恋する男子力


「……い、神威」


 何度呼ばれていたのか。

 低く穏やかな葛西先生の声が、ようやく言葉として自身の耳に入ってきた。カチリ、と綺麗に視線が合う。喉の奥で、あ、という小さな驚きがひっかかった。


「……ご帰還?」

「……すみません」


 葛西先生は、特段、あの件のお咎めを受けることなく(むしろ巷の噂によると身を挺して生徒を救った英雄的存在として校長に褒められたとか)、そのまま持ち上がりで俺達3年5組の担任になった。もしかすると、妹尾さんのお父さんがいろいろ手を尽くしてくれたのかもしれない。

 妹尾さんは、何も言わない。あの日以来、いつも独りでいる。


「決められないなら、2パターン作って?」

「……え、あ、はい……、何を、でしたっけ?」

「あ、そこから? 進路だよ、進学先。御子柴を見つけられたパターンと、見つけられなかったパターンと、2つ」


 見つけられなかった、という悲観的な未来なんて描きたくもない。などと言ってばかりもいられない、悲しき受験生のリアル。サラリと口にした葛西先生を、ほんの少し残酷に感じ、その表情を見て、慌てて撤回する。


「……先生、泣きそう……?」

「泣かないよ、大人なんだから」


 頬杖をついたまま、シャープな顎の位置を変え、窓の外へ顔を向けた先生の瞳を、度が入っていない銀縁眼鏡のレンズの反射が隠してしまう。放課後の教室は妙に静かで、室内へとやんわり射し込む夕陽のオレンジが物悲しい。


「……神威が決められないうちは。5組名物やゆよトリオ全員、決まらないね」

「……何ですか、そのダッサいネーミング」


 俺は左頬の傷痕を思い出した様に掻きながら苦笑した。

 5組名物、かどうか知らないけれど、やゆよトリオ、ってのは、俺達のこと。

 山田、弓削、吉居、って、名前順は、中学入学以降、何かとつきまとって、ずっと同じクラスだったことも手伝って、仲の良さを加速させてくれた、ありがたい縁。


「……え、と。心も武瑠も、まだ…?」

「まだだよ。こんなの言っちゃいけないけど、本当は。ま、特例」


 二人とも、とっくに決めてしまってると思ってた。というか、最近、そんな話 してないな。俺、礼ちゃん捜すのに必死で、きっと何かいろいろ無碍にしてるから。


「……ね。吉居さ、サッカー推薦の話、断ったって言ってただろ?」

「……あぁ、妹尾さんが……、」


 私は皆が思うより皆のことを知っている、と。ちょっと寂しそうに話してたっけ。


「じゃあ、お前、どこ行くの? って。吉居に訊いたらさ。神威と同じとこ、ってあっさり」

「え……?」

「弓削も、よ? 親父さんの母校、天下の東大だって狙えるレベルなのに。どれだけ仲良いの? お前達」


 ……あー、ちょっと。心、先に帰ったかな。武瑠は最後の高総体前で練習漬けだけど。

 なんだ なんだ なんだ? スッゴい、嬉しいぞ。飛びつきたいかもしれない。

 いやいやいや、嬉しい、んだけど。七年来の仲の良さは、進路を決める判断材料として、そこまで重きを置いてもらって良いのか?


「……顔、気持ち悪いよ。神威。ニヤけながら悩むな」

「……すみません、本当に」

「分からなくはないけどね? ……良いねぇ、青春だね」


 良いねぇ、そういうの。

 そう言って手元の資料へ視線を落とした先生の表情は、教師のそれというよりも、もっと距離が近い、頼れるお兄さんといった風だった。


「ちなみに、神保先生情報によると。妹尾も、まだ、だって」


 うちの学校は、2年生から3年生になる時にクラス替えはない。担任も基本的に持ち上がる。ただ、1組担任だった大江先生は今年3月で退任して、この春、赴任してきた神保先生が後に着いた。


「御子柴を待つ、って言い張ってるらしいよ」

「……そう、ですか」


 妹尾さんは、元々 誰かとべったりなタイプではなかったのかもしれない。独りで行動出来る子ちゃんだったのかもしれない。それでもちっちゃな礼ちゃんが隣にいない細い影は、ひどく頼りなく見えた。

 武瑠がしょっちゅう構ってるけど、うざがられる一歩手前だな。


「……礼ちゃんと仲直り出来たら。私のここ、空いてるわよ? ってネタ、使いたいらしいです、妹尾さん」


 俺は右腕を水平に伸ばし、左手でここ、と脇の下の空間に円を描く。葛西先生は、ハハ、と薄く笑うと、だからか、と得心がいったように呟いた。


「……誰ともつるんでないもんね、妹尾。御子柴の居場所、確保してんだ」

「……ですね」


 俺、女子の行動心理はよく分からない。それでも、俺達と弁当を食べる昼休み以外を、女子がまるっきり独りで過ごすって構図に胸がチクリと痛くなる。


「ま、俺は嫌いじゃないけどね? 独りで行動出来る女子」

「そうですね、俺も……、大好きな子は、独りで考えて、独りで決めて、独りで……、どっか行っちゃいました」


 俺よりも、もっともっと切ない色が濃い溜め息を、葛西先生は小さく吐いた。


「……御子柴、見つからない?」


 俺はコクリと頷く。

 思っていた以上に、何ら策を持たない素人が、誰かを捜すのって難しい。妹尾さんは、お父さんと共に病院へ来てくれた日、事情を打ち明けるや否や、うちの私立探偵を貸すよ、と手配しかけてくれたけど、それは俺がおかしくなりそうな一歩手前でお願いすることにした。

 やっぱり、まずは、俺が。捜して、見つけて、掴まえたいんだ。

 この腕で、礼ちゃんの骨が折れそうなくらい、抱きしめたいんだ。


 父ちゃんも母ちゃんも、毎月の小遣い以外に礼ちゃん捜索の資金援助をしてくれている。土日、模試や補習が無い時は、好きにして良いと言ってくれた。ただし、と条件付きで。


『神威は、短期的に事態を捉えすぎ。長期ビジョンが無いよ』

『そうね。焦ってるし』


 抜糸を終えたばかりの俺は、ベッドの上ですっかり怠けた脚を揉みほぐしながら、父ちゃんと母ちゃんへ口を尖らせて言ったんだ。

 俯瞰でなんかいられるか、って。


『学校はちゃんと行くんだよ。ランクを落とさず、受験もすること。それが出来るなら、好きにして良い』

『暢気に学校なんか行ってらんないよ!』

『神威、ミコちゃんとの大切な未来もきちんと描けない程、激情にかられてるの?』


 かられてるよ! と言いかけた。でも、遮られた。

 神威、と聞いた覚えの無い大きな声で、母ちゃんに名前を呼ばれたから。


『辛くて痛くて苦しくて悲しいのは、神威だけじゃないわ』


 分かってるよ。

 その応えは声にならなかった。喉の奥から出てこなかった。


『みんなよ? みんな、辛くて痛くて苦しくて悲しいわ。だからこそ、きちんと考えてあげて』


 きちんと、考えたい。礼ちゃんとのこと。みんなのこと。出来るなら幸せな未来だけ、描きたい。

 だけどそれは、冷静であればこそ。ネガティブ思考で不安だらけの俺が器用にやってのけられることじゃなかった。


『……泣きたいね、神威』

『……うん』


 男のくせに、なんて批難を、父ちゃんは一言も放たない。それはとてもありがたかった。

 本当に何から始めれば良いのか途方に暮れる。

 何をどう、手がかりにすれば?

 中学の友達? クラスメイト? 名前も知らない。妹尾さん以外は聞いた覚えがない。

 礼ちゃん、どこで生まれ育ったんだっけ? 妹尾さん、知ってるのかな? 妹尾パパなら知ってるのかな? 島、だったよな? どこの何島? 分からない。

 俺は、礼ちゃんの何を知ってるんだ?

 住んでるとこ。ちっちゃいこと。血液型と泣き虫なこと。家族構成。文系だ。

 お料理上手、だし。良い匂いがする。優しくて、思いやりがあって、でも弱いとこもあって、いや逆に、強い、のかな。頑固、っていうのかな。

 何しても、どんな顔しても、可愛いんだけど、やっぱり笑顔が一番可愛くて。

 きっと、俺のこと、好きでいてくれる。

 大切な大切な、彼女。


 ――それが、何の役に立つ?


 捜索に有益な知っていること、じゃない。何を分かった気になってたんだろ。知らないことの方が多いんじゃん。それを、知った俺。なんだか哲学的だけど。

 本当に、溜め息しか出ない。


『イメージするのよ、神威。自分はどうなりたいのか。ミコちゃんと、どうありたいのか』

『……マインドコントロール?』


 苦笑する俺に母ちゃんは大真面目な顔で、そうよ、と言い放つ。


『神威が泣きそうな顔で暮らしていくのなら、お母さん達もそんな顔になるわ。悲しい空気は伝染して、悲しい結果しかもたらさない』


 あぁ、何だ? 似たようなことを、武瑠が言ってなかった?

“ニコニコしてれば良いことあるよ”って。正確には、武瑠のお祖母ちゃんが言ってたんだっけ――。




 何とかかんとか、胸に蠢きそうな暗い想いを振り払いながら、俺は毎日をやり過ごしている。

 鼓動は途切れることなく続く。そうして俺の虚ろな時間も続く。こうしている間にも礼ちゃんは、どこかで独り、泣いてるんじゃないか。俺はきつく目を瞑る。


「……神威が、頑張ってるのは分かってるよ。この前のテストもなかなかの結果だったし」


 俺は俯き、ちょっとだけ口角を上げる。母ちゃんも父ちゃんも、そこだけは譲らないんだ。大抵、俺が考える通りにさせてきてくれたのに。学生の本分を投げ出して、礼ちゃんを捜すことに専念するのは許してくれない。


「……本当は、学校には来たくない。母ちゃんも父ちゃんも、駄目だって言うけど」

「……ずっと、捜してたいの? 御子柴のこと」


 声には出さず、首を縦に振る。葛西先生は、また切なく息を漏らした。


「……余裕、なくしてんだね。神威なら、分かりそうなのに。親御さんの気持ち」

「……分かって…、」


 分かってるんです、本当は。そう口に出したい。

 口に出したら、言の葉が言霊になってくれたら、それは間違いないことのような気がするから。


「……俺のことを、思って言って…、」


 違うよね?

 即座に優しく否定された。ね? って、もう一度。

 葛西先生は俺との間に置かれた机に両肘をつき、前のめりになって俺との空間を狭くする。

 眼力すごいです、先生。訳も分からず、謝りたくなる。


「考えて、神威。そこ 大切だから。進路は後回し」

「え……」


 俺、ここのところ考える力は全部 礼ちゃんのことに費やしてるから、その他、俺を取り巻く諸々については、ほぼ惰性で生きている感じなんだ。

 いや、そんな姿勢が駄目なんだ、って今、葛西先生の穏やかな瞳に全否定されてるんだよね。


「……人間はさ、後悔するでしょ?」

「はい」


 それは俺の持論と合致するから。先生の言葉に即答出来る。


「でも、大切に思う人に対しては、後悔しないで欲しいと願ったりするわけ」


 そう…かな。そう、なのかな。俺、礼ちゃんのこと大切でたまらないけど、そんな風に願ったかな。いや、むしろ俺が、後悔したくなくてどのみち悔やむくらいなら、と。礼ちゃんの手を離したんじゃ?


「神威なりによくよく考えたんでしょ? あれだけ好き好きオーラ全開で御子柴とイチャついてたのに。離れちゃうなんて、さ」

「……でも。その是非は、分かんない、です」


 うん。

 葛西先生は両の指を組み、合わせた親指を曲げたり伸ばしたりしている。俺はそれをぼんやり眺めながら、次の言葉が紡がれるのを待った。


「神威の親御さんも、俺も。お前達より長生きしてるから、だからこそ、推測出来る事実がある」


 先生の低い声は耳に心地好くて、そのせいか心にすっと染み込んでくる。先生の想いと一緒に。

 何年も教職にあれば、関わってきた生徒なんて千人単位を超えるだろうに、俺にその分母の大きさを感じさせない。

 今、この瞬間は、他の誰でもない俺だけを、案じてくれている。


「教師らしいこと言わせてもらうと。悲しいかな、学歴で将来の展望が決まるケースは、リアルにあるんだよ? 高卒と大卒では、初任給だって違う」

「……はい。分かって、」

「分かってる? 本当に? この一年が神威や御子柴の人生に占める重み。本当に、分かってる?」


 ただ、礼ちゃんを好きであれば、何もかも上手くいくような気がしてた。

 あれは錯覚だったと、今は分かっている。俺は何かを見落としてるんだな。

 先生の言いたいことが分からない。本音はポロリと口をついて出た。


「例えば。神威がずっと学校に来ることなく御子柴を捜し続けてめでたく見つけたとしよう。そうだな、今年の秋、にしようか」

「……はい」

「秋まで学校に来てないんだから、授業についてける訳ないよね? 御子柴だって、そう。そこから形勢逆転出来ると思うの? D判定だらけだよ。吉居や弓削と同じ大学なんて、まず無理」


 俺は思わず眉間に皺を寄せる。やゆよ、の中では、今でも俺が一番成績悪いと思うのに。もしも、武瑠や心が進学先のランクを俺に合わせようとするなら、学校中の先生が反対するんじゃないだろうか。


「そもそもね? 進学するの? 一応、うちは進学率高いけど。御子柴さえ見つけたら、行きたい大学もやりたいことも就職したい会社も、全部トントン拍子に決まるの?」

「う……」


 何となく、で生きてきたつもりはなかったけれど。この場面で言葉に詰まる俺自身が、何もかもに思慮が足りない未熟さを露呈してるよね。


「サクラ散っちゃったらどうするの? 親御さんに甘えて一浪する? 浪人、ってね? 不利に働くことはあっても、有利に働くことなんて、あんまり聞かないよ? よほどの上位校か医大じゃない限り」


 先生の口調はとても穏やかで平淡なのに、毛穴を通って細胞一つ一つまで、何かにじんわり締め付けられていくようだ。

 傷痕が、なんだか痒い。動悸が激しくなって、血の流れがとんでもなく速くなってるからかも。

 それにね、と葛西先生の独壇場は続く。耳に痛い。胸も痛い。頭が痛い。


「親御さんは、これをまず考えたはずだよ。御子柴、また、自分のせいだ、って。思うと思わない?」


 思うと思わない? って妙な日本語だな、と苦笑する先生を網膜は捉えているけれど、脳は全く別のことを考えていた。

 自分のせいだ、って。礼ちゃんが、思うのは……。



「……ぅああぁー、そういうことかぁ」

「ご納得?」

「はい。もう…、」


 俺は手をダラリと下ろし、おでこを机に突っ伏した。

 もう、重力に従ってのめり込んでしまえばいい。こんな、いろいろ足りない俺なんて。


「……父ちゃんから、言われたんです。長期間なビジョンが無い、って」

「すっげ。お父さん、的確だね」

「や、でも俺、浅はかで。進学するつもりなんですけど。せいぜいどこの大学で何を専攻するか、くらいの意味かと」


 深く溜め息。フルフルとかぶりを振る。


「……違いますね。もっと先まで、だ。今、どっかで泣いてるかもしれない礼ちゃんばっかりに気を取られて。日常のいろいろを疎かにしてたら…、」

「未来の礼ちゃんまで、泣かせちゃうことになるよ、って話」

「先生は気安く礼ちゃん、って呼ばないで下さい」


 ぶ、と噴き出した先生は、ヤキモチ妬き、と眉根をひそめる。机に置かれていたファイルをめくり、俺に何かを差し出した。

 ……絵本? 少し大判なそれは、ツヤツヤの装丁で新しい。表紙には淡い彩りで繊細に二匹のうさぎが美しく描かれている。

 白いうさぎと黒いうさぎ。それはそのまま、絵本のタイトル。


「これ……?」

「神威へプレゼント」


 俺は手の中の絵本を見、ゆっくりと葛西先生へ視線を移した。首を傾げていたのかもしれない。先生はまた、ぶ、と噴き出すと、それね、と絵本を指しながら柔らかく切り出した。


「御子柴が、好きな絵本」

「え」


 突然、俺が手にするそれは、大切で愛しいものに変わる。

 礼ちゃんが好きな絵本。俺、読んだことないよ。先生は、何故 知ってるんだろう。


「神威が熱出して倒れた日。病院の待合室に置いてあったんだ。プロポーズに使うと良いですよ、ってオススメされ……、神威」


 絵本を指していたはずの先生の長い人差し指は、いつの間にか俺の眉間に置かれていた。


「何なの? そのブサイクな顔。またヤキモチ?」


 まぁ、何だか唇を尖らせていたようだし。頬に歪な皺も寄ってたみたいだし。そりゃあブサイクだろう。

 相手が葛西先生だから?

 いや、違うな。俺が知らない礼ちゃんの姿を、他の誰かが知ってるなんて。


「あのねぇ。好きな相手のことを全部知り得ると思ってるの? むしろ、知らない方が幸せでいられることだって、あるよ?」

「……例えば?」

「例えば…、そうだな。俺だったら、昔 悪ガキだったことは言わないかな」


 何故に?

 俺は、葛西先生へ視線を留めたまま、しばし考える。先生もその温かな瞳に若干の微笑みとからかいの色を宿したまま、俺から目を逸らさない。


「M字にハゲて……」

「違う!」


 全力で被せるように否定された。はい、スミマセン。


「要らん不安を抱かせるから! 悪かった、ってのは、その…、女がらみでもよろしくなかったりしたから。好きな子がそんなん知って悩んだり嫉妬に苦しむのは嫌」

「ふぇぇー」

「そういうのは、俺、墓場まで持って行きたいの!」


 流れるように告白を終えると、話を締め括るよ、と言わんばかりに、葛西先生は置きっぱなしだったファイルを手にし、トン、と机を打ち鳴らした。


「その絵本、熟読しなよ? 神威」

「あ、はい。え? これ、頂いて……、」

「良いよ。プロポーズに使うんだよ」


 あ、志望校は来週までに決めてね、と急にリアルに引き戻された。プロポーズ、だなんて明るい未来に直結する言葉を貰って、フワフワした良い気分だったのに。


 でもそんな気持ちになれたのは、きっと、俺の周りを覆っていたネガティブな要素の膜が薄くなったから。

 日常の諸々も、皆の想いも、疎かにしちゃいけない。俺がこれから幸せという目に見えないものをきちんと掴んでいくためには、俺を支えてくれる人達を思いやっていかなくちゃ。いろいろ足りない俺には、難しいことだけど。

 先生は窓際へ歩み寄り、薄いカーテンを閉め始める。小気味良い音をたてながら。俺も手伝おうと傍へ向かうと、良いよ、と軽く止められた。


「ゆ、と、よ、が心配そうに待ってるよ。早く行ったら?」


 先生の視線が向かう先は、窓の外。正門付近。細長い影が、二つ。

 葛西先生の小さな笑い声を背に、俺は教室を飛び出した。


「しーーんっ! たーけーるーっ!」


 俺、はたから見るとちょっとイタイ子かもしれない。夕陽に照らされながら友達の名を大声で叫んで、鞄を振りながら、全力で走って。下校中の生徒は、そりゃあ誰もが振り向くよね、葛西先生も窓から見てるかな。見てるかもな。馬鹿っぽいな、俺。でも、良いんだ。今は、そうしたいんだ。


「神威っ?!」

「どうした? 何か…、」


 二人とも目を見開いて、瞬時 固まっている。

 ありがとう、って。言いながら、俺が両手を目一杯 広げて抱きついたから。


「神威ー、誤解されるよー」

「俺は構わないけどな。神威が両刀だと…」

「もー、心!」

「一部女子には喜ばれてるぞ」


 あ、ヤバい。携帯電話を取り出してる子がいる。ヤバいヤバい。また心がぶちギレるかも。俺は慌てて、二人をガッシリ掴んでいた手を離した。落とした鞄を拾い上げ、二人へ順に視線を置く。

 俺の口から、次に何が飛び出すのかと、心配そうに眉をひそめる武瑠。いつでもやっぱり、落ち着きはらっている心。


「俺、礼ちゃん捜しと勉強と両立させるから。心と武瑠と、出来れば礼ちゃんとも、同じ大学 行きたい」

「……神威、それ何の宣言?」


 当惑気味の武瑠が、控え目に話し出す。俺の目をじっと見て逸らさない。

 さっきまで部活動に励んでいたんだろう。顔や頭を洗ったらしい、乾ききらない滴が、キラキラと夕陽のオレンジに映える。


「今さらなこと、言うよねぇ」

「当然だろ、神威」


 心まで言葉を被せてきて、俺は破顔する。今さらだとか、当然だとか、俺のことを、礼ちゃんまで含めて、人生の中に当たり前のことのように組み込んでくれてるなんて、また嬉しくなるじゃないか。


「……御子柴は。神威の彼女、というだけじゃないんだ」

「え?」

「俺達の大切な仲間だよ」


 そう言うと心は、俺の背中をゆるく押して、帰ろう、と促した。ユニフォームやシューズが入っているのか、重そうなバッグを肩から提げた武瑠が後に続く。


「俺達に出来ることは何か、って。ここのとこ、ずっと考えてる」

「ねー、心! その“達”にはちゃんとオレも入ってるんだよね?」


 武瑠の確認に、入れてるよ、と苦笑しながら応える心。

 ありがとう、本当に。二人共、全く意図しない諸々に巻き込まれているというのに。


「俺達は、神威についていく。勝手についていくんだから、俺達のことは気にするな。だけど神威も…、神威達、も。気が向いたら、俺達について来るといい」

「そうしよう、って、心と決めたんだ」


 心の言う、ここのとこ、というのは。間違いなく、あの事件以降の日々だ。



 心や武瑠は、特に取り調べを受けることもなく週明けには登校したから、事は地元紙やローカル放送で取り沙汰されたし、真坂市議の進退問題にまで発展した報道がエスカレートするに従って、野次馬どもが二人のもとへ押し寄せた。


 俺は、そんなの露ほども知らなくて、病院のベッドの上で、ただただ抜糸を待っていた。暗澹たる想いを鬱々と抱えながら、寝転がっていただけだった。



 新学期に入ったある日、葛西先生がポツリポツリと事後報告をしてくれたんだ。吉居も弓削も、神威に言う訳ないだろうから、と。

 野田をはじめクラスメイト達は、気を遣ってか至って普通。事件のじ、にも触れてこない。葛西先生が言い聞かせてくれてたのかもしれないな。

 肝心なことって、後から知る方が多いんだ。俺みたいに、思慮に欠けてると。


『しばらく、フレックスで保健室登校するか? って提案したんだけど』


 リポーターや記者からの質問攻め、他校生、ご近所さんからのひやかしはもちろん、上下級生や学校関係者からの好奇の目。大半は俺が対象だったはずだけど、存在が無いんじゃ、その目は関係者に向けられる。

 妹尾さんは俺と同じく、事件後、学校を休んだまま春休みに突入したから、特に被害は受けなかったらしいけど。


 普通にしていよう、と。願った二人の日常は、簡単に非日常化した。


『吉居も弓削も、首を縦に振らなくてね。俺達より、神威達が辛いから、って。こんなの何でもない、って言い張ってさ』


 終には、弓削がぶちギレたんだけど、と。

 報告してくれる葛西先生の口元が緩んで、俺はどんな言葉が紡がれるのか、想像出来なかった。

 俺達はいつも三人でいて、あまり周りに人が集まって来ない。俺の無愛想さと心の威圧感がブレンドされて、何ぞ阻む空気でも醸し出しているのかも。武瑠のホンワリした人懐こさが明るい色を添えてくれてるけどね。


『……吉居は。さすがにいつものニコニコはなくて。弓削は、変わらず冷静なのかと思ってたけど』


 そうでもなくてね。

 葛西先生はいつかのワンシーンでも思い出しているのか、遠い目をする。先生の口からいつ“ぶちギレた”心が語られるのかと、俺は固唾を飲んでいた。

 近年見たことないけどたぶん、怖い、と思う。いや、怖い、以上の表現力が俺に無いだけ。圧倒的なオーラ。高校生離れした風格。あいつはいつだって、小学生の頃から、飛び抜けてランドセルが似合わなかった。


『……一度目は』

『えっ?』

『……何?』

『あ、いえ、すみません。あの……、そんなに何度も?』


 先生の細くしなやかな右手の指がVを形づくった。二度も?


『俺の授業中にね。何やらコソコソやってんな、と思ってたんだ。教壇の上って、意外といろいろ分かんのよ』


 メモが回されていたらしい。時折、武瑠や心を盗み見ながら。

 え、とか。マジ? とか。小さな声が挟まれながら。

 何が書かれていたのか、それは容易く想像出来る。


 葛西先生が板書している時、ガタ、と大きな音がして、先生が振り向いた時には、心が机と机の間に立って大きく息を吐き出すとこだったらしい。

 右手には握りしめた紙切れ。グシャリ、と効果音がつきそうなほど。


『……楽しいか?』


 明らかに怒気を孕んだ低い声で凄まれたのは、一体誰だったんだろう。気の毒に。俺は小学生の頃を思い出し、背筋がゾワリとした。


『他人の不幸は、そんなに楽しいのか。お前らは、あれか? 事件現場で、手向けるより先に携帯電話でカメラ起動させるんだろうな?』


 弓削、と。

 葛西先生は、一応、たしなめたんだと言った。

 一応、って。全くもって本気じゃなかったんですね。


『心、みんな、ドン引きだから。部外者には、分からないよ』


 俺達三人の中では打ち解けやすさ抜群の武瑠が吐く、部外者、という言葉は、ひどく冷たく、それほどに周囲から浮かざるを得なかったのだと俺は申し訳ない気持ちになった。


『あぁ、そうさ。誰にも分からない。当事者しか分からないさ。神威のこと、御子柴と真坂のこと、妹尾のこと。こんな風に情報を共有して、何か分かったのか? あいつらの痛みも苦しみも悲しみも! 誰か、本当に、分かったのか?!』


 誰も一言も発せなくて、冷たく凍りついた時間が過ぎる。

 葛西先生は、静観。

 あまりの迫力にビビっちゃって、なんて言ってたけどきっと、わざと。心の胸の内を綺麗に吐き出させようと。


『本当のことが何ひとつわからないヤツは! 分からないなりに、思いやれ! 気安く昼休みの話のネタにしてんじゃねぇぞ! お前らの何気無い言動がどれだけ人を傷つけるか! 考えろ!』

『心、保健室 行こう? センセ、すみません』


 一段落、と見たのか、武瑠がカタンと席を立ち、空気が少し揺れた。

 武瑠は心の右腕に軽く触れ、拳の中の紙切れを取り上げると、長い指でビリビリとそれを細かくする。

 ごめん、掃除しといて? と言い残し武瑠は心の右腕を引っ張った。

 武瑠の背を追いながら、心は自席を思い切り蹴り上げ、ヘタレ男子達はまた凍りついた――。


『……それが、一度目』


 葛西先生の口から語られて、本当に良かった。

 何の私見も織り交ざっていない平淡な口調は、すうっと心に沁み入るから。

 俺は、良い友達をもった。勿体ないくらいの、良い友達を。


『二度目はね、1組……和泉のとこに行ってた昼休み。女子がね、御子柴の噂をしてたらしくて遠野と西條が俺を呼びに来て、止めに入ったんだけど』


 ……女子。女子?

 うわ、心。女子だから、って情け容赦は……、


『あいつ、相手が女子だから、とかの手加減ないのな? 和泉が呆れてた。キレると怖いのは山田くん以上だ、って』

『……泣いちゃったんですか? その女子』

『うん。まぁ、でも。泣くよね、あれは』


 あれは、と表現された心の物言いはどれほどの熱の籠りようだったのか。葛西先生の口から優しく過去形が紡ぎ出され、シーンは再現されていく。



 ミコちゃんって、ひどい女ー。

 そんな小さな声が、心達のいる場所までも届いた。

 心のみならず、武瑠も和泉も、身体中がピキ、と音をたてるくらい固まったはずだ。そこから実際、しなやかな行動に出たのは心だけ。


『山田くんのこと、置き去りにしてどっか行ったらしいよー?』

『てか、なんでそんなこと出来んの?』

『彼女ならさ、支えてあげるべきだよねー?』

『そもそも山田くんが怪我したのはさ、あの子のせいじゃん?』


 1組は、和泉が勝手に作っていた俺のファンクラブとやらの残党が多いらしくて、アンチミコちゃん、は実は結構いるんだそうだ。

 あーあ、俺。そんなん知らなかったし。

 偉そうなこと言ってたけど、やっぱり礼ちゃんをちゃんと守りきれてなかった気がする。


『……何様だ?』


 心の低い声は、怒りに彩られてない時でさえ、場を統制する圧倒的な力がある。一瞬にして、水を打った様に教室内はシンとなり皆、その場から動くことを許されなくなる。

 180センチをゆうに越える大男が、威嚇のごとく腕組みをし、自席にちんまり座って話す女子軍団を見下ろしてる構図ってあんまり、笑えない。


『お前ら、専門家なのか? 本当に、御子柴は神威の傍にいるべきだったのか?』


 教えてくれ、と冷たく続ける心に、だって、と返したその女子。見上げた根性だ。いや、意地というべき?


『御子柴さんのせいでしょ? 山田くんがケガしたの。償いのために、普通、傍にいてあげない?』

『償い?』


 その言葉は、心の逆鱗に触れたのかもしれない。あぁ、その鱗、剥がしておけば良かったね。


『……誰かを簡単に、悪者にして』


 息をすうっと呑む、心の小さな所作に周りも慌てて反応する。その後に押し寄せるであろう、怒りの波に気づいているのかいないのか。


『薄っぺらいバカップルでいる“べき”なのか? そもそも、神威は、償ってほしいなんて思ってない! 好きな相手をそうやってがんじがらめにすることが、お前らの言う“普通”なのか?! 二人がどんな想いで決めたのかも知らないくせに!』


 パンパン、と乾いた音を、葛西先生の両手が鳴らす。弓削、と温かな声が教室内を穏やかな空気に戻した。


『女子を泣かせるのは、いただけない』


 心はほんの少し気まずそうな表情をし、悪かった、と漏らすとクルリと背を向け武瑠と和泉の元へ歩み寄る。


『言ってることは、頷ける』


 心の大きな背中へ葛西先生は言葉を投げる。瞬時、止まった心の歩みは、ほどなく再開された。背中の向こうに見えた武瑠のニコニコが自然に感じられて、何となくホッとしたと先生は言った。

 それ以来、俺達に関するあれこれが徒に囁かれることはなく、お陰で俺は、静かに新学期を過ごせている。


 ひょっとすると。もしかして。わざと、じゃないかと思うんだ。心がぶちギレたのは。

 その役回りが、いつもニコニコの武瑠だったとしたら、あまりに似つかわしくないから、受け流されてしまったかもしれない。

 冷静沈着、百獣の王みたく、その威圧的なオーラを身に纏いながらもひけらかすことのない心、だからこそ。ここぞという時の雄叫びは、何者をも仕留めることが出来たんだと思う。


 誰も、わざと、だと思わないかもしれない。人前でキレるのなんて、決して好感度は上がらない。とても、損な、脇役なのに。


「ごめん、心。嫌な役させて」

「……何のことだか」


 夕陽は俺達の影を優しく緩やかに伸ばしていく。

 明日へ続いていけるよ、と。暗示するかのように。


「ねー、今度の日曜はどこ捜す? 土曜は模試だけど」

「……あー、模試あったなぁ」

「神威、御子柴より成績悪いからな? 頑張らないと」

「……え? マジ…てか、何で知ってんの? そんなの」

「葛西が言ってた。妹尾と同じクラスになるために文系を選んだだけで、どの教科もバランス良いらしいぞ」

「……いろいろショック……!」

「教え合えば良いじゃんよー。万葉ちゃん、どうすんのかなー」


 ねぇ、礼ちゃん。

 まだ、礼ちゃんをこの手に掴まえてないからこんな考えは時期尚早かもしれないけど。悲しい事件が起きてもなお、世界に優しさは溢れてるよ。いろいろ足りない俺に、周りのみんなが教えてくれるよ。


 礼ちゃん。礼ちゃんはボンヤリさんでも俺より賢いから。もうとっくにそんなの、分かってる?


 あー、早く。確かめたいな。なでなでしながら、抱きしめたい。


「神威ー、顔が気持ち悪い!」

「青少年が妄想中だよ」




 ―――その日の夜。



 俺は風呂上がり後、濡れた髪をタオルでゴシゴシ拭きながら、葛西先生がプレゼントしてくれた絵本を手に、ベッドへ腰かけた。

 スプリングがキ、と小さい音をたて、物語の始まりを告げる。

 熟読しなよ、と葛西先生は言った。御子柴が好きな本、だと。

 絵本って、いくつぐらいまで読んでもらってたのかな。

 神威には、もっと本を読み聞かせるべきだったわ、といつぞや母ちゃんが反省の念を漏らしたことがある。俺の典型的理系な通知表を見た時だったかな。


 表紙を開け、ページを一枚捲る。新しい紙は、独特の音と匂いを纏っている。角がピンとしていて指を切りそう。だからか、おのずと所作が丁寧になる。

 目に飛び込んできたのは、繊細なタッチで描かれたふわふわのうさぎが二匹。


 俺、どちらかというと読むのは漫画が多くて。受験生なのに、お恥ずかしい限りだけど。でも、登場人物の誰かにのめり込んで時間を忘れるなんてしょっちゅうだ。


 俺は、どっちなんだろうね? 礼ちゃん。黒いうさぎが男の子だよなぁ。

 いつもいつもいつまでも、白いうさぎと一緒にいたくて、どうしたら良いんだろ、って時々寂しくなって考えこんじゃう。

 あぁ、ほら。目をまんまるくして、じっと考えている白いうさぎ。礼ちゃんの大きな黒い瞳にそっくり。


「……礼ちゃん……、」


 いつもいつもいつまでも、礼ちゃんと一緒にいたい、って。俺、本当にそう思ってるよ。

 ねぇ。礼ちゃんは?


 原題は、うさぎの結婚。うん、まんまだな。

 俺の読み込み方は、浅いかもしれない。ネットで調べたら、いろいろ議論されているし。何せ、活字離れが甚だしい世代なもので。

 とはいえ、胸にホンワリと灯った温かな想いに間違いはない。そんな想いを抱けた自分に、ちょっと安堵した。


 ――俺、ちゃんと生きてるよね。人間らしく。


 心を込めて、一生懸命、強く願えば、何でも叶う?

 違う。そうじゃない。俺はもう、その事実を知っている。うさぎ達も、ね。

 願って、叶えるために、行動しなきゃ。行動し続けて、そんな二人の上に幸せは降り注ぐんじゃないの?


 礼ちゃんは、どうして好きなんだろ、この絵本。

 やっぱり、こう……、好きな人とは、ずっと一緒にいたいわ、っていう乙女心から?

 訊いてみたいな、礼ちゃんに。俺が苦手な長文読解も、礼ちゃん先生の言葉なら素直に頷けそう……。


「……はぁぁぁぁ」


 どこにいるんだよ、礼ちゃん。

 俺のこと忘れてない? 俺のこと好きでいてくれてる?

 夢ですら逢えないんだ。


「うっとーしいわ! その溜め息!」

「……姉ちゃん。ノックぐらいして」


 いつの間に開け放たれたんだかドアの前に仁王立ちの姉ちゃん。


「私、明日はバイトないから智くんのお迎えに……、え? 読書? 神威が? 漫画以外を? 読書?!」

「うるさいよ!」


 姉ちゃんは断りもなく(いつものことだけど)部屋へ入ってくると、俺の手から絵本を取り上げ、それと俺とを交互に見つめた。


「……どうしたの? あんた。何? このチョイス」

「葛西先生に貰ったんだ。礼ちゃんが好きな本、なんだってさ」


 ふーん、と姉ちゃんは抑揚の無い返答をすると、確認する様にページをパラパラと捲り、俺へ、ん、と突き返してきた。


「……姉ちゃん、絵本の勉強とかしてるんだよね?」

「してるけど」


 姉ちゃんは保育士を目指している。他の人の見解や解釈も聞いてみたいと思って投げかけた質問だったけれど、姉ちゃんは俺の狙いを察知したのか、言わないわよ、と断言した。


「作者の本当の想いとか狙いなんて、作者本人にしか分からないわよ。他人の解釈を聞いたって、あんまり意味ないと思うわ」

「……そ、かなぁ」

「他のジャンルより絵本は難しいのよ? 平易な文章と心惹かれる絵で描かれているものは、ページの表面に見える世界が全てじゃない」


 それは、そう。そのくらいは、分かったつもり。

 コクコクと頷く俺に、立ったままの姉ちゃんの声が降ってくる。


「……この絵本。実習の時に、年長さん達に読んであげたことがあるんだけど。一生懸命お願いしたけど、僕んち妹じゃなくて弟がきたよー、とか。他のうさぎさんじゃダメだったの? とか。うさぎさんなのに、馬跳びして遊ぶの? とか。読み手の年齢や立場や、種族によっても感じることはさまざま。だから」


 よく考えることが大切なのよ、と笑いを含んだ声で姉ちゃんは語る。

 何か、その言葉。もっと深いものがあるの?


「明日、智くんのお迎え。あんたも行くんでしょ?」

「あ、うん」


 じゃ、学校終わったら連絡して、と言い残し、姉ちゃんは入ってきた時と同じ様に、ズカズカと退室する。

 俺は、手元の絵本をもう一度読もうと、ベッドの上へ寝転んだ。




 姉ちゃんの車を正門近くに確認すると、俺は心へ、じゃあ、と別れを告げて駆け寄った。助手席に乗り込むや、姉ちゃんはやや乱暴にアクセルを踏んだ。

 うん、いつものことだけど。姉ちゃんは何かにつけて、豪快だ。


「あのさ、姉ちゃん」

「何よ?」

「俺、やっぱり気になるんだけど」


 あの絵本の話、と続けると、姉ちゃんは途端に噴き出した。


「あんた、そんなに自分の読解力に自信ないの? 受験生、ヤバいんじゃない?」

「いやいやいや、他人様の解釈はもう良いんだ。姉ちゃんが何か言いたげだったから」


 信号待ちで車はゆっくり停車する。

 数瞬、エンジンのモーター音だけが俺達の間を横切っていったけど、やがて姉ちゃんは、ふ、と口元を緩めた。


「……去年の今頃、さ」


 去年の今頃? いきなり、そんなとこまで遡るの?

 姉ちゃんが投じる魔球は、行方の見当がつかない。

 去年の、今頃。テストが終わって、やれ体育祭だ、文化祭だ、って時期。


「こんなに一人の女の子のことばっかり考えてる自分なんて、想像出来なかったでしょ?」

「え……、あぁ、うん」


 話の展開についていけなくて、返答が遅れた。車はまた智くんが通う保育園へ向け、出発する。


「……昨日、あんな風に真剣にさ。ミコちゃんが好きな本のことを理解しようとしてる、あんたを見てたらさ。良かったな、って」


 良かったな? 良かった? 何が?

 口には出さずとも、表情が雄弁に物語ってくれたのだろう、チラリと左に目を寄せた姉ちゃんから、眉間に皺、と鋭く指摘された。


「綺麗だ、王子様だ、ってチヤホヤ騒がれてるあんたの、その…、女子が苦手な原因は、私にもあると思ってた。考えるのも面倒そうで。こいつ、この先、恋愛出来るのかな、って心配だった」


 窓外を流れていく景色のカラフルさが目に眩しい。チカチカする。

 いや、俺。ビックリしすぎて目がチカチカする。

 だって、姉ちゃんが、真剣に、こんなことを言ってくるなんて。澄んだ声が真っ直ぐ耳に入ってきて、何となく目元が熱い気がする。


「誰かを好きになって。その子に想いを沿わせていく。深く知りたいから、深く考える。難しいけど、大切なこと」

「……うん」

「出来るようになって、良かった」

「はい、皆様のおかげで」

「男子力がやや向上」

「……やや、なの?」


 そんな簡単に免許皆伝といかないわ、と。

 何を根拠に言い切るのか、そもそも姉ちゃんは師範なのか。

 俺は思わず噴き出した。真剣タイムは終わり、ってことね。

 基本的に同じ景色を向いている運転中って、何気に良い空間かも。姉ちゃんとの真面目な話って、視線を合わせるとしづらい場面があるから。


「あと。本物、見つかって良かった」

「……礼ちゃん?」


 そ。

 姉ちゃんは保育園の脇に設けられている保護者用の駐車スペースへ、器用に車を停めながら言う。


「掴まえに、行かなきゃね? 早く」

「……うん」


 不思議と。

 そう遠くない未来に、俺は礼ちゃんとまた逢える様な気がした。

 何の根拠も無いけれど、姉ちゃんの強い言葉には、本当に不思議な力が潜んでいる様な気がした。


 園庭に入れば、いつもの様に、遊んでいるトモくんが誰よりも早く俺を見つけ、全速力で駆け寄ってくる。カムイー! って叫びながら、両手を広げて。その度に先生から、トモくん! バッグは?! って慌てて呼び止められる。もう何度目だか分からない、お馴染みのコントみたいだ。


 トモくんは、確かにお父さんが違うこともあって、礼ちゃんとはあまり似ていない。それでもお母さん譲りの大きくて黒目がちな瞳はそっくりで、それが緩んで綺麗な三日月形になって、俺だけに真っ直ぐ向かってくるこの瞬間は、たまらない。礼ちゃんを彷彿とさせる、小さな存在。本当に、可愛いなぁ。


「トモくん、先生にグッバイしないと」

「あ! そうだ! せんせー、さようなら! グッバイ」


 苦笑いの先生と両の掌をパチン、と合わせると、トモくんは小さく飛び跳ね、俺の手を取る。神威くん、愛されてますね、と嬉しい先生からの言葉を背中に貰い、軽く会釈してトモくんと歩き出した。


「カムイー、今日、なにする?」

「トモくんは、何したいの?」


 ボールをけりけりしたいのよ、と返ってきた可愛いリクエストに、おっしゃ、と大きく頷きながら、俺達は車へ乗り込んだ。

 こんな日は、予め姉ちゃんが礼ちゃんのお母さんへ連絡を入れることになっている。俺が知らない内に、姉ちゃんは礼ちゃんのお母さんの携帯番号まで入手していた。勤め先が書かれた、綺麗な名刺までも。


『私、あの人のこと、嫌いじゃないわ』


 姉ちゃんは、礼ちゃんのお母さんに対してそんなコメントを表明していた。すなわち、好きだ、ってことだよね?


『うちのお母さんとはあまりに違うけど。あぁ、お母さん、って基準で見ちゃ駄目かな。女性として、嫌いじゃないわ』


 俺だって。

 好きな子のお母さん、っていう要素は抜きにして、礼ちゃんのお母さんには、話に聞いていただけの時点と、実際に逢って話をした時点とでは、かなりかけ離れた印象を抱いている。


 不器用な人なんじゃないかと思うんだ。

 礼ちゃんのこと、想ってない訳じゃない。でも、ちゃんと表現して、相手に伝えるのが下手くそで。いろんなことに満遍なくバランス取るのも下手くそみたいだから、仕事なり恋愛なり、その時々で夢中になることが他にあれば、礼ちゃんやトモくんのことは後回しになっちゃうという。うん。俺、なかなかの分析力。


 この前、今日みたいにトモくんを送り届けた時、ちょうど帰ってきたお母さんは凄く顔色が悪かった。締切が近くてね、と小さく呟き、トモくんへ、ごめんね、と謝っていた。


『智、今日はスーパーで買ってきたお惣菜ばっかりなの。礼の美味しいご飯と違ってて、ごめんね』


 その切ない表情は、純粋に智くんへ向けてのごめんね、の様でもあり。自身の不甲斐なさに向けての様でもあり。遠くの礼ちゃんに向けての様でもあった。

 トモくん、おてつだいできるよ! とニコニコしながら、お箸やお皿を準備しようと張り切ったトモくんが、俺はたまらなく可愛かった。

 そんなシーンを見たから、なのか、どうなのか。今日の姉ちゃんの荷物には、タッパーが二個、含まれている。たぶん、姉ちゃんが作ったおかず。


『……こんなに働いて馬鹿みたいでしょ。でも私が存在を認められる瞬間は、仕事にしかないから』


 焦点を誰に合わせる訳でもなく、礼ちゃんのお母さんはポツリと漏らしていた。



 朝から晩まで。お母さん、に、ゆっくりする時間なんて無いんだろうな。

 起きて、ご飯を作って食べさせて、保育園へ連れて行って、息つく間もなく懸命に働いて、そこに子どもがいるから、なんて理由は通用しなくて、でも何とか仕事を切り上げて、お迎えに行って、またご飯作って食べさせて、お風呂に入れて、寝かせて、残りの家事をして。


 うちは、まだ姉ちゃんと父ちゃんがいるけども、それでもうちの母ちゃんだって、充分 大変だと思う。

 独りで、それだけ、全部、って。

 それにもまして、俺が自分を責めまくっているのは、それらを、礼ちゃんは全部、独りでやってた、ってこと。それを、理解した気になってた、ってこと。


 よくよく考えれば一体どこに礼ちゃんの自由時間なんてあったんだろ。毎日毎日、しんどかっただろうに。

 大変だろうな、とは思っていたけど、本当に想いを馳せることは出来てなかったよ。深夜のメールや電話を期待してしまっていた俺の至らなさを痛感する。

 礼ちゃんのお母さんもきっと、俺と同じ様に感じてるんじゃないのかな。お母さんの最近の様子を見ていると、なんとなーく、そんな気がするんだ。


 だってね? 俺はお母さんに逢う度に、礼ちゃんの話をしてるけど、嫌な顔をされた覚えがない。むしろ、お母さんの表情筋は緩む一方だと思う。お母さんは本当に、礼ちゃんのお母さんをやり直したいと思ってるんじゃないかな。

 だからね。俺も本当に、礼ちゃんの彼氏をやり直したいんだ。


 お母さんと情報を共有し合う。俺が知らない礼ちゃんをお母さんは少しずつ教えてくれるし、俺も、ここ半年分だけどお母さんが知らない礼ちゃんを伝えてちょっとした、同盟国気分。

 居場所は、絶対教えてくれないけどね。


『私は今まで母親らしいこと何ひとつしてきてないの。この約束だけは、守り抜く』


 頑として譲らない、確固たる決意表明は、違わず遂行されている。悲しいかな、礼ちゃんの行方についてはお母さんから何一つ情報を引き出せない。礼ちゃんが、どこかしら頑固なのって、やっぱりお母さん似だよね。女の子って、お母さんに似てくるのかな?

 ……うちの姉ちゃんは……うん、ちょっと置いておこう。


『礼ちゃん、どこかで独り泣いてると思うんですよ。心配ですよね……』

『……神威くん。なんとかの一つ覚えみたいに繰り返されたって、ほだされないからね?』


 思わず出来上がる膨れっ面を見て、噴き出された。それにね、と笑いを噛み殺しながら続けるお母さん。


『礼が寂しくないようにプレゼント贈ったから。泣く暇もないわ、きっと。ご心配なく』

『えっ?! 何ですか、それ?!』


 掴みかからんばかりの勢いで訊いたけど、これまた全力で説明を拒否された。

 あー、くっそー。それならば!

 この前、編集部へお邪魔した時に名刺を貰ったアシスタントの……。


『乃木に訊いても無駄よ』


 ……くっそー。

 良いですよ、と負けじと俺は言い放つ。

 こうなったら、礼ちゃんのお母さんに宣言せねば。俺を更に奮い起たせるためにも。


『俺、8月で18になるんです』


 礼ちゃんのお母さんの瞳は、礼ちゃんと全く同じそれで、真っ直ぐ俺を捕らえていて、暗に話を進めなさいよ、と促されている。


『俺が、礼ちゃん見つけて掴まえたら、礼ちゃんはもう、俺のお嫁さん、ってことですよ? お母さんだけの礼ちゃんじゃなくなるんですよ?』


 お母さんの瞳は更に大きく見開かれ、口がゆっくり、ハ? の形になった。

 や、分からないではないですが、その反応。何もそんなに呆れなくても。


『俺、真剣です!』


 傍らで何気に耳を傾けている姉ちゃんが、ぶふ、と噴き出した。失礼だな、全く。

 うん、トモくん? なんとかジャー、の話じゃないんだよね?


『だから、それまで。礼ちゃんにいろいろしてあげて下さい』


 お母さんは、まん丸だった瞳を元に戻し、いや、それ以上に細めると。パチパチと瞬きを繰り返し、視線を逸らした。


『……分かってる』


 に、してもさ。急に変わったお母さんの声のトーンに呆気にとられていると。


『やまだ れい、って。何か締まりがないわね?』


 にいっ、と両の口角が綺麗に上がり、明らか悪戯っ子の表情だ。

 なんだなんだ? 締まりが?


『みこしば かむい、も相当 仰々しいですよ? 詐欺師みたいで』


 姉ちゃんとお母さんは顔を見合わせてクククと含み笑い。うん、もうこの人達、同じ括りにしちゃおうかな。俺の青少年の清き主張をあっさりスルーしちゃってさ。



 ***



「遅くなっちゃって――」


 礼ちゃんのお母さんはハイヒールを脱ぐのももどかしげに、バタバタと慌ただしくリビングへ姿を現した。


「ごめんなさい、神威くんに美琴ちゃん。智、ただいま」

「おかあさん、ただいまー」


 おかえり、でしょ?

 うん、これまたお母さんと智くんの間で繰り広げられるお約束。


「朝の残りのおかずしかなくて……、あら?」

「お母さんも、どうぞ」


 姉ちゃんは智くんのごちそうさま! に笑顔で応えながら、お母さんを夕食の準備万端なダイニングテーブルへ促す。スーツのジャケットやら雑誌やらバッグやら、ドサリと無造作に床へ置いたお母さんの動きが、瞬時、止まった。


「……いつも、本当に、ありがとう」


 礼ちゃんのお母さんは喉元から絞り出すような声でそう言うと、深々と頭を下げてきた。


「わっ、え? ちょ――」

「神威が勝手にやってることですから」


 両手を意味なく振り回し慌てふためく俺とは、遥かにかけ離れた大人の態度を見せる姉ちゃん。


「私は神威につき合ってるだけなので」

「……仲良し兄弟なのね。私には兄弟がいないから、感覚が分からない」


 羨望の眼差しというのか、お母さんは姉ちゃんと俺の顔を順に見ていくと、智くんへ視線を移す。

 次いで今はそこにはいない、智くんの「姉ちゃん」の姿を瞳に浮かべているようで、黒目が潤んで揺れていた。


「最近、鬱陶しい弟ですけどね。溜め息多くて」

「……そりゃあ、姉ちゃん。致し方ない」


 俺の溜め息の原因がどこにあるのか、察しの良い礼ちゃんのお母さんは苦笑いを頬に浮かべる。姉ちゃんは、それに、と追加した。


「私が、嫌だから。ミコちゃん以外が神威の彼女になるのは」

「……え?」

「可愛くてもクルクルパーとか、天然と見せかけて計算高いとか、外見は磨くけど中身空っぽとか、男に媚びるけど女に意地悪とか、自分だけが大変そうぶるとか、優しくないとか思いやりに欠けるとか自立してないとか被害妄想 強いとか。嫌なんで。そんな子」


 よくもまぁ、流れる様に形容出来るもんだ。や、大体ね? 選ばないよ“そんな子”。俺、そこまで本質見抜けなさそうなヘタレに見られてたのかな。


 俺は姉ちゃんの毒舌に感心しながら、きっとその言葉の裏に隠されているメッセージが伝わると良いな、と思った。

 お母さんのこと嫌いじゃないわ、って。ミコちゃんのこと好きだわ、って。

 姉ちゃんは、何でもないフリをしながらそう言っている様な気がした。


「……礼は、そんなに――」

「良い子ですよ。私は大好き。どっかに行っちゃう前に、きちんと伝えられなかったのが悔しい」


 ありがとう、と。

 礼ちゃんのお母さんは、髪をグシャグシャと掻きあげながら照れ臭そうに言った。

 何だろ、うちの母ちゃんもそうなんだけど。子どもが褒められるのって、嬉しかったり、照れ臭かったりするのかな。


「俺も、礼ちゃん大好きです」


 充分、分かってます、と即答された。お母さん、ちょっと呆れ顔なんですけど。引いてますか?


 名残惜しそうなトモくんを背に、俺と姉ちゃんは帰り支度をする。明日は模試なんで、さすがに勉強しないと。


「あ、神威くん」


 スニーカーを履き終えた頃合いで、お母さんに呼び止められた。目の前に差し出されたのは、雑誌。

 えーっと。俺、雑誌は基本的に少年なんとか、しか読みませんが。


「これ、最新号なんだけど。乃木がね、初めて取材した記事が載ってるの」


 良かったら見てやって、と柔らかな表情で手渡される。次いで、美琴ちゃんも良かったら、と隣に並んで立つ姉ちゃんへもお母さんは念を押した。


「で、神威くん、モデルしないかな? って。乃木が」

「も、本当ーーに、お断りです!」

「傷なら綺麗に」

「そうじゃなくて! 魂 抜かれるんですよ! カメラ向けられると!」


 明治時代か、と姉ちゃんに突っ込まれながら、俺は玄関のドアを開けた。

 もうすぐ梅雨入りなのかな。湿っぽい、生温かな夜の空気が手元から入り込んでくる。

 ありがとう、と重なるお母さんとトモくんの声に笑顔を向けながら、俺と姉ちゃんは夜の闇へ一歩踏み出した。途端に足元を照らしてくれるセンサーライト。


「……何か……、」


 姉ちゃんは何事かを言いかけて口をつぐむ。何? と窺い見ると、姉ちゃんは玄関を振り返り、首を傾げながら俺へと顔を向けた。


「……まぁ、良いわ。帰ろう」


 あ、それ先に読ませて、と俺の返事を待たずして、姉ちゃんは俺の右手から分厚い雑誌を横取りする。

 帰宅後。英単語の暗記も、襲ってくる睡魔くんの攻撃を前に、これ以上 吸収出来ないな、と思っていた時だった。


 ガチャッ、とドアが開いた。廊下をバタバタと走る音。次いでバァーンッ!! という凄まじい効果音と共に、俺の背後で開け放たれたドアの前に立つスウェット姿の姉ちゃんが髪を逆立てている……、様に見えた。

 スーパーなんとか人みたいに。いや金髪じゃないけど。スカウター無いけど戦闘力凄いな。

 ちょっと、現実逃避。階下で、美琴ー? と父ちゃんの声。


「……何、ね――」

「おかしいと思ったのよっ! 女性誌なのに神威に渡すって! 私にまで、見てね、って! 読んでね、じゃなく!」

「な――」


 何のこと? と問いかけたその途中で、視界いっぱいに広げられたページ。

 ボンヤリした脳内へ、大人女子向け、プチバカンス、癒し、美味、なんていう見出しが切れ切れにインプットされ、…………!!!


「ぅあああっっ!!! 礼ちゃんっ!!!」

「やっぱりそうよね?! 髪が短いし、めちゃめちゃ痩せてるけど!」

「そうだよっ! 礼ちゃんだよっ! ここ! これ! 腕の! 首も! 俺が作ったやつだし! 間違いないって!」


 俺はいつしか姉ちゃんから雑誌を強奪して食い入る様に凝視した。お前達、深夜に近所迷惑だよ、と父ちゃんの声は部屋の入口から投げかけられたけど、そんなの構ってなんかいられない。


「……わあああー……礼ちゃんだ……!」


 あぁ、俺。泣きそう。不覚にも。


「……礼ちゃん……!」


 呼びかけて、あの可愛い声で、はい、なんて返ってこない。分かってる。分かってる、って。でも、そうせずにはいられない。


 短くなった髪。痩せてこけた頬。そのせいか、更にシャープになった顎。

 ちっさ。相変わらず、ちっさい。隣のレトリバーと顔の大きさ変わらないんじゃないの?


 撫でても、触れても、反応なんて返ってこない。分かってる。分かってる、って。

 スマホの画面でもないんだから。指先で叩いても、引き伸ばしても、写真の礼ちゃんの大きさは変わらない。分かってる。


 ちょっとだけ、笑ってる? 笑えてるね? 良かった、礼ちゃん。笑えるようになったんだね? 背後の空が蒼いせいかな、キラキラして見えるよ。取り戻せたんだね?


「……っ、れいちゃ……、」


 俺は椅子の上で体育座りをし、立てた膝の間に開いたページへ顔を埋めた。

 神威、どうした?

 父ちゃんの穏やかな声音に俺は応えることが出来ず、フルフルとかぶりを振った。


「神威。気持ちは分かるわ。でも、落ち着いて」


 グシャグシャになっちゃうでしょ、と言い、姉ちゃんは俺の膝の間から雑誌をゆるりと抜いていく。額を膝へくっつけたまま、俯く俺の頭上で、姉ちゃんは父ちゃんへ、これ、と開いたページを見せているらしい。


「ここ、これ。ミコちゃん」

「……あぁ! 確かに」


 父ちゃんの声に含まれていた心配の色は、俺の態度の理由が分かったせいか、安堵の色が濃くなった。お父さん、と姉ちゃんの真剣な呼びかけ。


「神威、明日は模試なんだけど。責任は私がとるから。ちゃんと志望校へ合格させるから」

「……美琴。何が言いたい?」

「姉ちゃ……、いい、俺が」


 姉ちゃんの言わんとするところは、よくよく伝わってきた。

 いや、きっと。父ちゃんだって、分かってる。

 俺は座っていた椅子から滑り落ちる様に、床へ両手をつき、額を擦りつけた。

 土下座なんて、大袈裟? でも本当に懇願する時、人は自然とこんな格好になるんじゃないか。


「……見つかったんだ……、礼ちゃんの、手がかり。掴まえに、行かせて下さいっ……!」


 現実は、ほんのちょっとの間だったと思うんだけど、父ちゃんが呆れた様に、諦めた様に、はぁーっ、と息を大きく吐き出すまでの時間は、物凄く長く感じられた。

 それまで言われた覚えがなかったのに、今回ばかりは、学校にはちゃんと行け、サボるな、勉強しろ、って言い続けてきた父ちゃんと母ちゃんだ。返事が色好い訳がない。

 ……いや例え、父ちゃんの返事がNGだったとしても……、


「……神威の内なる声が聞こえるね。どうせ反対したって行くんだろ? お前達」


 お前達、に突っ伏していた顔を上げた。父ちゃんの顔は既に姉ちゃんを向いていて、姉ちゃんは、お父さんありがと、と満面の笑みを湛えている。

 うん、父ちゃんは昔から姉ちゃんには甘い。


「そこ、どこ? ここからどれくらい?」

「ナビだと、車で4時間」

「……遠いな。他の交通機関は?」

「現地直行なら、車しかないと思う」


 父ちゃんと姉ちゃんは、未だボンヤリと正座している俺の傍らで、スマホ片手に現実的な会話を展開している。俺、ちゃんと参加しなきゃ。


「運転は美琴とお父さんが交代、な? 公務員 続けられてて良かったよ、土日 休みだし。一眠りして行かないか?」

「お父さん、こんな興奮してんだから眠れる訳ないわ」

「……じゃ、お母さんにオニギリ作ってもらおう」

「私、着替えるから! 超高速ハイパーモードで20分! 神威も! いつまでもボンヤリしない!」


 あ、と声にならない声をあげ、俺はコクコクと首を振る。

 とりあえず、メールだ。武瑠と心と葛西先生へ。

 出発だ。


 礼ちゃん、俺、もうすぐ行くから。見つけたら、骨が折れそうなくらい抱きしめるから。そうしたら、もう絶対、離さないから。

 こんな想いの二度目は要らない。

 どうか礼ちゃんも、同じ気持ちでいますように。


 フツフツと笑いがこみ上げる。

 早い? そうだね、まだ手がかりが見つかっただけ。でも、雄叫び上げたいくらい何かが、胸の、腹の、奥底からこみ上げてくるんだ。

 逢える、きっと逢える。強く、念じて、信じて。

 さぁ、出発だ。




 ゴツ、と鈍い音がしたかと思うと武瑠の呻き声が続いた。


「武瑠、無理しないで寝て良いよ」

「…えー……オレ、また遅れを……」


 車中の程好い揺れ、って眠気を誘うよね。部活の猛練習で疲れきっているに違いない武瑠は、何度も船を漕いでは窓に頭をぶつけ、睡魔くんと闘う、を繰り返している。寝てて良いのに、さっき、遅れをとったのがよほど気に入らないらしい。


 武瑠と心と葛西先生へ同報で送ったメール。

 深夜にも関わらず、最初に折り返しがあったのは葛西先生だった。しかも、直接 電話で。


《神威? 今、大丈夫?》


 おお! いつ何時でもまず相手への気遣いを忘れない。イケてるメンズの基本動作、覚えておこう。俺、ちょっとテンション高くて可笑しい。


「はい、あの、」

《御子柴に言っといて? 退学届は受理されてないから、学校戻っておいで、って》

「はい、……ぅ、えっ?!」


 いろいろ諸事情すっ飛ばして、俺は明日、欠席の体で話し始めた葛西先生にビックリしたけれど、内容に更にビックリだ。

 礼ちゃんのお母さんは、確か春休みの間に学校へ行って、新しい担任の先生が決まってないから、銀縁眼鏡で背の高い若い先生、すなわちその名を葛西先生へ渡してきた、と言ってなかったっけ?


《何、それ。変な声》

「や、だって! 礼ちゃんのお母さんは先生へ預けた、って」

《預けられたから、って何でもホイホイ処理する訳ないでしょ。特に将来有望な生徒の場合。俺の机の引き出しに眠ったままだよ》


 うへー。やっぱり、この人。


「先生…格好良い! 大好きです!」

《うん、知ってる。俺もお前達、大好きだから。気をつけて行っておいで》


 いけしゃあしゃあ、って。こんな態度を指しますかね? 間違ってない?

 あぁ、もう、笑いがこみ上げるったら。

 そうして葛西先生との電話を切って携帯電話をパチン、と折り畳んだ途端、それはまた、掌の中で鳴動を始めた。

 ……今度は、心?


「もしも―—」

《あぁ、良かった! 繋がった! 俺も連れてってくれ!》


 冷静沈着な心が、これまたあまりにいろいろすっ飛ばして、要件のみ伝えてくるから、俺は思わず噴き出した。


「や、心。気持ちはありがたいけど手がかりが見つかっただけで」

《おじさんか? おばさんか? 一緒に行くんだろ? まさか美琴と二人だけってことは》


 ……聞いてない。スルーだよ、俺の言葉。いや、あえての聞いてない、フリ?


「父ちゃんが―—」

《代わってくれ!》


 断固たる口調で遮られ、俺に最後まで喋らせてもくれない。どうしたものかと考えあぐねる時間も惜しく、俺は階下の父ちゃんを捜し、姿を見つけるや携帯電話を手渡した。

 父ちゃんは、心とお決まりのご挨拶から二、三 会話を交わす。そう? とか、お家の方は? とか、終いには心くんにそこまで言われると、という言葉と頷きで、形勢は決まったかに見えた。


「神威、良い友達 持ったな」


 ちょっと待って、と携帯電話の送話口へ最後の声を送りながらそれを俺に返す父ちゃんは、堪えきれない笑みを浮かべている。

 分かってるよ? そんなこと。全くもって、今更じゃん。

 で、心は結局、どうするのか、確認しようと掌へ戻ってきた携帯電話をまた耳に当てた。もちろん、通話はずっと心に繋がっているつもりで。


「心? で―—」

《あっ?! やっぱオレ、心に負けた?》

「……武瑠?」

《そーだよ! 神威のケータイ、キャッチ付いてないから! さっきからずーっと話中音でさ! ちょ、オレも連れてってよ? どうせ、心も行くよね? オレ、ばーちゃんにはちゃんと話したから大丈夫だし!》


 結局、二人共、夜道をチャリでぶっ飛ばし、姉ちゃんが準備を終えるのより速く、うちへ着いた。武瑠は、話中音の原因が心だけでなく、葛西先生との通話でもあったことに、ひどくショックを受けていた。


 ありがとう、武瑠。ありがとう、心。

 撃沈した二人の寝顔へ、せめてもの感謝の念を送る。あ、姉ちゃんも、ありがとう。

 そんな俺の不可思議な様子に気づいたのか、バックミラー越しにうっすら笑っている父ちゃんと目が合った。


「……神威、この前のテスト、なかなかの結果だった、って?」

「……何で知ってんの? 葛西先生?」

「いや。心くんのさっきの電話。神威、本当に頑張ってますから今回ばかりは捜しに行かせてやってくれ、って。浪人させません、東大A判定の俺が保証します、とまで言われた日には」


 父ちゃんを説き伏せる、ってところが心らしいというか。猪突猛進型の武瑠とは攻め方が違うというか。

 あぁ、何だろうな。さっきから笑いがこみ上げて、頬が緩みっぱなしだ。俺は両の掌で顔を覆う。


 指の隙間から見える窓外の景色は、夜の闇が別れを告げ、薄い灰色と青と白が一日の始まりを彩り出していた。

 見知らぬ土地。独りだったらきっと心細く感じるのだろう。

 緑の木々は目に入り続けるけれど、これといった建物は無く、本当に礼ちゃんが息づく場所へ導いてくれる一本の繋がりなのか、ふと不安が頭をもたげたり。


 ――大丈夫。ナビ通り。


 まずは、大人可愛い女子向けプチバカンスにオススメ! と紹介されていた地元のホテルを目指し、その近くであろう、『スズキヌ屋』さんを捜す段取りだ。

 スズキヌ屋さんの詳細な住所は記載が無かった。ホテルはデカデカと書いてあったのに。礼ちゃんは、スズキヌ屋さんの看板娘、だと紹介されていたのに。

 その何もかもが礼ちゃんのお母さんが確信犯であることを物語っている。散りばめられた点を繋いで礼ちゃんに通じる線を見出だし、掴まえに行け、ってことだよね? 受けてたちます、って。


 もう、何度目か分からない。俺の指はまた礼ちゃんの小さな輪郭をなぞる。その所作に何の意味も無いことくらい、とっくに分かってるんだ。

 験担ぎ、みたいなもの。礼ちゃんに、逢えますように、って。摩擦が過ぎて、ここ破れちゃうかも。


 橋だ、という父ちゃんの小さな呟きが、うわ、という歓喜のそれに変わる。

 視界の両側に碧々と広がる海。その真ん中に浮かぶ、白い橋。

 俺達を乗せた車を背中から追いかける様に昇り始めた朝陽が、鉄骨の一本一本まで鮮やかに映し出す。ところどころにじんわり出来る白い波が、風の穏やかさを教えてくれる。


「うわー……!」


 俺、海なんて目にしたの久しぶりだ。父ちゃんだって、そうだろう。

 不思議だ。

 こんなに爽快で蒼海な景色、何だか良い予感しかしないじゃん。きっときっと、良いことあるよ、って言われてるみたいじゃん。


 夜が明けきっていない、けれど静かで澄んだ空気。ちょっとガタつく細い道路。

 歩行者用の通路を歩く人影はまばらだけれど、そのどれもが礼ちゃんではないことを確認しながら島内の道を進み、俺達の車はホテルの前に着いた。

 運転席のドアを開け、父ちゃんは車を降りて屈伸し始める。バタン、と閉められた音と、明るさを増してきた、車内に入り込む朝陽の眩しさのせいか、姉ちゃんも武瑠も心も目を覚まし、おはよう、と掠れた声で挨拶を交わす。


「ちょっと! 外 見て! 海!」


 助手席の姉ちゃんとその後部に座る心は、見慣れない美しさに見入っている。武瑠と俺は運転席側のドアを開け外に出ると、マイナスイオンたっぷりの朝の空気を目一杯吸い込んだ。


「磯の香りだ…」

「オレ、腹減ったなー」


 防波堤下に続く階段は、礼ちゃんをとらえた二枚目の写真が撮影された場所なのかもしれない。アングルが……、似てる気がする。

 礼ちゃんに近づきつつあるのは間違いない。はやる気持ちを抑えきれない俺とうってかわって、皆、いそいそと朝ご飯を食べる準備をしている。


「腹が減っては戦にならんぞ、神威」

「……心が言うと武士道みたいだよ」


 母ちゃんがいろいろ詰めてくれた重箱の蓋を開けると、姉ちゃんが噴き出した。

 あぁ、そりゃ。噴き出すね。三角オニギリの白い部分に、海苔で『カムイファイト』と貼って……、あったんだろうな、たぶん。ハゲかけて何が何だか分からなくなってるけど。


「おばちゃん、時間なかったんだねー」

「食べちゃえば分かんないわよ」

「ま、神威。お母さんの気持ちを汲んでやって」


 普段とは異なる風景が、香りが、シチュエーションが、そうさせるのか。俺達のテンションは妙に高くて、武瑠が唐揚げを箸から落として、階段を転がっていったのすら、可笑しかった。

 俺達の笑い声に混じって、犬が吠えている声がする。遠くから近づいて来たな、とボンヤリ思っていたら。俺はワフワフという荒い息の下に組み敷かれていた。


「わっ!? えっ、ちょっ、待って、何―—」


 ……無理か。通じないよね。

 俺達は、遠浅の砂浜に程近い階段の一番下に座っていて、大型犬のタックルを受けた俺は、そのまま砂浜に寝転がった。

 ゴロン、と。そして、ベロンベロンと温かな舌で熱烈に舐め回される。


「わ、愛されてんねー、神威」


 耳に届く、皆の明るい笑い声。見上げ視界に入った青空には、わたあめをちぎった様に細くたなびく白い雲。まだ梅雨には入っていない澄んだ蒼が目に入り眩しい。今日は暑くなりそうだ。


 ……今、顔中が熱いけど。いや、かなり重いけど! 体重かけて抑えこんでるね? キミ! ワフワフ言っちゃってずいぶんと嬉しそうな。


「……ちょ、キミ、どこの子? 俺、キミの愛は受け止められないよー」

「リード、付けたままよ? 飼い主さん、捜してるんじゃない?」

「え、逃げてきたの?」

「……飼い主に似たのかな」


 ……え。……え、え、え?


 ワン、と一声。

 俺を見つめていたアーモンド型の黒々とした瞳は、俺じゃないどこかを見つめていて、俺を逃すまいとする様に抑えつけられていた肩や腕への、柔らかな肉球の感覚が消えた。リードをズリズリと引きずりながらその、声の主の方へ。


 俺が大好きな。鈴を転がす様な、って形容。あったよね? そんなの。

 いやもうとにかく。可愛いんだ。聴き心地が好いのなんのって。

 ゆっくり、ゆっくりと、網膜は情報を捕らえる。白くて細い脚、華奢な腰、折れそうな腕、薄い肩。

 一歩、また一歩。尖った顎、艶のある唇、形の良い鼻。そして、あの。俺を捕らえて離さない、大きくて黒目がちな二重の瞳。

 近づいて来る。

 足元へ顔を擦り寄せる愛らしい存在へ、カムイお利口さん、と微笑み、赤茶色の美しい毛を柔らかく撫でながら。

 解っている。

 好きで好きで堪らなく好きで大好きで、逢いたくて逢いたくて仕方がなかった子だ、って。

 粒子の細かな砂が気持ちの良い音をたてて、俺のすぐ傍らへ良い香りが舞い降りた。


 ……あぁ、俺。やっぱり、カッコ悪い。

 両肘をついて起こした上半身は砂まみれだし。髭 生えてるし。顔中、カピカピなんじゃ? ショーパンからすね毛見えてるし。マヌケ面だし。泣きそうだし。


 礼ちゃんと逢えたなら、ああして、こう言って手を取る? いやガバッと抱きしめる? そうそう、骨折れそうなくらいにね。一言目には、何て?

 プラシーボ効果を生み出そうとすんごい数のシミュレーション重ねてたのに。

 駄目じゃん、てんで。動けないんじゃ、意味がない。

 心とか葛西先生に、ご教示いただいとくんだった。

 そう、男子力向上委員会の第四回会合を……四回目、だったっけ?


 ………あぁ、もう。何が何だか。


「………神威くん?」

「………礼、ちゃん……?」

「………はい」

「………御子柴、礼…ちゃん?」

「………はい。御子柴、礼…です」

「………本物?」

「ふふ。……本物、です」


 あ。ふふ、って。溢れた。何か、バックに。花、みたいなさ。フワフワでキラキラしたポワポワの何かがこう、ポポポポン! ってさ? もう、バカだ、俺。可笑しい、もう。


 礼ちゃんの白く細い指がつ、と伸びて俺の前髪に触れる。いや、前髪を分けて傷痕へ。俺はその右手を左手で掬い取って包み込んで一緒に、なぞった。

 額から左の頬へ。文字通り、俺と礼ちゃんを分けて断ったその歪な線を、もう一度、二人で縫い合わせる様に。


「……ね。治ったよ?」

「……本当に、綺麗……、」

「うん、綺麗に治っ――」

「……っ、綺麗なのは、神威くん…! わ、私、私っ――」


 ブワワーッ、て礼ちゃんの瞳は堤防決壊。大洪水。やっぱり泣き虫だ、俺の可愛い彼女は。しょうがないな。もうこうなったら、なでなでしてあげないと。

 俺は改めて礼ちゃんへ向き直ると、開いて立てた両膝の間に、礼ちゃんのちっちゃな身体をそうっと引き寄せた。肩が薄くて、俺の顎埋まりそ。

 あー、ヤバい。本当に礼ちゃんの骨、折れるかも。加減、出来るかな? 上手く。


「か、神威くん…っ…! 私、神威くんが……っ、大、好き……!」

「………ちょ、もーー……バカ? 可愛いでしょ、そんなの! もーー、無理無理!」


 俺は、もう力一杯、礼ちゃんを抱きしめた。うん、礼ちゃんの肋骨が折れたら、俺、毎日 看病出来るな。あ、でもコルセットで固定か。それは退屈。

 何か、こうくっついて、離れなければ良いのに。のめり込んで、マトリョーシカみたく。いや、ちょっと違うか。あー、ヤバい。思考が変態だ。顔がニヤけて止まらない。こみ上げてくるんだよ、何かが。ヤバいヤバい本当に変態だ。


「く、…苦し……、」


 礼ちゃんの小さな掌が俺の背中をポンポンと叩いて、ギブ、を知らせてくる。俺はごめん、と笑いながら謝ると、ほんの少し力を弱め、礼ちゃんの顔と頭が動く空間を作った。


「……泣いてばっかりだった?」


 コク、と頷きかけた頭はプルプルと左右に振られた。うん、泣いてたんだね。強がって。


「……寂しかった?」


 ゆっくり、コクリ。うん、俺も寂しかった。


「……逢いたかった?」


 コクコクと二回。とっても、ってことね。うん、俺もとっても逢いたかった。


「ご飯、ちゃんと食べてた?」


 ブフ、って。礼ちゃん。俺のTシャツに鼻水ついたよ、きっと。だって、こんなに、痩せてさ。


「掴まえた」

 コクン。


「もう、離さないから」

 コクン。


「礼ちゃんの未来、全部もらうから」

 コクン。


「俺の未来も、全部もらって?」

 コクン。


「返品不可だよ」


 俺は、華奢な礼ちゃんの両肩にそれぞれ手を添えて、またそうっと引き戻した。礼ちゃんの漆黒の瞳に宿るのは、もはや抗い様の無い暗い闇ではなく、深遠で透明なキラキラの未来。覗き込んだら、囚われる。落ちてしまうんだ、何度でも。恋に。この先もずっと。


「礼ちゃん」

「はい」


 あぁ、笑ってる。礼ちゃんが、今、俺だけに向けてあの、極上のピカピカ笑顔。

 見るたびに、俺の胸の深いところを鷲掴みにして離さない、ズルい笑顔。

 もう、それ、武器だよ。礼ちゃん。美しく弧を描く瞳は、俺だけに向けられてて口角も綺麗に上がってて。嬉しい。可愛い。たまらなく。語彙力ないな、俺。


 おでこをコツン。鼻先が触れて熱い息は、すぐそこ。

 礼ちゃんの柔らかな唇は、三ヶ月前と同じで、しょっぱい。

 潮風のせい? 涙のせい?

 どっちでも、良いけどね。

 ほら、何とも言えない快感が背筋をゾワゾワとかけ上る。

 嬉しい、だけとは違う。ホッとした、もあるような、やっと手に入れた充足感、みたいな。うん、俺の表現力では、無理。


 間違いないのはね、幸せだ、ってこと。

 俺は、礼ちゃんの唇の上も、下も、頬も、鼻も、閉じた瞼も、睫毛も、眉毛も、顔にかかる前髪も何もかもが、愛しくて。

 何度も何度も、そこかしこに。キスをした。

 礼ちゃんを啄んでると、瞼がピク、と動いてゆっくりと黒い瞳が俺を映し出していく。気づけば、礼ちゃんの白くてちっちゃな顔は湯気が出そうなくらい紅く染めあがっていた。効果音としては、ポワン、みたいな。潤んだ瞳でそれは熱っぽく見上げられたなら。


 何でしょうか、神様。この可愛くて尊い生き物は。や、無意識小悪魔 破壊力抜群の笑顔が武器の、俺の彼女なんですけどね? もーー! 無理でしょ! 理性を保て、ってのが無理でしょ! ちょ、もう一回……、


「――ねぇ。まだ?」


 ……おお。地の底から響いてきた様な素晴らしくドスの効いたお声。


「――お姉様。何か?」


 礼ちゃんに再突撃しようとしていた俺の唇は行き場を無くし、そのまま尖った形で姉ちゃんへ悪態をつく。礼ちゃんは俺の腕と胸の間にまた押し込められてブフ、と噴き出している。姉ちゃん。本当にもう読んで……、


「読んでるわよ、空気くらい。だから皆でそこいら散歩してきたんじゃん! もう良い頃かな、と思ったらサカってる青少年がバカみたいにチュッチュチュッチュ」

「うん、はい。ごめんなさい。俺です、悪かったです。お気遣いいただきありがとうございましたっ!」


 礼ちゃんが肩を小刻みに震わせて笑っている。俺はまた嬉しくなって、と同時に間近にある姉ちゃんの視線に恥ずかしくなって、ようやく礼ちゃんの身体からほんの少し距離を空けた。


 礼ちゃんは俺を見上げ柔らかく微笑むと、俺達の傍らへドカッと腰を下ろしている姉ちゃんへ身体ごと向き直る。砂が乾いた音をたて、礼ちゃんの表情が一瞬にして引き締まったそれへ変わるのが、横顔だけでも充分に見てとれた。


「……美琴お姉さん……、」


 姉ちゃんはごくごく普通に、なぁに? と返した。慎重に言葉を選ぼうとしているのか、二の句が継げずにいる礼ちゃんの躊躇いと、あまりの温度差。礼ちゃんは姉ちゃんの背後に登場した、父ちゃんと心と武瑠へも順に視線を置いていく。

 毛並みの良いゴールデンレトリバーは、武瑠の手を離れ、言い淀む礼ちゃんの傍へ忠犬よろしく座り込んだ。

 ペロリ。左腕を舐められたのが合図の様に、礼ちゃんは丁寧に言葉を紡ぎ出した。


「……神威くんのお父さんも弓削くんも吉居くんも。私に対して複雑な感情をお持ちだと思います。事情はどうあれ神威くんを傷つけて、いろんな意味で傷つけたくせにこうしてのうのうと……、でも」


 礼ちゃんの真剣な吐露は途中、誰をもの言葉が入り込む余地が無くて、俺も脳がよく作動してない。ただただ呆然と聞き入っていただけ。皆、礼ちゃんの息継ぎの瞬間を狙った様に、四人四様で話し出す。


「ミコちゃん、複雑だなんて」

「御子柴、考えすぎだ。俺達は」

「オレ、ミコちゃん、好きだよ!」

「あのね」


 真打ち登場、みたく。

 姉ちゃんは誰よりも声を張って、場の空気を凛と整え、流れを全部さらっていった。


「ミコちゃんは、神威の傍にいてくれなきゃ」


 礼ちゃんは、よもや土下座でもしようとしていたのか、砂の上へ両手をつき、俯き加減。姉ちゃんはそうはさせまいと抗う様に、礼ちゃんの顔を低い位置からわざわざ覗き込んでいる。元に戻して? と促しているかの如く。


「もうねぇ。鬱陶しいったらありゃしないのよ! 神威は。溜め息ばっかりで、思考は短絡的だし、毎日ウダウダして」


 それは私が、と言いかけた礼ちゃんの口元へ、待って、と掌をかざす姉ちゃん。

 姉ちゃん、俺、ミソクソに言われたままで終わっちゃう?


「駄目みたいよ。神威、ミコちゃんが傍にいないと。ただのヘタレなの」


 だからね、よろしくね。

 姉ちゃんはそう言って、礼ちゃんの顔を真っ直ぐ見つめると満面の笑みを浮かべた。

 とっても満足そうで。とっても嬉しそうだった。


「本当に愚息なんでね。別れたくなったら無理しないで」

「……父ちゃん……」

「ツラが良いだけの不出来な弟なのよ」

「……姉ちゃん……」


 ジーンズに付いた砂を振り払いながら、しゃがみ込んでいた姉ちゃんはゆるりと膝を伸ばす。父ちゃんと並び立ち、俺をからかう様な目線で見て、そっくりな二人は、そっくりな微笑み。いや、微笑みというか悪戯っ子のニヤリ顔というか。

 その両側に居並ぶ武瑠と心の表情にも、さほど大差は無いな。


 分かってるよ。ありがとう。

 きっと、礼ちゃんが何一つ気負うことなく俺の全部を受け入れ易い様にわざと、からかう様に。


「……私。少しは変われたつもりです」



 礼ちゃんは父ちゃんと姉ちゃんから視線を逸らすことなく、凛とした声でそう告げた。


「目で見えることや、耳に入ること、手で触れられること。そんな情報が物事を象る全てではないんですよね。そこにどんな気持ちがあるのか、私はちゃんと思いやって生きていきたい。お父さんと美琴お姉さんのお気持ちは、今、私、ちゃんと汲み取れていると…、思います」


 礼ちゃんの声は、ほんの少し震えている。波の音に乗って聴こえるせいではなく感情の昂りを伝えてくる。きっと、泣きそうなんだな。でも、堪えてる。強くなったのかな? 礼ちゃん。泣き虫礼ちゃんも可愛いけど、ピンと張った背筋の様に強くしなやかな礼ちゃんも、綺麗。


「ありがとう、ございます。弓削くんも、吉居くんも。皆さん、本当に……、」


 あぁ、ほら。も一回、言いたかったんだよね? ありがとう、って。

 でも言葉として礼ちゃんの口から出るより先に、瞳から涙が零れ落ちた。俺はちょっと距離を縮め礼ちゃんの背中を柔らかく撫でる。あー、連れて帰ったら、ご飯いっぱい食べてもらおう。


「ミコちゃん、オレ達からもお願いするよ! 神威のこと!」


 武瑠は、また俯いた礼ちゃんの前にしゃがみ、明るい声で歌う様に言う。


「そうだな。御子柴が神威の舵取りを」

「……そういえば」


 ふいに思い出した。


「武瑠、さっきどさくさに紛れて礼ちゃんに告白してたよね?!」

「告白じゃないよ、三段論法じゃん。オレは神威を好き。神威はミコちゃんを好き。すなわち、オレはミコちゃんを好き!」

「武瑠、ちょっと使い方が違うぞ」

「そ? ま、当たらずとも遠からずってことで!」


 苦笑から始まった心の笑い声は、いつになく明るくて大きくて、珍しかったもんだから俺は呆気にとられていたけど。テンションが尋常じゃない俺達は、何だかつられる様に頬が緩む。


 いつの間にか朝陽は辺りをキラキラと輝かせている。

 朝の散歩なのか、砂浜を歩く人影がポツリポツリと目に入るようになり、その誰もが見知らぬ俺達の姿を物珍しそうに眺めては過ぎて行った。



 礼ちゃんは、助手席側の空いた窓から顔を車内へ少し入れ、ここを真っ直ぐ道なりに進むと右手にスズキヌ屋が、と姉ちゃんと父ちゃんへ道案内をしている。といっても、迷う術が無いほどの田舎道らしい。スズキヌ屋さんの裏手が住居で、車も路上駐車で構わない、と笑っている。


 自宅に柴犬を飼っていて、犬好きの武瑠はさっきからリードを離そうとしない。心と並び俺達の先に立ち、四人と一匹でゆるゆると歩を進める。澄んだ朝の空気。

 ここに初めて降り立った、一時間ほど前とは違い、俺は余裕を持って胸いっぱいに吸い込んだ。気分爽快。


「ミコちゃん、この子、何ちゃん?」


 武瑠がクルリと振り向き、名前を訊ねる。

 何だったっけ? さっき、お利口さん、って言いながら、礼ちゃんはフサフサの毛に指を差し入れ撫でていた……、


「カムイ、…です」


 隣をゆるゆる歩む礼ちゃんの頬に、サッと紅が走る。

 小さな両手で自分を扇いで、ご本人を前に恥ずかしいな、とか。

 何ですか、ちょっと。そんな可愛らしい仕草。またかぶりついちゃうよ? 礼ちゃん。


「そっかぁ。お前、カムイって言うんだ……」

「ちょ、そこ! 武瑠! どうしてそんなに残念そうなの?!」

「御子柴が名付け親なのか?」

「え? 華麗にスルー?」

「まさか! うちのお母さんが名付け親」

「……まさか! って何? 礼ちゃん!?」

「凄いのね、犬の嗅覚って。何メートルも前から神威くんの臭いを嗅ぎ分けて」

「神威の臭い?」

「あ、これ。ブレスとネックレス。神威くんのお手製で」

「あー、やっぱミコちゃんへのプレゼント、手作りアクセにしたんだ」

「そう! 春夏秋冬、4パターンあってね」


 何だ何だ何なんだ?! 俺 抜きで楽しそうな会話がリズミカルに進んでるんですけど!

 結局、俺は会話に参加するタイミングを失したまま、スズキヌ屋、の看板を目にするまでに至った。

 良いけどさ。だって礼ちゃん、スッゴく楽しそうで嬉しそうでキラキラしてて、礼ちゃんが幸せなら、俺も幸せ。素直にそう思えるって、スゴいことじゃない?


 母ちゃんが言っていた。“悲しい顔は伝染する”って。

 武瑠のばあちゃんの言葉もそう。“ニコニコしてれば良いことあるよ”


 みんな、理にかなってるね。温かな気持ちは広がってそれで世界は平和に、なんて思っちゃいないけど。幸せの輪っかを、次々に繋いでいければいい。大切な、大好きな人達と。

 礼ちゃんの唇から次々に溢れ出す言葉達は、それはもう羽がついた音符みたいに空中の五線譜へ名曲を作り上げていって。

 や、錯覚ですよ? そんな感じに見えるなぁ、って詩人みたいだな、俺。徹夜明けハイテンションは、俺の表現力の限界をゆうに突き破っていくな。覚えとこうっと。このフレーズ。何かに使おうっと。


 重厚な一枚板に手彫りで描かれた『スズキヌ屋』の文字。達筆…かどうか分からないんだけど味わい深いというのか。芸術的。見とれていた俺の目の前に、小さな掌がヒラヒラと舞い踊る。神威くん? と。武瑠達の姿は、既に裏手の住居の方へ消えていた。


「ね、また大きくなった?」

「そんな訳ないでしょ。礼ちゃんがまたちっちゃくなったんだよ。大体ね、ご飯食べてる?」


 食べてるよ、と苦笑しながら礼ちゃんは小さく手招きをし、俺を玄関へと案内してくれる。


「おばちゃん達から物凄く食べさせられるのよ? なかなか元に戻らないんだけど。こき使われてるからかな」

「……痩せっぽっち」


 礼ちゃんはその言葉に勢い良く振り向くと、じんわり両の口角を上げた。

 あれ? 可愛いんだけど何だろ? 悪戯っ子が何か企んでいる様な。


「ごめんね? 神威くんのタイプじゃなくて」

「え?……何? タイプ?」

「神威くんは、グラマーな方がお好きなんですよね?」


 ………あー。そういう……。何なの、その胸の前で山を描いてる やらしい手つきは!


「もー……引っ張るなー、あの本の話」

「健全な青少年の証、ですよね」

「……小悪魔」


 無意識じゃない小悪魔だ。ちょっと俺に向けて流した目が艶かしいじゃないかもう! ふふ、って、また! それ、ズルいんだってば!

 髪の毛に指を突っ込んで、意味もなくガシガシ掻きむしって悶絶する俺を、涼しげな表情で見守る礼ちゃんは玄関の引き戸を開け、どうぞ、と歌う様に招き入れてくれた。

 車を停めてきた父ちゃんと姉ちゃんも加わって、広い玄関に全員揃い踏み。礼ちゃんは一足先に、段差の低い框を上がり、おばちゃーん! と室内へ声を響かせている。


「何だか、気持ち良くない?」

「木の造りだからじゃないか? 檜?」

「すっげ、天然アロマ効果ー!」


 武瑠と心の何気無い会話に耳を傾けていると、なんだいなんだい! という大きな声の二重奏と、のっしのっし、に相応しい体で2人のお姿と礼ちゃんが現れた。


「おばちゃん、お客様」


 ……お客様、ってまたザックリまとめちゃったなー、礼ちゃん。俺、ちゃんと彼氏、って紹介していただけないんでしょうか……。

 それでも俺達はそれぞれの角度でお辞儀をし、おはようございます、と朝の挨拶を口々に告げる。父ちゃんが大人代表で、突然お邪魔して、と口にしかけた丁寧な断り文句は、ちっちゃくて丸っこい片方のおばちゃんに遮られた。


「どの子だい? 犬の名前は」


 ……犬の、名前? あ、カムイ?


「あ、あの……俺、です。山田 神威です」


 お邪魔してます、と視線を逸らさずに頭を下げて、にこやかに。俺なりに最大限爽やかに。

 だって大切だもんね、第一印象。礼ちゃんのおばちゃん、だもん。おばちゃん……、おばあちゃん?


「「へぇぇー」」


 すっとんきょう、って使うよね? あるよね? そんな日本語。

 絶妙なハモり具合で俺をまじまじと見つめる二組の双眸は、優しくて温かくて、どこかしら礼ちゃんに似ている様に見えた。


「こりゃ、良い男じゃないか!」

「キヌちゃん、イケメンって言うんだよ、ここ最近じゃ」

「呼び方なんざ、どうだって良いだろ! ジャニーズに入れそうだねぇ」

「あたしはこっちの子が好みだねぇ。ほら、渋いじゃないか」

「……キヌおばちゃんもスズおばちゃんも。気づいて? みんなビックリしてる」


 良かった。礼ちゃんのが止めてくれなかったら、いつまで続いてたんだろ。会話の流れから察するに、キヌおばちゃん、が左側で、スズおばちゃん、が右側。よし、大丈夫。覚えた、と思う。ちっちゃくて丸っこくて日に焼けてて、極めつけはクルンクルンの短いパーマ頭までそっくりなんだよ、お二人は。

 どうぞ上がって下さい、と笑顔を浮かべる礼ちゃんは、おばちゃん達の背中を押し、室内へと先導する。


「あんたの家じゃあるまいし! なんだい、偉そうに!」

「はいはい。そうでしたね」

「はい、は一回だろ!」

「……はーい」

「伸ばすんじゃないよ!」


 何だか、仲が良さそう礼ちゃんとおばちゃん達。微笑ましくて俺の口元が緩んでいく。

 きっと。泣けなくて笑えなくていっぱい傷ついた礼ちゃんが、ちょっとずつ自分を取り戻せたのは、傍にあの人達がいてくれたからだ。


 そりゃあ、俺がいたかったけど。それは、叶わなかったから。

 俺が、礼ちゃんらしさを取り戻させてあげたかったけど。それは、上手くいかなかったから。

 こうなった今、何もかも結果論だけどさ。あの人達がいてくれて、良かった。礼ちゃんが逃げてきた場所は、きっと、ここで良かったんだ。


「……あの。キヌさん、スズさん」


 やだよ、なんだい?

 礼ちゃんの手を払いのける様にして、俺へと向き直るちっちゃな二つの身体。


「キヌさん、なんて久しぶりに呼ばれたよ!」

「はて、時代が平成に変わってから、あったかね? そんなこと」

「……神威くん。“おばちゃん”で良いのに」


 あんた、失礼だよ!と礼ちゃんは平手でおでこを叩かれた。

 痛くはなかったんだろう、苦笑しながらスズさんに視線を向け、そのまま俺を見つめてくる。

 礼ちゃんだけじゃない。皆の視線は身体中に刺さるほど感じてるよ。


「……あの。礼ちゃんの傍にいて下さって、あの…。ありがとうございました。俺じゃ、力不足だったけど。礼ちゃん、こんなに元気になって……、」

「何が力不足なもんかね」

「そうだよ。知らないからそんなこと」


 俺が最後まで言いきらないうちに、キヌさん、スズさんの順で口から溜め息と言葉がこぼれた。礼ちゃんの頬がまた紅く色づいて、え、と大きな瞳が見開かれる。


「あのでっかい犬がやって来る前から、うなされちゃあ、寝言でカムイ、カムイって」

「何かっちゃ泣きながらカムイくん、って」

「覚えちまったよね、あたし達もさ」

「カムイくんは礼の好きな人なんだとさ。繰り返し繰り返し、全くしつこいったら!」

「首飾り見ちゃあカムイくん、犬を眺めちゃあカムイくん」

「あんただよ! いつも礼の傍にいたのは!」

「そうさ。あたし達はご飯を食べさせてただけだよ」


 キヌさんもスズさんも、生来のものなのか、ちょっと乱暴な口調でそんな風に言う。

 分かってる。俺だって、少しは変われたんだ。額面通りに受け止めるほど、落ちぶれちゃいない。ぞんざいな物言いの向こう側に隠れている優しい気持ち、温かな目線。

 あぁ、何だか頬の傷痕が痒い。いろいろ考えたら、血の巡りがハンパないんだ。


「でも、見てなくちゃ、分かりませんよね?」

「?…何 言っ…、」

「礼ちゃんがうなされてるのも、泣いてるのも。何かにつけて俺の名前を呼んでくれてたのも。傍できちんと見ててくれなくちゃ、分からないことですよね?」


 だからやっぱり、ありがとうございました!

 勢い良くお辞儀をして頭を上げると、キヌさんもスズさんも、また口を揃えて、やだよ! と言った。


「辛気くさいのは苦手だよ!」

「さ、朝ご飯 食べとくれ!」


 お二人の日焼けした顔が紅くなっていたのかは分からないけど、ちょっと高く聞こえた声音は、照れを隠しているようにも聞こえた。もう俺達に背を向けてスタスタ先を行ってるし、ほらほら、と再度促され、立ち尽くす俺を素通りして皆は部屋へ入っていく。


 ……ちょ、もう。皆して小突いていくな、って。姉ちゃん、痛いって!

 場に残されたのは俺と礼ちゃん。


「……おばちゃん達、照れてるのよ」

「……うん」

「……私も、恥ずかしい」


 礼ちゃんはいつの間にか俺のすぐ傍に居て、つ、と右手を伸ばし俺の左手を取る。

 視線まで絡め取られ、行こう? とゆるり、身体を引かれた。


「……俺。傍にいた? 礼ちゃんの」


 コクン。

 礼ちゃんの頭は迷いなく真っ直ぐ縦に振られる。

 クイ、と俺が手を引けば、礼ちゃんの軽い身体はすぐ翻り、俺は礼ちゃんの目線の高さまで降りた。


「そんなに好きだったんだ? 俺のこと」


 ちょっとからかって言ったつもりだったのに、チュ、と奪われた唇に残る熱。点から顔中に熱さが広がっていく。


「私の方が、ずっと好きだから」

「! な、ん……」


 何! 何それ?! ずっと、って! 期間? あぁ、確かにそれじゃ負けるけど! だって先に俺を見つけてくれたのは礼ちゃんだから。いやいやいや! だけどね!


「どんなに礼ちゃんを好きかって意味の“ずっと”なら、俺は負けないからね!」

「ふ ふ ふ。甘いわ、神威くん」

「な」

「この先の未来も、の意味だってあるんだから」

「や、それなら! 俺、もうすぐ18に…」

「ぅをぃっ! バカップル!!」


 広い廊下でイチャコラしていた俺達に向けて、姉ちゃんの怒号が思いっきり浴びせられた。


「いただきます待ってるんだよ、み ん な!! 地球上に存在してんのはあんた達だけじゃないっての!」

「「……はい、申し訳ありません」」


 笑いが、こみ上げる。

 何時間か前、真夜中にふつふつと湧き止まなかった得体の知れない衝動は、礼ちゃん、って実体を掴まえてもなお、俺の何かを突き動かす。寝てないからな。可笑しいな。

 ゆるく、何本かだけ繋がった俺の左手と礼ちゃんの右手。

 でも、もう、離れない。離れられない、離さない。お互いに深く心に刻み込んだんだから。


「……気持ち悪い」


 すれ違い様、姉ちゃんからじと目で呟かれた。ニヤけてんでしょ? 分かってるよ。でも止まんないだよね。



 一歩踏み入れた居間というのかリビングというのか、一体何畳あるんだろう、とボンヤリしてしまうほどの空間に、でん、と鎮座しているこれまた一枚板の年輪が美しく模様を描いているちゃぶ台。脚の低いそれには、所狭しと並べられた綺麗な器の数々。


「あんた達、それきっちり味見しといておくれよ! 店に出すんだからさ!」


 居間に続く台所から、そんな風に大きな声を投げかけているのはキヌさんだ。聞けば、昨日から“雑誌を見て”と立ち寄る女性達が多くて、何だか忙しいんだとか。

 そうか、スズキヌ屋さんは確か、地元の食材を活かした手作りのお惣菜屋さん、だった。全国誌に載ったんだもんな、そりゃ反響があるだろう。都会人はすぐ流行りもんに影響されて、と苦々しく仰っている。


 手伝わなきゃ、と言いながら肩を竦め、俺の指をそうっと離した礼ちゃんは、俺が座る場所にも座布団やお箸や小皿が用意されていることを確認すると、たくさん食べてね、と言い残し、台所の喧騒へ参加する。


 ……指を、ね。離す、一瞬前にキュ、と力がこめられた礼ちゃんの細い指。離れたくないのよ? ってまるでそう言ってるみたいにゆるーり感触が遠くなっていって……、


「……もう、何だろなー。あの可愛い生き物」

「……御子柴だろ。顔がだらしないぞ、神威」

「ねー、一眠りしたらおばちゃん達、手伝おうよ!」


 本当だ。満腹感の後に確実に訪れる睡魔くんの襲撃に、打ち勝てる気力は無さそう。俺、もう、全体的にボヘーッとなってるしね……。


 ごちそうさまでした、と言い終わるより速く、俺は寝落ちてしまったらしく、目覚めた時にボンヤリ視界に入ってきた柱時計の針は、正午を過ぎようとしていた。んー。5時間近く寝ちゃったよ。座っていたはずの座布団が枕代わり。いつの間にか俺の身体には、ご丁寧にタオルケットが掛けてあった。


「……あ。神威くん、起きた?」

「……うわー……」


 どうしたの? と訝しむ礼ちゃん。

 礼ちゃんから見上げられることは多々あるけれど、こうやって慈しみに溢れた優しい瞳で見下ろされることって無いよね。初めて? あ、病院で、は、あったけどまたアングルが違うもんなぁ。何だか。


「新婚さんみたいだな、って」

「……イタいな、神威」

「俺達、お邪魔虫じゃんねー」


 微笑む礼ちゃんの背後から心と武瑠の声がする。俺は、はは、と薄く苦笑いを浮かべながら上体を起こし、首をコキコキと鳴らした。


「……あれ? 父ちゃんと姉ちゃんは?」

「あ、お店を手伝って下さってるの」

「オレ達も手伝おうとしたんだけどさ」

「デカいのが何人もいたら店が手狭になると断られた」


 思わず、ぶ、と噴き出した。無理ないか、おばちゃん達の2倍近くありそう、心のデカさは。


「あ、でもね? もし、できたら……、弓削くんや吉居くんが迷惑じゃなかったら」

「前置きが長いな、御子柴。何でも頼め。友達なんだから」

「そうだよ! ミコちゃんのためなら何だって!」


 包み込む様な達観した心の笑顔と、天真爛漫 嘘のない武瑠の笑顔に、礼ちゃんの見開かれた大きな瞳の縁が紅く染まって、うるん、と揺らいだ。


「……あの、厨房の。こう……、コンロの上のフードの所がね」


 礼ちゃんはたぶん、喉とか鼻の奥にツンとしたものが込み上げてきているに違いない。泣くのを我慢して、そして喋り続けると、そんな上ずった声になっちゃうよね。誤魔化す様にフードとやらの位置の高さを表している、小さな手の振り方が可愛い。


「油で汚れてるんだけど……、私達じゃ背が届かなくて」

「あー、おばちゃん達もちっこいもんね」

「閉店後にゆっくりやるか」


 ずっと以前からの友達の様に、ごくごく自然な流れで進んでいく会話。

 自然、じゃないか。礼ちゃん、泣きそうだもん。てか、泣いてるもん。ありがとう、って言いながら。俯いて目頭押さえてグスンと鼻を啜ってる。


「……御子柴。泣くほど感謝される様なことじゃないぞ」

「脚立とかあるのかな? ここ」


 心がいつだったか言っていた。“相手が御子柴なら俺達の友情も安泰だろ”って。今まさに、俺の目の前でじんわりと広がっていく、えもいわれぬ心地好さは、そういうことじゃない?

 大切な友達の彼女。俺、心や武瑠の彼女にそんな思いやり、持ったこと無かったな。武瑠の初カノになんか、怒鳴りちらしちゃったし。

 いや、でも、あの子は武瑠に対する思いやりが足りなかった。武瑠のことだけを、本当に好きで好きで堪らなくて大切に想ってくれる子じゃないと俺、仲良く出来なさそう。


 ありがとう、心。ありがとう、武瑠。

 俺、本当に良い友達を持った。


 あー、でも、武瑠? 礼ちゃんにベタベタし過ぎ! 頭なでなでとか!

 俺にさせてってば!



 礼ちゃんは俺達のお昼ご飯を用意し終わると、またそそくさとお店の手伝いに戻ってしまった。

 俺は、まだ安心しきっていないのか、礼ちゃんに背中を向けられると、堪らず不安になる。ご飯をかきこむ様に食べ終わると、礼ちゃんを追いかけ、スズキヌ屋さんを覗いた。もちろん、背後には武瑠と心。

 そこにずっと前からあるべき存在としていた様な、まるで違和感の無い礼ちゃんの姿。

 あぁ、何だろ。また、胸だか腹だかの奥底で、小さな何かが湧き出てきそうな。


「オレ、やっぱちょっと手伝ってくる」

「あ、じゃあ、俺達も」


 途切れることの無い客足に、礼ちゃんはじめ父ちゃんも姉ちゃんも愛想良く応じている。慣れない道程を深夜に気を遣いながら運転してきてくれた父ちゃん達を思うと、寝てる場合じゃなかった、俺。そう、思ったのに。


「えー? 神威、愛想無いからダメ」

「え?」

「心は言わずもがな!」


 武瑠はニコニコ顔でなかなかの毒を吐くと、店内へ入っていった。父ちゃんと姉ちゃんを指し、自分と交替する様なジェスチャー。次いで店の外でボンヤリ突っ立っている俺と心を指し、顔を強ばらせNGのジェスチャー。

 おい、武瑠。何て言ったのか、手に取る様に分かるぞ。

 厨房から顔を覗かせたキヌさん、スズさんまで俺達を見て笑ってんじゃん。


「……行こうか」


 結局、礼ちゃんの隣で看板小僧に収まった武瑠を後目に、俺と心はカムイのお散歩へと出かける。目指すは、海。


 海から生まれる風が、一つ浄化してはまた芽生える不安を、遠いどこかへ消し去ってくれれば良いのに。黙々と歩を進める俺の眉根が寄っていることは、きっと心も気づいている。砂浜に下り立つと、リードを引きちぎらんばかりの勢いで立ち上がるカムイ。解放されるや、一目散に寄せる波打ち際まで駆けていく。迷いがない、美しくしなやかな体躯。


「……神威。何 考えてる?」

「……くだらないこと」


 嘘つけ。

 そう言いながら、砂浜へ続く階段へ腰を下ろす心。俺も隣へ並ぶ。と思い出した様に、後ろポケットに入れていた携帯電話が鳴動した。


「……わ」


 サブディスプレイに表示された名前は“葛西先生”だった。何だろ、ちゃんと今日は休みます、ってメールはしたし……。


「もしも…」

《この薄情者!》


 相変わらず良いお声ですね、先生。左耳から脳内へ突き抜けていきました。


《連絡ぐらい寄越せ! 心配してんのに弓削も吉居も休みやがって。一緒なんだろ? お前達》

「あ、あー……え、と」

《神威の母ちゃんから学校へ電話あったぞ。三人して季節はずれの牡蠣にあたったそうじゃねーか。それはそれは大変だったなぁ》

「先生……、やさぐれてます?」


 そりゃあ、昔は悪かったんだろうけど。昨今(そこしか知らないけど)の葛西先生はごくごく丁寧に、低ーい甘ーい声を巧みにお使いになられる方…なのですが。


《やさぐれもするわなぁ、神威よー! 俺だって試験監督よかプチバカンスに行きてぇよ!》

「……先生、今どこですか? 被ってたネコ、ずり落ちてますよ」


 俺の隣で心が、ぶ、と噴き出す。先生からは、は、という薄い溜め息。


《屋上。フケてんの。雑誌 見たよ。御子柴、相変わらず可愛いな》

「はい、本物はもっと…、って! え?」

《何? 本物に逢えたの?》

「はい、何で? 雑誌? 先生が?」


 妹尾が持って来てくれた、と言い終わるや、だから逢えたのかって訊いてんだ! と怒鳴られた。


「逢えました、掴まえました! すみません、ご報告が遅れました!」

《ホントだよ、てめ。手柴先生、誤魔化すのにどんだけ気ぃ遣ったか。お土産な、お前達三人分》


 いや、御子柴の分まで四人分だな。

 笑いを含んだ葛西先生の声に、俺も笑いで返せばいい。分かってます、って。ただそれだけなのに。


《……神威? どうした?》

「……先生。礼ちゃん、楽しそうだった。元気になって、楽しそうに働いてた。もう、そこに…、いなきゃならない人みたいに」

《……子羊 神威。迷ってんの?》


 はい、と口に出すのは躊躇われた。迷っちゃいけないことのような気がして。

 捜して掴まえて連れて帰りたかったんだから、はい、と口に出したら、現実になりそうな気がして。そんな痛くて苦い経験が思い出される。


 ――私はずっとここにいたいの、って言われたら。


《……ね、ちゃんと御子柴と話した?》

「……いえ、まだ」

《御子柴の考えをちゃんと聴いて。決めるのは、それからだよ。お前一人が悩んで苦しんだって詮無いこと》


 俺の沈黙を諾、と受け取ったのか、葛西先生は、それにね、と続ける。


《大人は子どもに戻れない。子どもは早く大人になりたがるけど。俺はもう一度17歳をやり直したいと足掻いたって、どうすることも出来ないよ。御子柴が今そこでやってることは、今じゃなきゃ出来ないこと? 17歳が学校に戻らずに、それでも経験しなくちゃいけないこと? そりゃね、幾つになっても学校には行けるさ。でも御子柴は、今 戻って来られるんだから。これからの人生を悩んで迷って決めて選んでいく場は、学校であって欲しいよ》

「……先生」

《俺、教師だからね、一応。ここんとこ、試されてるな、神威。見極めろよ》

「……深いです、その言葉」


 携帯電話片手に、屋上で、きっと先生はあの錆び付いた手すりにもたれかかっているんだろう。長い脚なんか組んじゃって。伊達眼鏡越しに蒼く澄んだ空なんか見上げちゃって。ニヤリと片方の口角だけ器用に上げて。

 くっそ。本当にカッコいい。干支一回りしたら、俺もあんな風になれるんだろうか。


《……もう、行かないと。この件、きっちり連絡しろよ》

「はい」


 通話断、を告げる液晶画面に小さく溜め息が漏れる。遠くカムイに目をやれば、寄せては返す波に合わせ、踊る様に飛び跳ねていた。

 そういうことだったのか、と左耳に入ってきたのは、心の声。何? とゆっくり顔を向けると、心の目線は楽しそうなカムイに置かれていた。


「……神威が浮かない顔をしている理由、だよ」

「……くだらないだろ、俺。考え過ぎてばっか」


 そんなことはないさ、と心はゆるゆる首を振る。どこに落ちていたのか、手にした細い木の枝の先で、石の階段を薄く覆う粒子の細かな砂をガリガリと払っている。


「……ごめんな。心も武瑠も、つき合わせちゃってんのに。俺がこんなじゃ」

「神威、勘違いするな。俺達が勝手に、つき合ってるんだ」


 俺は立てた両膝の上に頭を乗せ、横向きになった視界で心を捕らえた。賢い人間の優しい一言は細胞の奥深くにに沁み入る。心が持ち合わせる場を圧する力も相まって、俺はクタリとひれ伏したくなった。心は俺をチラと横目で見ると、口元に笑みを浮かべたまま、また波と戯れるカムイの姿を追う。


「……俺は。通過儀礼、みたいなもんだと思ってたんだ誰かを好きになる、っていうのは。キスだとか、セックスだとかと同義で」


 真っ昼間から、またえらく明け透けな言葉が飛び出しましたよ、心くん。俺の瞳は見開かれたに違いない。心はその様子をまたチラと確認すると、ぶ、と噴き出した。


「……真面目な話だぞ、神威」

「……ごめん。ちょっと免疫不足」


 心は、ハ、と薄く笑うと視線を足元へ落とし、低い声でスルリと言葉を漏らした。止めれば良いのに、と少し思ったんだ、と。

 ……一体、何を?


「神威が御子柴と出逢って、好きだと自覚して告白してつき合うようになって。そういう段階の一つ一つは、いずれ迎える別れへと向かっているんだ、と。漠然と考えてた。俺にはそんな経験値しかなかったから」


 あぁ、本当に、真面目な話だ。俺は頭をもたげ、端正な心の横顔へ強く視線を送った。その先は? 教えてくれ、心。止めれば良いのに、はどこで登場する?


「あんな事が起こって、しかも他者からの悪意で。神威も御子柴も傷ついて泣いて苦しんで。俺はそれすらも通過儀礼だとは、思えなくなった。だから、止めれば良いのに、と。好きでい続けるから、好きでい続けたいから堪らなく泣いて苦しい。だから」


 そんな、選択肢。

 ……そうか。俺、考えもしなかったな。


「七五三のお参りをしてもしなくても。俺達は無事に成長するんだ、たぶん」


 たぶん、と心が言うのは、実際は盛大にお祝いをされたからに違いない。心は、それはそれはおばちゃんに溺愛されてるから。割合が、ほんのちょっとリーとガクに持ってかれるようになったとしても。


「……うん。俺、七五三してないよ。姉ちゃんが確か、おたふく風邪にかかって」

「……大きくなったな、神威」

「親戚のおじちゃんですか、心くん」


 いや、本当に。

 言いながら心は、持っていた木の枝を綺麗なフォームで放り投げる。澄んだ蒼に吸い込まれる様に、それは理想的な放物線を描きながら眩しい光に溶けていった。


「……武瑠に。俺、したたか怒鳴られた」

「え?」

「止めちゃ駄目なんだ、って。俺らがそんな風に考えちゃ駄目なんだ、って」

「武瑠が…?」


 笑顔を絶やすことの無い武瑠。おばあちゃんの言いつけを忠実に守って。そんな武瑠が、心を。


「武瑠には親父がいないだろ? お袋は簡単に手を離したんだよ、と言ってた」


 俺達が出逢った小学5年の時。武瑠はすでに“吉居 武瑠”だった。でもその少し前まで、違う名字だったと知ったのは、ずっと後のこと。



『どうせ修羅場なら、もがいて苦しんでどんだけ泣いてでも。オレは家族でい続けられる方法を見つけて欲しかったよ。オレはもう、本物の親父を手に入れることは出来ないんだぞ? 神威もミコちゃんも、あんなに好きで想い合ってるのに! 止めちゃ駄目なんだよ!』



「心は本当に誰かを好きになったことがあるのか? って問われて、俺は答えられなかった。答えられない、ってことは、否、なんだよ」


 カムイは、心が放り投げた木の枝を、遠く砂浜の上で見つけたらしい。口にくわえ、得意気にこちらを見遣る。要るの? これ、と訊いているみたいに。

 心は、カムイへおいで、と手招きをし、神威、と俺の名を呼ぶ。


「俺はきっと、自分が逃げたかったんだ。辛そうな神威から。御子柴なんて…、病んでただろ」


 俺は病院での面会時間にしか礼ちゃんを見ることが出来なかったけど、武瑠や心は、もっと多くの時間、暗く沈んでいく礼ちゃんを間近で見ていたんだろう。どうすることも、出来ずに。


「そんなに苦しいなら想い合うことなんて止めて。そうすることで元に戻れるのかもしれないと。でも、武瑠が言うんだ」



『オレね、試合とかでピンチになったら。思うんだよね。乗り越えられる、切り開ける試練しか神様はオレに与えない、って。だって、神様だよ? オレのキャパがどれほどかって分かってるはずだろ。大丈夫、神威もミコちゃんも』



 それは、武瑠自身へ言い聞かせる言葉だったのかもしれないな。


「……武瑠くん。素敵」

「だろ? 何だかとてつもなく悔しかった」


 心の手元へくわえてきた木の枝を押しつけているカムイからそれを受け取ると、大きな掌は優しく身体を撫で擦る。満足げなカムイは、また波打ち際まで駆けていった。


「神威と御子柴は、本当に本物の“好き”を見つけていってる。神威は、良い男になるんだそうだ……武瑠の受け売り」


 実はアイツが一番大人だったりして。

 心はまた木の枝をガリガリと足元へ擦りつけながら、屈託なく笑う。


「……武瑠も心も。良い男だよ。俺だけが成長してる訳ない。俺だけじゃ乗り越えられなかったし、切り開けなかった」


 これからも。そうだ、これから先もずっと、傍にいて欲しいのは礼ちゃんだけではない。大切な何もかもを欲張ったって良いじゃん。


「……礼ちゃんと、話さなきゃ」

「戻るか」


 俺達はパンツに付いた砂を払い、カムイに向かってゆるゆると歩き始めた。


 スズキヌ屋さんの前まで戻ると、入口のガラス越しに俺達の姿を認めた礼ちゃんが、慌てた様子で駆け寄ってくる。神威くん、って。

 うー、可愛いなぁ。変な身震いが起こるよ。

 心は艶っぽい流し目を俺にくれながら、カムイを水が入れてある皿の傍まで連れて行く。


「御子柴、もう店じまいか?」

「あ、そうなの。全部 売り切れちゃって」


 じゃ、掃除に取りかかれるな、と礼ちゃんへ向けた心の言葉に、入口から顔を出した武瑠の声も添えられた。


「神威とミコちゃんはさー、ブラブラしてきて? その辺り」


 言い終わるやピシャリと引き戸を閉め、笑みを浮かべたままヒラヒラと掌を俺達に向けた。

 えーっと。何だか。妙に気を遣われると恥ずかしい、っての。


「神威くん?」

「何?」

「怒ってる?」

「ぶ、どうして?」


 礼ちゃんの綺麗な二重瞼に収まる黒い瞳は、俺の内なる感情を正確に読み取ろうとするかのごとくじっと俺に定まって逸らされない。漆黒に何もかも吸いとられていきそ。好きだよ、とか。念じてみようかな。ちょっと小首を傾げれば、同じ様に傾くちっちゃな顔。


「もー、何ですか。可愛いんですけど」

「……良かった。気分悪くしてないかと思って心配で」

「……まぁ、良い気はしない。愛想悪いとか、さんざん言われたんでしょ、俺」

「うー…でも、私は…」


 言いかけて礼ちゃんは口ごもる。ふと逸らされた視線に寂しさを感じて、顔を覗き込む様にその後を追った。俯いたまま、溜め息ひとつ。


「……歩こ。神威くん」


 俺はコワレモノじゃないから大丈夫なのに、礼ちゃんはそうっと、俺の右手の小指を摘まむ。

 一番最初も、そうだったね。あの日、図書室で、礼ちゃんが俺の袖を優しく摘まんでくれたのが始まり。

 あの時は、こんな場面、想像すらしてなかった。いや、違うな。自分の内に、こんなにもいろんな感情が新しく生まれるなんて想像も出来なかった。

 俺は、礼ちゃんの指を掬い、それごと握りしめた。相変わらず、手汗ハンパないんだよ、ごめんね。


「礼ちゃんの手、あったかい」

「……血が通った人間ですから」

「ぶ、そういう意味じゃなくて。俺、冬の礼ちゃんしか知らないから。手がいつもヒンヤリしてた」

「そうだっけ……」


 スズキヌ邸をとうに通り過ぎ、礼ちゃんがゆるゆる向かう先は、海を遠目に見下ろすことができる高台。小さな灯台があるの、と礼ちゃんは呟く。

 海からの風が礼ちゃんの短い髪をフワリと通り抜けていく様は、ちっちゃくて軽い礼ちゃんごと拐っていきそうで何となく、不安になった。ほんの少し、握りしめる手に力を込めると、それを合図の様に、神威くん、と礼ちゃんの声。


「……神威くんは、知らないと思うけど。私、退学したの。調理師の免許を取ろうと思って。お料理 好きだし、中卒だったら受験出来るから。実務経験が三年必要で、それで…」


 それで?

 一気にそこまでを吐き出して立ち止まった礼ちゃんの最後の言葉を、俺は精一杯 穏やかになぞる。


「だから……、」

「だから?」

「……ごめんなさい……」

「……謝らないで? 礼ちゃん。俺、悪い方にばっか考えちゃうから。ちょっと座って話そう? 時間は、たくさんあるから」


 ここは、日本地図でいくと端っこの海岸線なんだろうな。西果ての灯台に寄りかかって座る。耳に入る波の音、潮風が吹き鳴らす細い声、礼ちゃんの大きな溜め息。礼ちゃんと、話をしなきゃ。


「……ごめんなさい、って。いろんな意味で、ごめんなさい、なの」


 礼ちゃん、やっぱり少し強くなったのかも。俯かず、顔を上げて、柔らかな声で、丁寧に言葉を紡ぎ出す。


「いろんな意味、って?」

「まず……、考えがまとまらなくて、ごめんなさい。何だかこう……、ぐちゃぐちゃで」

「うん。じゃあ一緒に紐解いていこうよ」


 並んで座っててもやっぱり礼ちゃんはちっちゃいので、見上げられるとザワザワする。その上目遣いも罪だなぁ、礼ちゃん。


「……ね。約束したよね? 覚えてる?」

「え……」

「忘れたとは言わせないけど」


 約束……、と掠れた声で反芻すると、礼ちゃんは少し視線をずらした。記憶を手繰っているらしい。まぁ、答え言っちゃうけどね。


「俺に掴まえられちゃったら礼ちゃんの未来を俺にください、ってやつ。……礼ちゃん、うん、って言ったよね?」


 コクリ。

 礼ちゃんは俺をじっと見据えたまま、上から下へ首を動かす。


「はい、よろしい。よって、礼ちゃんが独りで考えたり悩んだり、ましてや独りで決めたりするのなんてもう、許されないからね?」

「神威くん……」

「はい。で、何なの? 何がぐちゃぐちゃ?」


 俺、自分なりにかなり極上の笑顔を向けられたと思ったのに、途端に礼ちゃんの頬へ透明な線が幾筋も跡をつけていく。


「……あー、もー……泣かない、っ…って……っ、決め…っ」


 泣いてるんだか、笑ってるんだか。

 そんなにゴシゴシ顔を擦ったら、礼ちゃんの薄い皮膚が剥がれそうだよ。


「そういうのも、独りで決めないでよ。俺は泣き虫礼ちゃんも好きなんだから」


 礼ちゃんの頭をポンポンと撫でると、大きな瞳からは滴が次々に溢れる。

 電動ポットみたいだよ、礼ちゃん。

 ポツリと漏らした呟きに、礼ちゃんはぶふ、と噴き出した。

 うん。笑った顔の礼ちゃんもやっぱり好きだな。



 狡いと思うの、私。

 大きく息を吸って、大きく吐き出した礼ちゃんは訥々と話し出す。

 不実? それともテキトー? 自問しながら。


 戻りたい。以前の生活に。

 けれど。真剣に逃げ方を考えた結果、たどり着いたスズキヌ屋で三年間、がむしゃらに何かを得ようと決めた。それを簡単に覆すのはいかがなものか。


 離れたくない。一度は手離した温かさを、またこの手にしてしまったから。離せない。

 そのどれもが本心。どれか一つの道しか選べない。私は一人なのだから。分身できる訳ないのだから。


「……私、神威くんのお部屋に泊めてもらったじゃない?」

「うん……何だっけ? 何か不思議なこと言ってなかった?」

「神威くんのね…、何て言ったら良いか。カーテンの色とか天井の感じとか。壁に掛けてあった写真とか本棚にあった本とか。匂いとか服とか、神威くんを取り巻く、とにかくいろんなことを記憶して、焼きつけて、ね。私は残りの人生、それだけで生きていけやしないかと思ってた。寂しくなったら思い出から少しずつ少しずつ取り出して。そうして――」


 体育座りの礼ちゃんは、そこで息を継ぎ、自嘲気味にフル、とかぶりを振った。無理だったの、と。


「カムイを連れて来てくれた人から、神威くんの写真を貰ったの。うちのお母さんの職場で撮られた写真。私、それを見て……。傷が綺麗に治ってると分かった瞬間、神威くんに逢いたくてたまらなくなったの」


 逢いたくてたまらなくなったの、か。

 絞り出す様な礼ちゃんの声が、脳内をリフレインしていく。

 ただ“好き”だという表現の他に、そんなにも胸が痛くてちぎれそうで、自分だけではどうにもならない感情を俺も確かに持ち合わせてた。礼ちゃんが傍にいなかった、つい昨日まで。


「そうやって、苦しい想いの中で決めた何かを。私は簡単に、自分に都合の良いように翻そうとする。そんな自分が、とても嫌。神威くんみたいに、なりたいのに」

「え。俺?」


 礼ちゃんの言葉はまだ続きそうだったのに、熟考するより前に反射が口をついて出た。俺? 何故?

 体育座りの両膝に顎を乗せて海を見ていた礼ちゃんは、顔をこちらに向ける。眉尻を下げて、言いにくそうに、ゆっくりと口を開いてく。


「バレンタインの日に。神威くん、告白されてた」

「……は?」


 俺は立てた膝の上に頬杖をついて顔を乗せていたけれど、何かのコントみたく、頬杖は膝から、顔は頬杖からずり落ちた。

 ちょっと、止めて、礼ちゃん。ベタな、とか言うの。


「な…ん、で」

「偶然いたの、あの場に。見てはないけど、耳に入ってきたの。ちょっと……立ち去るタイミング逃して。悪趣味で、ごめんなさい」

「いや、そんなの……」


 俺はそう口にしながら、四ヶ月近く前の記憶を必死に手繰り寄せる。告白、って…昼休み、だっけ? いや、礼ちゃんの姿は…、放課後? 何て言って断った? 泣かせたのは、確かだ。忘れたい記憶は、二度と思い出しにくい様に脳の奥底にしまわれるから。


「……えー、っと。嫌な気分になったでしょ?」

「ううん。神威くんが綺麗な理由が分かった」

「礼ちゃん……、説明プリーズ」

「神威くんは。凛としててしなやかで、涙とか負の感情にも空気にも迷いなくきちんと応じてて。逃げてばかりいる私とは大違いで。内側の美しさが投影されてるんだな、って」

「ちょっ、待って待って礼ちゃん! 美化し過ぎ! 前から薄々思ってたけど、礼ちゃん、俺のこと美化し過ぎ!」


 そんなことない、と礼ちゃんは即座に異論を唱える。却下! と、俺は礼ちゃんの左頬を摘まんだ。うわ、やわやわ。


「は、はひ……」

「俺がどんだけヘタレなんだか礼ちゃん、分かってないよ。いや、自慢になんないけど、こんなの」


 痩せっぽっち礼ちゃんから想像つかないほど、頬っぺたやわやわ。指に吸い付く感覚が気持ち良い。女の子って、不思議だ。

 俺は破顔していたんだろう、礼ちゃんの眉間に皺が寄って目が細められる。慌てて手を離すと、真面目な話をしてるのに、と怒られた。


「ごめん、礼ちゃん。俺も至って真面目。ガキで迷ってばっかで人との関わり方もろくに知らなくて、足掻いてウダウダで。挙げ句、仏頂面の無愛想だわ、狭い世界で短絡思考でのほほんと生きてきた俺がね? 一千億分の一にもそんな風に見えたんだとしたらそれは、礼ちゃんのせいだよ」


 左手を頬に添えたまま、礼ちゃんはしばし固まった。


 俺と礼ちゃんの眼前に広がる180度の大パノラマは海の碧と空の蒼。地平線も水平線も遠近感も分からなくなって不思議な異空間に二人だけで存在しているみたいだ。


「……恋は盲目、ってこと?」

「ぶ。そうだねぇ、礼ちゃん、俺のこと大好きなんだもんね?」


 うん、と頷いた礼ちゃんは引き続き考え込む。

 スルーだね、大好き、ってとこ。ちょっと寂しいんですけど。

 あ、でも耳たぶが紅い。そっか、髪が長い時はあまり気づけなかった。礼ちゃん、耳まで紅くなるんだ。新発見。


「俺、礼ちゃんの彼氏だから」

「? う、ん……」

「凛としてしなやかでありたいじゃん、迷いなく逃げずにさ。そう思わせてくれるのは礼ちゃんだし、そんな風に見えるのは礼ちゃんのおかげ、ってこと」

「神威くん……」

「ただそれは、俺だけがどうありたいか、ってことでね? 礼ちゃんとこの先どうなりたいか、とか礼ちゃんにどうあって欲しいか、とかはまた別なんだよね」


 そう、思い出せ、俺。礼ちゃんへの気持ちが恋なんだと気づいた数ヶ月前に俺はどう思ってた? 理想だけれど、なかなか上手くいかないけれど、俺達は何度でも生まれ変わっていけるはずだから。礼ちゃんを起点にして、何事も考えていきたいと思ってたんだから。


「……もう、逃げないで欲しい、ってこと? 勿論、それは私も―—」

「それもあるけど、それだけじゃないよ」


 礼ちゃんはきっと、この話の行方が分からずに動悸が速くなってるに違いない。口内が渇いちゃう感じ? 唇を固くつぐんで湿らせると、何か言いたげに息を吸い込む。でも結局、何も聴こえてこなくて、海から吹き上げる風が耳の横を通り過ぎるだけ。


「ね。礼ちゃんは、どうして逃げたくなったんだろ?」

「……いっぱいいっぱいになったから。他の解決策を、知らなかったから。弱くて、そういう生き方しかしてこなかったから。こんな経験、したことなかったから」


 俺から目を逸らさずに、つかえることもなく、礼ちゃんの口から滑らかに紡がれる答え。


「礼ちゃん、ちっちゃいからさ。すぐキャパオーバーになっちゃうでしょ。でも俺がさ、礼ちゃんの抱えてるもの持ってあげられたらそこに、余裕が出来るでしょ」

「……はい」

「え、何? 改まって。とは言え俺は基本的にヘタレなので、俺だけで無理だったら、武瑠も心も姉ちゃんも葛西先生も……妹尾さんも。みんな、いるんだからみんなで。みんなと、生きてけばいいじゃん」


 万葉、と漏れた呟き。礼ちゃんは俺から視線を逸らし、真正面を見据える。瞳を覆ってる涙で滲んで、きっともう、海だか空だか分からないくせに。


「……待ってるよ、妹尾さん。礼ちゃんのこと、ずっと待ってる。いつも独りでいて、礼ちゃんの居場所空けて」

「……でも、私、学校――」

「3年1組、御子柴 礼ちゃん。戻れるよ。戻ろうよ。受理されてないよ、礼ちゃんの退学届。葛西先生の机の引き出しに入ったままだ、って」

「私、お母さんにちゃんと—―」

「あー、困った人だね? 礼ちゃんのお母さんは。預ける人、間違ったんだね」


 とは言いながら、実は礼ちゃんのお母さんは結構策士なんじゃないかと思ってる。子どもを積極的に退学させたい親なんて、この世にいる?


「……でも、簡単にそんな……。おばちゃん達に申し訳が―—」

「うん。キヌさんにもスズさんにも、ちゃんと謝ろう? 俺も一緒に土下座する」


 どうして? と目を見開く礼ちゃんへ俺はちょっとにじり寄り、細い肩へ両腕を回して包み込む。耳の近くで喋るから、今からの俺の言葉、礼ちゃんの脳に深く刻まれればいい。全くもって、エゴだけど。


「礼ちゃんを連れて帰りたいから。俺も平身低頭、お詫びします。俺、さっき格好良いこと言ったけど実際は、手を伸ばせば届く範囲とか、歩いて逢いに行ける距離とかに礼ちゃんがいてくれないと、どうやって生きていってんのか、分からないんだ。ここんとこずっと、そうだった」


 礼ちゃんの両手がゆっくり俺の背中へ回って、ごめんなさい、と溜め息の様に零れた。


「戻ろうよ、礼ちゃん。礼ちゃんが調理師さんになるの、先延ばしに出来ない? 高校卒業して、一緒の大学行って、俺のお嫁さんになってからでも良くない?」

「……お嫁さん……」

「……うん」

「……お嫁さん?」

「……そう。何回も繰り返さないでいただけますか」


 恥ずかしいんだけど。

 言って、喉元をゴクリと唾が通った瞬間、俺の背中へ回されていた礼ちゃんの手が感触を消し、そろりと俺の胸の前に現れた。礼ちゃんはその両手を使って、俺の腕の中に埋もれていた上体をゆっくり起こす。

 ほんのちょっと出来た空間。俺、先走り過ぎた? 俺が考える“未来”と礼ちゃんのそれでは、物凄い乖離率が生じてますかね?


「……本気? 神威くん……、」


 俺は少し顎を引いて礼ちゃんを見下ろした。礼ちゃんの目線は俺の喉仏辺りに置かれていてあぁ、でも、礼ちゃん耳まで真っ赤だ。何となく、安心。嫌悪感あらわ、って感じじゃないし。いやいや、嫌悪感とか見えちゃったら、俺、海に飛び込むけどね?


「俺、こんなの冗談で言えるほど器用じゃないよ」

「ご、ごめんなさい、あの……、そんなつもりじゃなくて…や、そんなつもり、の、そんな、って何なのか、って訊かれると困るんだけど、その、からかうとかじゃ」 

「うん。ちょっと落ち着こうか? 礼ちゃん」


 変わらず目を合わせてくれない礼ちゃんを見下ろしてるけど、その慌てっぷりに思わず、ぶふふ、と噴き出してしまう。

 だって礼ちゃんがこんなにアワアワしてる姿って俺、初めて見るかも。

 今日だけで新発見、二つ目だな。あぁ、ほら、こうやってどんどん俺だけの礼ちゃんを見つけていきたいんだよね。独占欲が強いガキ、って、きっと葛西先生はダメ出しするだろうけど。


「な、何…なんで笑ってるの神威くん? え、あ、私、からかわれてたの? どうしよう、って…あ! 別に嫌な訳じゃなくてね? どう答えたら良いのか真剣に真剣に考えてた―—」


 そりゃあ早口で捲し立ててたとこだったから礼ちゃんの口は開きっぱなし。俺は下の唇を小さく食んだ。これでもか、ってくらい目を瞠ってる礼ちゃんに俺はまた、ぶふふ、と堪えきれず笑いを漏らした。


「か、神威くん…ちょっ、と…何か、」

「何? 何ですか?」

「……お、おかしい…よ?」

「うん。もう、何か壊れそう」


 は? と礼ちゃんは間抜けな声を出す。どこから出てるの? その声。いつもより1オクターブくらい高いけど。ヤバい、俺のにやけ顔は礼ちゃんの呆れ顔を助長させてるだけだ。


「ごめん、ごめんね? こう……礼ちゃんの頭皮? 地肌まで紅くなってたからさ」


 え。

 更に目を剥いた礼ちゃんは両手の細い指をサラサラの髪へ差し入れる。いや、そうしたところで見えないでしょ、頭皮。あ、どれくらい熱を持ってるか、は分かる?


「そんなとこまで照れるくらい。礼ちゃん、俺のこと好きでいてくれんのかな、って思ったらさ。何かもう、嬉しくて」

「う……」

「何かもう、幸せだなー、って。あ、こんなセリフ、懐メロになかったっけ? 違う? キヌさんスズさんなら知ってるかな?」

「……う、ぅーっ……」


 ……え、え、え?! 何で何で何でっ?! 泣く?! 泣いてる?!

 いつの間にか、礼ちゃんの細い指は髪の毛を通り抜け、顔全体が覆われていた。

 やば。どうしよう。や、テンションに差があるかも、とは薄々思ってたけどどうしよう。どこから軌道修正すれば?


「……礼ちゃん? あの……、」


 どうして? と確かに俺の耳に届いた、礼ちゃんの声。どうしよう俺、ちょっと焦ってるから声音から感情が聞き取れない。更には両手が阻んでくぐもった音だし。怒ってる? 悲しんでる? 呆れてる?


「どうして、そんなに、サラッと越えるの? 何もかも……余裕で! 私、話についてくだけで必死なのに!」

「え、何? 何の話?」


 怒ってる。うわ、礼ちゃんが怒ってる。初めてだ、怒りのオーラ。表情はいまだ見えないけれど、指の隙間から俺に届くのは怒声だ。


「何なの? もう! お嫁さん、なんて真剣な話かと思えば茶化したり! 神威くん、何か余裕で! いっつも! 私の方がずーっと神威くんのこと好きだから! 考え過ぎて、何にも! 上手く言葉が出てこないのにっ!」

「ちょっ、違っ! 礼ちゃん! 顔! 顔見せて?」

「嫌!」


 目一杯、拒絶された。うわ、これまた初めて。

 あぁ、もう、俺、本当にヤバい。これで初めてが四つ目? とか思って頬が緩むんだからヤバい、緊張感不足。礼ちゃん、こんなに怒ってるのに。

 礼ちゃんの指は、その小ささと細さに反して、顔から引き剥がそうとする俺の力に抵抗してくる。濡れた感触は、涙のせい。


「礼ちゃんっ、本当に、マジで! 顔見せて!」

「いーやーだ、って!」

「……あ、そ。じゃあ、気が済むまでそうしてて」

「……っ」

「俺、ずーっとここにいるから。名づけて“天岩戸作戦”ですよ」

「……名づけ方 間違ってるわよ」

「あ、意外と毒舌ー、礼ちゃん」


 俺は胡座をかいて礼ちゃんを見据える。体育座りの両膝に両肘をついて顔を両手で覆ってるけど指の隙間から俺のこと見てるでしょ。


「こんなに長い時間、礼ちゃんと話すの って初めてだよね? 良いよね、話す程に仲良くなれるっていうかさ?」

「……今、険悪ムードでしょ」

「あ、そう? 俺、それすら新鮮だけどなー」


 本当にザザン、って聞こえるんだな、波の音。俺の表現力の問題じゃなくてさ。

 穏やかに吹く風は海面を撫で小さなさざ波を作り出し、所々の水分が風と遊んで白いうさぎが飛び跳ねてるみたいだ。


「……あ。うさぎ」

「………え?」

「礼ちゃん、なんであの絵本 好きなの? うさぎの絵本………、あ」


 何で知ってるの。

 心底、驚いた表情の礼ちゃんが俺の目の前に現れた。おっと。手、掴んどかなきゃ。


「はい、こんにちは」

「……作戦? これも?」


 途端に礼ちゃんの眉間に深い皺が寄せられる。俺は片手で礼ちゃんの両の腕を纏めると、空いた右手の人差し指で皺を標的にパチンと弾いた。


「―――っ!」

「バッカじゃないの? 礼ちゃん」

「……バカって言う方がバカなのよ」

「あ…くそ。子どもか」

「子どもだもん。だからお嫁さんにはなれないわ」

「んー……困ったちゃんだ、礼ちゃん」

「……そうよ。こんなの序の口よ。きっともっと、嫌な私が見えて」

「でも好きになってくばっかだな、俺。本当に困った」


 礼ちゃんの眉間にそっと指を当て、深く寄せられた皺をグニグニ伸ばしてみた。あ、デコピンの跡、赤くなってる。ごめんね。や、まだまだ顔全体、耳やら頭まで紅いけど。


 長い睫毛はまだしっとり濡れていて黒々とした瞳もウルウル。数瞬、脱力した礼ちゃんは、今度は眉尻を下げた。コロコロ変わる表情にもニヤけそう。


「……見てるだけで、良かった。最初は」

「ん?」

「神威くんのこと。噂の中心にいて、いつもキラキラしてて、みんなは無愛想だ、クールだ、って騒ぐ。でも私は神威くんの優しさに触れたことがある。そんな密かな自慢を抱えて……そう、思っていて。それだけで、良かった」


 礼ちゃんは俺に腕を委ねたまま、小さな頭を左右に振ったり、瞬きを繰り返したり、溜め息を吐いたり。そんな一つ一つの所作は、礼ちゃんが今、言葉を丁寧に丁寧に選び出して心情に添わせようとしているサイン。

 何一つ、見逃しちゃいけない気がした。礼ちゃん、脳内で独り、物凄く自問自答する人だから。


「……私は小さなコミュニティで育って、それはどこででも通用する人づきあいではなくて。女子ともあまり仲良くなれなかったから。ましてや、神威くんとなんて、近づく術すら分からなかった」


 あの日、図書室で。

 柔らかな声で、遠く澄んだ空を舞う小さな影を目で追いながら、礼ちゃんの両の膝はペタリと広げられていて、その無防備な様は儚げ。


「……神様は、いるんだと思った。神威くんと、三年間一度も話せずに終わるのは、あまりに寂しいと思ってたから。でも一度話したら、もっと話したくなる。もっと、って、次は、って。そんな風に自分が思うなんて」


 ゆっくりと俺に戻ってきた大きな瞳。黒目の部分で真っ直ぐに俺を捕らえてくれているのが分かる。風が礼ちゃんの短い髪を横へ靡かせて、それが時々 邪魔をするけど。


「恋愛沙汰は苦手。お母さんを見て、そう思ってた」


 礼ちゃんの視線が手元に落ちる。俺もつられて後を追う。知らず知らず強く握りしめていた礼ちゃんの手首を俺は慌てて離した。ごめんね、と擦りながら。


「自分の気持ちを……言葉で表す、ってただでさえ下手なのに。どこか…、笑って誤魔化してきたのに。相手が神威くんだとなおさら、嬉しいとか、ありがとうとか、また逢えたら何を言おうとか。考えてたのに、考え過ぎて、結局、何も……、」


 また小さな溜め息。あ、でも礼ちゃんの口元は緩んでいるし、眉間の皺も消えている。途方に暮れてる感じ? そういや、何の話をしてたんだっけ?

 俺、さっきから言いたいことあるんだけど、口に出したら礼ちゃんまた怒るかな。


「……何?」

「ん?」

「何か言いたいことあるんでしょ? 神威くん」

「あ。分かる? いや何だかさ、さっきから礼ちゃんの言葉を聴いてるとさ」

「……何?」

「俺のこと、好き、って言われてる気しかしてこなくて―—」

「……はぁ」

「え、呆れた?」


 しばし俺を見つめたままの礼ちゃんは、ふふ、とそれは可愛い笑顔を浮かべる。背景に花が咲き溢れるかと思う様な、あの俺が大好きな笑顔。


「そうなんだけどね? 当たりなんだけど。神威くんのこと、その…好きだから、上手く言えない気持ちとかもどかしさとかヤキモチとかあって。初めて尽くしでどうしたら良いのか」


 言いながら礼ちゃんは両腕を組んで頭の上へ思いきり伸ばし、上体を反らした。

 あの、礼ちゃん。そのピタッとしたTシャツ、身体のラインがめちゃめちゃ分かりますけど。いや、俺にも理性くらい、あるんですけど。

 なんて妄想していたら、ムカつくわ、と言われた。

 え、脳内思考、読まれた? たおやかに日本語を操る礼ちゃんの口から、あまり馴染みのない言葉。


「そんなシンプルに纏められちゃったら、何だかムカつく。私一人ジタバタして、神威くんのこと好き過ぎて、滑稽だわ」


 俺は立ち上がり膝を伸ばす。どれくらいの時間が経ったんだろう、長くなった影が夕刻であることは教えてくれている。座っている礼ちゃんへ、ん、と右手を差し出した。

 そこに言葉が無くても、伝わる想いってあるよ、礼ちゃん。こうやって、礼ちゃんがちゃんと俺の手を掴んでくれるように。


「俺だって、しょっちゅうジタバタしてるよ。さっきだって、働いてる礼ちゃんの姿を見たらもう、俺の傍には戻ってきてくれないんじゃないか、って。焦って」

「……それは……、ごめんね。迷ってたから、私。すぐに連れて帰って、なんて言えなくて」


 俺は左手で礼ちゃんの右手を握り直し、元来た道を辿り始めた。


「……今は? 戻ってきてくれる?」

「うん」


 よく出来ました、って言いたくなるくらい躊躇いも変な間もない即答だった。俺はパンツの後ろポケットから携帯電話を取り出す。不思議顔の礼ちゃんへ、ちょっとごめんね、と断りを入れて着信履歴から発信した。


《もしもし? 神威?》

「あ、葛西先生。今、大丈夫で――」

《御子柴と代わって》


 華麗なる大人の男っぽいお伺いをたててから話し出そうとした俺の出鼻は、見事に挫かれた。何ですか、いきなり。礼ちゃんに代わって、なんて。


「……先生。前から思ってたんですけど。礼ちゃんのこと、かなり好きですよね?」

《……そんなことない。神威と同じくらい、好き?》

「何ですか? その間! しかも疑問形!」

《いや、ただ……》

「……ただ?」

《御子柴、早く卒業しないかなー、とは思っ》

「わあっ、もー、信じらんねーっ!」


 俺の叫び声は、冗談だから早く代われ! という低い声に遮られた。俺は渋々、礼ちゃんへ携帯電話を手渡す。あ、しまった。スピーカーホンとかにして渡せば良かった! はい、とか、いえ、とか、ご迷惑を、と言いかけて、ご心配を、に訂正させられたあたりまで、何となく話の流れは見えたんだけど。

 礼ちゃんの顔は見る間に紅く染まり、火照ったそれから蒸気でも噴き出すんじゃなかろうかという様。じと目で見つめていると、顔を逸らされたし。覗き込もうかとした瞬間、目の前へ携帯電話が差し出された。神威くんと話したいんだって、という言葉が添えられて。


「先生、本当にもう、やきもきさせないで下さいっ! 俺、寿命縮むから!」

《あぁ、神威が早逝した暁には俺が責任を持って御子柴を》

「っ、長生きしますっ!」


 ぶ、と左耳に入ってきた礼ちゃんが噴き出す音。あー、もう、ほら俺の方が礼ちゃん好き過ぎて余裕なくて可笑しなことになってんじゃん! ちょ、握ってる手、指絡ませたりしないでくれますか! 汗! 手汗! 噴き出すからね!


《良かったな。一緒に戻って来るんだろ?》

「はい。月曜日から…、良いんですよね?」

《勿論。さっき御子柴のお母さんとこ電話したから神保先生に連絡入ることになってるし……ね、神威》


 礼ちゃんのお母さんの顔が浮かぶ。見てね、と言いながら俺に雑誌を手渡してきたあの時の。しれっ、としてたけど、心中でどれほどほくそ笑んでたんだろ。手玉にとられてる感じするよな。


《御子柴のお母さんから訊かれたんだけど。学生同士が結婚するのは校則違反なんですか? って》

「……わお」

《わお、じゃねーよ! 残念ながらうちの場合、校則違反だからな。卒業するまで待っとけ。いや…、》

「……いや?」

《何年先になるのかな。御子柴、迷ってるから》


 ………ぐ。持ち上げては落としてくれちゃうな、本当に。でも、と繋がった葛西先生の穏やかな声は、また持ち上げてくれる?


《願うんだろ? あのうさぎみたいに》

「……願いますよ、目一杯。力一杯。俺は白い方か黒い方か分からないし、世界にうさぎはたくさんいるし、うさぎ以外もたくさんいるし、あんな純粋じゃないし、ガキだし、願ったからって必ず上手くいくとは限らないけど」


 でも。

 俺は今や、携帯電話の向こう側ではなく、左隣の存在に向けて語りかけている。

 悲しいことがあっても、どれほど苦しい想いを抱えることになっても、泣きたくても泣けない歯がゆさがあっても、居たたまれず地団駄踏むことがあっても。

 ふふ、って笑ってくれるだけで、暗い気持ちは浄化されていくんだ。

 思いやりって、こういうこと。優しさって、こういうこと。愛しいって、こういうこと。出逢ってからもらった、幾つもの知らなかった気持ち。

 生き方も表現も下手っぴで、泣き虫の、でも強がりの、大好きで、大切な、礼ちゃん。


「願わないと礼ちゃんには通じないから。強く願ったら同じ想いになってくれるかもしれない。いつもいつもいつまでも、ってそういう原動力で突き動かされていく俺は、本当にガキだと思うけど、最後には、みんなに祝福されたいです」

《……あーあ。アラサーには辛いわ、その真っ直ぐさ。やり直せない切なさを痛感させられる》


 ふう、と笑いを含んだ溜め息をわざとらしく吐いた先生は、気をつけて帰って来いよ、と締めくくった。パチン、と右手で携帯電話を閉じると、左手の五指がクイクイと圧される。


「私もよ、神威くん。綺麗なばかりの世界じゃないから、あんな風にすんなりといつまでも幸せに、なんて難しいことなんだ、って今の私には、分かってる。でも、想いを通じ合わせることが出来るってことも、分かってる」

「……そうだね」

「……今はまだ自信がなくて、お嫁さんは考えられないけど。あ、でも未来は差し上げますので」

「ぶ、何だそれ」

「神威くんが他の誰かを選んでも、私はずっと独身でいる、ってこと」


 冗談かと思ったけど、真っ直ぐ前を向いて淀みなく口をつく礼ちゃんの言葉は至って真剣らしい。


「バカじゃないの、礼ちゃん」

「だからね、バカって言う方が」

「いーよいーよ! 俺もバカだよ! バカップルだよ俺らは! 礼ちゃんとの未来じゃないと意味ないし! 何なんだよ、礼ちゃんが俺のこと捨てるかもしれないだろ!」

「失礼な。私はそんな無体なことは致しません」

「む、無体って…、何時代の人だよ」


 ふふ、って悪戯に口角を上げ笑う礼ちゃんがやけに艶めかしく見える。こんな表情も初めてか。いや、こんな風にふざけたり、弄ったりしたのも初めてだ。

 気づけばスズキヌ屋さんの前。俺達は顔を見合わせると、どちらからともなく指を離した。店の中では厨房の掃除を終えたのか、皆が集まって談笑している姿が見えたから。

 ただいま、と戸を開けて言う。おかえり、とあちこちから当たり前の様に返ってきた。そんな細やかなことが、堪らず嬉しかった。



 おばちゃん、と確かに礼ちゃんは口にした。けれど、ものの見事にキヌさんの大きな声に阻まれた。礼、あんた、と。


「早く荷物をまとめといで」

「おばちゃん……?」

「今夜のうちに戻った方が良いよ。明日から天気が崩れるからね」


 大雨だってさ。

 スズさんの声も繋がって、礼ちゃんは瞬間、何も言えなくなって立ち尽くす。厨房の掃除をしていたのは心と武瑠なのだけれど、父ちゃんと姉ちゃんまで店内の憩いスペースで呑気にお茶なんか啜っている。


「……おばちゃん、私……、遊び半分な気持ちだった訳じゃ……、だ、だけど」


 頑張れ、礼ちゃん。俺は心の中で懸命に声援を送る。さっき、握っていた手を離される少し前。私から言わせてね、と可愛く小首を傾げてお願いされれば、是、と頷くしかない。うん、こういうのが惚れた弱み、ってやつね。


 けど、なんだい。

 今朝、初めて逢った時と同じ様に勢いのある言葉が礼ちゃんへ向けられた。ちょっと荒々しく聞こえなくもないんだけど、丸っこいキヌさんスズさん同様に刺がないことは分かってる。二人共、わざとなんだろうか。忙しなくシンクやコンロを磨き上げている手を止めないのは。それとも日課なんだろうか。


「……私、いろいろ、逃げてきたけど。本気で、本当にここで経験を積ませてもらって……、あの、試験を受けて……」

「あたしらを手伝うつもりでいたってのかい?」


 礼ちゃんはゆっくりと首を縦に振った。途端に飛んできた、冗談じゃないよ! という二重奏。二人共、礼ちゃんのこと見てなさそうなのに。


「やだね、キヌちゃん。礼に心配されちまったよ、あたしら」

「全くだよ、スズ。落ちぶれたもんだね、あたしらも」


 だって! と礼ちゃんの澄んだ声が店内へ響く。

 未だ所在なげに立っている俺。各々が椅子に座り、事の成りゆきをただただ静観している四人。

 礼ちゃんを纏うオーラは、もどかしさから来る怒り?


「心配もするわよ! おばちゃん達だって昔より歳とって、背だって私の方が大きくなったし! 結婚してなくて子どももいなくて、この先どうやってお店切り盛りしていくの? 私のこと助けてくれたんだもん! 恩返ししたいと思っちゃいけない?」


 シンクを磨く手を止めて、キヌさんは礼ちゃんへ向き直る。倣う様にスズさんも。

 何だろう、亀の甲より年の功、なんて言うけれど。ちっちゃな身体から発される覇気は圧倒的。


「……恩返し、かい。それなら、戻りな、礼」

「そうだよ。そこの、わざわざ迎えに来てくれた、けったいな子たちと一緒にさ。家に、戻りな」


 俺は入口近くに陣取り礼ちゃんの後方で小さな背中を見ていたけれど、小刻みにプルプルと震えているのが分かった。前方に目を向ければ、礼ちゃんの表情が見える位置に座っている父ちゃんと姉ちゃんの眉がひそめられている。


「……私、邪魔だった? 小さい頃もそうだったもんね。お母さんから押しつけられて仕方なく私のこと―—」


 ……あぁ、礼ちゃん。それはきっと、違うよ。俺、口出ししても良い? 目の前でヨーイドンが聞こえないまま始まっちゃったから、タイミング逃してるけど。

 そんな俺を知ってか知らずか、制止したのはキヌさんの静かな声。


「……あんたは知らないだろう? 今回 ユキはね、電話を二度寄越してる。礼が傷ついてるからよろしく、っていう不躾で勝手なお願いが一度目」

「それから少しして、夜中にかかってきたねぇ、我儘な電話が。礼が18になるまでに、きっと迎えが行くと思う、なるべく早く見つけさせる。礼が腑抜けになっちまった理由を捲し立てて、挙げ句には私に母親らしいことをさせてくれ、だとさ」


 ユキ、という初めて耳にする名前は、きっと礼ちゃんのお母さんのそれだ。


「あんたの母親は、本当に昔から勝手で我儘だよ。だけどね? 礼。あたし達は自分達で決めてきた。結婚しないのも、子どもがいない人生も、この店をやるのも。昔も今も、あんたを預かることだってユキに頼まれたからじゃないさ」


 礼ちゃん、ほらほら泣いてる場合じゃないでしょ。ぽすん、と小さな頭をスズキヌさんの各々の肩へ預けて、ごめんなさい、と掠れた声で告げている。


「……礼。子どもはね、人と共に生きるべきなのさ。急いで大きな人になる必要はない。本来、高校生のあんたがこんな片田舎の店で細々働くなんて不健全 極まりないよ」

「……私、狡くて、っ…ごめんなさいっ…! お、おばちゃん達と、一緒に、働きたいのも…本気っ…け、ど! 神威くんと……っ、も、どりた―—」


 分かってたよ、分かってる。

 スズキヌさんの節々が目立つ働き者の掌は、優しく優しく礼ちゃんの頭を撫でていく。

 あんたの本気くらい、分かってたよ。あんたが今一番どうしたいかくらい、分かってる。

 こんな温かな言葉をかけられて、涙腺緩まないヤツがいたらお目にかかりたいな。


「あたしらの心配なんざ、まだまだ早いよ。出直しといで」

「そうだよ、この店の看板娘はあたしらだよ。まだまだ譲らないからね」


 ほんのちょっと悪態をつく様に、おどけた声音で話を締めくくろうとするスズキヌさん。俺は立っていた場所から大きく一歩足を踏み出し、礼ちゃんの背中をポンポンと撫でた。


「……キヌさん、スズさん。俺も大概、子どもなので」


 見りゃ分かるよ! と即答された。図体ばっかりデカイんだろ、と。

 父ちゃんが苦笑しながら、不肖の息子でして、と頭を掻いている。


「大概、勝手で我儘ですが、礼ちゃんを連れて帰らせて下さい。17歳の、高校生は、今しか出来ないことですし。礼ちゃんが傍にいないと、俺、息も上手くできない大バカなので…、もちろん何年かして礼ちゃんがここへ戻りたいと考えたら俺ももれなくオマケで付いてきます」


 おばちゃん、オレ達もオマケかも! と間髪入れず、武瑠の明るい声が上がった。それを聞きながら、お願いします、と深々と頭を下げた。


「……包容力なら心ちゃんの方がありそうだけどね」

「店 手伝うってんなら武ちゃんの愛嬌が要るだろ」

「……俺、認めていただけない感じですか」


 ……そうですか。礼ちゃんのお母さんというラスボス以外にもスズキヌさんという手強い中ボスが。あぁ、前途多難。

 うちひしがれた俺は、ヒヒヒ、と声にならない声でもってスズキヌさんがお腹を抱えていた姿に、上手く気づけなかった。


 話はこれでおしまい、という合図の様に、スズさんは手をパンパンと威勢良く叩き、さ、支度支度、と礼ちゃんの身体を促す。


「……おばちゃん、大好きよ。今まで、本当に、ありがとう」


 キヌさんもスズさんも、背中へかけられた礼ちゃんの震える声に瞬時、歩みを止める。振り向き様、バカだね、と零れ落ちた。


「嫁に行く訳じゃあるまいし! 縁起でもないこと言ってんじゃないよ!」


 ……や、えーっと。お嫁さんにしたいんですが。


「あんた、そんな弱っちろい男の言葉を真に受けてんのかい? 駄目だよ! 独りででも生きてける技術を身につけなきゃ」


 ……うん。もう少し、筋肉つけよ。


 そんな俺の脳内反論などお構いなしに、礼ちゃんはクツクツと笑いながらそうね、と応えていた。



 ***



「……後悔してる?」


 礼ちゃん、と問えば、車内の薄暗さよりももっと深く艶のある黒い瞳に、じ、と見つめられた。


「どうしてそう思うの?」

「質問に質問で答えないでよ。意地悪小悪魔」


 冗談半分、笑いを含んで言ったのに、悪って字が二つもあるあだ名は酷いわ、と切なげに返された。

 すみません、本当に。とか謝ればぶふふ、と悪戯に笑ってるもんだから、してやられた感がある。


「人間は後悔する生き物なんでしょ、神威くんが言ってたわ。もう一つ言えば、この世に絶対、は無いとも」


 俺達は7人乗りのワゴン車真ん中座席に並んで座っている。

 運転手は父ちゃん。助手席は姉ちゃん。後部座席からは武瑠と心の柔らかな寝息。

 す、と礼ちゃんの右手の指がダラリと身体に添わせていただけの俺の左手に触れてくる。ズルいな、礼ちゃん。たったそれだけで俺の胸の奥の深いところを抉って連れていかないで。


「……後悔は。するかもしれないわ、いつか。でも、今はしてない」


 うん。

 頷くと、ついには礼ちゃんの指が俺の指を掬う。

 やっばいな。俺、どれだけ礼ちゃんに飢えてたんだろ。


「神威くんと、一緒にいる。絶対」

「……え?」

「絶対、っていう未来を預けたんだから。だからもう、そんな不安な顔しないで?」


 ねぇ。

 大好きで堪らない子に、しかもずっと逢いたくて逢えなかった子に、至近距離で、大きな瞳に真っ直ぐ射竦められて。何だか“好き”よりもっと深い言葉向けられて。それでも理性を保てる青少年向け講座があるなら! 誰か今すぐ! 俺に教えて!!

 俺の身体は、礼ちゃんという魅惑の引力に逆らえない…、すみません、格好つけて言いました! 指を振りほどき、礼ちゃんの華奢な肩をガバ、と掴んで引き寄せようとしたところで、前方から鋭い罵声が飛んできました。


「狭い車内で盛ってんじゃねーぞ! このエロヘタレ!」

「……ぅ」

「うわ、美琴、辛辣ー」


 寝入る二人を慮ってか、抑え気味にクツクツ笑う父ちゃんと、怒り心頭、ヘッドレストの隙間越しにじと目を送ってくる姉ちゃん。


「なぁ、ミコちゃん。本当にこんなんで良いのかー? 考え直すなら今」

「父ちゃん? こんなん、て……」

「そうよ、ミコちゃん。こんなしょっちゅう盛られたんじゃ壊れちゃうわよ!」

「……だって! 礼ちゃんが」

「わ、責任転嫁?」

「待て待て美琴、神威の言い分も聞こうじゃないか」

「とっても可愛いのが、悪い」

「……怖っ! 引く! ドン引き!」

「……いやここまでバカだとは」

「もう何とでも言っちゃってくださーい」


 俺達の軽快なやり取りを、礼ちゃんはしばしパチクリ目で静観していたけれど、やがてはシートへきちんと座り直し、運転席の後頭部を眺め、ポン、といかにもな仕草で手を打った。そうか、と。


「いつか神威くんのお嫁さんになれたら、私にもお父さんができるのね」


 それは素敵、念願叶う、と微笑む礼ちゃん。

 ええええー……俺、どんなリアクション返したら? そこ重点ポイントに据えられてもさ! わー! 父ちゃんにそんな熱い視線向けないでよ!


「ミコちゃん…その、無邪気な喜びようは本当に嬉しいんだけど」

「その節はよろしくお願いします」

「うん、勿論…って、神威、背後から冷気送ってくんじゃないよ」

「神威くん、どうして急に不機嫌?」

「え、無意識? もうこれだからー」


 街灯の少ない暗闇の中を、細くてクネクネした田舎道にも拘わらず父ちゃんの軽快なハンドル捌きで車体は進んでいく。

 一度、通った道。でも今は、違う顔ぶれで通る道。

 礼ちゃんの足元のケージ内に寝そべるカムイも車酔いには無縁なようで、クウクウと静かな寝息をたてていた。


「私、18歳になったら運転免許とりますね。そうしたらお二人にばかりお任せしなくても」

「わ、聞いた? お父さん!」

「流石だなー、良い子だなー、ミコちゃん! 神威とは大違い」

「え」

「もー、何」

「神威、18になったらミコちゃんと結婚するんだ! って。バカの一つ覚え」

「大丈夫? こんなエロヘタレバカ」

「ちょっ、何か増えた!」


 戻ろう。俺達の日常へ。

 ちょっと壊れてしまったけれど。ちょっと脱線したけれど。

 それだからこそ、強まった想いって、あると思わない?

 そうして描き直そう。俺達の未来。

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