恋は盲目

「おはよう、神威」


 教室までの廊下を歩む途中、朝の挨拶を背後から投げかけられ振り向くと、無駄に爽やかな笑みを湛えた葛西先生だった。


「あ、おはようございます」

「これ、忘れ物」


 差し出されたのは、制服のジャケット。


「今朝、気づいてしまって。悪かったな」


 申し訳なさそうな先生の瞳に映る今朝の俺は、学校指定のシャツに薄手のカーディガン。礼ちゃんのニットキャップにネックウォーマーも装備しているけど、冬空の下、やっぱり少し寒々しく見えるのだろう。


「や、大丈夫です。それより先生、昨日は、」


 軽く頭を下げジャケットを受け取りながら、お礼を言おうとした機先を制された。


「あぁ。つき合うことになった? 御子柴と」

「………え」

「ノロケ話なら要らないよ。俺、最近 枯れてるからムカつく」

「……枯れてる、って」


 いやそんな話にまでなってないし。

 俺の小さな呟きを、葛西先生は聞き逃さなかったらしい。


「……あれ。カレカノになったんじゃないの?」

「ぶ。何か無理してる感じが」


 思わず口をついて出た言葉に、葛西先生はニヤリと笑う。


「余裕だね、神威。昨日はあんなに焦ってたのに」

「……いや、あの。昨日は、いろいろと、ありがとう、ございました」


 言いながら、俺にとってのいろいろを思い出し、紅くなる顔をコントロール出来ない。ブクククク、と笑う先生が憎々しい。


「神威さー、昼休み、俺のとこ来て」


 身体の向きを職員室側へ変えながら、葛西先生は言い置いて行く。断る隙なんて、与えもせずに。


「あ、吉居と弓削もね?」


 後ろ手をヒラヒラと振りながら。なんか、何でも様になるな、先生。

 教室へ入り席に着きジャケットへ袖を通しているところへ、武瑠と心が相次いで登場する。


「神威ー、で?」

「……武瑠。朝のご挨拶は?」


 あ、中途半端なんだね? とマイペースな武瑠の明るい声。

 何だよ、中途半端って。

 武瑠はぐっと声を抑えて続ける。


「その様子じゃ、きちんと伝えられなかったんだ? ミコちゃんに」

「……いや、んー、言ったんだ。そのー…好き、だと、いうのはね」


 お! という感嘆と共に二人の表情がパアッと明るくなる。


「思いがけないことが起きまして」


 俺は右手でVサインを作り、2つ、と続けた。


「さてこれから、って時に姉ちゃんの邪魔が入った。これが一つ目」


 美琴ー。と武瑠のガッカリした声が溜め息と共に吐き出される。

 美琴は応援してるのか邪魔してるのか分からないな、とは心の落ち着いた声。


「二つ目。礼ちゃん、俺のこと、……前から好きだった、って」

「「え」」

「そこで、ちょっと、驚きすぎて。もー、何も言えませんでした」

「なるほど」

「マジかぁ」


 うんうん、と頷いているところへ、葛西先生が教室前方の入口から入ってきた。席に着いてー、と穏やかな声。


「ちょ、神威! 続きは昼休みに、」

「あ、昼休みは葛西先生に呼ばれてる。武瑠も心も」

「「俺らも?」」


 何だ? と顔を見合わせ、首を傾げる二人。俺だって先生の意図は分からない。肩を竦めて、それを伝える。


 午前中の授業は、いつもより余計に進行速度が遅く感じられた。何度となく壁の時計を見ても、長針の動きは緩やかで、小さな溜め息ばかりが俺の回りに広がっていった。



「何だろうな、葛西の話」

「……うーん。見当つかないよ」


 早いとこ押しかけよう、と三人共に意見が合致し、購買部でパンを買い込み、職員室へ急ぐ。


「ね、神威。ミコちゃんの “好き” は、完了形?」

「んー、現在完了進行形、かな。継続を表してる、です」

「えーーっ! いつから? 接点は何?」

「……two years since. 接点は…、分からない。詳しく聞けなかった」


 デカい男三人で廊下を並んで歩く姿は、ちょっとばかり滑稽かもしれない。

 ポケットへ両手を突っ込んで、ピョンピョン飛び跳ねる様な軽快な足取りで、明るく楽しそうに喋る武瑠は、やたら人目を引いている。心が放つオーラの威圧感と存在感は、言わずもがな。二人に挟まれて足を進める俺は、きっと可笑しな表情をしている。ニヤニヤし出しそうな、でもまだ何か、足りない様な。


「失礼しまーす」


 ガラガラと職員室の引き戸を開け、葛西先生の姿を探す。と、入口脇にある狭い給湯スペースから、マグカップ片手にのっそり現れた姿。


「あ、進路指導室ね」


 端的にそれだけ告げると、先に立って歩き出す先生。

 進路指導? そんな時期? というか、三人で受けるの、進路指導?

 俺達はそれぞれの頭にハテナマークを巡らせたまま、首を傾げながら先生の背中を追った。

 進路指導室へ入るなり、和泉達のことなんだけど、と切り出した葛西先生。俺達は机一つを囲む様に椅子を持ち寄って座る。


「1組の大江先生には、昨日の件、一応 報告しといた」


 若干強調された感の”一応”に葛西先生の深意をかぎとり、俺は軽く顎を引きながら了解の意を表した。


「けどね、大江先生は動かない。定年まであと少し、何事もなく過ごされたいんだと思う」

「……はい。や、先生を巻き込む程、大袈裟にするつもりは無いです」


 ふーん、と言いながら緩やかに視線を巡らした先生は、まだ湯気が立つマグカップへ口をつける。


「直接対決するの? 和泉と」

「はい。今日にでも」

「俺の女に手を出すな、って?」

「おっ、……や、えーっと。ハッキリそう、言いたかったんですけど」


 邪魔が入って話してないんだって!

 武瑠が左隣から援護してくれる。先生の顔が緩んだ。一気に。


「……どこまでいったの? 昨日」

「ぅえっ?! な、何も! 何もしてないです!! 本当に!! 断じて!!」


 俺は手を振り顔を振り、身の潔白を主張した。先生、顔! ニヤけ過ぎだろ?!


「何を勘違いしてるの? 青少年。どんな、お話をしたんですか? 御子柴と」

「……言うんですか?」

「言うんですよ。俺、キューピッドでしょ」


 そうかな、と俺。

 そうなのか? と心。

 やだなぁ、こんなオッサンキューピッド、と武瑠。

 葛西先生は武瑠の向こう脛をゲシッと一蹴りすると、痛っ! という叫び声をスルーして、早く、と促した。と思ったら、心が紙袋から取り出したパンを、あ、1個ちょうだい、と搾取。

 ……聞く気あんのかな? 先生。


「……一世一代の告白を」


 したのね? それから? モグモグとメロンパンを頬張りながら、葛西先生は楽しそうだ。


「先生、食べながら喋るな、って教わらなかった?」

「俺、合理性を好むO型だもん。で?」


 ああ言えばこう言う人だな。知らなかった。


「でも、邪魔が入って、話は終わりました。あ、いや、」

「何? 吉居と弓削には話したんでしょ?」


 俺達は神威の友達だから当然、と淀みなく言い切る心へ、先生は眉間に皺を寄せて問う。


「俺、もう結構 船に乗りかかってると思わない?」


 それと友達かどうかは、と言いかけた心を、先生は 分かった、と制する。


「秘密を打ち明けよう。まぁ確かに、教師という立場上、特定の生徒と仲良くなるのは、よろしくない。だからこの件に関してだけ、運命共同体」

「……この件?」


 神威の恋路、と口角をこれでもかと上げながら、なかなかに整った顔をクシャリと崩す先生。何か、演歌のタイトルみたいですけど。


「あ、でも俺、痛くも痒くもないもんな。神威が失恋しても。ただのオーディエンス、ってとこかなぁ」

「葛西」


 右隣から、心の低い声。


「神威をからかうつもりなら、」

「ごめん、弓削。神威も。悪ノリし過ぎた」


 オレにごめん、はー? 先生!

 武瑠の明るい声が、一瞬 凍った場の空気をまた溶かしてくれる。


「……えー、秘密とやらを。どうぞ」


 今度は俺が先生を促した。


「俺の観察力によると」


 そう、勿体つけた前置きをすると、葛西先生は半年以上前の文化祭の日を回想し始めた。


 俺達のクラスのお化け屋敷は、例年になく好評かつ盛況で、単純な俺は、手がけた作品への称賛の声に報われた気分だった。かなり時間を割いて手伝ってくれた、武瑠と心へも感謝と労いの言葉は及んで、疲れは吹き飛びはしなかったけど、ちゃんと笑顔になれたし。


『何なの? お前達。ほぼ三人に作らせといて、うちのクラスの出し物です、って顔すんの?』


 確か、葛西先生はご立腹だった。

 顔色が悪い、と無理やり抱えられ、連れて行かれた保健室。さながら米俵の様に先生の肩へ乗せられ、抵抗しても徹夜明けの身体は思う様に動かなかった。


「神威の、髭ヅラで小汚い寝顔をね。御子柴は、それはそれは熱い眼差しで見つめてました。あの時点でもう、好意を寄せてた」

「………え。いたんだ? あの場に、礼ちゃん」

「うん、そう。礼ちゃん」

「先生は気安く呼ばないで下さい! で?」

「で、神威のこと、安心して好きになりな、ってお薦めしたワケ」


 だから、俺はキューピッド。

 そう言って葛西先生は胸を張り、武瑠と心へ同意を求めている。


「えー、……な、何でまた」

「んー、御子柴、苦労してるから。知ってる? 家庭事情」


 少しだけ、と耳に目にした情報を思い返しながら答える。それが、俺の推薦に何故に繋がる?


「何だかね、お似合いだと思ってさ。神威の心根の綺麗さが、御子柴を救えないかな、って」

「「……良い人だ、先生」」


 今頃? と速攻の切り返し。二つの声が綺麗にハモったぞ。


「神威は見てくれだけじゃない。中身も良いヤツなんだ。それを見抜くヤツは、認める」

「上から目線でありがとう、弓削。お前、本当に神威のこと好きだね? やっぱり腐女子たちの噂どおり、」

「ではない。話せば長くなるが、あれは小学―」

「や。うん、良いよ、今は。弓削とは酒を酌み交わしながら話したい感じ」


 オレは? オレは? 先生!

 武瑠はどんな話題にも果敢に喰らいついていく。


「吉居はね……まぁ、パン食っとけ」

「ヒドッ、オレだけ扱い違うし!」


 三人の笑い声が心地好く広がる空間を見ながら、俺はボンヤリ考える。

 救う? 俺が? 礼ちゃんを?


「……出来るのかな、そんなん……、」


 俺の呟きはあまりに自信が無さすぎて、教室へ射し込む冬の弱々しい光がすぐに呑み込んでいく。

 言いたいことも言えてない。聞きたいことも聞けてない。大人でも、スマートでも、格好良くもない。男子力向上中の、ガキな俺が?


「……気負わなくて良いよ、神威。結果として、そうなると思う、って話だから」


 高スペックな大人の男は、グルグルと巡るマイナス思考を見透かして、何でもないことの様に言うんだ。


「……俺、葛西先生みたく、しなやかに動けないし」


 俺? と急に話の矛先が向いたことすら、楽しんでる先生の余裕へも、負の感情が沸きそうだ。これは、妬み? 嫉み? 無い物ねだり? あんまり持った覚えが無い昏い感情。


「俺と比べてどうしたいの? 神威は神威でしょ?」

「うん。……分かって、ます」


 けど、と続けそうな俺の勢いを、心の穏やかな声が削いでいく。


「御子柴は、神威が良いんだぞ?」


 そう。そうなんだよね。昨日、礼ちゃん本人の口から聞いたのに。


「そうだよー、2年も!」


 武瑠の言葉に、そうだ、という先生の言葉が重なる。


「神威。その、2年前に何があったか、聞いた?」


 俺は頭を軽く振り、否、の意を表す。


「聞いた方が良いよ。聞くべきだよ。あの話だけで、ご飯三杯は食べられる」


 葛西先生が手にするマグカップからは、もう湯気が立ち昇ってはおらず、それなりの時間が経過したことを物語っている。


「先生は、知ってるんですか? 2年前の話」

「うん。神威が熱出して学校で倒れた日、あの時 病院で聞いた」


 はぁ、と間が抜けた俺の反応を見て、先生は明らかに笑いを堪えて口元を歪ませた。

 いや、だってね? どう反応するべき? 俺の知らないところで、何かが確実に起きていて、誰かに何らかの影響と変化を生んでいた。それは俺が意図した俺の力じゃないけれど。でもたぶん、俺なしじゃ起こり得なかったこと。

 ……何て言うんだろう、こんな。照れくさい様な、恥ずかしい様な、面映ゆい?


「御子柴ね、泣いてたよ。あの時。神威くん、って呼びながら物凄く心配してた」

「……え」


 神威くん? 山田くん、じゃなくて?


 ――そうか。


 礼ちゃんも脳内で呼んでくれてたんだ。名前で。神威くん、って。俺が礼ちゃんを、そう呼びたいと思った様に。


「内緒ね、これ。俺から聞いたって言うなよ?」


 先生の顔は俺だけじゃなく、武瑠と心の方へも向いている。三日月の様に緩く細められた瞳が、とても温かで寛容で、あー、この人は、やっぱりちゃんと教師なんだ、って、当たり前を思い出させてくれる。

 少し俯けた俺の顔はきっと真っ赤で、先生も武瑠も心も気づいている。でも誰からも冷やかされる事はなく、そのありがたさに感謝しつつ、冷たい紙パック飲料を頬に当て、平熱を取り戻そうとした。

 途端、昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴る。葛西先生は、ヤバ、と小さく口にすると、立ち上がり教室を出るべくマグカップを持ち上げた。


「神威、今日もお迎え行くの?」


 俺は一つだけ残っていたパンを頬張り、ウンウンと頷いた。

 礼ちゃんは、大事をとって今日は欠席。お母さんは結局、帰宅しなかったため、朝はうちの母ちゃんと姉ちゃんがトモくんを保育園へ連れて行った。

 夕方のお迎えは、バイトの姉ちゃんに代わって俺が担当。和泉との対決の後で、ね。


「アシなくて大丈夫? 俺、今日は職員会議だから…、」

「今日はうちの母親が車 出せるから」


 大丈夫、という間違いの無い安心感が心から伝わってくる。


「先生……、どうしてここまで、気にしてくれるんですか?」

「ん? 御子柴が可愛いから」

「え、えっ?! な、」

「冗談」


 ケロリと悪びれもせず軽口を叩く先生。何か、ものすごーくムカつくんですけど!


「……俺にも、あったなぁ、って。青春時代。何にも上手くいかなかったけど」

「マジ…、ですか」


 マジですよ。

 葛西先生はドアをカラカラと引きながら、遠いどこかを見つめた。さっきまでの調子の良さはどこへやら、深い悲しみが宿った瞳は傍目にも明らかで、俺達は途端に何も言えなくなる。


「ま、何だ…その。上手くいくと、良いな」


 数瞬ですっかり教師の顔を取り戻し、微笑む葛西先生を、流石と言うべきなのか。それは何だか、寂しい様な。


「先生……、あの」

「何?」

「えーっと、その。先生に、これから、いろいろ、相談して、良いですか、ね? 俺」


 しばしカチリと視線を合わせた先生は、ブクククク、と吹き出し笑い始めた。


「何なの? 息も絶え絶えに」


 お前、そのまんまでね。

 背中をポンポンと軽く叩かれ、先生は一人、大股で職員室へと歩を進めて行った。


「……で、今日の主旨は」

「分からなかったなー」


 うん、葛西先生が俺達みんなを気にかけてくれてる、という事実以外はね。


 ***


 ―――放課後。


 ホームルームが終わるや否や、俺は1組へと廊下を進む。まだ先生の話が続いているクラスもあるようで、人影はまばらだ。

 どんな言葉で切り出せば良いのか、とか。結論はつまり、とか。考え過ぎてキリが無い。場当たり的だと誰かに叱られてもしょうがない。俺は今日、和泉が学校へ来てるのかどうかすら確認してなかった。それでも、とにかく行動しないと、と気持ちばかりが逸る。


「山田?」


 目的地へ着いた時、ちょうど教室から出てくる妹尾さんと目が合った。あ、幸先良い。何か言おうと口を開く妹尾さんを制し、和泉は? と問う。

 妹尾さんは、俺と共に出入口を塞いでいた身体を少しずらし、教室内へと視線を投げかけた。その向かう先には、話題の女子。


「……呼ぶ?」


 お願いします、と俺は小さく告げて深呼吸をした。あ、いっこ、と妹尾さんは右手人指し指を立てる。


「山田はまだ “山田” なの? それとも “礼の彼氏” なの?」

「………気持ちは、伝えたけど……、まだ、山田、です」

「あ、そう」


 クシャリと眉尻を下げて苦笑した妹尾さんは、踵を返し、和泉が座る席へと歩み寄って行った。その背を見遣りながら何年振りだろう、と真っ先に考える。和泉とまともに向かい合うのは。


 ――あの頃とは、違う、はず。


 俺は、と脳内でつけ足した。本当に本当に、ほんの少し。今日の俺は、強いはずだ。誰かの手で無理やりこの場へ連れて来られた訳じゃない。

 1組の後方出入口を占拠したまま、俺は少しでも伝えるべきことを整理した。

 まず、言いたいこと。そして、謝ることを。

 妹尾さんが、俺の方へ向かって来る。すれ違い様、小声で囁いた。


(礼の言葉を、信じて)


 周囲の喧騒に埋もれることなく俺の耳へと届いた言葉。俺は少し顎を引き、諾の意を伝えた。

 和泉が席を立ち、珍しく一人で俺の方へ歩を進めてくる。俺は2・3歩後退し、廊下の壁にもたれかかった。

 妹尾さんは、とさりげなく視線を向けると、2組と3組の間にある階段は下りず、そのまま廊下を直進。あー、きっと。5組へ行くんだ、武瑠と心と、会ってくんだろう。何か妹尾さん、いろいろと格好良いな。


 礼ちゃんの言葉を、信じる。

 呪文の様に、何度も呟き、俺は真打ちと相対した。


「なぁに? 山田くん」


 妙に甘ったるい声だと感じてしまうのは、俺に内なる悪意があるからだろうか。

 出来る限り、フラットで。軽く息を吐いて、心を仕切り直そうとする。


「和泉に言いたいことがあって」

「え? ここで?」


 俺は頷き、ここが良い、と続けた。

 人目があった方が良い。

 俺が教室を出る時に、武瑠と心が背中へ向かってかけてくれたアドバイス。


「……俺、好きな人が出来た」


 間髪入れずに、切り出した。和泉のペースに呑み込まれたくないという思いがあった。


「……それって、ミコちゃん?」


 俺にとってはたっぷりと感じられた沈黙で焦らしてくれた後、低い声で言い当てられる。


「そう。……御子柴さん。だから、ファンクラブとやらは、解散してほしいんだ」


 和泉は途端に眉をひそめ、不機嫌さを露にする。

 つけまつげ、なのか、黒くワサワサの目が、パチパチと音が聞こえそうな瞬きを繰り返す。唐揚げ 食べたのかと思う程、テッカテカの唇も。頬っぺた、オレンジじゃない?

 不自然、だなぁ。和泉。まぁ、小学5年で化粧はしてなかっただろうし。俺の記憶は、あの日あの時の印象がやたら強いし。

 久しぶりに向き合った同級生の、あまりの飾り立て様をボンヤリ眺めていた俺に、和泉は表情そのものの言葉を放った。


「ミコちゃんの、どこが良いの?」

「………」

「あの子、中学の時、人の彼氏 寝盗ったんだってよ?」


 なるほど、と合点がいった。さっきの妹尾さんの言葉。呪文の様に繰り返し唱えていたのが、ここにきて効いている。


「別に、ブレないから、俺」


 そう言うと、和泉はますます不機嫌そうに顔を歪ませる。


「信じないの?」

「和泉、俺と中学 同じでしょ? その話、誰かからの伝聞でしょ?」

「本人がそんな都合の悪い話、する訳ないじゃない」

「俺ね、噂とか…、本人の口から聞いたことでないと、信じないことにしてる」


 和泉はクッと言葉に詰まった様に下唇を噛む。

 流布される俺の噂。その発信源は、ほぼ和泉だ。その当人へ、ちょっと意地悪な言い方だったかな。


「なんで、ミコちゃんなの? 山田くん。今まで散々お断りしてたのになんで? やっぱ顔?」


 顔? ってそのあからさまな言い様に思わず苦笑してしまう。

 人は見た目が9割、だったっけ? そんなベストセラーもあったけれど、損してるんだな、礼ちゃん。顔だけじゃないのにね、可愛いの。


「違うよ。顔じゃない、本質」

「……本質? そんなんじゃ――」

「じゃあ、聞くけど。和泉は俺のどこが良いの? なんで俺なの?」


 それは――。

 和泉は再度 口ごもる。

 若干、威圧的になってしまった俺の口調を感じとったせいかもしれない。

 俺、やっぱりフラットな心じゃないな。でも、覚えてるんだ。


『神威くん、カッコいいから』


 和泉が言う “好き” の理由は、確かにこれだった。ただ、これだけ。

 サッカーが上手だからカッコいい、とか。図画工作が得意だからカッコいい、とか。具体的な根拠はどこにもなかった。小学5年だって、何故好きになったのか、理由付けくらいきちんと出来るだろ?

 もちろん、理由もよく分からないまま、好きになっていたという場合もあるのだろう。でも、好きだと言う気持ちが本物で確たるものならば、好意を寄せることになったきっかけへ、きちんと辿り着けるんじゃないか。


「……俺じゃないでしょ? 好きな相手、って」

「……そんなこと、ない。なんで決めつけるの? あたしはずっと、」

「男と一緒のとこ、見たよ」


 写真でね、と口には出さず脳内でのみ、追加する。あ、5人もね、とも。

 これ切り出すの、卑怯かな。でも和泉の答えは案の定、だったから。俺のどこを、何で好きか、って具体的に何も出てこないんだな。


「あっ、あれは…別にっ! つ、つき合ってるとかじゃないし! そんな、好きとかじゃ―」


 慌てて否定する和泉は、図星をさされたせいか顔中 真っ赤になっている。いや、怒りのせいかな。恥ずかしさのせいかも。思ったより大きかった和泉の声は、帰路や部活へと急ぐ生徒達の注目を瞬時 浴びてしまったから。


「俺、今日、謝ろうとも思って来たんだ」

「――は。も、なに、」

「あの時。5年生の時、だっけ? 酷い言葉で傷つけて、ごめん」


 和泉は赤く熱くなった頬を両手で包み、俺の謝罪をよくよく咀嚼する様に、暫く沈黙を守った。

 ……うん。居心地は良くない間だけど、仕方ない。今日の今日までちゃんとケリをつけてなかったのは、俺。


「……なに、それ。今さら、ごめん、って。で、何? 諦めて、って言いたいの?」

「諦めて、ってえらく上からだけど」

「でもそういうことでしょっ?!」


 激昂しながらも言いたいことを言えるって、ある種の才能だな。

 対峙の場で、相手が熱くなるほど、自分の冷静さが増していく、といわれるのが真理であることも、よく分かった。


「和泉は…知ってるよね。俺、自分から好きになりたい、って言い続けてきた」

「知ってるわよ! 何度も言われたし、聞いたし!」

「うん。だからね、見つけたから」

「何…ミコちゃんを? 好きな人 見つけたから、諦めろってこと?!」

「諦めろ、は上から過ぎるって。他の人を好きになることはない、って」

「はぁぁー、もう、なんで?! なんでミコちゃんなのよっ?!」


 和泉は、18世紀ベルサイユ宮殿で踊る婦人もかくや、と言わんばかりにクルンクルンの巻き髪を振り乱し、納得いかない! と息巻いた。


「……あのね。俺、アイドルでも公人でも何でもない一般人だし。和泉の納得は必要ないと思うんだけど」

「それはっ! そうだけどっ…、」


 俺は組んでいた腕を一旦伸ばし、交互に肘を持って軽くストレッチをする。廊下の人通りはだんだん少なくなってきて、遠慮なく浴びせられる好奇の視線はずいぶん減った。それでも、もうそろそろ切り上げないと和泉の目の周りは、うっすら浮かんでいる涙で滲んだせいか、いわゆるパンダ目になっている。たぶん、女子だったら、恥ずかしいんじゃなかろうか。姉ちゃんだったら、発狂しそう。


「……言おうか?」

「……は? え? 何…、」

「御子柴さんの良いところ。たくさんあるからキリが無いけど、凝縮して濃厚バージョンでお届けしようか?」


 はぁ。と抑揚の無い声で呆然とした表情を見せる和泉。

 俺の顔はきっとニヤけている。礼ちゃんの良いところを思い返して、やっぱり可愛い人だな、と緊張感の無い思考を巡らせてしまったから。


「まず――」

「あっ、ちょっ!」


 テンポ良く始めようとしていた出鼻を挫かれた。

 何? と和泉を見れば、眉間だけでなく、頬にも口元にも皺を寄せ、意図が読み取りづらい表情になっている。


「……も、いい」

「? 和泉が言ったんでしょ? 納得いかない、って。今から納得―」

「いい! ……気持ち悪い……、」

「え。あ! じゃあトイレ―」

「違うわよ! そういう意味じゃないわよっ! 山田くんが気持ち悪い、っつってんのっ!」


 俺が、え。という番だった。

 少なくとも和泉は俺へ好意的な感情がある、という前段で向かい合っていた気がしましたが……、あれ? 気持ち悪い?


「女子にはあんなにクールで無愛想でぶっきらぼうの仏頂面で! 冷酷仮面の氷王子だったのにっ!」


 ……うん、王子は要らないけど。なかなかな言われ様だ、俺。

 苦手だったから、女子全般。あ、いや、だからその原因はね、和泉……、


「何なのっ?! その…、デレっとだらしない顔っ! 気持ち悪いっ!」


 あ、顔? 表情? やっぱりニヤけてた?

 俺はまた組んでいた腕をほどき、両手で両頬の緩みを元に戻そうとした。


「……も、いい、マジ。あたし…、なんか、引いた。ムカつく通り越して、なんか引いたわー。なんで?」

「……俺に分かる訳ないでしょ」


 両腕を組んで、はー、と溜め息とも呆れ声ともとれる意味不明の叫びをあげて、仁王立ちするパンダ目の和泉が可笑しくて、俺はまた緊張感無く吹き出してしまった。


「バカにしてんの?」

「違います、スミマセン」


 昨日ね、と話を続け始めた俺を見て、和泉はピクリと片眉を上げる。ちょっと頬が強張って、何を言い出すんだ? と身構えている。


「御子柴さん、階段から落ちたんだ。おデコ、怪我して捻挫して。今日、休んでたよね?」

「……そう、みたいね」


 和泉は棒読みでそう言った。俺の出方を待っているかの様に。


「一人で、勝手に、落ちたんだって」

「!」


 和泉が目を見開く。……や、黒い部分が滲んでて分かりづらいけど、たぶん。

 俺の強調の意味は、伝わったらしい。


「誰も悪くない、って。今まで通り、って。言い張るんだ、あの人」


 良い子ちゃんか、って。だからあたし、気に入らない。

 俺から視線を逸らし、俯き加減の和泉は、誰にともなく悪態をついている。

 行き場の無い言葉は宙に舞って、ちょっと埃っぽい、籠った冬の空気が浚っていく。それが、そんな態度が、和泉の精一杯の抗いなんだろうな。


「気に入らないなら、それで良いよ。あ、とか言ったら御子柴さんに失礼か」

「え?」

「俺が好きな人だから、ってだけでみんなに好きになってもらえるとは限らない。……でも、」


 俺はもて余していた両手を、また組んだ。腹に、力こめて、ちゃんと伝えられる様に。


「俺、好きな人を傷つけられると、ちょっと酷いから。容赦ないからね。武瑠の時も、心の時も、和泉なら、知ってるでしょ?」


 知ってる。

 和泉はさほど間をおかず、呟く様に答えを返す。


「あたしは、ずっと、見てたんだってば。山田くんを」

「うん。……ありがと」


 途端に、はぁぁーっ、と溜め息にしては大きい、何らかの感情が和泉の口から吐き出された。


「……あのさ。長年 つきまとってるあたしとの縁を、ぶった切りたいんでしょ?! それくらい分かるわよ! 女は勘が鋭いんだから! ミコちゃんに手 出すな、ってことなんでしょ? 要は!」


 感心するくらい滑舌良く繰り出される和泉の言葉は、怒り、にも似ているけれど、モノが言えるくらいの呆れ、なのかな。頬っぺた、オレンジだか赤だか、分からなくなってるんだけど、それと同じくらい、和泉の感情が定まらない。ただ、分かっているのは、対決の開始時にあった緊張感や緊迫感、ピリピリ尖った空気が、ほんの少しずつ和らいでいってること。


「有り体に言えば、そう、なる。でも、」


 でも、何よ?

 ……あぁ、和泉はイライラしてきたらしい。組んでいる腕や、右足上履きの先端が、小刻みに動き出した。


「でも、そう言うのはおこがましいと思う。自分で何様かと、」

「……めんどくさっ!」


 和泉は辛辣な捨て台詞をバシッと言い放つと、仁王立ちから片脚へ重心を移し、身体全体で面倒さを表現した。


「どうしたいのよ? 何なのよ? いっそ、あたしのこと嫌ってくれた方が良いんだけどっ!」

「……和泉、言わんとすることがよく、」

「あたしだって分かんないわよ! 山田くん、何 考えてんの?!」


 え、の形を作った口元のまま、俺はしばし考えあぐねる。

 話の流れとしては、事前のシミュレーション不足の割に、良い方へ進んでたと思ってた。どこかで地雷踏んだの? 俺。


「……ありがと、って。も、何なのよ、それ。計算?」


 和泉は肩を竦め、俺が口を開くより先に、んなワケないか、と自己完結した。


「あたし、山田くんに感謝される様なこと、した覚えがないわ。無いこと無いこと噂にして。山田くんに近づく女子は許せなかったし。何に対する ありがと、なのよ?」

「酷いこと言って、ごめん、も言わなかったのに。ずっと見ててくれてありがとう、の ありがと」


 俺は、ついさっきの自分の思考を正確になぞった。人からしてもらったことは忘れてはいけない、と。教え込まれた両親からの言葉を思い出せたあたり、俺の心はフラットさを取り戻してきたらしい。


「……勝手ね。うん……、勝手」


 震える声が和泉の感情の昂りを伝えてくる。何かを思い返している様な。

 そしてまたひとつ、大きな溜め息。涙を堪えているのだろう。


「あたしのこと、徹底的に避けてたくせに急に近づいてきたと思ったら、言いたいことだけ、ちゃっちゃ言ってくれちゃって」

「うん。いろいろ、勝手なのは、分かってる」


 分かってないわよ。

 和泉は組んでいる腕を緩め、右手を顎に寄せると、立ったままロダンの考える人っぽいポーズをとった。


「そんなんじゃ、徹底的に嫌いにもなれない」

「どんな罵声も甘んじて受けるよ。それが当然…、」

「や、だからね? それが出来なくなるじゃん、っつってんのっ! ありがとう、とか…卑怯でしょーが! こんな話の場合、反則よ!」


 そうなの? と応じながら、すっかり和泉のペースだな、と苦笑した。俺、やっぱり場のイニシアチブをとるのって無理らしい。


「中途半端な優しさは卑怯! あたしはね、嫌われ者なら嫌われ者のままでオッケー」

「んー、俺、和泉に限らず女子は苦手だけども。別に大嫌いとかじゃ、」


 だーかーらー! と、一語ずつキッパリ俺へ向けてくる和泉の口調に淀みも躊躇もなく、この機会に、と言わんばかりの勢いすら感じられる。


「嫌いじゃない。でも、何となく苦手。そんな曖昧で朦朧とした表現、どうでも良い、って言われてるのと一緒! 無関心が一番 残酷だと思わない?」


 残酷、という言葉が持つダークさに、俺は正直、狼狽えた。

 覚悟していたはず。誰かと真剣に対峙する時、綺麗な上辺だけの会話で済む訳がない、って。それはフランス人だって、ヘタレな俺だって同じこと。長年、敢えて触れようとしてこなかった無意識の部分を、意識的に抉り出そうとするのだから。


(無関心が、一番、残酷……)


 和泉の言葉を反芻する。パンダ目の和泉は、その哲学的な言い様で、俺に何を訴えてる?

 岐路、なんていざ立たされたって、そうそう分からない。

 大学受験、とかはね、社会のシステムとして明らかだけれど。大抵、後から気づいて後悔する場合が多いんだ。


 ――考えろ。何となく、じゃダメなんだ。


 その時。目の前で何かが微かに光った気がした。単語。形容詞。

 人にぶつけるには、躊躇いを覚える言葉。でも感情に委せて、よく使われる言葉。

 ……あぁ、俺。今、ちょっと真理に触れた気がした。“嫌い嫌いも好きのうち” って、よく言ったもんだ。


「和泉」


 俺は、ずっと組んでいた腕をほどき、でも所在無くて、ズボンの両のポケットへ突っ込んだ。真摯で紳士な態度じゃないだろうけど。これから和泉へ放つ、俺の深意の行方の方が気になって仕方ない。


「俺は…初めて。自分から、御子柴さんを、好きになりました。和泉のことは………、嫌い、です」


 ん、と聞こえた音は、喉が鳴ったものなのか、それとも了解、の意なのか。

 自分へ都合が良いように解釈したくはなかった。

 けれど。どちらを選択すべきかは、和泉の顔を見れば明白。

 気づけば和泉の背後には、心配そうに和泉を見つめる遠野と西條の姿があった。

 教室内へ残る人影もまばらで、だからか、後方出入口を俺たち二人が占拠していても、誰も気に留めないようだ。


「あたしのこと…嫌い、なんだよね?」


 およそ否定的な感情を向けられた人間とは思えない程、和泉の表情は晴れやかだった。

 伝わったかな、和泉。これが、今の俺に出来る精一杯。

 そうだよ、と、柔らかく穏やかに応える。

 和泉はまた、はぁぁーっ、と、深く大きな溜め息を吐いた。ずっと背負っていた重い荷物を、やっと下ろせた、といった風に。


「……あたし。始め方を間違ってた。って気づいたんだけど、やり直し方も分からなかった」


 和泉はそう言うと、指を組み合わせ掌を返して伸びをする。


「あたしだって……もっと上手に、山田くんを好きになりたかった」

「うん。……ごめん。ありがとう」

「やめてってば! 最後に良い人ぶるの。こんな時、トコトン叩きのめすのが良い男でしょーが」

「……そうなの? 俺、不器用だからね」


 俯き加減でそう言うと、そうね、と真顔で返された。

 そんだけ綺麗な顔してんだから、テキトーに遊んで、テキトーにやりゃ良いのに、と。

 俺は苦笑し、かぶりを振りながらポツリと言う。


「和泉も、じゃない?」

「何が?」

「……不器用」


 山田くんに言われたくないわ。

 眉間に深く皺を寄せ、本当に不愉快そうに和泉は言った。

 短く訪れた間の後、和泉は、じゃあ、と踵を返し、遠野と西條へ視線を向ける。


「フラレた。今度こそスッパリキッパリ」


 背中しか見えない和泉は、一体どんな表情を二人に向けているのか。今にも泣き出しそうな友達と、同じなのかな。俺はそっと5組へと歩き出す。


「後悔するわよ、とか…言ってみる?」

「そうね、常套句じゃない? こんな修羅場の」


 声を震わせ半ベソをかきながら、和泉の肩を両側から支える二人は、きっと、何年か前のあの場所でも演技ではない本物の同情を寄せていたのだろう。

 俺はずっと、そんなことも知らなかった。いや、考えようともしなかった。


「後悔、しないわよ、あの人」


 グスッ、と鼻を啜る音と共に、笑いが混じった様な明るい声で和泉は断言してくれる。

 うん、しないよ。

 こう言うと、和泉に悪いのかな。でもね。


「自分で、見つけたんだもん。自分から、好きになったんだもん」


 そうよね?

 距離が開いていく俺の背中へ、和泉が言葉を投げかけている気がした。

 そうじゃなきゃ許さないわよ? くらいの圧かな。

 俺は右の掌を掲げ、後ろ手を振った。

 そうだよ、と、伝わるかな。

 ……今朝の葛西先生を意識してなくもなかったけど。


 キザすぎる! というブーイングが後頭部へ突き刺さる様に聞こえたから。俺の男子力は、まだまだ足りないらしい。

 馴染みの教室内で心の優しい眼差しに迎えられ、俺はやっと、気が緩むのを感じた。どれだけ、身体がガチガチだったのか。首や肩をグキグキと鳴らしながら、窓際の一番後ろに座る、心へと近づく。


「……お迎え、行くか」


 何も聞かないんだな、心。

 もっとも、何の目的で1組へ行ったのか知っている訳だから、俺の顔を見ただけで鋭い心なら難なく答を見出だせるんだろう。俺は苦笑しながら、コクリと頷く。


「妹尾さん、来た?」

「来たぞ。あいつ、なかなか男前だな」


 うん、俺も格好良いと思った。

 心は席を立ち、俺の鞄を手渡してくれながら続ける。


「神威が情けない顔して戻ってきたら、容赦なくぶっ飛ばせ、と」

「……なんて過激な」

「他言に惑わされなかったんだろ?」


 階段を一段、先に降りた心は俺の顔を見上げながら言う。憑き物が落ちた様だ、と。


「……和泉にね。嫌いです、って。言ったんだ」

「……そうか」

「思考からも視界からも外して。俺、和泉を存在しない人間、みたいに扱ってたんだよね。……酷いことしてたなぁ、ずっと」


 心はじっと俺を見るばかりで、その強い力に気圧されそうになる。


「……言われた和泉は勿論だが。神威もしんどかったな」


 心、本当にお父さんみたいだ。

 アメとムチの使い方が上手、というか。いや、違うな。概ね、いつも。


「良いよ、甘やかさないで。俺、自分の男子力の無さを痛感してんだからさ」


 心はほんの少し口元を緩めると、武瑠のとこへ寄ってから行こう、と先に靴を履き終えて言った。

 正門へと続く道はグラウンドの脇にあり、武瑠は俺が声をかけるより先に俺の姿を見つけ、俺の名前を大声で叫びながら、走り寄って来る。

 神威ーー! と。

 大注目集めてるし。武瑠先輩?! って、後輩くん達から呼び止められてるのに、てんで無視してるし。


「勝った?」


 ガシャン、と身長より高く張り巡らされているフェンスへしがみついた武瑠は、開口一番、スポーツマンシップ溢れる言葉を口にした。


「勝負じゃないからね、武瑠」

「うん、でもさ、大事な局面だから! ミコちゃん、守れそう?」


 うん、守れそう、と俺は武瑠の言葉をなぞった。

 心と真逆の武瑠は、微塵も一考することなく、どストレートに想いをぶつけてくる。それはある種、幼稚なのかもしれないけれど、今の俺には心地好かった。


「そう! 良かったじゃん! じゃあ今日、ミコちゃんにつき合おう、って――」

「わわっ、武瑠!」


 武瑠を連れ戻しに来たのだろう、後輩くん三人の姿が見えたから、武瑠の言葉を遮ろうとした、けれど。


「ええっ?!  神威先輩が?!」

「男女交際っすか?! ミコちゃん先輩と?」

「え、ボーイズラヴじゃなく?」


 ―――遅かった。聞かれた……。いや! というか!


「なんでボーイズだよっ!」


 だって、ねぇ。と三人は、俺達の顔へ順に視線を這わせテヘヘと笑う。


「いや、可愛くない! テヘヘって! 俺はね、武瑠も心も好きだけど、あ、いや! 好き、っつってもそういう意味ではなく!」

「あー、やっぱりー」

「俺は神威の愛なら享受するぞ」

「両刀っすかー」

「心! 誤解が誤解を招くから!」

「何にしても、絵面キレイっすね!」


 武瑠は、グラウンド中央で柔軟をしている部員の元へと、後輩くん達によって引きずられて行く。


「神威ー! 愛してるよー! もうひと頑張りー!」


 両手をブンブン振りながら遠ざかる武瑠。肩を小刻みに震わせて、笑いを堪えきれない様子の心。

 ……俺、良い友達持ったな。


 ***


 心のお母さんにお礼を言い、名残惜しそうに弓削兄弟とバイバイをするトモくんと車を降りる。小さな声で、あそびたかったな、とトモくんは呟いた。


「りーくんと、がっくんと、あそびたかった」

「すっかり仲良しだねぇ」


 でも、礼ちゃん待ってるよ? と問いかけると、トモくんは慌ててインターホンのボタンを押した。モニターの向こう側で、礼ちゃんの明るい声が、はい、と応じる。


「れいちゃーん! トモくんとカムイだよー」


 言い終わるか終わらないか、というタイミングで玄関の扉がガチャリと開く。

 パーカーワンピ? っていうの? ラフな姿の礼ちゃんは、やっぱり可愛い。何着ても可愛い。何とかの一つ覚えだと言われても、可愛い。

 顔だけじゃないんだよねー。滲み出てるのよ。


「おかえりなさい」


 極上の微笑みで言われれば、緩んだ顔のまま、意識がどこかへ飛んでいくかと思った。

 ……何だ。何だろう、この破壊力?! おかえりなさい、って言われただけ、なのに。聞き慣れてる言葉なのに。緩んだ顔が元に戻らない。


 礼ちゃんの声に昨日の夜を思い出せば、か、と音をたてて俺の顔は朱に染まる。反して礼ちゃんはいたって普通のご様子。平常心を取り戻せないのは俺だけみたいだ。

 勝負事じゃないんだけど、でも俺にとっては、一大勝負みたいなもん。圧倒的に押されてるじゃん、俺。

 つき合ってください、礼ちゃん。とか。礼ちゃんの彼氏になりたいんです、とか。

 言えるのかな、俺。


 カムイ? と小さな手に制服のズボンを引っ張られ、俺はやっと我に返る。首を傾げ、俺の様子をじっと見ている礼ちゃんの傍を通る時、ふわっと横切った良い匂いに、また意識が遠のきそうだ。


「神威くん?」

「……何でしょうか」

「風邪ひいた? 顔が赤いけど。熱でもあるんじゃ、」


 通り過ぎた俺の背後から心配してくれる礼ちゃん。

 ほんっとに、普通。何故にそんな、普通でいられる?


「……礼ちゃん、は」

「はい。何でしょうか」

「……照れたり、とか。無いの?」

「ありますよ」


 礼ちゃんはにこやかに変わらない調子で応える。トモくんの通園バッグを背中から下ろし、連絡帳へ目を通し、汚れた着替えをバッグから取り出す一連の動作は、とても照れてる人のそれに見えないんだけど。


「私、今日ゆっくり考える時間があったから」


 礼ちゃんはそう言って、ソファーへ座るよう、視線と向けた掌で俺を促す。


「……変に照れたり、恥ずかしがってたりしたら。話しにくくなってしまう。せっかく仲良くなれていたのに、それはもったいないな、って」


 俺がソファーに座ると、お利口さんに手洗いうがいを終えたトモくんも隣にちょこんと収まった。

 レッグウォーマーで覆われた礼ちゃんの足元に昨日の包帯は見えないけれど、まだ少し痛むのか、ピョコンと身体を揺らしながらキッチンへと移動していく。


「礼ちゃん」

「はい」

「礼ちゃん」

「? 何…」

「ちょっと、今リハビリ中」


 礼ちゃんは、ぶ、と吹き出しながら、トモくんへお子さま飲料を手渡し、俺の膝あたりに位置するローテーブルへコーヒーカップを置いた。


「礼ちゃん」

「……もう、そろそろ」

「うん。2年前の俺と何があったか、教えて」


 ローテーブルへ両肘をつき、ペタリと座り込んでいた礼ちゃんは、面食らった表情を見せた。


「……何故、急に?」

「知りたい。気になる」


 俺はかなりの力を目にこめて、礼ちゃんを見つめた。直視は恥ずかしくて、程なくお子さま飲料を飲み終えて遊びだしたトモくんへ視線を移す。


 昨日からずっと考えてるけど、思い出せない。というか、全く分からない。

 何きっかけで礼ちゃんと知り合っているのか。忘れててもやむを得ない、と自分で納得出来る程、些事ならまだしも、実は、忘却の彼方へ遣った自分を呪う程、重大なことだったりして。そうだとすればこの2年こそ、もったいなさ過ぎるじゃないかと、悔やまれてしかたない。


「……高校入学前の、春休みに――」


 前ぶれなく切り出した礼ちゃんの言葉に、は、と意味不明な反応が漏れた。そんな俺をチラリと見ながら、笑みを湛えた礼ちゃんは言葉を続ける。


 組んだり、指を伸ばしたり、曲げたり。せわしなく動いている礼ちゃんの小さな両手は照れ隠し?

 礼ちゃんの口から紡ぎ出されるその男子は、時間の経過と共に美化され過ぎていると思うんだけど。


「その男の子は、一緒に来ていたお友達から、カムイ、と呼ばれてたの」

「………俺?」

「そう。あの時は、充分にお礼も言えなくて。本当に、ありがとうございました、山田神威くん」


 そう言い終わると、礼ちゃんは鼻から下を両手で覆い隠してしまった。肩までの髪を緩くかけている礼ちゃんの耳は、ほんのり紅く染まっていて、俺を、またチラリと見てくる瞳は、綺麗な弧を描いている。


「……惚れてまうやろ?」


 くぐもった声で笑いを含みながら言う礼ちゃんが可愛くて仕方ない。それはこっちのセリフだって!


「……礼ちゃん」

「……まだリハビリ中?」

「あー、もう! 礼ちゃん! もったいない! 2年間!」


 俺、なんで忘れてたんだろう。

 心の叫びは口をついて出た。

 忘れてなかったら? もっと早くから礼ちゃんと仲良くなれたのかも。そうしたら……。


「忘れてた、神威くんだから、良いの。忘れちゃうくらい、神威くんにとっては当たり前の何でもないことだったんでしょう?」

「えー…、うーー、ん。そう、かも、」

「それが、良いの。そこが、良いの。だから、好きになったの」

「礼ちゃん……、」


 俺の脳は上手く機能してくれなくて、口は勝手に大好きな子の名前を呼ぶけれど、それはもはや反射行為に近い。


「……神威くん、は?」

「……え、な…に、」

「どうして、私? ……分からなくて」


 礼ちゃんはポツリと、俺の方を見ることなく問うてきた。テーブルの上で、また握られたり開かれたり、指を一本ずつ伸ばしたり、小さく白い手は忙しく動いている。

 俺はその様をボンヤリ見つめながら、ソファーからズルズルと滑り、ローテーブルとの間へ胡座をかいて落ち着いた。

 口の中がカラカラ。程好く冷めたコーヒーを口に含ませ、そうか、言ってなかったんだ、と改めて考える。

 何から? 何と言って?


「……同じ、だよ。礼ちゃんのきっかけと」

「同じ……、同じ?」

「うん。俺は意識 無かったけど」


 こっち、見てくれないかな、礼ちゃん。

 目も合わせずに、こんな肝心な大切な話をしているのが少し悲しくて、俺は念をこめて礼ちゃんへ視線を送る。顔は勿論、首やら耳やらまで朱に染まった礼ちゃんは、止まった俺の言葉を不思議に思ったのか、ゆっくりと顔を上げた。

 俺、やっぱり伝えたいことをきちんと伝える力に欠けてる。

 礼ちゃんは眉間に皺を寄せ、両の頬に手を添え、よく分からない、と呻く様に呟いた。


「俺が倒れた時の…あの、礼ちゃんの……思いやりとか、優しさ、とか。俺、本当に、」


 心に沁みたんだよ、という表現はカッコつけすぎかも、と躊躇った一瞬、俺の口を塞いだのは、礼ちゃんの小さな手。申し訳なさそうに顔を歪ませ、かぶりを振っている。

 唇に。触れては、ないけど。近くて、ビックリ。


「不純よ、不純。私の行為は。神威くん、考えてみて?」

「……分かりません。何の話?」

「私、神威くんのこと……その。好き、な訳だから、優しい、とか、ね? 良く思われたかったの、きっと」


 だから、神威くんとは違う。同じじゃない。

 そう言って、礼ちゃんはまた俯き、膝の上に置いた掌を、所在なげに見遣った。

 テレビから流れる子ども向け番組の軽やかな歌声が、昨日の夜の静けさとは違う柔らかな空気を醸し出してくれている。リズムに乗って歌い踊っているトモくんの姿も手伝って。

 和泉との直接対決も終えた後だし。俺の舌、もうちょっと、滑らかにならない?


「……同じだよ」

「神威くん……」

「どっちのケースも同じ。俺は、無意識で。礼ちゃんは、意識したんでしょ? 同じじゃん」


 ね? と大袈裟なくらいに微笑んで、礼ちゃんの顔を覗き込む。


「……無理が、あるよ」


 でも、ありがとう。

 肩を竦めて、ふふ、と笑う礼ちゃんを見ていると、俺はもっと、伝えたいことがあるな、と感じた。そうして、礼ちゃんに、もっと笑って欲しいんだ。


「もー、本当に。礼ちゃんは」


 俺は大きく深呼吸をして、礼ちゃんを見る。見る、と。

 あーー! 手、とか触りたいし! 頬っぺた、は流石にやり過ぎか。不純なのは、俺です、礼ちゃん……。


「周囲にね、気を遣わせない様に、優しいことをいろいろとしてくれちゃうもんだから」

「え、う…んんー、や、あの」


 礼ちゃんは眉間に皺を寄せたり、唇を不服そうに尖らせたり、反論しようかと何かを言いかけたり、一人百面相だ。


「ぶ。何、それ」


 優しくないし、不純だし。

 まるで分かってないとでもつけ足す様に、礼ちゃんは頬杖をつき、緩く頭を左右に揺らす。


「あちこち隠れてる礼ちゃんの思いやりに気づいたり、見つけたり。そういうの、嬉しいんだ」

「……むー」

「俺の、ための、特別、みたいな」


 礼ちゃんはコクコクと頷く。そう、神威くんは、特別、と。何かを思い返す様に、少し遠い目をしながら言った。


「私にとって……特別」

「うん。ありがとう。お願いだから、それ、他の男に言わないで?」

「? どうして…」

「嫌だからに決まってるでしょ」


 うん。

 そう言って礼ちゃんは右手小指を差し出してくる。

 ……そ、それは。もしかして?! 幼き日によくやらされた、アレですか?!


「約束。神威くんの嫌がることは、しない」


 そっと伸ばした俺の小指は、震えてやしないだろうか。カッコ悪いったら。

 げんまん! と小さく熱く交わされた接点から、好きで好きでたまらないと伝われば良いのにな。


「礼ちゃん……」


 ――言え! 言うんだ! 俺!


 トモくんは、まだ子ども向け番組に夢中だし、姉ちゃんが俺を迎えに来るのはバイトが終わった もう少し後。邪魔は入らないだろう。今しか、きっと、今しか無い!


「……俺も、礼ちゃんの嫌がることは、しない」

「うん。げんまん」

「だから」

「? ……はい」

「……俺を、もっと……好きに、っす、好きに、なって、欲しいな、と」


 ……ぅあああー、噛んだ。声も、ひっくり返った。


「え。え? ぇえっ? か……、」


 礼ちゃん、呆気にとられてる。真っ赤っか。無理もない。きっと俺だって、自分史上最高に真っ赤な顔だよ。


「そ、れでね」


 口の形は、たぶん神威の か。礼ちゃんは、一体どんな返事をしてくれるんだろう。

 好き、がイコール彼氏彼女になることだとは限らない。俺の今からの申し出は、礼ちゃんを正々堂々と守りたいという大義名分を掲げた、俺の勝手かもしれない。

 でも、言わなきゃ。礼ちゃんが、どう考えているのかも分からない。

 人間は、後悔する生き物だ。俺は、言わないで後悔するより、言う方を選ぶ。


「俺……、礼ちゃんの。彼氏に、なりたい、です」


 時間は、不思議だ。

 居心地の好さに溺れて、経過を速く感じる時もあるし。いたたまれないからこそ、経過を遅く感じる時もある。

 この場合、どっち? 繋がった指は、離したくない。礼ちゃんの拒否は、聞きたくない。


「れいちゃんとカムイ、なかよし?」


 いつの間に、近づいて来てたのか、トモくんのニコニコ顔が礼ちゃんのすぐ傍にあった。


「ぅわっ!」

「あ!」


 伸ばしていた腕を慌てて引っ込めテーブルの下へ。礼ちゃんは、と見れば、意味もなく胸の前で両手をニギニギさせている。


「れいちゃん、おなかすいた!」

「あ、うん……」


 それまで俺の顔へ留まっていた礼ちゃんの視線は、ゆっくりとトモくんへ向き直り、すぐ準備するね、と優しい声音が続く。

 俺は、ちょっと、動けなかった。返事を貰ってないけどトモくんの空腹を我慢させたくないし。そもそも色好い返事とは限らない。でも、宙ぶらりんな胸の内を抱えたまま、俺は礼ちゃんと普通に接することが出来る?


 無理だよなぁ。

 そんな大人な態度(いや、普通に接することが大人なのかも分からないけど)俺が出来る訳ない。照れるの恥ずかしいだので、今日だって終始ぎこちないくせに。


「……神威くん?」

「ぅはっ? はい!」


 ピョコン、と揺れながら対面式のキッチンへ立った礼ちゃんは、お皿や箸の準備に忙しい手元を見つめながら、静かに俺の名前を呼ぶ。


「……流石に、照れます」

「……ごめん」

「違うの、謝らないで。どうしたら良いのか、分からなくて」

「……礼ちゃん…って。その、……つき合ったり、とかは、」

「ないないないない! あるわけない!」


 礼ちゃんは、たどたどしく訊ねた俺とは真逆で、抵抗も躊躇もなくキッパリ反応する。そうこうしている間にも、手はちゃんと作りおきのおかずを皿へ盛りつけ、トモくんのための夕食準備が施されていくから、流石。


「神威くんは、あるんでしょう?」

「……何が?」

「つき合った経験。カノジョ、って……いたんでしょう?」


 俺と目も合わせずに礼ちゃんは淡々と語るから、何をどう訊ねられたのか、ピンとこなかった。

 ……ま、待って待って! この一瞬の沈黙は、肯定なんかじゃないからね!


「ないよ! ないない! 一度もない! 一人もいない! 全力で否定!」


 俺は思わず立ち上がり、対面式のキッチンカウンターへ近寄ると、礼ちゃんの視線を捕らえようとした。

 数種類の皿や茶碗には、炊きたてご飯に肉じゃがにマカロニサラダと、どれも美味しそうに鎮座していて、俺の喉は、ごくりと音をたてた。

 ……こんな時、なのに。パブロフの犬か、ってーの。


「……ご飯、食べていってほしいけど。神威くん、お家で、」

「お言葉に甘えます」


 おてつだいできるから! とトレーに小さな茶碗やお箸をのせて運ぶトモくんへ続き、ダイニングテーブルへ。

 あー、何か。このままウヤムヤになっちゃう? なんて危惧しながらもいやー、俺ってば。何で呑気にメシ食ってるのかな。

 恋した相手に想いを募らせ、何も喉を通らない、とかにならないのね? あれは、女性の方だけなのかな? それとも俺にナイーブさが足りない?

 目の前に並べられた礼ちゃんの手料理には、まぁそんなモヤモヤは一旦 置いておけよ、と言わんばかりの抗いがたい魅力があった。一度、味をしめてるし、俺。

 形容として、出来るだけガツガツにならないよう、丁寧に箸と口を動かしていく。


 礼ちゃんが気になって仕方ないのに直視出来ない、って、俺はどれだけヘタレなんだか。いやチラリと盗み見てはいるんだけどね。

 じゃがいもを食べやすい大きさに切ったり、マヨネーズで汚れた口元を拭いてあげたり、と、トモくんのお世話に忙しそうだ……。


「あ」


 無意識に口をついた声に、礼ちゃんが反応する。あぁ、ばっちり目が合っちゃったよ。


「……礼ちゃん。トモくんのお世話で忙しいから、ご飯 ゆっくり食べられないんだね」

「え?」


 現に礼ちゃんのご飯茶碗は3歳児のそれと大差なく、ややもすれば一口で終わるんじゃなかろうか、という量。


「俺、代わるから。ちゃんと咀嚼して、ゆっくり食べて」

「え……や、」

「じゃないと、大きくなれないよ」

「………あ、そこ? チビネタに繋がるのね」


 神威くんの話の終着点が見えなかった。

 ふふ、と笑い声を場に残し、礼ちゃんは俺の方へ手を差し伸べる。


「おかわり、いかがですか?」

「……差し支えなければ、自分でやります」


 いや、本当に何やってんだか。チビネタで終わらせるつもりじゃなかったのに。

 しゃもじでご飯をよそいながら、俺は自分へダメ出しするとかぶりを振った。

 クルリと振り向けば、カウンター越しに礼ちゃんの笑顔。その背後から、ごちそうさまでした! とトモくんの声。ほんとお利口さんだ。


「コーヒーかお茶か…、何が良い?」

「あ、俺 やる。お茶くらいは淹れられる」

「ありがとう。でも、神威くんはご飯 食べてて?」


 瞳を逸らされることなく、綺麗に微笑まれれば、もう頷くしかない。

 俺はすごすごと着座して、がっつかないように、減っていく美味しさの数々を噛みしめていく。


「神威くん、身長何センチ?」

「178、かな。たぶんまだ伸びてる」


 ほえ、という奇妙な声と共に俺の前へ湯呑みが置かれた。口を開きかけた俺へ、礼ちゃんは小さな手を差し出して牽制する。


「私には聞かないで?」

「……ありがとう、って言おうとしただけなのに」

「あ…、そう」


 ぶ、とどちらからともなく吹き出した後、礼ちゃんは、こういうことかな、とつけ足した。


「何が?  “こういうこと”?」

「2年前の話をした時、もったいないって神威くんは言ったわ。その時は、よく分からなかったけれど、確かに早くに知り合えてたら、こんな楽しい時間を、たくさん共有できたんだな、って」

「礼ちゃん……、」

「今からでも、」


 ちょっとだけ顔を俯けた礼ちゃん。言葉を選んでる? 何 考えてる?

 俺は、ごちそうさまでした、と急いで手を合わせると、温かいお茶を一口啜り、自分なりに居ずまいを正した。


「俺、礼ちゃんと話してると、楽しいよ。言いたいこと上手く伝えられないから、誤解されるかもしれないけど。さっきもね、」


 分かってる、と礼ちゃんは言った。ちゃんと伝わってるのよ、とも続けて言った。


「チビネタで……ごまかしちゃったけど。神威くんにそんなつもりがなかったことは、分かってる」

「あ…うん。それなら、良かった」

「私……私の方が。……やっぱり、照れてる」


 はぁ、と深く深く息を吐いた礼ちゃんは、両手で顔を覆い隠す。照れてる、の言葉通り、指の隙間から見えるツルンとした肌は、熱をもった様に紅く染まっている。


「……どうなるんだろう、私」

「? 何…」

「……神威くんの、その……か、彼女? に、なったら。あ、んー、そもそも、私で良いのか」

「……嫌なら、断って。礼ちゃんの、嫌がることはしない、って、約束」

「断らない」


 俺はもう、情けない顔をしているに違いない。

 礼ちゃんの両手は、いつの間にか顔からテーブルの上へと位置を変えていて。

 勘違いでなければ、いや、勘違いしそうなんだけど。俺の方へ、伸びている、様な。


 ――触っても、手にとっても。良いんだろうか、俺。


 恐る恐る、というか、おずおず、というか。いずれにしても、全く、これっぽっちも格好良くない。むしろ、野暮? 不粋?

 俺が膝の上からテーブルの上へと、ぎこちなく移動させた両手は、心無し震えている。気づいてる? 礼ちゃん。


 動かしたものの、どうしよう。

 彼氏、なら。躊躇わなくて良いのか。許可も要らないのか。礼ちゃんが嫌がらなければ、触れたい時に触れられる。

 あぁ、でも。そんなやらしい思惑だけじゃないんだけど。


「……男子は、苦手、なの」


 ……ぅああああっ! 俺! 良かった! あっさりシレッと手 触ったりしなくて!


「あ、神威くんは、違うのよ?」

「……うん。へこむところだった」


 ふふ、とバックに花が零れ落ちそう程のキラキラ笑顔から、目を逸らす術なんて知らない。大きな黒い瞳は、俺を捕らえて離さない。や、離れたくはないんだけど。


「……中学の時。よく考えもせずにメアドとか、教えちゃって。女子にすごく人気がある男子でね、彼女がいたのに、別れちゃって」


 ふいに始まった礼ちゃんの過去話に、俺の脳は芯の辺りが痺れて仕方ない。

 中学生の礼ちゃん。可愛かっただろうな、やっぱり。うん、俺はダメ人間だな。


「彼女になって、って。卒業までずっと言われ続けて、怖かった。それに人気者に近づくと痛い目に遭う。嫌がらせされたり、陰口叩かれたり。分かってたのに」


 礼ちゃんの細い指の何本かが、俺の指と小さな接点を作ってくれて。俺はますます痺れて動けない。


「分かってたのに、近づきたくなった。噂じゃない、本物の神威くんに」


 すごい。すっごいこと、言われたよね? 俺! 今! うわぁぁぁ!

 BGMがお子様向け番組のエンディングテーマなのが、ちょっと残念だけど! いや、ゆっくり聴き入ってる訳じゃなくてね?!


「……ガッカリ、して、ない?」

「神威くんのどこに、ガッカリポイントがあるの?」

「ヘタレだし。スマートな所作ひとつ出来ないガキだし」


 そんなこと、と笑みを湛えたまま礼ちゃんの口元が動く。俺の指を見つめているせいか、俯き加減の目元には、長い長い睫毛が揺れている。


「今だって、ムカついてる」


 え、という声と共に、ガバ、と顔をあげた礼ちゃんは、驚きの表情で俺を見た。何故、ムカつかれたのか分からない、とその顔は言っている。


「礼ちゃんに迫った男って、どんなんだろう、とか。怖かったのか、どんなことしやがったんだ? とか。そんな、しょーもない、細かーいことにいちいちムカついてる」

「そっか……ごめんなさい。変な話したね」

「……チュー、とか……した?」

「ええっ?! な、何言っ…、し、してないしてない! 断じて、ない!」

「そっか……、でも手くらい、握って」


 あー、うーん、と言い淀む礼ちゃんの歯切れの悪さが全てを物語っているね。


「……あるんだ、やっぱり。触られたんだ……」

「ああああ、ごめんなさい! なんだかごめんなさい!」

「いやいやいやいや、良いんだ。礼ちゃんは、謝らないで。俺の度量が、あまりに狭い」

「でも、嫌だったでしょう? ごめんね、ごめんなさい」


 あーあ。

 せっかく繋がっていた小さな接点は、ムカついてる発言の後、何かの拍子に外れてしまった。


「……時期尚早、だったのかな」

「え?」

「礼ちゃんの、彼氏になりたい、なんて。自分本位で、突っ走っちゃって。……俺、すごいガキなのに」


 礼ちゃんを起点で物事を考えよう、と。いつだったか寒空の下、俺は武瑠と心へ想いをぶつけたはずだった。思い返せば、あの時はまだ、距離があった。礼ちゃんと、こんなに近くはなかった。

 出来ると思ってた。礼ちゃんを喜ばせたり、役に立ったり、出来たんだから。

 俺にこんな独占欲があるだなんて。礼ちゃんが、他の男に触れられたという想像だけで、胸にドス黒いものが渦巻くなんて。


 ――しかも、口にだすなんて、さ。


 ダメダメだ、俺。

 姉ちゃんがこの場にいたら、物凄い数のダメ出しをされることだろう。


「……ダメ」


 礼ちゃんの呟きは、ごもっとも。


「取り消さないで? 駟も舌に及ばず! 覆水盆に返らず! It is no use crying over spilt milk! 男に二言はない、んでしょう?」

「え…え、はい」


 礼ちゃんの見事な発音に聞き惚れてしまった俺は、ちょっと返事に詰まってしまった。

 ……何を? 何を取り消さない?


「嬉しかったのに、私が変な話 しちゃって。ほらね? 私、どうなるんだろう、ってこういうこと…」

「ちょっ、ちょ、礼ちゃん? 話が見えなくなった」


 礼ちゃんは盛大な溜め息とも、大きな深呼吸ともとれる動作をし、絶え絶えな呼吸を整えようとしている。

 ……ヤバい。俺、また何か地雷踏んだんだな。考えろ、考えろ! やっぱり妙なヤキモチ妬いた辺りから話の流れが……、


「私、嬉しかったのよ、神威くん。彼氏になりたい、って。言ってもらえて」

「……礼ちゃん?」

「私で良いのかな、って。不釣り合いだな、って思う。でも、他の人に譲れる程、私は心が広くない」


 口を開きかけた俺へ、礼ちゃんはまた小さな手を差し出し、待って、の動作を示す。


「私だって、神威くんの、彼女に、」


 なりたい、と口から言葉が零れた途端、礼ちゃんの大きな瞳からもポロポロと涙が落ちた。


「時期尚早とか、突っ走っちゃってとか……、取り消さないで……、涙が、出る…」

「もう出てるよー……、」

「れいちゃん、イタイした?」


 いつの間に傍へやって来ていたのか、小さな眉をハの字にして、心配そうに礼ちゃんを見上げているトモくんの姿。

 俺は慌ててテーブル越しに最大限 腕を伸ばし、礼ちゃんの頬に跡を残す涙を、両の親指で拭き取る。リーチ、長くて助かった。


「ごめんね、俺が泣かせたの」

「カムイー、れいちゃんに ごめんなさい しなくっちゃ」

「そうだよねぇ。ごめんなさい、礼ちゃん」

「……や、私こそ」


 いろいろ口走っちゃって、と鼻を啜りながら傍らのティッシュへ手を伸ばす礼ちゃん。


「……格好悪くて。ヘタレで不器用で、礼ちゃん、泣かせてばっかりで。ヤキモチ妬きのガキで。ごめんね」


 礼ちゃんはティッシュを鼻へ当てがったまま、ブンブンと首を振る。俺は中腰の姿勢から椅子へ座り直すと、出来る限り眼に力を込めて礼ちゃんを見つめた。


「男子力、向上中なので。……ぜひ、青田買い、して下さい。将来、化けます」


 ぶふ、と吹き出した礼ちゃんは、啜り上げた鼻をティッシュで押さえながら、どんな風に? と訊いてくる。


「……自慢の、彼氏。ゆくゆくは……、配偶者」

「?!」


 俺は至って本気なんだけど、呆気にとられている礼ちゃんへ、どれくらい伝わったかな。いや、もしかしたらドン引きされてるのかも。

 なかなおり した? と無邪気に訊ねてくるトモくんへ、俺は笑顔で したよ、と応えた。

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