恋の病

「礼ちゃん、俺、明日は休むから」


 妹尾さんと一緒に帰ってね、と伝えると、礼ちゃんは一気に顔を曇らせ、トーンの落ちた声で訊いてきた。


「……何か、あったの?」

「あ、心配 要らないよ。母ちゃんを病院に連れてく日なんで」

「病院? どこか、お悪いの?」

「んー、今、悪いんじゃなくてね。再発してないか、の検査。定期的に行ってるんだ」


 再発、と礼ちゃんは俺の言葉を反芻する。たちまち悲しげに彩られる表情。


「お母さんは身体が弱い、って。言ってたね、神威くん。私、いろいろ無理させてたんじゃない? お忙しいのにお邪魔して、お母さんに…、神威くんにも」

「ちょ、ストップストップ」


 昼休み。

 今日は俺のクラスで一緒にお弁当を食べている。いや、心も武瑠も妹尾さんもいらっしゃるけれど。

 なんたって、礼ちゃんの手作り愛情弁当ですよ! 冷凍食品が活躍してるよ、と苦笑しながら差し出してきた礼ちゃんに思わず飛びつきそうなくらい(いや勿論、妹尾さんの一睨みで凍りつきました)テンション上がったんだけど。

 話が変な方へ行っちゃったな。


 でも、いつかは話さなきゃ、と思ってたことだし。きっと、妹尾さんは知っているんだろうけれど、俺の口から語られていないことを、俺を差し置いて礼ちゃんへ話すような人じゃないし。


「帰りに、ちゃんと話すから」

「……はい」

「今この瞬間は礼ちゃんのお弁当、堪能させて?」


 気色悪い、という妹尾さんの声が聞こえたような。……気のせいだよね?




 礼ちゃんと並んで歩く帰り道。俺は9歳頃からの記憶を辿り、話し始める。

 神威の弟か妹が出来るわよ、と母ちゃんは瞳をキラキラさせながら言ったのに。“じゅうもうがん”とかいう聞き慣れない病気になって、かなり進行していて、肺にまで転移して。病院の真っ白なベッドで過ごす日々がしばらく続いた。


「子宮全摘と化学療法でね、快復して。念のために、検査してるだけだから」


 気遣わせてごめんね、といつもと変わらない口調と雰囲気を心がけたのに。あー、やっぱりね。


「も、泣かないでよー、礼ちゃん」

「いや、神威。これは致し方ない」


 俺達の少し後ろを歩いていた心が苦笑しながら言う。


「俺だって、神威の家の事情を知った時は涙が出た。お前が荒れてた理由だったし」

「……荒れて、た…?」


 グス、と鼻を啜った礼ちゃんは、心の意図しない一言に引っかかった。

 えーまいったな、と溜め息と共に口をついて出る。礼ちゃんの濡れた瞳は、俺を捕らえて離さない。

 いつの間にか、手にはハンカチが握られていて、それはたぶん、姉ちゃんが御礼に渡した物。うちの洗濯物の中に、全く同じ柄を見た覚えがあるから。姉ちゃん、まるっきり自分の趣味だけで選んだんだな。なんて風に思考を逸らして、うやむやにならないかな、と念じた。この会話。


「……話せない、ような、こと……?」

「話せるよ。でも、引く、たぶん」

「引かない、絶対」


 俺は、それこそ母ちゃんの一件があって以来、安易に“絶対”を使えなくなってしまった。人間の生命は絶対でも永遠でもないと、知ってしまったから。

 でも、今の礼ちゃんからの“絶対”は、嬉しかった。約束を貰えたようで。


「……うちはね、かなり仲良し家族で。でもそれは、母ちゃんが元気であればこその話で」


 俺の弟か妹か、その存在を教えてくれていた膨らみはいつしか消えて。母ちゃんが病院から家へ帰れなくなったのは、俺が5年生へ上がったばかりの頃だった。

 当時、感情を如実に表すボキャブラリーなんて今以上に持ち合わせなかったけれど。


 ―――寂しい。


 それより他に当てはまる単語は、なかったように思う。

 なくさないでね、と姉ちゃんが首から掛けた家の鍵。ただいま、と言えば、おかえり、と応えてくれる母ちゃんの声があったのに。


 家事は中学生になったばかりの姉ちゃんと、早く帰宅するようになった父ちゃんが、交替しながらやっていた。

 つとめて、普通に。つとめて、明るく。母ちゃんの病状には出来るだけ触れず。

 皆、一様に張りついたような笑顔で過ごしていた。


 5年生のクラスは持ち上がりではなく、新しい顔ぶれとおそるおそる接点を見出だしていく時期。

 明るく大きな声で、いつもクラスメイトの間を飛び跳ねている武瑠の姿と。窓際の一番後ろの席で、いつも小難しそうな本を読んでいる心の姿。目には入っていたけれど、初めから仲が良かった訳ではない。


 武瑠は、今の長身から想像出来ない程に小柄で、何かにつけて、男女問わず弄られていた。

 それは、遊び心の範疇なのか、からかいの延長か、いじめの類いなのか。どの色とも選別出来ない行為。それでもいつもニコニコ笑っている武瑠。


 今、思い返すと我ながら子どもだったと痛感する。

 俺は、寂しいと声に出せなかったから。皆、我慢してるんだから、母ちゃんが一番我慢してるんだから。泣いちゃいけないんだと、自分に言い聞かせてたから。

 鬱屈した想いを、どこかにぶつけたかっただけだったんだ。


 その日の昼休みも、いつものように武瑠はガタイの良い連中から廊下へ引っ張りだされていた。

 男子だけでなく、女子もいたように思う。見て見ぬフリ。それが日常的。

 残酷な遊びをアナウンスする誰かの声がして。

 その瞬間。俺の内で、何かが弾けて切れた。


『先生、呼んできて。男子トイレに』


 隣の席の男子に頼んだ。変声期前の俺の声は、それでも怒気を孕んでいたと見え、目を見開いたクラスメイトは飛ぶ勢いで職員室へ向かってくれた。


「……怒髪天を衝く、って言うでしょ? まさにアレ。掃除用のホース持って、トイレの前の手洗い場の蛇口に挿して。衝動に任せたにしては、流れる様な行動力で」


 トイレ前には、たぶん見張り役の女子が立っていたんだけど、押し退けて、武瑠の名を呼んだ。

 吉居、こっち来い! と。てめぇら、いい加減にしろ! と。

 貧困なボキャブラリーでは、修羅場でそうそうカッコいい言葉なんて出てきやしないもんだ、実際。

 山田?! と驚きの色が濃い悲鳴が聞こえた。いや、そいつらの声じゃなく、俺の隣で茫然と立ち竦む武瑠の声だったのかも。俺は、先生三人がかりで止めに入られるまで、放水を止めなかった。


「後から武瑠に聞いたんだけど。俺、泣きながらみんなに水ぶっかけてたんだって」


 礼ちゃんは、聞いているよ、と主張する様に時折 相槌を打つ。ただ、一言も発しない。堪えてるのかなぁ、涙。


 皆、驚いていた。そりゃそうだ。

 それまでずっと、見て見ぬフリをしていたクチだったのに、大人しく穏やかだった生徒が豹変したのだから。

 しかも俺は武瑠を怒鳴りちらしていたらしい、ハッキリと覚えていないんだけど。

『なんでいつも笑ってんだよっ!』って。『イヤならイヤって言えよっ!』って。


 先生達は即刻父ちゃんへ連絡して、父ちゃんは仕事中にも関わらず、学校へすっ飛んで来てくれた。

 母ちゃんの病状を説明するのかと思えば、それには一切触れず。神妙な面持ちで、息子が大変ご迷惑をおかけして、と言っていたけれど。


「結局、謝らなかったんだよなぁ、父ちゃん」

「……それは、そうよ。神威くんの行動は、手荒だけど間違っては、ない」


 謝罪は神威くんの行動そのものまで否定してしまうわ。

 礼ちゃんは小さな声でキッパリ言い切る。ボンヤリちゃんに見えるのに言う時は言う子だな、礼ちゃん。


「ありがと」


 でも、帰り道。父ちゃんは言った。


『神威、正しいことをしたと思う?』

『……うん』

『迷いなく、それ言える?』

『……言えない』


 どうして? と優しく問われた。俺は確か、別の方法があったかも、と応えた。

 父ちゃんはお見通しだったはずだ。俺が起こした行動は、純粋に武瑠を助けたかったものじゃない、と。


『神威、お母さんのお見舞いに行こう』


 突然、父ちゃんはそう言い出して俺はビックリしたのを覚えている。化学療法中の母ちゃんの姿は、俺にとってショックが大きい、と、連れて行ってもらえなかったから。


『……良いの?』

『良いさ。むしろ、ごめんな? 行きたかっただろうに、我慢させて』


 病室は簡素な彩りで、着ているベージュの検査着が母ちゃんの顔色をさらに悪く見せている様な気がした。

 細くやつれた腕に刺さる管が痛々しい。俺に向けられた笑顔は弱々しい。室内なのに帽子をかぶって。


『神威』


 母ちゃんは俺の名前を呼ぶ。


『来てくれて、ありがとう』

『……うん』

『元気? 風邪ひいてない?』

『……うん』

『新しいクラスは、どう?』

『……まあまあ。ムカつくヤツもいるけど』


 そう、と言って母ちゃんは俺の手をとる。あぁ、神威の手の方が大きくなったわ、などと言いながら。


『神威、泣きたい時は泣いて良いのよ?』


 ベッドの脇で丸椅子に座った俺は、シーツに顔を埋め、声をあげて泣き続けた。


「……次の日、武瑠に謝ったんだ。母ちゃんがいなくて悲しくて寂しくて、憂さ晴らししたようなもんなんだ、って」


 そんな物言いは、自己中心的で武瑠への思い遣りに欠ける気がした。だけど、正直な気持ちを自分の言葉で伝えたかった。


「吉居くんは……何て?」

「何でも良いよ、理由なんて、って。ニコニコしながら言われた」


 武瑠は一人っ子で、お父さんはいなくて。働きに出ているお母さんに代わって、身の回りの世話をしてくれているのはお祖母ちゃんだった。


『ばあちゃんがさ、ニコニコしてれば良いことあるよ、っていつも言っててさ。山田くん、来てくれて、マジ助かったぁ』


 人懐っこい武瑠の笑顔。俺のみたいに張りついた嘘の笑顔じゃない、温かな、仔犬みたいな笑顔。寂しさを微塵も感じさせない強さが、小さな身体に隠されていたのだと知った。


「和泉が言ってた、俺がキレると怖い、ってのは、こういうこと。荒れてたんですよ。ガキでしょ、引くでしょ」


 はい、この話はオシマイ。って、言いたかったのに。


「引かない、って約束したわ」


 うん。それはそうなんだけど。


「弓削くん絡みでも、ぶっちぎれたんでしょう? 神威くん」


 まいったな、という俺の再度の呟きに、背後で心が、ハハ、と笑う。


 武瑠の件以来、周囲の俺に対する見方は若干 変化したような気がしていた。腫れ物に触る、っていうのかな? 先生から何かにつけて、元気か? 大丈夫か? と訊かれるし。女子から遠巻きにヒソヒソ囁かれるのは今に始まったことじゃないけど、水ぶっかけた連中からは、しばらくの間、敵意むき出しで睨まれ続けたな。武瑠と仲良くなったせいもあったんだろう。


 1ヶ月に一度の席替えで、俺は心の左隣になった。

 心は当時からそれはそれはデカくて、ランドセルが似合わない小学生ナンバーワンだったと思う。座高もそれなりにあったから、幸か不幸か無条件で最後部の列を移動させられていた。


『訊いて良いか?』


 それは突然、切り出された。何の前触れも前置きもなく。


『山田は、どうして目が笑ってないんだ?』


 イヤな感じだと、正直 思った。何も知らないくせに、痛点を突きやがって。

 知らないよ、とぶっきらぼうに応えた。ただでさえ憂鬱なのに今から1ヶ月は隣の席だなんて。


 でも、一寸先は誰にも分からない。

 絶対も永遠も、そうそう無い、と知ってしまったのと同じ様に、イヤなヤツが最高に良いヤツに変わる瞬間が、そこまで来てたんだ。


「心はね、中学生からよく絡まれてたんだよ。理由は単純。デカい、生意気」

「……何、それ?」

「あるんだぞ、御子柴。そういうガキ臭い因縁のつけ方。男なんて、大小を競う馬鹿な生き物なんだ」


 何度か見かけた。小突かれ、目に見えない箇所を殴られている心。心が手を出すことは決してなかった。


『……悔しくないのか?』

『いつか馬鹿馬鹿しい、って。気づくだろ』


 いつか、なんて。保証されてないのに、そんな悠長なことを言っている心が、悔しかった。

 だからある日、俺は頼まれもしないのに、割って入って手を出した。

 最低だ、本当に。でも、また俺は、正しいとも思ってたんだ。

 いつか、なんて生温い。イヤだ、って、止めてくれ、って。今、言わなきゃ伝わらない、と。


 俺はいたぶられていた心を救ったヒーロー扱いだったけれど、暴力沙汰には違いない。また速攻で父ちゃんへ連絡され、心は悪くないのに、どちらかと言えば被害者側なのに、すみません、と謝っていた。


『弓削くんは、少しも悪くない。勝手に暴走したのは、うちの神威。ごめんね、申し訳ない』


 父ちゃんは心へ頭を下げる。流石に、二度目のキレた行動だ。父ちゃんは職員室でも深々と頭を下げていた。それでも母ちゃんの件には言及しなかった。


 今でこそ分かるんだけど。

 父ちゃんが何故、母ちゃんの病気を先生達へ説明しなかったのか。


『……山田、最近 何かあったのか?』


 担任の先生は戸惑いを露に、胸の内を吐露しろとせっつく。

 言葉で上手に表現出来たら、こんな事してないよ。心中で、そんな悪態をついていた。


 目に見える傷や痣は、姉ちゃんからの視線をかいくぐることは出来ず、強く追及され、目一杯 怒鳴られた。姉ちゃん、怒鳴る時も噛まないんだ。本当に感心する。


『あんたね、お母さんが病気だからって、可哀想な神威くんは何したって赦されると思ったら大間違いよっ! 泣きたいなら泣けば良い。怒りたいなら怒れば良いわ! でもね? 感情をコントロール出来るから、人間的なのよ! 寂しいばっかに流されて大暴れするヤツは、猿山へ行ってしまえっ!』



「……凄いね、美琴お姉さん」

「んー、もう言い返せなかったよねぇ、何も」


 思い出し、乾いた笑いが漏れる。鬼の形相、って、あんなだ、きっと。

 私だって、お父さんだって、寂しいに決まってるでしょーが!

 美琴、と父ちゃんが宥める様に優しく抱きしめると、姉ちゃんは大号泣だった。


「礼ちゃんはさ。分かる? 父ちゃんが母ちゃんの病気のこと言わなかった理由」

「うん。客観的に聴いてたから…たぶん、分かるわ」


 それを逃げに使って欲しくなかったんじゃないかな?

 礼ちゃんの涼やかな声は、あの日の父ちゃんの声とリンクする。


「ご名答」



 次の日、俺が教室へ入ると、一瞬のざわめき、その後にすぐ緊張感すら漂う静寂が訪れた。


『教えろ』


 心は穏やかな瞳を俺に向けて静かに言った。


『山田、何 隠してる? なんで心底笑わない? 教えないと、俺がお前をぶっ飛ばす』


 基本的に、俺はヘタレだから。正直、背筋がゾクリとしたのを覚えている。


『俺は、手を出せなかったんじゃない。手を、敢えて、出さなかったんだ。知ってるか? 山田。プロボクサーは素人とケンカしないんだ』


 いや、お前、小学生だろ。誰がプロボクサーなんだよ。

 それでも気圧された俺は、ポツポツと事情を説明し、奇妙な友情は始まりを告げたんだ。


「その後もねぇ。授業参観にお祖母ちゃんが来た、って。武瑠のことを馬鹿にしたヤツ、泣かせたりとか。買わなくて良いケンカも、買ったりして。心と武瑠が庇ってくれたけど」


 母ちゃんの病状が良くなるにつれ、俺は随分と落ち着いていったし思春期特有の反抗期だったと片づけられたけれど。山田はキレたら怖い、とか、情緒が不安定、だとか。しばらくは言いたい放題言われたもんだ。


「……も、オシマイにしてね、この話」


 良い経験だったなんて、死ぬ間際にはたして言えるのかどうか。

 心に武瑠。母ちゃん、父ちゃん、姉ちゃん。皆、大切な人。

 自制出来ず、昇華しきれない想いのままに動くガキだった俺を見放さなかった人。

 存在は永遠の一生モノではないと知ったから、かけがえの無さに気づけたけれど、もっと別の方法があったはずで、クラスメイトや先生達を無意味に煩わせた自分を、思い出すたびに腹が立つ。


「……神威くん」

「……何? やっぱり引いた、とか受け付けないから」


 違うわ、と礼ちゃんは小さく笑うと、俺を見上げて、ごめんね、と言った。

 ……上目遣いに瞬殺されそうですが。ごめんね? って、何が?


「私、誤解してた」

「……誤解?」


 ついぞ礼ちゃんの口からは聞いたことがない単語。誤解してた、って。何を、どう?


「神威くんは…、温かな愛情溢れる家庭で。寂しさなんてこれっぽっちも知らずに、育ててもらえた人だと思ってた」


 俺はそこまで聞くと、反応に困り苦笑する。

 勘違い、していなければ。礼ちゃんの声音には、嫉妬というのか羨望というのか、今まであまり向けられた覚えがない色が混じっていたから。


「……私はね。かなり、自分のことを“可哀想”だと思って、生きてきたの」


 こんな場面で、真価が問われるんじゃないのか? 男子力。というか人としてのスキル。俺は一体、礼ちゃんに何と言ってあげるべき?

 思わずズボンのポケットから右手を出したけれど、行方に困り、所在なげに空を掴む。


 ――そういえば。


 いつだったか、母ちゃんの口づたいに聞いた礼ちゃんの言葉を思い出す。


『傷つけるかもしれない。妬ましいから。手にしたくても叶わないものを、持っているから』


「神威くんに、そんな出来事があったなんて。……考えもしなかった」


 ごめんね、と礼ちゃんはまた繰り返す。


「また出た。礼ちゃん、謝りすぎ」

「今回は、例外です。謝るべき」

「……ああ言えばこう言うねぇ」


 ふふ、と愛くるしい笑顔。あー、もう、可愛いってば。

 何なの? 何か達観した様なピカピカの笑顔。


「自分が世界で一番不幸、だなんて。そんな訳ないのにね。測るバロメーターなんてないんだから。自信が持てないのも、ボンヤリしてるのも、境遇のせいにして」


 後ろ向きだった、と。

 ちょっと大きく鞄を振る礼ちゃんは、今にもスキップし出しそう。


「神威くんみたいに、キラキラになりたいの、私」

「……えー、良いよ、ならなくて」


 グリン、と背後に効果音が見えそうな程の勢いで、礼ちゃんは俺を見上げる。そんな答えが来るとは思わなかった、と言いたげな表情で。


「礼ちゃんは、じゅぅぅぅぶん、キラキラしてるから」

「……私のポジティブシンキングは珍しいのですが」

「それ以上、モテないで。俺、ヤキモチ妬きすぎて死ぬかもしれない」


 医学的にあり得ないぞ、神威。

 背後からの心の笑い声と礼ちゃんのそれが見事に重なった。



 ***



「あら、山田さんとこの……」


 母ちゃんの付き添いで来た総合病院。

 待合室の長椅子へ座って待っていると、看護師さんに声をかけられた。母ちゃんが初めて入院した時に担当してくれた、今じゃかなりのベテランさん。確か、宮成さん。


「あ、神威です。お久しぶりです」

「あらあらあら、大きくなったわねぇ」


 親戚のおばちゃんみたいな反応に思わず吹き出しそうになる。

 ふと目についた名札には、“看護師長”の文字。


「え、宮成さん、師長さん、ですか?」


 そうよー出世したのよー、と真ん丸の顔にちょこんと乗る鼻も細い目もくしゃくしゃにして言うもんだから、偉そうな物言いが憎めない。

 母ちゃんは5年前から年に1回、定期検診に通っているけれど、俺が宮成さんに会うのは3年ぶりだ。


「神威くんは? 成長したの? それとも、まだ泣き虫?」

「うわー、やめて下さい、黒歴史!」


 つい昨日、礼ちゃんに恥ずかしい過去話をしたばかりだというのに。

 ……まぁ、確かに。小学生の俺は、泣いてばかりだった気がする。検温や点滴や清拭で母ちゃんの病室へやって来る宮成さんには、泣き顔ばかり見られてたかも。


「……ちょっとは、強くなった、と。思います。思いたい、です」

「相変わらず、正直者ねぇ」


 アハハ、と威勢の良い笑い声が待合の廊下へ響く。

 途端、検査室の仕切りカーテンが開かれ、顔を出した看護師さんから、中へどうぞ、と促された。



 母ちゃんと並んで歩く帰り道。勿論、礼ちゃんのそれとは違っていて、違和感を覚えるということは、いかに礼ちゃんの隣を当然と、日常のことだと、知らず知らずに身に染み込ませているのか思い知らされ、そんな自分が末恐ろしい。


 俺、頑張ろう。

 ずっと、礼ちゃんの隣をキープ出来るように。


「何事も無くて、良かったね」


 主治医の先生は、今年もまた同じ言葉を繰り返しますが、と素敵な前置きをくれてから、至って良好です、と笑顔付きで言ってくれた。


「本当にね。お母さん、花嫁姿 見たいもの」

「姉ちゃんの? いや、あれはまだまだ」

「お姉ちゃんは良いのよー。ずっとお家にいてくれても構わないし」

「えー」「あ、でも」


 俺の不満げな声と、母ちゃんが何事か思い当たった様な声が重なる。


「お姉ちゃんみたいな小姑がいたら、ミコちゃん、お嫁さんは嫌かしらね?」

「……えー…どうかなあ」


 お嫁さん。お嫁さん、ねぇ。礼ちゃんが、俺の、お嫁さん。

 あー、ちょっと! 今、思いっきり描いてしまった! 礼ちゃんのウェディングドレス姿! 教会の鐘の音とか、鳴り響いちゃいますか!


「……神威」

「……はい?」

「妄想はほどほどにね」

「……コホン。礼ちゃん、ね。しあさって、誕生日なんだよ」


 あら、とトーンの高い声で母ちゃんは嬉しそうに言う。絶対、言い出すぞ。


「うちに連れてらっしゃいよ! お誕生会しましょう!」


 やっぱりね。母ちゃん、こういうの大好きな人だから。


「あら、それとも二人きりが良い、なんて寂しいこと言っちゃう?」

「言わない言わない。お誘いする」


 礼ちゃんへ用意した、俺特製のプレゼント。まだ完璧じゃないんだけど、皆さまの前で手渡しするのは、ちょっと恥ずかしいかな。でも俺史上最高の力作なんだよなぁ。似合うかどうか、第三者の意見も聞きたいし。


「この後、俺 ちょっと寄り道してから帰るね」

「え、神威、お姉ちゃんから一人歩き禁止令、出されてなかった?」

「うん、でも角の雑貨屋に寄るだけだから」


 寄って、ラッピングの材料を買って。

 ……すぐ帰れると、思ってたんだ。



 ―――右京との初対面以降。



 妹尾さんの先読みは決して杞憂ではなく、現実のものとなった。この一ヶ月弱、下校時に、正門や裏門付近で見慣れない男達の姿をたびたび見かけるようになった。同い年くらいのようでもあり、少し歳上、大学生のようでもある。俺達には無関係なのかも、とやり過ごしたかったけれど。


「右京か、その兄貴の仲間よ」


 クラブにもよく出入りしてる顔、と妹尾さんは事も無げに言う。

 どうしてお互い面が割れてるんだろう、とかは、深く突っ込むところじゃないんだろうな。


「今回は、あまり大勢の仲間は集められなかったみたい」


 妹尾さんは、ほんの少し揚々とした調子で言っていた。


「……意味がよく分からない」

「アイツはね、一人じゃ何も出来ないタイプなのよ。卑怯でしょ? 徒党を組んでしか動けないなんて」


 熱く語る妹尾さんは、とても頼もしい。


「私が関わってる、ってのは右京の仲間に知れてるから。たぶんビビってんのよ、下手に巻き添え喰らいたくなくて」


 とにかくも、あんたが一番気をつけるのよ、山田。

 妹尾さんは、確かにそう言った。訝しく見つめ返すと、そんな理由も分からないのかと言いたげに眉間に皺を寄せられる。


「右京のドス黒い感情は、礼へ向かってる」

「……うん。だから礼ちゃんを守らないと」

「足りないわ、山田」


 ……足りない。えーっと。

 配慮? 思慮深さ? 知恵? あぁなんだかとにかく、スミマセン。


「右京は、姑息なヤツなの。傷つけたい相手を、直接 攻撃したりしないわ」


 妹尾さんは、嫌悪感を露に毒を吐く。本当に、心底、アイツを許せないんだな。

 それはそのまま、礼ちゃんを大切に想う気持ちを表している。良い友達 持ったなぁ、礼ちゃん。


「礼が今、一番大切に想うのは、山田だよ?」

「……光栄です」

「……右京は。あんたを傷つけて、礼を苦しめて、楽しみたいんだと思う」


 その時の俺は、暢気なもので、てんで実感が湧かなかったから。傷つけられる、ということは、どんな意味か、俺に向けられる某かはどんなものか、想像出来なかった。むしろ、そんな生き方しか出来ないのであろう、右京ってヤツを憐れんだりしてたのかも。


 そういえば、葛西先生からだって注意された。

 学校周辺にたむろする不審な輩は、葛西先生が職員会議で議題に挙げてくれて、近くの交番のお巡りさんにも相談し、巡回に来る回数を増やすことで、随分と姿が減っていた。

 先生は、“高校生を狩って金品を巻き上げる集団がこの辺りに出没している”って話を、まことしやかに流布してくれたんだ。


「あながち嘘じゃないしね」


 飄々とした口調に鬼気迫るものはまるで無くて。だから俺は調子にのっていたのかもしれない。日直の日誌を手渡しながら、そうですね、と相槌をうった。


「……あのクラブ、もうすぐ手入れされるんだと」


 声を少し落として、目線は日誌。

 葛西先生は、明日の天気の話でもする様に、サラリと口にした。


「……妹尾さん情報?」

「うん。妹尾さ、まさかと思うけど、クラブの関係者に先生の知り合いはいないよね? って確認しに来たんだよ」

「周到。抜かりない」

「まぁ、そうだけどさ」


 俺はクスリには手出ししてないっつーの。

 先生は苦々しげに言うと、拗ねたように膨れた顔を、机に立てた日誌の上に乗せる。


「……クスリ?」

「そう。あのクラブ、取引の温床らしい」


 物騒な話は、やっぱり俺の日常とはかけ離れすぎていて、もはや相槌すらうてない。

 気をつけな、神威。

 先生は、担任教師の範疇を超えた親身な表情で、力強く穏やかに言ってくれた。


 ――俺、本当に、足りなかったな。


 皆、心配して言ってくれていたのに。危機感が足りなかった。

 今、目の前にいるのは、最高に会いたくなかった相手。


「やーーーまだくーーん」


 例によって苛立ちを煽る間延びした声で、意地の悪そうな目を逸らさずに言ってくれる。

 何だっけ? あぁ。“さーーーつきちゃーーん!”だ。あのアニメのあのセリフと同じリズム。コイツも観たことあるのか。一応、人の子なのか。

 そんなことを考えられる俺は、まだ余裕があると思うべき?


 家の玄関前で母ちゃんと別れてから、この店まで5分くらい。

 礼ちゃんへのプレゼントをラッピングする材料をのんびり買って、店を出たところで、絡みつく様な視線に捕まった。

 一体、いつから? 一体、どこから?


「朝からつきまとってたのに。お前、気づかないんだもんな」


 ……暗に貶されてるよね、俺。


「今日は休んでる、ってメール来たからさ。オレ、オタクのクラスにスパイいるのよ」

「……スパイ、って。一人じゃ何も出来ないだけじゃん、お前」


 特別、シミュレーションをしていた訳じゃない。

 でも、決めていた。

 挑発にはのらないように。先に手は出さないように。


「……なるほど。妹尾の入れ知恵かぁ」


 アイツ、マジうぜーな。

 うすら寒い笑顔から、瞬時、素の表情に戻ると、右京は吐き捨てる様に言った。

 俺は視線を右京へ据え置いたまま、俺なりに脳をフル回転させて考えた。

 これから何が起こる? 今、優先順位一位は何だ? 誰かに連絡取るべき?


 胸の前で斜めに掛けられた、ボディバッグの持ち手を触る。

 フリをして、シャツの下、首から下げていたお子様ケータイのボタンを押した。携帯ショップで契約してきてくれた姉ちゃんが言ってたから。何かあったら、このサイドボタンを押せ、と。布地越しに指に当たるこの部分がそうであってくれ、と願いながら小さく力を込めた。


「こんなとこで立ち話もアレだから」


 突然、向けられた会話の矛先に、自分の行動を読まれた気がして、内心慌ててしまう。


「……アレって何だよ」

「面倒くせーヤツだな。流れ読めよ、話の」


 ここは雑貨屋の店先だというのに、とても店内の穏やかでナチュラルな空気は届いてこない。

 いつの間にか、右京の両脇には、いかにも強者に群がるのが好きそうな仲間が二人。学校の傍で見かけた顔かも。3対1。分が悪い。


「山田くん、ケンカ強い?」

「そこそこ」

「あー、無駄にデカいんじゃないのか」


 血の気多そうだしね。

 嫌らしく口角を片方だけ器用に上げる。いちいちムカつかせようとしやがって。尖った顎をクイと動かし、右京は、こっち、と続けた。


「オレらのホームにご招待するよ。拒否権は、ないから」


 拒否権? となぞった俺に対し、右京は眉根を寄せると、チ、と舌打ちをする。


「山田くん、賢いヤツだ、って聞いてたけど。そうでもないね」


 うるさいよ。時間稼ぎだっつーの。

 心の中で悪態を吐きながら、俺はどちらかの携帯電話が振動してくれることを祈る。


「お前がついて来ないんなら、ミコちゃんイジメるけど良いの? って話。でもそれだと婦女暴行になっちゃうしー、罪も重くなっちゃうし」


 ま、オレは直接 手出ししないけど、と居丈高に言い放つ右京を、俺は心底 軽蔑した。

 威張りくさって言うことじゃないだろ。久しぶりだ、蔑みの感情なんて。


 胸元のお子様ケータイが振動する。

 連中と俺との距離では、小刻みなバイブ音は耳に入らないと思うけど、できるだけ不自然さを気取られない様に、シャツの上から指に触れる何かのボタンを押した。


「あ、そうだ。山田くん、ケータイ出して」


 俺、もっと海外ドラマ観とけば良かった。

 24時間不眠不休で働く彼とか。兄ちゃんを脱獄させるために知恵を絞る彼とか。墜落先の謎の島でサバイブする彼とか。

 こういう、いわば窮地で出せる技量が会得できたかもしれないのに。


 俺はジーンズの後ろポケットから、黒いそれを取り出す。まさに、鳴動中。サブディスプレイには、姉ちゃんの名前。

 頼む。姉ちゃん。姉ちゃんが俺の姉ちゃんで良かったと、生涯思わせてくれ。


「……“姉ちゃん”? 仲 良いんだ?」


 貼りついた笑顔のまま、右京は手の中の携帯電話を開くと、力一杯 真逆に閉じ、文明の利器をただの残骸にする。

 そこから三人に挟まれる様にして十分程度、細い路地を右に左に連れ回され、着いた先はやっぱりというべき、例のクラブだった。


 恐怖、は勿論ある。それでも後述のために記憶しておかなくちゃ、と変な義務感もある。

 いやいや、後、なんてあるのか? 多数対個、だととても素人の俺に勝ち目なんてない。武芸とか、やったことないし。

 ボコられるのか。辱しめの類いか。まさかと思うけど、クスリ漬けに、とか。


 何にしても誰かが速く、駆けつけてくれないと。

 俺は、良いんだ。自分自身へ向けられる痛みや傷は我慢できる。こんなバカ野郎の、一時の暇潰し。それで礼ちゃんへ何事も無ければ、別に良い。殺されることは……、無いと思いたい。


 でも、礼ちゃんは? 俺が傷つけば、礼ちゃんはきっと、私のせいだと言うだろう。そんなの、容易く想像出来る。

 それから? 気に病んだ礼ちゃんはきっと、俺から離れていこうとするんじゃないか。それは右京が得たい、最高のバッドエンドだろうけど。


 目に入る箇所は全てと言って良いほど黒く暗く、壁か床かの境目も分からなくなりそうだった。

 一歩、足を踏み入れた途端、鼻につく強烈なお香の様な匂い。ずっと嗅いでいると、頭の芯がクラクラと麻痺しそうだ。俺のテリトリーじゃない音楽も、サラウンド効果抜群の重低音で鳴り響き、胃の底から気持ち悪さが込み上げてきそう。


「意外と落ち着いてんだ? こういうとこ、初めてだよね?」


 黒のソファーへ右京と対面で座らせられる。

 こんな中でも、不思議と話す声は耳に届くんだな。右京のニヤリとした顔が暗闇にボンヤリ浮かぶ仮面の様で、俺はますます吐き気を募らせた。


「あぁ、でも。気分 悪そうだねぇ」


 薄気味悪い笑みを口元へ貼りつかせたまま、間延びした声が嘲るように言葉を並べていく。意味のあるものとして耳に入らなかったんだけど。いや、下手に惑わされたくなかったから、敢えてスルーしてたんだけど……。おかしい。頭痛に吐き気に、この妙な動悸の速さ。ちゃんと考えたいのに、脳が拒絶している。


「山田くん、初心者だしさぁ。開店前だから、そこまで強くないんだけど。匂いにやられたでしょお? これねぇ」


 イイモノ混じってるから。

 恐ろしいことをサラリと言ってのけるのが格好良いとでも思っているのだろうか。さも、ビビってるだろ? と言わんばかりの侮った表情に、噛みつきたくなる。


 俺、戻れるんだろうか。俺の日常に。これまで、に。

 さっき跨いだ入口のドアは、もう戻れない世界行きだった? 依存症、とか、中毒、とかになって。礼ちゃんの傍に、いられなくなる?


 ……まぁ、十分 礼ちゃん中毒だけど。


 俺は正気を失いたくなくて、顔を俯け、思考を逸らそうとした。できるだけ、深く呼吸をしないように努めて。

 礼ちゃんのことを思い浮かべれば、自然、頬は緩む。

 右京にはそれがお気に召さなかったらしく、突然、伸びてきた手で顎を乱暴に持ち上げられた。


「なぁんかムカつくんだよな、お前。何だろな」


 右京、意味分かんねー、とギャラリー連中が騒ぐ。

 俺を挟んでいた二人に加えてぼんやりとした影が三人ほど。数じゃ負けるな。

 加勢に来て欲しいけれど、それを望むのは間違っている気もする。必然的に、武瑠も心も暴力沙汰に巻き込んでしまうことになるから。決して、誇れる大義名分なんて無いし。


「……俺だって、お前にはムカついてるよ。暇潰しだかなんだか知らないけど、卑怯なことばっか」

「うるせーなぁ」


 図星を指されると、まず怒りの感情が込み上げる。人間の常、だ。

 ……あぁ、でも。ミスったかな、俺。

 いやもう、妹尾さんみたいな戦略? 戦術? なんて練る余裕が無い。脳ミソかき混ぜられてる様なこの気持ちの悪さでは、思いつくままに言葉を吐き出すのが、やっと。何か、別のもの吐きそうだし。


「そのおキレーなツラかな、ムカつくの。な?」

「………」


 右京の右手にはいつの間にか、柄にゴテゴテと飾りの付いたナイフ。本物なのか、偽物なのか。

 ソファーから立ち上がり、一歩俺に近寄ると、およそ感情のこもらない冷たい目で上から見下ろす。


「ミコちゃんとは、もうヤったの?」

「………」

「アラ、答える気にもならね、って感じ? くだらなすぎて? すっげーなー、山田くん。強ぇーなぁ」


 瞬間、額が真一文字に熱をもった。痛い、というより、熱い。


「!……っつ……、」

「いつまで強がってられんのかなー」


 痛くて熱くて、思わずやった掌にヌルリと付いた温かさは、この暗がりに随分 慣れてきた目で確認しなくても、深く赤い色をした血だと分かる。


「アレ、フランケンシュタイン博士の怪物みたいにしちゃおっかなー」


 ぬあああああっ! 痛ーってえっ! くっそー、コイツ!躊躇いなくスッパリ切りつけやがって!


「……お前は、手出ししないんじゃなかったのか?」

「あー、婦女暴行カンケーだけな。あれ、体液残るから揉み消すの難しいんだって。それ以外は親父が何とかしてくれるからさぁ」


 おでこ、って。意外と血 出るんだな。

 滴り落ちるそれは骨格を伝ってか左眼の端に入り込み、チリリとした痛みに目を瞑る。

 礼ちゃんが、綺麗だと褒めてくれた、おでこ。傷痕が残ったら、それはそのまま礼ちゃんの罪悪感として、ずっとずっと残り続けるんだろうか。


「ケー番とメアドまではすぐ教えてくれたのになぁ。なぁんかその先、見抜かれちゃったんだよねぇ、ミコちゃんには。つか、大抵のオンナはオレの爽やかさに騙されんだけどね?」

「……バーカ。俺の彼女は、賢いんだよ」

「まだまだ強がれるねぇ? 山田くん」


 ツ、と鋭い刃の切っ先が左頬に当てられた。

 額の傷口から落ちる血液は鼻の傍を伝い、滅多に嗅ぐことのないその匂いに嗅覚は刺激され、気持ち悪さはなお募る。

 ガタイの良い連中に押さえつけられている身体は、自分の意思でもはやびくとも動かせないのに震えている気がする。

 あああ、くそっ! 恐怖よりも勝るむず痒さが頬から全身へ波紋みたいに広がる。切るつもりなら、早くザックリいきやがれ!


「妹尾が必死こいて目 光らせてるし。可愛い子ほどグッチャグッチャにしてやりてぇじゃん? 思い通りになんねぇし」


 彼氏とか、できちゃってるし。

 その言葉と同時に、刃は頬を真っ直ぐになぞって下ろされた。


「い、っ、………!」

「ありゃあ、我慢強いねぇ、山田くん。男って痛みやら血に弱いんだけど」


 痛いとか。止めてくれとか。何がなんでも口にしたくなかった。俺はそこまでヘタレじゃないはず。

 明確な根拠も理由も無い悪意って、この世に存在するんだと、それが今、自分に向けられているんだと。知って、確かに、竦みそうだけど、こんなヤツから、目は逸らしたくない。


「………別に……、」

「あははー、息も絶え絶えに強がっちゃって。マジ ムカつくわー、テメエみてーな口だけヤロー」

「………そりゃ、お前だろが……。親父に、守って……もらって、ばっかの」


 くせに、と言いかけたところで、左耳の辺りに衝撃が走った。

 一瞬、何が起きたか分からなくて。鼓膜が破れたんじゃなかろうかと。ゆっくりと床へ下ろされる右京の右足が視界にボンヤリ入って、漸く蹴られたのだと理解した。

 ………あー、あの靴の先に、ダイヤモンドとか埋め込まれてなくて助かった。よし。俺、まだなんとか正気。


「そうそう。オヤジ、って言やーなぁ」


 知ってるか? と意地の悪い笑みを顔中に浮かべながら、右京は空いた左手で俺の髪を掴み、視線を俺に据える。


「妹尾がなぁんであんなにミコちゃんにベッタリなのか。考えたことあるかなぁ、山田くん?」


 妹尾さんは礼ちゃんを好きで、大切な友達だと思ってる。

 だから。


 という単純明快な答えじゃないんだと、間近で目にする悪魔の微笑みは暗に告げていた。


「妹尾はねぇ、一人娘なんかじゃないよ?」

「………え?」

「本当はー、弟がいるんだよねー」


 ほぼ一方的に話される内容を、俺は黙って聞いておくべきなのか迷っていた。

 話の行方が見えてこないせいもある。ただ、俺の命運を握っているせいでもあった。


「妹尾ってさー、パパの話はするけど、ママの話はしないでしょー?」


 ……そうだったっけ。

 ボンヤリした頭はすぐに返事を導き出してくれないけれど。まぁ、確かにそうだ。知り合って間もないから、聞く機会が無かっただけだと思いたい。


「ママはねぇ、出てっちゃったんだよー、悲しいことにねぇ。まだちっこい弟連れて。原因は、なぁんと、妹尾のオヤジの不倫、しかもダブル不倫!」


 ………あ。

 脳の奥の方で、何かがチカチカと光った。

 長期記憶にまで定着しきれていない、でもどこかで似たような情報を、俺は耳にした覚えがある。

 不倫、小さい子、ママ、奥さん、修羅場……。


 マズイのかもしれない。この話。終着点は朧気だけど。

 俺はなんとか胸元に手を伸ばせないかと思案した。


 シャツの下では、本体を開きっぱなしにしたお子様ケータイが首からぶら下がっている。手探りで押した、さっきのボタンに間違いがなければ、ずっと通話中で誰かに繋がっているはずだから。


「……ちょ、まっ……、」


 俺は両手を降参、の形に挙げ、吐きそう、と口に出した。

 筋肉の動きをピクリとも逃すまいとするかの如く、力ずくで押さえ込まれていた肩から重みが消える。下手な演技だけど、口元と胸元へ手を当て嘔吐を我慢するフリをしながら、また手探りで何かのボタンを押した。


 どうか、通話切断になりますように。受話口の向こう側に、礼ちゃんはいませんように。妹尾さんも、いませんように。


「ねぇねぇ聞いてよぅ、山田くん」


 オペラ座の怪人、だったっけ。不気味なまでに口角が上がった仮面をつけてたのは。ソファーへ前屈みになった俺の目の前でニヤニヤしているコイツみたいな。こんなんじゃなかったっけ。


「妹尾のオヤジの不倫相手ってね? ミコちゃんのママだったんだよねぇ」


 世間って狭いよねぇ?

 癪に触る甲高い声で高笑いしながら、右京はまだまだ話し足りない様子で続ける。


「何だろうねぇ? ミコちゃんへの同情? 結局一番 損してんのはミコちゃんだからさぁ、弟の世話押しつけられて、親からは蔑ろにされてるしー。それとも、あれ? 憐れみ? 罪滅ぼしってやつ? 分っかんねーよなー、アイツの考えなんざ」

「……だまれ……、」


 俺の気分の悪さは最高潮に達して、怒りがあまりに邪魔して、何から口に出して良いかも分からない。

 スーパーなんとか人みたく、金ピカオーラで総毛立ってんじゃないか。


「……山田くーん。まだ、おクチ動くんだねぇ?」


 前屈みだった俺は、右京の右脚蹴りを左肩に喰らって、革張りのソファーへ深く沈みこんだ。


「……んな話……、礼ちゃんに、したら……、ただじゃ…、」

「ただじゃ? 何? お前が黙ってりゃいいんじゃね?」


 ゲシッ、と俺の腹部は足蹴にされ、身体はくの字に折れ曲がる。喉の奥で変な音がして、本当に吐きそうだ。ヤバイな、ケータイ 大丈夫か?悔しいけど、俺、涙目かもしれない。


「そうやってなぁ? 隠しごとの上に成り立たせてろよ、甘っちょろい友情ごっこをなぁ? それを優しく見守る正義のヒーローと仲間達、ってやつ? 脆くて嘘くさくて笑えるねぇ」


 右京、詩人ー、とギャラリーの嘲笑が耳に入った。


「……優しい、嘘って…、ある。相手を、思いやっての、嘘って……、あるよ。お前には、分からない、だろうけど」

「アホか、テメエ。分かりたくもねーわ、優しいだの思いやりだの何の役に立つよ? それでメシでも食えんのか?」

「……少なくとも……礼ちゃんを、……守って、やれるよ」


 ハ、と渇いた息が吐かれた。

 かと思うと俺の胸ぐらはグイと掴まれ、右京の両手で中途半端にソファーから持ち上げられた。


「気色悪ぃコト言ってんじゃねーぞ、山田ぁ。何が“守る”だ、今だって好き勝手やられてるだけだろうが!」


 あぁ、うん。確かに。やられっぱ、だな、俺。


「……お前とは、違う」

「そーだなぁ、何の力も持ってねー、ただのガキだもんなぁ」

「……何がガキだ。テメエもだろうが」


 俺の嘲りは口の端に笑みをもたらし、それは右京の更なる怒りを煽った。


「弱っちぃヤローは大人しくヤられてりゃ良いんだよ! テメエもミコちゃんも! 妹尾だって! いちいち歯向かいやがって!」


 俺は壊れかけた玩具の様に、ソファーへぞんざいに打ち捨てられた。

 コイツは。こうやって扱ってきたんだろうな。モノも人も。思い通りにならなけりゃ、乱暴に。


「……ガキ以下だ、右京……、お前、最低…、いや、……可哀想、だ」


 ふざけんなっ!

 右京の怒声が響き渡った瞬間。


「全員、その場から動くな!」


 聞き覚えのない野太い声が一帯の空気を占領した。ドカドカと床を打ち鳴らす、複数の靴音。警察だ! って、言ってる。本当に、言うんだ。密着警察24時、とかの中だけかと……、


「神威っ?! オイッ!」


 血なのか涙なのか冷や汗なのか。顔もだろうけど、目もぐちゃぐちゃで。ボンヤリした視界に、何とか葛西先生の姿を捕らえた。


「あああ、お前。イケメンが台無しだよ」

「……せんせ……、」

「よしよし、よく頑張ったなぁ」


 先生はソファーと俺の背中の間へゆっくり左手を差し入れると、俺の右手を首へ回して立ち上がらせようとしてくれる。


「………どやって、……ここ……、」

「神威の姉ちゃんだよ。携帯電話のGPSで位置検索して。ずっと通話中だったし」


 警察にも連絡して、踏み込むタイミングを窺ってた、と。どっこいしょ、のかけ声と共に、俺の身体は宙へ浮く。


「……おんぶ……?」

「お姫様抱っこよりマシだろ」

「……せんせ……、全部…、聞いて…?」

「聞いてないよ、聞こえてない。音声途切れて、何がなんだか」


 優しい嘘の上に成り立つ関係は、甘っちょろいか? 右京。

 俺はそうは思わないよ。人間だから、出来ることだよ。知らない幸せ、って、あるよ。大切な人を傷つけないために、俺は嘘をつき通す優しさを選びたい。


「神威、通話切断しようとしただろ? 姉ちゃんが乗り込むっつって、暴れて大変だったんだぞ」


 ……あの姉ちゃんが、俺の姉ちゃんで本当に良かった。

 先生の苦笑混じりの声を耳元で聞きながら、少しヒンヤリと頬を撫でる外気に安堵し、瞼に夕焼けの薄い朱を感じる。

 意識が途切れてしまう前に、俺は誰にともなく、ありがとう、と呟いた。



 ***



 ―――夢か、現か。



 重い瞼をゆるりと開けると。

 いや、開ける途中から、俺の視界は礼ちゃんに覆われていると分かっていた。

 黒くて艶々の髪が、前のめりに俺を見つめる礼ちゃんの肩に首に小さな顎に、サラリと。……ハラリと?

 まぁ、いいや。とにかく、綺麗なの何のって。あああ、礼ちゃん、睫毛 長いな。

 バッサバサじゃん。いつか見た、和泉の人工的なバッサバサとは違うんだな……。


 身体はダルく、頭が重く、俺のものじゃないような。せっかく開けたのに、また目を瞑ってしまいそうだ。眠い。どうしようもなく、眠い。


「……れいちゃ……、まばたき、しないと……」


 何が言いたいんだ、俺。まだ夢を見てるのかも。だって微動だにしないんだもん、礼ちゃん。うん、ちょっと、いろいろ、まとまらない。

 ガタンッ、と大きな音が、した、ような。

 俺はままならない身体の後ろ側から何かに強く吸い込まれる様に、また眠りに落ちていく。



 ***



 ―――次に目が覚めると。



 辺りは薄暗く、一瞬、俺はまだあのクラブにいるのかと錯覚した。

 気分の悪さからは解放されたけれど、暗がりに目が馴染むにつれ、思い出した様に身体のあちこちが痛み出す。


「……あ、……くぅー……」

「何それ。快感なの?」

「……や、激痛なの」


 ベッドの右側で、椅子に座り頬杖をついたまま、俺を見つめる姉ちゃんと目が合った。


「……ご生還、おめでとう」

「……ありがとう、ございました」


 本当に心の底から、と慌てて付け足すと、間髪入れず、全くよ! と返された。


 姉ちゃんの諸々の手際は鮮やかだった。

 俺の身の危険を知らせるメールは、自宅に居た姉ちゃんによって、すぐ確認された。うん、あの手探りの瞬間、神様はすぐ傍に降りてきてたんだな。

 そのまま自分の携帯電話で俺の位置検索をしたものの、結果は自宅付近。

 そりゃそうだ。雑貨屋はうちのすぐ近くだもん。


 それでも胸騒ぎがした姉ちゃんは、ちょうど帰宅した母ちゃんから携帯電話を借り、俺のお子様ケータイへ発信。同時に、前から持ってる携帯電話へも発信。右京が真っ二つに壊してくれちゃったやつね。

 不自然に切断された発信は、それ以降 繋がらなかったから、いよいよもって確信に至る。


「神威が拉致られた、って。武瑠と心と万葉ちゃんにメールしたわけ。さすがに授業中かな、と思って。で、警察にも連絡したんだけど」


 全くもって、取り合ってくれなかった、と悔しさでも思い出したのか、姉ちゃんは歯噛みしながら言う。まぁ、携帯電話が繋がらないから、という理由だけでは、国家権力は動かせなかったんだろう。そうだよなぁ、俺17歳だし。迷子じゃあるまいし。そんな状況証拠だけでは、警察は一体、日に何件の捜索をしなくちゃならない事か。

 それで姉ちゃんと母ちゃんは仕方なく、俺の学校へ電話したらしい。


「ちょうど葛西先生が出てくれてさ、知り合いの刑事さんがいるから、って。中央警察署へ連絡してくれて。そしたら万葉ちゃんも、この機に強制捜査できないか、急いでもらおう、って早退してうちに来てくれたし」


 今だから言える事だけど、と前置きをしてから、姉ちゃんはポツリと言った。

 あんた、何か持ってるのよ、と。だから、いろいろ上手くいったのよ、と。


「そんなことない……」


 皆がいてくれたから、皆が力や知恵を出しあって、きっと俺の無事を祈ってくれたから。俺は日常へ戻ることが出来ている。


「……礼ちゃんは……?」


 さっきから気になっていた。

 その話に礼ちゃんはどこでどう登場する? 今、礼ちゃんは何してるんだろう?

 右京のあの意地の悪い声が耳の中で何度も繰り返される。


「万葉ちゃんが早退するとなるとミコちゃんが一人になって危険でしょ? 智くんのお迎えもあったし。それは武瑠と心に付き添いをお願いして」


 姉ちゃんは一旦、言葉を切る。山田家に隠しごとはない。特にこの人は。


「……結局、うちに集まったの。捜査令状を持った刑事さん達も、皆」


 だから、聞いてた。

 お子様ケータイはずっと通話中だった。

 あんたが途中、何かのボタンを押した後、音量は大きくなったから。

 聞きたくないことも、聞こえた。

 姉ちゃんの声を聞きながら、俺は大きく深く溜め息を吐いた。

 ……その点は俺、肝心な“何か”を持ってなかったんだな。


「万葉ちゃんは、まだ病院に来てないから、話せてないのよね。中学の頃の話とかも含めて、警察の人にいろいろ聞かれてるみたい」


 右京は俺の血が付着したナイフを手にしていた訳だし、傷害の現行犯で逮捕。

 図らずも自白した婦女暴行だとか、父親が揉み消した件だとか。余罪追及中で、火の粉は父親へも飛ぶだろうと思われた。未成年者ではあるけれど、年齢は低くない。それなりの施設に入るんじゃないだろうか。


「……二人とも、茫然としてた。それから後のミコちゃんは……、正直見てらんない」


 ずっと頬杖をついた姿勢で話し続けていた姉ちゃんは、そこで初めて俺の足元の方向へ視線を投げた。

 横たわったままの俺からは見えないんだけど、きっと礼ちゃんがそこにいる。遅い時間みたいだし、寝てるんだろうか。


「……のうのうと寝てる訳じゃないわよ」

「え?」

「……何も話さないし、食べないし。眠ろうともしないし、頑としてあんたの傍から離れないし。あんた、今朝、一旦 目を開けたんだけど、瞬きだの何だの変な言葉、口走ってさ。その後、ミコちゃん、倒れちゃったの」


 あれは夢じゃなくて。ガタンッ、って音は礼ちゃんが倒れた音だったんだ。

 あああ、ままならない身体が本当に歯痒い。


「鎮静剤だかを打ってもらってね、やっと眠ったの。あ、智くんはお母さんがうちへ連れて帰ったわ」

「そっか……」

「……本当に、心配」


 何が? と目で訴えると、姉ちゃんは困った様に眉根を揉みながら言った。


「……神威。ミコちゃんは、泣き虫だって、言ったわよね?」

「うん……すぐ泣くね、礼ちゃん」

「泣いてないの。一度も」


 泣き虫の礼ちゃんが一度も泣いていない。

 それはとても喜ばしい報告ではなかった。意味する未来を、考えたくなかった。

 泣かないのか。泣けないのか。礼ちゃんは何を想ったのか。これからどうするつもりなのか。


 揺り動かして、起こして。俺は大丈夫だよ、と。好きだよ、礼ちゃん、ずっと傍にいて、と。言った俺の言葉に、あの極上の笑顔で、はい、と頷いて欲しいのに。


「……姉ちゃん、今日は何日?」

「3月4日、日曜日。23時30分」


 ……あぁ、もうすぐ。礼ちゃんは、17歳になるんだ。


 たまらなく、不安だった。不安しかない。その抱える不安を声音に、表情に、態度に出さずにいられるのかも、不安だった。

 だって、俺はガキだし。ヘタレだし。男子力 足りないし。

 病院って、全体的に人間を気弱にさせる場所なのかも。


 礼ちゃん。

 お願いだから、自分のせいだ、って思わないで。


 俺は、頬から額へと、動く右手を這わせる。

 ガーゼだろうか、布の感触が手に馴染まない。


「……溶ける糸で、真皮縫合しました、って。傷痕は残りにくいみたい」

「……でも、残るんだよね。や、俺は別に良いんだけど」

「……分かってる。ミコちゃんの心にも、残っちゃうからね」

「……うん」


 もう少し、眠りな。

 姉ちゃんの偉そうな命令口調が、余計に日常を感じさせてくれて俺はまた、トロトロと眠りについた。



 礼ちゃんの、ちっちゃな手。ちょっと、ヒンヤリしてるんだ。

 触ったこと、は……何度かしかないけど。いつも、ちょっと、ヒンヤリ。

 今、冬だからかなぁ。俺の手が熱くて汗ばんでるからかな。夏の礼ちゃん、知らないもんな。

 知りたいなぁ、夏も。いやいや、この先ずっと、どんな瞬間の礼ちゃんも、見逃したくない。

 礼ちゃんの17歳は、一生のうちたったの一回だけだから。盛大に、記憶に残る様に、素敵な誕生日にしてあげられたら良かったのに。こんな、病室で、なんて。

 プレゼントも……、未完成だな……。


「……ごめんね、れいちゃ……、」

「……神威くん?」

「……れ、いちゃ…ん……?」

「はい」

「……礼ちゃん?」

「はい」

「礼ちゃん、だ……、」

「はい、そうですよ」


 礼ちゃんは、きっと横たわっている俺よりもよほど蒼白い顔色で、それでもニッコリ笑ってくれる。笑いながら、俺が差し出した左手をすぐさま掴まえてくれる。

 その瞬間、胸がギュッと痛くなったから。

 俺は、礼ちゃんの両の口の端に浮かんでいる、どうしようもなく寂しげな彩りに気づかないフリをした。


「礼ちゃん」

「はい、何ですか?」

「誕生日、おめでとう」


 礼ちゃんの大きくて黒い瞳はもう一回り大きくなって、少女マンガみたくパッチリだ。見つめていると、瞳の表面に水分の薄い膜がじわりと出来た。

 ……涙?


 でもそれは、張力に逆らって瞳全体に散っていった。

 礼ちゃんがゆっくり息を吸って、ゆっくり瞬きをしたから。


「……こんな時も」

「え?」

「……人のことばっかりなのね、神威くん」


 ありがとう、ね。

 俺の左手を礼ちゃんは自分の右の頬へ持っていく。

 柔らかな肌は、手と同じ様にやっぱりヒンヤリしていて、でも、指の腹が当たる部分は、じんわり熱を持ち始める。俺の掌では、頬どころか顔半分を覆えるくらい礼ちゃんはちっちゃい。

 今、こんなにピッタリ接している部分があるのに、俺の中からどうして不安が消えないんだろう。

 礼ちゃんが、どこか遠くに行ってしまう気がして、泣き出しそうなのは何故なんだろう。

 優しい笑みを湛えたまま、礼ちゃんはじっと動かない。


 ……ねぇ、礼ちゃん。何、考えてるの?


 閉じられた瞳から、涙はついぞ零れてこなかった。



 分からないことがあるのならば。知りたいことがあるのならば。曖昧なまま、不安なまま、放置したりせずに、問い質せば良いんだ。


 でも、何から、どんな風に?

 こんな経験は、初めてで、こんな気持ちで人と向き合うのも、初めてだ。ましてや、彼女、と。


 俺はベッドに座り刑事さんからの聴取を受けながら、頭の片隅でそんなことを考えていた。

 未成年者の聴取だからか、ここは警察署ではなく病室だからか、母ちゃんが立ち会っていて、ボンヤリしがちな俺を時折、神威、とたしなめる。

 さっきまでいてくれた姉ちゃんや武瑠や心と共に、礼ちゃんも出ていった。皆、学校を休んでまで付き添ってくれている。妹尾さんは、未だ姿を見せないけれど。


 事が起きてから三日目。

 院内で地元新聞社の記者らしい人だとか、地元テレビ局のクルーらしい人だとかの姿を見かけた、と耳にした。右京の父親の去就を考えると、話題に上らない訳がないか。


「……加害者側の供述内容と食い違いは見られませんので」

「……あ、はい」

「調書はこれでまとめられそうです」


 ご協力ありがとうございました、と俺と母ちゃんに向け、恐ろしく丁寧に頭を下げられる。こっちが恐縮してしまう。

 父ちゃんよりも年上だと思われる、若干白髪混じりの刑事さんは、あの日、真っ先にクラブの中へ突入してきた人。眼光鋭く、嘘なんてすぐ見抜かれそうな威圧感。


「……特に、何も…出来なかったので。俺は」


 前準備を着々と進めてくれたのは妹尾さんや葛西先生で、あの日頑張ったのは、姉ちゃんや俺以外の皆だし。

 そんな想いを素直に口にしただけだったのに、刑事さんは目尻と口元を緩ませた。


「……大和が」

「え?」

「あ、失礼した。葛西先生、だね、君らにとっては」

「……ご存知なんですか? 葛西先生のこと」


 刑事さんは、さっきまでの厳しい表情一転、犬の散歩をしている近所のおじちゃんみたいな気さくさを漂わせた。


「アイツ、昔は暴れん坊だったんだよ」

「……あ。聞きました、少しだけど」

「今じゃすっかり教師の面構えだよな。しょっちゅう、俺の世話になってたとは思えない。変われるもんだ、人って」


 あぁ、この刑事さんが、葛西先生の知り合いだったんだ。やんちゃだった頃の葛西先生って、どんな感じだったんだろう。ちょっと会ってみたかったかも。


「アイツ、大和、絶対 前髪上げないだろ?」

「え……そう、だったかな」


 ここね、と言いながら刑事さんは額の両の生え際を指す。


「ソリ入れすぎて、髪 生えないんだよ」

「ぶ」


 俺は思わず吹き出した。折れた肋骨に響いて痛い。


「……生徒を助けたいんだ、って。久しぶりに連絡してきたかと思えば。大事な生徒なんだ、血生臭いことに巻き込んでいい子じゃないんだ、と」


 君を見ていると、大和の気持ちがよく解る。

 刑事さんは、その時の会話を思い出したのか、目を細め俺越しに葛西先生を描いている様だった。


「山田くんは、よく闘ったよ。何も出来なかった、なんてことは、決してない」

「……そうでしょうか」

「そうさ。突きつけられた悪意に怯むことも屈することもなく、最後まで凛としてた。おかげで余罪も暴けそうだしね。通話を聞いた限りでは、なかなか肝の据わった子だと感心してたんだよ」


 実際はこんな美少年で驚いたけど、とくぐもった笑いと共につけ足される。俺は何と応えて良いのか、分からない。


「……山田くんとおつき合いをしているお嬢さんは」


 また思わず、ク、と吹き出してしまった。いや、いかにも、なんだけど。刑事さんは、不思議そうな視線を俺に向ける。


「すみません…その。言い回しが、何と言うか」

「……! あぁ、古くさかった?」


 まいったな、と首の後ろを撫でさすりながら刑事さんは笑う。笑うと目尻の皺が深くなるんだな。

 神威、と母ちゃんからたしなめられた。


「山田くんは勿論、こんな事件に関わってしまった子は、PTSDが心配でね。特に彼女は……、」


 一足先に現場へ突入した刑事さん達の後を追って駆けつけて来た一団の中に、葛西先生に背負われた顔面血まみれの俺を見て、悲鳴に近い声をあげていた女の子がいたらしい。

 それは、間違いなく、礼ちゃん。


「……さっきすれ違った時に、あまりに表情が無くて驚いた。専門医に診てもらった方が良いと思うんだ」


 余計なお世話かもしれないがね、と連絡先が書いてある紙切れを母ちゃんへ差し出す。

 お礼と共に受け取りながら、母ちゃんは歯切れ悪く切り出した。


「……あの、御子柴 礼ちゃんのお母様と、連絡は…?」


 刑事さんは、あぁ、と苦笑しながら俺を見、母ちゃんへ視線を移して答えた。


「海外へご出張中だったとのことで……、やっと連絡がつきましてね。今夜にでもお戻りではないでしょうか」


 礼ちゃんへ、ストーカー規制法の適用を受けてはどうか、という話が持ち上がっている、と。右京が何年、更正施設へ入所するのか分からないけれど、出所後の万一に備えて、と刑事さんは説明してくれた。


「……親御さんへの連絡、頑なに拒否されてね」

「……お母さんとは……、あまり」


 茶を濁した俺の言葉を、刑事さんは、うん、と引き継いだ。分かっているよ、ということらしい。


「山田くん」


 穏やかな低い声が、自ずと俺の居ずまいを正させた。

 鋭い眼には、思いの外、優しい光。


「……これから、大変だと思う」


 大変。

 そうだな。何を以て大変、とするか。それもまた曖昧で不安だけれど。

 今の俺に手向けられるには、ピッタリな言葉かもしれない。


「事件そのものは、立件され、罰が下され、償いが終われば、風化する…、だが。心にも身体にも、残されたものがあるだろう?」


 そう言って、節張った左手の人差し指で、額から頬にかけて軌跡を描く。

 それは、俺の傷痕。俺は刑事さんを見つめたまま、ゆっくり頷く。


「囚われ続けて欲しくないんだ」


 きっと幾度も同じ様なシーンに遭遇せざるを得なかった人の口から紡がれる一言は、とても重く、だけど実現できるかもしれないと思わせる言葉だった。


 母ちゃんは、私が引き留めていれば、と泣いた。

 姉ちゃんは、私が付いて行っていれば、と悔いた。

 武瑠や心は、俺達が一緒だったなら、と嘆いた。


 誰のせいでもないのに、皆一様に、自分に出来たことがあったのではないかと自分を責めていた。

 俺だって。俺自身を何度となく責め、問いかけた。

 もっと別の方法があったんじゃないか、って。


「君たちは、誰も悪くない。それだけは、忘れないで欲しい」


 刑事さんは、また深々とお辞儀をする。

 快復したら署へ出向いて欲しい、とお願いされ、俺はさっきの言葉を噛みしめながら深く頷いた。


「……山田くんは」

「はい」

「あの頃の大和に、似ているよ。真っ直ぐな瞳が特に」


 ……何だろう。嬉しくて、こそばゆい様な。

 いや、あんなにスペック高くないから、恥ずかしい様な。

 ありがとうございます、とモゴモゴ言う俺を柔らかく見下ろしながら、刑事さんは病室を出て行った。


「神威ー、話 終わった?」


 退室する刑事さんを見ていたのか、間をおかずにカラカラと引き戸を開け、武瑠がにこやかな顔を覗かせる。次いで心がのっそりと。

 続くはずの礼ちゃんの姿が見えず、俺はそれだけでオタオタしてしまう。


「れ、礼ちゃんはっ?!」

「落ち着け、神威。美琴と一旦 自宅へ戻ったんだよ、着替えや何かを取りに。しばらく山田家で過ごすらしいぞ」


 トモも一緒にな、と心は引き戸を閉めながらきちんと説明してくれる。


「お風呂入れて、メシもガッツリ食べさせる、って。美琴、意気込んでたけど」


 どうだろうね、と眉尻を下げる武瑠は、きっと姉ちゃんの世話焼きが不発に終わるだろうことを予想している。俺は、うん、と頷くばかり。


 俺が目覚めて以来の礼ちゃんは、問いかければ応じるし、見つめればニッコリとそれは綺麗に笑ってくれる。元々、話すのは苦手だと言っていた様に、相変わらず輪の中心になることは無いんだけれど。所作ひとつひとつに、まるで生気が感じられない。


「……礼ちゃん、心だけどこかに置いてきぼりなんだ」

「……演技とかだったら良いのにね。ほら、実は神威の気が紛れる様に、てんでダメ子なフリしてる、とかさ」

「御子柴はそんな器用なヤツじゃないだろ」


 心は苦笑しながら、寧ろそうであって欲しいが、と追加する。


「……誰も悪くない、って。さっきの刑事さんが言ってた。礼ちゃんも……、」


 言いかけて、胸が詰まる。言葉にも、詰まる。


「……自分のせいだ、って。思いつめてるんだよ、御子柴は」

「……そんなこと絶対ないよ、って。そんな風に思うこと微塵もないよ、って、だいぶ言ってんだけどね、オレら」


 溜め息の行方は誰にも分からない。

 日常へ戻ることが出来たと感じたのは、俺の勘違いだったんだろうか。それは、まんまと右京の思惑に嵌まった気がして。訳もなく黒くて暗い気持ちになった。



 口内が切れて、上手く咀嚼出来ない俺の夕食はドロドロした流動食。全く食べた気にならない。礼ちゃんが作ってくれるご飯が食べたい。

 独り熱望しているところへ、宮成さんが顔を出した。


「あら、神威くんだけ?」

「……何かご不満ですか?」


 武瑠と心は、夕食が運ばれて来たタイミングで帰って行った。

 さっき、礼ちゃんから『もうすぐ着きます』という、絵文字ひとつ無いシンプルメールを受け取ったところ。


「可愛い彼女を見たかったのに」

「……もうすぐ来てくれますけど」

「本当? 針、何回か打ち直しながら待ってようかな」

「……止めて下さいね、本当に」


 ホホホ、と高らかに笑いながら、宮成さんは手際良く点滴の準備を始める。

 この人が針を打ち直すなんてあり得ないんだ。母ちゃんの細い血管も、どれだけ範囲が限られていようと、朝飯前の余裕で探り当てていたから。


「……こんばんは」

「あ! 礼ちゃん!」


 礼ちゃんの小顔がドアから覗いた瞬間、俺の表情はきっとパアッ、という効果音付きで明るくなったに違いない。視界の隅にいる宮成さんが、ニヤリ顔で腰に手を当て仁王立ちしている。


「あらあらあらあら! 噂通りの可愛い子ちゃんねぇ」


 え、という口の形で動きが止まった礼ちゃんへ、宮成さんは自分の名札を見せている。


「看護師長の宮成です。神威くんとはね、神威くんが泣き虫だった頃からのおつき合いで」

「あーもー、その話するなら、礼ちゃん見せませんよ!」

「何よー、神威くんのものじゃないでしょ。礼ちゃんは、なに 礼ちゃん?」


 御子柴 礼です、と自己紹介を終えた礼ちゃんを促し丸椅子へ座らせる。途端、礼ちゃんが口を開いた。


「神威くん、泣き虫だったんですか?」

「そこ食いつかなくて良いよ、礼ちゃん」


 そうなのよー、聞きたい?

 楽しそうに話す宮成さんにつられる様に、礼ちゃんの顔も綻んだから、俺はもうそれ以上、口を挟まなかった。

 面会時間、あと少しなんだけどなぁ。


 ひとしきり喋り倒した宮成さんは、ついでみたいに点滴のチェックをし、またね、と言い残すと嵐の様に去って行った。後には、静かな夜の空気がヒタリとやって来る。


「……礼ちゃん?」


 ポタリポタリと、等間隔で落ちる滴を礼ちゃんはボンヤリ見つめている。そのまま、ゆっくりと言葉を紡ぎ出した。


「……しばらく、神威くんのお家に泊めていただくの」

「うん、そうして? 俺も安心」

「……神威くんのベッドで、寝ても良い?」

「う……なっ、えぇっ?!」


 ベッド?! 俺の?! 寝るの?! 礼ちゃんが?!

 いやいやいや! 何だろう、何かいろいろ妄想してしまって! あああ、傷口開くかも!


「……駄目?」

「だっ…め、じゃない、けど、」

「いかがわしい本があるから?」

「触れないで! それ!」


 ふふ、と首を竦め、礼ちゃんは笑う。

 ……やっぱり、ちょっと。何か違う。

 こう、ポコポコと可愛い花が咲きこぼれる、みたいな背景が浮かんでこない。俺がそういう視点で見てしまっているからなのか。


「……そっかぁ、残念です」

「や……良いよ、良いけど。寝ちゃっても、構わないけど。何か、いろいろ、臭っても知らないよ? あのー、青春の汗の匂い、とかさ」


 ……何でこんなこと言い出すんだろ、礼ちゃん。

 俺の眉間に寄った皺は、俺の疑問を代弁してくれたようで。礼ちゃんは、神威くんを知りたいの、とポツリと漏らした。


「うー、分からない。俺を知りたいなら、直接 聞いてくれたら」


 俺はベッドの上に体育座りをしながら、素直な気持ちを口にした。と、礼ちゃんも、うーん、と唸る。


「……私ね、神威くんのお部屋に入ったことあるの」

「うん、知ってる。俺が熱出して倒れた時でしょ?」


 そう、と礼ちゃんの口元が緩む。

 元々シャープだった小さな顎が更に尖った様に見えて、何だか悲しくなる。ご飯、ちゃんと食べて……、ないんだろうな、礼ちゃん。


「写真が飾ってあったわ」


 礼ちゃんの口から丁寧にこぼれ落ちていく言葉。

 確かに何枚か、気に入った作品を壁にかけてたな。それなりに似合うフレームに入れて。俺、一応 写真部だからね。


「神威くんが写真を撮る時に感じたことを、感じたい。神威くんの毎日が息づいてる場所で。見てきた風景や、読んできた本とか、私に、神威くんを、記憶させたいの」

「……礼、ちゃん?……」


 物凄く、非日常的な、というか。口語体じゃなく、文語体、というか。

 礼ちゃんが静かに放った言の葉は、溢れんばかりの愛情、というよりも寧ろ、固い決意。


 礼ちゃんはシーツの上に両の肘をつき、掌を合わせ、親指に顎を乗せている。目を閉じて、まるで、祈っている様な。

 目を合わせてくれないから? どうしてこんなに、胸がチクチク痛む?

 でもそれはほんの瞬時で、礼ちゃんはハッとした様に俺を見つめ、綺麗に笑う。


「お姉さんがね、アルバムも見せて下さるの。楽しみ」

「え? あ、え? 俺の?」


 人差し指を自身へ向けるとコクリと頷かれた。

 ……何だったんだ、さっきの礼ちゃん。

 ちゃんと紐解けないまま、会話が進んでいくことに不安を覚えたけど、カタン、と丸椅子から立ち上がった礼ちゃんに気をとられ、俺は不安をまたそのままにしてしまった。


「礼ちゃん、あの……、」


 時刻は21時。

 ここは個室だけど、流石に大目に見てはもらえないだろう。面会時間は終わり。

 引き留めるつもりではなかったのに、俺は何を言いたいんだ?


 ――いや。一番、言いたいのは。


「……自分のせいだ、なんて。思わないでね」


 右京と対峙していた時も。意識がグタグダだった時も。夢の中でも。

 ずっと気になっていた。礼ちゃんが抱えるであろう、罪悪感。


「俺達は、誰も悪くない。悪い、とするなら、右京だよ。誰も自分を責め…」

「神威くん」


 絞り出す様な声に遮られた。

 礼ちゃんの蒼白い顔は、鼻の頭だけ小さく赤くなっている。

 血の気が無い唇を小刻みに震わせて。明らかに、潤んでいる黒い瞳。


 だけど。

 やっぱり、零れることは、ないんだね。

 涙。

 泣かないんだね。泣き虫なのに、礼ちゃん。

 大きく深く肩を上下させ呼吸を整えて、俺に一歩近づくと、囀ずるような小さな声で言う。


「……また、人のことばっかり。神威くんだって、怖かったでしょう? 痛かったに決まってる。それなのに、人の心配だなんて」

「俺は大丈夫だよ? 本当に。メンタル 強いんだ」


 両膝の前に組んでいた手をほどき、礼ちゃんへと伸ばす。と、足蹴にされた時に脱臼した左肩が少し痛む。俺の眉間に寄った僅かな皺を礼ちゃんが見逃す筈はなく、すぐに小さな手に掬いとられた。


「……礼ちゃんのが、心配」


 礼ちゃんは、俺の左手を両の掌で優しく包み込む。壊れやすい訳でもないのに。そうして、甲にゆっくり唇を当てた。

 俺の皮膚にはどこにもあり得ない柔らかさが、そこから伝わる僅かな熱が、吐息が。この、言い表しようのない気持ちを、全部消し去ってくれればいいのに。


「……私は、大丈夫」


 だけど。

 礼ちゃんは、平気で嘘をつく。優しい嘘を。

 俺は守ってもらわなくても大丈夫なのに。俺が礼ちゃんを守ってあげたいのに。


「……お姉さん、待ってくれてるから、行くね」


 シーツの上にそっと置かれた左手を、俺はボンヤリ見つめていた。




 ――翌日。



 朝から父ちゃん、母ちゃん、姉ちゃんが連れだってやって来た。いや、嬉しいんだけど、ありがたいんだけど。

 礼ちゃんは? 俺が口を開くより先に、警察よ、と姉ちゃんから制された。


「ミコちゃんはお母さんと警察に行ってる」

「……あぁ」


 礼ちゃんのお母さん、帰って来たんだ。本当に、大丈夫だろうか、礼ちゃん。あまり触れたことはないけれど、礼ちゃんがお母さんと、うちみたく仲良しじゃないのは知っている。

 ただでさえ、いつもと様子が違うし。俺のことだけじゃなく、妹尾さんとの関係だって。礼ちゃんの頭の中はいろんな問題が渦巻いている、っていうのに。


「学校は今日までお休みして、帰りにここ寄るって」


 ここ、と俺が起き上がるベッドを指す姉ちゃん。

 気のせいだろうか。

 姉ちゃんの話にいつものテンポの良さはなく、父ちゃんや母ちゃんの表情も冴えない。


「……何か、あった?」

「……神威。ちょっと、山田家 緊急家族会議」


 普段、物静かな父ちゃんがやんわりと話し始めた。

 まぁ、流石に大黒柱なだけあって、その言葉に気持ち、背筋がピンと張る。

 姉ちゃんはベッドの向かいに置いてあるソファーへドカッと座り、父ちゃんと母ちゃんは、俺の右サイドへ丸椅子を持ち寄り、腰かけた。


「会議、というより、神威に伝えたいこと、なんだけど。四つある」


 うん、と俺は顎を引き、諾の意を示す。

 結論から端的に。父ちゃんの話はシンプルだ。


「一つ目。昨日の夜、真坂さんとこの秘書がうちに来たんだ」


 何しに? と眉根を寄せた俺に父ちゃんは苦笑する。


「今回の件、内々に穏便に済ませていただけませんでしょうか、って。大人の話」

「……え」


 俺は知らず知らず目を剥いていたんだろう。

 母ちゃんも昨夜のその場面を思い出したのか、ちょっと吹き出しながら、ビックリよね、と同意する。


「札束がね、こう…出されて。幾らあったんだろうな。なかなかお目にかかれない額」

「……ね。

 お母さん、恥ずかしながら“住宅ローン完済できるわ”って考えちゃった」

「やっぱ、ああいうのって、紫の風呂敷から出てくるのね」


 母ちゃんも姉ちゃんも、父ちゃんの話に情報を追加する。

 本当に、あるんだ。そんな世界。ドラマ、というか、時代劇みたいな。


「勿論、即お断りしたけどね。大事な我が子が傷つけられてホイホイ金で済ませる親がどこにいますか、って。こんな申し出が表沙汰になったら、更に首を締めることになるんじゃないですか、って言ったら」


“私が勝手にやったことですから”


 うわー。“秘書が勝手にやったこと”って。耳にするよね? リアル国会答弁だ。


 まぁ、そこまでは良いんだ。

 父ちゃんは、ふぅ、と息を吐いて続ける。


「お父さん、今、来年度の事業計画を作ってるとこでね」


 父ちゃんも母ちゃんも市役所の職員。

 ここ数年、父ちゃんは市街地整備や緑地化計画を、母ちゃんは子育て支援を担当してる、と聞かされている。


「……事を成すにはそれなりに段階があって。支えて下さる方々は本当にありがたい。ここ数年来の取り組みがやっと軌道に乗りそうなんだけど…、真坂市議が、ね。支持者なんだ」


 言い淀む父ちゃんの、先の言葉は何となく見えた。

 なるほど。この話を断るのなら、計画は潰れますよ、ってことなのか。


「……どうするの、父ちゃん」

「うん。担当は外されるだろうし、場合に依っては、退職するけど。まぁ、心配するな。これが一つ目」


 ……って。アッサリ。えええっ!?


「なっ、なん、い、え、良いのっ?!」

「良いんだ。その報告が一つ目。二つ目…」

「ちょ、ちょっと、待って待って! 何かおかしくない? どうしてこんなに振り回されなきゃならない? 俺達が」


 そうだなぁ、と達観した様な余裕で、父ちゃんは組んでいた腕の位置を変える。


「真坂側の出方次第かな。まだ首に手をかけられてるかというと、そうではない。ただ、そうなったとしても、それは良い転機だよ。お父さんは、住民福祉の向上の為に全力を挙げるべき地方公務員ですが。それと我が子とは、天秤にかけられない」


 納得出来ない、と呟いた俺の唇は尖っているかもしれない。ガキみたく。

 でもやっぱり割に合わないと思うんだ。


「……右京、だったっけ? あの子。ある意味、憐れだと思ったよ」

「……うん」


 俺も似た様な想いを抱いた。あの修羅場で。


「親の、そういう力の使い方を目の当たりに生きてきたんだ。子どもは親の生き方をなぞるところがあるからね、是非を考える前に」

「……でも、親が力を持っていたとしても。妹尾さんは、違うのに」


 そう、と割って入った姉ちゃんは指をパチンと鳴らす。


「明日、謝りに来たい、って。万葉ちゃんとお父さんが」


 それが二つ目。

 そう言って、顔の前にVサインを作った。


 ……あ。

 父ちゃんは話題が次に移り、明らかに安堵している。

 突っ込みたい気持ちはまだまだあるけれど、姉ちゃんの様子じゃ、きっとそれを許さないし。

 外食のメニューでも買う洋服でも、サクサク決めて揺るがない父ちゃんだから、きっと今回もそうなんだろう。


「妹尾さん……」


 俺の眉間には引き続き濃い縦皺が刻まれる。

 謝りに? 何故?

 いろいろ手を尽くして助けてもらったのはこっちだし、寧ろ俺がお礼を言う立場じゃないかと思うのに。


「ミコちゃんママのこと黙ってて悪かった、って。あと……、もろもろ?」

「何、もろもろ、って」


 姉ちゃんは、さあね、という風に肩を竦め眉を上げては下ろした。


「メールにそれしか書いてなかった。詳しくは、明日ということで」


 ん、と了解すると、三つ目はね、と切り出す母ちゃん。


「ミコちゃんと、お母さん。……あまり仲良しじゃ、ないのね?」

「うん。そうみたい」


 クリスマスイブの日だった。初めて礼ちゃんの涙を見た日。

 お母さんみたいになりたくないのだ、と。確か、そんな話をしたんだ。


「他人様のお家のことにどこまで介入するかは、お母さん、常日頃から悩むところなんだけど」


 子育てが上手くいかない悩みや、保育園への入所相談、発達障害の不安だとか、母ちゃんは世のママさん方のいろんな相談事を受けている。


「……今、ミコちゃんには自分の心と身体を最優先で考えてもらいたい。ミコちゃんのお母さんに、そうお伝えして。智くんも一緒に、うちでしばらく預からせていただくお話をしてね。……特に、反対されなかったわ」


 ほんの少し間があいて、最後のフレーズを寂しそうに母ちゃんは口にした。

 それを目にして。

 顔も見たことのない、礼ちゃんのお母さんへ、俺は変な先入観を持たない様に、自分へ言い聞かせるのに懸命だった。


「……神威、四つ目。ミコちゃんのこと」


 姉ちゃんは、今日の本題はこれだとでも言わんばかりにソファーから身を乗りだし、右手の指で四を形どる。


「お医者さんには、行かないって」


 俺の眉間にはなお一層、深い線が彫られるようだ。

 お医者さん、とは、きっと昨日、刑事さんが紹介してくれた専門医だと思われた。姉ちゃんの言葉を引き継ぎ、母ちゃんがゆっくりと話し出す。


「神威の、ね……傷は。一生、完全に消えるものではないのに。自分だけ、癒されようとは思わない、って」

「なかなか、頑固だったな。ミコちゃん」


 昨日の山田家でのやり取りがどんな様子だったのか、父ちゃんの苦笑から窺い知るしかないけど。姉ちゃんも母ちゃんも否定しないから、それはもう頑なだったんだろうな、礼ちゃん。


「……皆でアルバムやら文集やら見てたの。私や神威が小さい頃の。ミコちゃん、ほとんど話さなくて、でも怖いくらい真剣に見入ってて」


 お医者さんの話を持ち出した途端、激しく拒否された、と姉ちゃんは覇気無く言う。


「……どうしたら良いんだろう。俺、どうしたら良い? 俺は、大丈夫なのに。礼ちゃんは、きっと、全然 大丈夫なんかじゃないのに」


 問いかけとも、独り言とも受け取られそうな俺の想い。

 否定せず、ただそのままを吸収して、寄り添ってくれる誰かが、俺にはいるけれど。


「……私は大丈夫、って。嘘つくんだ、礼ちゃん。俺…、拒絶されてんのかな。俺の傷、見るたびに……、」


 礼ちゃんの傍にいて。味わった苦しみも、痛みも、悲しみも。何もかも半分こにして。そのうちマーブルチョコみたく、どこがどっちのものかだなんて、分からないくらい。溶けて混ざって、白へ還っていけば良い、なんて。思っているのに。


「……これはあくまで、私の考えなんだけど」


 姉ちゃんは沈み行く場の空気を盛り返そうと、努めて大きな声を出す。


「普通に、してましょう」


 普通、と小さく反芻する俺を見て、大袈裟なくらい頷く姉ちゃん。


「鬱状態の人にね、元気出して! って発破かけるのが逆効果だったりする様に。今のミコちゃんに、気にしないで! なんて言葉は逆効果かな、と」

「……えー、もう俺、言っちゃったよ」


 お母さんも、と母ちゃん。

 お父さんも、と父ちゃん。

 いや、私だって、と姉ちゃん。

 武瑠からも心からも。

 一体どれだけの、気にしないで、が礼ちゃんへ浴びせられたことか。


「……気にならない訳、ないかなぁ」


 そうね、と姉ちゃんは続ける。あんたのその傷、と俺を指しながら。


「自分じゃ見えないだろうけど、やっぱり正直、痛々しい。直視しろ、罪悪感へ立ち向かえ、というのは。酷なのではなかろうか?」

「そんなこと言うつもりは、」

「無いの? 本当に? これっぽっちも無いと言い切れるの?」


 思わず口をつぐむ。

 そんなに強く答えを求められると、ここのところずっとモヤモヤ抱えている不安感が、ファイナルアンサーの出口を塞ぐ。

 ……待て待て、ちゃんと考えろ。俺が一番 不安なのは何だ?


 ――礼ちゃんが、離れて行っちゃうこと、だ。


 うん、そうだ。これは間違いない。

 礼ちゃんに罪悪感を抱いて欲しくなくて、俺は大丈夫だと伝えたけれど。自分じゃ見えない傷を見せつけて。


「……俺の、エゴ…?」

「……まぁ。神威も怪我してるし、弱ってるから、私史上最大限優しく言ってあげるけど。エゴだよね」

「……全っ然、優しくない」


 俺の反論は父ちゃんと母ちゃんの小さな笑い声に消される。

 いや、そうだけどさ。エゴだけどさ。右京の思い通りになんて、なりたくなかったからさ。

 そうやって、礼ちゃんの心を八方塞がりにしてたのは、実は俺だったのかも。


「だから。普通に、してましょう。お医者さんに行きたくないのなら、それでも良い。癒える他の方法があるのなら。ミコちゃんが逃げたければ、逃げ出しても良い」

「姉ちゃん……!」


 それは、俺が恐れている最たる事態なのに。


「あんたが掴まえに行けば良いだけのことよ、神威」


 格好いいな、美琴。

 父ちゃんの言葉に姉ちゃんは小鼻を膨らませている。腰に手を当てて。何様だ、一体。


「神威」


 母ちゃんがシーツをトントンと柔らかく触りながら俺に言う。

 きちんと、丁寧に、呼ばれる名前。俺に力をくれるんだ。


「お母さん、ミコちゃんへ、言ってあるから」

「? 何を……、」

「何があっても、お母さん達は。ミコちゃんを神威から引き離さない、って」


 いつかの、礼ちゃんの言葉。


“私が神威くんに酷いことをしたり、言ったりしてしまったら。どうか、私を引き離して下さい”


「……ありがと」


 コンコン、と。

 病室のドアが小さく音をたてた。

 引き戸が開き、礼ちゃんの小さな顔が先に覗く。

 俺と目がパッチリ合うと、ややぎこちない笑顔が広がった。


 ぎこちない、理由。

 それは、礼ちゃんのすぐ後に続く影のせいなんだろう。

 少し光沢のあるシルバーグレイのスーツをぴったりと着こなした細身の影。会釈しながら病室へ足を踏み入れ、まずは父ちゃん達へ視線を置く。次いで、俺へと。


「はじめまして。……礼の、母です」


 深く下げられた頭と共に、躊躇いがちにこぼれ落ちた言葉。

 その躊躇いの由来は。ここが病院であるという辛気臭さだとか、見知らぬ他人へ挨拶を送る殊勝さだとかに依るものではなく、偏に母親らしからぬ人から発せられた“母”という単語。

 俺達が抱く違和感以上に、ご本人が一番抱いているらしい。


 あの人は女なの。

 みたいな言葉の吐き方を、礼ちゃんはしていた。とても雑に、悲しげに。

 俺の目の前に礼ちゃんと並んで立つ人は、大袈裟じゃなく、礼ちゃんのお姉さんだと言っても良いくらい若々しくて、生活感が、まるで無い。

 アシメトリーにカットされた髪は、きっと単なる無造作ではなく計算されたお洒落で、紙袋を提げた手にはキラキラアクセサリーが重ねづけられ、ネイルアートって言うの? 長い爪には複雑な模様。


 ……何だったっけ、あれ。姉ちゃんが借りてきてたDVD。プラダを着た…悪魔? だったか。

 先入観を極力排除した俺が、礼ちゃんのお母さんへ持った第一印象は、あの編集長みたいだな、という陳腐ものだった。


「あ、えー……、山田、神威です。あの……、れ、あ、御子柴さん、とは。おつき合い、させていただいて、ます」


 ……あああ。グダグダのカミカミだ。

 健全な、とか入れた方が良かった? いや、うーん、チューしたけど。

 あ、結婚を前提に、でも良かった?

 というか。こんなの、言わない方が良かった?


 だってさ。お母さんの瞳は驚きを如実に物語っていて、部屋に入って以来、一度も目を合わさない礼ちゃんへと向けられた。

 似てない親子だな、って思ってたけど、大きくて黒いパッチリ二重のキラキラお目めだけは、お母さん譲りなんだ。そういえば、あの瞳、トモくんも。


「あ…そう、なんですか。何も…聞いてなくて。すみません。あの、刑事さんのお話ですと。礼が…、いろいろとご迷惑を」


 これつまらない物ですが、と大人の挨拶が交わされ、礼ちゃんお母さんからうちの母ちゃんへ、お見舞いの品であろう何かが入った紙袋が手渡される。

 お気遣いいただいて、とこれまた社交辞令。

 張りつめてはいないけれど、和やかには程遠い空気。

 何故だろう。


「迷惑とかじゃ、ありません。れ……、御子柴さんは、悪くありませんから」

「……いえ、でも」


 お母さんの伏し目がちだった目線が少し上げられたかと思うと、俺の額から頬にかけて、縫合の痕をなぞっていった。


「……本当に、申し訳ありません。その、怪我は……、元を辿れば礼が」

「大したことありませんから。元なんか辿らなくて良いです」


 出来るだけ横着な感じにならない様に遮ったつもりだった。

 お母さんから一歩下がった礼ちゃんはずっと下を向いたままで、厚めの前髪がサラリと顔を隠し、表情がよく見えないんだけども、お母さんが何か言うたびに、下唇を噛んでいる。

 そこだけが見えてる。そのうち切れて血が出ちゃうんじゃないかと心配なくらい。


「……お母さん」


 怒りを抑えているような。いや、何もかもを諦めているような。低くて抑揚の無い声。初めて聞く、礼ちゃんのそんな声。


「……元を、辿るなら、ね。お母さんが私を産まなければ良かったのよ」

「なっ、何…、」

「妹尾さんと、きちんと幸せになれば良かったのよ」

「礼ちゃん……、」


 礼ちゃんのお母さんは瞬時、顔を紅くしたものの、今は明らかに青ざめている。

 なんで、という小さな呟き。中学生の礼ちゃんに修羅場をくぐらせたとはいえ、さすがに相手の素性までは明かしていなかったのだろう。


「皆、知ってるわ」

「礼ちゃん、もう、」

「私は、友達を失くして……、何もかも、失くすんだわ」


 礼ちゃんはクルリと身体の向きを変え、俺に一瞥もくれず病室から出て行く。


「礼ちゃんっ!!」


 ドロドロ流動食しか受け入れてない鈍った俺の脚は、脳からの指令に反発する。ベッドから降りようとしただけなのに、転がり落ちてしまう。


「あっ、痛ったっ!」

「寝てな、神威!」


 立ち竦んだまま動けずにいる礼ちゃんのお母さん。

 俺も冷たい床にへたりこんだまま、疾風の如く礼ちゃんを追った姉ちゃんの、見えなくなった背中を見つめていた。


「……友達、って……、何……」


 分からない、とでも言いたげに礼ちゃんのお母さんはかぶりを振る。俺は肩を貸してくれた父ちゃんに掴まりながら、ゆっくり立ち上がった。

 本当に、歯がゆい。身体も、想いも。何一つ、上手くいかない。


「礼ちゃんの、友達……、ご存知ですか」


 お母さんは、チラと俺に視線を向けると、またかぶりを振りながら病室のドアを見遣る。


「一番の仲良しは、妹尾さん、です。……妹尾、万葉さん」

「せのお、まよ……」


 力なく空に舞う妹尾さんの名前。全く知らない遠いどこかの人みたいだ。


「……まよ、って。万葉集の万葉、と、書きますか?」

「はい」

「……そう、ですか」


 言って、ふう、と大きく息を吐いた。前髪をかきあげ、額に手を当てて合点がいった、という風に。


 万葉、という名前。

 珍しい漢字を当ててあるな、と思った覚えがある。真世、だって、麻代、だってあり得る。だけど、礼ちゃんのお母さんは、分かったんだ。妹尾という名字に続くまよという名前は、万葉集の万葉だ、って。それは、特別な、何らかの事情が隠されている関係なのだと、自白している様な。


「礼ちゃんと妹尾さんが出逢って仲良くなったのは、偶然かもしれません。……そうじゃないかもしれません。少なくとも妹尾さんは、本当に礼ちゃんを大事な友達だと思ってる。礼ちゃんは……、いろいろあって、気持ちがぐちゃぐちゃになってます」

「……本当に?」


 何とも感情が読み取りにくい表情を向けられた。しかも、何に対しての“本当に?”なのか。礼ちゃんのお母さんは、寒い訳でもないだろうに両腕を抱え込む。コツン、とリノリウムの床を鳴らす高いヒールの音。


「……何が」

「本当に、友達だと?」


 すぅ、と息を吸い込み、吐き出すと同時に、堰を切った様に溢れだす言葉。


「私は、妹尾さん家をそりゃあメチャクチャにしたのに。礼と同い年なら、家庭が崩壊してく様も、その原因も、父親の不倫相手の家に乗り込む母親の姿も見てんでしょうに。それでも、礼を本当に大事な友達だと?」


 唇も、頬の辺りもブルブル震わせながら、礼ちゃんのお母さんが口にした疑問の答えは、妹尾さんにしか分からない。……でも、きっと、礼ちゃんも。


「……礼ちゃんも、お母さんと同じ様に思ってるんです。妹尾さん本人の口からは、何も聞けてないし」


 ごめんなさい、と細い声が聞こえた。

 顔を両手で覆い、次いでこめかみを押さえながら眉間に深い皺を寄せているお母さん。


「……この場でこんな話 したってしょうがないのに。ちょっと、混乱してて。あんな礼を見るのは初めてだし。警察沙汰なんて……、」


 あなただけじゃないですよ、と。母ちゃんの柔らかな声がした。


「皆、混乱してるんです。当たり前だった日常を乱されて。元に戻りたいのに、完全には戻れなくて」


 そう言って礼ちゃんのお母さんを見、俺を見る。

 完全には戻れない。それは。きっと、俺の傷のこと。

 それを目にし続けなければならない、礼ちゃんの罪悪感。

 知らなくても良かった妹尾さんとの関係を知らされて、危うくなっている二人の友情。

 危うくなっているのは、俺と礼ちゃんも、かもしれない。

 考えたくもないけど。認めたくもないけど。


 俺の真新しい携帯電話が振動し始めたと同時に、マナーモードにし忘れたらしい父ちゃんと母ちゃんの携帯電話も、それぞれに短い着信音を鳴らす。

 姉ちゃんからのメールだ。


『ミコちゃん、確保! 一旦、家へ帰る』


 液晶画面を開いたまま、俺は礼ちゃんのお母さんの目の前へ持って行った。


「……俺、礼ちゃんが、好きなんです」


 パチン、と携帯電話を折りたたむ。お母さんの瞳がちょっとだけ見開かれた。


 ……あぁ、俺。何 言ってんだろ。

 彼女のお母さんと。しかも自分の親も前にして。


「……誰よりもへこんで、まいってるのは、礼ちゃんです。何とかしてあげたいけど、どうしたら良いのか、ハッキリ分かりません。一緒に、考えてくれませんか?」


 お母さん、らしからぬ風体に、多少の嫌悪感を抱いていたのは事実だ。でも、お母さんらしからぬ人に対してだからこそ、俺はこっ恥ずかしいセリフを躊躇いなく言えてるのかも。


「……私が?」

「はい」

「……礼のことを?」


 だんだん小さくなる礼ちゃんのお母さんの声。

 心細さをかき消す様に、俺はもう一度、はい、としっかり口に出した。


「……わたし…、知ってるんでしょ? 母親らしいことなんて何一つ……」

「大丈夫です。俺だって、彼氏らしいこと出来てません」


 そう言ってから気づいた。

 駄目じゃない? キッパリ言い切るところじゃないんじゃない?

 そんな頼りなさげな彼氏とつき合わせてられるか、って思ったりしない? お母さんとしては。


 俺だけ内心焦っていると、ふ、と聞こえた嘲笑。

 礼ちゃんのお母さんは、自身を抱きしめていた腕をほどき、首の後ろへ右手をかき入れ髪の毛を弄っている。


「……私、18で礼を産んで。ずっとほったらかしだから。何もかも今さら」


 吐き捨てる、という形容がしっくりとくるお母さんの口をつく悲しい言葉達。

 ふいに、5歳の礼ちゃんが脳裏を過る。顔とか、よく分からないけど。

 デパートの屋上でいつまでも戻ってこないお母さんを待ち続けている、礼ちゃんの姿。


 泣いた、って言ってたっけ。いや、言ってなかったな。

 怖くて、悲しくて、人混みが苦手になった礼ちゃん。

 我慢して我慢して、そうやって自分を支える根本を、少しずつすり減らしてきた礼ちゃん。


 お母さんに出来ることあるのに。お母さんにしか、出来ないことが。


 カタ、と音がした。

 母ちゃんが丸椅子から立ち上がり、礼ちゃんのお母さんの傍へ寄る。片手にパイプ椅子。

 あぁ、礼ちゃんのお母さん、ずっと立ったままだった。気が利かなくてごめんなさい。


 母ちゃんは、礼ちゃんのお母さんを椅子へゆっくり座らせる。細い肩にそっと手を添えて。


「……泣きたくなりません?」

「……?」

「産まなければ良かったのよ、って言われるなんて。痛くて苦しくて大変な想いをしながら産んだのにね」


 途端、堤防が決壊したみたいにお母さんの瞳の下辺から涙が溢れ出した。

 俺はちょっと身動ぎ、何となく体育座りへと縮こまる。大人の泣く姿って、そう見ないから。


「……島、では。あ、後継ぎ、で……どうしても、っ。おと、男の、子を産め、って……」


 島を出たかったのに。都会で颯爽と働く女性に憧れていたのに。

 高校卒業前に結婚させられて。相手は地元の旧家。

 一体、自分はお嫁さんなのか、新しく迎えられたお手伝いさんなのか、分からず。

 産まれてきた子は、女の子。


 不出来、と烙印を押され続けたお母さんの心はすっかり折れて、礼ちゃんを置いて家を飛び出したんだそうだ。でも、追って来られて礼ちゃんを突きつけられる。


「……わたし、親が、いなくて…、し、親戚が……、おばちゃん達が、いなかったら、礼は……」


 俺は体育座りの両脚へ頭を埋める。

 気の毒なお母さん。

 でも、俺はやっぱり礼ちゃんを好きだから。

 モノみたく扱われた礼ちゃんが、悲しくて可哀想で堪らなくなった。


「愛情が、欠片も無いわけじゃ、ないでしょう? お子さん達のこと」


 母ちゃんは優しい声で難しい質問をする。

 そんな深層心理に問いかける様な。礼ちゃんのお母さんだって、自分自身で気づいてなさそうな。いや、ある種 逃げ道が無い、厳しい質問とも受け取れる。

 俺の、考えすぎ? だって、母ちゃん、結構な眼力。


「……分かりません。智なんて……、妹尾さんを、手に入れる為の。手段に、使ったんですから」


 少ししゃくりあげながらも涙の大洪水は治まった礼ちゃんのお母さん。母ちゃんの視線から目を逸らせずに言う。


「……俺、あると思うんです。お母さんに、出来ること」


 母ちゃんから俺へ、ゆっくりと顔を向け直したお母さんは、何? と短く問う。俺は瞬間 迷って、母ちゃんと父ちゃんの顔を見つめた。


 山田家では、簡単に答えをもらえなかった。何かにつけて、言われてきた。

“考えろ、神威”

“答えだけ、すぐもらったってお前の身につかないよ”


 この場合。

 礼ちゃんのことを、智くんのことも、よくよく考えていただきたい俺は、何と言って礼ちゃんのお母さんへ伝えるべき?


「……礼ちゃんは、泣き虫さんですけど。ここのとこ、もうずっと泣いてなくて。俺は、それが心配です」

「……山田くん。礼は……、私の前じゃ、泣かないと思う。こんなの自慢にもならないけど」


 元々 華奢なお母さんは、肩を落とし椅子に力なく座っているせいか、ますます細く小さく見える。俯き加減で、我慢ばかりさせてきたから、と小さくつけ足した。


「我慢……、してますよね、礼ちゃん」

「うん、ずっと…ね。きっと」

「礼ちゃんが背負ってる荷物、軽くなりませんかね?」


 大きな黒目が俺を見据える。

 礼ちゃんの瞳を思い出して、俺はちょっと鼻の奥がツンとした。


「軽く……なる、のかな」


 俺は体育座りの脚を解き、あぐらだかヨガのポーズだかの格好で前のめりになる。礼ちゃんのお母さんへ向けて大きく頷いた。


「……俺は、彼氏、だから。礼ちゃんの特別、で ありたいです」


 でも、と言葉を切る。

 綺麗にゆるりと笑ってくれる礼ちゃんの、心の底までは笑みに溢れてないことを、俺は痛感してる。


「でも、今の俺は、たぶん。礼ちゃんを“特別”悲しませてしまうんです。ずっと傍にいて、礼ちゃんが抱えてるもの、半分持ってあげたいけど。……けど、無理みたいだから。だから誰かに手伝ってもらわないと」


 俺は、自分で口にした言葉にちょっと悲しくなって、無機質な床をボンヤリと意味なく見つめていた。

 ガタン、と響くパイプ椅子が揺れ動く音。


「……礼と、話をしてみます」


 慌てて焦点を定めると、立ち上がり遠くどこかを見つめているお母さん。


「……そうですね、17年分」

「じゅうなな……? あ…、」


 そっか。昨日、誕生日だった。

 言いながらお母さんは右手で前髪をかきあげ、もどかしそうにグシャグシャとかき乱す。

 愛情が、ないわけ、ない。ちゃんと誕生日 覚えてるじゃん、お母さん。

 なんてことを考えていると、目の前に深々とお辞儀をしているお母さんの頭があった。


「わ、ちょっ――」

「御子柴さん…、」

「ありがとう。……礼を、そんなに好きになってくれて」

「え…、と」

「大事に思ってくれて……、ありがとう」


 いや、もう、俺。よくよく考え……るまでもなく、礼ちゃんのお母さんの前で重ね重ね愛を叫んで。今頃、恥ずかしい。今さらだけど。お母さんじゃないのに、お母さんとか呼んじゃって。


「あの……、こちらこそ。ありがとう、ございました」


 俺はベッドの上で正座をする。これはね、お母さんへ言いたかった言葉。


「何…、」

「礼ちゃんを、産んでくれて。ありがとうございました」

「! 山田くん……、」

「あ、あと礼ちゃんのことを真剣に考えてくれて。ありがとうございます」


 武士みたく丁寧に手をついてお礼をし、チラと見上げると、お母さんの目は、またユラユラと潤んでいる。


「……礼ちゃんが泣き虫なのは、お母さん似なんですね、きっと」


 端整な顔立ちをくしゃりと歪ませると、堪えきれなかった一筋が零れ落ち、お母さんは慌てて俺に背を向けた。

 じゃあ、一緒にうちへ帰りましょうか、と父ちゃんが促す。礼ちゃんのお母さんはコクリと頷くと、俺にもう一度 頭を下げ、ドアへと歩を進めた。


「神威、グッジョブ」


 父ちゃんは、俺の不揃いな前髪を掬うと、グシャグシャとこねくりまわして満面の笑みを向けた。


「う、ん……や、でも父ちゃんの退職話には俺、納得、」

「蒸し返すなよ。お前、格好良かったのに」


 そうよ、と言いながら母ちゃんも近づいてきた。

 フワリとハグされれば、母ちゃんのセーターからは、馴染みの柔軟剤の香り。


「……この病院じゃ、神威、泣いてばっかりいたのに」

「……や、母ちゃんも蒸し返すなよ」


 いつの間にかこんなに大きくなったのね。

 母ちゃんは意味深な言葉と笑みを残して、ドアの向こうへと消えて行った。


 17歳の息子に。大きくなったのね、って、どうなの?

 17歳の礼ちゃんに。お母さんは、どんな話をするんだろう。

 願わくは、良い方向へ。全くもって、他力本願なのが不本意。


 ――目を閉じて、考える。


 初めて誰かを好きになって。その気持ちさえ忘れなければ、全てが上手くいくのだと思ってた。

 我儘も、ヤキモチも、不安も、悪意も、悲しみも、傷も、全部。難なく乗り越えられる、って。

 強くなって。相手を思い遣って。派生効果や相乗効果で、もっともっと離れられなくなって。


 数学は、好きな科目。

 正しい公式を用いて、きちんと回答を導けた時の爽快感が良い。

 でも、ある日、知ったんだ。『解なし』って場合があることを。


 俺は、知りつつある。

 好き、だけじゃどうにもならない場合があることを。



 ***



「……神威、瞑想中?」


 心地好い声が上から降ってきた。葛西先生だ。


「ミコちゃんが元気ないから、神威もへこんでるんだよー」

「負の連鎖だな」


 ……聞き慣れた声も。俺は口元を緩ませると、ゆっくり目を開けた。


「……悟りを開きたくて」

「そんなに煩悩だらけなの? 青少年」


 ハハ、と小さく笑うと、先生はベッドへ立て掛けてあったパイプ椅子を片手で器用にガシャリと開き、しなやかに座る。

 ……何だろうな、この所作の鮮やかさ。


「……先生って。いちいち格好良いですね。嫌になる」

「あれ。刺々しいね。悟りの境地まで達してないの?」


 その銀縁眼鏡で何もかも見透かしてやろうとでも言うように、先生はフレームに手をかけ位置を正す。

 丸椅子へ座り、心配そうな色を瞳に浮かべている武瑠と心の姿も目に入って。俺はたまらず、かぶりを振る。


「……御子柴と、何かあった?」

「……まだ、何も」

「……“まだ”?」


 上手に隠すことが出来ない胸のわだかまりは、俺の言葉の端々に不安の色を撒き散らす。それはそのまま、更なる不安を相手に与えるだけかもしれないのに。先生はそれを、柔らかく摘まんでくれる。


「……すみません。こんなこと言いたいんじゃないのに」

「神威、無理して溜め込むな」

「そうだよ、何でも良いから吐き出しなよ」

「言葉が無理なら、行動でも良い。殴りたきゃ武瑠を殴れ」

「え、オレ?!」


 ひっでー、心!

 抗議する武瑠の声は、ほんのちょっとだけ上ずっている。わざとテンション高めなのは、お見通し。もう7年のつき合いなんだから。

 ここはお前が犠牲になれ、と。相変わらず上からな態度の心も。チラリと俺を盗み見てるし。

 葛西先生は、右頬をコリコリと掻きながら、お前ら何しに来たの? と呆れながら笑った。


「……日常って。簡単にリセット出来ませんね」

「……そうね」


 葛西先生は、質感の良い黒の革鞄から何枚かのプリントを取り出しながら言う。


「でも、何度でも何度でも、君は生まれ変わっていける」

「……え?」

「俺が好きな歌の歌詞」


 蘇生、と心が歌のタイトルを明かす。

 先生は、透明のクリアファイルへプリントをまとめて入れると、俺の手元、シーツの上へパサ、と置いた。“春休み中の注意事項”……そうか。もうすぐ終了式。


「肌は新陳代謝を繰り返す。神威がそうと気づかないうちに、傷は綺麗になっていく。人間は元々、そんな内なる力を秘めている」


 先生の口調なのか声音なのか醸し出す雰囲気なのか。俺のささくれた部分を滑らかに整えていく。不思議な、居心地の良い波長。

 ……本当にこの人が、昔 バイクをぶっ飛ばして暴れてたなんて信じられない。


「……でも、先生。完璧には戻らない。……礼ちゃんの気持ちも」

「……俺、失敗したよね」


 本当に悪かった、神威、ごめん。

 先生はおもむろにそう言うと、座っている両膝へ手をついて肘を曲げ、頭を下げた。


「神威の家で、その……。通話を聞いてて」


 葛西先生はいてもたってもいられず、現場へ突入するという刑事さんへ、自分も連れて行く様に無理強いしたらしい。


「榊さん……あの刑事ね。邪魔だ、って言われたけど。神威がヤバイなと思って」


 それにほら、榊さん達は神威の顔を直接知らないし、弓削や吉居を連れてく訳にはいかないし。

 参上した理由を懸命に正当化する先生は、若干 気の毒だ。


「……俺、焦ってて。御子柴のことまで気が回らなかった。妹尾にも、ね。まさか、御子柴が現場へ来るとは思わなかった」


 出来るだけ背中に隠して、血みどろの顔を、礼ちゃんから見られない様にしてくれたらしいけど。

 結局、礼ちゃんは先生と一緒に救急車へ乗り込んだ。

 誰をも押し退けて。俺の手を握りしめて。神威くん、神威くん、と何度も繰り返し名を呼んで。

 私のせいで、ごめんなさい、と。何度も謝りながら。


「……あんなの、させるべきじゃなかった」


 先生の頭は、項垂れたまま。


「……先生も、人の子なんですね」


 顔をあげて欲しくて、ちょっと外れたことを言ってみる。

 前髪に隠れているけれど、目線だけ俺にくれた先生。不意をついて、先生の前髪をかきあげた。


「うわっ?! ちょっ、神威?!」

「「「あー!」」」


 ……なるほど。なるほど、なるほど。これは……隠しておきませんと。


「……ちょっ、テメ、誰に……あっ! 榊さん?! あのオヤジか!」


 ブクククク、と武瑠も心も身体を二つ折りにして笑っている。くっそー、と歯噛みする葛西先生の顔は悔しそうだけれど、瞳には優しい色。

 子どもみたいで、大人。飄々としてるけど、熱くて。ただのイケメンじゃない、聖職者。

 何でも格好良くソツなくこなせる人かと思ってた。

 だから変に嫉妬したりしてたのに。地団駄 踏みそうなくらい、悔やむことがあるなんて。


「葛西先生が、担任で良かったですほんと」


 冷静な判断を欠くくらい、俺のことを真剣に心配してくれてた、ってことでしょ?


「は? 何 ゴマすってんの? 神威。お前、春休みまで学校休んでも評定5にしてやろうと思ってたのに」

「大人げないな、葛西」

「うるせーよ! 上からの物言いは止めろ!」

「ねー、センセ、オレもそうなっちゃうのかなー」

「知らねーよ! ちょっと黙れ 吉居!」


 ガラ、とドアが開けられ、宮成さんが顔を出した。


「……うるさいわよ、神威くんとこ。男ばっかりでむさ苦しいったら」


 コホ、と咳払いをして、先生は優雅な笑みを宮成さんへ向けた。

 ドアが閉められたことを確認すると俺へと向き直り、神威、ケータイ、とぶっきらぼうに言う。


「神威の個人情報、くれ」

「え、なん」

「いーから! 特別」


 うちの高校は、校則では携帯電話の携行は不可、なので。

 クラスメイト同士の実態はともかくとして、先生の個人情報を知っている生徒は、まずいない。葛西先生は人気者だから、喉から手が出るほど欲しがっている女子達が数多いたはずだ。

 ……で、俺? 特別?


「あ、女子にバラすなよ。ネットにも書き込まないで下さーい」

「しませんよ、そんなこと!」


 先生は何だかお洒落なスマートフォンをサクサク操り、そうこう喋っている間に、手渡した俺の携帯電話と赤外線通信を終えた。


「……お前、メモリ少ないな」

「……ポリシー、です」

「意味 分かんね。礼ちゃん(ハート)って何だよ」

「……バカップル、ですから」


 ……そう。そんな話をしてた。つい、この前のことなのに。物凄く遠くに感じてしまうのは、何故なんだろう。


「バカップルの未来を見届けたいから。特別に俺の貴重なメモリを進呈するよ」


 あ、お前らも要る?

 ついでの様に武瑠と心へもスマホを差し出しているけれど。ちゃんと計算ずくのはず。


「俺さ、現場で見張り役のガキ、ボコっちゃったから」

「ええっ?!」

「いや、軽ーくよ? 妹尾パパが何とかしてくれるらしいけど。神威の担任は、外されるかも、だから」


 だから、ね。

 御子柴のことでも妹尾のことでも。何でも良いから。いつでも良いから。

 かけてきて。


 わずかにも紅く染まらず、照れ臭いそんなセリフをサラリと言い切った先生は、やっぱり格好良かった。

 こんな格好良い人と、俺の瞳の真っ直ぐさは寸分も違わない? ちょっと疑問だ。

 でも俺は嬉しくて。魔法の言葉をもらえたみたいで。大きくゆっくり頷いた。




 三人が帰ってから、俺は姉ちゃんへメールを送った。

『俺の机の上の箱を持ってきてくれない?』と。

 程なくして返信があった。

『ミコちゃんが神威と話したいって。今から行く』と。


 姉ちゃんのメール本文は、そこから少し行間が空いていて。


『泣くなよ、神威』


 と続いていた。


 ……泣かないよ。簡単には、泣きませんよ。俺はね、とうの昔に泣き虫は卒業したんですよ。

 姉ちゃんは、礼ちゃんを前にして、どんな予感を抱きながら、スマホの画面とにらめっこしたんだろう。

 直情的だけど、心の機微には聡い人だから。お母さんと話をした礼ちゃんに、きっと何かの変化があったんだな。


 ありがと、姉ちゃん。

 俺は、個室の窓を開けようとベッドから降りた。


 病院内の空気に混じる薬品の匂いは、俺に悲しみをもたらす。

 嗅覚ってきっと、自分が考えてる以上に記憶と結びついているから。母ちゃんを失うかも、と泣いてばかりいた小さな俺を思い出させる。


 ……泣く、かもな。俺。

 今度は、礼ちゃんを失うかもしれないんだもんな。

 ガラ、とノックも無しにドアが開く。いつも通り。

 遠慮がなく無礼な、あえての、いつも通り。

 姉ちゃんは手元に小さな箱を抱え、病室へ入ってくる。

 続く礼ちゃんは、デニムのワンピースにダウンのベストを着ていて、足元はハイカットのスニーカーで、俺はボンヤリと、初めて見る服だな、なんて考えていた。

 神威くん、と小さな声。小さく浮かぶ笑み。つられて俺の口元も緩む。


「はい、これ」


 姉ちゃんはス、と俺へ箱を差し出した。

 ありがと、と言いながら受け取ると、カシャリ、と箱の中身達がたてる音がやけに耳につく。

 姉ちゃんの手は、なかなか箱から離されなかった。俺に暗い視線を置いたまま。

 眉間に皺を寄せて。口を尖らせて。

 ……何なの? それ。俺の代わりにそんな顔してんの?

 俺はもう一度、ありがと姉ちゃん、と口にする。

 ダラリと身体の脇へ、力なく右手を降ろす姉ちゃん。


「………ミコちゃん」

「………はい」


 何かを言いたそうに口を開いて、でも姉ちゃんは口を閉じ唇を噛んだ。


「……私は、先に帰るから。……うちへ、帰ってくるなら。電話してね、私のケータイに。すぐに、迎えに、来るからね」


 姉ちゃんは、穏やかな声で、一語一語くっきり丁寧に言葉を紡いでいく。礼ちゃんに、刻み込まれれば良いと願っているように。


「………はい。美琴お姉さん。本当に、……いろいろ、すみませんでした」


 姉ちゃんの車の鍵が掌の中でチャリ、と鳴った。

 じゃ、と短く言うと、姉ちゃんは振り向かず、病室を出て行く。残されたのは、静寂。

 だけじゃないか。

 ほんの少し開けた窓の隙間から聞こえる車のエンジン音。救急車のサイレン。顔も知らない誰かの声。


「………礼ちゃん」


 俺はベッドの上であぐらをかいていた脚を解くと、横へ投げ出しブラブラさせた。立ったままでいる礼ちゃんの右手をそっと取る。俺の方へ近づいてくれないかと、少し手前へ引き寄せた。

 ベッドへ座っている俺と、あまり目線の高さが変わらない礼ちゃん。手を引いて、その反応の軽さに驚いた。よろける様に俺の方へと歩を進めれば、静かな床がキュッと音を鳴らす。


「……礼ちゃん。これ。ちょっと遅くなったけど」


 誕生日プレゼント、と添える。

 礼ちゃんの、相変わらず冷たい右手に箱を乗せ、左手は箱の蓋へ。


「ラッピングがね、中途半端で申し訳ないんだけど。開けてみて?」


 俺の動作を訝しく眺めていた礼ちゃんは、箱の蓋を取り、黒く大きな瞳をさらに大きく見開いた。

 ……あ、ほら、また。下瞼の縁にじわりと水分が滲み、鼻の頭が紅くなり。


「……神威くん……!」

「……3月ってね、調べたら誕生石が三種類くらいあって。アクアマリンと珊瑚とブラッドストーン」


 さんざん迷った挙げ句、俺は礼ちゃんへ手作りアクセサリーを作ることにしたんだ。

 大体、女の子への何か、なんて買ったこと無かったし。そもお店に買いに行く勇気が出なかったし。高価なブランド物なんて、俺の小遣いじゃ手が届く訳ないし。

 手先の器用さには自信がある。礼ちゃんとお近づきになれた、そもそもを思い返すと、もう他のアイディアは潰えた。


 ワイヤーで天使の羽のモチーフをくっつけた誕生石をトップにしたネックレス。シルバーや革紐にビーズやトンボ玉や他のパワーストーンを通したバージョンもある。お揃いのブレスもそれぞれ作って全部で8点。


「……凄い……、綺麗……」

「あのね、春夏秋冬、それぞれのイメージで作ったんだよね。あ、や、別に礼ちゃんの好きな様にしてくれて良いけど。……えーっと、」

「?……な、に…、」

「……そもそも。……これ、気に入ってくれた?」


 礼ちゃんを見つめる俺の目はよほど不安に彩られていたのか。驚きの表情を見せた礼ちゃんの瞼の縁からは、堪えきれなかった滴がついに転がり落ちた。


「……あ、」

「……ごめんね、ごめんなさい…っ、ありがと、…神威くんっ…!」


 礼ちゃんの涙声が右の耳元で聞こえる。礼ちゃんは箱を右手に持ったまま、俺の上半身を柔らかく抱きしめているから。

 左手から滑り落ちた箱の蓋が床へ当たって、カタと乾いた音をたてた。


「……礼、ちゃん…?」

「……わ、私っ、こんな素敵な…た、誕生日、プレ ゼントっ、…もらったことなく……っう、れしくて…ど、したらいい、かっ……、」

「……あああああー! 良かったー!」


 俺はちょっとだけ礼ちゃんを強く抱きしめる。背中をトントンと優しく叩いて。しゃくりあげながら強ばっている礼ちゃんの身体が解れないかと思いながら。


「ごめんね、って言われたから。ドン引きされたかと思った」

「ち、違っ…、」

「うん、違ったね。どう反応して良いか分からなかったんだね」


 あー、良かった! ともう一度繰り返す。ちょっと大袈裟に、わざとらしく。


 だって、ね?

 礼ちゃんと俺との距離は、今、とても近いから、礼ちゃんの鼓動も脈打つ速さも、自分のものみたく感じられるよ。

 嬉しくて、ただそれだけで、ドキドキしている訳じゃないことくらい。俺が恋愛初心者だとしても、分かるよ。


 あるんでしょ、言いたいこと。言いにくいこと。泣かずにはいられないこと。

 だから身体も固くてぎこちないままなんでしょ?


「……神威、くん……」


 あぁ、俺。何をどう考えれば良いのかな。正気でいられるかな。

 ……俺を、見て、言う? とても、見て、言えない?


「わ……私……、」


 礼ちゃんの頭や肩がゆっくりと俺から離れていく。離れきる間際、俺の下唇が啄まれた。すき、に似た音をたてて離れる柔らかさ。涙まじりで、しょっぱい。


 礼ちゃん、ずるいよ。それ、計算?

 俺、まともに考えられなくなるじゃん。


「……わ、私……、逃げて、も…い…?」


 鼻水だか涙だかぐっちゃぐちゃの顔で。それでも可愛らしさは損なわれてなくて。

 ずるいよ。

 俺のこと、真っ直ぐ見て。こんな時に。ずるいよ。それも。


「……礼ちゃんって。おバカでしょ」

「……はい」

「……俺が “あぁ、そう、分かった。行ってらっしゃい”とかって。言うとでも思ってるの?」

「……思って、は…ない、の」

「もう逃げない、って。言ってなかった?」

「……言って、ました」


 なら、と言いかけて止めた。

 礼ちゃんは箱の中をじいっと見つめていて、大きな瞳から零れる滴が中身めがけて落下していく。防水加工してないなあ、それ。

 ベッドサイドに置かれたティッシュの箱から柔らかな紙を何枚か抜き取ると、礼ちゃんの顔の前へゆっくりと差し出した。


 ありがとう、と丁寧に受け取る礼ちゃんを。

 いつもすっぴんだから何の躊躇いもなくゴシゴシ顔を拭く礼ちゃんを。

 箱の蓋を落としたことに気づいて、慌てて周囲を見回して、床から拾い上げ、愛しそうに撫でて箱の下部へはめ、中身を見つめながら大事そうに抱えている礼ちゃんを。


 俺は嫌いになんかなれやしない。

 およそ普通のカレカノ間で交わされないだろう、突拍子もないことを言われても。


「……礼ちゃん」


 俺は、自分の右隣に空いているスペースをポンポン、と叩いた。ここへ座って、と促す様に。鼻をスン、と啜りあげながら、礼ちゃんは静かに腰を下ろす。


「……神威、くんは」

「……はい」

「……どんな、魔法を…使ったの?」


 魔法? と俺は力なくなぞる。

 一体、この会話はどこへ向かうんだろ。不思議と不快感は無いけど。


「……おか…さんが。ごめんね、って。今、まで。ほ…んとに、ごめんね、って。び、びっくり、した。謝られた、こと、なんて。一度、も……なかった」


 礼ちゃんへ頭を下げるお母さんの姿と、驚いたまま動けずにいたであろう礼ちゃんの姿は、容易に想像できた。

 お母さん、潔いんだな。そういう人は、嫌いじゃない。


「……産まなければ、良かった、って。正直、何度も、思った、んだっ…て。でも」


 礼ちゃんは、そこまで言うとちょっと息を継ぐ。

 しゃくりあげながら話すのはきついだろうに。口数少ない普段の礼ちゃんからすると飛躍的に、胸の内を吐露している。

 ただ一方的に聴いているだけの受身な俺。だって、体の良い相槌なんて打てやしない。逃げたい、の深意が分からないままでは。


「……あんな、に 素敵な、か、彼氏が。産んで、くれて、ありがと…って。わ、たしの、したことに……、意味が、あった、って。……偉そ…に、言うの」


 偉そうに、って。

 俺はちょっと苦笑する。

 丁寧に綺麗な言葉を操る礼ちゃんも、お母さんに話が及ぶと、どこか投げやりでぞんざいな口調になるんだ。


 何故だろうかと不思議だった。

“お母さんみたいになりたくない”って言ってたから、嫌悪感からなのかと思ってた。


 でもさ。

 きっと礼ちゃんは求めてたんだよね。

 嫌悪だって想いの一種だから。関心とか謝罪だとかと同じ様に、お母さんに、ちゃんと向き合って欲しかったんだよね。

 乱暴な物言いは、その裏返しなのでは。


「……うん。言ったよ、俺。礼ちゃんのお母さんへ、ありがとうございました、って」

「……あ、りがと……、」

「でも。そんな素敵彼氏を置いて。……どこへ行きたいんですか? 礼ちゃん」


 ひとりに、なりたいの。


 やっと、といった風に礼ちゃんは言葉を絞り出した。どういう意味? それは――。


「……俺と、別れたい、って」「違っ」


 最後まで言い終わらないうちに物凄い勢いで遮られた。そういう意味じゃないらしい。安堵しながらも、困惑は深まる。

 隣の礼ちゃんを見下ろす俺。隣の俺を見上げる礼ちゃん。

 ……でも俺の姿、霞んでるだろうなぁ。瞳の両端から、また涙が零れる。手の指とかじゃ拭いきれないくらい。俺はまた、ティッシュの箱から数枚を引き出す。


「……礼ちゃん。俺、今、あんまり冷静じゃないから。礼ちゃんが言いたいこと、よく分からないよ」

「……ご、ごめっ……、」

「あ、謝って欲しいわけじゃなくてね、ゆっくり、説明して? ちゃんと、聴くから」


 顔、ちっさ。

 ティッシュペーパー1枚で隠れるんじゃないかな。

 柔らかな紙は瞬く間に水分を吸収し、湿った塊へと変化する。鼻水まで拭いた俺は、一体 何してるんだろ。お父さんみたいじゃん。


「……私っ、か、神威くんを、ちゃ…と見られ、ない。ちゃん、と……笑え、ない」

「うん。礼ちゃん見てれば分かるよ」

「わたっ……のせいじゃ、ない、って。み、皆、言って、くれる。けど」


 やっぱり思う。そこへ立ち戻ってしまう。

 神威くんと、出逢わなければ良かった、って。そうしたら、こんなことには絶対ならなかった、と。


「……礼ちゃん。ね、そんな堂々巡りは不毛だってば。ちゃんと、お医者さんに」

「や…嫌! お医者、さんは、絶対、嫌!」


 フルフルとかぶりを振る礼ちゃん。見てるこっちが目が回りそうだ。


「……私、痛く、なりたいのっ……、」


 痛くなりたい、の意味が分からない。神威くん、と深い溜め息。


「出来る、なら……同じよ、に。おでこ、にも。頬っぺた、にも。わ、私もっ、傷つけ、て……、」


 俺と同じ様に痛みも恐怖も感じたいのだ、と礼ちゃんは切れ切れに言った。そうでなければ、私は本当に自分を許せない、と。

 でも、自分は臆病で。自分に刃を向けることなんて出来ないし。

 よしんば傷を残したところで、男女の違いを考えると、俺の周囲の人達へいたたまれない想いを抱かせてしまうだけだろうし。


「……っ、だ、だから、」

「……だから、一人になるの?俺も、だーれもいない所で、一人ぼっちで苦しむの? あの時の光景 思い出して、一人で怖い想いするの? そんなの、させられる訳ないじゃん!」


 俺は、初めて語気荒く礼ちゃんへ言葉を投げつけた。

 思わず掴んだ礼ちゃんの肩が、前よりも更に細くなっていて。憤りとも感じられるこの内なる熱さは、何へ向けられたものだったのか、分からなくなる。


「……も、決め、たの…」

「また一人? 一人で勝手に決めたの? 俺、何のためにいるの? 礼ちゃんのこと、支えてあげられない?」

「……支えて、くれてる……、」

「じゃ、なんで……、」


 礼ちゃんはまた、もう決めたの、とゆっくり繰り返した。

 俺が納得する様に、とでも?



 少しだけ開け放した窓の隙間から、3月の夜の空気が冷たく流れ込んで来た。

 救急車のサイレンが遠くから近づいてくる。

 どこかしら冷静な自分が、この修羅場を俯瞰しているのも事実で、俺は、あぁこうなったら聞き入れるしかないのかな、と諾の意を表明しようかとさえ思っていた。


 礼ちゃんの心情を理解してあげたいと思える、心優しい俺がいる。

 けれど一方で、傍にいたいし、傍にいて欲しいのに、離れようとする礼ちゃんを解き放てないエゴイスト神威もいる。


 せめぎ合いだ。誰か教えてくれ。あぁ、葛西先生が適任か? こんな時、どうしたら良いんだ?

 現実は。実際は。誰かの助けがタイミング良く入る、なんてことは起こり得ない。ドラマやフィクションの中だけだ。

 物理的に助けて欲しい訳じゃない…いや、助けて、は欲しいのか。助言が欲しい。


 一人にすることで、礼ちゃんの心が壊れてしまわない? 手が届かない、顔も見えないどこかで泣いていても、俺はどうすることもできないのに。

 あぁ、もう。離れちゃうこと前提の俺の思考ったら。


「………はぁ」


 漏れる大きな溜め息。ピクリ、と反射する礼ちゃん。

 どうしたら良いんだ、本当に。それでも。

 礼ちゃんのしゃくりあげる間隔が、鼻を啜りあげる間隔が、確実に開いてきているから。

 なんとなく。なんとなーく。決断を迫られてる、気がする。俺、だけが、ね。


 時間って、容赦ないな。

 俺と礼ちゃんの“これから”なんて見せてくれる訳でもないのに。ただ、“これまで”だけを見せつけて。安心も確約も保証も、くれる訳じゃないのに。いつまでもこのままではいられないんだぞ、と。刻々と、ただ、過ぎていく。


「………礼ちゃん」

「………はい」


 よくよく考えているような、でも漠然としたものしか浮かんでこないような。


“あんたが掴まえに行けば良いだけのことよ、神威”


 ……ふと。降りてきた、天の声。いや、姉ちゃんの啓示。


 ――あぁ、そうだったね。


 姉ちゃんが、こんな事態を先読みしていたのかは謎だけど。逃げたいなら逃げれば良い、と。姉ちゃんは言って。


「……条件があるよ。3つ」


 俺はほとんど無意識に、そんな言葉を口にした。


「その1。彼氏彼女は、解消しません」

「……え、」

「反論は許されません。俺、すっっっごい傷ついてんだから」

「……ごめんなさい」

「謝るくらいなら、黙って言うこと聞いて」


 ね?

 俺は目を合わせず、俯いたままの礼ちゃんをクイと下から覗き込む。ウサギの瞳は逸らされたまま。


「その2。海外へは逃げないで」

「……パスポート、無いから」


 よしよし。

 俺は礼ちゃんのツヤツヤの髪をそっと撫でる。

 今日はおだんご頭。

 この、耳の前に垂れている束は、前髪の続き? それとも横の髪?


「……神威くん……、あの」

「あ、……ごめん」


 気になる毛束を引っ張ったまま、俺の右手は礼ちゃんの耳の辺りをウロウロしていた。慌てて俺は、礼ちゃんの耳へ髪の毛をそっとかける。


「ごめんね、痛かったね」

「……ううん、これくらい」

「意地悪じゃないからね? 別に怒ってないし」


 嘘、と小さく聞こえた呟き。

 俺が覗き込んでもなお、視線を逸らしていた礼ちゃんと、やっとバッチリ目が合った。

 俺は右膝をベッドの上へ立て、身を捩り礼ちゃんへと向かう。

 礼ちゃんのちっちゃな顔へ両の手を添え、俺を見てくれるように固定した。

 この柔らかさ。手を伸ばしさえすれば、いつでも触れられると思ってたのに。

 そうじゃないんだ。何一つ、この世に“当然”なんてものはない。


「……怒ってないよ。自分が、不甲斐ないだけ」

「……神威くん……、そんな」

「でも、俺は。礼ちゃんを、絶対、掴まえる」


 絶対、なんてないのだと知った。小学生の俺。泣いてばかりだった俺。

 それも確かなことなんだけれど、今、言の葉に宿る言霊が微かな震えも吹き飛ばしてくれる。絶対。


「だからね、掴まえられちゃったら。今度こそ、逃げないで。礼ちゃんの未来を、俺にください。……これが、3つ目」


 固まったまま、否定も肯定もしない礼ちゃん。

 しない、んじゃなくて出来ないの? 瞬きすら、忘れてない?

 大変遅ればせながらの、はい、が耳に入ってくるまで、俺だって身動ぎひとつ、息だって出来なかった。


「……ど、して?」

「……何?」

「どうして、そんなに、優しいの? 私、本当に勝手で――」


 あ、止まってたのに。涙って、そう簡単には枯れないんだね? 礼ちゃんの顔を包んでいる俺の指には温かな水分が伝う。


「良いんだ。一時の間、だから」

「え……?」

「俺、礼ちゃんの残りの人生、全部もらうから。良いんだ。もう二度と一人になんてなれないからね? 俺のが、だいぶ勝手だから」


 良いんだ。

 自分へも言い聞かせるように俺はもう一度、繰り返した。


「……ハンデは5日間だよ」

「……ハンデ?」

「5日後が抜糸。それまでは俺、大人しくしてるけど。その後は、全力で捜すから。せいぜい、逃げなさい」


 自信なんて、これっぽっちもない。掴まえるなんつっといて、何から始めれば良いのか、見当もつかない。

 後悔なんて、するに決まってる。

 でもきっと、礼ちゃんの笑顔がぎこちないまま傍に留め置いたことも、後悔する日はきっとくる。

 どのみち、後悔する生き物だ、人間は。俺の、格言だ。


「……礼ちゃん」

「……はい」

「もいっかい、さっきの、して?」


 さっきの、何か、なんて言わなかったのに。

 箱をそっとベッドの上へ置いた礼ちゃんは、俺の両肩に手を添えて、上と、下の唇を、優しく優しく啄んだ。

 やっぱり、すき、って聞こえるんだけど。俺、ついに、おかしくなったかなぁ。


 大好きだよ、礼ちゃん。

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