恋の嵐

 俺、最後にぶっちぎれたのはいつだったっけ? かれこれ5年は、大人しくしてたと思うけど。いや暴言吐いて、武瑠と心の彼女を泣かせたことはあったか。勿論、反省しましたとも。


 小学6年、だな。暴挙に出た最後は。そんで今日は、久しぶりに手やら足やら、出してしまうかもしれない。そんなよろしくない予感ほど、見事的中してしまうものだ。


 俺は礼ちゃんの小さな手を、握ってたんだから、繋いだ指先が、みるみる冷たくなっていくのを、ひしひしと肌で感じていた。

 それはこの、目の前で胡散臭い笑みを湛えている、コイツを見た途端、だ。

 コイツに違いない。礼ちゃんが、苦手、と表現した男。礼ちゃんが苦手とするは、きっと男子全般って訳じゃない。矛先が向いているのは、ただ一人、コイツ。

 一体、何しやがったんだ? 一体、何があったんだ?


「……ね。ミコちゃんの、彼氏、じゃないの?」


 あくまでジェントルマンぶるつもりなら、こっちだって相応の態度をとるよ。

 俺はダウンジャケットの左ポケットに突っ込んだ手で、二つ折りの携帯電話へ指を入れて開き、感覚を頼りに方向キーの右側を探る。

 リダイヤル、真ん中決定ボタンを二回押せば、心か武瑠に繋がるはず。どうか、何かを、察して。俺が、自制出来なくなる前に、止めに来て。


「彼氏ですけど。何か?」

「……へぇ、そう、なんだぁ。何気にショックかなぁ」


 何なんだよ、そのわざとらしく間延びした喋り。俺の怒りを煽りたいのか? 薄気味悪いスマイル、浮かべてんじゃねーぞ!


「……神威くん……、」


 礼ちゃんのか細い声が、俺の右腕の辺りから聞こえてきた。俺が握っていた四本の細い指は、たぶん礼ちゃんがジリジリと俺の背後へにじり下がる時に離れてしまって、代わりに礼ちゃんの左半身が、俺の右腕へぴったり寄り添っている。


「……帰ろう?」


 礼ちゃんが、いつもよりずっと小さく見えた。俺を見上げる大きな瞳は、懸命に帰りたい、と訴え潤んでいる。一時もいたくないんだね、この場に。零れそうな涙の原因は、恐怖? 嫌悪?


「つれないなぁ、ミコちゃん。久しぶりに逢ったのにさぁ」


 久しぶりに、逢ったから、どうだってんだ?

 たぶん、俺の身体からはビリビリとした何かが迸っていると思うけど、それはヤキモチからだけなんだろうか?

 それとも、最早、出逢って数瞬で俺の中に出来上がって居座った、コイツに対するマイナス感情のせい?


「俺の、彼女なんだけど。気安く呼ばないでくれる?」


 目一杯、爽やかに、ふざけんなてめえ、と口を突いて出そうな悪態を抑え込みながら、俺は俺なりに牽制の初拳をちらつかせた。


「……あー、そう? 独占欲、強い彼氏だねぇ。ま、気持ちは分かるけどさぁ」


 ヤバい、本当に。敵の術中に嵌まりそうな諜報員みたいじゃないか? 海外ドラマで観たけどさ、あぁ、見事に煽られてんな、冷静さを失って引っ掛かっちゃうんだな、って俯瞰したら分かるのに。いざ、自分が当事者になると。


「ちょっとだけ、ミコちゃん 貸してよ? 積もる話、あるんだよねぇ」


 フツフツと、何かが沸き上がる音がする。それは自分の内側で膨らんで、今にも手の届かないところで爆発してしまいそうな気がする。

 一歩、踏み出してきたソイツの足を遮る様に、俺も一歩を前に出した。震えている礼ちゃんを、完全に背中に隠して。


「……だから。俺の、大切な彼女をモノ扱いすんな。貸せるか、」


 バカ、と言いかけて呑み込んだ。あぁ、コイツ、明らかに挑発してる。俺が言葉を吐くひと息ごとに、不気味にじわりと上がっていく口角。


「おー、正論ー。いるんだなぁ、そぉんなキザなこと言っちゃうヤツ、マジで」


 ククク、とヤツが笑った拍子に、その片腕に掛けているコンビニのレジ袋が、ガサッ、とやけに大きな音をたてる。いや、実際は分からない、そう、感じただけ。それくらい、俺の感覚は研ぎ澄まされていて、ヤツの僅かな筋肉の動きも見逃すまいと視線を定めていたから。ヤツが右手で、ブルゾンのポケットから取り出したのがスマートフォンだと脳が認めるまで、多分俺は瞬き一つしていない。


「ねぇ、ミコちゃん。ケー番 変わった? メアドも。また教えてよ?」


 ピクリ、とヤツには見えないだろうけれど、俺の背後で礼ちゃんが揺れた。次いでフルフルとかぶりを振っている。辺りに生活音もさして聞こえない、冬の澄んだ空気を伝って、礼ちゃんの髪の毛が俺のダウンを何度も掠めた拒否の意を、ヤツは受け取ったらしい。


「……えー、彼氏気にしちゃう? なぁんか、変わっちゃったねぇ、ミコちゃん」


 ヤツはスマートフォンを弄っていた手を止め、視線を俺へ向けた。いや、俺じゃない。俺なんか射抜いて、というより完璧に無視して、礼ちゃんを見定めている。くっそ、ムカつくな!


「あんなに仲良くしてたのにさぁ。オレ、あんな別れ方しちゃって、いろいろ心残りあんだよねぇ? あ、コレか、彼氏一緒にいるから、教えにくいか」


 束縛されてんねぇ、と腕を組み、スマートフォンを何の代わりか顎に当て、底意地の悪そうな、俺の怒りを弄ぶ様な、嘲る様な視線を放つ。


「……何とでも。俺、スッゴいヤキモチ妬くから。目の前でそんなの、許す訳ないだろ」


 名前すら、知らないな、コイツの。いや、別に良い、そんなの。礼ちゃんはきっとコイツと関わり合いになりたくないはず、俺の空気読み違いじゃない。全身全霊で拒絶してる。位置的になんだか二人羽織りみたいになってるんだから、よくよく伝わってきている。


 だから、本当に、いろいろいろいろムカつくし、ボコってやりたいと何度も何度も何度も繰り返し思ってんだけど! 背も俺のが高いし、てことはリーチ長い分 有利だし、よほど脱いだらマッチョ野郎だったらヤバいけど、いや俺だってそれなりに鍛えてるし! 何より、この熱い怒りが、敗北なんて許すか、と煮えたぎっているし!

 ……いるんだけど。手は、出しちゃ、駄目だ。それこそ、ヤツの思うツボ、な気がしている。


「まーまー。昔のオトコ登場、でイライラしてんだろうけどさぁ」


 あぁ、もう、この! 獲物を前にした爬虫類みたいな表情! チロチロと赤い舌が見え隠れしてそうだ。言い負かされてばっかな気がするぞ、俺!


「オトコ、って…残念なヤツだな。彼氏だったつもり? 礼ちゃんは全否定してたぞ」


 礼ちゃん、ねぇ。

 余裕綽々な体でゆっくりと俺の言葉を咀嚼しているけれど、目が据わったの見逃したりしてないからな。ちょっと響いてるんだろ?


「……まぁ、なんつーか、彼氏にはなり損ねたからなぁ。惜しいことしたな、って未練あんだけど。やっぱ、あの時、無理やりにでも」

「っ、は?! テメ、何言っ…」

「邪魔入ったんだよなぁ、あの時も」


 こんな感じで、と言うと、ヤツは一歩横へ移動する。妹尾さんが、鉄拳を放った後ろ姿が、そこを取って変わった。


「右京! テメエ!」


 あぁ、コイツ、右京、って名前なんだ。そうやって思考を逸らさないと、俺の身体も、ヤツへ向かっていて、神威くん! という礼ちゃんの悲痛な声が妹尾さんの怒声と重なりあう。


「いまだにミコちゃんベッタリなのな。みっともねえぞ妹尾」

「うっせーよ! テメ、マジで日本海に沈めてやっからな! つきまとうなよ!」

「そっちが勝手に現れたんだろうが。人の目の前でイチャコラしやがって」


 クイ、と顎で俺を指す。

 間延びした喋りはうってかわって、吐き捨てる様なぞんざいな口調に苛立ちが混じっている。これが、ヤツの、本来なんだ。


「手は、出してないよな? 神威」


 心の穏やかな声に倣って、俺のはらわたも落ち着いてくれれば良いのに。未だ煮えくりかえる細胞は隅々まで熱く、なんとか首肯するだけで精一杯だ。


「神威くん、神威くんっ…、」


 俺は、無意識のうちに右腕を振り上げようとしていたのだろう。反発するそれを必死で重力に従わせようとするかの如く、礼ちゃんは泣きながら掴まり、何度も俺の名前を呼んでいた。


「……アホくさ。ちょっと煽ったら、すーぐ熱くなりやがって」


 テメ、とまた前に出かかった身体を押さえつけられる。心と武瑠と礼ちゃん。三人がかりだ。


「でも、良いモン見っけたな。最近、おもしれーことなーんもなかったし。ミコちゃんに、彼氏、とはねぇ」

「右京くん……」


 小さく小さく震える声で、礼ちゃんはヤツの名前を口にする。あぁ、もう、その行為すら嫌だ。


「……私、逃げて、逃げてばっかりで…、」


 礼、と妹尾さんの声。その柔らかさが、大丈夫? と気遣っている。礼ちゃんは、ゆるゆると下ろされた俺の右腕を両手で握りしめながら、想いを紡ごうとした。そんなに辛いなら苦しいなら何も言わなくて良いよ、と容易に口に出来ないくらい、礼ちゃんの表情は決断に充ち満ちている。


「……ごめんなさい……、上手く…言えなくて。ごめんなさい」

「ミコちゃん? ごめん、で済むなら、警察要らないんだよねぇ?」

「わ、私は! 今、この人が好き、なの、でっ…」

「見りゃ分かるよ、んなの。つったってムカつくからさぁ」


 ヒマ潰しのネタ見っけたなぁ。

 ヤツは、そう低い声で言い捨てると、礼ちゃんだけに禍々しい視線を残して、クルリと向きを変え、去っていった。俺達の存在など意に介さず。


「アイツ、誰? 何者?」


 俺より先に妹尾さんへ疑問をぶつけたのは、俺の両肩をさっきから物凄い力で押さえつけてくれていた、武瑠。実際、アイツへ殴りかかる動きなんて叶わなかったに違いない。


「……アイツ、どこかで見た記憶が」

「市議の息子だからね。何ぞメディアに露出してんじゃないの」


 そうか、と心は記憶と合致したのか納得し、名前は? と次いで問いかける。


「……真坂 右京。私と礼と、同じ中学…、」


 後に続く言葉を妹尾さんは呑み込んだ。

 無理もないよな。礼ちゃんは、依然、俺の右腕をギュッ、と握ったまま、声もあげずに唇を噛みしめ、涙を流している。


「……礼ちゃん…ごめんね?」

「……どっ、どうし、て? か、神威、くんがっ…謝ら、ないで…」


 喋ろうとするとしゃくり上がってしまうのがもどかしいんだろう。礼ちゃんは眉間に皺を寄せ、涙の痕を拭うでもなく、真っ直ぐに俺を見ている。

 あーあ。俺、何やってんだ。


「怖かったよね? 礼ちゃん、ずっと震えてたのに。俺、ちゃんと安心させてあげられなかった、ぶちギレそうになって」


 ごめんね、ともう一度。自分の不甲斐なさへ溜め息を吐きながら、礼ちゃんの両の頬へ手を伸ばす。俺、ハンカチもティッシュも持ってない。親指の腹と付け根の部分で、そうっと水滴を拭き取った。礼ちゃん、本当にちっちゃい顔。


「泣かないで、礼ちゃん」


 心と武瑠へ、ありがとう、とお礼を言う。妹尾さんも、と慌ててつけ足すと三人は三様に苦笑し、それを合図に礼ちゃんの家へと帰路を辿りだした。前を歩き始めた武瑠達の背中を見、手元へ視線を落とす。礼ちゃんの右手へ俺の左手の指まで絡ませた。


 ……いわゆる、あれ。ちょっと、やらしい感じな手の繋ぎ方なんですが、そんな気持ちやらムードやら、は欠片も無い。むしろ。


 ――怖い。


 礼ちゃんが、離れて行くのが怖かった。自発的に。いや、あり得ないと思いこみたいけど、“やっぱり右京くんが良い”とか……、言われないと信じてるけど。

 フルフルとかぶりを振る。駄目だな、俺。俺のがブレてどうすんだ。

 握りしめる掌に、自然と熱がこめられる。俺は、ハンパない手汗かきなので、しっとりどころじゃない、じっとり感が礼ちゃんへ伝わってると思う。だからね、あんまり…、さっきもユルリと握ってただけだったんだよね。


 受動的に、に思考を戻す。

 アイツからの某かで、礼ちゃんから引き離されたり、礼ちゃんの気持ちが離れていったり。自身の力が及ばないどこかで、何かを画策されて、まんまと罠に落ちてしまったり。そんな良くない想像をさせるくらいには、あの禍々しい視線が得体の知れない恐怖感を残していった。


 俺は、またフルフルとかぶりを振る。これこそヤツの思うツボなんじゃ? 何もせずに、礼ちゃんを失うかも、とただ手をこまねいて怯えていたって、解決の糸口すら見つからない。


 その時。礼ちゃんが、やんわりと小さな指に力を入れてきた。ほら、もう、それだけで安堵している俺がいる。


「礼ちゃん?」


 はい、と礼ちゃんの澄んだ声。俺を見上げてくれる、大きくて黒々とした綺麗な二重の瞳。泣いたせいか、長い睫毛は濡れていて、いつもは可愛い印象の礼ちゃんなのに、そこだけ妙に艶かしい。


「バカップルで、いようね?」

「え?」

「さっきの…右京? また逢ってもさ、バカップルぶり見せつけてやろうよ。戦意喪失させるにはね、呆れさせるのが一番なんだよ」


 ふふ、と礼ちゃんが笑う。ポポポポン、って白い花がバックに零れそうな、俺が大好きなあの笑顔で。礼ちゃんは、今、俺だけに向けて、笑ってくれている。


「何すれば、良いかな」

「……チュー、とか。しようかね?」

「なるほど」


 ……俺、冗談半分だったのに。そんな真剣に受け止められると、どうしたら良いんでしょうか?


「でも、やり方が分からないから。教えてね」

「な、えっ、ちょっ、礼さん…」

「私、保健体育は得意科目なんだけど。リアルを知らないから」


 ムッツリ、と笑った瞬間。絡め手は礼ちゃんの口元へクイ、と引き寄せられた。え? えっ? ええっ?

 チュ、と小さな音。俺の左手薬指に残った、柔らかな人肌の…というか、礼ちゃんの……く、唇の、感触?!


「……こんな、感じ?」


 ……ヤバい。ヤバいヤバいヤバいヤバい!!! 左手薬指って、確か心臓に一番近いと言われる指で、だから結婚指輪もそこに填めるんだとか何とか聞いた覚えが……! あぁ、もう、こんな時に?! いや、こんなことになるとは! しっかり! 俺! 何考えてんだ?!


「う、……ん」


 内心ジタバタしている俺とは裏腹に、いたって真剣な表情の礼ちゃんは、また、なるほど、と頷いている。

 と、前方から、聞き覚えのある声がした。ただし、げ、という、あまりお上品でない単語が。


「あ! 葛西センセー!」


 先ほどまでの重苦しい空気を払拭したいかの様に、テンション高め設定の武瑠がピョンピョンと飛び跳ねながら近づいていく。

 ……あれ、先生は後退り?


「……うわ。違います、人違いです」

「え? ナニナニ? あれ、今日は眼鏡なし? コンタクト? 髪もボッサボサで」

「人の話を聞け、吉居。今日の俺は、葛西“先生”ではない。超プライベート、」


 どういう意味ー? と首を傾げる武瑠へ、可愛くない、と平淡に言い放つと、葛西先生は心と妹尾さんを代わる代わる見、何の集まり? と訊ねた。


「……楽しい楽しいチョコレートパーティー?」

「……に、なるはずだったんだが」


 が、の後に続く諸々を、どこまでどう伝えたものか、心には珍しく言い淀んだ。チラリと向けられた、俺と礼ちゃんへの視線。そんな心の様子を、葛西先生が見逃すはずはない。


「……何か、あった?」


 その問いには直接答えず、妹尾さんは考え深げに顎に当てていた右手の指をパチン、と鳴らす。


「葛西、ヒマでしょ?」

「……え。なにその断定。しかも呼び捨て?」

「先生じゃない、つったの葛西じゃん」


 そういう意味ではない、という先生の反論は虚しく空を伝う。いつの間にか、武瑠は葛西先生の背中を押し、180度回転させて、元来た道を俺達と一緒に辿らせようとしていた。


「センセ、人生相談あるんです。深刻。かなり真剣」

「嘘くさい、吉居」

「残念ながら酒は無いんだ」

「いろいろツッコミたいよ、弓削」

「礼の手料理あるから。飢えてるでしょ? 30歳独身貴族は、そういうの」

「……御子柴の?」


 葛西先生は、首から上だけクルリと回転させ、礼ちゃんを見、俺に視線を移して綺麗に口角を上げる。


「ヤキモチ妬きの彼氏は、許してくれるの?」

「……どうぞ」


 妹尾さんの指パチンは、何の閃きだったんだろう、葛西先生まで礼ちゃん家に招いて。一体、何を?

 疑問は尽きなかったけれど、礼ちゃんの顔にまた少し笑みが戻って安堵した。俺は礼ちゃんへ、行こ? と声をかけ、武瑠達の後を追って歩きだした。

 センセん家、この近く? と軽快な口調で武瑠が質問している。


「実家が、ね。近いっちゃ近い」

「え、今日は里帰り? 何用?」

「里帰りというか、強制連行。弟が結婚するからね、親族一同顔合わせ」


 ふへー、と武瑠は奇妙な擬音を漏らす。何の感情を表現してんだ? それ。


「え、じゃあ弟さんに先越されたんだ?」

「……そうね。しかもデキこ…、じゃないか、えーっと、授かり婚?」


 早くもオジチャンかぁ、と呟く武瑠の右脇腹へ、先生の鉄拳制裁が下る。お前ら若造に俺の気持ちなぞ解るまい、と若干 不機嫌そうな葛西先生。


「良いんだよ、別に先越されようとオジチャンになろうと俺は、ね? 面倒くさいのは、大和くんはどうなの? 結婚の予定はないの? そもそもおつき合いしてる人はいないの? いないならお世話してあげるわよ? なんつー圧の強い親戚のおばちゃん達。ようやく逃げてきたのに、お前らに捕まるし」


 はぁ、と大きく吐かれた溜め息が先生の苦悶を的確に表現している様で、気の毒ではあったけれど、皆 声を出して笑わずにはいられなかった。


 というか。

 多分、そんな自虐ネタで、俺達の強張っていた頬を緩めてくれようとしてるんだよね? 先生。


「葛西先生って。良い人」

「あ、礼ちゃんも……分かった?」


 うん、と礼ちゃんは頷く。相変わらず絡めたままの互いの手を見つめながら。ここから伝わってくれてるのかな。


「……でも、惚れちゃ駄目だからね?」


 分かってます、という礼ちゃんの声は、明らかに笑いを含んでいて小さな指にキュッ、と力がこめられた。

 道行く人の邪魔にならない様に、俺達一行は二人ずつ三列でゆるゆる歩く。すぐ前を行く妹尾さんの隣には葛西先生。その前には武瑠と心。

 突然、妹尾さんが、あ、と声に出した。


「礼、良い機会だから、葛西に聞いてみなよ?」

「……妹尾、やっぱり“先生”つけて」


 葛西先生は長い指でボッサボサの髪の毛を触りながら、礼ちゃんをクルリと振り向く。


「何のご質問? 御子柴。隣の彼氏さんから、スッゴいじと目で見られてるんですけど」


 瞬間、葛西先生とバッチリ目が合った。あぁ、もう。微笑み方がイヤらしいです、先生。じと目、って……、いや、そりゃそうそうでしょうけども。俺には聞けないけれど、先生には聞きたいことって、何なの? と。どうしようもなく渦巻く俺のジェラシーは、そりゃあ顔に出てただろうさ。


「……あの」


 恥ずかしくないか、と問われれば、そりゃあやっぱり恥ずかしい。繋いだ、いや指を絡めた、礼ちゃんと俺の手。葛西先生がチラリと視線を飛ばしたのも分かっている。でも、今みたいに、キュッ、と、神威くん、って言われるより確かに、キュッ、と、可愛い力が感じられるから、このまま離したくなくなるんだ。

 ……手汗、べったり、ですけど。


「私、神威くんの彼女で、良いでしょうか? ……という、不毛な質問をしたかったんです」

「……まぁー、不毛」


 葛西先生はニッコリと、それは優美な大人の余裕っぷりで、笑いながらそう言った。


 ……ビックリした。さっきの姉ちゃんへの質問に引き続き、礼ちゃん、そんなことを考えてたなんて。俺、何かにつけて力量不足だとは思ってるけど、礼ちゃんにそんな考えを抱かせてたなんて。不安? いや、疑念? 逆に俺は、礼ちゃんに相応しい?


「御子柴、神威 オタオタしてるよ?」


 見れば礼ちゃんの頬はじんわりと紅くなっていて、俺を見上げる表情は困っていた。


「神威くん? …何 考えてる?」

「礼ちゃんこそ…」


 御子柴はさ、と穏やかな葛西先生の声が俺と礼ちゃんを我に返らせる。


「ずっと前から神威を知ってたし、好意を寄せてたし、噂もたくさん耳に入っただろうし。知らずに出来上がってる神威像、があるんじゃないの?」


 そうでしょうか、と礼ちゃんが小さく応えた。

 確かに、礼ちゃんの口から紡ぎだされた二年前の俺は、美化されすぎていると思ったけれど。


「目の前にいる、神威を見るべきだよ。ちっちゃなことでオタオタして、すーぐ熱くなって、ヤキモチ妬くガキで。大したことないでしょ」


 むしろ、御子柴が神威に勿体ない。

 葛西先生はキッパリ言い切ると、俺に向けてまた綺麗に微笑んだ。


「……俺のハートはガラスでできてるんですよ、先生」

「そうなの? いちいち面倒くさいヤツだねぇ、神威」


 カラカラと笑う葛西先生の優しい声音は、冬空のグレーにゆっくり溶けていく。


「好きだ、という気持ちだけで何もかもは上手く運ばないよ。自分の努力とか、相手への理解とか。今まで以上に必要じゃない?」


 格好いいこと言うねぇ、と妹尾さんの声が挟まれた。さすが聖職者、と。


「……妹尾にそう言われても、あまり嬉しくないのは何故だろう?」

「ま、案ずるな、ってことよ、礼」


 妹尾さんの強引な話の引き取り方に、葛西先生はご不満な様子。


「まぁ、そうだけど。何なの? そのまとめ。俺の話、ただの前ふりだった?」

「いやいや、本当に良い話だった」


 で、ここからが本題。

 妹尾さんは、礼ちゃん家の玄関へ葛西先生の身体を押し入れながら続ける。


「山田と礼を守りたいの。先生もご協力を」


 葛西先生の瞳は、瞬間、大人のそれに代わる。ついさっきまで、俺達とバカ話をしていたのが嘘みたいに。そうして、はぁ、と小さく溜め息を吐く。


「……特定の生徒に肩入れするな、って言われてんのに。まーた、手柴先生から怒られそ」


 手柴先生は俺達2年の学年主任。昔ながらの教師然とした風貌から、そのセリフを放つ様は容易に想像できる。というか、県下一の進学校に在籍する先生なんて、きっとそんな感じだ。葛西先生がたぶん、異質。異端児。

 ……あ、いやいや、考えるべきはそこじゃない。俺と礼ちゃんを守りたい、って?


「妹尾さん? どういう…、」


 中でね、と促され、不思議顔の礼ちゃんと共に靴を脱ぐ。おかえりー、という姉ちゃんの暢気な声が、ひどく場にそぐわない気がした。



 アイツ、タチが悪いの。

 妹尾さんは語気荒く話し始める。アイツ、とは勿論、真坂 右京のこと。真坂、という名前を耳にした瞬間、葛西先生の片眉がピクリと反応した気がした。


 葛西先生がテーブルへ着くや否や、妹尾さんは中学2年の頃からをおさらいしていった。転校してきたばかりの礼ちゃんとの出逢いから、順を追って。礼ちゃんは葛西先生の前へコーヒーを出し、ランチの残りや手際良く作った軽食を並べ、妹尾さんの話から遠ざかったり、近づいたりしている。


 聞きたくない部分もあるだろうな、礼ちゃん。俺だってそうだけど。

 特にアイツが礼ちゃんへしつこく迫ったり(いつもなら言葉に淀みのない妹尾さんも慎重に表現を選んでくれたけれど)、押し倒されあわやの所で助けることができた場面とか、恐らくはアイツの情報操作で、大半の女子を敵に回した礼ちゃんが、かなり苛められた話とか。


「キツかったら…席 外してよ? 山田」


 礼も、と随所で妹尾さんは確認してくれる。

 チビッ子と遊んでくれている姉ちゃんや武瑠や心にも、結局は聞かせている内容。山田と礼を守りたいの、という妹尾さんの言葉は、どんな結論へ辿り着くんだろう。

 礼ちゃんはフルフルとかぶりを振り、溜め息を吐きながら、ソファーで隣り合わせに座る俺へ、神威くんごめんね、と繰り返す。


「どうして謝るの? 礼ちゃん」

「私、本当に、自分が情けなくて…。誤解を招いた非はもちろん私の浅はかさにあるんだけど。もっとこう…どうにかならなかったのかな、とか。でも、過去は消せないから。……キラキラの神威くんから、逃げたくなる」


 俺は、礼ちゃんの頭へ掌を乗せた。文字通り、うん。乗せた。

 なでなで、というか、ポンポン、と、手汗っかきなもんだから、礼ちゃんの髪がくっつかないかとそんなことばっかり気になって、格好悪いったら。


「……無理だよ。俺、足 速いよ?」

「……?」

「礼ちゃんがどこへ行ったって、すぐ追いつくから。逃げられないよ?」


 礼ちゃんの大きな瞳は更に大きくなり、ごめんね、と俺は言う。謝ってばっかりだ、俺達。

 逃げたくなる、なんてそんな悲しい言葉、口に出さないで、礼ちゃん。俺はヘタレなんだから、すぐ、具現化するんじゃないかとマイナス思考に囚われてしまうんだから。


「やっぱり、お似合いバカップルでしょ? 俺達」

「……どうして…、」

「ほら、俺なんてさっき、大したことない、って烙印捺されたし。礼ちゃんも、情けない人なんでしょ?」


 あれは葛西先生が、と言いかけた礼ちゃんをわざと制する様に、俺は次を被せようとする。


「礼ちゃんには、俺が丁度良い。…と、思うよ。我慢して?」


 礼ちゃんの頭が俺の右上腕二等筋辺りにそっと寄せられた。

 ……あああ、硬直。ゾワリ、と鳥肌? 背中がこそばゆい。


「いや勿論、礼ちゃんが俺に心底 愛想尽きたんなら、俺は潔く……、潔く? 見送れるかな、礼ちゃんの背中。無理だなぁ」


 こうやって茶化して、自分の気持ちを伝えることしかできない俺自身がもどかしい。ギュウッ、としてチュー。とかの方が、より伝わ……、いやいや、獣じゃないですか。


「……ありがとう……」


 俺は左手で、また礼ちゃんの頭をポンポンした。右側は硬直してますのでね、悪しからず。背中から腕を回して礼ちゃんの肩を、とか…ね? 無理だから! 今の俺には!


 山田、と妹尾さんの低い声が飛んできて、俺の左手はピクリと反応する。ゆっくり降ろして膝の上へ。疚しい気持ちは、無かったけど、いや清廉潔白純情少年ってわけでもなかったけど。


「礼のグダグダは今に始まったことじゃないし。あんたを好きな由縁だから、勘弁してやって」


 居丈高なのに優しさが感じられるのは、妹尾さんが持ち合わせた性分なんだろうな。俺は静かに、うん、と応える。


「……あのさ、妹尾」


 礼ちゃんのおもてなしに余すところなく手をつけ終わり、ずっと黙って耳を傾けていた葛西先生が、おもむろに口を開いた。


「真坂ってヤツが俺の知るヤツなら、俺の役割分担って、何?」

「話が速いね、先生さすが。職員室内の情報統括および操作、撹乱、事態の静観」


 テキパキと司令塔から指示が出される。それが的確なのか何なのか、俺達にはサッパリ解らない。


「神威が危ない目に遭ったら? 俺、静観してらんない」

「その時は煮るなり焼くなり好きにして。妹尾が全力で無かったことにする」


 え。何? 俺、何か危ない目に遭うの? 右京から、確かに善からぬ何かは感じたけれど。刺されたり、しちゃう?


「妹尾、皆がアホ面になってる」


 万葉ちゃん、詳しい説明プリーズ!

 武瑠が俺達の内心を代弁してくれる。そうか、と改めて場の空気を読み取った妹尾さんは、ごく自然に椅子から立ち上がる。

 あぁ、この人は。根っからリーダーの素養を持ってるんだ。皆の意識は、自ずと妹尾さんの口元へ集中していた。


 私は皆が思ってる以上に皆のことを知ってる。

 妹尾さんは、そう切り出した。次いで姉ちゃん、武瑠、心へと順に視線を置いていく。


「姐さんが保育士を目指していることも、その理由も。吉居にサッカー推薦の話が来てたことも、断ったことも、その理由も。弓削准教授が学閥争いに巻き込まれて、なかなか教授になれないことも。その他も、いろいろ、知ってる」


 ドラマチックな展開、って、こういう場面を指すんだろうか。三人共に、な、みたいな形の口を開けたまま妹尾さんを凝視している。いや、俺も、だけど。

 妹尾さんとは礼ちゃん絡みで知り合った訳だから、お付き合いの歴史はせいぜいここ三ヶ月程度。ほぼ身内情報と言えるそれを、妹尾さんは何故知り得たんだろう?


「え…オレ、話したっけ? 万葉ちゃんに?」


 いや、と武瑠の呟きを簡単に否定すると、妹尾さんは若干決まり悪そうに、申し訳ない、と綺麗に頭を下げた。


「うちは…、成金と呼ばれてるのはご存知の通り。動産、不動産ともに結構な資産がございます。パパはここいらじゃ新参者だし、横暴だとか言われる遣り手なんで。まぁ敵も、多くて」


 信じられないだろうけど、うちは弁護士も私立探偵も専任がいる、と。万葉お嬢様の周辺は抜かりなく調査されるのだ、と。妹尾さんは、声を落として話し続ける。

 俺が触れたことのない、妹尾さんが住む世界は、残念ながら現実味を帯びてくれなくて、ただ、圧倒されそうになった。


 でも、完全に圧倒された訳じゃない。思ったんだ、俺。

 何故 妹尾さんは、こんなに心苦しそうに訥々と話すのか。いつもの歯切れの良さは感じられず、申し訳なさそうに。ただ、相変わらず凛とした姿勢で。


 俺達はこの世に生を受け、必ず自分以外の力を借りて、助けられ支えられて育ってきたけど、親や環境は選べない。

 妹尾さんの日常は、俺達にとって非日常だ。知り合わなければ、一生 交わらなかった非日常。だからって、否定なんて出来る訳ない。礼ちゃんとの出逢いまで、否定することになるもんね。


「妹尾さんも、キツかったら…その。無理して話さなくても」

「こんな半端な話で退散できるか。大丈夫、私は山田ほどヤワじゃない」


 俺の言葉はピシャリと封じ込められ、だからね、と妹尾さんの声は続く。妹尾さん、切れ味鋭いな。


「二年前、礼が酷い目に遭ってから、私は右京のことをいろいろ調べてて。先生との接点も…、分かったし。アイツの親父、この前の選挙で市議に再選したからさ、機会を窺ってた」

「機会って?」


 心の質問はごもっとも。


「あらゆる情報を収集し、把握し、全体像を掴み、理解し、分析し、戦略を練り、緻密な策を講じ、奇襲をかける。学校じゃ、絶対に教えてくれないことを私はパパから教わってる」


 その熱い怒りの矛先は、右京、なんだね、妹尾さん。俺、妹尾さんを敵に回さなくて本当に良かった。あぁ、こんな安直な感想しか持てずに、ごめんなさい。


「……スッゴい策謀家。妹尾、本当にゆとり世代?」

「何か万葉ちゃん、毛利元就みたいじゃね?」

「いや、チェイニーっぽくないか?」

「あれね? 学校の成績が良かった子に終わらない社会に出て成功するタイプね!」


 顔を見合わせて二の句が継げずにいる俺と礼ちゃんを置いてけぼりに、話はまだまだ続くらしい。妹尾さんは、盛り上がる姉ちゃん達を、まぁまぁ、と苦笑しながらたしなめた。


「……神威くん。話に、ついて いってる?」


 ソファーの背もたれにポスン、と身体を預けながら、礼ちゃんが小さな声で切り出した。


「ぶ。何? その泣きそうな顔」


 だって、と長く深い溜め息を吐いてから、ほんのちょっと寂しそうに礼ちゃんは続けた。知らなかった、と。そんな様子もいちいち可愛いって。


「万葉が、お金持ちのお嬢様だ、って。知って、分かってたつもりだったけど……、こんな。FBIだかCIAだか、みたいなことに、」

「礼ちゃん、面白い感性してるねぇ」


 真面目な話よ、と礼ちゃんは口をつぐむ。ごめんね? と覗きこむと、礼ちゃんは至極 真剣な表情で俺を見つめてきた。


「右京くんのことだって。私と友達じゃなかったら、こんな風には…、」

「で、その先は何て続くの? ……想像できるけど」


 礼ちゃん、と。

 俺は改めて名前を呼んだ。

 うちの母ちゃんは、伝えたい大切なことがある時に、決まって姉ちゃんや俺の名前を丁寧に呼ぶ。それはまるで、秘められた力が甦るように。新しい力が宿るように。祈りにも似た行為。


「俺は、この先 何があったって、礼ちゃんに逢えて良かった。間違いなく、そう思える。妹尾さんだって、同じだよ」


 礼ちゃんの大きく黒い瞳はちょっと見開かれ、みるみるうちに潤んでいく。

 あーあ、笑った顔が可愛いのにねぇ。くしゃんくしゃんになってるよ。


「なーきーむーしー」


 俺はシャツの袖で、出来るだけ優しく礼ちゃんの頬を伝う滴を拭った。


「なに泣かせてんの? 神威」


 頬杖をついた葛西先生が、ニヤリとしながら俺達を見てくる。


「礼ちゃんは泣き虫なんですよ」


 何もかもを見透かすような先生の妖艶な視線が痛いし、恥ずかしい。俺は顔ごと逸らしながら、ぶっきらぼうに応えた。

 何もかもを、って? そりゃあ、もう。礼ちゃん可愛いな、改めて好きだな、とかって、今日だけで、何度思ったんだか、っていう俺の思考回路。


 仕上げ用のチョコを溶かしてる時に、首を傾げて小鍋を覗き込んでる時とか、さ。ふと隣から見下ろすと、無意識なんだろうけど、礼ちゃんの口元が緩んでた。今日は髪を結んでるから、シャープな顎のラインが綺麗で、数瞬 見とれてしまって。ふわりと添う後れ毛に視線を移して、あ、礼ちゃんはちょこっとくせ毛なのかな、って…無理やり思考を逸らした。

 無駄なく軌跡を描く小さな手が楽しそうでリズミカルで、それはそのまま礼ちゃんがいかにお料理好きかを表している。そんな礼ちゃんも、好きだなぁ、とか。


 もう、病んでるよね。ちょっと。今日は、いつもよりずっと長い時間、一緒にいるからこそ、かな。

 先に好きになってくれたのは、礼ちゃんなんだけど、今や俺の“好き”が上回ってると思うよ。滅多にない礼ちゃんからのメールを期待して、毎晩、俺がしつこくセンター問い合わせしてることなんて。礼ちゃんは、きっと知らない。


「ところで。葛西と真坂の繋がりについては、聞いてもいいのか?」


 心の落ち着いた声が聞こえてきて、俺の妖しい思考は一時中断。

 ……そうそう、こんなに、好きなので。何が起きても大丈夫。そう、思ったんだった。

 しばしの間の後、葛西先生は心の質問へ応え始めた。落ちた声のトーンが、それはあまり楽しい間柄ではないのだろうと容易に想像させる。


「……直接、知ってるのは。その、右京って子の兄貴。俺ね、元々は私立で教えてて」


 先生が口にした高校の名前は、隣の市にある有名な男子校だった。毎年、東大京大へ何名も合格者を輩出してます、っていう程の。


「ま、どこにでもアウトローちゃんはいまして。煙草吸ってて、下級生にも強要してたとこ、現行犯で押さえた。それが、真坂兄」


 変わらず頬杖をついた先生の瞳には、もうふざけた色はなく、どこか遠くを見遣る。記憶を辿っているのかな。妹尾さんが先を急かすでもなく、俺達は先生の静かな語り口調に聞き入っていた。


「真坂は……、まぁ、純粋に学力だけじゃなく、金と縁故で入学してきた子だったから。あの学校ではもともと浮いてたし、寂しかったのかもしれないけど。だからって、それは煙草吸って良い理由にはならないし、他人を巻き込んで良い理由にもならない」


 5年経つかな、と言った後、先生は小さく溜め息を吐く。俺達は何だか、ゴクリと息を呑む。だって、展開が見えないんだもん。妹尾さんを、除いては。


「真坂が、政治家のご子息だと、知ってた。それでも悪いことは悪い、と。教えたかった。それが正義であり、使命。……だって、俺は教師、だったから」


 先生は今も教師なのに。

 そこに理想を置いてきたと言わんばかりに過去形を使った。


「俺が青かったのか、真坂が黒かったのか。現実なんて、得てしてそんなもんなのか。結局、俺はクビになって公立に鞍替えして。うちの家もしばらくとばっちり喰らって、真坂にお咎めなし」


 なんで? と問い質したのは俺だけじゃなかった。心も武瑠も礼ちゃんも。

 事情を解っている妹尾さんと、何故かしたり顔の姉ちゃんは、不愉快そうに眉間に皺を寄せている。前のめりの俺達を見かねたのか、真坂家は、政治の世界においては歴史は浅いのだと妹尾さんが注釈をつけ始めてくれた。けれどバックボーンは磐石。旧くから続く家柄であるし、市内一等地に不動産を構えているし、傳かれる事が当然の生来で。財力の他に手を出したくなったのだろう、地位も名誉も権力も。


「真坂の父親がね、俺の素行をお調べになりまして。……流出したわけ、よろしくない写真が」

「……全裸?」

「コメントに困るんだけど、吉居。そんなんじゃ俺、一生 引きこもる」

「濃厚なベッドシーンか」

「決めつけんな、弓削。お前が言うとそれらしく聞こえるだろ」


 二人の珍回答に苦笑しながら応える先生は、それでも重苦しくなりそうな空気を払拭出来たことに、安堵した様だった。


「ヤンチャしてたんだよ、相当。ここいらじゃ、結構 名前売れてたし」


 えーっ?! という武瑠の声と、そういう写真か、と得心する心の両方に俺は頷く。


「単車ね、バイク。好きでさ。盗んでないけどね、人生を暴走してたワケ。どこで聞きつけたんだか、理事長の元へお出向きになりましてね。そんな教師が指導してるから、こんな事態が起きるんだ、って。うちの親までバッシング」


 葛西先生のお家は、お店を営んでらっしゃるらしい。店先にいかにもなビラが貼られていたことも一度ではなかったとか。目を細めた先生の表情は、その頃の心情を表すのか、苦々しいものだった。

 責任の所在はいつの間にか上手にすり替えられ、若気の至りを晒された先生は学園を去る羽目になった、ということか。


「右京もね、その兄貴と違わず、親の威を借る小物なの。中学の頃からちょこちょこやらかしてるけど、汚い力で揉み消されてる。しかもアイツ、女関係だらしなくて」


 色ボケ野郎なんだ、と、妹尾さんは吐き捨てる様に言った。

 井の中の蛙、って、今の俺みたいな心境なのかな。大海を知って……ビックリ、というか何と言うか。いや、俺、揃って公務員の両親を持つ、しがない17歳なんだけど。地位も名誉も権力も、勿論 財力もないけれど。


 ひまつぶし、だとか言わなかったっけ? アイツ。およそ感情のこもらない声で。そんな野郎の力が礼ちゃんに、また向けられるかもしれないと思うと、いてもたってもいられない、怒りやら焦りやらが綯い混ぜになる。


 ――俺に、何が出来る?


 俺の眼に宿った力は、知らず知らず妹尾さんへ向けられていたらしい。眉尻を下げながら、言われてしまった。情けない顔、と。


「あんたは、ただ礼を好きでいてくれれば良いよ、山田」

「それは…それだけは、自信ある」

「なら、大丈夫」


 武瑠の奇妙な口笛が聞こえたけれど、俺は、また右腕に近づいた礼ちゃんの甘い熱に、硬直しそうだった。


「右京が動けば、父親も動く。尻拭いのためにね。先生、一昨年まで南高で教えてたんだから、知り合いの一人や二人、残ってるでしょ?」

「あー、俺はロンリーウルフなので」

「却下。ちゃんと情報収集して」


 妹尾さんの語気に、はい、と頷くしかない葛西先生。……よろしくお願いします。


「私は二つの筋でタイミングを窺ってる」


 妹尾さんはそう言って、Vサインをして見せた。

 聞けば、妹尾さんのお父さんと右京の父親は、大型ショッピングモールの誘致を巡って対立してるんだとか。遊休地の有効利活用と、新たな雇用機会の創出を軸に、推進派の妹尾パパ。対して、地元老舗の適正保護を掲げている真坂市議。健全な競争意識は市場の活性化を促進し、適正価格とより良いサービス品質を提供出来る、と。妹尾さんの鼻息は荒い。……うーん、何か政経の授業みたいな。


「老舗の伝統と文化を守るなんつってるけどね? 何のこたない、袖の下を貰ってんだよ」

「うっわ、時代劇」

「……発想が貧困だ、吉居」


 ただ、実態を掴めていないから奔走中らしい。妹尾さんの、部下? というのか手足になって動いてくれる人達が。

 本当にこの人は、未来を担う若きリーダーなんだなぁ。


「あと、右京が出入りしてる怪しげなクラブ。ネタは挙がってるから近いうち一斉検挙」



 誰も決して単独行動しないこと。可能な時は葛西先生に送ってもらうこと。携帯電話はお子様向けの仕様に(防犯ブザーやらGPSやら付いてて、電源切られたらメール通知されるんだって。見た目が…アレだけど)。真坂家や件のクラブへ近づかないこと。

 その他諸々、妹尾さんから注意事項を受け、しばらく気をつけてて、と厳命された。ケリがつくまで、と。


「……万葉」


 ずっとだんまりだった礼ちゃんは、重い口を漸く開き、優しく妹尾さんの名前を声に出した。


「ごめんね……、いろいろと」

「あぁ、山田の気持ちがわかるな。謝らないで、感謝してくれる方が良い。こんなの、嫌いじゃないし」


 こんなの、とは、策を弄することなんだろう。確かに妹尾さん、イキイキしているような。


「山田、面倒くさがってないでしょ?」

「え?」


 俺より速く、礼ちゃんが疑問符を口にした。


「こんな事態になっても。あんたのこと、ちゃんとずっと好きだって。逃げずに、自分に何が出来るか、考えてんじゃん」


 ……うわ。俺、妹尾さんから褒めてもらってる。何かこそばゆいけど、顔がニヤけそう。


 ――あぁ、そうか。こういうことだ。


 礼ちゃんが、俺の彼女で良いのか、と。どうしてそんなこと気にするんだろう、って、不思議だった。ちょっとだけ、悲しかった。そんな考えを持たせてる俺に、何か足りない気がして。


 でも、そうじゃないんだな。今、俺は嬉しいと感じている。礼ちゃんを大好きで、大切に想ってくれている妹尾さんから認めて貰えてるということを。そしてホッとしてもいる。俺、ずっと礼ちゃんを好きで良いんだ、って、ずっと傍にいて良いよ、って。お墨付きを貰った様で。


 礼ちゃんも、こういうことだったのかな。そうなのかもな。募る想いと、自信って、比例はしないから。


「私も、もう……逃げないわ」


 礼ちゃんは、妹尾さんに向けて言い切ると、俺へ視線を移す。神威くん、と、凛とした声。


「私、右京くんが怖くて、避けて逃げてばっかりで、そんな態度は何も良い結果はもたらさなかったのに。うやむやになって忘れ去られてしまえば良いと思ってた」


 一気に吐き出された言葉は、この二年間、礼ちゃんの胸の内でずっと燻っていた想いなのだろう。俺は、礼ちゃんの細い指を、そっと、ポンポン、と叩いた。大丈夫、俺、礼ちゃん大好きだよ。


「……ちゃんとしなきゃ。神威くんは、綺麗で、私は卑屈になりそうだけど。ずっと、離れたくないもの」

「……礼ちゃん…、」


 スッゴい言葉を、スッゴい濃密な愛の告白みたいな言葉を、いただきませんでした? 俺、今。皆さまも、二の句が継げないというか。チビッ子達の騒ぐ声だけが、静かな空間で浮き上がっている。


 ふふ、と愛くるしいスマイル。……いや、いやいやいや。このサッパリしたツヤツヤ顔の礼ちゃんに、そんな深意はないんだろうな、うん。胸の支えが取れました、みたいな。頑張ります、みたいな意思表明だった訳ですよね?


「いやもう、結婚してしまえ、お前ら」


 葛西先生の小さな呟きは、礼ちゃんの耳に入ったのかな。



 皆の背中を見送って、一番最後に靴を履く。それぞれに意味ありげな表情で玄関を出て、チビッ子達と共に、外で待ってくれている。ありがとう、皆様。

 立ち上がると、上がり框に待つ礼ちゃんと目線の高さがほぼ同じ。と言っても、視線は合わない、ね。俺のニット帽を両手で大事そうに持ち、俯き、そこを見つめたままの礼ちゃん。


 不思議だな。

 このシチュエーション、2ヶ月前と似ているのに、俺と礼ちゃんの関係性は大きく変化している。


 話をしたくて、お近づきになりたくて。そうしたら想いを伝えたくなって。欲張りになって、彼氏って一番近いポジションが欲しくなって。自慢したくて、でも独り占めしたくて、守ってあげたくて、ずっと傍にいたくて。


「礼ちゃん」


 俺ばっかりが、好き過ぎてんなー。礼ちゃん起点で物事を考えようと、思ってたのに。そんな冷静な態度、どこに置き忘れてきたんだろう。


「血液型、何型?」


 ふ、と顔を上げた礼ちゃんとやっと視線が絡んだ。A型、と定まらない表情で応えてくる。


「俺、O型ね。身長は? 何センチ?」

「……150、センチ」

「あ、あるんだ? 150は」

「……嘘。ない。149センチ。何? どうしたの? 神威くん」


 ぶ、と吹き出しながら、俺は不思議顔の礼ちゃんへ一歩近づく。礼ちゃんの両の親指をニット帽の内側に入れ、俺の掌を重ねた。そのまま、帽子は俺の頭へ。


「礼ちゃんのこと、もっと知りたい。何でも、知っておきたい」


 私も、と礼ちゃんは小さく口に出す。礼ちゃんの小さな手は俺の手からゆるりと離れ、帽子に収まりきれなかった前髪を、とっても優しく柔らかく指に取り横へ流してくれる。つ、と俺の額に触れる指が冷たい。さっきまで洗い物してたな、礼ちゃん。


「情報収集して、分析して、策を練るの。神威くんが、逃げられないように」

「ぶ。逃げないし。俺が、礼ちゃんを、逃がさないし」


 ふふ、と礼ちゃんの声が左耳の傍で聞こえた気がした……、や、いやいやいや?! 気、じゃない! うわ、どうしよう、どうする?! 俺! 礼ちゃんの顎が、俺の左肩に乗ってる! 右脳が、ヤバい! 刺激されて!


「……メール。しても、良い?」

「……え、っと」

「神威くん、メールは苦手だ、って言ってたけど…。あ、私も苦手だし、そんなマメに出来ないと思うんだけど」

「うん。うん…して? メール、して下さい」


 眠りにつく前に、携帯電話を見つめて。着信ランプが光ってないことに、ほんの少し気落ちして。しなきゃ良いのに、センター問い合わせして、“メール0件”を虚しく見つめてた。


 焦る必要はないと思う自分も確かにいたんだ。長く一緒にいたいなら、忙しい礼ちゃんに無理させちゃ駄目だ、って、無理する自分もいたんだ。それじゃやっぱり寂しくて、もどかしい。日本中の皆から、貴重な一分ずつを分けて貰えたとしても、それでもまだ満腹には足りない、って。きっと、思うくらい、欲張りになっているから。


 俺の両腕は、身体の側面に添ったままだったけれど、ラジオ体操第一の始まりみたいに、大きく横へ広げてみた。そのまま、前へ交差させれば、ほら。礼ちゃんは、俺の腕の中。超密着、距離ゼロ。ちょっとだけ左側にずれた礼ちゃんのスリッパの音が、シュ、とやけに耳についた。


 ぎこちないこと、この上ない。俺、自分で自分の腕を掴んでるんだけどいや、そうしなかったら、どこに持っていくか、って問題で、礼ちゃんの、背中? なでなで? なでなで、ってエロくない? トントン? ポンポン?

 無理無理無理。“さりげない抱きしめ方講座”に通えば良かった。心か武瑠で練習させてもらえば良かった。いちいち、カッコ悪い。

 でも礼ちゃんの柔らかな髪の毛が、俺の頬を掠めるこそばゆさすら幸せ。


 いや、幸せって見えないし、掴めないけどさ。感じられるよね? か、と熱く紅く染まる、目に見える肌の奥で、何かがムズムズと動いている。礼ちゃん、好きだよ、って、何度も何度も繰り返し沸き上がる感情の無限ループ。


 何だかとっても良い匂いがするし。シャンプー? メイク、とか多分してない礼ちゃんだから、香水、って訳じゃないだろうけど。ふわり、ととても良い匂い。


「……神威くん」

「はい。何? 礼ちゃん」


 礼ちゃんはピクリとも動かなくて、でも強張っていた身体から少しずつ力が抜けていくのを、俺は感じていた。

 恐ろしいほど速く打っている鼓動までも、伝わっている。でも、良いんだ。どれだけ好きだと言っても足りないと思うから、想いの何もかもが礼ちゃんに伝わって、届いてくれれば良い。


「私のこと……、好きに、なって、くれて……、」

「ん?」

「……ありがとう、ね」


 ふ、と。礼ちゃんの顎が、左肩から消えた感覚。

 あ、何か寂しい。目線の高さが同じだから、視界の左隅に礼ちゃんの顔が入ってくる。


 ……本当に不思議なんだけど、俺、いつの間に会得したんだか。こればっかりはイメージトレーニングすら、したことないのに。気がつけば組んでいた腕を離し、礼ちゃんの華奢な肩へ添えてた。大きな黒い瞳へ焦点を合わせたつもりだけど見事にボヤけてる。

 だって、俺の瞳が捕らえているのは。その、もう少し下の、唇。


 柔らかな感触は、大きな面というより、小さな点。

 じんわりと熱を帯びていて、俺のなのか、礼ちゃんのなのか、冷静に考える余裕なんて、全く無くて。

 左手の薬指どころの騒ぎじゃない。息が上手く出来なくて、クラクラする。

 唇の薄い部分が名残惜しそうに、チュ、と音をたてて、離れた。


 ……そっか。擬態じゃなくて本当に、そんな音がするなんて。知らなかったな。



「………め……、」

「……え? な、何?」


“め”って。何だ、何だ、何だ?

 緊張極まりない時って、声 掠れちゃうよね?! 終わった、後の方が、ガチガチになるなんて。礼ちゃんの肩に置いている両の手が、急に不自然な気がしてきたぞ。


「目、閉じなかった……、」

「! あ、あー……、」


 それ、か。いや、そこか。さっきの、した時のお話ね。


「……目、閉じた方が、良かった?」

「ぶ。分かりません」


 ものすごーく真剣な表情で俺を見つめてくる礼ちゃんの視線が痛くて、でも逸らしたくなくて、俺は自分の額を礼ちゃんのそこへコツンと当てた。

 あー、良いな。これ。

 この構図、いつもの身長差からすると、考えられないもん。


「……分かんなかったよ正直。礼ちゃんが、目 開けっ放しだったかどうかなんて」


 余裕なかったし、とつけ足すと、礼ちゃんは小さく溜め息を吐いた。

 え? 溜め息? 初めてのチュウ、の後で溜め息、ですか?!


「……神威くん」

「……何か、お気に召しませんでしたか?」

「……何回目、ですか」


 ……何回目、とは。えーっと。

 気づいた俺はおもむろに、くっついていたおでこを離し礼ちゃんを直視した。


「ちょ、もう。バカですか、礼ちゃん」

「……どうしてですか」

「は・じ・め・て、ですっ! 初めてに決まってる、って! 大事なことなんで、二回言わせてもらおうか! 女子は苦手だったし! 誰ともつき合ったことないのに!」


 俺の剣幕に圧されたのか、礼ちゃんは大きな瞳を更に大きくしてる。口元に小さな手を当てて、やがて、頬を緩ませると、声をあげて笑い始めた。アハハ、って。

 ……あれ。えー、っと。俺、こんなにヒーヒー笑ってる礼ちゃん、初めて見たかも。


「…ご、ごめっ、…んっ、」

「……聞こえなーい」

「なんっ、か! もー…か、神威くんっ、や、ほんっっとうに、ごめん、ね?」


 ちょっと俯き加減で未だクツクツ笑う礼ちゃんは、ごめんなさい、と掌を合わせている。


「なんか、あの…緊張、してたのに。一気に可笑しく、なっちゃって。神威くん、余裕綽々かと思った」

「ほんっとに、大バカめ」


 俺は礼ちゃんの頭を両手で包み込むと、おでこをガツ、と突き当てた。


「……も一回、してもい?」

「あ、今度は、目 閉じます。え、閉じた方が良いんだよね?」

「ぶ。知らない」


 笑みを湛えたままの唇。そのままの形が重なって。柔らかくて、気持ち良くて。俺史上、最高の幸福感。

 あー、俺。帰り道で事故に遭ったりしないよね?

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