんは可愛いくて優しくて自慢の彼女なんだ。俺だけじゃない他の男が声をかけたくなる気持ちも百万歩譲って解らなくもない。でも俺は、礼ちゃんを世界中に見せびらかしたり出来なくて……、どちらかというと、部屋に軟禁しときたい」

「……なんきん」

「あああ、引かないで? だいぶ変態なのは分かってるんだよ」


 礼ちゃんは華やかにふふ、と笑いを零す。目的の場所もないまま、俺達は向かいくる多くの人をゆるゆると交わしながら歩いている。


「こんなにたくさんの人がいても。私きっと、神威くんのこと見つけられるわ。さっき確信した。神威くん以外、大抵へのへのもへじに見える。そんな私も、だいぶ変態だと思わない?」

「……え」

「ね、どうしたら信じてもらえる? 私、本当に、金輪際、好きな人は神威くんしかいらないの」

「…………」

「え? 神威くん? そんなに固まる?」

「…………も」

「も?」

「も一回、言って? 礼ちゃん」

「それは、ちょっと、ご容赦願います」

「お願いします。そこを何とか」


 俺はたまらず歩みを止める。追いつかない。身体と脳と一緒に動かない。周りの景色も喧騒も、色褪せて礼ちゃんだけが浮き上がって切り取られて見える。

 だって。だってさ! 凄いこと言われた…、言ってもらった気がする。あああ、俺の頭、高速回転してちゃんと理解して噛みしめて? 礼ちゃんの綺麗で迷い無い日本語を。ふ、と艶やかな唇から笑みの後に漏れる甘い響きを。


「ヤキモチ妬く必要なんて、無いの。私、神威くん以外、好きにならないから」

「………えー」

「そういうの、信じて欲しいんだけど。どうしたら良いのかな。あ、そういう“絶対”を預けるために結婚するのかな」

「………礼ちゃん。俺、今ほど自分の語彙力の無さを呪ったことはないよ」


 ちょっと、座り込んで良いかな。いや、ここは公共の場だ、まさか骨抜きになる訳にはいかない。いかないけど! 動悸息切れめまいが激しくて、いや、こめかみに心臓が移動したんじゃないかと思うほど。俺は礼ちゃんのトートバッグをくの字に曲げた腕の真ん中へやると、両の手の指を髪の毛へ梳き入れた。


「信じてるよ、礼ちゃんのことなら、もう……とっくに……ちょっと、ごめん。ビックリして。サラリと……、至って普通に、すっごい甘い言葉を」


 超カッコ悪い、俺。息も絶え絶えだ。

 礼ちゃんは、ごめんね? と柔らかく破顔すると、左隣の位置から俺の真正面へ廻り、髪の毛を無意味に鷲掴んだままの腕にそっと触れる。思考する間もないまま、バッグを抜き取られた。


「キャピキャピしてないでしょう? 万葉からよく言われる。私達には温度差がある、って」

「や、うん、それは良いんだけど、別に。礼ちゃんがそんな風に考えてたなんて知らなかったから」

「うん、言わなきゃ伝わらないものね。何度も何度も言ったら、安心出来る?」

「……何を?」

「神威くん、大好きよ、って」

「……俺をどうしたいのー? 礼ちゃん!」


 俺は礼ちゃんの右手を取ると白くて細い指の間に俺の骨ばった指を入れて恋人握りにしてやった。礼ちゃんは眉を上げちょっと目を見開く。耳たぶが紅くなっていく様を視界の隅で確認しながら、俺はまたどこへともなく足を向けた。


「手汗は我慢してね? こんな場所じゃなきゃ礼ちゃんのことギュウギュウしてるよ、俺」

「大変ですね、健全な青少年は」

「他人事だなー、淡白ー」


 あはは、と声に出して笑う礼ちゃんの涼やかな音につられて口元は緩む。握りしめ合う指先から刻まれる鼓動が伝わらないほどに、落ち着ける日なんてくるんだろうか。


「……島で。思ってた。神威くんにまた逢えたら、毎日好きだよ、って言ってもらいたいなぁ、って。そんな、たった四文字で、私はずっと幸せでいられる」

「……毎日?」

「何でしょうか? その可愛い顔」

「や、毎日ね? 礼ちゃんに言ってあげるにはさ、やっぱり」


 お嫁さんでしょ、と普段より数倍高いテンションで口にしたしつこいくらいのプロポーズは、礼ちゃんの穏やかな声にそのままなぞられた。え、なぞられた?


「良いのかな、そうするのが。覚悟とか認識とか将来設計とか、いろいろ足りないから、まだ早いと思ってたんだけど」

「う、え? え、えっ?!」

「気分悪いの? 大丈夫?」

「いや、緩んだ顔が戻らなくて!」

「あら、大変」


 なんてセリフを涼しい顔して澄まして言ってのける礼ちゃんが小憎らしくて。でも今、俺、物凄く幸せ気分。身も心もホワホワする。


「責任とってねー、礼ちゃん! 俺、当分、顔が戻らなさそ」

「そのままでも良いんじゃない? 緩んでても綺麗よ? 神威くん」

「あー、投げやり」


 拗ねた俺の表情を左下から見上げてくる礼ちゃんは、神威くんもね、と瞳の奥をピカリと光らせて言った。


「もう私、一生分の恋愛運とか女子力とか使い果たしたから。おばあちゃんになるまで一緒にいてくれないと、孤独死が待ってるわ」

「ぶ。まだポコポコ湧き出てるでしょ? 女子力」

「どうかなあ……、運命任せにしたくなかったから。神威王子の本物の光を手にしたくて私なりに、頑張ったから。もう、枯れちゃったんじゃないかな?」


 運命、と礼ちゃんが発した単語を反芻する。

 そう、運命。キュ、と細い指に力が籠もる。小さく熱も籠もる。


「……昔、シンデレラは狡いと思ってた。ガラスの靴を置いてきちゃうなんて。サイズはピッタリだったはずなのに、あれだけ王子様と踊って脚はむくんでた筈なのに、慌てて走ったから脱げちゃうなんてある? って」

「ぶ。超リアリスト」

「でもね」


 三年間、接点は何も無いだろうと決めつけていた神威くんから電話がかかってきた時の私の心境は、そうと意識せずとも、心のどこかで“次”を求めてた。それはシンデレラのガラスの靴と何ら変わりない。


「狡くて、計算高い。嫌悪してたお母さんの恋愛道みたいだと思った……、それでも、せっかくのチャンスにしがみつきたかった。誰かのせいにするのではなく、目に見えない何かに任せるのではなく」

「……俺、そんな風に想ってもらえる程のスペックじゃなかったでしょ?」


 美化しすぎだと思うもん。

 礼ちゃんの瞳に映る俺は、話に聞く限りあまりにキラキラしていてとても自己投影出来ないから、こそばゆくて仕方ない。だけど気分は悪くない。自惚れちゃいけないと分かっているけれど、俺をチラチラと見上げてくる礼ちゃんの全部から伝わってくるよ。


「ありがとうね? 俺のこと、見つけてくれて。礼ちゃんが好きになってくれたから、何か、いろいろ俺は俺で良かったと思える」


 その言葉を耳にした途端、礼ちゃんは立ち止まり、その拍子に俺の左腕はグイと伸びて後方へ引かれた。


「わあぁー」

「え。どしたの? 礼ちゃん」

「私、外国の人なら今、神威くんに抱きついてるわ! 感激して!」

「ぶ。日本人だけど良いじゃん。ほら、礼ちゃん! カモン?」

「カモ……無理無理無理!」


 礼ちゃんは降参、みたく両手を胸の前へ掲げ、短い髪をキラキラと振りながら顔を真っ赤に染め上げ全力で否定してくる。俺、両の腕を大きく広げてお待ちしてますが。恥ずかしがり屋さんだなー。


「か、神威くん、いつか捕まるわ」

「大丈夫だよ、みんなそれほど見てないって」

「見てるよ、神威。お前達、目立つんだから止めてね?」

「……葛西先生」


 もう一時間経った?

 特に目的地を決めていなかった俺達は1階のフロアをグルグルと回遊し、いつの間にか元居た場所、待ち合わせ場所まで戻ってきていた。設置された革張りのソファーへ深々と沈み込んでいた先生とカチリと目が合う。


「ラブラブすぎても乗せね、っつったろ?」

「先生、口調がやさぐれてます」

「御子柴とウロウロしたかった」

「何ですか、それ! 礼ちゃんの隣は俺の指定席です!」


 ちっせ、と葛西先生は立ち上がりながら意地が悪い視線を俺に据え置いたままニヤリと笑みを浮かべ呟いた。聞こえましたよ! 聞こえてますよ! そして一体いくつショッパー提げてんですか!


 昼メシ食ってから帰ろう、と言い置いて先生はまた先にサクサクと足を運ぶ。俺達も弾かれた様に先生の背中を追いかけ始めた。

 今回は。うん、さっきほどには大きく見えない背中。ちょっとだけ、妙な安堵を覚えた。




 ———帰りの車中。



 きっと、早起きして気を遣って疲れたんだろうな。礼ちゃんは小さな頭を窓際へ預け、細い身体を屈めてスゥと気持ち良さそうな寝息をたてている。

 俺の視界の右端に入る寝顔。あ、寝顔初めて見るなぁ。やっぱり素で睫毛長いな、礼ちゃん。よくよく見ると髪の毛とか眉毛とか真っ黒じゃないんだな。光が当たってるせい? キラキラと色素の薄い部分が綺麗なコントラストを見せてくれる。スベスベしてそうだなぁ、肌白いし。さすがに触っちゃいかんよね。でもアレやってみようかな。こう、礼ちゃんの頭をね、そうっと俺の肩の方へ……、


「俺の愛車で何するつもり? 神威」

「な、何も! 何も致しません! か、肩を貸そうかと…」

「そんでチューとかするつもりだったんじゃねーだろうな? 本当に最近の高校生は」

「人を不純の塊みたく言わないで下さい! 俺は健全です!」


 くくく、と音量に配慮しながら噛みしめる先生の笑い方に俺の頬が熱を持つ。見透かされてるな、俺のやらしさなんて。


「……先生は。いつでしたか?」

「何が?」

「……大人の階段昇ったの」


 へ、と間の抜けた声は“先生”らしからぬそれ。大和兄ちゃん、みたいな、それ。


「……お前ね、それはちょっと課外授業料をいただきませんと」

「ケチだ、先生。じゃあもう、良いです」

「ケチて。担任はそこまで教えないでしょ。担当科目と生活指導の範疇を越えてます」


 ヒソヒソと交わされる会話は、とても礼ちゃんに聞かせられるものじゃない。まあでも、と更なる低音で囁かれる葛西先生の声に、窓外へ向けていた視線をルームミラーへと戻した。わー、綺麗に片方の口角だけ上がってますね?


「大学受かるまでは、止めときなね? 神威、御子柴のこと壊しそう」

「………むー」


 車はまた高速道を滑るように走り、俺達を住み慣れた街へと連れ戻す。今日の凝縮感を振り返りながら俺は深く息を吐き、心地好いシートへ背を預け、礼ちゃんの頭へ頬を寄せた。


「……先生?」


 俺は顎の動きで礼ちゃんの安らかな眠りを妨げない様に、ちょっとだけ首を伸ばして先生へ声をかけた。何? と穏やかな声。

 雨はいつしか上がっていて、けれど路面に残る水分を車のタイヤが静かに弾き飛ばす音が空間に響く。


「……右京の親御さんへ連絡をとるには、どうしたら良いんでしょうか? なんだろう、後援会事務所、とか?」


 ふ、と優しい笑みが漏れた気がした。先生の口元から。ルームミラー越しに、そこまで見えないけど。


「……連絡先、知ってるから、手配しとく。また、車出すし」

「あ、…えと」

「面会。近いうちに行けると良いな」


 うん、こういう人を察しが良いって言うんだ。皆まで伝えずとも、俺が、礼ちゃんがどうしたいのか、分かってくれている。でも、先生の本音は確か。


「……ありがたい、ですけど。先生の心境は複雑なんじゃ…?」


 先生は車内を緩やかに包み込んでいた癒やしの音楽を変えるべく、デッキに手を伸ばしながら、んー、と肯定とも否定とも取れる声を出した。


「教え子がさ、俺なんかを乗り越えていくのは。当たり前だとも思うし、嬉しくもあるし、誇らしくもある。けど。今回は、悔しい」


 悔しい?

 いつも余裕綽々に見える先生が悔しさを噛みしめることなんて、あるんだ。ちょっと意外。ちょっと新鮮。


「神威と御子柴が、一番痛くて辛い想いをしたはずなのに。させられたはずなのに。今、あの子に向けているその柔らかな気持ちは何だろう。当事者よりも一歩引いた立場にあるはずの俺が、その境地へ達してないのは何故だろう……、なぁんてね、ずっと考えてる」


 今度は俺が、んー、と言う番。礼ちゃんの短い髪の毛が顎あたりを掠めてくすぐったい。ほんのり香る良い匂いに、優しい気持ちになる。


「礼ちゃんが、いるからでしょうね、たぶん。俺一人では、こんな柔らかな気持ちにはなれない。優しい礼ちゃんの思いやりに見合うくらいの素敵彼氏ぶりたいというか、カッコつけたいだけですよ、きっと……、俺の男子力は、まだその程度です」


 礼ちゃんが起きていたら、即座にそんなことはない、と否定されるのだろうか。俺の行動の全てがそんな不純な動機に基づくものではないとしても、やっぱり、ちょっとはあると思うんだ。礼ちゃんに良く思われたい、って。そしてそんなきっかけであったとしても、いつしかその行動が、俺の本物で本質になれば良いな、と都合の良い方へ考えたりしている。


「……人間は、本当にたった独りで生きていける訳じゃないよね」

「……どういう意味ですか?」

「水や空気といった基本的な要素しかり。コンビニで買うパン一つにしても、それを作り出す行程にはたくさんの見知らぬ誰かの力が差し出されてる」

「そうですね。あるんでしょうね。“気づかせてくれる他”の存在って」


 そう、と葛西先生は首をゆっくりと縦に振りながら肯定してくれる。次いで、こう添えた。

 それは他者、でも良い。何かでも、言葉でも、音でも、香りでも、何でも良いんだよ。


「真坂右京という子の世界はあまりに歪で閉鎖的だけれど。きっと、本物の光ならほんのわずかな隙間からでも射し込めるはず。見届けたいんだ、俺は結局、真坂の兄貴の方には何もしてあげられなかった。逃げたから。今度は、見届けたい」


 逃げた、だなんて誰もそんな風には思わないよ、先生。

 数年前のことを思い出しているのか、くぐもった声を絞り出す様に、それでも丁寧に言葉を綴る先生を見るのはいたたまれない。ゴクリと飲み込んだ唾がやけに音を立てて喉を通る。礼ちゃんがふと身じろいだ。


「……俺は。この二年間、先生から物凄く多くのことを教わってます。化学だけじゃなくて、人間として」


 ありがとう、と薄く笑いを含みながら先生は言う。

 あぁ、思われてるんだろうな。必死にフォローしなくても良いのに、って。違うのに、フォローとか、そんなんじゃ。


「嬉しくて、ありがたくて、泣きそうになったのなんて一度じゃない。先生が俺の先生で良かった、って思ったのなんて何度もあります。これからもずっと、愛想尽かされないように縁が続いてくと良いな、って本当に思ってる。礼ちゃんのこともそう、妹尾さんも、もちろん家族や心や武瑠にしたって、もし俺が礼ちゃんにとって本物の光だとしたら、それはみんなのおかげで、俺だけの力じゃなくて。右京にもそんな風に気づかされる出逢いがあったなら、きっとアイツが今いる場所は違う……、」


 あぁ、俺。何言ってんだろ。右腕は礼ちゃんに貸してて動けないから、空いた左手でガシガシと髪の毛を掻きむしった。なに伝えたいんだか全く分からない。勢いのままに吐露した言葉を取り返したくなる。


「……神威」

「……はい」

「あんま、視界を曇らせないでくれる? 事故りそう」


 スン、と鼻を啜り上げる様な小さな音がした。それがひょっとするともしかして、先生が涙ぐんでた音だとしても。

 触れないでおこう。その代わり、今日一日のことを胸に脳に深く刻み込んでおこう。背が伸びている時に夜毎感じた痛み。あれに似た感覚。ちょっとは成長してんのかな、俺。


 お前、簡単に俺を救ってくね。御子柴のこともね。

 先生の温かな囁きは、小さくてもちゃんと後部座席にまで届いてる。俺はぐにゃりと緩む頬を隠そうとして礼ちゃんの頭へ顔を埋めた。



 ***



 もっとゆっくり流れてくれて構わないんだ。そう、時間に言いたい。


 礼ちゃんと初めて一緒に行った武瑠の応援。惜しくも2回戦で負けてしまって、武瑠が部活にかけた青春は呆気なく幕を閉じた。

 元々、進学校の運動部って伝統も歴史もなければさほど強くもない。それでもそこそこ、他校の偵察を呼ぶ位のレベルへ引き上げたのは、武瑠の力が大きかったと思う。なんたって、推薦入学の話がくるくらいなんだから、武瑠。あっさり蹴っちゃったけど。


 ニコニコの武瑠は、試合相手への最後の挨拶までもニコニコだった。下げた頭は、なかなか戻らなかった。それを見て、何故だか礼ちゃんが号泣していた。

 俺はほんのちょっと武瑠を羨ましく思って、礼ちゃんの頭をそっと撫でる。


 礼ちゃんが作ってきた三段重箱一杯のお弁当は、武瑠の両脇から伸びてきた後輩くん達の長いリーチにさらわれて見る間に無くなった。


 礼ちゃんが笑う。キラキラと。俺も笑う。声を上げて。そうして広がる幸せの予感。


 なぁんてね。甘い空気にたゆたってばかりもいられないんだよ、悲しいかな俺達は受験生。やゆよで最下位の俺とブランクがある礼ちゃんは、迫り来るこの夏の猛勉強を思い描き、ちょっと切なく溜め息を吐く。



 ———夏休み。



 もっとゆっくり流れてくれて構わない。後から気づくものなのかもしれないけれど、俺はもう分かってるから。この顔ぶれで過ごせるこの季節のかけがえの無さを。一回きりだ、ってことを、俺はもう分かってるよ。


 8月。俺はもうすぐ、18歳になる。


 夏休み、とはいえほぼ毎日、登校している。エアコンもない灼熱地獄という名の教室で補習に明け暮れる日々。

 礼ちゃんは、相変わらず細くて白くて折れそうで儚げに見えるんだけど、ザワザワと寄せては遠ざかる噂の波の合間を、上手に潜り抜けられるほどに強くなっているらしい。と、妹尾さんが言っていた。


「山田にとっては迷惑な話だろうけど」

「……何?」

「礼の人気は男女問わず赤丸急上昇中だよ。アンチはいるけども。よく笑うようになったからかな」


 礼ちゃんに本物の笑顔が戻って、俺は喜ぶべき、なのかもしれないけれど、漏れるのは憂鬱な吐息。休み時間や昼休みや放課後をいくら独占したって、礼ちゃんを好奇の目(特に男子の)から隠し通せる訳じゃない。

 これから先、きっともっと礼ちゃんが一人で過ごす場面は増えていくはず。ニヤニヤと悪戯っ子のからかい視線を投げかけてくるこの友達は、遠くアメリカへ。俺達は同じ大学を目指しているけれど、さすがに学部は違うし。


「……妹尾さん。俺、もうすぐ誕生日なんだけど」

「あぁ、礼が言ってた」

「礼ちゃんのこと閉じ込めとけるカゴちょうだい。特注で」

「このド変態が」

「分かってるんだよねえ」


 机に突っ伏す俺の頭上に妹尾さんの明るい笑い声が降ってきた。まあでも、と続けられる声も。


「礼は礼なりに、山田が不要なヤキモチで身を焦がさない様に気をつけてるよ。そういうの見てると、ああ本当にね、って思う」

「本当に…、何?」

「山田のこと、好きなんだなあ、って」

「!」

「赤らめんなよ、顔を」


 俺の前の席で、窓を背に椅子へ横向きに座った妹尾さんは、楽しくてたまらないといった風に俺を見遣る。S気質だよね? 本当に。


「……礼ちゃん、無理してない?」

「無理はしてないよ。でも、男子との距離とか意味なく触らないとか無防備に見つめないとか、ちゃんと気をつけてる。こう…、いちいちハッて効果音が飛び出そうなほど気づいてる」


 礼ちゃんは自分の可愛さとか破壊力に無頓着だからね、自分の顔は好きじゃない、なんて言ってたし。お母さんからよく張り飛ばされてたのよ、って。その理由の切なさを思い出し、俺は少し眉をひそめ、続く妹尾さんの凛とした声に我に返った。


「そういう風に気づいてる瞬間に立ち会ったことがあって。礼は決まって優しい柔らかな表情を見せてる」

「……うん」

「礼の目には山田が映ってるんだろうな。拗ねてヤキモチ妬くガキな彼氏が、いつもそこにいるんだ」

「……え」

「だから顔を赤らめんな」


 いやいや、赤らめない方が無理でしょ。そんなこそばゆいこと言われて平常心保てないって。


「という訳でカゴは却下」

「……さいですか」

「さいです。礼ちゃんっていう名の可愛い可愛い小鳥はどんなに遠く羽ばたいたってちゃんと戻って来るじゃん」


 クイ、と顎で指された。山田のとこにね、と言われている様で俺はまたとんでもなく恥ずかしくなる。


「……妹尾さん、詩人。格好良い」


 そう言えば、と妹尾さんの声は続く。

 頬が熱くて仕方ないのは俺だけらしい。格好良い、なんて言われ慣れてんだろうね、妹尾さん。


「礼の夢の話、聞いた?」

「夢? …や、聞いてない、と思う」


 そっか、という妹尾さんの平淡な相槌を耳に入れながら、どちらの夢を指しているのかと気になった。寝ている時に見るものなのか。将来を思い描いているものなのか。そして妹尾さんは、内容を知っているのか?


「この前さ、進路の最終調査あったじゃん? あの時に言ってた。未来図が出来たのよ、って」

「……未来図」


 あぁ、ということは将来を思い描く方の夢らしい。どっぷりと家事育児に浸かっていた礼ちゃんの最近は、お母さんの変化で多少なりとも解放され、時々、本当に時々だけど寝る前に携帯電話で話せる日が出来た。とは言え、そんな話には触れた覚えが無いよ。


「山田にはまだ、話してないみたいだったから。私も突っ込んで訊いてないんだ」

「え…、どうして」

「あんた、ヤキモチ妬くでしょうが。なんで妹尾さんのが俺より先に知ってんの? とか何とか言って」

「うわ。俺、格好悪いね」


 まさにその通りなだけに、反論の仕様がない。俺は両の指を髪に梳き入れ眉をひそめた。


「いや、礼も山田に最初に言いたかったみたいだよ。気遣ってる訳じゃなく。仲良いんだな、バカップル」

「ありがとうございます!」

「いつまで続くのやら」

「……ドS悪魔」


 神威くん、帰ろう? と涼やかな声が聞こえた。けれど、姿は見えず。

 今日は日直で職員室へ日誌を届けに行っていた礼ちゃんは、5組の出入口付近で野田達に捕まっている。オイオイオイ。


「どーしてそんなに馴れ馴れしいかな? 野田くんよ」


 俺は窓際の席から大股で礼ちゃんへ近づくと距離が近い野田を引っ剥がす。もう、ほら。礼ちゃん、ちょっと引いてるでしょ。


「いーじゃんよー、神威のケチー! あと半年くらいなんだぞ、ミコちゃん拝めるの!」

「拝める、ってお前。礼ちゃんは神か仏か」


 だってさー、と不満げに唇を尖らせる野田の気持ちは分からなくもない。いつまでもこのままじゃいられない。いつまでもこの教室で過ごせる訳じゃない。離れ離れになってしまうんだから。


「三年間、一度も喋れないだろうなって思ってたミコちゃんと、やっとお近づきになれたんだぞ?! もっと一緒の空気吸いたいー!」

「じゃあ俺のこと拝んでよ、変態。俺キッカケでしょ? 何たって礼ちゃんは俺の可愛いかの——」

「それはイヤー! ムカつくからイヤー! 全力でイヤー! 被せて言ってやる!」

「……テメ」


 礼ちゃんはクスクスと堪えきれずに笑いを零す。あぁ、また。野田がデレデレだ。いや、女子に飢えてる男子クラスの皆様から頂戴している礼ちゃん向けの視線は大抵デレデレだけれど、礼ちゃんは自分の笑顔の破壊力がどれほどか、ってもう少し自覚するべきだと思うよ。それ、俺だけに向けててよ、なんて口に出しては言えないし、そこまで格好悪くもなりたくないけど。心底、そう思ってしまう。


 帰るぞ、と心の低い声が響いて、俺のバッグが手渡される。武瑠は相変わらず妹尾さんに邪険に扱われながらも犬の様にじゃれついて、俺と礼ちゃんも後に続いた。ミコちゃん、またね! という野田の野太い声を背に受けて。


 アスファルトから滲み出る熱く重い空気と、たまに通り抜ける瑞々しい風。その夏特有の空間を五人でゆるゆると歩いて帰る。たまにトモくんが加わったり、恒例になりつつある俺達のスタイル。武瑠も心も俺とは近所だけれど、礼ちゃん家とは正反対。帰宅までに20分はロスするのに、文句も言わずつき合ってくれている。


「……神威くん」

「何? 思いつめた顔して。どうしたの?」

「……誕生日プレゼントは何が良いかな」

「ぶ。何ごとかと思えば」


 俯き加減とはいえ、礼ちゃんの眉間に深い皺が寄っているのは見てとれる。声のトーンも低いし。小さな手をおでこに当てて苦悩してますね。


「……ごめんなさい。ご本人に伺うなんて味も素っ気もないけれど、本当ーに分からなくて。男子へのプレゼントも、ましてや彼氏とか、初めてなので……、私にはハードルが高いの」

「何でも良いよ……、というのが一番困るよね」


 最後尾についている俺達の会話が耳に入ったのか、妹尾さんが肩越しにチラと目を細め視線を送ってくる。

 言わないよ。妹尾さんの考えてることが手に取る様に分かるよ! “礼ちゃんが欲しい”なんて言いませんよ!


「うーん、でも。神威くんもこうやって悩んでくれたのよね? 私の誕生日の時。楽しいんだけど難しい」

「あ、ケーキ1ホールは必須ね?」

「分かりやすいリクエストありがとう」


 本当に、何だって良いんだ。礼ちゃんを困らせる気はないけれど、何だって嬉しいに決まってるから。アイスのケーキにしようかな、って真剣に考えてくれている礼ちゃんの頭の中は、今俺だけで一杯でしょ?

 早く来て欲しいような、でももう少しこのまま可愛く悩み続けて欲しいような。男心も、結構複雑なんですよ? 礼ちゃん。




 午前0時になる瞬間を待とうと思ってたのに、いつしか襲い来る睡魔くんに負けてしまっていた俺は、シャーペン片手に机に突っ伏していた。手元に置いていた携帯電話の微かな鳴動が脳へと伝わり、閉じていた目をゆるゆるとこじ開ける。げ、広げてたノートのページが頬に張り付いてくるし。


 俺何してたんだっけ、という現状確認が先に立って、携帯電話のサブティスプレイを見るのが遅れた。結構鳴り続けてたのかな、切れたけど。まだ覚醒しきっていない意識のまま不在着信のアイコンを押下して、椅子から転げ落ちそうになる。


「…え、れ、礼ちゃん?」


 珍しい。つか、初めて? こんな時間に電話なんて。俺の右手親指は迷わず発信ボタンを押した。


《ごめんね、神威くん》

「え、いきなり謝罪?」


 もしもし、とかすっ飛ばして、慌てた様に電話口に出た礼ちゃんの申し訳なさそうな声で眠気は一気に醒めた。


《寝てたでしょう? ごめんなさい……、上手くいかないのね》

「何が? 上手くいかない、って」

《お誕生日おめでとう、って9日になった瞬間に言いたかったの……、駄目ね、乙女なことすると不慣れなせいでタイミング悪くて》


 あはは、と思わず笑いがこみ上げた。何だ何だ、この可愛い生き物は。

 や、礼ちゃんは至って真面目。トーンダウンしていく声が思い通りに運べなかったことの不甲斐なさを物語っている。笑っちゃうのは、失礼。分かっているけど。


「……可愛いなあ、礼ちゃん。俺、好きだなあ、そういうとこ」


 寝ぼけてますか、と問われた。これまた至って真面目に。

 寝ぼけてません、と即答する。どうしたって声に笑いが含まれちゃうけど。


「嬉しいよ。何でもすっごい真剣に考えてくれるんだよね? 礼ちゃん。今日、逢ってから言ってくれても良かったのに。真っ先におめでとう、って言葉が貰えて本当に嬉しい」

《……良かった。神威くんが嬉しいのなら結果オーライです》


 あ、ちょっとホッとしたような声音。そんな些細な機微を感じとることが出来る自分にもホッとする。慢心したくないからさ、礼ちゃんの素敵彼氏な立場に。


「もひとつ言ってもらえる?」

《え? や…うん。何…どれ?》

「どれ? ってどういう意味? そんないくつも無いよ? 欲しい言葉」

《あ、言葉か。言葉ね。何?》


 あ、何となく話が噛み合ってない。まだ俺の脳は、目覚めてないのかな。礼ちゃんから、何?と愛らしく先を促されたもんだから、とりあえず一旦置いといて。


「ありきたり、なんだけど」

《ありきたり? お誕生日に大好き、って言うのはありきたりなの?》

「あああ、アッサリ…」


 あ、ごめんね! とまた慌てふためく礼ちゃんの身振り手振りが目の前に浮かんでくるみたいだ。漫画だったら身体中から小さな汗が吹き出して、効果音はアタフタ、って感じね。


《あの、彼氏との甘い空気を読める彼女養成講座とかに通うわ》

「ぶ。もう良いよ、それ以上可愛くならないで」


 直接言ってね、と返事を渋る礼ちゃんへ強引に約束を取りつけた。まあ、渋られても無理はない。今日は母ちゃんが張り切って誕生日パーティーとやらを開くんだけど、みんなが集まるからね。礼ちゃんもトモくん連れて参加予定、一体いつ言えるんだっていう…。


 じゃあね、また後でね、と締めくくれる嬉しさ。うん、と応えてくれる礼ちゃん。その澄んだ声をいつまでも耳に刻み込みたい。 今夜、夢に出てこないかな、礼ちゃん。

 あぁ、でも。それはそれでヤバいかな。




 誕生日おめでとう、神威、と祝ってもらえる嬉しさって何歳まで続くのかな。学校から一旦帰宅して、武瑠と心がリーとガクを連れてやって来た。礼ちゃんとトモくんは妹尾さん家の高級車で参上する予定。

 おばちゃーん、今日はご馳走? と屈託ない笑顔を母ちゃんに向けている武瑠。心は靴を脱いで上がり框に一歩置くと、御子柴は? と確認してくる。


「まだだよ。妹尾さんと一緒に来てるとこ。どうかした?」


 心の端整な顔がくしゃりと柔らかく崩れる。

 悪い、思い出し笑い。

 そう言い残してリビングへ向かった。何なんだ、一体。


 バイトや仕事を早めに切り上げてきたらしい姉ちゃんと父ちゃんに続く様に響いたインターホンの音。キッチン傍のモニターを覗き込んだ母ちゃんが満面の笑みを浮かべて、神威出て、と言ったから、礼ちゃんが来たんだと察しはついてた。


 ついてた、のに。俺、本当に本当にビックリした。女の子の浴衣姿って(いや、礼ちゃんだけ浴衣姿なんだけど)可愛さを何割増しにするんですか?

 濃い藍色の地に白や赤やピンクで大きな花が描かれていて、あー、俺、花の名前とか分からないや。朝顔、とかじゃなくて。いやもう花の名前は実はどうでもよくて。まともに見れないんだけど、礼ちゃんを。


「……山田」

「……はあ」

「気持ちは分かるけど早く家の中入れてよ」


 すみません、妹尾さん。

 そう言いながらスリッパを二人分用意する。

 いやいやいや、まだ直視出来ないなー、顔緩みそうだし。そう思いながら片手で口元を覆い、トモくんの愛のタックルを受け止めた。

 智、と優しくたしなめる礼ちゃんの声。下駄の音が玄関の敷石にカタン、と響いた。俺の膝あたりを小さな両手で抱え込んだトモくんは、礼ちゃんそっくりの大きな瞳で俺を見上げてくる。


「カムイー、れいちゃんキレイなの!」

「ほんとだねえ」

「カムイ、れいちゃん、すき?」


 あああ、何だろう、この全く脈絡のない真っ直ぐな質問は。幼く澄んだ眼差しに邪気は無いなあ。いやー、トモくん、好きって意味ちゃんと分かってる? てか、見ないで、そんなに。カムイお兄さんはちょっと今、猛烈に恥ずかしくてね?


「うん。好き。とっても、好きだよ」


 トモくんも! と言い残すと、もう次の瞬間に愛らしい背中はリビング入口からこちらを窺っていたリーとガク目掛けて走り出していた。オイオイ、また物凄い恥ずかしさだけを置いていったな。 


「言わされてる、神威くん」


 クスクスと小さく笑いながら下駄を脱ぎ鼻緒を持ってきちんとこちら向きに揃えている礼ちゃんの、そのいちいちの所作が美しくってああもう、立派な変態だ、俺。こんなに目が離せないなんて。いやでも直視出来ないから目が泳いでるし、未だ顔半分を手で覆ったままですけどね。怪しい。挙動不審で捕まりそうだ。


「冷凍庫、お借りしても良い?」


 藍色の生地によく映えている礼ちゃんの肌白い両手の中には慎重に鎮座した正方形の箱。中身は、間違いなくケーキ。しかも冷凍庫、ってことはアイスクリーム使ってあるんだろうな……、や。いやいや、そうじゃなくて。ケーキは嬉しい。すごく。嬉しいんだけど、そうじゃなくて。


「……礼ちゃん、どうしてそんなに、普通?」

「え? 普通? 浴衣なんだけど」

「や、それは見れば分かります! そうじゃなくて! なんか、こう…、可愛い? とか、似合ってる? とか…、は、ないんだね? 乙女な彼女としては」

「神威くんのがよっぽど乙女ね。私にキャピっと感は求めないで」


 クツクツと笑いを零す礼ちゃんから、小首傾げて可愛い、なんて言われた。可愛いのはアナタです、って。本当に。俺は唇をやや尖らせながら笑みを浮かべたままの礼ちゃんと共にリビングへ向かった。


 母ちゃんが腕によりをかけたと豪語していたご馳走の品々は、あっという間に片づいていく。このメンバーでこの光景、ってお正月以来だ。


 あの頃はまだ、礼ちゃん、って呼び始めて間もなくで呼び方もぎこちなかったよな、確か。

 本当に、人間はいろんな力を秘めているけれど、明日を見通す力なんてのは持ち合わせてないから、たった数ヶ月先の展開すら読めないんだ。幸せなことも痛いことも辛いことも泣いたことも嬉しくてたまらなかったことも。こんなに凝縮して我が身に降りかかるとは想像さえもしていなかった。


 まあ、あの日と違う、俺の席。今日は主役ですから、一応。

 男子だけのローテーブルではなく、ダイニングテーブルの王様席に座らせてもらえてる。ガールズトークはそれなりに盛り上がってるけど、疎外感を味わわせない様にとの配慮だろう、礼ちゃんは俺のことを隣の席で終始気がけてくれているし。

 だから姉ちゃん、礼ちゃんにケーキを持って来させるな!


 甲斐甲斐しい、って言うんだよな、礼ちゃんのこういうとこ。細い指を折って人数を確認し、これまた慎重にケーキの色鮮やかな断面を取り皿の上へ器用に載せていく。みんなからのありがとう、に反応し、ツヤツヤの頬は赤みを帯びて、照れた様にはにかんでいる。


「……山田、溶けるよ」

「あ。ごめん。早く食べなきゃ」

「ちっがーうよ! 礼が、溶ける! そんな熱い視線送られちゃ消えてなくなる、って! 気持ちは分かるけどさ」

「……スミマセン」


 さて、と少し大きめの声で姉ちゃんがみんなを見渡す。ケーキを堪能し尽くしたご様子。議長よろしくポンと手を叩くと、テーブルの下へ隠し置いていた紙袋を取り出した。


「はい、これ。私達から」


 目線は母ちゃんと父ちゃんへ順に置かれ、姉ちゃんの表情は妙に自慢気だ。俺が好きなセレクトショップのロゴが入ったショッパー。器用にリボンが掛けられたそれを、開けて良いかと断って丁寧に開く。

 いや俺、こういうの結構バサバサ開けちゃう方なんだけど、今日は礼ちゃんもいらっしゃるから。


「え…、あ! う、わ。ありがとう!」


 お気に入りだったボディバッグは、あの一件で血の痕がついたり汚れたりしてちょっと使いづらくなってしまった。それ以来、どこへ出かけるにもポケットを膨らませている俺を見かねたのか、俺が密かにお年玉で買おうと画策していたのを見破られたのか。ベルト部には質の良さそうな革を使ってある、男子高校生には勿体ない逸品。


「これ欲しかった…、ん?」


 バッグの口には何やら厚みのある長方形の包み。開けた瞬間、姉ちゃんの顔がニヤリと崩れた。これは。志望校の赤本。


「浪人生が使うには贅沢だわよ、そのバッグ」

「し、将来有望な現役大学生が心して使…、えるように頑張ります」


 三人へ目一杯の笑顔を向け、もう一度、ありがとう、と伝えた。次いで妹尾さんから差し出された老舗百貨店の包みから出てきたのはフォトフレーム。お金持ちお嬢様厳選の品はシルバーの輝きがとても上品で、四分割されたそれぞれの枠に素人作品を据え置くのは気が引けるほどだ。


「山田、一応 写真部なんだから。注文としては三つ」

「三つ?」

「今夜の写真。私と礼の写真。卒業式の日にも全員で一枚撮って。あとの一枠はお好きにどうぞ」

「礼ちゃんの写真飾る」


 俺の即答を妹尾さんは鼻でフンと笑う。それでも心からありがとう、と頭を下げながら言うと、どういたしまして、と丁寧に返ってきた。

 男子テーブルからいつの間にかにじり寄って来た武瑠は、見慣れたショップの紙袋を差し出しながら、オレと心からね、と優しく言葉を添えてくれた。


 俺達三人の服の趣味は完璧に一致しないまでもかなり似ている。ずっと仲良くしていると似てくるものなのかもしれない。まあ、俺は和服は似合わないし、さすがにスポーツマン武瑠が一番良いカラダしてるけど。三人でプラプラと店に立ち寄ったつい最近、この夏の新作だと店長さんからお披露目されたポロシャツが紙袋から出てきた。夏らしい群青に真っ白のステッチとライン、袖口のタグ、小さなワッペンにバックプリントと派手すぎない個性が俺のどストライク。


「ありがとう、心も武瑠も!」


 ポロシャツから目を離し顔を上げて気づいた。武瑠が笑いを堪えていて、ちびっ子達の相手をしている心と何ごとか身振り手振りを交わしている。王様席の俺の左手側には、憮然とした表情の礼ちゃん。


「……何? 一体」

「……弓削くんも吉居くんも。もう少し口が堅い人かと思ってたのに」

「や、ミコちゃん! オレ達まだ何も言ってないよ?」

「言ってるようなものです、その笑い」


 悪いな、あの珍妙さを思い出してしまって、と心が背後を振り向きながら笑いを含んだ声を投げてきた。思い出し笑い。さっきもしてたな、心。


「……珍妙、って。何? 礼ちゃん。何の話?」


 礼ちゃんはふ、と苦笑しながら浴衣の袖口へ片手を入れると、小さな箱を取り出しテーブルへコトンと置いた。

 え、礼ちゃん四次元ポケットいくつも持ってるな、なんて全く関係なさそうなことをつい考えてしまった。

 礼ちゃんは手元を見つめる、口元に柔らかな笑みを浮かべて。そうして視線を上げ、俺を真っ直ぐ見て唇をゆっくり開く。


 あれ? その包装紙の柄は。

 つか俺、やっとまともに礼ちゃん見れた。少し長めの前髪を横に流して、両耳を見せてる。そのせいかいつもよりほんの少し、大人びた印象の礼ちゃん。


「お誕生日おめでとう、神威くん」

「……あ、うん。ありがとう」

「これ、気に入ってもらえると嬉しい」


 これ、と同時に俺の前へつと差し出された小箱。あ、やっぱりあの店のだ。武瑠と心と買いに行ってくれたの?


「私がどれほど真剣に深く悩み倒してそれを選んだのか、については……、弓削くんと吉居くんが語りたそうだから」

「え? あ、一緒に行ったの?」 


 礼ちゃんと武瑠と心を順に見つめる。

 手早く片づけを終えた母ちゃんと姉ちゃんは、ちびっ子達を誘って庭で花火をするつもりらしい。父ちゃんも駆り出されて、そんな賑やかなBGMを背に、礼ちゃんは耳まで真っ赤になっている。今日はまた一段と分かりやすいね。


「あのショップ、路面店でしょ? オレと心がプレゼント選んでる時にさ、店長が入口の横の窓際でしゃがみこんでてさ」


 武瑠はそう一気に言うとこみ上げる笑いを抑えるように息を継いだ。ちびっ子達から解放された心もテーブルへ近づき、武瑠の話を引き継ぐ。


「ニヤニヤしながら可愛い、なんて呟いてるもんだから、何ごとかと思えば。窓ガラスの外に百面相の御子柴がいたんだ」

「え」


 俺が感情を定めかねた咄嗟の一言を漏らすのと、神威くんには言わない約束だったのに、と礼ちゃんが口惜しそうに溜め息を吐き出すのはほぼ同時だった。


「ホワーって顔してたり眉間に深ーい皺寄せたり、頭プルプル振ったりもしてたか。何かブツブツ呟いて終いには超ニコニコして、一歩間違えば職務質問受けてたよー、ミコちゃん!」


 ニコニコの武瑠を横目に開けてみろよ、と心が言う。妹尾さんはニヤニヤ顔で静観。礼ちゃんは真っ赤な顔を隠す様に両の掌を合わせ鼻のところへ持っていくと肘をついた。そして大きな溜め息が、小さな指の隙間を抜ける。


 俺は礼ちゃんから小箱へと視線を移し、お洒落な柄の包装をピリと破いた。そんなに見つめられたら手元が狂う。厚みのある箱の蓋をそっと持ち上げると、目の前に現れたのは腕時計だった。


「……うわ。すご…、」


 これは、あれだ。店のショーケースというのか、入口の横、人が行き交う通路に面したガラス張りのディスプレイスペースに飾ってあった。シルバーの輝き、文字盤の澄んだ碧、個性的な字体、正確に時を刻んでいく細い秒針。そのどれもに見覚えがある。


「……礼ちゃん」

「……はい」

「礼ちゃん……、礼ちゃん!」

「はいはい。何ですか?」

「ほんっとにありがとう! いや俺、どうしよう! スッゴいスッゴいスッゴい嬉しい! ちょっと興奮してしまう!」


 どうしよう、どうしよう、どうしたら良いんだ?! 俺! 初めてつき合った彼女に初めていただくプレゼント。こんなに嬉しくてたまらなくて“ありがとう”だけで物足りない気持ちになるなんて! あああ、でも無理だ! 俺の貧困なボキャブラリーでは“ありがとう”と“嬉しい”が無限ループするだけだ!


「はめてみてね? サイズが合わなかったら店長さんが調整してくださるみたい」


 未だ鼻から下を覆っている礼ちゃんの声はくぐもって聞こえるけれど、優しくて穏やか。口元はきっと笑っている。口角が上がっている声音だ。


「うん…あ、いや、ちょうど良い。ピッタリ!」


 ほらね? と礼ちゃんの目の前へ俺は左腕を差し出す。途端、礼ちゃんの両手は顔から離れ白く細い右手の指が俺の肌に触れた。


「……本当に。よく、似合ってる。良かった。嬉しい」

「えっ?! あ…、」


 サイズ、の話だと思った。俺はそう思ったんだけど、礼ちゃんの小さな指は俺の腕と時計を何やら確認する様にそっと触れてくる。

 サイズ、じゃないね。そうか、そうだ。礼ちゃんはガラス越しにショーケースを覗き込みながら、実体じゃない俺をそこに思い描いてくれてたんだ。そうだよ、俺だってそうだった。ブレスレットを、ネックレスを創る時、手作業の傍にいつも礼ちゃんを思い描いてた。


 それはとっても幸せな気分に満ちていて、でも同時に一抹の不安を否応なく抱かされる時間でもあった。プレゼントしたい相手の反応は、手渡したその瞬間まで分からないもんね。喜んでくれるに違いない、なんて一方的な決めつけはしたくないから。


「……似合ってる? 負けてない? 俺」

「とっても綺麗よ、神威くん」

「……綺麗、って」」


 ふふ、と礼ちゃんは俺の大好きなあの笑顔までプレゼントしてくれる。今日もしっとりと温度が低い指。夏なのに、いや、違うな。俺が興奮しすぎて体温まで上がってるから?


「御子柴、渾身の百面相を披露した甲斐があったな」

「ほんとだよー、オレらがどれだけ“神威は喜ぶよ”っつっても不安そうでさ」

「……もう触れないで下さい、そこ」

「礼、山田のお気に入りショップなんてよく知ってたね? 本人から訊いた?」

「和泉さんが教えてくれたの」

「ある意味さすがだなー、和泉」


 俺は四人の会話を耳にしながら、一人ニマニマと左腕の輝きを見つめた。もうずっとそこが定位置だったように違和感なくおさまっていて、何となくそれまでもが、嬉しかった。



 妹尾さん家の高級外車が余裕たっぷりの空間にみんなを乗せて、楽しかった時間は、必ず終わる。何度も何度も学習してきたはずなのに、慣れることなんてない。バイバイ、の時はいつだって切ない。


「山田、さっさと現像して見せてね」

「全力尽くします」




 じゃあ迎えに来てもらうから、という妹尾さんの声が号令となって、慌てて始めた帰り支度と写真撮影。携帯電話で撮るのは何だから、と俺は一眼レフを持ち出したけど三脚がなくて、結局シャッターを押したのは父ちゃんだから、どんな出来映えやら。

 例によって母ちゃんが武瑠や心にタッパーを持たせ、ちびっ子達へ忘れ物はないかと玄関脇に皆 集まって慌ただしく確認している最中。

 Tシャツの裾が後ろからつい、と引かれた。振り向かなくても誰だか分かる。強すぎず弱すぎず、そんな小さな動きすら柔らかくて優しい礼ちゃん。これぞ、愛の力ね。


「神威くん、これ」


 わわわわっ!? 礼ちゃん、何を?! 浴衣の…そこ、何て言うの? 胸の前で合わさってる部分にすっと手を入れると、礼ちゃんは白い封筒を取り出した。

 ゆ、浴衣って。摩訶不思議だね。いろんなとこに隠しもの出来るんだね。


「後から、読んでね」

「……え。何?」

「不幸の手紙」


 そんな訳ないでしょ、って俺、笑いながら言ったのに。礼ちゃんは至極真面目な顔で応える。


「神威くんにとっては、そうなるかもしれないわ。私にとっては、幸せの手紙」


 れーい、と玄関先から妹尾さんの声がする。お迎えの車が到着したらしい。綺麗な笑顔をそこに残して、礼ちゃんは下駄を履こうと框に腰を下ろし、思い出した様に、あ、と呟いた。


「神威くん、大好き」

「な、…もう、何? いきなり」

「あれ。約束してなかった?」

「し、てたけど。いや、してたけども!」


 もう、こんな不意打ち。俺はいつだって、礼ちゃんにペースを持っていかれる。本当に狡いな、この無意識小悪魔め。




 礼ちゃんから手渡された封筒は、簡素な白の、20枚入り税抜き100円、といった風で、いわゆる“ラブレター”にありがちな甘い空気は漂ってこない。風呂上がりの濡れた髪をゴシゴシと拭きながら、俺はベッドへ腰を下ろした。


 これ。礼ちゃんの胸元から……、ああ、ヤバい。まるっきり思考がアホだな、俺。どんだけ欲求不満なんだ。

 温もりが残ってる気がする。礼ちゃんの香りも。気のせい、なんだけど。

 俺、もっと淡泊だと思ってたんだけどな。今日は眠れないかもしれない。


 糊付けされていないから開封は簡単。指を入れ取り出した薄っぺらいツルツルの紙。白地に薄茶色の罫線が細かく几帳面に引いてある。そこに記された見覚えのある字。綺麗な、ちょっと右上がりの……、これ。何? いや、その自問は的外れだ。だって、書いてあるから答えは明白。左上に『婚姻届』って。


 半分だけ、綺麗に埋めてある。礼ちゃんのお母さんの名前もある。

“その他”の欄に未成年者の婚姻に同意します、とか、父:平成×年に死亡、とか、必要事項は全て網羅されているっぽい。


 リアルだ。これは、リアル。きっと受理されるんだろう。内容は完璧だ、あとの半分が埋まれば。

 それが何を意味するのか、分かるよ。いくら驚きが先に立ったって。

 いつの間にか立ち上がっていた俺の足元へヒラリと落ちた小さな紙。そこにも礼ちゃんを彷彿とさせる華奢で美しい文字が、美しい日本語を綴っていた。


『神威くん


 もしも提出する時は、ぜひお誘い下さいね。お供いたします。

 提出しなくても構わないわ。それでも、私は絶対、ずっと、神威くんを大好きだから。これが私の未来の預け方です。


 神威くん、本当に本当に、ありがとうね。私を見つけてくれて。私を好きになってくれて。

 それまで何となく生きていて、夢も目的も無くボンヤリしていた私の毎日は、神威くんやみんなと出逢って急に色づき始めました。

 辛くてどうしようもないことだってあったけれど、でも、たぶんちょっとだけ強くなれた。


 私は、思いました。人間は、変われるのかもしれない、大切な人と共に生きていくために。そして自分が変われば、見えてくる世界は違うのかもしれない。

 そうであるならば、私はそれを神威くんと見ていたい、ずっと。

 絶対、が存在する未来は、あるのではないでしょうか。

 あるいは神威くんとなら、創りあげていくことが出来るのではないでしょうか。


 愛、だなんて軽々しく口に出来るほど、私はそれが如何なるものか解っていないけれど。

 神威くんのことを想うだけで笑顔になれるし、幸せな気分でいっぱいになれるの。それを愛と呼ぶのなら。

 愛してるわ。神威くん。

 神威くんがこの世に生を受けた今日この日に感謝し尽くしても足りないです。

 お誕生日おめでとう。


 礼』


 男の子なんだから簡単に泣くんじゃないわよ、って俺、散々 姉ちゃんから言われてきたんだけど。

 ちょっと、泣きそうだよ。礼ちゃん。もちろん、嬉しい方で。

 メールの無機質なフォントではない肉筆が、礼ちゃんの真摯さを表していると思った。だからこそ、こんなにも胸が熱い。目頭も、熱い。

 俺はス、と鼻を啜ると机に置いていた携帯電話を取り上げリダイヤルから発信した。携帯電話の液晶画面はすぐに通話中へと変わる。もしもし、と夜の静寂に優しく染み込む大好きな人の声。


「……礼ちゃん。起きてた?」

《待ってた》


 もう、ほらね? こうやってたった一言で俺を骨抜きにしていくんだ、この人は。起きてた? って訊いたのに、そんな答えじゃ自惚れてしまう。


《読んでくれた?》

「読んだ、なんてもんじゃないよ、もう……、暗記した」

《悲しき受験生の性ですね》


 ふふ、と届く小さな笑いが耳に心地好い。


「礼ちゃん…ねえ。無理してない?」


 気がかりだった胸のくすぶりは、不意に口をついて出た。だって礼ちゃんは、本当に本当に優しいから。自分のことを蔑ろにし過ぎじゃないかと諭したくなるほどに、他の人のことを考えるから。


《無理なんてしてないわ。神威くんこそ無理しないでね?》

「俺? 俺は別に何も」

《あの紙を預けたからって…、良いのよ? 私のこと、背負い込まなくても。他に好きな人ができたらその時は——》

「な、ちょ、もう! バカ? 礼ちゃん!」


 携帯電話をギリ、と握りつぶしそうになった。何だ何だ、本当に。どこをどう見たら俺にそんな時が来るんだよ?!


「あのね、礼ちゃんは甘く見てる。いや、軽く見てる! 俺はね、礼ちゃんがこれくらいかな、って考えてるその数千億光年倍以上! 礼ちゃんのことが好きすぎてね! 夜な夜な欲望と闘ってんだよ! 重いよ! しつこいよ! きっと面倒くさい男だよ! 俺は!」


 しまった。興奮のままに俺、何 言ってんだ。あー、とか、えーっと、とかそりゃ二の句に困るよね、礼ちゃん。


《……う、宇宙規模。神威くん……、えと、ありがと》

「……いや、うん。あの。だから。他の人を、とか、あり得ないから。そこはちゃんと胸に刻んでて?」


 コホ、とわざとらしく咳払いをし、場を仕切り直そうとする。分かった、って返事の後に続く…何だろう? 衣擦れの音? ククク、って抑えた笑い声。礼ちゃん、部屋で一人、お腹抱えてんのかな。


「ね、いっこ訊いて良い?」

《いくつでもどうぞ》


 また大盤振る舞いだな。笑いを含んだ澄んだ声音。耳元で軽やかに転がるから距離があることを忘れてしまいそうになる。


「礼ちゃんの未来図って、どんなの? ……もし、嫌じゃなかったら、教えてくれないかな、って」


 ほんのちょっと訪れた沈黙に胸がザワザワと音を立てた。踏み込みすぎた? 親しき仲にも礼儀あり、ってやつだった?


《キヌおばちゃんもスズおばちゃんも長生きしそうだと思わない?》

「え、そこ俺が気安く同意して良いとこ?」


 俺の即答に礼ちゃんはぶふ、と噴き出しながらやっぱりそう思うよね、と話を続ける。しまった。俺、何となく誘導尋問に引っかかった感が。


《あの二人、目の黒いうちは絶対譲らない、って言い張るの。スズキヌ屋》

「……礼ちゃん、やっぱり島へ帰りたいんだ?」


 俺の声はよほど一気に低くなったのだろう。礼ちゃんは慌てて違うの、と続ける。


《島へ帰りたい、のではなくて。みんなが帰って来られる場所を創りたいの。

 スズキヌ屋みたくね、気軽に集まれる、なごみの場所。自分のお店、をね。持ちたいなあ、って》


“自分のお店”


 礼ちゃんの言葉を脳内でそっと反芻した。だからか。ちょっと意外な気がしたんだけど。


「だからの経済学部?」


 そう、ちゃんと経営学を専攻したくて。

 礼ちゃんの声は堅実な進路を俺に伝えてくる。そこには、確実な変化が存在して、俺は気圧されるやら嬉しくなるやら、感情を持て余し気味だ。


 だってね? 記憶違いでなければ、数ヶ月前の礼ちゃんは、大学進学と共に俺達は離れてしまって、女子大生にチヤホヤされるやらスカウトされるやらの俺を勝手に想像して、自分は地元を動けない、と何やらボンヤリとどんよりした冬空を見上げながら暗く一人ごちてなかったっけ? まあ、あれはあれで可愛かったけど。

 凛とした礼ちゃんの未来図がもしも俺との出逢いで描けたんだとしたら。

 いや、あの手紙にはそう、あった。あああ、もう! なんで電話なんだ、今! 腕の中でギュウギュウにしてしまいたいのに!


《万葉はしばらくアメリカでしょう? 弓削くんや吉居くんとはあと四年一緒に過ごせると仮定しても。そこから先は、離れてしまうかもしれないわ》

「俺は礼ちゃんにくっついてくけどね」

《逆でしょう? 私が神威くんのストーカーよ。ね、話が逸れちゃうけど男の人へ時計をプレゼントする意味、って知ってる?》


 知らない、と正直に応えるとこそばゆくてたまらなくなるフレーズが耳元で囁かれた。“あなたの時間を束縛したい”って。うん、もう俺、今夜は眠れない確定。


《でもね、たとえ離れてしまっても帰って来られる場所があったなら。そこに集まって、みんなでまた素敵な時間を共有できるかな、って……、というのは建て前で。本当は、私自身がこの縁にしがみつきたくてたまらないだけなの》


 そこはきっと、マイナスイオンに溢れていて、誰だってありのままを受け容れてもらえる癒やしの空間になるんだろう。高い天窓とかあってさ、燦々と降り注ぐ光が眠気を誘うくらい心を解きほぐしていくんだ。取り繕う必要も肩肘張る必要も無くて、礼ちゃんの手に掛かったもてなしの数々より、何よりその笑顔が最高のご馳走で……。

 礼ちゃんの、笑顔、がね。そこを訪れる多くの人にね。向けられる訳だよね。


「……うわー、そうなるかあ。いや、そりゃそうだよねー、客商売だもん。お客様は神様だよねー、でもなあ」

《……神威くん?》

「あんまり広くなくて良い? いや、導線は動き易く取るとしてさ、俺の目が届かないとこに礼ちゃんがいるのは嫌だ」

《え? 広…、あ、うん、カフェをね、したいと思ってて》


 あ、カフェね。うん、それは凄く良さそう。礼ちゃんの手作りスイーツは最高だし、淹れてくれるコーヒーも紅茶もお茶も美味しいし。美人シェフご自慢のカフェ飯なんつーのも話題になったりして。

 あー、俺の学部選択に間違いはなかったな。こんなにも需要と供給が合致するなんて。


「俺に造らせてね? つか、俺が造る」 

《え、何? ケーキ? 神威くんが作るの?》

「ちがーうよ! 俺は芸術工学部を受験致します! そのカフェ、俺に造らせてね、って話」

《……神威くん……、》


 次に何が続くのかと思えば沈黙、そして…すすり泣き?


「礼ちゃん…、泣かないで? 俺がいないとこで泣かないでよ。なでなでもハグハグも出来ないのはキツいよ」


 ごめんね、と小さく聞こえた。いや、正確にはごべんで、って聞こえたけど。


「俺もごめんね。妄想が暴走して、頭の中でもう設計図まで書き始めてた。礼ちゃんの未来図なのに見事に乗っかってるね、俺」

《……実現したら、素敵》

「するよ、実現。つか、させようよ。あのね、俺、父ちゃんと設計事務所開きたいな、って話 してて。父ちゃん、早期退職するつもりらしいから」


 凄い、って礼ちゃんが小さく息をのむ音がした。

 ああ、ほらね。やっぱり世界は一人という最小単位で無機質に廻っていくものではなくて、大好きな人達との素敵な出逢いがカラフルで美しい彩りを幾重にも見せてくれる。


「事務所の横に礼ちゃんのカフェ、看板犬はカムイ。アメリカから帰って来る妹尾さんに、先生になった武瑠と、法曹界の…、何かしら大物になった心。葛西先生は、独身なのかな。礼ちゃんのお母さんもトモくん連れて息抜きに来て、ドッグランも造ろうか。肝心の融資は妹尾さんに綿密な返済計画書を出してお願いしてさ」


 いつか、と礼ちゃんは言いかけて言葉を切った。良いんだよ、礼ちゃん。最後までちゃんと言ってくれて構わない。俺だってもうとうにそのつもりなんだから。


「……いつか、右京も。来てくれると良いね? 一人でも、誰かとでも」


 うん、と濁点が付きそうな涙声で礼ちゃんは応えた。 

 礼ちゃん、その携帯電話、防水機能付いてるの? 壊れちゃうよ、全く。少ーし強くなったとは言え、やっぱり泣き虫なんだからね。


「……礼ちゃん?」


 ズ、と盛大に鼻水啜ったねえ。色気もムードも無いけれど、何とか懸命になあに、と問うてくる姿勢が可愛い。


「ありがとね……、本当に、いろいろ、ありがとう」

《それは、私のセリフ》


 取らないで、とでも言いたげに礼ちゃんはふふ、と小さく笑う。きっと目を真っ赤にして、それは白い肌を一層引き立ててるんだろう。目にする度に腕の中に閉じ込めておきたい衝動に駆られるあの笑顔。そうして俺は、それが遠くない未来、不特定多数に向けられるシーンを思い描いては、ほんの少し絶望的な気分になったりして。


「俺、頑張るよ。いつまでも礼ちゃんの素敵彼氏でいられるように」

《あ、彼氏で良いんだ? いつまでも》

「……くっそー。あげ足取るなあ」


 クツクツと耳に入る幸せな音。俺、こんなに感受性豊かだった? 礼ちゃんの何もかもを取りこぼしたくないと必死だからかな。


「……あのね、後からメールで暗号送るから」

《暗号?》

「保護してね、俺の渾身の作だから。礼ちゃんなら、すぐ解読出来るよ」


 楽しみに待ってるね、なんて愛らしく言われればデレッデレに溶けそうな顔を必死で押しとどめるのが精一杯。どうしてそう、綺麗なんだかな。礼ちゃんの日本語は。

 俺は、じゃあ、と締めくくった。バイバイ、はやっぱりちょっと寂しくなるから置いといて。また明日ね、の言葉で俺達の日常は繋がって続いていくんだ。



 俺が葛西先生から聴いて暗記したあの詩をそのまま武瑠に伝えれば、武瑠はしばし目線を宙にさまよわせた。かと思ったらニヤリと笑って、暗号というか謎解きの初歩だよね、と言う。そりゃあキミはコナンくんが師匠だろうけど、俺は海賊王派だからさ。


「神威、耳で聴いてばっかなんでしょ? 書いてみなよ?」

「え、それで解る?」


 平仮名でね、と武瑠は笑った。平仮名で。俺は素直に反応しながら手近な紙へ文字を書き起こす。


 やさしくて

 まっすぐで

 だきしめてほしいひと…… 


 先頭の文字を目で追って途中で気づいた。さすがに。気づけて良かった。


「ミコちゃん、これ誰にも読まれてないのかなー。素敵だね、秘めたる愛の告白!」


 タイトルは、私の光、だった。俺、礼ちゃんから何ともたとえようのない嬉しすぎる感情を与えてもらうのは、一体何度目なんだろう。それに比してどれほどを俺は礼ちゃんへ与えてあげられてる?


 あの日から、ずっと考えてる。こんなお洒落な想いの伝え方、文才に欠ける俺にとっては本当に本当に難しい。武瑠や心なら、難なくこなせるのかもしれない、でも誰かに頼っちゃ意味なくて。俺自身が考えることに意義がある。

 と、思ってるけど喜んでくれるかな、礼ちゃん。


『見つけてくれてありがとう

 これからずっと一緒だよ

 信じてる だから 信じてて

 バルスの瞬間も手を離さない

 連理の枝 比翼の鳥

 いつも隣で笑ってて』


 ば、がね。イマイチだよね、分かってる。でもこれか“バカップル”しか思いつかなかったんだよ。もう、本当に悲しくなる。俺の国語力の無さ。いや、表現力? ボキャブラリー? 鍛えるべきは男子力だけじゃないなあ。

 俺じゃない誰かなら、もっと心にズシリと響く叙情的な愛の詩を贈れたりしてね? そんなヤツ、贈ろうとする前にひねり潰してやるけどね。あー、怖い。そんな未来、万が一にも可能性ゼロとは言い切れない。毎日毎日、大好き、って礼ちゃんの耳元で繰り返そう。洗脳してマインドコントロールだ。


 タイトルは『宝物』。あああ、どうか礼ちゃん! チ、とか舌打ちしないでそっと保護だけして! 送信、っと。


 しばらくの間ぼんやりと、送信しました、のメッセージをただ見つめていた。それはそのうち暗転し、夜の静けさと同化する。

 礼ちゃん、どう思うだろ。センス無いな、とか…いや、優しいからそんなあからさまな感想は抱かないかな。感想すら俺を気遣って、これが神威くんの限界なのね、とか……、止めた。考えこむの。ほら、きっとこういうのって基礎力を伸ばすには努力と場数と…やっぱりセンス?あああ、暗い。俺、もう今夜は眠れない確定なんだし、写真のプリントアウトでもしよ。


 そう思って携帯電話をパチンと閉じるとベッドの上へ放り投げ、胡座を解いて立ち上がる。カメラの液晶部分でSDカードへ画像をコピーし、プリンターへ挿入した。デジタル機器の硬質さも小窓へ次々と映し出されるみんなの笑顔で柔らかく感じられる。


「……可愛いなあ、礼ちゃん」


 部屋には俺一人きり。誰も聞き耳立ててないから、心の声を思い切り口に出した。初めて目にした浴衣姿。みんなにちょっと冷やかされながら並んで写る礼ちゃんと俺。はにかんで、大きな瞳は綺麗な三日月の形。横に流してある前髪のせいか、眉の美しい流線が際立つ。

 もちろん、惹かれたのはその容姿じゃなくて内面なんだけど、それにしたって礼ちゃん、どんどん可愛くなってってる。ますます心配。ますますジェラシー。ますます閉じ込めておきたい。

 でもさ、その原因が俺と仲良くなることと比例してるんだとしたら。


「……やっべ」


 俺、本当に眠れないな。妙に興奮しちゃって。

 プリンターが吐き出す、輝きが凝縮された瞬間を手に取りながら確認していると、窓際から聞き慣れない音が耳に入ってきた。

 夜光虫が窓ガラスに体当たりしているのか、そんな煌々と闇を照らす街灯なんて家の周りには無かった筈だけど。カーテンがちょっと開いてるから?

 きちんと閉めるか、と一人ごちて立ち上がり膝を伸ばした。床に座り込んでいた目線の高さでは気づけなかった携帯電話の不在着信ランプが視界に入る。

 珍し。つか…あれ。何か胸騒ぎ。


 鷲掴みにして急いた両手で本体を開くと、不在着信のアイコンは礼ちゃんの個人情報を明示した。3分前と5分前。あああ! 俺のバカ! 俺のバカ! 俺のバカ! おかしいと違和感を抱くべきだった。礼ちゃんから反応がありそうなものなのに。保護したよ、ってメールなり電話なり。なんでマナーモードにしちゃってんだ! よりによってタオルケットの上へ放り投げてたもんだから、着信鳴動は見事に吸い込まれて耳に届く訳がない! プリンターがガフガフと働いてたし!


「もしもし? 礼ちゃん?」


 勢い込んで折り返した通話は、スピーカーから明らかな室外のざわめきを運んできた。え?! 外? ディスプレイをちらと見れば時刻は21時半。


《あ、神威くん? 良かった!》

「良くない良くない! 外? 外にいるの礼ちゃん?! こんな時間に危ないって!」

《大丈夫よ? 自転車で来たし》

「自転車…?」


 乗れるのよ? 私、ってちょっぴり威張った様な礼ちゃんの明るい声が耳を通り抜けていった。

 ……来た、って、言ったよね? 今。


 窓際へ瞬間移動してカーテンを開け、もどかしい思いで窓を開け放つ。下ろした視線は一瞬闇に吸い込まれたけれど、小さな手を振り俺を見上げる礼ちゃんの白さがそこだけ浮き立って目に入ってきた。

 たぶん、うわあああああっ! って叫んで俺は階段を一段飛ばしで駆け下りた。うるさいわよ神威! って姉ちゃんの声が背中に浴びせられたけど、そんなの構ってらんないって!


「何してんの?! 礼ちゃん!!」


 あああ、俺 慌ててる。まだ携帯電話耳に当てたまま話してた。玄関の戸を開けた目の前には、礼ちゃん本人がいるってのに。

 パチンと携帯電話を片手で閉じて、礼ちゃんはゆるりと微笑む。本物、だよね。

 俺は門扉を開け、促すように礼ちゃんと自転車を引き入れ立てかけると、確かめる様に吸い込まれる様に礼ちゃんの頬をそっと触った。


「……ほんと、何してんの? 礼ちゃん…」

「逢いたくなって。どうしても、直接、言いたくて。ありがとう、って」


 礼ちゃん、きっと自転車を全力で漕いで来てくれたに違いない。息が上がってるし、前髪の隙間から覗く額には、玉のような汗が小さく浮かんでるし。早鐘の様に打っているのか、動悸を鎮めようと胸に手を当てて。でも、これでもかってくらい、ニコニコ。


 逢いたくなって、って直接、って何なの、それ? 何? その可愛さ!


「…っ、何なんだよ、もう…! 礼ちゃん、俺のことどうしたいの…?」


 ギュウウウッ、って背後に効果音の吹き出しが欲しいくらい、俺は礼ちゃんを腕の中に抱きしめた。


「ギ、ギブ! 神威くん! 汗臭いし! ここ神威くん家だし! ちょっと、」

「無理無理無理無理! 絶対 無理! もひとつ無理! おまけに無理! 可愛い礼ちゃんが悪い!」

「え。私?」


 あはは、って礼ちゃんは笑って大人しく俺の腕の中に収まってくれた。

 もう、止めて止めて。どうしておでこを俺の胸にポスポス当ててるの? そういうのもいちいち可愛くてデレデレすんだから、俺。


「……神威くん」

「何?」

「神威くん?」

「はい。何ですか?」

「……ごめんなさい、こんな時間に。非常識よね……、でも」


 礼ちゃんは俺の腕の中でほんの少し身じろいだ。細い両腕を胸の前からそうっと背中へ回してくれる。礼ちゃんの両手がふんわりと結び合わさって、俺はとんでもなく幸せな気分に包み込まれた。


「……自分でも、信じられない。こんな衝動的なことするなんて」


 夜の闇を駆ける。真夏の生温かな風を切って。街のざわめきは耳に入らず自分の鼓動しか聞こえてこない。言い表しようのない高揚感に襲われても、もう何もかもが心地好かった。どうしても、どうしても。逢いたかったの。


 なぁんて、優しい声でポツリポツリと言われてさ。俺にどうやって正気を保てと? 神様。礼ちゃんの唇は俺の心臓近くにあって、柔らかく言葉が紡ぎ出されるたびに伝わる細かな動きが、ドクドクと妙に波打って身体中へ広がっていく。


「……恋愛至上主義のお母さんと同じ様なことしてるのかな、って思った。思ったんだけど……、不思議と嫌な気分じゃなかった」


 あー、もう限界だ。チラッと辺りを見渡して人気の無いことを確認しちゃった俺はサカってますか? ますよね? でもさ、全身全霊で言われてるみたい、“大好きだ”って。自惚れじゃないと、後押しが欲しいとこだけど。


「……礼ちゃん?」


 見上げてくる瞳は辺りの闇よりはるかに黒く、でもキラキラと輝いていて。あー、俺が夜光虫か。吸い寄せられるように、俺は礼ちゃんとの距離をゼロに近づけた。


「オイ、そこのエロヘタレ」


 俺が反応するより光速で、礼ちゃんは俺から離れていった。あああ、辺りは見渡して確認したけれど、背後の玄関先は盲点でした……。


「……はい、お姉様」

「ご近所の目を考えろ。慎みを持て、日本人!」


 すみませんお姉さん! 礼ちゃんは深々と頭を下げ、いやもう土下座するんじゃないかと心配になるくらい姉ちゃんへ詫びている。


「ミコちゃんが謝るとこじゃないのよ? 勝手に盛ってんのは神威でしょ?」

「いえ、でも…こんな時間に。さっきまでお邪魔してたのに不謹慎——」

「ぶ」


 あ、しまった。思わず噴き出してしまった。笑うところがどこにあったのかと問いたげな礼ちゃんと姉ちゃんの視線が痛い。


「……ごめん。つくづく礼ちゃんって生真面目」


 そう言うと礼ちゃんは眉をひそめて複雑な表情を見せた。暗がりでも何となく分かるよ。


「……だって、やっぱり。ご家族は良い気分じゃないでしょう? 好き、って感情だけを最優先にして行動したら、周りに不快感を与えるわ……、少なくとも私はそうだった」

「んー、でもそういう理性を吹き飛ばすくらい逢いたくて逢いたくて仕方なかったんだ? 俺、スッゴい嬉しいんだけど!」


 俺は腕組みをして目線を下げ、礼ちゃんの顔を覗き込む。姉ちゃんが開けた玄関の扉から漏れてくる室内の明るさが手伝ってくれなくても、礼ちゃんの頬に紅が走ったのを見逃さなかった。


「ミコちゃん、中に入って? 家まで送ってくから」

「あ、いえ…私、自転車で」

「車に積むから大丈夫よ。それ子ども用でしょ?」


 ぶ、とまた噴き出してしまう。確かにちっちゃいな、礼ちゃんの自転車。


「……そこ、笑うとこじゃないわ」

「そうよ。神威は外で蚊に刺されてろ」

「ふ…や、ごめんね? これこそ不謹慎、ってやつだね」


 何となく、礼ちゃんの高揚が俺にも伝染したようにこみ上げてくる笑いが治まらない。俺は握り拳を口元へ当てながら門扉へ立てかけていた自転車を起こし、礼ちゃんの背を軽く押して駐車場へと促した。

 いつもに比べると短時間で準備を済ませて出てきてくれた姉ちゃん。俺達は蚊に刺されることもなく車に乗り込んだ。もちろん、ちっこい自転車も一緒に。


「お姉さん、本当にすみません」

「良いわよー。それよりさっきのメール見てくれた?」

「あ、はい。よく撮れてましたよ」

「……ねえ」


 俺は姉ちゃんと礼ちゃんによる女同士の会話に割って入った。ちょっと違和感。いや、かなり違和感。


「姉ちゃん、礼ちゃんとメールしてんの? つか、いつの間にそんな仲に?」

「内緒」


 姉ちゃんは短くそれだけ言い置くと、それ以上は答えないよ、と暗に背中で語る。かたや礼ちゃんは、姉ちゃんに無理やり座らされた助手席から背後の俺を振り返り何か言いたげに柔らかく微笑む。


「……あの話、しちゃ駄目ですか? 美琴お姉さん。神威くん、不満そうですよ?」

「甘いわねー、ミコちゃん。神威のこと甘やかしたって何も良いことないわよー」

「何? あの話って」


 神威しつこい、と姉ちゃんが苦笑して、礼ちゃんはクククと笑いをこらえる。何だろう、とても不思議な気分。疎外感、とは違うもの。


 姉ちゃんは昔から俺に近づこうとする女子に厳しかった。歳も近かったから“山田くんのお姉さん”って肩書きは否応無しについて回っただろうし、和泉しかり、橋渡しを頼もうとする子なんて、目の前で手紙破られたり断られたりしたらしい。泣いたりすると余計に罵声が飛んできたという噂も耳にした。その人が、こんなにも礼ちゃんを。


「……なんか、仲良し姉妹だね。すっかり」

「あ、そう見える? 私、妹も欲しかったのよ! 本当に! 弟なんて好きな遊びが違うし、すぐ泣くしさ」

「いやいや! アナタ、誰より男らしく遊んでましたって! 暴れん坊で俺らのこと泣かしてたんでしょーが!」

「一緒に服 買いに行ったり貸し借りも出来ないしさ」

「スルーか?!」

「残念ながら貸し借りは私も…、」


 美琴お姉さん、背 高いしスタイル良いですもん。

 礼ちゃんは申し訳なさそうに俯いて言った。


「なに言ってんの? 礼ちゃん! 礼ちゃんのちっちゃさはたまらなく可愛いって!」

「そうよ! 165センチなんてかえって中途半端なのよ!」

「スタイル良いってのも見かけ倒しだからね? 毎日、寄せて上げてに時間かけてんだから」

「黙れ! 小僧!」


 今日は誰ものテンションが可笑しいのかも。俺達を乗せた車は優しく灯る家々の温かさを縫って、笑いが絶えないまま礼ちゃんの家へと向かった。

 礼ちゃんの自転車を礼ちゃん家の庭の一画へ押して運んでいる時、礼ちゃんは、あのね、と小声で顔を近づけて来た。

 あああ、疚しい! 俺! 何を期待してんだ?!


「さっきの、内緒の話」

「……あ」


 俺の顔、真っ赤になってないだろうか、見られるのは恥ずかしい。俺は無意識の内に片手で口元を覆いながら、続く礼ちゃんの言葉を待った。


「……私が、逃げちゃう前の日。神威くんのお見舞いに行った、最後の日。私、お願いされたの」


 姉ちゃんは、礼ちゃんに紙切れを渡しながら言ったらしい。


『これ、私の連絡先。絶対、無くさないで。私のこの先の幸せ全部、神威にあげて構わない。私のこの先の一生のお願い全部、今ここでするわ。私と、友達になって? ミコちゃん』


 それだけ、早口で言い切られると、じっと見つめられた礼ちゃんはただ頷くしかなかった、と視線を少し遠くに置いて目を細めた。


「……もしも、だけど。私が上手に逃げ回って、神威くんが私を見つけられなかったとしても。私には、お姉さん、って切り札があった」

「……もう一度、きっと——」

「そう。もう一度、きっと逢えるように。この先の幸せも一生のお願いも全部、少しの迷いも無く神威くんのために投げ打っちゃえるお姉さんは、とても素敵。そんな風に大切に想われてる神威くんも山田家の皆さんも、素敵」


 こそばゆい。褒めてもらってる、ってだけじゃなくて礼ちゃんにかかれば素敵、という単語が持ち合わせる本来の響きより何倍も美しく聞こえるから。

 それにさ。そんな美談、内緒にしてるなんて。山田家に隠しごとは無い筈なのに何だよ、姉ちゃん。やっぱり男らしいな。


「……そんな山田家の一員に。なってくれるんだよね? 礼ちゃん」


 礼ちゃん家の玄関へ向かいながら俺は出来るだけさり気なく、決して押しつけがましく聞こえないように確認した。

 いや、あんな届までご丁寧にご用意下さって、今更、冗談でしたー、とか…、無いよね? 無いと思うんだけど。同時に実感も、無いというか。

 一歩先行く礼ちゃんは、ふわりと顔を俺に向けた。夜の風はシャンプーだか石鹸だかの良い香りまで、サラツヤの髪の毛と一緒にたなびかせる。開きかけた口の端に浮かんでいるのは、ちょっとだけ意地悪な色?


「神威くんの宝物は御子柴 礼、なんでしょう?」

「……何だろう、その質問。どう答えるべき? 俺。試されてる?」


 ポーチの灯りの下で礼ちゃんはくすりと笑った。意地悪な色はまだ残ってるな。瞳の端までキランと光りそうだ。


「やまだれい、じゃなかったのよ」

「……え」

「暗号、すなわち神威くんの宝物。だから私、山田家の一員には——」


 なれないんじゃないかな? って続いたのであろう唇を俺は目一杯の速さで防いだ。いや、塞いだ。ほんの、一瞬だけね。離れざまに薄ら目で礼ちゃんを見れば、大きな瞳をさらに大きく見開いて固まっている。息をすることすら忘れてしまっているように。


「……駄目だよ。言の葉には言霊が宿るんだから。そんなの、言わせない」


 ごめんなさい、と礼ちゃんはようやく言葉を吐いた。大きな息と共に。本当に時間も呼吸も数瞬 止まっていたらしい。


「質が悪い冗談でした。猛省してます」

「真面目か! まあ、俺もぬかったけど。れい、だけにすりゃ良かった。あそこはすぐに浮かんだのに……、ば、とか。スッゴい考えたのに」

「ありがとう、神威くん。本当に」


 一生、忘れないわ。そう澄んだ声で明瞭に言われた。

 人間の顔って左右非対称だと聞くけれど、礼ちゃんの両の口角はどちらも綺麗に上がってく。可愛い。もっかいチューしたい。


「俺だって、忘れられないよ? “本物の光”」

「え? な、んで知っ…!?」


 俺は葛西先生が偶然手にした礼ちゃんの作品と、それを読んで答を導き出した先生が俺を礼ちゃんへオススメし、故にキューピッドだと自称していることなどを手短に伝えた。

 姉ちゃん、イライラしながら待ってるかな。


「……うわ。恥ずかしい。保健室で…、あの時もうバレてたのね? 私の気持ち。だからか、やけにキッパリ“神威をこと好きなの?” って…訊いてくるな、って。あああ、そうなんだ! うわ」


 礼ちゃんはもう一度、恥ずかしい、と口にした。掌をうちわ代わりに自身を扇いでいるけれど、緩く送られる風じゃ頬の熱は到底冷めないだろう。


「……ね。俺達、結構 応援されてるから」

「そうだよね、本当に」

「明るい未来のために、まずは現役合格」


 俺が掲げた超現実的な命題は、とても憂鬱ではあるけれど、俺と礼ちゃんの、ひいてはみんなの未来図にとってなくてはならないスタートライン。お互い肩をすくめ、笑いを零す。

 じゃあまた明日ね、と手を振った別れ際、視界の隅で何かが揺れた気がした。

 ……カーテン?


 まさか礼ちゃんのお母さんがニヤニヤしながら覗き見てたなんて。そんで後から礼ちゃんが散々、いじられたなんて、俺は知る由もなかった。



「ごめん、お待たせしました!」


 言いながら助手席へ乗り込むと、姉ちゃんは奇妙な手つきでスマートフォンを操っていた。だ、大丈夫か? 姉ちゃん。


「大丈夫、待ってない」

「……一体、何を」

「ん? なめこ育ててた」

「……姉ちゃん。是非とも幸せになってよ? 俺、もらった分はちゃんと返すから」


 何の話かと言いたげな視線を投げてきた姉ちゃんは、それでもすぐに理解したらしい。


「内緒だっつったのになー、ミコちゃんてば」

「俺と礼ちゃんの間にも隠しごとは無いからね」

「そのうち出来るわよ。そんであんた、勝手にヤキモチ妬いて怒って暴れてミコちゃん泣かせてぐっちゃぐちゃよ」

「俺一人バカみたいじゃんか!」


 だってバカだもん、と姉ちゃんは言う。そりゃバカだけど、と俺は言う。

 わずかなエンジン音の後に車はゆっくりと発進した。


「……でも、俺バカだから。そうなった時にはまたみんなに助けて、応援してもらいたい。きっと一人じゃ絡まった糸は解けない」


 分かんないわよ、と姉ちゃんは意地悪く言った。

 その時にはみんな、それぞれに大切な人や問題を抱えていて、置かれた立場や環境も違っていて。もちろん、物理的な距離もあって、今みたいにはいかないのよ、と言う頃には姉ちゃんの表情も声音もすっかり夜の静寂が場を制した様に沈んでいた。


 そうだね、と思わず同意したけれど、その後に続けたい言葉はたくさんあるんだ。何から順を追って話していくべきか、迷っている間に姉ちゃんが取って代わった。ふ、と柔らかく息を吐いて、不思議なことにそれだけで、何かしらの澱みが消え去る感がある。


「家族は、いつまでも家族。血の繋がりは良くも悪くもそう簡単には切れないでしょ。生まれる前からかけられてきた情の厚さを私達は知ってる」

「……うん」

「ミコちゃんとは…、もちろん、武瑠や心もそうだけど。血の繋がりは無いわね」

「でもずっとつき合っていきたい。礼ちゃんとは、結婚、したいし」

「……神威。ずっと、って。願うばっかりじゃ駄目なのよ?」


 分かってるよ。信号待ちで、俺は声を大きくして姉ちゃんを見た。

 分かってんの? 本当に。みたいな小馬鹿にした表情がチラリと見て取れる。


「大切にする、全部を。つーか、みんなをね? みんなに大切な人が出来たなら同じ様に大切に想いたい……、武瑠の初カノみたいなことにはならないで欲しいけど」


 アレはつき合う基準がおかしいからね、と武瑠の致命的盲目ぶりを姉ちゃんはバッサリ斬った。


「繋がりを絶やさない手段も方法もたくさんある。そりゃあ俺の身体は一つしかないから優先順位はつけざるを得なくなるだろうけど」

「まあ常に一位はミコちゃんでしょ」

「や、違うんだ、そこは。俺が礼ちゃんにとっての一位常連でなくても良いように、たぶん、礼ちゃんもそう。そういう子」

「本当に、良い子、ミコちゃん」

「……俺は?」

「讃辞を求めるとこが鬱陶しい」

「その毒舌、どうにかしないと彼氏出来ないよ」

「ふはははは! お生憎様! ツンデレ流行ってるしM系草食男子急増中の昨今よ? 私が今、どれだけ売り手市場か」

「……の割には誰も連れて来ないじゃん」

「……女子大生は忙しいのよ」

「しかもデレ見たこと無い」

「家族の前で見せるか。バカな弟イコール神威じゃあるまいし」

「姉ちゃん、結婚する気ある?」

「あんた、私を追い出そうとしてんのね? 無駄よ! 小姑ライフ満喫するつもりなんだから」

「礼ちゃん、お嫁さんに来てくれるかなあ。姑と小姑と同居、って酷じゃない?」

「なんだと? 大切にするだのなんだの偉そうに言ってた割に舌の根も乾かぬうちに貴様」

「わあーっ! もう、前見て運転して!」


 ヒートアップした会話につられて蛇行する車は、後続車から怪しく思われているに違いない。


「慢心しない! 努力も手間も惜しまない! 自分のことよりミコちゃんのこと! みんなのことを思いやる気持ち! そんなんがなけりゃ神威が考える“ずっと”なんてあり得ない!」

「……相変わらず噛まないね」

「出来が違うんだよ、弟よ。男子力伝授、終わり」

「いつまで鍛えれば良い? 男子力」

「一生だよ」

「……一生。じゃあ、男子力向上委員会は」

「一生、解散できないね」


 特にこの先、重要な局面を迎えるから、と指で顎を支え楽しそうに笑う姉ちゃんの顔は、いつか見た妹尾さんの表情と重なった。

 ああ、そっちね。俺の煩悩問題ね。

 まあ、いいや。一生つき合ってもらおうじゃん。葛西先生と妹尾さんも引き入れて。




 ——そんな風に、とても賑やかに、思い出深く。俺の18歳の誕生日は過ぎていった。



 礼ちゃんから頂いた時計は、風呂と寝る時以外は常に装着。礼ちゃん直筆のあの届は、クリアファイルに挟んで、透明なデスクマットの下に収めた。

 毎日、目にすることが出来る。時計も、届も。その度にほくそ笑む俺は傍から見ると滑稽だろうな。


 それからすぐの土曜日。俺の部屋に掃除機をかけた母ちゃんが机の上に目ざとく見つけたのだろう、神威、と声をかけてくる。いつになく真剣な響きがこめられたその声音に思わず顔を向けた。


「あれ、ミコちゃんから?」

「あれ、って?」

「婚姻届」


 部屋から追い出されていた俺は、リビングのソファーの上で寝転がって赤本と格闘していた。そんなところへ、母ちゃんのどストレートな質問。まあ、元より隠すつもりはなかったですが。

 まったりとダイニングテーブルでアイスコーヒーなぞ飲んでいた父ちゃんと姉ちゃんまで、ぶ、と揃って噴き出している。俺はゆっくりと起き上がった。


「うん。礼ちゃんからの誕生日プレゼント」

「……どうするの?」

「まずは大学受かってから」


 どんな答を想定していたのか、母ちゃんの身体からふ、と息が抜けた。


「合格したら? すぐにでも?」

「う…ん。え、何? 今ここで発表?」


 いつの間に用意したんだか、姉ちゃんと父ちゃんはアイスクリームをスプーンで掬っては美味しそうに口へ運んでいる。母ちゃんもテーブルに着くと、お姉ちゃんお母さんにも、とバニラを要求した。


「神威もここ来て。ラムレーズン?」

「何でも良いけど」

「長期的なんだろうなあ、神威」

「何が?」

「お前のビジョンだよ。いや、お前達か」

「18歳になったら結婚する、しか言ってなかったじゃない。バカの一つ覚えみたく」

「……そうだったんだけど」


 俺はラムレーズンのほどよい甘さを口内に広げながら集中砲火を浴びる覚悟をじわじわと整えた。

 何かを食べてる時ってね、案外と正直な、その人の本音が出るらしい。三大欲求の一つが満たされている快感は、開放的にさせる脳内物質を出すんだとか。これ、心の受け売りね。

 だからかどうか分からないけれど、山田家の家族会議は割と食事中が多い。


「俺はね、芸術工学部を受けるけど、礼ちゃんは経済学部なワケ」


 あら意外、と母ちゃんが小さく呟いた。

 そうだよね。全くもって偏見だけれど一見 清楚な文学少女といった風の礼ちゃんから導きやすい学部名じゃない。姉ちゃんは知っていたのか、だよね、と母ちゃんへ相槌を打っている。


「礼ちゃんね、自分でお店したいんだって。カフェ。俺はそのお店を造ってあげたいな、と」

「建築士? 目指すのか? お前」


 抹茶味を堪能し終わった父ちゃんは、端的に質問を投げかけてくる。一級建築士に合格する道が決して容易くはないことを父ちゃんは誰よりも知っている。けれどそれが自分自身にとってどれほどの後ろ盾になるかを知っているのも父ちゃんだ。だからこそ、真坂市議の一件があった時、ああも簡単に辞職という錘を天秤の片方にかけたんだから。


「そう。や、四年学んで別の道が見えるのかもしれないけどね。父ちゃんは? 四年後、早期退職しないの?」

「え? 何でまたそこ?」

「礼ちゃんカフェの隣に父ちゃんと俺の建築事務所を造りたくてさ」

「それは…目標、だよ、神威。最終的にどうありたい? どうなりたい? 成し遂げたいことは何だ? それが目的」

「目的……、」


 目標と目的の違い、深堀りしてなかったか。最終的にどうありたいか? 俺はどうなりたいんだ?

 あ、いやいや。答えはとっくに出てるんだ。


「大切なみんなを、ずっと大切にしていく」


 はああーっ、と三人の口から一様に漏れた大きな息が何を意味しているのか、俺は正確に分からなかった。呆れなのか、不満なのか、決して褒めそやしてくれる感じではないな。


「みんなとの、か。大変、雑駁ではあるが……、まあ良いだろう。将来を見据えては、いるよな」

「お父さん、甘いわ。単にミコちゃんのこと始終見張っときたいっつー神威のエゴ丸出しじゃない!」

「美琴、そこは男のロマンだろ」

「父ちゃん、もっと言ってやって」


 ねぇ、神威、と母ちゃんは例の眼力と、大事なことよ、と念押しでもしたげなトーンで俺の名前を呼んだ。


「みんな仲良く合格したとして、すぐ結婚して一緒に住むの? 子どもができたらどうするの?」

「……あのね。これだけ家族に守られてきたヘタレの俺だよ? 己の生活力の有無くらい分かってる。子どもはまだ早い」


 父ちゃんが大きく頷く。俺だって婚姻届を見てニヤニヤばかりしていただけじゃない、妙に現実味を帯びてきた礼ちゃんと俺のこれから。どんな順番でどんな風に進めていくのが最適解なのか、受験勉強の妨げにならない程度には考えている。


「でもね、本当に俺の我儘なんだけど。礼ちゃんには、一日でも早く山田 礼ちゃんになって欲しくて」


 独占欲の塊、と姉ちゃんは低い声で言う。父ちゃんはニヤニヤと、母ちゃんは気の毒そうに笑った。


「……はい。その通りです。反論はしない。でももう…離れて、あんな想いをするのは二度と嫌なんだ」

「神威…」

「いつも隣に礼ちゃんがいてくれる。それが、俺がこれからちゃんと生きていくための生活条件」


 母ちゃんから再度漏れる大きな嘆息。諦念が混じっているような。あんたって子は、とでもいうように。


「……まあ。神威の目的とそのための行動目標は分かったわ。何ヶ月か前の闇雲だった姿を思えば、進歩よ。そうさせてくれたのは、ミコちゃんや周りのみんななのね」


 でもね、と母ちゃんは続けた。生活していく、って夢みたいな時間じゃないのよ、と。

 そこに覚悟があるのかと問いたげなあの眼力に、俺は今日一番気圧されそうになった。


「……お母さん、心配なのよ。ミコちゃんのこと」


 母ちゃんは食べ終わったバニラアイスのカップとスプーンを手元からテーブルへコトンと柔らかく置いた。


「一緒に住めばあの子はきっと無理をするわ。籍を入れても元は他人同士なのよ? お母さんでさえ、あんた達の許せない所があるのに」

「「「え?!どこ?!」」」


 異口同音とはまさにこのこと。話の腰を折ってしまったけれど、母ちゃんから許せないと思われていた所って? いや、あれか? 何度も何度も注意されてる…、


「神威、シャツ裏返したまま洗濯機に入れるでしょ? あれが嫌。本当に」

「……すみません」


 ぶぶ、と笑う姉ちゃんと父ちゃんへも母ちゃんの許せない攻撃は下される。


「お父さんは何度言っても飲み終わったコップそのままだし。ちょっとお水入れといてくれるだけで汚れの落ち方が違うのに」

「……そう、だったねー。すみません」

「お姉ちゃんは必要以上にタオル何枚も使うし。と思ったらトイレ用もキッチンで使ったりするし」

「……そうだっけ。ごめんね、お母さん」


 俺達の神妙な表情をチラリと見て、母ちゃんは話が逸れたとばかりに居住まいを正した。


「だからね、そういう…、生活を共にしていくのなら、今まで以上に相手を想う気持ちが思いやりある行動として必要になる……、お母さん、神威にはそういうことも教えたかった」


 あまり時間がないわね。

 そう言い添えられた言葉は決して低い声で紡がれた訳ではないのに、母ちゃんの物寂しい瞳に俺は何と応えれば良いのか分からなかった。


「美琴を嫁に出す時、お父さん こんな気分になるのかな」

「大丈夫よ、お父さん。私、嫁にはいかないわ」

「……いや、そこは。喜ぶべきところか?」


 父ちゃんと姉ちゃんのやり取りを聞いて母ちゃんの表情は幾分和らいだ。ふ、と口元に笑みを浮かべると俺の顔を覗き込むようにして言う。


「お姉ちゃんも神威も自慢の子よ。お母さん、本当にそう思ってる。だからこそ、大切なお相手には後悔して欲しくないじゃない……、この人と結婚して良かった、って思って欲しい」

「……うん。そう思ってもらえるように頑張る」


 で、さ。反対は、しないの?

 そう、口に出した俺の声はほんの少し震えていたかもしれない。

 礼ちゃんを捜しに行きたいのだとベッドの上で声を荒げた日のことを思い出した。あの時反対された意味を俺はちゃんと理解したけど。


「お母さん、再発の可能性がゼロだとは言い切れないから、お姉ちゃんも神威も早く家庭を持つことには反対しないつもりだった。神威、結構頑固だし……、だけど、もうすぐなのね」


 母ちゃんは俺を見据えていた視線を逸らすとキッチンの壁に掛けてあるカレンダーへと向けた。

 8月。あれが、来年のものに代わって。3枚目になった頃。


「それまでに神威にいろいろ仕込まなきゃね、お母さん」

「そうね、せめて料理の一つや二つ」

「アイロン掛けとかトイレ掃除とか」

「ミコちゃん、ずーっとお家のことしてきたんだもの。少しは解放してあげたいわよねぇ」


 俺の真正面に座っていた父ちゃんは、女性陣の会話に耳を傾け律儀に頷きながら俺の名を呼んだ。


「お前、あれどうすんだ? ネットで美琴とやってるやつ」


 父ちゃんが言う、あれ、とは俺が手作りしたアクセサリー類を姉ちゃんのパソコンでオークションやECサイトへ出品してること。もう一年近くになるか。

 もちろん、姉ちゃんも未成年だからプロバイダとの契約やら手続きは父ちゃんがしてくれた。素人作品だから高値がつくこともないけれど売れ残ることもなく、ちょっとした小遣い稼ぎにはなっている。本当に時々だけれど、リクエストが来たこともあるし。


「出来る限り続ける。お金 貯めたいし」

「神威はそういう…、モノ作りの道に進みたいのかと思ってたよ。装飾品とか美術工芸とかね。まさか…、」


 父ちゃんはそこまで言うと言葉を切った。俯き加減でテーブルへ視線を這わせていた俺は、違和感を覚えつと顔を上げる。口元を手で覆い隠し向きを変えた横顔。


「お父さん、感激してるのよ? 息子から一緒に働きたいなんて言われて。嬉しくない父親なんていないわ」

「ミコちゃん監視プロジェクトに強制参加よ? お父さん。ミコちゃん気の毒ー」

「や、気の毒なの俺でしょ? 純愛なのに! そんな風に言われて!」


 父ちゃんは掌の下でぶ、と噴き出した。次いで俺に向けてこう言った。愛の大きさと男の器量は比例しないんだな、と。

 ま、してませんよね。俺の場合。好きになればなるほどヤキモチがひどくなってます…。


 結局のところその日の昼下がり、礼ちゃんと俺の結婚話は反対されることもなく承認された。

 実行は合格発表後。一緒に住んでも目標と目的を忘れない。卒業までの経済的負担は両親が。挙式だとかは卒業後に。

 なんてことが話し合われていく。当事者抜きでね。

 俺は左腕を見つめる。正確に時を刻む針の向こう側に礼ちゃんのとびきりの笑顔が浮かんできた。



 ***



 タイミングとしては遅め、オープンキャンパスに参加した俺達は、何とも言えない高揚感に包まれた。目の前に広げられている可能性は確かに無限で、俺達を待ち構えてくれているから。

 さすがに大学、というだけある。正門からして豪奢で立派、大きな構え。そこから学内へ続く道の幅も高校と比べものにならないほど人が多い。教室だらけなんだろう、大きな建物がいくつも居並び。移動の手段として自転車愛用者が多いのも頷ける。何だか一つの街みたいだ。外界とはまた壁を隔ててここだけを覆い尽くす学びの空気。


 ここが、この場所が、一歩目になる。

 俺は前を歩く心と武瑠の背中を目に映したまま、もっと勉強しよ、と一人ごちた。俺だけここに来られないなんて正直、ぞっとしない。


「神威くん?」

「何ですか? 礼ちゃん」

「今日、来て良かった。何がそんなに? って来る前は思ってたけれど。今は頑張ろう、って」


 大きな瞳をクリックリのキラッキラに輝かせて俺を見上げる礼ちゃんに、熱中症じゃないめまいを感じそうですよ?


「ぶ。静かに闘志を燃やしてんだ?」

「そう。目指せ夢のキャンパスライフ」

「えー。女子大生 礼ちゃんかぁ」


 可愛いんだろうな、礼ちゃん。いっつも私服 お洒落さんだし。キッズサイズなのよ、って恥ずかしそうにしてたけど。華奢な身体にどれもよく似合ってて。


「なあに? 神威くん。妄想?」

「……GPS付けさせて? 礼ちゃん」

「ぶ」


 私達の学部、ちょっと遠かったね、と言いながら礼ちゃんは腕を組んでいた俺の左肘にそっと触れてきた。


「まあ、女子大生とはいっても。その頃おそらく人妻ですからね、ワタクシ」

「うわあー、響きがいやらしい…」

「エロ本読み過ぎよ、神威くん」

「あああ、清純派乙女がなんて暴言を!」


 礼ちゃんはクツクツと笑う。握り拳を口元に当てて。

 大丈夫、本当は分かってる。礼ちゃんを籠の中の鳥にしておく気は無いんだ。

 いや、本音言うとそうしたいのはやまやまだけど、やっちゃうと変態だ、って通報されそ。

 どこへ羽ばたいていっても必ず戻ってきてくれるし。でもボンヤリさんだから帰り道に迷ってる時は俺が掴まえに行けば良いだけの話。


 おーい、と俺達を呼ぶ武瑠の声。近くのアパート見て帰ろうよ、との現実的な提案にコクコクと頷いた。


「合格、しようね」

「うん」

「俺、礼ちゃんから貰った時計見て頑張るから」

「あぁ、受験の時はデジタル表示よりアナログ表示が良いんだって。時間の感覚を視認するために」

「……うん。そうなんだろうけど。や、そうではなくて」

「なあに? 神威くんが前に使ってた時計、デジタルだったでしょう?」

「うん…あの、間違ってないけど。もうちょっとその…、色っぽいというか艶っぽい意味で」

「え? ここに来てお色気必要?」

「……や、もういい」


 いつもいつもいつまでも俺は礼ちゃんを近くに感じてる。腕の時計はその凝縮版。

 なんてことを言いたかったのにピンとこなかったらしい、無意識小悪魔には。


「俺も礼ちゃんにいっつも身につけといてもらえるもん、プレゼントしよ」

「え、やらしい、神威くん…」

「なんでよっ?!」

「身につけ…って、し、下着とかでしょう?」

「恥じらうな! 言いよどむな! 何その目! そんなワケあるかっ!」


 俺の声は夏の青空へ吸い込まれていく。

 自宅から電車で二時間程度。見慣れない街並み、初めての風景も、みんながいれば心細くはなかった。むしろ期待に満ちていて、浮き足立ちそうなそれをきちんと地に着けようと自身を戒める。

 だってずっと見ていたいから。俺の隣の、極上の笑顔。



 ***



 当たり前だけれど、日に日にその時は近づいて来る。受験生の俺達が何かに試される時。高校受験の時以上の目に見えない圧力。実力も努力も潜在能力も真価も、発揮出来なきゃ意味がない。


 これから、を切に感じたあの日以来。俺はどうにか煩悩を抑え、健全な青少年として勉学に勤しんでいる。


 真夏日も猛暑日も酷暑日も。爽やかな秋風が礼ちゃんの髪の毛を梳き通っていく日も。冷たい冬の雨が礼ちゃんの傘を憂鬱に流れ落ちていく日も。

 とにかく。



 ——年明け。


 センター試験を10日後に控え、態勢を万全に整えるためにも皆で合格祈願に行こう、という話になった。

 縋れるものなら何にでも? 俺、あんまりそういうの信じてないんだけど。人混みは避けなよ、って葛西先生も言ってたし。だけど、母ちゃんが、ね。


「何か心配なのよねぇ、神威の場合。お姉ちゃんの時より」

「でもA判定出たんだろ?」

「心くんの特別講義のお陰でね」

「あぁ、二言はないな、心くんに」

「ちょうど良いわ。お姉ちゃん、お振袖着て成人式の予行演習しましょうよ!」

「え? 私だけ着物?」

「あ、心も和服だよ。お似合いじゃん」


 ……礼ちゃんも着物だと良いなぁ。

 あ、いやいや、駄目だ。着物姿なんて見た途端、妄想が爆走しそうじゃないか。久しく脳ミソの奥に閉じ込めて触れない様に触れない様に努めてきたのに。帯クルクルー、とか……、


「気持ち悪いわよ、神威」

「……今年こそ姉ちゃんの毒舌が治りますように」

「一人でニヤニヤしちゃって。お屠蘇飲み過ぎ?」

「馬子にも衣装だなぁ、って」


 せっかくの褒め言葉なのに、着付けを終えて登場した姉ちゃんは違うでしょ、と言う。


「着物姿のミコちゃんでも思い浮かべてたんでしょ、どうせ」


 どうせ、に妙に力が籠められて、胡座をかいて待ちぼうけをくらっていた俺の目の前にふ、と白い袋が差し出された。


「お年玉」

「えっ? な、ん」

「ワタクシ、もう大人ですから」

「……姉ちゃん」


 行くぞー、と父ちゃんの明るい声が玄関先から俺達を呼ぶ。俺はありがとうございます、と姉ちゃんへ礼を言う。

 いつ何時も偉そうな態度の姉ちゃんから汚さないように、と命を受けた俺は両の袖を持たされた。


 礼ちゃんはいつ何時も礼儀正しい。心と武瑠を順番に拾って、礼ちゃんが車内へ乗り込む時にかわした、明けましておめでとう、にちゃんと ございます、が添えられる。


「わ! 美琴お姉さん、とっても綺麗!」

「え? 年明け第一声それ?」


 元日の早朝五時。

 さすがにごった返す時間帯は避けようと朝早くから繰り出している俺達。俺への言葉より前に姉ちゃんへ、とは。


「ほんっとに小さい男ねぇ、神威!」

「いや、だってさ」

「男なら“だって”と“でも”は口にするんじゃないわ!」

「横暴だよ!」


 俺の隣に座った礼ちゃんは穏やかな笑みを浮かべてセーターの袖口を摘んできた。


「今年も…これからも、ずっとよろしくね? 神威くん」

「礼ちゃん……!」

「えーっと、皆さんも。よろしくお願いします」


 最後部を陣取っている心と武瑠に、運転席と助手席の父ちゃんと母ちゃんに。礼ちゃんは丁寧な視線を置いていくとぺこりとお辞儀をした。


「弓削くんの着物姿も本当に素敵。去年よりもっと似合ってる」

「……御子柴。大変にありがたいんだが、新年早々 神威の不興は買いたくない」

「え?」

「ミコちゃん! 空気読んで! 神威の顔見て!」

「あ! あー…えっと。マ、マスク姿も素敵ね、神威くん」

「……はいはいはいはい。礼ちゃんもどうぞ」


 俺は武瑠から手渡されていた医療用マスクの細い紐を礼ちゃんの両耳にかける。短かった礼ちゃんの髪は随分伸びて、やわやわの頬が隠れるくらいになった。尖った小さな顎のシャープさが際立って、ただでさえ小顔なのに更に小さく見える。


「ありがとう…どうしたの? これ」

「武瑠のお母さんから差し入れ」


 礼ちゃんはまた振り向くと綺麗に弧を描いている優しい瞳の武瑠へ、ありがとう、と柔らかく頭を下げた。

 武瑠のお母さんは看護師さんなんだ。俺達は去年の秋、インフルエンザの予防接種が開始された途端、みんなして中央病院へ呼び出され次々に注射針の餌食となった。

 それ以降もうがい薬だとか手指消毒液だとか。医療従事者しか手に入らないんじゃなかろうかと思われる品々が、武瑠を介して俺達の元へは届けられている。


「さすがに気遣ってくれてるよね。うち、基本的に放任なんだけど」


 武瑠は目を細めたまま、何となく照れくさそうな物言いをする。


「何言ってんだ。ばあちゃんは武瑠のこと、昔から猫可愛がりじゃないか」

「母ちゃんからはほったらかされてたって。ばあちゃん任せにしてた分、挽回したいんじゃね? それにさ」


 す、とダウンジャケットの内ポケットから武瑠が取り出して見せてくれたのは、御守り。


「親父から送られてきた。湯島天神のだって。何か、いろいろ、ビックリするよね」


 するよね、なんて同意を求められてもね? 武瑠。ビックリじゃないでしょ? とびきり嬉しいんでしょ? マスクで顔半分が覆われていたって容易く想像出来る。ニコニコ度MAXなんだろうな。


「ばあちゃんも、落ちるとか滑るとか言っちゃいかん、って。迷信なのにさー、そんなの。普通にしてて良いのにね」


 普通になんて無理よー武瑠くん! とうちの母ちゃんが助手席から顔だけこちらへ向けて言う。


「何かしてあげたいのよ、大切な子が試練に立ち向かうんだもの。自分に出来る精一杯は何か、って。おばさん、ここのところいっつも考えてるわ。鬼ヶ島に行くんだったらねぇ、きび団子どれだけでも作ってあげるけど」


 武瑠はしばし母ちゃんを見つめ、そんなもんなのかな、と言い置くと色素の薄い髪の毛を意味なく弄んだ。


 そんなもんなんだよ、武瑠。

 きっと俺達は誰かにとっての大切でかけがえのない愛すべき存在で、だからこそ温かな手が優しく柔らかく差し伸べられている。それがほんの少し、トンチンカンなものだったとしても、ちゃんと受け止めてるよね? 武瑠なら。俺だって、ね。



 夜も明け切らぬ参道をゆっくりと進む。和服姿の偽カップルと偽親子三人組に続く礼ちゃんと俺。


 去年も、こうやって歩いたな。陽は高く参拝客で溢れていたけど。礼ちゃんは長い行列の先を見ようと爪先立ったり人の隙間から視線を前へ送ったりしていたっけ。


「ねぇ、神威くん。また背が伸びた?」

「ん? そうかな、そうかも。寝てる時に骨が痛いもんね」

「……牛乳? 牛乳飲めば良いの?」

「ぶ。小学生発想!」


 礼ちゃんは明らかにム、と口を真一文字につぐんだ。怒った? いや、違うか。

 斜めから覗き込む様に顔を下ろせば、礼ちゃんの表情には寂しそうな色がありありと浮かんでいる。


「え? どうしてそんな顔?」

「……不釣り合い過ぎて嫌になるからよ」

「ふつ…ちょ、待って? 礼ちゃんと俺が、ってこと?」


 そう。

 礼ちゃんの澄んだ声はとても頼りなく吐息のようで、社務所に群がる人々や御神酒を振る舞う巫女さん達の声にかき消されていく。


「……葛西先生が、この前。神威、ますます格好良くなってくね、って」

「……は。何だ? それ」

「でも、私もそう思うわ」

「……何が欲しいの? 礼ちゃん」


 苦笑混じりにそう言うと沈んだ面もちで歩を進めていた礼ちゃんの目元にちらりと笑みが浮かび、身長、と言いながら左手を俺に差し出してくる。タイミング失ってたからちょうど良かった。俺は礼ちゃんの左手を掴まえると指と指とを絡ませる。手袋をしていない礼ちゃんのちっこい手は今日もやっぱり冷たい。どうせ参拝する時にははずさなきゃならないから、せめて、それまでの間。


「俺に出来ることなら何だってしてあげたいけど。そればっかりは、ね」


 礼ちゃんの驚きマナコは恋人握りのそこに集中している。こうされるとは予想外だったの? 可愛いな。

 俺は礼ちゃんの手ごと持ち上げると俺の親指で礼ちゃんのやわやわほっぺたをつついた。


「どうして不釣り合いだなんて思うの? 俺達お似合いのバカップルじゃん」

「……神威の瞳は何を見てるんだろうね? って。顔つきまで変わるくらい見据えているものは何だろう、御子柴は解ってる? って。葛西先生が、仰ってて」


 礼ちゃんの口から“神威”って呼び捨てにされたこそばゆさが先に立って反応が遅れた。俺の質問へ直接応えている訳ではない、その葛西先生の言葉。訥々と紡ぎ出す礼ちゃんの声は低く細く、黒々とした瞳は暗がりの中でも分かるくらいゆらゆらと揺れている。


「……怖くならない?」

「礼ちゃん?」

「夜中に突然、飛び起きたりしない? 自分だけが落ちたらどうしよう、って。みんなにおいて行かれたらどうしよう、って。未来図に、いないの。自分だけ」


 意外と、なんて言ったら失礼だけど、礼ちゃんの声は辺りを覆う澄んだ薄闇の中を伝播し、それは前を行く人達の背中を振り向かせるのに充分だった。一日がまだ充分に始まっていないこの時間、邪魔する物質が空気中に少ないから?


「ミコちゃん」


 武瑠はその長身を曲げ、優しい視線を礼ちゃんの目の高さにまで下ろす。

 武瑠だって大型犬みたいだ。俺のカムイ似と良い勝負。そして、しなやか。

 躊躇や逡巡を飛び越えて、礼ちゃんがホッと息をつける言葉をかけてくれるんだな。


「怖いよねー。オレも怖い。A判定なんてさ、当日もこの調子でいけたら、っつー条件付きでしょ? でも急にお腹痛くなるかもしんないし、解答欄いっこズラして書いちゃったらどうしよ、とか。考え出したら、キリがない」

「……吉居くん」


 カラン、と下駄の乾いた音が響いて、見れば和服姿の心が俺のすぐ傍にいた。貫禄ある風貌たるや、とても同い年とは思えない。


「御子柴、俺はこう見えても18だ」

「……弓削くん?」

「精神年齢にさほど差はない。俺だって怖いさ、怖くない根拠なんてない。こうやって怖いと口にすることすら憚られる。きっと武瑠や神威だってそうだ」


 でも、と心の穏やかな声は場を圧して続く。いつの間にか山田家の三人は身を寄せて、俺達の動向を身体をさすりながら見守ってくれていた。


「それが御子柴の安堵に繋がるのならどれだけでも言ってやるよ。怖いのは御子柴だけじゃない。みんな、怖いさ。ますます格好良くなっていく御子柴の彼氏もな」


 クイ、と心に顎で指された。そんな色っぽく流し見られても。俺、うっすら紅くなってない?

 本当にもう、この二人は。そういう格好良いセリフは俺が言うべきじゃないですか? つか、言わせてもらえませんか? 曲がりなりにも彼氏なんだから。

 無理ですか? 無理ですね。だって礼ちゃんは、二人にとっても大切な人。もはや友達の彼女、なんていう距離感のある位置付けじゃないから。


「どうする? 俺の胸で泣く?」

「……ふふ。泣かない」

「即答じゃん…」


 だって、と礼ちゃんは朗らかに言う。あ、小首傾げて。なにその可愛い仕草。


「受験が終わるまで近づいちゃ駄目だ、って。葛西先生が」

「……何でよ?」

「抱き潰されちゃうから。抑圧された青少年の欲望を甘く見ちゃいけないんですって」

「……余計なことを」


 恐らくは苦汁をなめたかのような俺の表情を目にした武瑠も心もお腹を抱えて笑っている。礼ちゃんはそんな二人に向き直り、ごめんなさい女々しくて、と恥ずかしそうに口にした。


「あ、それケアレスミスだよ、ミコちゃん!」

「そうだな、女々しいは主に男に使う」

「あ、そうか。そうね」

「ケアレスミスって言えばさ、オレ昔、ケアレ・スミスだと思ってたんだよね」

「アダム・スミスの親戚みたいだね」

「俺は最近まで“やしきたかじん”を“やしきた かじん”だと思ってたな」

「つのだ☆ひろ、みたく☆が入ってればねー」


 馬鹿馬鹿しい話で大笑いして、まとわりつくような緊張感が払拭されればいい。それは薄い膜の様に知らず知らず俺達を覆うから。きちんと蓄えてきたはずの力を侵蝕されそうになるから。

 笑っていれば良いことがある。武瑠のおばあちゃんの言葉が耳元に蘇る。


 お参りするよ、と見計らったように姉ちゃんの声が飛んできて、俺達は揃って拝殿所へ向かう。人が少ないから良いでしょ、とあまり根拠の無い姉ちゃんの言葉も奇妙なテンションの俺達を従わせるには充分。横一列に七人並ぶ。

 母ちゃんは礼ちゃんの小さな背中へそっと手を当て、自分と父ちゃんの間へ並ばせた。

 まるでもう一人の娘を歓迎するかのように。考えすぎ? 俺。


「おばさん達はもう、自分のお願いごとは良いの」

「おじさん達がミコちゃんの幸せをたくさんたくさんお願いするから大丈夫、合格出来るよ」


 礼ちゃんは驚いた様子でブンブンとかぶりを振った。そんな、と小さく呟いている。


「か、神威くんと美琴お姉さんの幸せを願ってあげて下さい! わ、私は——」


 良いのよー、と冷たい冬の空気を中和していく様な母ちゃんののんびりした声。俺は母ちゃんの右隣でこの会話の行方をほっこりした気分で聴き入っている。


「お姉ちゃんは自分のことは全力で願うから。他の人がお願いするパワーも奪っちゃいそうじゃない? 強いの、昔から」

「お母さん、さすが的確な分析だわ」

「お嫁さんにはまだ行って欲しくないからそこはお願いしなくて良いし」

「大丈夫よ、当分 行かないから。あ、ミコちゃん! 小姑いても平気な人?」

「は? あ、えっ?!」


 神威の分は、と父ちゃんが継いだ。礼ちゃんの左側から優しい視線を下ろして。


「ミコちゃんがお願いしてくれるんだろ? 自分のこと以上に、一生懸命に」


 だから、おじさん達はミコちゃんの分。

 そう言いながら七人の中心に立つ父ちゃんは鈴を鳴らすべく一歩前へ出た。


「……おじさん…っ、」

「あ、お父さん、で良いよ? ミコちゃん。練習しとく?」

「もー、見つめ合わないで! そこ!」


 ガキだなんだと冷やかされながらも、後に続く参拝客へ配慮して早々に済ませる。二礼二拍一礼。

 俺は目一杯、礼ちゃんの幸せを。ほんのちょっとだけ俺の幸せを。

 欲張っちゃ駄目だと思いながらも武瑠と心と妹尾さんと葛西先生の幸せを。

 父ちゃんと母ちゃんも。あああ、もうついでだ、姉ちゃんの幸せ、も。

 ついでのついででごめん。右京の幸せを。

 神様へお願いした。きっとキャパオーバーだろうな。



 母ちゃんと姉ちゃんは何やら楽しげに破魔矢や御守りを買っている。父ちゃんと武瑠と心は絵馬を掛けに行くらしい。


「神威くんは行かないの?」


 絵馬、とそれが山のように掛けられている札所の一画を指しながら礼ちゃんが言う。


「俺の願いごとは恥ずかしすぎて書けないよ。神様、引くもん」

「……あ、あー…そうなんだ」


 一体どこまで解ってんだか。曖昧な表情を浮かべた礼ちゃんの頬は若干 ひくついている。

 あー、ヤバい。接近戦で礼ちゃん見たの久しぶりだもんなあ。受験生にクリスマスは御法度だから、って華麗にスルーされたし。

 夜毎の電話やメールだけでは充たされない熱さは常につきまとう。それを払いのけるために必死こいて勉強してる、っていうのに。目にしたら触りたい。ほっぺただけじゃなく。どこもかしこも。あぁ、俺、変態だ。いやいや、きっとこれが健全だ。


「……俺が何か変わったんだとしたら、礼ちゃんのおかげだよ。礼ちゃんのこともンのすごく好きだから。今も、これからも」


 言って、礼ちゃんの頬にかかる細い髪の毛先に触れた。耳にかけてしまえば、紅く染まった耳たぶが現れる。大きな黒い瞳の上目遣いに背筋がぞわりと揺れた。


「全部もらうんだよ? 礼ちゃんの未来。後悔して欲しくないし、俺、返品されたくない」

「……………」

「……何とか、言ってもらえませんかね? 恥ずかしいんですけど」

「……何とか」

「うわ、出た! またそれ!」


 礼ちゃんは俺のふくれた顔も不機嫌な声音も意に介さず、俺の右の掌を両手で包みこんだ。何、と問うより前に俺の身体は硬直して身じろぎ一つ出来なくなってしまう。

 生命線だか運命線だか、幾筋も重なって交わるそこに触れているのは、マスク越しの礼ちゃんの唇。不織布が隔てていても柔らかな温もりが伝わってくる。

 ありがとう、と聞こえた気がした。もう俺、意識が飛びそうだと思った。いや、手放しそうなのは、理性かもしれない。


 淫靡な空気はまるでなくて、むしろ神聖なこの場所に相応しい清廉さ。だからこそ一人焦っている我が身がマヌケ。

 何かのおまじないのように。或いは願掛けのように。はたまた縁起かつぎかも。

 鉛筆を握りしめるであろう接点にも特に深く小さな圧が加わる。


「私だって、大好きよ? 神威くんのこと」

「ちょ、もー…んなの分かってるよ! お似合いのバカップルなんだからさ!」

「頑張るね」

「脈絡無い!」


 ふふ、と微笑まれる。あああ、心臓に悪い。礼ちゃんの背後がやけにキラキラしてポコポコ花が零れてくる。幻覚だ。


「礼ちゃんさぁ、保健体育 得意なら察してよ!」

「……神威くんの、生理現象?」

「わ、生々し…や、そう…そう、じゃなくて! アナタのその言動がどれだけ俺を煽ってるか、ってことですよ! 押し倒すぞ! ここで! バカ!」

「バカって」

「言う方がバカなんだってね?! 知ってるよ!」


 目を瞠り、やがてゆるりと綻ぶ顔に完全にやられた。白々と明けていく空から射す薄い光が辺りを照らし始める。神々しいとも言える綺麗な笑顔の礼ちゃん。いや、小悪魔か。言ってることもやってることも。全くもって無意識な。罪だなあ、本当に。

 その向こう側に買い物や祈願を終えたみんなの表情が明らかに見えていたけれど、俺は礼ちゃんのおでこにマスク越しの唇を押し当てた。


 罰当たりー! と姉ちゃんが叫ぶ。

 待って待って、神様。俺、本当によく我慢してると思わない? 煩悩の数なんて1百八つをとうに越してるよ。あ、それ寺だっけ。


 とにかくも、罰なんて当てないで。俺の人生がかかってるんだから。




 ***




「やめ、そこまで」


 筆記用具を置いて下さい、と事務的な声が教室内へ響く。張りつめていた空気は一気に解け、俺の右手からは鉛筆が転がり落ちた。

 湯島天神の合格祈願鉛筆。武瑠の親父さんから御守りと一緒に1ダース送られてきたそれを、武瑠はご丁寧に俺達へも分けてくれた。

 俺の机上の解答用紙は、試験監督の男の人の腕の中へ。もう、今更だけど、俺はその行方に目をやり念を送った。いや、それで点数が上がる訳でも誤答が正答に変わる訳でもないだろうけどさ。



 ———どうか。



「………脱力」


 一人ごちてしばらく、俺は机に突っ伏していた。

 前期日程、終了。俺が受ける学部は後期日程を実施しない。

 終わった、本当に。俺の18年の中で一番集中した二日間だった。


 クルリと頭を左に向け、大きな窓から見える空をボンヤリ見上げる。冬の空は厚い雲に覆われていて、それでも所々の雲間から射す光が、神の後光のようだと思った。武瑠も心も、もちろん礼ちゃんもいない広い教室。


(どうか、ここにまた来られますように)


 結果も出ていないのに、未来図を描こうとしている俺は、案外と余裕があるのかもしれない。かも、だけどね。


 礼ちゃんの色っぽいおまじないのせいかどうか分からないけれど、八幡様の御利益かもしれないけれど、俺達はセンター試験をまずまずの点数で突破出来た。


 自己採点を終えて神保先生と出願の最終面談をした礼ちゃんは、あの大きな掌で小さな頭をぐりんぐりんに撫で回されてたらしい。よく頑張ったなあ、御子柴、って。もうひと頑張りだぞ、って。礼ちゃんも神保先生もちょっぴり涙目だったんだって。

 どうして俺がそれを知っているかと言うと。


「俺も御子柴をハグしたかったのに断られちゃって」


 目の前のこの人が意地悪く片方の口角を上げて教えてくれたから。


「……葛西先生。前期日程前に生徒に動揺を与えてどうしたいんですか」

「これくらいで動揺するなら、神威、他にも受けた方が良くない?」


 俺はフルフルとかぶりを振った。ちょっと伸びた髪が目に入りそうになる。いつもの俺からすると若干 長めのそれを、俺は何もかもが終わるまで何となく切りたくはなかった。

 神様へお願い、とか。何かに縋る、とか。あまり信じてないとしながらも、実は俺が一番囚われてたりして。


「確かにみんなと一緒に行きたい大学はあそこですけど。曲げてまで後期に別の学部を受けるのは…ちょっと違う」

「……一本でいく?」


 コクリと頷いた俺を相好を崩した葛西先生が軽くハグしてきた。何だろう、この…香り? 煙草ではなさそうな、大人の男の。


「……先生? 俺、礼ちゃんじゃないんですけど」

「間接ハグ」


 だって御子柴、神威としかしない、って断るんだもん。

 サラリとそう言う葛西先生の細身の体躯は温かくて。俺は正直 心地好かった。

 ……や、俺、そっちの気は無いんだけどね。



 滑り止めは受けない、と宣言した俺へ父ちゃんも母ちゃんも柔らかく微笑んでそう、と言ったきりだった。姉ちゃんもふーん、とだけ俺を見据えて言った。


 でも俺は知っている。バイト帰りの姉ちゃんのバッグには、大手予備校の名前が入った封筒が幾つも突っ込んであった。それを目にした時に俺は、俺の力を信じていないのかと憤慨するより先に苦笑してしまって、そして、姉ちゃんへ感謝した。勿論、父ちゃんと母ちゃんへも。

 こうやって周りに生かされている。俺はそれに気づけている。大丈夫。


 怖いのは、礼ちゃんだけじゃない。俺だって。俺の家族だって。

 でもそれをおくびにも出さず、笑って穏やかに変わらぬ日常を送り続けてくれるくらいには、演技力がある人達なんだ。俺の一世一代の大勝負を見届けてやろうかと腹を括るくらいには、余裕がある人達。



 武瑠は教育学部と理学部を併願する。


『……学部違うね?』

『オレ、葛西センセになりたいんだよね』

『……葛西先生みたいな教師に、ってこと? あ、だから? 理学部でも教職さえ取れば』


 違うよ、神威。

 武瑠は優しく訂正する。

 葛西センセになりたいんだ。


 誰かが誰かに完璧とって代わるなんて、出来ないのでは。

 葛西先生の人生をなぞるの? 喉元まで出かけた言葉は、武瑠の瞳に瞬くいつになく真剣な光に遮られた。そして、思えたんだ。

 これから、ますます生きていきにくくなる世にあって、迷える子羊を救い導くのかも。

 俺が、俺達がそうだったように。躊躇うことなく迷い無く、すうっと心に沁み入る武瑠の言葉。ニコニコの魔法。

 武瑠なら。これから大人になろうとする青少年にとっての“葛西先生”になるのかもしれない、って。



 法学部を受ける心と経済学部を受ける礼ちゃんも併願組。


『私は…神威くんみたく一本でいけないわ。何か、は持ってないから』


 格好悪いけれど、と俯き加減で言う礼ちゃん。

 並んで歩いているというのに見下ろすとつむじしか見えなくなってしまった。


『何それ。受験に格好良さ必要?』

『神威くん……どんどん格好良くなってくんだもん。置いてかないでほしいというか』

『彼氏褒めたって何も出ませんし! だもん、とか止めてね? 心臓に悪い』

『……心臓?』

『止まりそうになる。礼ちゃん可愛くて』

『……早めに保険へ加入を』


 あはは、と声に出して笑う。

 ほら、礼ちゃんも。陰鬱とした独特の空気感に飲み込まれないで。


『保険金はそう簡単に差し上げませんよ? 俺、基本的に健康優良児だし。死ぬ前に礼ちゃんからもらわなきゃいけないものがあるし』

『……未来? それなら全部』

『全部、ねー。それもちろん、R18な部分も含んでるんだよね?』


 あーる…と呟いた礼ちゃんの顔を覗き込めば、ボ、と効果音が付きそうなくらい瞬時に朱に染まった。


『ワタシ、マダ17アルヨ』

『おお! 古典的な返しできたなぁ。じゃあ18になったら』

『……どうか結婚するまでは清いおつき合いで』

『よーし! 何が何でも合格してやる』


 他愛もない会話。でもそれがもたらす笑顔。受験日までの綱渡りな毎日。

 願書を書いて提出して、迫り来るその日のために過去問とひたすら向き合う毎日。


 礼ちゃんと、出来る限り一緒に過ごす。ああ、もう俺って超ストイック。煩悩と未来の天秤は、愛らしい笑顔一つで殲滅させられそうになるけれど、頑張れ、俺。内なる衝動は今はまだ秘めて。

 礼ちゃんのこと、抱き潰さない自信、全く無いよ、俺。



 心は、受験そのものに関しては超然としていたけれど、外野の声に悩まされていたようだった。県内有数の進学校であるうちに入学した時からずーっと学年トップなんだ、心は。そりゃあ、国内最高峰の大学を目指しなよ、って先生達のアドバイス、分からなくはない。


 俺が日直で日誌を持って行った時も、職員室内へ心の声が朗々と響いていた。思わず俺が出入口に立ち竦んでしまうほど。あの声に耳を傾けずにスルー出来るヤツがいたら、どうかしてる。


『俺は、大学の偏差値やブランド力に興味はありません。大切なのはそこで何をどう学ぶか、という点で、俺の場合はそこに、誰と一緒に、が加わるだけです』


 だがなぁ、弓削、と学年主任の手柴先生が異を唱える。

 東大より友達ごっこ優先か? 後悔するぞ、きっと。


『ごっこ、ではありませんよ、手柴先生。弓削達の友情は本物かと』


 ゆったりとマイナスイオンを場に放ったのは、銀縁眼鏡の粋なアイツ。葛西先生。

 手柴先生と心の間に横たわる不穏な空気を払拭するかのように。葛西先生が甘やかすから、と手柴先生は苦々しげだ。


『……国立大、有名私立大への合格率や一人でも多くの合格者を輩出したという実績は、そんなに大切ですか。ここは進学塾でも私立校でもあるまいし。それとも先生方がそれで評価されるんですか』


 弓削、と葛西先生が窘めるように静かに口にする。俺はコホ、と小さく咳払いをしてその場へ割って入った。


『葛西先生。弓削くんの本物の友達、山田 神威が日誌をお持ちしました』


 途端、大人二人は曖昧な表情を浮かべ、心だけは端整な顔立ちをほんの少し緩めた。


『神威や武瑠や御子柴と、四年間を共に過ごさない方がよほど後悔します』


 そのまま何となく、その場はお開きになったけれど。きっと心は願書を提出する間際までチクチクと言われ続けていたに違いない。大きく深く溜め息を吐く姿は気の毒にさえ思えた。 


『できる男っていうのは、なにかと目立って大変だね』

『神威が言うな。お前、最近、人気再浮上中らしいぞ』

『ねえ、何かオレ達に出来ることある?』


 あるよ、と心は小さく笑った。武瑠も俺も目を瞠る。心から頼まれごと?


『答辞、考えてくれ』

『……トウジ?』

『卒業式のだよ。それが折衷案だなんて言い出すんだ、葛西のヤツ。何が折衷だ、何と何との折衷なんだ、訳が分からない』


 俺は全校生徒へ感動をお届けするつもりはないからな。

 苦虫をかみ潰したような渋い顔で心は言うけれど。お前のその低い良い声で読み上げられる言の葉達は、それはそれはみなさまの細胞一つ一つにまで刻み込まれる究極の感涙を巻き起こすんじゃないかな。俺はかなり楽しみだけど。


『俺に文才は無いからなぁ。あ、礼ちゃんにも手伝ってもらってさ』

『何かオレ達四人からの答辞になっちゃうじゃん。テンプレ無いの?』

『既成のものに頼るな、武瑠』

『心が引き受けてきたんだろー』

『強制だ。強要だ。大人のエゴだ』


 そんな時間すら愛しかった。この瞬間の空気は今しか味わえない。緊迫、重圧、だけど期待感? 逃げ出したいむずがゆさはあっても、ここにずっと留まっていたくもあった。




 試験会場、机の上に置いていた腕時計へ手を伸ばす。目にするだけでニヤニヤが止まらないのは、プレゼントされてから半年以上経った今でも変わらない。いやむしろ、傍から見れば滑稽な程、俺はこの子に熱い視線を送り続けてきた。


 試験中に二択で迷った時、頭の片隅に留めたはずの解を必死に手繰り寄せる時、長文に納得のいく訳を付けられた時。それは秒針が違わぬ一秒を刻み続けていくきちんと感のように、俺の中でカチリと音を立てこの修羅場をくぐり抜けてこられたんだ。

 言い過ぎだ、って本人からはきっと笑われる。だけどこの子は、俺にとって礼ちゃんそのもの。もう、どれだけでも束縛して下さい。



 ———応援ありがと、礼ちゃん。



 チャ、と金属が触れ合う音すらも今の俺には心地好い。左腕に収まった薄いブルーの文字盤に目をやると、他の三人と前もって決めていた待ち合わせ時間が迫っていた。


 もう一度、ぐるりと試験会場内を見渡す。俺と同じようにのんびり退室する受験生を除けば、大講義室と掲げてあるだけあってその空間の圧倒的広さが押し迫り、高校との違いをまざまざと感じさせられる。

 守られている俺達の世界はこうして否応無く広がっていくんだとぼんやり実感しながら俺は席を立った。


 正門前を集合場所にしていた。デカい男二人とちっこい女子高生の珍妙な組み合わせは遠目にも留まる。

 俺、もうすっかり受かった気でいるけど、余裕ぶっこいてて落ちたら良い笑いものだけど。たぶん、こういう構図、よくある風景になるんだ。

 共通科目が多い1・2年の間はまだしも、専門課程に入る3年生になると俺だけキャンパスが別になるんだ。あの三人の学部棟は近いんだけど。


 ……なんて。鬼に高笑いされそうな一抹の寂しさを抱きながら、俺を見つけて小さな手をブンブン振る礼ちゃんの元へ駆け出した。


「神威くん、どうだった?」

「礼ちゃん! チューしよっか!」

「……ああ、大丈夫なのね。良かった」

「……すんごいスルーしたね、今」

「弓削くんの勝ちね」

「え、またスルー?!」

「オレ、かすりもしなかったねー。まだまだ分かってないなあ、神威のこと」

「なに? 話が見えない」


 聞けば俺を待つ間、俺の第一声は何だろうかとジュース代を賭けていたとか。武瑠は“燃え尽きた系”、心は“御子柴へ迫る系”、そして礼ちゃんは“お腹減った系”。一応、満面の笑みで走ってきたら、という前提だったと武瑠がつけ加えてくれた。トボトボと肩を落として歩いてくる姿を目にしたら何も訊かずに一刻も速く駅へ向かおう、と。

 俺、どれだけ心配されてるの。


「何なの、お腹減った、って」

「え、減ってない? せっかくだからみんなで食べて帰ろうか、って話を」

「いや、減ったけどさ! 脳細胞フル活用したんだし! けど全くもって色気が無い…、」

「ごめんね? 神威くん。チューする?」

「ぅ、っ、えええっ!?」


 俺の奇声に武瑠も心も噴き出し、心に至ってはニヤリと笑いを含んだ声で、御子柴、合格発表前に捕まるなよ、と言い足した。


「ほんと、何もかも心の読み通りだなー。ミコちゃんに迫ったところで迫り返されたら焦るに違いない、って」

「素直なんだよな、神威は。いつまでもそのままでいてくれ、俺の心のオアシス」

「わ、オアシスって! 素敵ねえ、神威くん」

「……感心するとこズレてるよ、礼ちゃん。まったくみんなして俺を弄んで」


 俺は礼ちゃんの少し大きめのバッグを手から奪うと腕を通し肩から掛けた。一泊した俺達の荷物は日常より大きく重い。でも自分自身が解き放たれた感覚を身にまとい軽いせいか、笑いながら何だって持てそうな気がする。

 ありがとう、と綺麗な音。俺は自分と礼ちゃんの荷物を左半身に集め、右側の礼ちゃんとの距離を詰めた。


 さ、メシ食って帰ろう。俺達のホームへ。

 もうすぐ巣立たなければならないけれど。安心できる場所へ。




 ***




 ———三月一日。卒業式。



 花曇り、というのか。見上げれば澄んだ青を所々広がる薄い雲がデコレートしていた。

 雨じゃないだけ、良しとしようか。せっかくの巣立ちの日に濡れそぼってしまうなんて気が滅入る。


 今朝は珍しく母ちゃんから起こされることなく目が覚めた。制服を着て登校するのは、今日が最後。そう考えれば、シャツに腕を通すのもズボンのベルトを締めるのもジャケットを羽織るのも。一つ一つの所作がかけがえないものに思えて愛しくなるから不思議。


「……どうかしてんな、俺」


 やけに感傷的になってる。

 涙腺は緩みはしないものの何かにつけて目と目の間、鼻の奥の方にツンと沁みる感覚が絶えない。


 どうしてだろう。昨日、あんなことがあったから?




 昨日の夜、礼ちゃんと礼ちゃんのお母さんがやって来た。トモくんは乃木さんが見ているらしい。事前に礼ちゃんから連絡を受けていた山田家は夕飯を早々に切り上げ、何故かちょっぴり緊張する。

 お母さんが話があるんだって、と礼ちゃんは短く優しく言ったけれど何の話か分からなかったから。

 しかも誰に? 俺に? 親に? まあ、姉ちゃん、って線は無いよな。


『いつ行くのか聞きたくて』


 リビングのソファーへ腰を下ろすや、さて、と間を置くでもなく礼ちゃんのお母さんはそう切り出した。山田家一同の頭上にはハテナマークが飛び交っていたに違いない。


『お母さん…、神威くん固まってる。ごめんね? 神威くん、お母さん、脳内で主語とか省くのよ』


 あーいや、と苦笑しながらさすがに婚姻届のことだろうと合点がいく。合格発表後にすぐ、と告げて、俺は父ちゃんと母ちゃんへ視線を置いた。二人共 目を細め、向かいに座る礼ちゃんを柔らかく見つめている。

 分かったわ、と礼ちゃんのお母さんは言った。戸籍謄本が必要だろうし、本籍地はあの島だから準備しなきゃだし、どうせ本人確認されるんだから私も立ち会いたいし、その日は有給取るわ、と流れるようにつけ加えられる。


『御子柴さん』


 父ちゃんは姉ちゃんが用意したコーヒーを一口含むと穏やかな声で話し出した。話があるのは、礼ちゃんのお母さんだったはずだけど、さっきので、もう終わりと受け取ったの?


『よろしいですか、本当に。もうお返し出来ませんよ、お宅の大切なお嬢さんはうちのヘタレ息子と一緒になって。たくさん苦労しなきゃならない』


 おいおいおい、父ちゃん! ここにきて一体何の確認? なんて胸中穏やかではない俺を余所に大人達はちょっと意味ありげな笑みを交わし、はい、と礼ちゃんのお母さんは即答してくれた。俺はそれだけでもうホッとして胸を撫で下ろす。


『母親らしいことは何ひとつしてこなかった私がものを言える立場ではないですが、礼は私の子ども、というより立派な、一個人で。その本人が決めたことです、苦労も…、甘んじて受けるのではないでしょうか』


 私は立場上、同意にサインしただけです、と目の前のローテーブルに置かれたコーヒーへ視線を落としながら言葉を紡ぐ礼ちゃんのお母さんの首はうなだれていった。それを礼ちゃんは隣から励ますようにじっと見つめている。


 俺はダイニングテーブルの椅子に座ったまま、いつか礼ちゃんが、うちのお母さん、神威くんの親御さんと話すの恥ずかしいんだって、と言っていたのを思い出した。確かに礼ちゃんのお母さんとうちの父ちゃんは十歳くらい違うしなあ。親同士っていうより上司と部下、みたいだ。


『私ね、最近ずっと考えてるんですよ』


 母ちゃんはティースプーンをクルクル回しながら礼ちゃんのお母さんを窺って言う。


『わが子を。まだ子ども、と思うのか、もう子どもじゃない、と思うのかは。親の自由であり勝手。二十歳が成人だなんて法的なものだし、そこに明確な基準も指標も無いでしょう?』


 礼ちゃんのお母さんはコクリと頷いている。俺は何とはなしにテーブルを挟んで向かい側の姉ちゃんへ目をやり、意味もなくその頬杖をつく右手を見ていた。


『……まだ子どもだと、思っていたかった。手離したくなくて。でもミコちゃん? 神威をよろしくね。男の子だから実はおばさんにも掴みづらいとこはあるんだけど。ミコちゃんを大好きなのは、分かるわ』


 礼ちゃんは母ちゃんをじっと見据えたまま、はい、と小さく応えた。それはそれは綺麗な笑みを浮かべて。ああ、礼ちゃんのお母さんと礼ちゃんの“はい”はよく似ている。やっぱり、親子なんだね。

 返品しないでね、と姉ちゃんが笑いを含んだ声で言う。律儀な礼ちゃんはそれにも、はい、と応えていた。


 礼ちゃん親子が帰った後、俺は風呂に入ろうと席を立ち上がりかけた。シフト代わってもらおうかな、と姉ちゃんは呟く。


『8日だっけ? 合格発表』


 うん、と応じると姉ちゃんは頬杖をついた姿勢を崩さず、そうしようっと、と誰に伝えるでもなさそうに一人ごちた。父ちゃんと母ちゃんは、市役所で働いてますからね、立ち会うも何も。


『……寂しい?』

『弟に先越されて? 別にそこは』

『……いや。そうじゃなくて』


 俺は一旦浮かせた腰をまた下ろした。この椅子に座って目にしてきた当たり前の風景は、もうすぐ日常的なものではなくなる。

 新しい生活。そこに期待は勿論あるけど、同じくらいの寂寥だって恐怖だってある。


 俺が世帯主になるんだよ? 父ちゃんみたく。父ちゃんは俺が生まれた時から父ちゃんだったから、父ちゃんになっていく過程なんて知らないから。結婚、がリアルに感じられれば感じられるほど、どうなるんだろう、何から始めれば、って途方に暮れる俺がいるんだ。礼ちゃんは、どうなんだろう。


『あのねえ、寂しいに決まってるでしょ? 誰だってそう、この春旅立つ青少年は誰だって寂しい。それを見送り出す家族だって、寂しいんだってば!』

『……そうだよね。俺、姉ちゃんの毒舌が毎日聞けなくなるかと思うと』

『私だってあんたのその、のぼーっとしたデカさが家の中に無くなれば寂しいわよ。そのうち、あんたが作ったダンボール作品やら写真やら見て涙流すんだわ』


 でも。

 姉ちゃんは頬杖を解いて、解いた両手をテーブルの上で組んで言葉を続けた。


『お父さんと一緒に働くんでしょ? お母さんのこと心配でしょ? ミコちゃんのカフェ造るんでしょ? 戻って来なさいよ、あんた』


 本当に姉ちゃんはいつだって高圧的で上からで偉そうに威張り散らして立て板に水で噛まずにサラリと感動的なことを言ってのける。もうほんと、この人が姉ちゃんで良かった。


『……その頃、名字変わってる?』

『山田って気に入ってんの、私』


 それにあの八幡様は縁結びに効果は無いわよ、と意地悪く付け足された。

 まあ、いいや。俺、たぶん、姉ちゃんが結婚して遠く離れてしまう、とかになったら、正直 寂しいもんね。本人に言うことはないだろうけど。



 ***



 一階へ降りていくと、いつもより早い時間にも関わらず豪勢な朝食が用意されていた。卒業おめでとう、と次々に声がかかる。


「ありがとう、ございます」

「神威、今日はお母さんが行くわね」

「……ん? 俺、姉ちゃんみたく活躍しないよ? 答辞読むのは心だし」


 何言ってるの、と母ちゃんは笑う。

 だって本当にそうだから。姉ちゃんはああ見えて生徒会役員だ、会長だ、と難なくこなしていたから送辞も答辞も読んで華々しく表舞台へ登場していたけれど。別に、俺は。


「神威達の卒業をお祝いしたいの。あと、葛西先生に御礼もお伝えしたいし」


 母ちゃんは、俺の目の前へご飯茶碗と汁椀を置きながら至極当然のことのように言った。何となく緩む俺の口元。神威達、って言ってくれた。

 心のとこのおばさんは来るらしいけれど、礼ちゃんや武瑠のとこは父兄参列は無い。二人とも忙しい親御さんだし、武瑠のおばあちゃんにとって校門までのあの登り坂は苦痛だろう。妹尾パパはあまり公の場にはいらっしゃらない。



 心と武瑠がやって来て、またおめでとう、が交わされる。あんた達の勇姿を、などと訳の分からないことを言いながら、姉ちゃんは俺達へレンズを向けシャッターを切った。



「ごめん、つきあってもらって」

「オレ達 勝手についてくだけだよ? 神威」

「……ぶ。ありがと」

「入学式の日にはこんなシーン想像出来なかったな」

「……本当です。弓削くんも吉居くんも止めてくれないの?」

「御子柴、それは無理な相談だ」

「見てよ! この神威の至福の表情!」

「そうそう、無理無理!」


 礼ちゃんが小さく漏らす、本当に恥ずかしい、という吐息混じりの呟きに気づかないふりをした。

 今日が最初で最後だよ。手を繋いで登校、なんてね。


「してみたかったんだよね、これ」

「……乙女ね、神威くん」


 嫌? なあんて訊いてみたけれど。礼ちゃんの返答がどうあろうとこの手は離しませんけどね?

 見上げてくる大きな真っ黒の瞳はじいっと俺の瞳を射抜く。その奥に潜む俺の思惑なんて簡単に見透かすように。やがてゆっくりと伏せられてその緩やかな動きのまま正面を向いた礼ちゃんは、ふふ、と笑いを零した。

 ああ、ダメだ俺。微に入り細に入り礼ちゃんが好き。


「……嫌だと言っても、離さないで」

「矛盾だね」

「これから先もずっとそうしてくれたら、喧嘩してもすぐ仲直り出来るわ。私、神威くんの手、大好きだから」

「え、こ、れから? 先? そもそも喧嘩しないでしょ? や、それより手が大好き、ってどういうこと? 手だけかい、オイ! って言いたくなるでしょ?」


 熱くなる俺はさて置いて、礼ちゃんは冷静に 喧嘩するでしょ、と断定する。俺は喧嘩にならないよ、と言い返す。


「俺、礼ちゃんの怒った顔も可愛くてたまらないと思うんだよなあ。しかも俺だけに見せてくれる、ってとこがまた」

「……変態」

「あああ、可哀想に礼ちゃん! 変態がダンナだねぇ。でもこんな手汗だらけの湿った手を好きだと宣うアナタも相当 変態ですよ?」


 同じ目的地へ向かう同じ制服姿が視界に増えてきた。と思っていたら登り坂のスタート地点に見慣れた女子の姿。


「……うわ。引く」

「……おはよう、妹尾さん」

「……おはよう、万葉」


 心は軽く手を挙げ、武瑠は満面の笑みで万葉ちゃん! と言いながら犬っころのようにすり寄って行く。

 坂道の片側には趣深く桜の木が植えられていて、毎年この時期からしばらくの間、生徒だけでなく地元住民の方々の目も楽しませてくれる光景。

 実を言うと掃除が大変なんだけどね? まあ、日本人の務めとしてそんな無粋なことは言いますまい。


「何なのよ? その手。テンションついてってるの山田だけじゃない?」

「そうなんだよね、分かる?」


 妹尾さんは苦笑しながらモチロン、と言うとクルリと向きを変え校門を目指し始めた。俺達もゆるゆると後に続く。


「思い出すなー、入学式の日にさ。礼ってば私ら同じクラスだよ、ウキウキしないの? って訊いたら」

「訊いたら?」

「『ウキウキ? おさるさん?』って言ってた」

「……御子柴、笑いのセンスはイマイチだな」

「……」

「礼ちゃん?」


 急に反応が無くなった礼ちゃんを覗き込めば黒目はウルウルで目の縁に水分が溜まっているような。

 え?! なんで? どうして?!


「れ、礼ちゃん…、」

「……入学式の日。神威くんはたくさんの人に囲まれていたわ。グラウンドで…、教室の出入口も人の山だった」

「礼ちゃん? あの」

「でも、私は神威くんがどこにいたって見つけられた。キラキラのオーラは眩しかったけど近づきたくて、でも羨ましくて妬みそうで接点も無くてウダウダしてた」


 前を行く三人へも聞こえているんだろうか。礼ちゃんのこの独白。俺、自惚れの雄叫びあげそうになるんだけど、誰か戒めてくれないかな。


「……今、こうして隣にいるのが不思議。嬉しいけれど恥ずかしい。恥ずかしいけれど嬉しい」


 そういうの伝わってる?

 キュ、と小さな力が加わった手が心地好い。


「……伝わってるよ。俺だってこんなに好きだと思える子ができるなんて思わなかった。不思議だよね。三年先の未来も読めなかったヤツがこれからずっと先まで誓えるようになるんだから」

「……ちょっと、もう。朝っぱらから大告白赤面大会とか止めて」


 妹尾さんは眉根を寄せて振り向きピシャリと言い放つ。すみません、すっかり二人の世界へ旅立ってましたね。礼ちゃんと顔を見合わせ笑ってしまった。


「万葉ちゃん、いつ出発すんの?」

「今夜の便」

「えー、じゃあオレらの超遠距離恋愛も今夜スタートだね?」

「待て待て待て」

「「ええっ?!」」


 い、いつの間にそんな展開に?! 確かに武瑠は妹尾さんへ懐いていたけど、いや懐くというか一方的に纏わりついてただけだけど、妹尾さんからはかなり邪険にぞんざいに扱われていたような…。


「吉居、あんた“来る者拒まず去る者追わず”なんでしょ? 私は今から去るのよ。追うな」

「えー! 万葉ちゃんと縁切れるのイヤ」

「切れるワケなかろうが。あんた一生、山田の友達でしょ。山田の嫁は礼、その友達が私」

「そんな回りくどい関係じゃなくて! よりダイレクトに!」


 鬱陶しいよ! 却下!

 そんな妹尾さんの歯切れの良い言葉が高揚感溢れる校内の空気に溶けていく。それでもニコニコの武瑠の隣で、心は肩を小刻みに震わせながら、ドMとはこのことだな武瑠、と呟いた。

 礼ちゃんの鈴を転がすような可愛らしい笑い声が隣から聞こえて、俺は礼ちゃんの綺麗な横顔へ視線を置く。


 忘れられないね。忘れちゃうわけないね。今日の日のこと。

 こんなえもいわれぬ感情でいっぱいになった瞬間瞬間のこと。


「……礼ちゃん?」

「なあに?」

「花びらが…、」


 礼ちゃんの小さな頭に舞い降りた薄いピンクの花びらを俺は右手の指で摘んで、礼ちゃんがどこ? と言いながら空いた左手で髪の毛を触ったその時。

 俺、今まで気づかなかったのどうかしてない? 礼ちゃんの手首におさまる硬質な光。見覚えのあるそれ。いや、ちょっと小さい? 誕生日以来ほぼ片時も手放したことのないそれ。


「えっ?! お揃い?! 俺のと?!」

「え? な、…っ、あっ!」


 ピンクの花びらは宙に舞い戻り、俺は背中に隠そうとした礼ちゃんの左手を咄嗟に掴んだ。


「ああ、山田。やっと気づいた?」

「いや、御子柴の隠し方が巧いから」

「一緒に住めばねー、さすがに気づくだろうとは思ってたけど」


 三人三様の言葉から察するに、俺だけなんだね? 気づいてなかったの。


「うわあー…、超ショック」

「……ごめんなさい。そうやって引かれると思ったの、だから言えなかったの。今日だって、こんな手を繋ぐ流れにならなかったら気づかれないと」

「え、ちょ、礼ちゃん、誤解まっしぐら! 俺、今すんごい感動してんのに!」


 感動、と抑揚無く反芻した礼ちゃんへ大きく頷くとだって、と俺は言葉を継いだ。


「俺、この子、礼ちゃんの代わりみたく感じてた。いつも、本当にそれこそ、試験の最中も。礼ちゃんが隣にいてくれるみたいに」

「……はい。それは私も」

「どうして秘密?」

「……バカップルの極みかと思って。神威くん、おシャレさんだし。お揃いとか…、気持ち悪いかな、って」

「はああ、もう! 本人確認なしで勝手に俺の考え決定するの禁止ね!」


 ごめんなさい、と俯く礼ちゃんが悲しくなる。俺は慌ててつけ加えた。


「ありがとうね? 本当に。本当に嬉しい。すっぽんぽんの逆立ちでグラウンド3周くらい、」


 捕まるから止めとけ、と心の声がかぶさった。


「俺がこの子、どれだけ可愛がってたかというとね? もう、毎日チュッチュして撫でなでして頬ずりして、いやさすがにトイレへ連れて行くのはと思いながらも、」


 好感度ガタ落ちだよ、神威! と武瑠の声がかぶさった。


「……まあ、とにかく。尋常ではない溺愛ぶりで。あ、いやもちろんそれは御本人への気持ちを忠実に投影したものであって別にそういう趣味嗜好が、」


 煩悩 漏れてんぞ青少年! と妹尾さんの声がかぶさった。遂には礼ちゃんの笑い声も。


「こちらこそありがとう、神威くん」

「……これからも、よろしくお願いします」


 下足箱のところで一旦、お別れ。礼ちゃんと妹尾さんは1組へ。俺達は5組。式後の待ち合わせ場所と時間を決めて、それぞれのクラスへ向かう。

 教室へ入るとすぐ、委員長が近づいてきた。山田くん達これ、と、名刺大の小さな紙を手渡された。

 というか、まんま名刺だ。委員長の。


「山田くん達、新しい住所決まった?」

「いや、まだなんだ。合格発表を見届けてから…」


 ああ、やっぱりそうだよね、と穏やかな笑みを浮かべ、大半がそうみたい、とクラスの連中をクルリと見渡す。


「決まったら連絡先 教えて欲しいんだ」

「あ、うん。別に構わないけど」


 俺は知らず首を傾げていたのだろうか。特に理由の深追いをするつもりは無かったんだけど。委員長は、あのね、とちょっと居住まいを正して応じる。


「僕が同窓会の幹事を引き受けようと思って」


 昨日、葛西先生が帰りのHRで話題に出していた。同窓会の幹事。

 32人、明日には同じ教室にいなくなるクラス全員へ連絡を取り、出欠をまとめ、日時を決め場所を手配し。きっと働きの割には報われる対価も無くて、面倒そうな…。


「委員長が、引き受けてくれるの? 面倒そうなのに。三人でやって良ければ俺達やるよ? 合格したら同じ大学に行くんだし」


 委員長は、いや良いよ、と朗らかに言う。次いで、合格したら僕も同じ大学なんだけど、と照れくさそうに追加した。


「……そうだった。ごめん」

「僕さ、本当にこのクラスで良かったと思ってて。去年からの持ち上がりメンバーで、担任は葛西先生で」


 俺の背後に立つ武瑠も心も、振り向いて確認はしていないけど、きっと委員長がしみじみと語るその言葉を余さず聴いているだろう。


「……うちの父親とか母親もね、同窓会の幹事とか任されたことあったみたいで。昨日、言われたんだよね、何となくいつか集まれるだろうと思ってたら大間違いだ、って。思い出深いクラスで、また全員で一人も欠けずに逢いたいと思うなら、誰かがしっかりつなぎ役にならなきゃ駄目なんだ、って」


 卒業して、みんなそれぞれに新しい生活が始まる。新しい土地で、あるいはここで。うちは32人とも進学予定。また全員で集まれる機会と言ったら、最初の夏休み? バイトだ、実習だ、って休みなんか都合良く合わなくなるんだろうか。或いは成人式? でもみんな、必ず参加するんだろうか。


 歳を重ねれば重ねるほど悲しいくらいに自分の生活ばかりに必死になって。子育てが一段落して仕事にも日々の暮らしにも余裕が出来てきた頃に慌てて振り返っても、蔑ろにしてきたクラスメイトとの繋がりは簡単に修復出来るものではない。経験則なのか、寂しげにそう言うと委員長の親御さんは だから、と薦めたらしい。あんたがやりなさいよ、と。


「……山田くんは。いや、吉居くんも弓削くんも。辛いことがあった一年でもあるし…、僕も未だに申し訳ない気持ちがあるけど。みんなはやっぱり、トリオに逢いたいと思うんだ」

「そんなの…、俺達だってみんなに逢いたくなるよ、きっと」


 そりゃあ確かに、思い出す作業すら痛くなるようなこともあったけれど、それ以上にみんなの温かな気持ちに触れたのも確か。だからこそ礼ちゃんも俺も、ドロップアウトすることなく今日ここにいられるんだ。


「そう言ってくれて良かった……、じゃあ御子柴さんも来てくれるよね?」

「……礼ちゃん、1組だよ?」


 知ってるよ、と委員長は目を細める。でも山田 礼さんになるんでしょ、と。


「な、んで?! えっ?!」

「昨日、葛西先生へ婚姻届を渡してたよね? 証人欄への記入をお願いするの見た人がいて。早速、話題になってたけど知らなかった?」

「……知らなかった」


 背後で武瑠と心も知らなかったな、と呟いている。まあ、そんなもんだ。噂なんて知らぬは本人ばかりなり、だよ。


「奥さんも連れてきて、ぜひ」

「かしこまりました」


 じゃあ連絡待ってる、と爽やかに言い置いて委員長は自席へ戻る。教室出入口付近へつっ立ったままだった俺達もゆるゆると動き出した。

 と、一歩進んだ途端、廊下から女子の凄まじい悲鳴が聞こえてきた。悲鳴、といっても怪我だとか人が倒れただとか急を要する類ではなくて。あたかもアイドルへ向けたコンサートでの絶叫、みたいな…。


「ひゃあっ!? 何それ 先生!!」

「わーっ、似合うー! 素敵ーっ!」

「眼福ー! やーん! 5組 羨ましい!」


 何だ何だと野郎ばかりで開いたドアから廊下へ顔を出せば、キャアキャアと群がる女子生徒の中を、いつもと変わらぬ飄々とした体で悠然とこちらへ向かってくる葛西先生の姿があった。

 ……ただし、その格好が。


「は、袴っ?!」

「眼鏡も無いな」

「ど、どうし、」

「その後 何て続くんだ? 神威」


 席に着いて、といつもと、本当にいつもと変わらない穏やかな口調で葛西先生は教室内へ声を響かせる。


「どうしたんですか? その格好」

「正装だよ、正装。お前達の晴れの日なんだから」


 さも当然、といった風で返された。質問をした俺の方が目が点なのは何故?


「あれ、言ってなかったっけ? 俺、創業百年、伝統と格式ある葛西呉服店の長男なんだよ」


 聞いてないです! とほぼクラス全員からノリの良いツッコミがなされた。そうだっけ、と相変わらず柳に風な先生。

 凛々しい、というべきか。はたまた雅か艶やか か。男なのに色っぽいと思わせられるのは和服の成せる技? 内面から滲み出るものが匂い立つのか、心よりもしっくりと馴染んで見ているこっちも背筋が伸びそう。

 眼鏡が邪魔しない切れ長の目も魅入られそうで、艶のある黒髪はいつもの無造作ヘアではなく、まとめられ緩く後ろへ撫でつけられている。


「マジで格好いい…!」

「知ってる」


 ……知ってるんだ。そうですか。


「M字ハゲ、上手に隠れて…」

「テメ、これ破くぞ」


 先生は着物の胸元からす、と婚姻届を取り出すと、ニヤリと片方の口角を上げ俺の目の前でヒラヒラとかざした。

 俺がゆるりと手を伸ばすと、葛西先生ははた、と動きを止める。ごめん神威、と申し訳なさそうに口にしながら。


「こんな、みんなの前で…、悪い。俺テンションが普通じゃないな」

「ぶ。良いですよ、別に」


 俺はたぶん綺麗に笑えていたと思う、先生を安心させられるくらいには。噂は超速で駆け巡ったらしいです、と言い添えると俺の背後に頷く複数の笑顔を確認し、やっと先生の頬は緩んだ。

 はい、と薄い用紙を丁寧に手渡される。ありがとうな、というマイナスイオン溢れる声とともに。

 ありがとうな、なんて。御礼を言うのは俺の方ですよ? 先生。


「八年間、教職に就いてて…、初めてだった。こんな光栄なお願いごとをされたのは。教師冥利に尽きる」 


 気のせいだろうか。気のせいじゃないんだろうか。

 いつもならそこに銀縁眼鏡のレンズがあって、伊達とは言え先生の瞳を直視する機会って無かったから。

 漆黒は、潤んでいる。


「葛西先生は、俺達のキューピッドです。先生がいなかったら、あんな言葉を礼ちゃんへかけてくれなかったら。今ある俺達はこうじゃなかったと…、思います」


 喉がクッと詰まった。感極まる、ってこんな感じ?

 いやまだ早いだろ。今日だけで一体何度、感極まることになるか知れないのに。


「先生が気づかせてくれたことって、きっとたくさんあるんです。思いやりとか本当の優しさとか。一人じゃ気づけなかった。上手く言えませんけど。俺、先生が担任で本当に良かったです」


 ありがとうございました、と俺は手にした婚姻届の分まで含めて深々と頭を下げた。


「やめてぇぇ神威! 俺、もう泣きそう!」


 背後から飛んできた野田の声は明らかに涙混じりで、俺は頭を上げながら思わず噴き出してしまう。


「そうだよ神威! しんみりはまだ早えーよ!」

「も、なんつーか、卒業したくなくなるよなぁ」


 ザワザワと漣立つ雰囲気を縫って、俺は窓際一番後ろの自席へと向かう。さっきまでピタリと合っていた先生との視線は、逸らす間際、また一段と潤んで揺れた気がした。

 何かを言われかけた気も。それはそれは優しく温かく微笑まれた気も。


「……俺は。今日はヤバいな。男泣きするかもしれない」


 教壇に立ちみんなをグルリと見渡して、先生はちょっとおどけてそんなセリフを口にするけど。あながち間違ってないと思います、俺。


「センセ! その際はこの吉居 武瑠が胸をお貸しします!」

「お断りだ、吉居」


 何というか、着物のせいだけじゃないだろうけど、今日の先生は身体に一本 筋が通っているというか、瞳は揺れても軸がブレない。凛とした立ち姿から発せられる声は朗々としていて、辛辣な捨て台詞にすら迫力がある。


「……先生。僕達、あとどれくらい経験積んだら先生みたいになれますか」


 先生に惚れ惚れしてるのは俺だけじゃないな。教壇すぐ下の席で惚けたように熱い視線を送っていた委員長からは、内なる声がダダ漏れだ。


「俺みたいになってどうすんだよ、平井。お前、ポテンシャル高いくせに。同窓会、楽しみにしてるからな」


 和服は歳くったら似合うようになるよ、と根拠に欠ける自説を述べて先生は今日一日の行動予定を俺達へ告げ始める。


「……いよいよだね、心」

「バスタオル用意しとけよ、神威」


 全校生徒へ感動をお届けするつもりはない、なんて言ってたくせに。考えてくれ、なんて放り出したにしては結局 一人で考えちゃって。何を、俺達へ与えてくれるんだろうね、心は。


 心はあまり動じない。昔からそうだ。今だって普段と変わりなく落ち着き払っている。俺なんて手汗ハンパないのに。

 並んで体育館へと向かう武瑠も何だかソワソワしていて、俺達の背後につく葛西先生の押し殺した笑いがやけに耳に残った。



 開式の辞、から始まって、一人、また一人と高らかに丁寧に読み上げられる名前。1組の礼ちゃんの名前が呼ばれただけなのに、はい、という涼やかな返事を聴いた途端、何とはなしにこそばゆくなる。

 来週、だ。合格したら礼ちゃんは俺と同じ姓を名乗ってくれる。

 近い未来に意識を飛ばして、俺は小さくかぶりを振った。

 駄目だな。今日は、一瞬一瞬の何もかもを大切に記憶へ刻み込んでおこうと思っているのに。


 葛西先生がしなやかな立ち居振る舞いでスタンドマイク前にす、と立つと、案の定 在校生や父兄席から歓声にも似たざわめきが起こる。ズルいよな、あの格好良さで場の空気 全部持ってっちゃって。卒業生である俺達より熱い視線を送られてるって、どうなの?


 当たり前だけど、今日で最後。リハーサルはもう、無い。

 先生が俺の名を、いや32人の名を、やけに美しく淀みなく、マイクがあるのに腹筋を使った良い声で呼ぶのは今日が、最後。だから俺も精一杯、俺至上 最高に良い声で返事をしよう。


「山田 神威」

「はい」

「弓削 心」

「はい」

「吉居 武瑠」

「はい」


 他のクラスの生徒会長が代表として壇上へ上る。走馬燈のように思い出は色鮮やかによみがえりはしないけれど。それでも、特に濃かった後半の高校生活は小間切れに脳裏をかすめる。そうして、自然と浮かぶ微笑み。


 ———楽しかったな。


 概してそう思える俺は、きっと、いろいろ恵まれているんだ。先生、クラスメイト、もちろん家族に大切な友達。そして、大好きな大好きな人。

 ありがとう、と心の中で何度も何度も繰り返しながら、俺はその他大勢の一同と礼をした。

 本日の式進行役は手柴先生。開式の辞、では多少 上擦って聞こえた声も次第に落ち着いてきている。

 通路側の椅子、武瑠の右隣に座る心の様子に変わりはない。やゆよ、だからこんな集まりの時、心はいつも俺の後ろかすぐ横にいるはずなのに。いつもと違う感覚に俺の方がドキドキしている。


「卒業生、答辞」


 年季の入ったパイプ椅子が鈍く軋んだ音を立てる。眉一つ動かすことなく立ち上がり、流れるような歩みで壇上へ向かう心。

 アイツ、あれだな。こんな時に手と足と一緒に出て躓いたりしないんだな。まあ、しないか。心だもんな。

 ジャケットの内ポケットから原稿を取り出すと、コホ、と小さく咳払いをした心の、誰をも惹きつける声が館内へ響き渡った。


「本日は、私ども154名の卒業生のためにこのような盛大な式を執り行っていただき、本当にありがとうございます。心より御礼申し上げます」


 おんれい、って綺麗な響きだな。心は少し、息を継ぐ。


「先ほどより校長先生をはじめ御来賓の方々、在校生の皆様よりあたたかな御言葉を頂戴し胸が熱くなる思いです」


 心の言葉は一旦 途切れた。俺は今まで滑らかに紡ぎ出したそれらを場内へより浸透させるためのパフォーマンスかと……、思っていたんだけど。

 それにしては少し長い間。息をすることも躊躇われるほどの張りつめた沈黙に続くさざめく声。どうした? 心。


 その騒然を見越したかのように心はまたゆっくりと口を開く。遠目だけれど、たぶん見慣れた俺達にしか分からない。口元にほんのり浮かんだ笑み。広げていた原稿をパサ、と折り畳むと内ポケットへゆっくり収めた。

 ……え。え?


「……人が。一生のうちで答辞を読むことができる機会は一体何度あるのでしょうか。ゼロか或いは1か、多くても2か。きっと大半はゼロ。私はその、貴重な一度を与えられました」


 もはや答辞ではなくなっている。心の独壇場じゃないか。

 でも不思議なことにざわざわとした波は消え、この先の読めない展開を少しでも先んじて掴もうとするかのように静まりかえっている。俺は武瑠と顔を見合わせ小声で問いかけた。


(聞いてた? こんなの)

(聞いてない、こんなの)


 どうしたんだろう、心。何を伝えたいんだろう。

 俺達はお互いに表情を決めかねたまま、また心を見据える。


「昨日まで、私が考えていた答辞は、本当に無難で面白味のないものでした。正直、ネットで探した文例集から引用したものです。ただ、それは私自身の言葉ではない。せっかく与えられた貴重な一度を、また何となく終わらせて良いのか。そう、迷いました」


 ……“また”? 心は壇上から先生達が座っている方へ顔を向けた。視線の先は、葛西先生。


「この場所で、高校生でいられるのは、今日まで。俺に答辞を任せた葛西先生、どうか最後の尻拭いをお願いします」


 座っている葛西先生の様子は同じく座っている俺達からは見えなくて、前方の連中の隙間を縫って何とか視認しようと苦戦していた時。す、としなやかな所作で先生は立ち上がり反転すると他の先生方へ向かって深々と頭を下げた。マイクの傍で固まっている進行役の手柴先生へも。

 そこに何か言葉が添えられていたのかもしれないけれど、俺達の耳には届かない。マイクを通さない手柴先生の肉声で、弓削、続けなさい、と聞こえた。


「……三年前。私は何となくこの高校へ入学しました。仲の良い友達二人がここを選んだから。そこに自分の意志はありませんでした。友達がクラブ活動をするからと、私も何となく部を選び。友達が試験勉強をするからと放課後につき合い、球技大会でバスケを選び、文化祭でお化け屋敷を作り。自分で選んで決めたように錯覚しながら実は、友達の人生に何となく乗っかっていただけでした。私の後ろに日一日と過去は積み重なっていきましたが、眼前に何ら広がりゆくものはありませんでした」


 仲の良い友達二人、が武瑠と俺を指しているのは間違いないだろう。何となく、という曖昧で漠然とした言葉の響きが、泰然自若で揺るぎない心に似つかわしくなくて、俺は少し眉を寄せた。ちらと横目に見れば、武瑠の表情筋も強ばっている。


「友達の一人は、恋をしました。それは彼に変化を与え、傍らで見守る私達は羨ましくも微笑ましくも感じていました。それでも私は、始まったものはいつか終わるのだろうと、何となく考えていて。その友達に辛く悲しい出来事が起きた時、別れはいよいよ近しく思え、慰めの言葉ばかりを幾つも候補に上げていました」


“止めれば良いのに、と思ったんだ”


 いつだったか。あぁ、あの島で。海辺で。

 誰かを好きになるのは通過儀礼だと。そんな心の言葉が蘇る。


「もう一人の友達からかつて覚えのない程に怒鳴られ、私はその姿勢が誤りであったことに気づかされます。同時に焦りました。誰よりも大人だと思っていたはずの自分が実は一番思慮深さに欠け幼稚だったのではないかと。友達はいつの間に強さや優しさや自分以外の誰かを想う温かさを手に入れ、ずっと先に行ってしまったのかと」


 俺はいたたまれずフルフルと頭を振った。そんなことないよ、心。ごめん、と小さく呟く。泰然自若で揺るぎない、なんて俺が勝手に自分自身へ植えつけていた心のイメージ。俺は友達のことすらまだまだ分かっちゃいない。


「友達は大切な人の手を取り、これから先ずっと共に生きていくことを決めました。ありがたいことにその未来には私との友情の存続が描かれているので、私はまた乗っかろうと思います。ただし、何となく、ではなく、私がこれから歩む道が綺麗に彼らの未来とリンクし沿っていけるように。気づかせてくれる何もかもを欲張って大切にしていきたいと思っています」


 心は大きく息を吐くと、抽象的すぎましたか、と笑いを含んだ声で小さく漏らし、辺りの空気を綻ばせた。


「学校という小さな箱庭は、私達を今日までずっと守ってくれました。明日からその穏やかな囲いは取り払われ、世の全てに晒されることになります。言い訳は通用しないのでしょう。それでも今、壮大なる冒険に旅立つ前のような高揚感にとらわれてやまないのは、私が未熟だからでしょうか。それとも、この三年間の目には見えない内なる成長が、背中を押してくれるからでしょうか。空に描く透明な未来図はこれから鮮やかに彩られ、一つ一つのピースが綺麗に埋められていくのでしょう。それが現実のものとなるように、全力で邁進していく所存です」


 締めが近いのかもな。何のかんので最終的には答辞っぽく聞こえちゃうとこがスゴいよ。

 ふと隣を見れば武瑠の頬にニコニコが戻って来ている。俺の視線に気づいた武瑠は俺の目を見て、でも照れくさそうに俯いて小さく言った。


(オレ、神威と心と友達で良かった)


 そんなの、俺もだよ。当たり前じゃん。

 俺は右肘で武瑠を小突く。


「校長先生をはじめ諸先生方、本日はこのような貴重な機会を与えてくださり、本当にありがとうございました。重ねて御礼申し上げます。あわせまして御父兄の皆様、在校生の皆様も最後まで御静聴いただき、感謝申し上げます。以上をもちまして私からの答辞に代えさせていただきます。卒業生代表、3年5組、弓削 心」


 心はゆるりと頭を下げ、また元の位置に戻した。最後まで無駄のない動きに魅入られて、拍手を忘れるところだった。俺は我先にと両の手を打ち鳴らす。武瑠も負けてない。5組から聞こえ始めた高らかな音はみるみるうちに館内を包み込む。

 壇上を躓くことなく下りた心は、鼻を一度すすり上げた手柴先生から背中を叩かれ顔をしかめていた。気の毒に、あれは痛そう。と思って見ていたら、葛西先生の熱烈なハグに遮られ表情は隠れてしまう。


 あーあ。やっぱり男泣きしてんじゃん、先生。

 俺達5組にクスクス、ではない笑いが広がる。グスグス。

 18にもなって、卒業式で泣いちゃう、って、どうなの?

 礼ちゃんの涙腺も、こりゃもうぐっちゃぐちゃだろうな。俺は1組が座る列に目を向けながら鼻をすすった。

 盛大な拍手と恒例の卒業ソングを背に体育館を後にし、教室までの廊下で俺達はホッと息をする。


「……心、スゴいね」

「……何が」

「感動した」


 俺達は三人並んで歩く。真ん中に立つ心を挟んで右側にいる武瑠は未だ鼻をズビズビ言わせている。心はフ、と柔らかい笑みをこぼす。


「即興だぞ、あれ」

「……即興?」

「元々、白紙。止めろと言われたら適当にそれらしく纏めるつもりだったし。続けて良いと許可が下りたから言いたいことをつらつらと」


 そう言いながら内ポケットから取り出した原稿の中身は、確かに真っ白。


「な、何だっけ? 勧進帳?」

「武蔵坊弁慶か、俺は」


 いかにもじゃないかと武瑠の笑いを誘いたくて言ってみるけれど、相変わらず鼻をすするばかりで話に乗ってこない。


「そんな泣かせるつもりはなかったんだけどな、武瑠。と言うかこんなセリフ、男に言いたくないな」

「家 帰って眼が赤いとおばあちゃん心配するよ?」

「だってさあ」


 ゆるゆると歩を進めながら武瑠は大きく息を吐く。いつもの飛び跳ねるような軽やかな足どりはそこになく、廊下の無機質さすら忘れないように身体に刻み込みたいのか、一歩一歩を丁寧に繰り出している。


「……なんか本当に。この校舎とか教室とか黒板とかロッカーとか部室とか葛西先生とか。本当の本当に、何もかも、今日で最後なんだなぁ、って。しみじみ感じたら涙 出てきてさあ……、オレだけ?」


 最後の試合に負けた時点で武瑠の高校生活における部活動は終わりを告げて“それ以降”は無かった。当たり前に没頭していた何かが日常から切り取られるという感覚を一度味わったはずなのに。


「サッカーはさ、一部だったんだよ。でもあのクラスで過ごしてきた何千時間はもう、高校生 武瑠くんの全部で、染み着いてるからさ。明日もばーちゃんに叩き起こされて、オレ、普通に学校来そう」


 その惰性というか習慣は分かるような気がするな。心も同意なのか、うんうんと軽く顎を引く。


「中学卒業する時より、くるよな」

「あの時よりもっとバラバラになっちゃうからね」


 ふと訪れた沈黙はふわりと肩に回された心の長い腕がかき消してくれた。見れば右腕は武瑠へ。

 どうしたどうした? 心。


「俺達は明日からも変わらず続いていける。俺がそれをどれほど嬉しく感じているか。きっと神威も武瑠も分かってない」

「「え……、」」


 俺は武瑠と顔を見合わせ、両側から心の端整な横顔を凝視した。伏せ気味の瞳に宿る穏やかな光。優しく笑う口元。

 いつもと何ら変わりなく、何一つ動じてないように見える心だけど。テンション変だね? 可笑しいよね?

 あぁ、俺は。やっぱりまだまだ心のことを分かってないのかも。


「なんか青春だなー! オレ、こういうの嫌いじゃない!」

「あ、ちょ、カメラ向けられて…、」


 最後だ、好きにさせとけ。

 そんな心の低くよく通る声は、携帯電話から発せられるシャッター音をさらに誘った。

 最後のHRが始まるまでの間、みんなそれぞれロッカーや机を整理したり、あらためて連絡先を交換し合ったり、廊下では大告白大会が始まったり、と思い思いの時間を過ごしている。なかでも大勢のサッカー部後輩くん達に囲まれている武瑠は、目に付く人だかりの中心だ。

 マネージャーの女の子が寄せ書きの色紙かな? 涙ながらに手渡していて。

 花束とか。良いな。良いよね。武瑠、頑張ったもんな、三年間、本当に。

 礼ちゃん捜索隊に参加させた日はサボらせちゃって本当に申し訳なかった。

 俺は心の席で頬杖をついたままボンヤリと眺めていた。

 集まっている人の多さはきっとそのまま武瑠の人柄を表している。

 俺には無い武瑠の人懐っこさ。こちらまでつられてしまう屈託ない笑顔。傍にいる者を和ませる話術。バカっぽいふりして実は誰より聡い。

 俺や心は持ち合わせないそれらの素養を明日からも手放さずに済んだことに、心じゃないけど改めて嬉しく思ってしまう。


「あ、神威センパーイ!」


 サッカー部後輩くん達が教室の出入口に顔をひょっこり出し手招きをする。俺?


「これ、オレらからです!」


 訝しみながら近づいた俺に後輩くん達は正方形の薄い紙袋を手渡してくれる。満面の笑みと共に。


「……な、んで?」

「何すか?」

「俺、別に部員じゃ…、」

「何言ってんすか! 去年の高総体!」

「その他、時々 練習試合!」

「お世話になりました!」

「神威先輩のは特別なんすよ!」

「え、ちょ…、」


 一旦は俺の手に渡ったそれを取り戻すとじゃーん! と声高に叫ばれた。やや下の方から眼前に差し出された色紙には、一体いつ撮られたんだか試合中の俺の姿。その周りを囲むように添えられた幾つものメッセージ。


「……字の汚さが特別なの?」

「あ、ひっで!」

「そこは武瑠先輩のと変わりません!」

「写真すよ! 写真!」


 チラリと目をやれば武瑠の手の中に収まる色紙にも写真が貼られているけれど。


「神威先輩のは、写真部の武田が撮ってくれたやつなんで!」

「超高画質、超高精細、本物に限りなく近い再現力!」

「カッコいいっすね、やっぱ!」


 俺は自分の容姿を綺麗だとかカッコいいとか、正面から認めたことはない。という主張を聞いた野田には、イヤミか、と一喝されたけれど。

 イヤミ、じゃない。傲ってしまいそう、というのとは違って。

 本当に俺は、中身で選んでもらえることは無いんじゃないか、なんて。武瑠や心が纏う内面の良さが滲み出る雰囲気、って俺にはあるんだろうか、なんて。むしろ、怖かった。

 かと言って外見だけに寄ってくる人を疎ましく思うばかりで、それ以上に内面を磨こうだなんて努力もしなかったんだけどね。

 だからか、被写体になるのは苦手。ほら、お前はこんな程度だぞ、と客観的に薄っぺらい自分を見せつけられるような気がしてたから。


 ———でも、この写真は何か違う。


「……ありがとう、本当に。武瑠みたく先輩らしいことなんて何もしてないのに」

「や、武瑠先輩は先輩らしくないっす」

「てか、イケメンに感謝されると照れるし」

「あ、武田に逢ったらよく撮れてたって褒めてやって下さい!」


 じゃあ神威先輩、お元気で!

 礼儀正しく頭を下げきちんと挨拶をしていく姿にスポーツマンシップを感じるな。俺は後輩くん達の背中へもう一度ありがとう、と言うと心のところへ戻ろうとした。


「神威先輩!」


 聞き慣れない男子の声に呼び止められる。振り返り発声元へ目をやると、噂の武田くんだった。


「あ、武田くんだ」

「あ、それ…、」


 武田くんの視線は俺の手元、色紙へ吸い寄せられている。しばし見つめた後、気まずそうに俺を見上げて言った。


「すみません、その写真…、サッカー部の、同じクラスなので頼まれて断れなくて」


 小柄な武田くんはよく気が利くマメな子でちょこまかとフットワークが軽いもんだから頼まれごとも多いのだろう。文化祭の時も店番なんて二年連続でやってたし。そう言えば、俺が撮った作品を買って行った礼ちゃんを、すっごいすっごい可愛かった、と唾を吐く勢いで言ってたのは武田くんだ。


「いや、良いんだ。気にしてないから気にしないで。俺、三割増くらいに良く写ってる。ありがとう」


 言うと武田くんの頬はほにゃあ、と和らいだ。

 ありがとう、本当に。被写体が持つポテンシャルをどこまで引き出しさらに伸ばせるかは、結局 撮影する側次第なんだから。撮影方法やテクニックを超えた瞬きも惜しいほどの刹那。どう見せてあげたいか、より以上を追い求め人差し指を押す瞬間。


「俺、こんな楽しそうにサッカーしてたんだな、って。汗が迸る感じとか暑さとか躍動感とか。すごくよく出てる」


 もう一度ありがとう、と言うと武田くんは後ろ手を組んでいるのかと思っていた背からA4サイズの写真をゆっくりと取り出した。


「これ、なんですが…、」

「う、わぁ…、」


 これ、今朝だ。礼ちゃんと俺は手を繋いでいる。校門入ってすぐ、くらい? 俺は礼ちゃんの髪についた桜の花びらを取ろうと右手を伸ばしている。

 俺、礼ちゃんといると、大抵ニヤニヤしているはずだ。いや、ニヤニヤとまでいかずとも相当緩んだだらしない表情をしていると思ってた。何だろう、この。


「……分かりやす」

「ですよねぇ」


 図星を指されても腹立ちもないくらい、写真に写る俺は全身全霊で礼ちゃんを大好きだと言っていた。目は口ほどにものを言う、どころじゃない。まさしく顔に書いてある、だ。

 視線も伸ばした指先も下がった目尻も笑みの形を湛えたままの口元も。細胞の一つ一つに至るまで叫んでいるのかもしれないな。

 優しく、柔らかい。我ながらそう形容しても、許してもらえると思う。穏やかで、愛しい人を傍でずっと見続けていられるという絶対を手に入れた、この上なく幸せな人間の表情。

 恥ずかしいのはやまやまなんだけど、これ、悪くない。全くもって、嫌じゃない。

 だって隣に写る礼ちゃんも、似たようなもんだ。口元は、え、だか、あ、だかの形になってるけれど。大きな瞳もほんの少し紅く染まる頬も髪の毛へ伸ばす小さな手も、それが俺の右手と触れるか触れないかの距離感であることも。


「……すみません、それも。卒業の日の一コマを撮るつもりだったんですけど、御本人へ断りもなく」

「え、あ! や、良いよ! わざわざありがとう。さすがに…、照れるけど。こんな分かりやすい顔、してたんだな」


 武田くんは俺の正直な感想を耳にするとクスリ、と笑って僕は、と続けた。


「神威先輩が撮られるの嫌いだ、って知ってましたし。その経緯なんかも小耳に挟んだので。イケメンもそれはそれで大変なんだな、って気の毒に思ったり…、してましたけど」


 でも、と言葉を継ぐ。

 見上げてくる顔は何だかピカピカに光って見える。言いたいことを言えました、みたいな。満足げに。


「……カッコいいんです、神威先輩は。諸々ひっくるめて、見てくれだけじゃなく内側も。だってこんなにダダ漏れです」

「それはさ、武田くんがそう見せてあげたいと思ってシャッターを切ってくれたから」

「まさか」


 僕はそんなにお人好しじゃありません、と意見は分かれたまま。俺は苦笑混じりに、最後にもう一枚、撮って欲しいと頼んだ。

 礼ちゃんも妹尾さんも入れて。あの、誕生日の時の約束の一枚をね。

 ニッコリ笑顔で快諾してくれた武田くんは適任だ。きっと誰をもの感情を、内なる美しさを色褪せないまま残してくれるに違いなかった。

 艶やかな裾捌きで廊下を歩いてくる葛西先生が目に入り、俺は武田くんへ待ち合わせ時間と場所を告げて教室へ入る。


 目の縁が紅い。幾分、時間の経過が薄くしているとはいえ、あれだけの男泣き。教壇の上に立つ先生へ俺達が向けている視線は熱く、そして。


「……あのね。やめてくれる? その珍獣見るような目」


 しかも全員で、と憮然とした表情で先生はつけ加えた。


「や、だって先生、あそこまで泣くとは!」

「俺、良い歳した大人の男が泣く姿って初めて見た!」

「あー、でもうちの親父、姉ちゃんの結婚式で大泣きしてた」


 良い歳、とか、親父、とか、好き勝手に交わされる会話の端々に反応して先生の額に怒りマークがピキピキと描かれそうだ。


「……弓削に。あそこまで泣かされるとは思わなかったんだよ」 

「先生! 今のセリフ、全体的にエロいです!」

「意味が分からないぞ、野田。お前の脳内はほぼエロで構成されています、って内申書に書けば良かった」

「ちょ、ひどっ! 先生! いるでしょ? 俺よりエロいの!」


 誰のことだろう、なんて他愛ない会話の流れを読んでいたら、最前列の席から野田は振り返り俺を指差し先生へ訴える。


「神威なんてミコちゃんと結婚するんすよ! 結婚! 大事なとこなので二回言いました!」

「……いや、うん。野田。結婚はエロ要素ばかりではない」

「いやいやいや! 初夜とか! あんなこととかこんなこととかしても! 一切、お咎め無しで! ミコちゃんが! 俺の天使が!」

「……お前、本当に心配だな。都会でピンクなキャッチに引っかかるなよ」


 野田、上京組だったな。

 先生は教壇からトンと下りると、その細く長い指で野田のツンツンした頭をわしゃわしゃと撫で回した。あああ、せっかくキメてたのに! という野田の叫びを一笑に付す先生。


「いいんだよ、神威は。あんなこととかこんなことしても。それだけの覚悟を、したんだからな」


 覚悟、って言っていただけるほどの壮大さは、正直 俺の中にはないのですが。

 でも、そういうことになるのかな。人一人の未来を全部いただくんだから。いただいたから慢心して良い、ってことじゃない。安心とも違う。

 礼ちゃんがほんの一秒だって後悔することのないように、俺はこれからどれほど鍛え上げられていくのかと思うと。


 先生はそんな俺の思考を知ってか知らずかゆるりと目を細める。ね? と同意を求めるように傾げられる首。


「俺が無事に合格したら、の話ですけど。合格する気でいますけど。俺だけの力でどうにもこうにも出来ないのは死ぬ日時を決められない、っていうことくらいで、他は礼ちゃんが傍にいてくれたら、結局 何でも大丈夫になると思います」


 先生の唇は緩く一文字だったけれど、俺の一言ずつが上下を離れさせ歯を見せて両の端を綺麗に上げていった。

 よく見えた。よく覚えとこう。俺はこの笑顔に何度助けられたことか。


「良いね、その気負わなさ具合。不思議だよね、神威がそう言うとそうなるように思える」


 みんなもそう思ってるんだろうか。最後のHRはいつの間にか始まっている。

 俺の言葉はクラス中にドン引きされても可笑しくないだろうに、水を打った様に静まり返っていて、また教壇へ立ち戻った先生の、次の言葉を、待っている。


「俺の弟ね、去年 結婚したんだけど。デキ婚で…、いや今時はおめでた婚? だか授かり婚とか言うそうだけど。うちは本当に老舗で弟が後継いでくれるもんだから、それは盛大に式挙げて、大勢の人の前で幸せになります、とか、幸せにします、とか、幸せにしてもらいます、とか。新郎も新婦も何度も口にしてて」


 シーンをイメージしようとしたけど、結婚式って馴染みがなくて上手くいかない。親戚の誰かのに参列した、なんて記憶が山田家には無いし。でも芸能人の結婚ニュースとかにしたって、先生がさっき言ってたセリフは必ずついて回るよね。


「聞いてるこっちは悲壮感すら覚えたよ。結婚するからには幸せにならなくちゃ、って。そんな義務感背負っていく必要は無いのに、って思った。まあ、元はと言えば後を継ぐのは俺だったはずで、決められたレールから脱線した不出来で独身の長男にそこまで言う資格は無いんだけど」


 先生は不甲斐なさそうに補足した。

 笑うとこなんだと察知したクラスメイトから漏れるその類の声。


「でもね。幸せの定義なんて誰も分からないでしょ? 大切な人との間に常にある目に見えない繋がりは、それを紡ぎ続けていけることをきっと毎日愛しく思えて仕方ないはずだよ……頑張って、神威」


 うん、俺かな、って。途中から思ってた。

 先生の優しい視線は俺に置かれたままだったから、俺に向けての言葉なのかと。

 頑張って、って言っちゃうんですね。頑張り方なんて先生も知らないんでしょ? でも言っちゃうんですね。大体、何をですか? 礼ちゃんより長生きできるように? それともあんなこととかこんなこと?


「えーっ!? 先生! 神威にだけ?」

「そうそう! 何かオレらにも餞の言葉を!」


 そりゃあそうだ、みんなが欲しがる葛西先生の言葉。この二年間、短かったり時間をかけたり時に荒く時に穏やかに、俺達の成長促進剤だった魔法。

 先生は、はいはい、と笑いながら教卓のファイルを開くと何やら取り出した。封筒? 手紙?


「相川から取りに来て。はい」

「え? 何? 先生、これ」

「手紙だよ。見て分からない?」

「ラブレター?! 先生からの?!」

「はい、菊池。や、ラブ入ってるかは」

「すっげー先生! 全員分? その心意気 婚活に活かせば良いのに!」

「……榊、返してそれ、つか読むなよ! 今! 家帰ってから読め!」


 次々と読み上げられる俺達の名前。みんなの手にヒラヒラと舞うメッセージ。俺は最後まで神威、と呼ばれた。山田、じゃなくて。それが何だか嬉しかった。


 さて、と先生は言った。いつもの朝のように。教壇に立ち穏やかな双眸を教室中へグルリと巡らす。

 でも、違うんだ。明日からは、見られないんだ。


「……あー…、俺また泣きそ」


 先生はこみ上げる何かを紛らすように眉根を寄せ目を堅く瞑る。それでも治まらなかったのか、骨ばった両の人差し指で鼻の付け根を押さえつけている。


「……お前達が入学した年に俺もこの学校へ着任したんだ。一年目は難なく過ぎて二年目にこのクラスの担任になって。三年へ持ち上がりだから、正直 憂鬱だった。受験生を持つのか、って」


 しかも男ばっかのクラスだし、と笑いを含んだ声で添えられたのに誰も笑わない。笑えない。

 俺は窓際最後列の席だから、よく分かるんだ。みんなに伝染していく内側からの震え。泣いてしまいそうだと認めるにはまだ早い。ちゃんと、最後まで、聴きたい。


「……お前達がいなくなっても。それでもまた太陽は昇って明日はくる。俺はまたいつものようにここへ来てきっと、普通に腹が減るしメシ食ったりする。何度経験しても、慣れない。大事な教え子が巣立っていなくなっても、俺にはまた変わらない毎日が続く」


 先生はまた一段と強く目頭を押さえ、大きく息を吐いた。俺達はそんな一挙手一投足から目が離せずにいる。


「……それでも、俺は、生きていく。教師って職を選んだのは俺だからな。また次の生徒達にとって良い先生でありたいから。どんなに寂しくても、明日からまたちゃんと生きていく。俺は、誰一人として忘れない。記憶力には自信あるから。だから、お前達も忘れないで」


 先生は端整な顔を半ば覆っていた両の掌を教卓へ下ろし、それまでの俯き加減から頭をもたげ、凛とした佇まいで俺達を見渡した。もう、目の縁が、鼻が、それは真っ赤で。


「お前達ともう一緒に過ごせなくなることを、こんなに寂しがってた教師がいたなー、って。ちゃんと、思い出して。……卒業、おめでとう」


 しばらくの間。誰も何も言葉に出せず、身じろぎ一つ出来ずただ、先生の方を見つめていた。

 トン、と先生が教卓へ立てたファイルの音はやけに響き、それを合図のように隣のクラスから歌声が聞こえてくる。


「……センセ! 歌! 最後に歌おう! オレらも!」

「……え」

「何が良い? 何にする? はい! 全員起立ー!」


 武瑠は自分の席からするりと教壇の横へ移動し、その伸びやかなかけ声と動きにつられるように、みんなはガタガタと椅子から立ち上がる。鼻を啜りながら。そんな様子をからかいながら。俺も隣の心を見やり席を立つ。俺はもう、自分の頬を伝った水分に気づいて拭ったけれど、心は零れ落ちないように瞳の表面張力と闘っていて教室の天井を見上げている。


「センセ! リクエストは?」

「……俺、流行りの歌とか知らない」

「吉居が初めに歌ってー!」

「じゃあ、センセが好きなあの曲ね!」


 いつどこで、武瑠はそんな情報を手に入れるんだろう。ああでも、聞いたか。病室で。卒業の日にはあまり似つかわしくない曲だったし、難しくて武瑠の先導にもみんなついていけてなくて、てんでバラバラだったけれど。


 みんな、笑っていた。先生も、笑っていた。だから、良しとしようか。


 俺は額から左頬へかけて、未だうっすらと残る傷痕に久しぶりに触れてみた。

 葛西先生、本当にありがとう。委員長を手伝って、出来るだけ早く同窓会しよう。また、逢いたいから。この先の人生で、ずっと関わり合っていきたいから。

 先生がたとえ嫌がっても面倒くさがられても、俺は掴まえて、離しませんからね?


 誰しもが醸し出している名残惜しい空気のせいか、歌い終わった後も積極的に次の行動に出るヤツはいなかった。誰もこの温かな雰囲気を壊したくなくて。誰も最後の幕引きをする引き金になりたくなかった。


 そんな俺達を優しく見つめて苦笑する葛西先生。先に終わったクラスのざわめきが廊下へ響き始め、キリが無いからね、と委員長へ号令を命じた。委員長の鼻声はどの単語も濁点付きに聞こえ、教室のあちこちで小さな笑いが起きる。


 武瑠は何故かそのまま教壇の傍でありがとうございました、と号令に応じて謝意を述べた。かと思ったら葛西先生へ振り向き、センセ、と小さく手招き。ちょっと高いところから、ん? と目を見開き、先生は武瑠が寄せた口元へ右耳を近づける。内緒の話? 何なんだろう。


 先生の黒く潤んだ眸は更に一回り大きく見開かれ、すぐに細く緩められた。一人、また一人と教室を後にする姿へ声をかけながら、先生は色素が薄いふわふわの武瑠の髪をグシャグシャに撫で回している。俺は心と顔を見合わせ、武瑠の傍へ。


「じゃあな、やゆよ。また」

「……雑把ですね、先生」

「褒めるな。照れる」

「褒めてませんよ?」


 俺達は葛西先生の背を追って廊下へ出た。先生の袴姿をとらえた女子の感嘆の声がそこかしこで巻き起こる。遠く端っこの1組からゆるゆる歩いてくる礼ちゃんと妹尾さんのデコボコ具合は、他の何をさしおいても俺の目に飛び込んできた。


「じゃあ、本当に。またな」


 先生は大人の色香と共に、綺麗な瞳を俺達へ流し置くと、上げた右手の甲を俺達へ向けヒラヒラと振り歩を進め始める。上下左右にブレない体軸が、背筋の伸びを更に美しく見せていた。



 ———さよなら、って言われなかった。



 じゃあ、とか、また、とかしか言われなかった。

 間を置かず、次に逢える機会を楽しみにしているのは俺達だけじゃない。そう感じられて嬉しかった。先生の凛とした背中と、その向こう側に見える礼ちゃん達の遠近感をボンヤリ楽しんでいた俺。

 先生の目も礼ちゃん達をとらえたんだろう。ふと互いの距離が近づき、先生の唇は位置を下げ礼ちゃんの耳元で何ごとかを囁いた。うわ。また内緒の……、


「う?! わああああっ!!」


 何を! 一体! ハ、ハグだ! ハグしやがった先生! 最後に! 礼ちゃんに! ギュッと! や、そこ止めて妹尾さん! ニンマリ笑って見てないでさ!


「何してんですかっ?! 先生!!」


 俺はあたりの生徒の視線を一身に浴びながら腹筋を使って大声を上げ、先生から礼ちゃんを引き離すべく猛進した。いやもうとっくに、先生の姿は消えてたんですけどね。くっそー、逃げ足 速いな! きっと昔、ピンポンダッシュで鍛えたクチだな!


「な、何?! 何言われたの?!」


 俺は勢い込んで礼ちゃんに詰め寄る。だって礼ちゃんのほっぺた、ほんのり紅が差しているから。


「………」

「礼ちゃん?! 言えないようなこと?!」

「そうだね、言えないね」

「妹尾さんには訊いてなくてね?!」


 神威に飽きたら俺のとこおいでね? だとさ。

 妹尾さんは依然、ニンマリの表情を保ったまま、そんな悪魔の囁きを俺に告げる。


「なんてことを! あのM字ハゲ!」

「……もう、万葉ってば。神威くん、興奮して頭の血管切れちゃったらどうするの?」

「……礼ちゃん。真顔で恐ろしいこと言わないで?」

「違うもの。葛西先生はね」


 たとえ1秒でも、神威より長生きしてやってね。


 俺の顔を覗き込むように、笑顔の礼ちゃんが口にする葛西先生のセリフは、甘くて優しくて綺麗で、でも意味深で。クラクラしたから、俺はやっぱり頭の血管が切れるかもしれないとじんわり思った。


「……どうして」

「え?」

「どうして、そんなこと…、」

「ふふ」


 私はね、と礼ちゃんは続けた。ノンビリ歩いてきた武瑠と心と、妹尾さんへも順に柔らかい視線を置いて。みんな揃ったことへの安心感を得たのか、俺を促し廊下を歩き出す。


「神威くんは、私がずっと傍にいなきゃ駄目な人だからなのかな、と思ったんだけど」

「否定はしないけどさ。もう、その言われようが既に駄目人間じゃない? 俺」

「え、でも私もよ? 神威くんが傍にいてくれないと」

「礼ちゃん…!」

「とはいえ、そんな駄目人間に見切りをつけたなら俺と、っていう」

「妹尾さんは茶々入れないで!」


 俺を意地悪な顔で振り返る三人。妹尾さんなんて、黒いしっぽ生えてんじゃないの? 前を向き直ってもなお肩を小刻みに震わせている。


「本当のことだから、否定しない。礼ちゃんが傍にいないと俺の世界は真っ暗闇。いてくれるだけで未来は輝かしい予感に満ち溢れてる。俺って、詩人!」


 神威のテンションも妙だな、なんて至極冷静に言わないで心! 残りの二人! 深く頷かない!


「あー、私もハグしてもらえば良かったな。御利益ありそうな」

「じゃあ、万葉ちゃんにはオレがー」

「断る!」


 俺達は他愛ない会話を次々に紡ぎ出す。ふと訪れる沈黙に明るい気持ちがさらわれないように。昇降口で靴へ履き替え、上履きを他の持ち帰る荷物と一緒にすると、俺達はカメラを手に正門の傍で待ち構えている武田くんへと距離を詰めた。

 武田くんは礼ちゃんの姿を認めるなり目を大きく見開き頬を染めている。キミもだいぶ分かりやすいじゃないか。俺と目が合った途端、噴き出すところも分かりやすい。


「うわ! 前言撤回していいっすかね」

「え? なあに? 何の話?」

「……神威先輩は中身ひっくるめてカッコいい、って話を」

「わ! “神威先輩”って響きが新鮮!」

「礼ちゃん…、そこ?」


 武田くんは俺達を交互に見つめまた噴き出すと、武瑠や妹尾さんから飛んできた注文に忠実に応えるべく、真剣な眼差しでレンズを覗き込み始めた。

 今日はあちこちで耳にするシャッター音。携帯電話やスマートフォンのちょっと軽いそれとは違う、武田くん愛用の一眼レフが奏でるリズムはみんなの笑顔を誘っていく。


 礼ちゃんは綺麗に笑っていた。別れの悲しさに表情を曇らせまいと。でも、出来過ぎな笑顔だと思った。

 正門を出てすぐの所にある車寄せには、見覚えのある黒塗り高級外車が停まっている。本当はもう、ずっと前から見えているんだ。目立つから。武田くんが視界に入るより先に。


「礼?」


 ちょっと尻上がりに妹尾さんは礼ちゃんを呼んで、その時は呆気なくやってきた。俺は武田くんに御礼を言って、慌ただしく連絡先を交換する。


「じゃあ私、行くから」


 ちょっとそこのコンビニに、くらいの気安さで妹尾さんは言った。うっすらと口元に浮かんだ微笑みは、背景にふわりと舞う桜の薄い花びらとよく似合っていると思った。

 行ってらっしゃい、と礼ちゃんも言った。すぐ帰ってくるんでしょ? くらいの軽やかさで。


「今日、あんたちゃんと約束守ってんじゃない」


 約束? と口をついて出た俺の言葉に礼ちゃんは柔らかく微笑むと、泣かないの、と俯きながら答えた。


「泣いたらデコピン5連発なの」

「それは…、拷問だね」


 一発浴びただけでも相当痛そうなのに。なんて眉をひそめながら、きっと妹尾さんはそんな約束でなくとも今日は何としても礼ちゃんに泣かれたくなかっただろうし。たとえどんな約束をさせられても今日の礼ちゃんは泣かなかったのではなかろうかと思った。


 さめざめと涙を流す女子の姿はそこかしこで目にした。とりわけ五感が研ぎ澄まされている今日だから、いろんな感情が物質化して空気中を伝わり飲み込まれそうになるよね。


 ———でも、この二人は。


 何となく、違う気がした。女の子っぽくない、という訳じゃなく。

 ほら、また寄り添って生きていく未来のために、ほんの少し離れるだけ。でもいつでも、私のここは空けてあるよ、って。


「……我慢は、するな、礼」

「……逆じゃない? アドバイスとしては」

「いいんだよ。あんたはいろんなことを我慢し過ぎてきたんだから。ギリギリのラインが他の人間を超越してる。駄目だ、嫌だ、どうにもならないと思ったら。早めにご連絡を。飛んで帰ってくる」


 ああ、本当に。妹尾さんなら自家用ジェットとかぶっ飛ばして太平洋なんぞ軽々 越えてきちゃうんだろう。物理的な距離をモノともしない力強さが妹尾さんの言葉にはあって、俺は何だか嫉妬する。

 それにさ。


「……妹尾さん。俺、礼ちゃんをそんなひどい目に遭わせるつもりはさらさらないのですが」


 俺の隣で相変わらず俯いたままの礼ちゃんから俺へ視線を移すと、妹尾さんは、分かってるよ、と苦々しく笑った。


「山田が礼をそんな目に遭わせた日には。世界中どこにいたって安眠できる夜は来ないと思え」

「……ああ、違う眠りが訪れそうだね」


 うちのパパはゴルゴとだって友達だよ、と妹尾さんはサラリと言った。

 いや! 怖いです! 女子高生のセリフじゃないよ!


「……きっと、周りに放っておいてもらえないよ、山田も礼も。世界の最小単位は二人じゃないし。山田は男なんだから、いつも礼の傍にいてさりげなく守るなんて」

「分かってる。妹尾さんみたいな芸当は俺には出来ない」


 でもね、と続けたかったのは俺なのに、背後から聞こえてきたのは武瑠の声。


「オレと心はミコちゃんの学部棟と近いから。神威が一緒にいられない時はオレらが」

「すっかり合格した気でいるけどな。三人でやっと妹尾 一人分だ」


 妹尾さんは涼しげな目元を緩めて肩を竦めると、いいんじゃない、と言った。


「私のこと、四ヶ月近くほったらかした罰だよ。一緒にいるのが当たり前だったスペースに何もない空虚感。甘んじて受けたまえ」


 その口の悪さは温かな心根の裏返し。まあ、うちの姉ちゃんと似ている妹尾さんならではの物言いに俺達は目を細める。はい、と小さく漏れた礼ちゃんの声。

 ね、大丈夫? 礼ちゃん。下向いてると涙が零れ落ちやすい気がするのに。


「ま、時々、帰ってくるから」

「連絡先 教えてよ! 万葉ちゃん!」

「断る!」

「つくづくメゲないな、武瑠」


 ふ、と笑いを漏らした瞬間、俺の隣にあった礼ちゃんの存在感は、顔を俯けたまま妹尾さんへ突進した。プルプル震える両手で妹尾さんのブレザーを鷲掴みにして。


「……万葉。今まで、本当に、ありがとう」

「……何なのよ、礼。嫁入り前か、って」

「……これからも、仲良くして」

「当たり前でしょ? ぶっ飛ばすよ?」

「……い、行って、らっしゃい…っ、」

「……デコピン?」


 ポタリ、と礼ちゃんの足元の土に落ちた丸い水分に、俺達は誰も気づかないふりをした。嗚咽はきっと、堪えれば堪えるほど身体中を小刻みに震わせる。妹尾さんは、ふう、と優しく吐息を漏らすと、空を見上げ、礼ちゃんの顔を両の手で挟み ゆっくり持ち上げた。

 持ち上げる前に。妹尾さんが親指を器用に動かし、礼ちゃんの頬の水分を拭ったことにも俺達は気づかないふりをした。


「……よし。デコピンは無しね」

「……万葉」

「じゃあね、礼。夏休みに遊びに来ると良いよ」


 感慨が、無いんじゃないんだ。ただそれが深くなると、この場から立ち去れなくなりそうだから。きっとそれが分かってるから。

 本当に、明日もまた逢えるんじゃないかと錯覚しそうなほど軽やかに、妹尾さんはお迎えの車に乗り込んだ。遮光ガラスの向こう側に、その姿はすぐ見えなくなった。


 だけど、泣いてる気がした。フカフカ革張りシートに座り込んだ途端、崩れるように。いくら強気な妹尾さんでも、今ばかりは。


「……礼ちゃん?」

「…………」

「俺もデコピンしないから。思いっきり泣いていいよ?」


 するりと腕の中に収まった小さな礼ちゃんは、うーっ、と奇妙に押し殺した声を上げる。シャツの襟元から覗く礼ちゃんの首の細さと白さに何となく顔が熱くなりながら、俺は、ああ早く、夏休みになると良いな、とボンヤリ思った。



 ***



 ———その日は、すっきりとした青空が広がってくれた。



 幸せなんて目には見えないけれど、今日の俺を言い表すならまさにその言葉で満ち満ちていると思うよ?


 肌寒さがほんの少し残る朝。部屋の窓のカーテンを開ければ、ご近所さん家のくすんだ屋根の色々が視界の下を縁取る。遠目に薄くたなびく雲の白さが眩く映った。俺は誰にということもなく、知らず知らず ありがとう、と口にする。


「……変なの。何にだよ」


 独り言に突っ込むなんて末期症状かもしれない。苦笑しながら考えた。

 そうだな、礼ちゃんと出逢えたことへのありがとう、かな。


 三年前のあの日、市役所のあのピンポイントな場所で出逢えた偶然は、過去も未来もひっくるめて世界総人口分の一という、まさに奇跡。

 だってね。誰と出逢い誰と出逢わずして一生を終えるのか、その取捨選択を行えるのは果たして俺自身なのか。それとも人智を以て抗えない類のものなのか。その答えを俺は知らないから。


 奇跡、とか運命、とか、そんな頼り無げなものに身をゆだねるなんてまっぴらだとも思う。でも礼ちゃんの存在を知らなかった俺が今こうしていられるのは、ただ漫然と毎日を過ごしていた頃の俺に比べると、こうも穏やかにこれからを楽しみに感じられるのは、やっぱりそういうのがきっかけだったんじゃない?


 だから、何だか悪くない。この先、そういうのに翻弄されたくはないけど、礼ちゃんがくれた“絶対”を本物にしていくのは俺自身。


 神威ー、朝ごはーん! と母ちゃんの声が階下から聞こえる。俺は緩んだ髭ヅラを両手で挟みパンパンと気合いを入れると、部屋のドアを開け階段を下りた。



「……あんた、余裕だわね」


 大学のホームページへ合格発表が掲載されるまであと少し。姉ちゃんは愛用のノートパソコンをダイニングテーブルへ広げ、せわしなくマウスをカチカチ言わせている。


「姉ちゃんも自分の合格発表の時、落ち着いてたよ。父ちゃんと母ちゃんの方が焦ってた」

「名前に神がついてるもんね、あんた」


 関係ないでしょ、と笑って言いながらソファーへ深々と背を沈める。

 そういや姉ちゃんには命がついてたな。

 母ちゃんの初産は超難産で、母子共に何度も死線をさ迷ったのだと涙ぐんだ父ちゃんからたびたび聞かされた。みこと、は“命”とも書き表すことができる。女の子だからと字面や響きの美しさと画数と、それはそれは様々な願いをこめてつけられた名前。確かに生きる強さ、みたいなものは姉ちゃんから感じられるよね。


「よし! 時間だ!」


 俺より俺のことを心配し考えてくれている。武瑠のことも心のことも同じ様に。きっと礼ちゃんのことも妹尾さんのことも。


「うー、さすがにつながるの遅いな」


 アクセスが集中しているのか、ページの変遷が遅いらしい。マウスを操作しない左手は姉ちゃんの頬に添えられているけれど、イライラを表現するように長い指が顔の上を踊る。


「法学部…あ、さすがね。心は」

「合格? どっち? 言ってよ」

「合格。あ! ミコちゃんも!」

「姉ちゃん、どうして俺から見てくれないですか?」

「だってあんたの学部 下の方に…よし! 武瑠も! あの子達、後期 受けなくても良かったねえ」

「姉ちゃん! 俺は?!」

「おめでとう、神威」


 パソコンの液晶画面を覗きこもうとソファーから立ち上がりにじり寄る俺を見上げ、姉ちゃんは見慣れた笑顔を向けた。さて準備準備! と切り替えの速いこと。


「……よ、っしゃあ!」


 大丈夫だろう、とは思ってた。自己採点では例年の合格ラインを超えてたから。あああ、でもいつしか暗記してしまった自分の受験番号。ちゃんと載ってて良かった!


「姉ちゃん! 俺、先に行くから!」

「はいはーい。武瑠と心とミコちゃんママ拾ってから行きまーす」

「今日はそんな念入りに化けなくて良いからね?」


 うるさいよ! という怒号が洗面所から飛んでくる。俺はパーカーを羽織るとポケットの中身を確認し、ショートブーツを履いて自転車のサドルへ跨がった。

 礼ちゃんも俺の誕生日の夜、こんな気持ちで星灯りの下、ペダルを漕いでくれたんだろうか。

 交通ルールは守らなきゃ。でも何もかも無視してぶっ飛んで行きたい。そんな内なる善悪のせめぎ合いも心地好い。

 礼ちゃん、待ってて。


「神威くん!」


 家の外に出て待っててくれた礼ちゃんの顔を見るのは、実は卒業式の日以来。礼ちゃん達は一発勝負の俺と違って後期日程も控えていたから、そのせいで礼ちゃんの誕生日もお祝いできなかった。あー! でも! 自粛モードももう解禁!


「礼ちゃん! ちょっと来て!」


 俺は自転車を礼ちゃん家の門扉へ雑に立てかけると、何やら言いかけた礼ちゃんをギュウギュウと腕の中に閉じ込めた。ああ、照れてるんだね? 礼ちゃん。大丈夫、ご近所さんは通りかかってませんよ? カムイ、これいじめてんじゃないから! 礼ちゃんへの愛情表現だから! 恨めしそうに吠えないで!


「…か、神威くん…、」


 俺の腕の拘束から何とかといった体で脱出した礼ちゃんは、頬を紅く染め上げて大きな黒い瞳は潤んでて。いやもう! いつも以上に可愛いな!


「身長差…考えてね? 窒息死します」

「……あ、ごめん」

「……ごめん、の表情に見えないのは私の気のせい?」

「気のせい気のせい」


 礼ちゃんの両肩に手を添えて礼ちゃんをまじまじ見つめながら、可愛さをさらに彩るお洒落さんぶりにも目をやった。

 今日の礼ちゃんは白。ブーツは黒だけど、白いワンピースに七分袖で丈の短いジャケットを重ねている。ヤバい。俺、なんだか。


「わ、まるっきり普段着ね」


 俺の心中を言葉にして下さってありがとうございます、礼ちゃんのお母さん。玄関から出てきてこちらへ向かってくるその表情はやけにニヤニヤ。また見てました? カーテンの陰から。


「……ですよね。着替えてこようかな、俺」

「まあ、いいんじゃない? 今日は籍入れるだけだしね。二人の仲がダメになりそうな時に後悔するかもしれないけど。ああ、あの日の普段着が悪かったのか、って」

「……お母さん。神威くんをいじめないで。神威くんも、ね? 私は気にしないから。それに、大丈夫でしょう?」


 駄目になんかならないでしょう?

 さも当然、のごとく礼ちゃんの口から軽やかに語られる未来は、信じない方が愚かだと烙印を捺される気さえする。


「うん。駄目になんかしてあげないよ」


 俺は礼ちゃんの手を取ると礼ちゃんのお母さんへ向き直った。


「今日から、お母さんだけの礼ちゃんではなくなります」

「……何ヶ月も前から言われてきたんだから。分かってるわよ」

「みんなで幸せになりましょう、……“おかあさん”」

「え、何なの? その呼び慣れてない感じ」

「うち、物心ついた時から“母ちゃん”なんですよー」


 何でも良いわよ、呼び方なんて。

 礼ちゃんのお母さんはサバサバと言った。いやそもそもこの人 若すぎて、お母さんってのが似合わないんだよね。


「幸さん、かな…」

「年寄りくさ」

「え? むしろそっちが?!」


 ゲラゲラと大口を開けて笑う礼ちゃんのお母さんの高い声は、今日の澄みきった青空へ綺麗に溶けていく。早く行け、とばかりに手の甲で乱暴に追い払われた。雑な所作も柔らかな笑みが添えられれば、不思議とお祝いされている気がする。


「美琴お姉さんが迎えにくるから、一緒に後から来て」

「行ってらっしゃい」

「……お母さん」


 礼ちゃんとお母さんの関係は、傍目に幾分 その距離を縮めているかに見えている。あの一件以来、確実に。ただそれがどれほどの雪解けなんだか、当事者ではない俺には分からない。


「大好きな人と何の障害もなく結婚できるんだから、私は幸せ」

「……そうね。羨ましい」

「……お母さんはお母さんよ、私の。一生。どんなことがあっても」

「アンタ、脈絡ないわ」


 礼ちゃんはしばらくの間、お母さんをじっと見つめていた。何度となくふっくらとした唇を開きかけては、また真一文字につぐむ。礼ちゃんって、お母さんに対しては口が重い。そうして結局、そうね、とだけ漏らす。

 俺の手をゆるりと引っ張ると市役所へ向けて歩き始めた。


「……礼ちゃん?」

「なあに?」

「旦那様に打ち明けてみて? 胸の内。そんな曇った顔で婚姻届出しても受理してもらえないかもよ」


 礼ちゃんは瞳をさらに一回り大きくしたまま俺を見つめる。何なの? 吸い込みたいの? 俺のこと。


「……神威くん。大好き」

「知ってる。つか脈絡無い」

「ふふ」


 昨日の夜ね、と礼ちゃんは切り出した。

 礼ちゃんのお母さんはお風呂上がりの礼ちゃんへ突然 言ったらしい。“子どもは親を選べないのに。今までこんな親でごめんね”と。

 でも、と続けられた言葉はさらに自虐的。“山田家のご両親がアンタの新しい親になるんだからさ。そっちを大切にしなさいよ。私のことはいいから”


「……確かに私、何度も思ったことあるの。どうしてあんな人が私のお母さんなんだろう。どうしてうちにはお父さんがいないんだろう」


 そして、うちに来た時に思ったんだって。こんなご家族が私の家族だったら。でもそれは、お母さんとの今まで全てを否定することでもある。もちろん、智くんと過ごした日々も。


「……お母さんのこと、好きじゃない。でもだからって、要らないって訳じゃないの。神威くんのお父さんやお母さんが私のご両親になるから、って」

「うん。分かるよ」

「……でもそういうの、上手く言えないの。心のどこかで根に持ってるからかな、今までの仕打ち。なかなか素直になれない」


 くしゃ、と悲しげに歪んだ礼ちゃんの顔は切なくて、それはあまり見たくない表情だ。俺は緩く繋いでいた手を指の間に指を通して握り直すと、漂う灰色の空気を払うようにブンブン振り回した。


「大学卒業したら結婚式したいからさ。その時までに伝えられるようになってると良いね」

「そう…、え?」

「ほら、あるでしょ? 花嫁からお母さんへの手紙、とか。伝えられるよ、きっと」

「な、何で知ってるの? 神威くんがそんなこと」

「立ち読みしたから」

「何を?」

「結婚情報誌」

「ええっ?! 何故?!」

「ちょっと参考にしたくて」

「……今から、結婚式の?」

「ちがーうよ! 鈍いな、礼ちゃん」


 礼ちゃんは明らかム、として意味が分からない、と呟きながらかぶりを振った。結婚しようって決める前にすることあるでしょ? と問うと、おつき合いですか? と質問で返してくる。

 ……まあ、そうだけどさ。


 誰に訊こうにもこの歳じゃ経験者はいないから。あ、やらしい意味じゃなくてね。市場リサーチするしかなかったんだよ。もっとも、あまり参考にはなりませんでしたが。


「はい、これ」


 俺はパーカーのポケットから小さな箱を取り出し、礼ちゃんの目の前へ差し出した。俺と箱へ視線を何度もさまよわせる礼ちゃん。折良く中央公園の近く。俺は礼ちゃんを足早に誘うと、手近なベンチへ座りもう一度 はい、とポカン顔の礼ちゃんへ差し出す。礼ちゃんの表情も手も、なかなか動いてくれない。


「うわー、シミュレーション通りにいかないもんだなあ」

「……え、何? え?」

「これ、分からない?礼ちゃん」

「……プレゼント?」

「ブー。プ、しか合ってない」


 プ、の形に小さく突き出された唇が可愛いのなんのって! いや、これを誘われてないと解釈するには俺、仙人にならないと無理!


 礼ちゃんの小さな頭。俺はサラサラの黒髪へ指を梳き入れると奇妙な形に動いている礼ちゃんの唇へ俺の唇をゆっくり重ねた。

 おっと。礼ちゃん、目開けたままでしたか。

 小さな箱を開けると、中には煌めくリングが2つ。分かるよね? さすがにこれ見たら、ね?


「……プロポーズ、ですよ? 礼ちゃん」


 えええっ?! という礼ちゃんの声が真っ昼間の公園へ響き渡った。いやまあ、行き交う人はいないので誰の迷惑にもならないけど。や、そもそも誰かいたらキスとかしませんけど。


「だっ、て私…、私がもう、先に…え?」

「そうだよね、礼ちゃんから頂いたんですけど。婚姻届。でも、俺からもちゃんと言いたくて」


 これね、とシルバーリングを箱から取り出しながら言った。温かな3月の陽射しにキラリと光る輝きは理想的。頑張ってやすりかけた甲斐があった。


「俺が作ったのね。誕生日プレゼントも兼ねてて申し訳ないけど」

「か、神威くん…!」

「あ、良かった! サイズぴったり! 礼ちゃん ちっこいからこれくらいかと」


 礼ちゃんの細く小さな左手の薬指は、元からそこにあった物のようにリングを収めてくれる。綺麗、と溜め息のように漏れた言葉は本当に心からの想いなんだろう。みるみる潤んでく瞳。おめでたい日に涙は御法度ですがな、礼ちゃん。まあ、でも。


「嬉し涙?」

「当たり前じゃない…っ!」

「あれまあ。これから毎年、作ってあげるのに」

「そのたびに嬉し泣きするわ…、」

「そのうちプラチナになったり、キラキラの石が載ったりするかも」

「……生活に困ったら質屋さんへ」


 ぶ、と噴き出した俺につられて礼ちゃんも笑う。コツンと頭を当て、肩を並べほっぺただってすぐ傍に。熱い吐息だって近い。あー、これからはこんな距離が日常茶飯事になるんだな。


「……礼ちゃん?」

「……はい」

「好きだよ?」

「知ってます」

「礼ちゃんの絶対を俺は信じる」

「はい」

「礼ちゃんが傍にいてくれたら、俺はきっとそれだけで一生、大丈夫」


 すん、と鼻をすすった礼ちゃんは ありがとう、と言った。


「私も、神威くんに誓うわ。神様とかにじゃなくてね? 病める時も健やかなる時も大喧嘩した時も倦怠期も、とにかくどんな時も。誰からも何物からも引き離されたりしない。私はずっと、神威くんの傍にいます」

「……大喧嘩に倦怠期、って何ですか。良いとこだったのに」


 俺はふつふつと込み上げる笑いを抑えながら、礼ちゃんの華奢な肩を小突いた。

 礼ちゃんが俺の左手をそっと触る。大切な物を恐る恐る手に取るように、薬指だけを礼ちゃんの指先の輪に近づけていく。でも大丈夫? もんのすごくプルプル震えてますけど。


「む、無理……、」

「ええっ?! 挫けるなよ、礼ちゃん!」

「神威くん、上手に出来たよね」

「何を言いたいの?」

「……初めてなの?」

「どりゃっ!」


 礼ちゃんのちょっと長く伸びた前髪は横に流されピンで留められてるから。デコピンには持って来いなんだよ! 今日のキミのおでこは!


「……暴力反対。あ、DVか」

「減らない口だねぇ、まったく」

「あ、やっとはまった」


 二人して薬指に光るリングを空にかざし顔を見合わせれば自然と頬が緩む。綺麗な横顔。涙の跡がわずかに残るけれど、それすらも光って見える。


「金屏風 欲しくない?」

「……バカップル」

「嫌? 俺、礼ちゃんとだったら何でもありだけどなあ」

「何でも、って…」

「あ、入籍記念に写真撮りに行こうよ、礼ちゃん。前の部長ん家がスタジオやっててご厚意で」

「え? 真っ白タキシード? 似合いそう、神威くん!」

「なんで俺メインで考えるのさ? 礼ちゃんの花嫁さん姿が見たいな、っつー話」

「いくらくらいするんだろ? 貯金で足りるかな?」

「聞いてないねー、あなた」


 そろそろ行こうか、と立ち上がり手を伸ばす。たおやかな笑みとともに俺の手汗だらけの掌も柔らかく包み込んでくれる礼ちゃん。俺達はまたゆるゆると市役所への道を歩き始めた。


 ほらね。こうやって、いつだって、バカみたいに仲良しでいようよ。激情の維持はせいぜい3年、なんて心が言ってたけど、じゃあ激情じゃなく小出しにしていってさ、70年くらいキープしようよ。


 俺ね、きっと忘れられない。礼ちゃんの本物の優しさに触れて、胸の奥深くに眠らせてた何かをギュッと持って行かれて。

 それまでの俺に近づいて来たどんな女子とも違ってた。

 キツい香水の匂いもしない。髪も顔もゴテゴテ飾り立ててなくて。媚びる様も不自然な距離感も無い。女子で群れてる訳でもなくて。


 ずっと、傍で見ていたいと思ったんだ。その笑顔。すっごく綺麗だから。愛らしいから。

 いつも笑っていて欲しいな、って初めは謙虚なこと考えてたはずなのに、いつしかズブズブと欲は増していって、結局 一番傍で独り占めすることに思考が偏ってる。


 俺はいつか、礼ちゃんの未来をも偏らせちゃうかもしれないね。この独占欲の強さで。

 でももう、駄目だからね。あの日、掴まえられちゃった礼ちゃんは俺から逃げられる運は尽きちゃったんだよ。


「……神威くん?」

「何ですか?」

「ふつつか者ですが末長くよろしくお願いします」

「こちらこそ! 日々精進します! まずは料理だなー」

「……それ以上モテたいの? あ、離婚前提? や、私が先に死んじゃう人生計画?」

「んなこと言うのはこの口かっ! 誰にモテたいんだよ? 礼ちゃんだけいれば残り全部カッパでも良いよ! 離婚もしない! 俺の方が1秒だけ先に逝く!」

「……ふ、ふひはひぇん…」

「礼ちゃんに負担かけたくないんだよ! 俺、家事の大変さ分かったつもりでいただけなんだから! 何でも二人でやってくんだよ!」


 コクコクと何度も頷く礼ちゃんを確認して俺はアヒルになっていた礼ちゃんの唇から手を離した。口元を右手で覆い涙目で見上げてくる礼ちゃんをまたギュウギュウにしてしまいたくなる。


「か、神威くん…、嫌いになっ——」

「ならないよ! なれないよ! 無理だよ! 怖い! 本当に礼ちゃん、それ無意識でしょ? どこでそんな技、身につけてくるの? 良かったあ、早く結婚決めて。そうじゃないと嫉妬で死ぬよ、俺」

「あ、生命保険…、」

「うわ、出た! リアリスト!」


 他愛ない会話も、時々触れるこの距離も、掌の熱さも不揃いな歩幅も。

 礼ちゃんとなら世界はまるで愛しさばかり。


 漆黒の瞳。涼やかな声。凛とした美しさ。儚げに見えても強い芯。

 ちっちゃなとこも泣き虫なとこも、まるごと全部の礼ちゃんが好きだ。


 礼ちゃんが好きだと言ってくれるなら、俺は俺で悪くないと思うよ。

 いやむしろ、俺で良かったと思ったよ。


 恋に落ちるってこういうこと。

 思いやりって、優しさって、寂しくて逢いたくてたまらないって、辛くて胸が張り裂けそうって。愛してるってこういうこと、って。

 全部 教えてもらったよ。

 礼ちゃんから。俺を支えてくれる大切な人達から。


 見つけられたお互いのたった一人。

 生きていこう、ずっと。何もかもを、大切にしよう。

 欲張ったって、大丈夫。後悔しながら、幸せになろう。

 強く強く、願って。




《完》

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