【本物の気持ち】

「……何かな、彼女って」

「礼。思考の途中で突然喋りだすの、やめてくれない?」


 ビックリするわ、とピシャリ。

 ごめんね、と苦笑混じりに万葉へ謝った。確かに、何の脈絡も無かったな。

 真冬の体育は、憂鬱。

 四時間目の体育館はブッキングしたらしく、3年生が使用するため、敢えなくグラウンド。身体を温めましょう、という名目で黙々と走らされている最中だ。


「で? キスくらい、した?」

「んなっ?!」

「……あんた、昭和のギャグ親父みたいだわ」

「いや、だって!」


 万葉は、お勉強もできる子だけど体育も大好きだ。もう何周も走らされているというのに、息ひとつあがらず、余裕の表情で私を見下ろしている。


「何? つき合うことになったってーのに。何もしてないの?」

「い、いきなり? 昨日の、時点で、そこまで?」


 あと2周ー! 

 宮内先生の甲高い声がグラウンドへ響き渡る。同時に沸き起こるブーイング。もう、反応する気力すら削がれてる、私。


「礼、この前の保健体育のテスト、満点だったじゃん。性教育スペシャリストじゃん」

「……何ですか、万葉さん。要り、ません、そんな、肩書き」


 いくら知識があったって。すんなりキス、なんて。いやいやいやいや! 出来る訳ない! あぁ、もう想像だけで、顔が火照る。走ってて良かった、紅潮した頬をごまかせるから。


「山田って、草食なのかなー。うん、そうかもねー」


 万葉は何を考え、そう結論づけたのか、一人でニヤニヤしながらお弁当箱の蓋を開けている。


 意外だった。

 今朝、教室に入った時からお昼休みの今に至るまで、和泉さん達からのアクションは、良くも悪くも、何ら起こされていない。

 もっと、こう何というか、邪気を孕んだ空気を浴びせられるかと、かなり覚悟していたのに。弾みとはいえ、叩いちゃったし。そこは、人として謝りたいんだけど。間を一日置いたことで、昂っていたあの感情は、すっかり萎えちゃったのかな。


 好きでいたいだけ、なぁんて。体の良いこと言っちゃったな。

 ちゃっかり「彼女」の座に収まった私を、和泉さんは一体どう思うだろう。


「……不思議」

「……だからね、礼。分かるように、話せ」


 そうだったね、と卵焼きを箸で掴みながら、また苦笑。自分で作ったお弁当を自分で食べるって、やっぱり何だか味気ない。


「いろんな人に確認したくなって」

「何を?」

「私が神威くんの彼女で良いですか、って。気になって仕方ない」


 突っ込み所が満載だけど、と前置きをして、万葉は私を箸で指す。ビシィッ、と効果音が付きそうな勢いで。

 いえね、万葉さん。それはお行儀が悪いですよ?


「まぁ、良いわ。まぁ、聞こうじゃないの。何故に気になるの?」

「……自分に自信がないから、かと」


 あぁ、そう。

 万葉はソーセージを頬張りながら頷き応える。私の自己分析に、一旦 納得したらしい。


「礼のそれは、今に始まったことじゃないわ。あんたが自信に満ち溢れる為には、幼少期から人生やり直さないと。でもそれは無理だから次の質問」

「……はい」


 万葉は良いとこのお嬢様、一人娘だと聞いている。将来は婿養子をとるにしろ、跡を継ぐために、それなりの勉強をさせられているんだとか。帝王学、と言うんだっけ。その、“それなり”に鍛えられた思考回路は独特で、万葉にかかると、どんな難題も大したことではないような気になるから不思議。私、昨日からかなり考えてるんだけどね。


「誰に確認して、どんな答えが返ってきたら安心するの?」

「うん、……まずは、万葉」


 だろうね、と言い置いて、万葉は紙パックのお茶をストローで吸い上げた。私から視線を逸らす瞬間なく、迷いも躊躇いもなく、こう続けてくれる。


「“あの”山田が選んだのは、他の誰でもない、礼だよ? 良いに決まってる。私なら、こう答えるかな」

「……万葉、大好き」

「……あんた、そういうのは一回でも多く、山田に言ってやりなよ。で? まずは、っていうくらいだから、他にもいるんでしょ?」


 うん、と首肯すると、弓削と吉居だろうけど、と先読みされてしまった。

 ……ハイ、その通りです。でも、追加したい人がいる。


「あとね、神威くんのご家族。それから、葛西先生と……、和泉さん」


 最後の名前を聞いた瞬間、万葉の片眉がピクリと反応した。何故? という意味かな。


「……神威くんを、よく、見てる人達だから」


 慎重に言葉を選びながら、あぁでも、ちょっと違ったかな、と苦笑する。ご家族と葛西先生と和泉さんでは、それぞれの、よく見てる、は根本にあるものが違うかも。

 無償の愛、聖職者の献身、と。和泉さんの場合は、何だろう。


「……お墨付き、が欲しいの? あなたこそ、神威王子に相応しい御方です、って?」


 万葉はいつの間にかお弁当を食べ終えていて、お弁当箱を小さなトートバッグへ早々にしまいこむところだった。私も慌てて、卵焼きの残り2切れを口へ放り込む。


「……そっか。そういう見方があるね」

「そうよ。ちょっと いやらしいよ」


 いやらしい、の深意を図りかねた。その戸惑いは眉間の皺となって表れる。


「礼は……、ちょっとボンヤリしてるし、いろいろ自覚ないし、チビで鈍くさいし、所帯染みてて若さに欠けるけど」


 万葉の人差し指がス、と私の額へ伸びてきた。万葉の言葉を訝しく思ううちに深められた皺を解そうとするように、柔らかく触れられる。


「可愛いし、優しい。苦労してきた分、人を思いやれる。羨ましがられる要素、てんこ盛りなのに。卑屈になるなんて」


 いやらしいわよ、と。

 万葉の指は私の額にデコピンの凄まじい痛みを残して、ヒラヒラと遠ざかった。


「………ぅ、つー………」


 声にならない悶絶を繰り広げる私を横目に、万葉はスカートのポケットから携帯電話を取り出すと、片手で二つ折りのそれを開き、何事かを素早く打ち込むと、また片手でパチン、と閉じる。

 所作が鮮やか、ってこういうことだ。無駄がない、躊躇いがない、迷いがない。凛とした、万葉そのものを表す一連の動き。

 同姓であっても惚々してしまうのだから、万葉が男子だったら恋に落ちてしまうかも。神威くんに、一生 出逢わなければ、ね。


 廊下でひなたぼっこ、と誘われる。和泉さんの席をチラリと見やると、そこに彼女の姿はなかった。


 ――タイミング、見つけなきゃ。


 謝罪、って、日が経つとしづらくなってしまうもの。思うところはあるけれど、手を上げたのは確かだもの。


 1月中旬にしては、今日は暖か。厚い雲が少ないせいか、廊下は午後の柔らかな陽射しに包まれ、微睡むにピッタリな空間と化している。大きな窓の向こうには、相対する校舎の屋上が見えた。


「……あれから、一ヶ月かな」


 神威くんを、いや正確には三人をあの屋上に見つけたのは、もう去年の話だ。あの時は、こんな未来、全く思い描いてなかった。それは、今も同じ。彼氏、との未来って。どんな風に、思い描くもの?

 私は窓枠の傍に幅広くとられた縁へ腕組みを置くと、その中へ顔を埋めた。


「そういえば、礼。ここからよく見えたね?」


 窓の外側へ向いている私の頭の上から、屋上の山田達のこと、と万葉の声が降ってくる。聞こえてくる向きからして、私の左の窓縁に凭れかかっているのだろう。


「……だって、キラキラしてるから」

「は? …… 山田が?」

「うん。神威くんがどこにいたって見つけられるわ、私」

「……青木ヶ原樹海の中でも?」


 うん、と微笑むと、恋は盲目、と笑い返された。かなり本気なんだけどな、私。むしろ、見つけ易いんじゃないかとさえ思う。


「そのわりにはあんた、キャピキャピ浮かれてないのね? ずっと好きだったんでしょうに」

「……そんなキャラじゃないもの」


 それに、と言いかけて口を閉じた。こんな話、万葉には面白くもなんともない。ただ、私が考え過ぎているだけで、友達の恋バナが、未来の社長の役に立つとは思えない。


「それに? 何よ?」


 言って、と促される。決して強制ではない。でも有無を言わせぬ圧倒的な力。もともと持って生まれた人間って、存在するらしい。


 手の甲へ顎を載せ、意味もなくカクカクと鳴らしてみた。

 そうね、彼氏が出来たからって。その相手がずっと想いを寄せていた人だとしたって。途端に目の前に広がる殺風景が、薔薇色に彩られる訳じゃない。そんな自分は、どこかしら脳の回路が欠落しているんじゃなかろうか。


「……私。恋愛沙汰は、苦手としていたし。お母さんを見てきて、どちらかと言えば敬遠してた。快楽主義者でもなければ、刹那主義者でもないわ。神威くんと、これから先、どうしていけば良いのか、分からない」


 万葉は黙って耳を傾けてくれる気らしい。向かい合って鋭い眼光に捕らえられている訳でもない。開放的で、でも窓枠に切り取られた閉鎖的な景色へと、私の独白は吸い込まれていく。

 ……違うな。目の前のガラスが私の言葉を、全部押し戻してくるから。あぁ、そうやって、一旦 口から出して反芻して整理しなさいよ、ってこと?


「例えば、連絡。神威くんの携帯に、まだ私のメモリは残ってるのかな。限られた人、の中に彼女なら入れてもらえるのか。あぁ、どの程度で連絡とって良いのかも、分からないわ」


 他愛ないことでも、その場その時、相手が傍にいなくて、直接伝えられないからメールや電話をする。世のラブラブカップルのスタンス、ってそんな感じ? 別に右にならえ、をするつもりはないけれど。


「……デ、デート、とか、だって。上手くいかないわ。智を連れてく? そんなのアリかな。お母さんに頼むのは、嫌だし。や、別に物凄く二人きりになりたい、とかじゃなくてね?」


 そう、現状、私の生活から智を切り離すことなんて出来ない。苦痛でも拘束でも不自由でもない。けれど、子育て中の女子高生は、一般的ではない。未来ある命を護る私は神威くんとの甘美な二人だけの世界へのめり込む訳にはいかないのだ。


「……大学も。神威くん、どこ行くのかな。成績良いから、どこだって狙えるよね。きっと県外で離ればなれになって、今 以上にモテるだろうし…お色気フェロモン大放出中の女子大生だよ? 周りにいるの。あ、キミ、モデルやらない? とか、スカウトされちゃうかもしれないよね? なんとかボーイのオーディション、勝手に応募されちゃうかも。うん、神威くんならグランプリ間違いなしなんだけど」


 ……あぁ、ちょっと、妄想が暴走してきた。だからか、気づかなかった。万葉が相槌も茶々も入れてこないことに。


「ほらね、やっぱり私、ヤキモチ妬くわ。和泉さんには、どうなりたい訳でもない、

 神威くんを好きでいたいだけ、なぁんて啖呵 切っちゃったけどそりゃあ、独占したいわ。や、そういうの、浮気じゃないよね? でも、彼女だからって、許容出来る?  あなたは船、私は港、いつでも帰ってくるのをドーンと広い心で待ってるわ、って………、無理無理無理! そんなの」

「ぶ。出港しないし、俺」

「神威くんだけの意思云々ではなくてね? 都会に行けば、様々な誘惑の坩堝で、私のことなんぞ忘れてしまっ………て、か、神威、くん?」


 私の耳がおかしいのかと思った。神威くんの声が聞こえるなんて。

 でも、確かに、間違いなく、私の右隣には、瞳に優しい色を湛えた、大好きな人が、いた。

 私はきっと、アレだ。餌を求める金魚みたいだ。口は何かを発したいのに、何から声に出せば良いんだか……。


 何故? 何故、ここにいるの?神威くん? 私ってば、万葉へ話してるつもりで、いやもう、もはや独り言の域で勝手なことばかり呟いてたのに!

 どこから? 何を、耳にしたの?神威くん。私、傷つけたんじゃない? 神威くんの優しい優しい瞳には、ほんのちょっと、本当にほんのちょっと寂しそうな色。

 どうしよう。身体を、自分の意思できちんと動かせない。神威くんから、目を逸らせない。


「か…、」

「あら、奇遇ね、山田」


 私の左側から万葉の声が神威くんへ向けられる。抑揚がなくて、笑いを含んだ様なそれを聞くと、神威くんはユルリと口元を緩ませた。


「……うん、奇遇、ですね。妹尾さん」

「ちょうど良かった。礼、何だかウダウダ悩んでるから。あんた、聞いてやってよ」


 神威くんは笑いを噛み殺した様な表情で、コクリと首肯する。万葉は私の頭をワシャワシャかき回すと、去り際に、山田に直接言うべき、と言い残した。

 ……言った。というか、聞かれた。


 万葉ちゃんの演技力 イマイチ、とクスクス笑う吉居くんの声。え、吉居くんと弓削くん、どこにいたんだろう。万葉は、うるさいよ、と応えながら、二人と連れ立って階段を降りていった。

 な、何から、どう切り出せば? ずっと神威くんから目を逸らせなかった私は、一旦、消えていった万葉の背中へ視線を置く。


「……妹尾さん、って。カッコいいね」


 何を指して神威くんがそう言うのか、分からなかった。確かに、万葉はカッコいい、けれど。

 また神威くんへと定められた私の視線に疑問の色を感じ取ってくれたのか、口角の上がった綺麗な唇は、穏やかに言葉を紡いでいく。


「さっき、武瑠にメールが来てね。『迅速かつ静粛に、山田連れて1組へ』って。しかもタイトルが『緊急連絡』」


 武瑠が焦ってね、とその時を思い出した様にクス、と笑う神威くん。


「迅速かつ静粛に、って何だよ? って。日本語おかしくない? ってボヤきながら来てみたら。……礼ちゃんの姿が見えて」


 現在に至ります、と。

 言いながら腕組みを解いた神威くんの手が、私の頭へ伸びてきた。

 何というか。鈍くさい、本当に。

 神威くんの動きを目で追うのに精一杯で、反射するのを忘れていた。


「……妖気 感じた? キタローみたいになってる」


 万葉にかき回された髪の毛の名残を、丁寧に正そうとしてくれる、大きな手。

 たぶん、触れるのは極力少なく、髪の毛だけ、と。むやみに触れないよう、気を遣ってくれてるんだろうな。


「……わー、礼ちゃん……、その上目遣いは、ヤバい」

「……え?」

「いや、ちっちゃいから仕方ないんだけどねー。あー、俺、手汗ハンパない」


 はー、俺ってダメだな、と呟きながら神威くんは左手をブンブン振っている。


「目つき、悪か、った? 私」


 あまりに神威くんを見つめていたから。というか、視線を逸らせなかったんだけど。

 窓の外の薄い雲を、特に意識することなくボンヤリ見つめながらも、言葉は口をつく。


「……違うよ。そっか、やっぱり、ちゃんと言わなきゃ伝わんないよね」

「え……、」


 動揺は未だ収まりをみせない。神威くんの瞳に宿る寂しい彩が気になって。

 でも、何から確かめ、何を伝えるべきなのか。考えても、考え過ぎて、どつぼに嵌まってる気がする。


「……か、可愛いな、って、思ったんです、よ。ここが学校だ、って忘れそうで。なんか、自制出来なくて、こう、ヤバい、ってこと!」


 あー、何言ってんだ! 俺!

 呻くような声を絞り出した後、神威くんの大きな両の掌は、頭と顔の上半分をスッポリ覆ってしまった。あ、表情が見えなくなっちゃった。

 神威くんは、恥ずかしくても、照れても、誤魔化そうとか、適当な言い種でウヤムヤにするでなく、きちんと自分の言葉で伝えようとしてくれる。

 神威くんのキラキラは、源がここにあるんだ。真っ直ぐさ。私に欠けているそれは、とても綺麗で眩しい。

 持ってないから、欲しくて。叶わないから、どこまでも目で追っている。同化したいのに、反発して。


「……ありがとう、神威くん。……でも、ごめんね。気分、悪かった、でしょう?」


 頭を抱え込んだ神威くんの口元しか見えない。そこは固く真一文字に結ばれたままで、私は何だかいてもたまらなかった。

 そっと、小さく、右肘に触れてみると、途端に両の腕は動く。神威くんが顔を覗かせれば、私の視線が吸い込まれるのなんて、瞬時。


「え、大丈夫だよ? 具合は悪くない」


 真顔でそう言う神威くんを見て、なるほど、と思った。

 確かに、きちんと自分の言葉で言わなければ伝わらないんだわ。


「……具合、じゃなくて、気分。私、神威くんを嫌な気分にさせたでしょう? ごめんなさい」

「な、……えー、……出てた? 顔に、出てた?」


 顔、というか、その瞳に。目は口ほどにモノを言う、って言い得てる。


「……寂しそうな、瞳、だった。ごめんね」


 謝りすぎ、礼ちゃん。とやんわり返されれば、また何とも言い様のない焦りに囚われる。


「俺こそ、ごめん。大人気なくて…っや、ぜんっぜん! 大人じゃないけどね? 本当に、ガキみたいで。……妹尾さんが、羨ましくて」


 ごめんね、と。

 神威くんは一気に、私の気がかりへ回答をくれた。

 万葉が、羨ましい? もう少し、答えを下さいな?


「……礼ちゃんから、何でも打ち明けてもらえる人なんだなぁ、って。妹尾さんは。勿論、俺は代わりになんてなれないけど……、でも、俺にも、いろいろ話してくれたら……、嬉しいなぁ」


 彼氏、だし。

 そうつけ加えた神威くんの顔はほんのり紅く染まり、それは耳まで続いている。右手人差し指を鼻の付け根に当てたかと思えば、おでこをポリポリと掻き、首元へ添えられたり……、と落ち着きがない。違うな、落ち着かないんだ、神威くん。恥ずかしさと照れと、でも真っ直ぐな想いと、痛いんじゃなかろうかという程に見つめている私の視線と。全部を綯い混ぜにして、神威くんは綺麗に微笑む。


「……大学は、出来れば礼ちゃんと同じとこが良い」

「………え」

「トモくんいるし。地元 離れられないでしょ? あ、デ、ート? はトモくんもぜひご一緒に、」


 言葉に詰まった瞬間、また神威くんの顔はうっすら赤みを増す。


「えーっと、あ! 携帯! メモリ登録してるよ、勿論」


 見る? と言いながら、神威くんは制服のズボンのポケットへ手を滑り込ませる。右掌に包まれた、黒のシンプルな携帯電話。ストラップも付いていない、無機質なデジタル機器。親指を器用に使って二つ折りの本体を開き、液晶画面へ私の情報を呼び出していく。

 俯き加減の真剣な表情。黒く濃い睫毛の長さが際立っている。ほら、という明るい声につられて手元へ視線を移すと。

『礼ちゃん』という名前表示がメモリ0番に登録されて……。


「……ん? あ! あっ?! 何だ、このハート?! や、ちょ、これ、俺じゃ…、た、武瑠?!  武瑠だ!」


 いもしないのに、分かってるだろうに、キョロキョロと吉居くんを探す神威くん。顔は、というか首元まで真っ赤っか。


「……ありがと、神威くん」


 そんなところから聞かれていたんだ、と苦笑した。ほぼ、最初から。気づかなかった自分がいかにボンヤリなのか、って苦笑、というか、嘲笑だ。

 神威くんは、朱に染まった顔色を元に戻そうとするかの様に、コホン、とひとつ咳払いをした。パチン、と携帯電話を折り畳むと、礼ちゃん、と穏やかな声。


 ふと、思った。今、この瞬間。

 神威くんは私の名を呼び、私だけに向き合い、私の事だけを考えてくれている。

 なんて、贅沢な。でも、その甘さに溺れてしまいそうな自分が怖い。自制を働かせ、理性を保て。そうやって、脳へ言い聞かせておかないと。


「……俺が、ね。頼りない、っていうのは自覚してるんだよ?」


 自嘲気味に切り出した神威くんが悲しくて、そんなことはない、と真意を込めて首を振った。言葉にも出したかったのに、それは叶わない。でもね、と力強く紡がれる神威くんの声に遮られたから。


「大切な人のことを、他から知らされるのは。……やっぱり、すごく、寂しい」


 私は小さく、ごめんなさい、と謝った。眉尻を下げた神威くんは、また謝りすぎ、と口元に柔らかく笑みを浮かべ、窓を背にして凭れた格好のまま、携帯電話を元の場所へしまう。両の親指はそのままズボンのポケットを引っかけた。


「礼ちゃんには、いつも笑っていてほしいから、そのために俺は、とか。……いろいろ、考えるんだけど」


 ドラマみたいに上手くいかないよね。

 溜め息ともとれる空気と共に吐き出される神威くんの言葉。

 確かに。人間が生きていくのに、台本なんてないもんね。


「妹尾さんがメールくれなきゃ、礼ちゃんの悩みごとは分からないままだった。……そんなんじゃ、ダメなんだ」

「……ダメだなんて。私が勝手に悩んでただけなのに」

「今日、一緒に、帰ろう?」


 今日、一緒に、帰ろう?

 私は神威くんの言葉を頭の中でなぞった。

 窓側へ向かっていた私の身体は、いつの間にか神威くんの側面を向いていて、ニッコリ笑顔が目に入れば、ただ頷くばかり、だ。


「トモくんをお迎えに行って、礼ちゃん家まで。……あのー、出来るだけ、たくさん話をしたいな、と。礼ちゃんが、今 思ってることとか何でも」

「……でも、神威くん、遠回りよ? うちと神威くん家とじゃ、反対方向」


 良いんだ。

 神威くんはきっと、背が低い私へ目線の高さを合わせようとしてくれている。空気イスに座るかの様に不自然な格好。


「無理してないし、無理しないよ。だから、礼ちゃんも」

「?」

「トモくんを大切にしている礼ちゃんを……、そんな礼ちゃんだから、好きに、なったんだ。彼氏、だからって。俺の優先順位を、無理して一番にしなくて良いよ」


 私の口は、え、の形のまま止まってしまった。

 ……そういうもの? 彼氏・彼女の最優先事項は、お互いのことなんじゃないの? や、でもそう出来ないから、私はグジグジ悩んでたんじゃなかったっけ? 日々の生活スタイルを神威くん中心に変えたり、何にも囚われず進路を決めたり、到底出来ないな、って……、


「あのね、礼ちゃん。そういう脳内会議を口に出して欲しいんだよね?」


 クックッ、と大笑いを我慢している様に腹筋を震わせながら神威くんは言う。

 綺麗な人って。顔がそんなにくしゃくしゃになっても綺麗なんだから。


「……ズルい」

「え? 何?」

「神威くん、相好が崩れたところで綺麗なんだから。ズルい」

「百面相の礼ちゃんだって……、可愛い」

「!」

「いや、もー! バカでしょ? バカだよね? バカップル決定?」


 神威くんはグーの形にした右手を口に当てて、緩みそうな顔なのか、はたまたおさまらない笑いなのか、堪えようとしている表情。

 ね、と反対の左手が指す先には。大勢の、ギャラリー……。


「……っえ?! い、いつから?! な、聞かれてたっ?!」

「いやー、流石に声は聞こえない距離でしょ」

「え、何? 何故にそんな余裕綽々?!」

「そうだねぇ。俺、不幸にも好奇の目に晒されるのは、結構慣れてるというか」


 とっさに返す言葉に、困った。

 神威くんは、昔から、自ら望んでそのポジションにいた訳じゃないのに。自嘲気味に、卑下する様に、自分のことをそんな風に言わないで欲しい。


「礼ちゃん、切り抜け方、はね」


 ……大丈夫。目の前の神威くんを見ていれば、大丈夫。


「目の前の大切な人から、目を逸らさないこと」


 私の脳内とシンクロした様な神威くんの言葉に、私の頬は緩まない訳がなかった。


「……んー、礼ちゃん」


 何? と目顔で訴えれば、柔らかな笑みを浮かべているのに、眉の辺りが困っている神威くんの顔が、ちょっと熱を持った。


「……俺、やっぱり当分、ヤキモチ妬く」

「な、んですか…その宣言」

「だって。1組って、半数は男でしょ」


 確かにそうだけど、と頷きながら、神威くんの指が差す方向を目で追う。教室内へはかなりの人数が戻ってきており、予鈴が近いのだろうと思われた。皆一様に出入口付近で立ち止まり、え、や、嘘ー、と漏らしながら、舐めるかの視線を浴びせてくれる。


「うち、男子クラス」

「……存じ上げてます、が」

「……笑ったり、するよね? 礼ちゃん。いや、良いんだけども」


 あぁ。なるほど。なんとなーく、神威くんの言わんとすることが伝わってきた。や、ご本人様はモヤモヤした気持ちを言いあぐねているようですが。


「笑っても、何しても。神威くんへは、特別。神威くんだけ、特別」


 私、神威くんの、彼女ですから。

 そうつけ足すと、神威くんは伸びをした格好のまま、顔をこれ以上ないくらい紅く染め、固まってしまった。

“アナタッテヒトハ”とか聞こえた気がするけれど、どうなんだろう? ハッと我に返った神威くんから、深ーい息と共に吐き出された言葉。


「……怒ってる? 私、怒られてる?」

「ち、がーう、よ! 俺の、彼女さんは。つくづく無意識な小悪魔で、罪作りな人だなぁ、と」


 無意識、小悪魔、罪作り。

 神威くんの口から語られれば、どんな言葉だって美しい響きを伴って耳に染み入るんだけど。それは、私がもう、バカップルマジックにやられてるせいだ、って分かってるんだけどそれでも、あんまり、この名詞三点セットを心から歓迎出来ないのは、恋愛慣れしていない私の経験値が低すぎて、既にキャパオーバーだから? アゲハなギャルが艶かしく口角を吊り上げ、エクステバサバサの悩殺ウインクで男の人を手玉に取っていく様が、私のイメージ最大限なんだけど……それって、一体……。


「あー、俺、ライフ幾つあっても足りないかもしんな……い、って。礼ちゃん? マイナス方向へ拡大解釈中?」


 眉間に皺が寄ってるよ、と、私の顔を覗き込みながら言う神威くん。瞳に佇んでいた寂しげな色は消えていて、私はちょっとホッとする。


「だって、意味が、分からないんだもん」

「……だもん、ってまた…か、」


 なにごとかを言いかけて止まった神威くんは、拳を口元へ当てて、コホン、と咳払いをした。


「……あのー、そこはね、話をたくさんすれば。その分、真意が伝わると思うんだよね。何にせよ、礼ちゃんが今してるのは、誤解であって。理解、じゃないからね?」


 うーん、と唸りながら、窓側を背に凭れかかると、私の視界に謝るべき人の姿が飛び込んできた。


「あ、和泉さん!」


 彼氏との会話をぶっちぎって、いわば恋敵の元へ駆け寄る私って、本当にちょっと尋常じゃない。でも神威くんは、きっと怒らない。怒ってない。こんなことで、不機嫌になったりしない。

 一旦、立ち止まってくれたのにおそらく私の声だと分かった途端、教室内へそそくさと入ろうとする和泉さんを掴まえるのに必死で、振り返る余裕はなかったけれど。神威くんは多分、微笑みながら私達へ視線を向けてくれている、はず。


「ごめんなさい!」


 あ、一方的すぎたかも。何かしら、前置きした方が良かったのかも。マナーとして、お作法として。今ちょっと良い? とか。話がしたいの、とか。謝りたくて、とか……、


「もー、伸びる!」


 私が掴んだカーディガンの右肘辺り。振り払いながら、和泉さんはちょっと声を荒げる。


「あ、ごめ…」

「何の謝罪?」


 話を早く終わらせたいのか、和泉さんは核心をつく。要点のみ的確に伝えよ、と。業務連絡みたいに。


「……叩いてしまって、ごめんなさい」

「……は」


 確かに、は、と聞こえた。

 疑問符のつかない単語は、私を嘲る様な、でも呆れた様な、はたまた口を開こうとする和泉さんの景気づけの様な。目を合わせてくれないから、ざわつく教室へただ吸い込まれ、本意が分からない。


「……良い子ちゃんか。キモ。それ、本心?」

「良い子ちゃんなつもりはないし。もちろん、本心」


 挑むつもりはこれっぽっちもないんだけどな。どうしてこう、お互い喧嘩腰、みたいになっちゃうんだろう。いや、実際一昨日、喧嘩したんだから無理ない、のか。


「この、大嘘つき」


 和泉さんは、相変わらず私を見ることなく、むしろその姿の向こうの遠野さんや西條さんと視線が合ってしまう。教室内でのこの状況の把握とその対応に困っているのは彼女達で、戸惑いの視線を送っているのに、和泉さんは何にも臆することなく、歯に衣着せぬ物言いを続けていく。

 それにしても。なかなか直球過ぎて、たじろぎそう。大嘘つき。全くもって、仰る通り。


「……はい」

「はい、じゃないわよ! も、なーんで山田くん、こんな女にたぶらかされたかな?! ムカつく! イラッとする! 一体、どこが良いんだか! こんな鈍くさそうなヤツ選ぶなんてっ!」


 そこで、初めて和泉さんと目が合った。


「……っ、ちょっ?! なに、うすら笑ってんのよ?!」

「……あ。重ね重ね、ごめんなさい」


 だって、この迸る激情の矛先は私で、それは勿論、私だけが甘んじて受けるべきもの。でも、神威くんに対して、可愛さ余って憎さ百倍、にならないところが、この人の潔さなのかもしれない。


「……和泉さん、お母さんみたいだなぁ、って。山田くんのこと、本当に心配してる」


 教室のみんな、見ざる聞かざる、だと思っていたのに。私の言葉の後には、ぷ、とか、クスクス、とか、小さな笑いが漣の様に広がる。

 目の前の和泉さんは、と言えば、ワナワナ、というのか、プルプル、というのか、うん、怒りに震える、って、こういう時に使うんだわ。やっちまった、のね、私。そうか、年頃の娘さんへお母さんみたい、は無かった。あ、神威くんへお父さん云々言って、ガッカリされたこともあった。学習能力ないな、私。


「あ…あ、んた、ってっ…、」

「もー、いーじゃん、和泉ー」

「ミコちゃんと会話噛み合ってないし」


 あまつさえ、遠野さんと西條さんまで私達を取り巻く笑いを含んだ雰囲気に加わって、和泉さんの背中をポンポンと叩く。


「昨日、キッパリとフラれたんだし」

「! ちょっ、言わないで! それっ!」

「そーそー、ほっとけばいいのよ、こんなバカップル」

「バカップル、はやめて、遠野」


 教室後方の出入口には、神威くんが半身を覗かせ私達を見守ってくれていた。

 本当に気配、感じさせないなぁ、神威くん。いつからいてくれたんだろう。優しい笑顔を見ると、なんだかホッとする。


「バカップルも良いとこじゃない。ミコちゃん心配で、そんなとこにのっそり佇んでさ」

「……辛辣」

「当たり前でしょー、アタシ達は“和泉の”友達なんだからさー」

「そうよ、山田くん達を応援する訳ないじゃん」


『応援する訳ないじゃん』

 うーん、そうか。そうだよね。脳内では解っていたのにいざ、現実を突きつけられると胸がチクリと痛い。

 応援してくれる訳がない。応援してくれる筈がない。

 私は “みんなの山田神威くん” をかっさらって、私だけの神威くん、にしちゃったんだから。しかも、そうするに値する女だとは、到底思われていない。


 私、なんて勝手。胸が痛む、それすら勝手だ。この遠野さんや西條さんにまで、理解と祝福を期待していたなんて。


「……まぁ、でも」


 深い溜め息と共に、半ば投げやりに吐かれた和泉さんの言葉で、私のマイナス思考は一時中断する。和泉さんは私へ一瞥をくれた後、神威くんへ向けキッパリと言い放った。


「手は、出さないわよ。山田くんがぶっちぎれると恐ろしい、ってのは、よく知ってるから。でも、」


 きっと、ありがとう、と言いかけた神威くんを遮って、和泉さんは続ける。


「悪口くらい、言うわ! 山田くんのこと、好きでいたいだけ、なーんつっといて! ちゃっかり彼女の座に収まってるような大嘘つき! あたし、やっぱ気に入らない!」

「和泉、それ、違う。俺が無理 言ったの。彼女になって、って。他のヤツにとられたくなかったから」


 神威くんの声はさほど大きくなく、教室内へ響き渡るものではなかったけれど、それでも後方出入口付近を陣取った、私達の周りでは、見事なざわめきが起こった。

 タイミングを図った様に、予鈴が鳴る。私の頭の中にも、何だか大きな鐘の音が響いている。

 その後の記憶は曖昧なまま、私はなんとか五・六時間目をやり過ごした。


 いつの間にか姿を現していた万葉から引きずられる様に、着席したような。去り際に、山田、放課後はこっちから行く、とか何とか万葉が言っていたような。面白がるような、冷やかすような、呆れたような、ざわめきの解散。

 窓際の席で良かった。ボンヤリしがいがある。


 ありがとう、って。咄嗟に口に出来なかった私に腹が立つ。

 神威くん、どう思っただろう。和泉さん、も。

 無理を言われたんじゃない。彼女になって、本当に嬉しいのだと、どうしてあの時、はっきりと意思表示出来なかったんだろう。


「……い、れーい、れぇーいぃーっ!」

「……あ」


 あ、じゃないわよ、とすぐそばに万葉の苦笑。放課後? もうすっかり放課後だ。起立、礼、に反応したのかすら、覚えていない。教室内の人影も、すでにまばらだ。


「あんたねぇ…どんだけボンヤリ? 5組 行くよ」


 コクリ、と頷きながら、はた、と思う。万葉も、一緒に帰るの?

 いつも妹尾家の豪華なお迎え外車が正門近くまでやって来るから、放課後を共にした覚えは数える程しかない。


「しばらくは、私も一緒に帰るよ」


 私の疑問を見透かす様に、飄々と万葉は答え、先に立って歩く。


「……ありがとう」

「どういたしまして」

「……私、覚悟が足りなかったわ」


 促すではなく、でも、その先を待っているよ、と教えてくれる様に、万葉は私の背中をポンポンと叩いた。

 鞄を持つ腕がやけにダルい。下げているのが億劫で、何かに縋りつくように腕の中へ抱えなおす。

 それは、私の歩みを追う様に投げかけられる、いくつもの視線のせいかもしれない。その舐めるような眼力が少しでも和らぐように、この時間帯まで万葉が待ってくれたのも、庇うように一緒にいてくれるのも、分かっている。


「多数 対 個、に立ち向かう覚悟が。足りなかったんだわ、私」

「……個、じゃないでしょ。山田は礼の何なの? 覚悟、ってのも、大袈裟」

「……だって、神威くんは。あんなに真っ直ぐで、」

「山田と比べても、不毛。アイツと礼とじゃ、生きてきた土壌が違うでしょ。きっと山田は、自分の意思とは無関係に、多数に晒されてきたのよ。場数踏んで、アイツなりに強くなって」


 5組の前方入口からは、教室内の神威くんが数名の男子の陰から見えた。吉居くんは部活へ行ったのか姿はなく、弓削くんやクラスメイトと席に座ったまま、何か話している。

 誰かが、あ、ミコちゃん! と声に出した。

 ヒューヒュー、というレトロな冷やかし声が聞こえて。良いなー、神威ばっかり! という妬みの声が聞こえて。小突かれて、髪の毛グシャグシャにされて。

 神威くん、顔、真っ赤だ。分かってるのかな。分かってないだろうな。私、ちゃんと言ってないもんな。

 神威くんのそのキラキラの笑顔が、どれだけ私の顔を、身体を、心を、熱くしてるか、なんて。


「……なんだっけ。冷酷王子だったっけ、そんな言われてた山田を、さ」

「え?」

「あんなにデレデレさせてるのは、あんたなのよ? 礼」


 それって、スゴいことなんだけどな。

 普段クールな万葉の屈託ない笑みに、私の顔は紅潮していたらしい。

 また気配なく傍に立っていた神威くんは、よく分かんないけど、もう本当に妹尾さんが羨ましい、と。ポソリと呟いて、万葉から足蹴にされた。



 猫背になっちゃうから良いよ、って言ってるのに、神威くんは私の声を僅かも逃すまい、としてくれる。つまり、私達の身長差はなんと30センチ近くあって、私が何か言葉を発するたびに、神威くんの耳が降りてくる。それはもう、気の毒なくらいに。


「ねぇ、神威くん。私、腹筋 鍛えるから」

「……え、何? なんで6つに割りたいの?」

「や、違うの。お腹から声を出せる人になりたいな、って」

「声 出てるよ? ちゃんと聞こえてる」


 それは神威くんが無理してくれてるからです、と申し訳ない気持ちで伝えると、神威くんは昼休みと同じ言葉を私にくれる。無理してないし、無理しないよ、と。


「礼ちゃんも、ね? 無理しちゃうと、何でも長続きしないでしょ? 日記とか……、気負い過ぎたって三日坊主が良いとこじゃない?」

「……日記、書いたことないわ」

「あ、そうなんだ? 例えが悪かったな。えーっと、」


 神威くん、本当に丁寧に受け答えしてくれるんだな。それが私の発言だから、と自惚れたりはしない。きっと、言葉を雑に扱わない人だから。その言の葉に力が宿るのね。


「家事は、毎日 続いてる…というか、続けざるをえない、というか。でも、お料理は好きだから」


 そう! そこ!  神威くんはピョン、と飛び上がる様な勢いで、私の前に立ち、人差し指を向けた。


「好き、だから、続くんだよね? で、続いていくと、もっと好きに、ならない?」

「……うー、ん。もう、そこは……、惰性?」


 ぶ、と神威くんは吹き出すと、なかなか会話って思い通りに進まないな、と苦笑した。後ろを振り向くまでもなく、万葉と弓削くんの押し殺した笑い声が聞こえてくる。


「俺ね。礼ちゃんとは、その……長続きしたいな、と思ってる」

「え、あ…ありがとう」


 あれ、と神威くんは立ち止まる。自然と私も立ち止まる。


「……私も、じゃないんだ? そこ」

「あ、…私も。はい」


 言わされてる、とクツクツ笑いながら神威くんはまた歩き出した。


「神威くん! あの、私…、鈍くて、ごめんなさい」


 なんで謝るの、とご指摘を受けた。はい、すみません。


「……会話するの、下手で。思ってること、上手く言えないし。上手に繋げたり、膨らませたり、出来ないし。何だか、脳がスピードと展開に追いつかない、感じ」

「俺と、だけ? 誰とでも?」


 私を覗き込むように、たおやかな瞳まで高いところから降りてくる。はぁ、本当に綺麗、神威くん。


「誰とでも。和泉さんにもきちんと謝れなかったし。……あの時、神威くん、庇ってくれたのに、気が利いたこと何も言えなくて」


 庇ってないよ、と俯き加減でにこやかに応えてくれた後、だって本当のことだしね、と神威くんはつけ加える。


「もう、今となっては、考えられなくて」

「……?」

「礼ちゃんが、他のヤローと、こう……、あー、やだやだ」


 肩を竦め、鼻根に皺を寄せ、神威くんは頭をプルプルと振る。


「礼ちゃんは、礼ちゃんのままで、そのままで良いんだけどな。会話だって、ちゃんと皆の言葉を噛みしめてると思うし。あ、でも、脳内で考えすぎかも」


 嘘がなく、真摯な言葉は、すんなり心に染み込んでいく。肌の奥深くまで浸透する、ナノ成分、みたいな。私、褒められて伸びるタイプではないんだけど、神威くんに甘やかされるのは、気分が良くて頬が緩む。

 彼女、って。こんな居心地の良い場所なんだなあ。



 ただ私は、哀しいかな、やっぱり日々、時間に追われていて。花の女子高生なんだけど綺麗にデコったメールなんて送れなくて。いや、恥ずかしい、とかではなく、技術的に、時間と心の余裕的に無理で。智と一緒に早く寝てしまうから、真夜中の長電話、なんて少女マンガに必須のシチュエーションもなくて。


 浮かれるな、と釘を刺されているのかと頭痛がしそうなくらい、進学校であるわが校は毎週土日、いずれかは模試。一緒に帰ることができる日、夕飯の買い物に神威くんをつき合わせてしまうことだってある。

 私自身が所帯染みてるからか、おつき合いも、物凄く所帯染みてるんですけれど。


「神威くん……何か、こう……、レトロなつき合い方で、ごめんね?」


 時々、申し訳ない気持ちになって、たまらず神威くんへ謝ったりした。

 デート、だって。したことないし。

 や、まだつき合って間もない、といえば間もないんですけどね。


「良いのー、気にしない! 何回言ったら、大丈夫? 礼ちゃんが安心できるまで、何回だって言っちゃうよ?」


 神威くんなら本当に、何万回だって言ってくれそうで、ありがたいやら情けないやら。

 ……お母さんに、言ってみようかな。彼氏ができたの、って。そうしたら、たまには家へ戻ってきてくれたりしないかしら。

 でも、無理することないよ、っていうのも、何回も言ってくれた。家事も、智のお世話も、毎日の雑事も。無理して変えることないんだよ、って。


 お母さんが記事を書いているのだったか、編集に携わっているらしい、働く女性向けの雑誌。連絡が取りづらいお母さんの生存確認、みたいな感覚で、毎月 買い続けているそれには、バレンタインデーの特集が組まれていて、私にそういう時期なのだと教えてくれていた。



「もうすぐ、バレンタインデー、だね?」


 その日の帰り道、唐突に神威くんは切り出した。

 その意図するところは? 見上げた先には、これでもかといわんばかりのキラキラな瞳で優雅に微笑んでらっしゃるご尊顔。

 あのー、神威くん。気持ちが身体中からはみ出ているというのか、それはもう、期待していただいてるんですね? きっと。


「……そう、ですね」


 こみ上げる笑いを堪えながら答えると、何かを言いかけた神威くんを、万葉の声が背後から制した。


「お菓子業界の戦略に、見事にのせられてんじゃないよ、山田」

「……妹尾さん。需要あっての供給でしょ? 市場原理だって」

「あんた、夜中の通販番組の外国人に弱いタイプね」


 それは、俺の母ちゃんです、と憤慨しながら応じる神威くんへの笑いが止まらない。あぁ、そういえば、神威くんのお家へお邪魔した時に思ったのよね。あのモップとか、ジューサーとか、どこかで見聞きした覚えがあるなぁ、って。


「それに、今時の流行りは友チョコだわよ。礼があんただけにチョコを贈るとは、限りません」


 チョコ以上にド甘な考えだわ、と辛辣な万葉の言葉が続く。

 万葉の隣では弓削くんが苦笑して、でも神威くんはめげずに反論して、私は神威くんの隣で笑っている。ここ最近の、ゆるやかに決まったスタイル。もう少しすると、ここに智が加わり、時に吉居くんが加わる日もある。


「え?! あっ、友チョコ……、友、チョコ……た、大切だよね? 友達、もね?」

「うん。みんな、大切」

「その先は、どう続くんだ? 御子柴。場合によっては、神威は泣くぞ」


 言葉そのものは友達想いの内容ですが、笑いを含んだ低い声が、チグハグだわ、弓削くん。


「……あんた、まさか」


 妹尾、遮るな、という弓削くんの呆れた声は全く無視して、万葉は勢い良く続ける。


「礼が自分にリボンかけて『私を食べて?』とか言うとでも思ってんじゃないでしょうね?」

「ち、がぁーーーうっ! い、言わせるか! そんなこと! 俺、ド変態みたいじゃんか!」

「……万葉、それは、ないわ。自分で想像して気持ち悪くなった」


 気持ち悪くないよ、とやけにキッパリ断言する神威くん。


「だって、礼ちゃんが、リボン……!」

「この、草食男子の皮をかぶった妄想ド変態! 何、考えた?!」

「や、可愛いに決まってるって! 言いたかったんだってば! 違うよ、礼ちゃん! 俺は変態ではありません!」


 言い合う二人がいつの間にか並んでいて、私の隣はお父さんの様に温かい視線で神威くんと万葉を眺める弓削くん。


「な、あっ、ちょっ、心! 場所! 場所交代!」

「神威……、独占欲の強い男は えてして、」

「良いの! 論理的考察が該当しないケースもある!」

「御子柴がそうだとは限らないだろ」


 はた、と動きが止まる神威くん。いじられキャラだよね、つくづく。反応がいちいち可愛いからかなぁ。


「……礼ちゃん……!」

「大丈夫です。独占欲が強い神威くんも、…好きです」


 あーもー、バカップルー、という万葉の声が、大きな溜め息と共に吐き出された。

 私は、そもそも、と神威くんへ問いかけた。チョコレート、食べられるの? と。


「あのね、礼ちゃん。俺、男子なんだけども、甘いものが大好きなんですよ」

「あ、意外」


 男の子だから、という訳ではなく、そんな素振りを見て感じた覚えがなかった。いつも飴ちゃんを舐めてる、とかでもないし。


「でしょ? いつもは抑圧されてんだよ、この内なる欲望」


 男三人、ファミレスでパフェとか痛いでしょ? と笑う神威くんにつられる。確かに、絵面としては……いや、神威くんと吉居くんはまだしも……弓削くん、が。

 昭和の香りとダンディズム漂う弓削くんが! ファミレスでパフェ? あぁ、どうしよう、頭から離れないし! 堪えてるのに笑いが洩れます!


「……御子柴、笑いのツボがどこだったかは言わずもがな、だが。俺は友情を重んじてつき合っただけであり、」

「…ご、ごめんなさい…! え、と。じゃあ、弓削くんはチョコ苦手なの?」


 弓削くんも吉居くんも神威くんの大切な友達で、だからこその友チョコを作りたいな、と思っていたけれど。


「頂いた好意は胃袋に収めるぞ、俺は」


 弓削くんは口元へ緩い笑みを浮かべて神威くんを見やる。後ろ向きに歩きながら、私と弓削くんを代わる代わる眺める神威くんの眉間には若干の皺が。


「……心にも、チョコ? ということは、武瑠にも、だよね?」


 あー、複雑な心境だ、とブツブツ呟きながら、神威くんは黒髪に長い指を差し入れて、ポリポリと掻いている。


「何度でも言ってやるけど。あんただけの礼じゃないんだからね、山田」


 分かってます、と即答する神威くんは、まだ眉根を寄せていた。独占していただけるほどの代物じゃないんだけどな、と卑下する自分がどこかにいる。

 口には出せないけれど。大丈夫、神威くん。神威くん以外に、私をこんなに嬉しくさせてくれるヤキモチ妬きさんは、いないって。


「神威くん、どんなのが良いの? トリュフとかにしようか?」

「ケーキ! ケーキ1ホールで!」


 また、躊躇することなく即答ですね。女子か?! と万葉からのツッコミ。


「クリスマスの時さ、礼ちゃんが作ってくれてたケーキ! あれ、スッゴい美味しかった! いや、全部 美味しかったけどねー」


 れいちゃん、おいしかったー! と感想を言ってくれる智の姿が神威くんと重なる。キラキラの瞳は嘘のない綺麗な弧を描いていて、何でも作ってあげたい、優しい気持ちに自然となれる。


 料理は好きだけれど、惰性、だなんて。ついさっき、言ったよね、私。

 それも私の一面なんだけど、この両手が創り出す何かは、大好きな人を喜ばせる力を持っているのか。そんな自分に、ちょっと驚いて、そう思わせてくれる人を、もっと好きになってしまう。


「じゃあ、礼。12日にね」

「え、何?」

「もー、またボンヤリ? 12日の日曜日に、礼の家で、チョコパ」


 礼が山田のために作ったケーキを、みんなで切って切り分けて食べ尽くしてやるのよ! と。意気揚々と宣言する万葉を見つめながら、憮然とする神威くんに、私はまたこみ上げる笑いを抑えられなかった。



 ***



 ――日曜日、朝10時。

 テレビのキッズタイムが終わった頃、こんにちは、という礼儀正しいご挨拶と共に、神威くんご一行様がやって来た。弓削くんが理人くん、学人くんも連れて来てくれたから、智はご機嫌。


「ミコちゃん、これ、うちの母から」


 神威くんのお姉さんから差し出された紙袋の中には、某有名銘柄の紅茶葉の缶。


「う、わぁ……ありがとうございます! すみません、お気遣いいただいて」

「わ、ちょ、姉ちゃん! 俺が渡すはずだったのに!」


 大好きな茶葉だったから、思わず相好を崩した後で即反省。お姉さんに対して、馴れなれしかったのでは。しかも姉弟揃って、私の顔を見つめてくるのは止めてくれないかしら。タイプは違えど、二人共すごく綺麗なんだから、真っ直ぐな視線を受け止めるのは恥ずかしいのに。


「つくづく可愛いわぁ、ミコちゃん」

「……姉ちゃん、それは俺が言うべきセリフでは」

「知らないわよ、勝手に言ってなさいよ。ね、ミコちゃん、本っ当にこのヘタレ男で良いの? 貴重な青春時代に悔いは残らない? 過ごした時間はお返しできないから」

「姉ちゃん! 変な思考を礼ちゃんへ植えつけんな!」


 テンポ良く交わされる姉弟の会話は聞いていて小気味良い。あ、聞き入ってばかり いられなかった。


「……か、神威くんのお姉さん」

「美琴で良いわよー、美琴お姉さん。ハイ」


 強制すんなよ、という神威くんの指摘は華麗にスルーし、お姉さんは私の言葉を促す。


「……み、美琴、お姉さん。こちらこそ、私が、神威くんの…彼女、で良いのか。逆に、おうかがい、したいです」

「もちろん、オッケー」


 あまりにアッサリと答えが返ってきたから、私は正直 拍子抜け。本当に山田家の皆様は、躊躇という行為を知らないらしい。


「あ、何? 理由気になる?」

「え、あ…はい」

「ミコちゃんみたいな妹が欲しかったから」

「なんでそこ、姉ちゃん本位なの」


 途中まで見直してたのに、と神威くんは苦笑しながら言う。そして弟である俺の立場は? と。


「あんた、本当にスカポンタンだわね。今、最高の賛辞だったのに。……賛辞? 賛辞じゃないか。ま、いっか」


 ま、いっか、なんだ。そこは。美琴お姉さんの艶やかな口から耳触りの良い声でポンポンと繰り出される言葉の数々は、とてもリズミカル。だから、聞き入ってしまうのかも。


「言っておくけど、女子が女子を心底気に入るなんて、滅多にない」


 あ、私は礼を気に入ってまーす、と手を挙げて応じているのは、先にリビングへ歩を進めていた万葉。ありがとうございます。


「大切な弟の初カノだもの。祝福したいじゃない、仲良くしたいじゃない? みんなで。でも、あんただけが気に入る様な、コア要素だらけの女子じゃあ、難しいじゃない」


 凄いな、お姉さん。よく噛まないな。立て板に水、ってこういうシーンを指すのか。……私の感心ポイント、ズレてた。コア要素って何よ? と、神威くんが代わりに訊ねてくれた。

 神威くんの質問に対し、お姉さんは得意満面で答えていく。もはや腰に手を当てそうな勢いです。


「例えば、巷でよく聞く “癒し系”、単にホニャララしてるだけなのか、本当に場の空気を読む力に長けているのか。恋は盲目、その曇った心眼でどうやって見極めるのだ?」


 ビシッ、と、お姉さんの右手人差し指が神威くんを捕らえる。なんとか歌劇団っぽく熱い口調で説かれれば、私はお姉さんから目が離せない。


「天然、なんつーのも、男が惑わされる代表格だわ。世の中の天然女子は、半数近く、計算よ、計算」


 姉ちゃん、敵 多いだろ、と呟いた神威くんは眉尻を下げ、私を見て、ごめんね、と右手を口元へ立てた。


「計算でも良いわ、構わないのよ? でもね、そこに理性と知性がなきゃ、ただのイタイ子じゃない」


 お姉さんの細い指は、何かを暗喩する様に、クルンクルンと円を描き、掌をこちらへ向ける。


「顔はロリ向けなのに身体はエロい、とか。団体行動しかできない、とか。自分のことばっか喋るとか。外側は磨いても中身磨いてない、とか」


 み、美琴お姉さん、ど、どうしました? ギリギリと音を伴い奥歯を噛みしめていそうな形相なのですが。そして遠い目をして、宙を睨みつけてらっしゃる。

 神威くんは、と見れば……、身体を二つ折りにして、笑ってるし?!


「ま、ミコちゃんは、そのいずれにも当てはまらないし。恋愛は、正味、二人だけで完結する世界ではないでしょ。あ、うちの両親もミコちゃん、好きだから」


 ちょっと小首を傾げてこちらを見つめる、その愛らしい所作は計算、ではないのでしょうか。なんだか物凄く恥ずかしい。私はただ、ありがとうございます、と深々お辞儀をするばかりだ。

 姉ちゃんね、と身体をこちらへ向き直し、神威くんは笑いの中で話し続ける。


「この前までつき合ってた彼氏、今言ってた感じの女子に盗られちゃったらしいんだ」


 え、と私が応えるより速く、黙れ小僧! とお姉さんの怒号が響く。うん、あのアニメ映画、私も観ました。


「大体あんた、ミコちゃんにこんな不安満載発言させてるたぁ、なにごとよ?! 力量不足! フォロー下手! 慢心してると、すぐに逃げられちゃうわよ! 私の忠実なる下僕の綿密な調査によると、ミコちゃんに想いを寄せる男子は数知れず、」


 え、そうなの? と途端に心配そうな表情で私へと視線を移す神威くん。知らない、分からない、と意味をこめてかぶりを振る。


「美琴ねえさん、礼が自信なさげなのは、今に始まったことじゃないんですよ」


 幼少期に育まれるべき自己肯定感不足です、と万葉がつけ足す。ふむ、と頷くお姉さん。

 万葉が口にする、姉さん、は、姐さん、の体で聞こえるんだけど。あながち、間違いではなさそう。


「ま、今日は礼の手作りケーキを堪能しましょうよ」

「……ケーキ?」


 やば、と小さく声に出した神威くんは、グーの形にした手を口元へ当てる。視線を逸らし始めた神威くんを美琴お姉さんの半目が追いかけた。


「……私には、ミコちゃんがみんなに、トリュフ作ってくれるんだよ、って」

「あぁ、独り占めする気ですね、山田」


 8分の1切れで充分ですよ、と言い置いた万葉を、神威くんは恨めしそうな表情で見つめ、諦めた様に深く溜め息を吐いた。



 私達は食べる専門だから、と、生け贄の様に差し出されたお手伝い要員は神威くん。お家から持ってきたのかサロンを巻いて、鼻息荒く、やる気は充分らしい。


「……お料理、とか。出来るの? 神威くん」


 器用なのは知ってるけれど、図画工作と通じるもの、あるかなぁ。


「お恥ずかしながら、出来ない、何も。ご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いします!」


 キッパリ言い切られれば、致し方ない。もう、ほとんど出来上がってるし。

 私は冷蔵庫の中から、程好く固まったチョコレート入りのバットを取り出すと、シンク横の作業スペースに置き、神威くんへ指示を出す。


「ここに、ラップを敷いて、これをスプーンで掬って、形よく丸めて下さい」


 はい、と素直な返事が聞こえると、神威くんはラップホルダーから手際よく透明な四角形を切り取り、黙々と作業に取りかかる。


 改めて思ったけれど、背が高いんだな、神威くん。そのラップホルダー、私は背伸びしないと届かないのに。私にとっては腰高でもて余し気味のシステムキッチンも、神威くんは背中を丸めて、窮屈そうにしてるし。前髪が、とても気になる。


「ぅわ、な、に? 礼ちゃん…」

「あ、ごめんなさい。ちょっと」


 無意識のうちに、私は神威くんのおでこへ指を伸ばしていた。


「屈んで作業してるから、ほら、いつもは下ろしてる前髪を、上げちゃおうかな、って! 神威くん、おでこも綺麗だし!」


 瞬時に紅く染まった神威くんの顔につられて、慌てふためいた私はシドロモドロで変な言い訳。エプロンのポケットから、ピンを取り出して見せる。


「あ、あー、え、と、留めて、もらえる? 礼ちゃん。あの、手が、こんななので……」


 こ、こういうのも、計算、とかじゃないんでしょうか。手が、震えてしまうんですけど。

 ごめんね、と言いながら、チョコだらけの両の掌をお手上げの格好にすると、膝を曲げた神威くんのおでこが私の目の前に降りてきた。染められていない綺麗な黒い髪は、天使の輪が光っていて、掬った前髪は柔らかくサラサラと私の指に吸いついてくるみたい。


 あー、怖い。自分が、怖い。もっと、もっと、と神威くんに、近づきたい、自分が。ありがとう、の声と共に、また元の高さへ戻って行ったぬくもりを、いつまでも手の中に留めておきたいと、思った自分が。怖い。


「……いちゃん、礼ちゃん?」

「……あ。ごめんなさい。えーっと、次は」

「ね、大丈夫? 無理してない?」


 あ、しまった。

 パタン、と冷蔵庫のドアを閉めた神威くんは、中を見たに違いない。オーブンのドアも開けてあるから、焼き上がってる2個のケーキも目にしたんだろう。ええ、二段焼けるんですよ、うちの賢いオーブンレンジは。


「こんなに……、いつ作ったの? 昨日? 今朝?」

「……今朝、早起き。大丈夫、無理してません」


 本当よ、と眼に力をこめて訴えてみたのに、神威くんは全く信じてないらしい。


「……嘘つきだ、礼ちゃん。ごめんね、よく見たら目の下にクマできてるし。早く気づけば、」

「お願い、神威くん。今日は楽しく過ごしたいから。大丈夫だから」


 ね? はい、早くココアパウダー振りかけて、と缶と茶漉しを差し出すと、渋々、本当に渋々、受け取ってくれた神威くん。甘やかされてるなぁ、私。


「……礼ちゃんさ。去年のバレンタインは…どうしたの?」


 何ですか、急に? と、神威くんの顔を覗き込む。私の右隣で、仕上げのチョコレートコーティング中、もうすぐ、ザッハトルテの出来上がり。やっぱり器用だわ、神威くん。手を休めることなく、真剣な眼差しはケーキへ向けたまま、何でもない風に訊いてきた、けれど。

 声音が、ちょっと低い。


「……妹尾さんへ、友チョコあげた?」

「うん。あげましたね」

「……だけ?」


 だけ? とは。万葉へだけ、の意味かな。そうなんだろうな。友チョコだけ あげたの? を訊いてどうするんだい、って話だもの。

 正確に言えば、万葉へだけ、ではない。クラスの女子と、男子何人かにも。事前にオーダーをいただいて、作った覚えがあった。

 正直に言うと、神威くん、嫌な気分だろうな。神威くんの嫌がることはしない、って、げんまんしたもんなぁ。でも。

 どう答えようかと考えあぐねている内に、ごめんね、と遮られる。


「変な話 したね。忘れて下さい」


 出来た、と。

 手元で艶めくレンガ色の綺麗なホールケーキを見つめながら、神威くんは呟く。そこは、とても満足気な声だけど。


「神威くん?」


 ん? と私へ向けられた顔には、ほんの少し、困った色が浮かんでいた。


「……万葉以外へも、あげました。男子も、含むけど、全部、友チョコ。……で、神威くんは? 本命チョコを、どれだけ貰ったの?」


 マンガみたいな吹き出しが今、神威くんに付けられるとすると、さしずめ『しまった』でしょうか。あるいは『墓穴 掘った』かな。はたまた『やっぱり、それ訊く?』


「……私が二年前から好きだった人は、誰だと思ってるんですか?」

「……ねー。誰だか、知ってます。分かってます。大バカ野郎です」

「そうよ。私があげた友チョコなんて。とるに足らない論点だと思いますよ? アナタが手にした数多の本命チョコに比べれば」


 完成、とホワイトチョコペンを置くと、神妙な面持ちで私を見つめる神威くんと目が合う。ツルンとしたおでこがむき卵みたいに綺麗だわ、と、ズレそうになる思考は、神威くんの声で軌道修正される。


「怒ってる? 礼ちゃん」

「怒ってないよ。呆れてる」


 う、と言葉に詰まった神威くんは、肩を落として呻いてる。ごめんね、ヤキモチ妬きで、と。ご主人様に怒られてシュンと項垂れる大型犬みたい。


「ダンボール箱一杯に。チョコを抱えて帰る神威くんを見たわ」


 去年ね、とつけ加えると、神威くんの表情はみるみる曇っていく。嫌な気分にさせたいんじゃないの、神威くん。私が言いたいのはね。


「私は…、今年もまた、そんな神威くんを見なきゃいけないかもしれないよね? 私の心配とヤキモチの方が、神威くんのを上回ってると思うんだけど」


 神威くんへチョコを渡そう、なんて、去年の私は考えもしなかった。その行為に乗じて、お近づきに、なんて想像すら出来なかった。

 噂が耳にこびりついて、離れなかったからだっけ? どうせ、手つかずのまま、お姉さん経由でホワイトデーのお返しと一緒に戻ってくるよ、とか何とか。渡す時にスッゴい嫌な顔されちゃうらしい、とか何とか。吉居くんと弓削くんが食べちゃうよ、とか何とか。

 勝敗の行方が分からない、まず土俵にすら立てそうにない闘いへ、わざわざ参加しようという気概と余裕は、私に無かった。


「……話が。この流れに行く気がした。途中で気づいた」


 留めていたピンを左手でそっと外し、右手でクシャクシャと前髪を触っている。サラサラの髪の毛は、神威くんの手が離れると、その後を追うように元の位置へふんわりと戻っていく。


「礼ちゃん、俺は。礼ちゃんからの、チョコレートだけ、欲しい。他は、何も要らないし。だから、礼ちゃんの、心配もヤキモチも、不要です」

「……はい」


 事実、そうなるのか、は分からないけれど。だけ、を強調して真剣な眼差しを私へ放つ神威くんの言葉に嘘はない。


 去年だって、それまでだって。いつもそうだったのかもしれないな。

 たった一人からの、たった1個が欲しくて。でも心根が優しい神威くんは、寄せられる好意を無碍に出来なくて。困惑と苦笑が交互に見え隠れする表情で、夕日を背にダンボール箱を抱え、トボトボ帰っていたのかもしれないな。


「……俺自身が手渡しされることなんて、滅多に無いんだよ? いっつも姉ちゃんとか武瑠とか心が、どうしてもって預けられちゃうというか、断る間もないうちに頼まれて、……あの、困って」


 何も言わない私を、未だ呆れているのか、怒っているのだと思っているのか。言葉を絞り出している神威くんだけれど、それは次第に弱々しくなっていく。


「……お返しは? どうしてたの?」


 母ちゃんと姉ちゃんが、と片言で応える神威くんが気の毒になってきた。私、ちょっと意地が悪い。

 私は神威くんの後ろを通って、チョコだらけのボウルやゴムベラをシンクへ置き水を張る。神威くんの力無い視線は、私の動きを余さず追ってきた。


「私には、無理だわ。お返しを、選んであげる寛大さなんて、無いわ」

「え、礼ちゃ……、うん、そんなの」

「私の彼氏はモテるのよ、良いでしょ? 素敵でしょ? それでも私がナンバーワンでオンリーワンの彼女なの、みたいな思考は。私には、無いから」

「ぶ、俺にだって、無いよ」


 洗い物を始めてから、お湯を沸かしていなかったことに気づいた。泡だらけの手を電気ケトルに伸ばした途端、神威くんのそれが先んじてスイッチを押してくれる。

 ありがとう、にすぐ応えてくれる、どういたしまして。

 捲り上げた袖からスラリと伸びた、筋ばった腕。ムダ毛少ないし。そんなとこまで見とれそう。


「その察しの良さで、感じられない?」

「……うーん。や、自惚れだったら嫌だし」


 自惚れじゃないわ。私は出来る限り優しい声で言い切る。


「神威くんが、ヤキモチ妬く必要なんて、無いわ。これから先、どこにも。私、モテたことないし。あ、今年もチョコちょうだいね、って何人かの男子に言われたけど、断ったし」

「え」

「あ、や、だからね? 私は神威くんだけを、好きで。神威くんのは、杞憂なの。でも私のは、根拠のある憂いで……、な、何言ってんのかな、私は」

「ま、今までの山田のモテぶりを考えると、いろいろ心配よね。仕方ない」

「!?」

「でもその心配を払拭しきれてないのが、ヘタレたる所以よ、神威」

「!!」

「「で、バカップル。完成した?」」


 突然、カウンター越しに現れた万葉と美琴お姉さんの姿に、私も神威くんも声を失った。

 あのね、俺ら止めたんだよ! と。二人の背後から吉居くんのお詫びの声。


「ね、そこ、ハートとか付かないの?」

「え、ど、どこに…」


 お姉さんの細い指は、その優美さとは真逆の力強さで、私が完成させたケーキ表面の1箇所を指している。


「Happy Valentine、の後。Dear神威くん、とかも、無いの?」

「か、画数多いですね…」


 姉ちゃん…! と呆れた様な声で呟くと、神威くんは両手で顔を覆い、嘆息。でも、見てるでしょ? 爪まで綺麗な指の隙間から。

 私の頬は紅く染まっているに違いない。

 ケトルのスイッチがパチン、と跳ねて。準備完了、の合図みたい。


『My dearest KAMUI』


 はい、ハートも描いて、完成。


「あ、最上級ー!」

「上手ー、ミコちゃん!」

「……すみません、バカップルで」


 これ、テーブルへ並べて、と。

 冷蔵庫から取り出した幾つかのランチプレートをカウンターへ置き、万葉へお願いしたけれど、お姉さんと二人して、神威くんを見ながら、大笑いしている。分かってる。真っ赤なんだよね、神威くんの顔。



 一欠片も残さない、と熱く宣言していた神威くんの意気込みが見事に感じられる程、食べ終わったお皿はピカピカ。ケーキ1ホール、って。どれだけ、スイーツマニアなの。

 正直、未体験だったから加減が分からなかった。あまり濃いチョコは使わずに、胃もたれしませんように、と願いながら作ったけれど。


 ダイニングテーブルに座る神威くん達を、智と一緒にローテーブルでランチを摂りながら、眺めていた。文字通り、ペロリと平らげるその様は、キラキラ笑顔で常に彩られていて、あまりにキラキラだったせいか。作ってあげて、良かった、と。作ってあげられる自分で良かった、と。私自身を、ほんの少し肯定することが出来た嬉しさと驚きが混じって、例によって、ボンヤリしてしまった。


「ねー、ミコちゃん?」

「…あ、はいっ」

「食後のお散歩に行ってきて?」

「…はい?」

「神威と。ね?」


 え、え、え? と言っている間に、私は万葉から、神威くんはお姉さんから、背中を押され、玄関先で靴まで履かされた。


「後かたづけは、やっとくから」

「あ、姐さん、食洗機ありますよ、この家」

「陽が高いうちにチューとかしてんじゃないわよー」


 じゃあね、と高揚した美琴お姉さんの明るい声は心地好い余韻を残し、パタン、と閉まる玄関ドアが私達を否応なしに外気に晒した。


「……寒い」

「あ、礼、これ」


 一旦、開かれたドアからは万葉の腕が覗き、私のパーカーが何故か神威くんへ手渡されると、またパタン、と閉じられた。


「……礼ちゃん?」


 神威くんは何度も私の名を読んでいたらしい。やっと振り向いた、と苦笑している。脳内独演会 絶賛公開中だったから、全く気づかなかった。


「……ごめんなさい」

「なんか、こう…恥ずかしくない? 俺だけ?」


 私は勢いよく、かぶりを振る。私だって、恥ずかしい。こんな、二人きり、って。や、何度かあったけれど、こんなシチュエーションは初めてだもん。

 だと言うのに、何が悲しくてこんな格好なんだか悔やまれる。

 ジーンズだし、ジーンズ。しかもキッズサイズ! スカートでもフワフワでもキラキラでも可愛くも何ともないし! 家だからって、お料理するからって、動き易いようにって、実用性を第一に選んでしまった。神威くんはいつだってオシャレさんなのに。

 髪の毛だってシュシュでゆるっと結んだだけだし。素っぴんは…いつものことだから今更仕方ないとして。智が観てる子ども向け番組で、猫のキャラクターが『オシャレはガマンー♪』とかって歌ってなかったかな。まさしく、だわ。


「礼ちゃん? まだ、続く? その……、脳内のお話」


 目の前にヒラヒラと神威くんの長い指が踊り、私の意識をリアルへ引き戻す。


「礼ちゃーん、何か、喋って?」

「……何か」

「……よし。そう 来たかぁ」


 ふいに、左手を取られた。え、と思った時には神威くんの大きな掌が私の指を四本、包み込んでいた。


「え、ちょっ、ちょっと? 神威くん? あの、手、手!」

「こうしてたら、遠くに行かないでしょ? あ、物理的に、じゃないよ。礼ちゃんの意識が、ってこと」

「い、いい行かない、けど!」


 けど、何?

 神威くんの右耳がゆっくり降りてきて、私は視界の隅に、笑みを浮かべる神威くんの口元を捕らえる。


「……無理。は、話せない」

「じゃあ、離さない」

「ち、違っ」


 神威くん、チョコ食べ過ぎて、カフェインにやられちゃったんじゃない?!


「い、いいですか? 神威くん? 私が言いたいのは、I can't talk to you. という意味であって」

「あ、礼ちゃん、発音 綺麗だね」

「あ、りがと……じゃなくて!」

「分かってるよー。因みに俺は、I can't release. の、意味で…あ、違うな」


 I don't wanna release.だ、と。

 優しく握られた手を、そんなにニコニコと嬉しそうに振られたらもう、私、どうしたら良いの? 恥ずかしい、のに、手を離せなくなってしまう。もとい。離したく、なくなる。


「もう、ほら、話そ? 礼ちゃん。えーっとね」


 私達は15分余り、林立する家々の間をテクテクと歩き続けていた。いつの間にか、市内でもとりわけきちんと区画整理された高級住宅街までたどり着いている。この道の先の突き当たりを右に曲がると、中央公園へ出る。ふいに智がまだ、ヨチヨチ歩き、くらいの頃、ベビーカーへ乗せて散歩に来たことがあった記憶が蘇った。

 ……そうか、アレ以来、来てなかった。


「そう言えば、礼ちゃん。どうしてうちの高校にしたの? この辺りの校区なら、南高が近いのに」

「……南高は、行きたくなかったの」

「そっか。嫌なヤツでもいた?」


 神威くんの声は笑みを含んでいて、だから私も冗談半分で応えれば良かったのに。うん、と口を突いて出た言葉は、あまりに低く、重い声音。神威くんが思わず立ち止まったのも、無理はない。


 ―――この辺り、右京くん家の近くだ。


 あの時、視界の隅に僅かに捕らえただけで、私は猛烈な勢いでベビーカーの向きを変え、一目散で帰宅した。ガタガタと、旧式のそのタイヤは酷い音をたて、智は不機嫌そうにグズっていたけれど構うことさえ出来ないくらい、私は動揺した。


「……礼ちゃん?」

「……前に、話したの、覚えてる? 男子が苦手、って」

「……うん。怖い目にあったんだよね、礼ちゃん。あ、そいつが行ったんだ? 南に」


 私はコクリ、と頷いた。

 出来るだけ、関わらなくてすむように。これからの人生で接点が無いように。本人から、噂から、意地悪から、遠くに逃げて。

 あ、ほら。口に出して言わなくちゃ。神威くんの瞳に宿る心配そうな色なんて、彩りとして相応しくないと思うもん。


「逃げたの、私。……その人との諸々が原因で、その…、ちょっと意地悪なこと、されたりとか。嫌な噂も、たくさん、」

「……あ」

「え?」


 神威くんは、ゆるりと握っていた私の指を一瞬、キュッ、と力をこめて包み直した。


「ごめんね、話の腰 折って。和泉が、何か言ってたなぁ、って。思い出して」

「和泉さんは……、何て?」

「……そこ。気になる?」


 私は正直にコクリと頷く。気にならない訳がない。私の知らない所で、私の話を聞いた神威くんは一体何を感じ、何を考えたのだろう。


「あのね、あらかじめお断りしておくと。俺、噂は信じない人」

「……はい」

「礼ちゃんが、他人様の彼氏を。寝盗った、って」


 私は口の端に苦く、薄く笑みを浮かべた。ふふ、と。きちんと情報伝達経路を通って出された指令、と言うより反射に近い行動。何なんだ、その根も葉もない尾ひれの付き方。

 そして、“彼女”である私の悪い噂を、きっと忠実に、ほぼ躊躇いなく言い切った、神威くんにも驚いた。ただ、それはきっと、神威くんの迷いの無さ。


「礼ちゃんも、ブレないでね?」

「え?」

「俺が、そのくだらない噂を鵜呑みにしてたらどうしよう、とか。思わないでね、ってこと。礼ちゃんから直接 聞いた訳でもない、この目で直接 見た訳でもないのに。信じる訳ないでしょ」


 くだーらなーい。

 神威くんはゆるやかに歌うように毒のある言葉を吐く。2月の寒さに晒されると、それはたちまち空気中に白く浮かび、すうっと消えていく。


「……ごめんね、変な噂持ちの彼女で」

「あ、卑下するの禁止。信じてくれてありがとう、とか。信じてくれて当然よ、じゃなきゃ受け付けません」


 私はまた、ふふ、と笑いを漏らす。嬉しくて。


「……私、本当に神威くんのこと、好きになって良かった」

「!……礼ちゃん。それ、ちょっと、反則技……」

「私、まだ、キスもしたことないのよ? ……寝盗った、なんて。私のどこに、そんなお色気が」


 ブツブツ呟く私の隣で、神威くんがククク、と笑っている。相変わらず、ゆるりと握られている四本の指には、時々、何かを伝えたい様に、痛くない程の力がこめられた。

 このまま中央公園までゆるゆると歩いて行こう、という流れ。俺、知りたいことたくさんあるんだよね、と神威くんは言う。


「何が、欲しい? 誕生日」

「……誕生日?」

「礼ちゃんの、だよ? 来月でしょ?」

「あ、そうか。え、言ったっけ? 私。神威くん、いつだっけ? 聞いたっけ?」

「礼ちゃんのは、聞いたよ、初詣の時に。俺、8月…」


 9日、と。

 耳に間違いなく入ってきた。

 あぁ、きちんと覚えておこう、と。角を曲がった先に開けた視界、突然現れた認めたくない姿から、何とか思考を逸らそうとした。

 礼ちゃん? と落ちたトーンで私の名前をそっと呼んでくれる神威くんの声。

 それだけで、良いのに。他は、何も、聞きたくないのに。


「……ミコちゃん?」


 もう二度と逢いたくない、と思っている人と、偶然 再会する確率って、一体どれくらいなんだろう。

 私はあの頃より確実に二つ歳を重ねているのに。右京くん久しぶり、なんて軽口は到底無理だった。


「……と。ミコちゃんの、彼氏?」


 その言葉は私へ放たれたのか、それとも神威くんへ、なのか。

 上質そうなブルゾンに両の手を突っ込んだ仁王立ちの右京くんは、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。

 その一歩一歩に合わせる様に、私の身体は徐々に強張り、俯き、神威くんより半歩下がって行った。

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