恋するチカラ

 始業式が終わり、さて帰ろうか、と三人そろって教室を出ようとしていたところ、葛西先生が顔を出した。


「神威、ちょっと」

「何、ですか?」


 良いから、ちょっと。

 口調は穏やかなのに、有無を言わせぬ強さが感じられた。

 珍しい。この人、いつも飄々としてるのに。若干 肩で息をしている姿を見ると、走ってきたようだ。


「あ、吉居と弓削もね」


 振り向き様にそうつけ足すと、階段を勢い良く降り、俺の車のとこで待ってて、と言い残して職員室へ消えていった。


「葛西の車って?」

「あれ、あのハイブリッドカー」


 情報通の武瑠は、本当に何でも知っている。

 何故、ここにこうして待ってるのか、理由まで知ってるんじゃなかろうか、と思うほど。


「んー、何かイヤな予感」


 武瑠が突然、ポツリと言う。俺の心の声でも聞こえた? 心と顔を見合わせていると、葛西先生が現れた。


「神威、御子柴の弟、知ってる?」

「え、あ、はい……知ってます。トモくんでしょう?」

「保育園まで迎えに行くから。一緒に来て」

「礼ちゃ……み、御子柴さんは?」


 何か。何事か、あったんだ。礼ちゃんがトモくんを迎えに行けない何か。

 乗って、と車内を指され、慌てて乗り込む。先生、質問の答えを、と強い視線を助手席から送った。


「御子柴、階段から落ちて。病院で検査中」

「……え……、」


 息を呑んだ。言葉が出ない。なんで?!  先生! と後部座席から、武瑠の声。

 原因は調査中だけど、と前置きをして、先生はかいつまんで話してくれた。

 屋上へ続く3階の階段下、礼ちゃんを見つけたのは数名の1年生。額から血を流して蹲っていた礼ちゃんは、恐らく階段から転落したのだと考えられた。見上げた先の踊り場には三人の女子。


「1年生が保健室へ走ってくれて、安西先生が職員室へ応援 呼びに来て。まぁ、適材は俺しかいなかったんだけど。ひとまず、病院へ行こうか、と」


 意識はハッキリしてたから大丈夫だと思うよ、という言葉を聞くまでに、俺の顔は血の気が引き、冷たくなっていた。


「……神威? 息して」

「……してる。……してます」

「ちゃんと話してたし。妹尾もついてったし、大丈夫」


 ただね、保育園が……と葛西先生は苦笑する。


「御子柴の代理です、って連絡しても、見ず知らずの方にお任せ出来ません、とか言われてさ。御子柴の母親には連絡つかないし。したら、弟くんが “カムイにおむかえ来てほしい” と仰ったそうで」

「……ご指名?」

「そう。愛されてるね」


 呼び捨てだけどね、とユルユル笑う先生。

 その暢気な横顔をちらりと見て、あぁ本当に、礼ちゃんの命に別状は無いんだな、と実感できた。


 ***


「カムイー!」


 黒目が大きな瞳をクリクリさせて、小さな両手をブンブン振って、トモくんは俺の姿を見つけるなり、園庭から俺の名前を大きな声で呼んでくれた。


「カムイくん、ですか?」


 そう言いながら近づいて来たのは、保育士さんだろう。はい、と答えると、頭を下げ神妙な面持ちで口を開く。トモくんの担任の先生なのかな。


「すみませんね、物騒な事件が多いので、お迎えの方への対応も園としては慎重にならざるを得なくて」


 お母さんへ連絡がとれませんし、と俺の背後で成り行きを見守っている葛西先生へ、ペコリと頭を下げながら申し訳なさそうに説明される。


「それで、お姉ちゃんの具合はどうなんですか?」

「あ、まだ病院で検査中らしくて。自分がトモくんを連れて帰っても良いですか?」

「はい。園長からも特別に許可もらってますし。お姉ちゃんからも智くんからも、よくお聞きしてます、カムイくんの話」


 え、と瞬時 止まった俺の元へ、通園バッグを背負ったトモくんがニコニコ顔で駆け寄ってきた。俺はトモくんと目線の高さを合わせ、片手を繋ぎながら保育士さんへ訊ねる、あくまで自然に聞こえるように。


「えーっと。……どんな話を」

「あ、ダンボール電車の話とか。写真もお姉ちゃんから見せてもらいましたけど、凄くお上手でビックリしました! 智くんもカムイくんを慕ってるみたいですね」

「あー、慕われて、ますかね」


 カムイー、はやくかえろ! と繋いだ手をブンブン振りながらトモくんが言う。俺は保育士さんへ、失礼します、とお辞儀をしながら考えた。


『智くんもカムイくんを慕ってる』


 ……智くん、も。智くん、は、じゃなくて。

 保育士さんの言葉尻を取るのは本意じゃないけど、何気なく使われた助詞に深意を見出だしたかった。


 武瑠が助手席へ移動し、俺はトモくんを抱え、後部座席へ乗り込んだ。さっきまで無かったチャイルドシートが設置されている。先生に目顔だけで尋ねると、姪っ子ちゃんの、と軽やかに返ってきた。


「先生、トモくん、病院へ連れて行って大丈夫だと思う? ショック受けたりしないかな?」


 んー、大丈夫だと思うよ。

 葛西先生は、特に言い渋る様子も無く答える。


「おデコ切れてたけどね、ちゃんと歩いてたし受け答えできてたし。安西先生も、念のため、って言ってた」

「そう、ですか……」


 礼ちゃんの姿を自分の目で確認するまでは、本当に安心できないけど、このもどかしい移動時間を埋めるために、俺は何かを話していたかった。


「神威」


 不意に心が隣から、穏やかな低い声で俺を呼ぶ。何か、真剣な話、だな。


「病院へ着いたら、御子柴とちゃんと話をした方が良い」

「……何故?」

「ごめん、神威。オレ、黙ってたんだけど。神威とミコちゃんのこと、もうかなり噂になってる」

「え?」


 ついさっき、心と葛西先生へも共有したであろうその話を、武瑠は面倒がらず、もう一度 丁寧になぞった。

 八幡さまへの初詣、二人並んで歩く姿は礼ちゃんのクラスの女子に目撃されていた。終業式の日、俺のクラスを訪ねてきた件も加え、噂には数々のヒレが付き、野田が武瑠へ送ってきた遅い “あけおめメール” では、もう既に一線を越えた仲になっていたんだとか。


「……何だよ、それ」


 俺は憮然とした。

 そしてその噂が礼ちゃんのケガとどう繋がるのか、点と線がボンヤリ見えたから。

 小学6年…いや、5年の時だったか。泣かせた、あの女子の顔が浮かんだ。


「……階段の踊り場に居た三人組は、和泉と遠野と西條」


 あぁ、そんな名前だった。俺の表情は相当 強張っている。

 トモくんと繋ぎっぱなしだった手に指に力が入ってしまったのか、カムイ? と不思議そうに見つめられる。その瞳の澄んだ白と綺麗な黒に濁りが無く、俺はくしゃくしゃの顔で、ごめん、としか言えなかった。



 俺は携帯電話の通話を切って、市立病院のエントランスを駆ける。外来診療はとうに終わり、人影も疎らなロビーに礼ちゃんは座っていた。顔を伏せ、サラサラと流れ落ちる髪の毛の隙間から携帯電話が見える。誰かと通話中なんだ。

 声をかけるのを躊躇っていると、俺の手をスルリと抜け、れいちゃーん、とトモくんが駆け寄って行く。


 俺の視界を遮るように、妹尾さんが立ち塞がった。

 このピリピリと総毛立つ感じ。……怒ってる? でも、泣き出しそうな表情。大きな大きな溜め息をひとつ。


「……山田へ怒りをぶつけるのは、理不尽」

「……いや、良いよ。甘んじて、受ける」

「……アンタがもっとダメ人間なら。止めとけ、って言えるのに」


 静かなロビーに妹尾さんの独り言が低く響き渡る。エコーがかかった様に、幾重にも俺の耳の内へ染み込んでいく様だ。

 止めとけ、って。俺に近づくな、ってことなんだろう。

 ごめん、としか言えない。さっきから、これしか言えてない。


「……いや、私もうっかりしてた。噂になってる、って吉居から聞いて知ってたのに礼を一人にした」


 万葉、と妹尾さんの背後に声がして、俺はやっと正面から礼ちゃんを見つめられた。額に少し大きめに当てられたガーゼは、医療用テープでぞんざいに止められているけど、その白さがやけに目立って痛々しい。唇の左端がほんの少し、赤く滲み、頬はいつもの白さではなく、赤黒く腫れていた。


 れいちゃん、イタイしたんだって。

 眉をひそめるトモくんを見下ろす視線は、優しく温かかった。


「神威くん、智が無理言ってごめんなさい。お迎え、ありがとうございました」


 礼ちゃんは、妹尾さんへも俺へも、優しい視線を綺麗に置いていく。目を逸らすことなく言いたかった。


「……礼ちゃん、……ごめんね」

「神威くんは悪くない。謝らないで?」

「いや、でも、」

「お願い。謝らないで」


 切れた唇が痛むのか、こんな目にあった心が痛むのか。礼ちゃんはぎこちなく笑うと、キッパリ言い切った。


「御子柴、お母さんと連絡とれた?」


 葛西先生の言葉に、礼ちゃんは俺から視線を逸らす。はい、と応じると、ご迷惑おかけしました、と深くお辞儀をする。


「迷惑じゃないよ、心配、ね」


 そんな気の利くセリフをサラリと口に出せる葛西先生が何となく怨めしい。じゃあ帰ろうか、と安堵の色濃い声をかけられる。

 小さなお子さんがいらっしゃる安西先生は先に帰宅したとのことで、葛西先生は俺と礼ちゃんを指し、居残り組、とにこやかに言った。


「30分、で戻るから」


 れいちゃんとカムイは? と気になる様子のトモくんを心が肩車し、神威の家で待とうな、と柔らかに諭して玄関へ向かう。万葉ちゃんも、と後ろ髪を引かれている妹尾さんの背中を、武瑠がポンポンと叩いて促す。


「え……え? 神威くんのお家?」

「うん。リーとガクも呼んでるから」


 でも、とトモくんの方へ歩を進めた礼ちゃんが、グラリと揺れる。

 左足元の白は、靴下じゃない。包帯の、白。

 俺は咄嗟に傾いた礼ちゃんの身体を支えた。華奢な左肩と左肘が、俺の腕の中に簡単に収まって、その小ささにビックリした。


「……その足で」

「え?」

「その足で、ご飯作ったり、トモくんをお風呂入れたり、するの? お母さん、帰って来る?」


 礼ちゃんは視線を俯けたまま、またぎこちなく苦笑すると、ゆっくり首を左右に振る。でも、大丈夫だから、と力なく言葉を紡ぐ。


「何とかなるわ。甘えられない」

「……相手が、俺、だから?」

「違う!」


 ひどく強く、否定された。俺を見上げる礼ちゃんの眉間にはちょっとだけ皺が寄っていて、唇が小刻みに震えている。何を、言いたいの? 礼ちゃん。

 こんなに哀しい顔、させたくないのに。自分の不甲斐なさを塗り替えられる未来装置を、四次元ポケットから今、出したい。


「……今日は、甘えて、ください。じゃないと…、」

「……じゃないと、何?」

「ここで土下座して、謝りたおす。俺のせいで、ケガさせて、ごめんなさい、って。何回も何回も」

「神威くんのせいじゃないってば」


 礼ちゃんは、そう言うと困った様に両手で顔を覆い、うーん、と唸った。そんな仕草も、いちいち可愛い。


「はぁ。困ったな」

「……うん」


 本当に、困った。ギュウギュウに抱きしめてしまいたくなる。こんな時に、不謹慎極まりない、弱ってんのに礼ちゃん。

 俺は一旦 気を逸らしたくて、座ろうか、とロビーのソファーを指した。


「あの、神威くん……、あんまり近くに、来ないでね」


 ソファーに座りながら、礼ちゃんから繰り出された衝撃発言。


「え」

「……あっ、あ! 別に深い意味はなくてね! 湿布だらけなので! 匂いがね!」


 俺はホッとして、声も出せずにソファーへずるずると身を滑らせた。


「……神威くん?」

「………もー、良かった、本当に」

「え?」

「……俺には近づきたくない、ってことかと」


 礼ちゃんの瞳は大きく見開かれ、思いもよらぬ言葉を聞いたとでも言いたげに、口を、は、の形をした。と思ったら、ふふ、と肩を竦めて笑う。


「意外と、ネガティブ思考なんですね?」

「意外と、って、何ですか……、俺はてっきり、」

「階段から落ちただけ、よ? 私が勝手に。誰も悪くないわ」


 俺はマジマジと礼ちゃんの横顔を見つめた。この人は。誰も悪くない、なんて。


「……どの口が、そんな嘘つくの? 目撃した子が、」


 嘘じゃないよ、と俺の言葉を遮る礼ちゃん。顔は依然として真正面、あらぬ方を向いたまま。


「……目、見て、言って」

「嘘じゃないよ」


 ゆっくりと俺の視線は捕らえられる。

 痛々しい口の端を、それでも綺麗に持ち上げて微笑む礼ちゃんから、目を逸らせない。


「……こんな綺麗に嘘つく人、初めて見た」

「お褒めに与り、光栄ですわ」


 どこのマダムだよ。

 そう言って礼ちゃんの右肩を小突く。途端に、痛っ、と鋭い声。


「あっ! ごめ…」

「嘘」

「……礼ちゃん……!」


 アハハ、と。綺麗な瞳は細くなり、声を出して笑う礼ちゃん。

 あぁ、もう。どんどん好きになって俺はどうしたら良いんだろう。礼ちゃんを、もう二度とこんな目に遭わせないためには。


「……大丈夫だから、ね?」


 俺の思考を見透かす様に、礼ちゃんは笑みを浮かべたまま、顔を覗きこんできた。


「……何が大丈夫? 本当のことが分からないのに、納得出来る訳ないでしょ?」


 あら、意外と頑固オヤジ、なんて笑いを含んだ声が心地好く耳に届く。


「頑固オヤジって、何ですか…」

「私が、勝手に、階段から落ちました。これが、本当のこと。以上」


 礼ちゃんは裁判で宣誓でもする様に片手を胸の前に挙げ、優しく俺を見遣る。ちょっとだけ悪戯っ子の色が混じってると思えるんだよな。


「あのね、礼ちゃん。……和泉と遠野と西條がいた、って。それが何を意味するか、俺は分かってると思うよ。……前にも、似た様なことあったし」


 そう、と下がったトーンで礼ちゃんは頷いた。そのテンションの落差が、礼ちゃんに無理をさせているようで悲しくなる。


「……ごめんなさい。嫌なこと思い出させて」

「………」

「神威くん?」

「……もー、俺、“伝わる会話講座” とかに通います」

「……ちょっと、意味が」

「礼ちゃんに謝らせたい訳じゃないし、無理させたくもないのに。思ってること伝えられない」


 これじゃ子どもの逆ギレだ。

 深く再考することなく、半ば独り言のように口から流れ出た言葉は、静かなロビーに吸い込まれていく。

 怒ってるの? と礼ちゃんの声が小さく聞こえた。

 視界の隅に、それまで見えてなかった礼ちゃんの両膝が入ってきたから、俺の方へ向き直ったらしい。

 俺はコクリと頷く。慌てて、不甲斐ない自分にね、とつけ加えた。


「不甲斐なくないでしょう? どうして?」

「……噂のこと、知らなかった。でも、俺と噂になった女子が、あの三人から何をされてどんな目に遭うか。それは、過去の事実から、知ってた」


 俺は礼ちゃんと目を合わせられないまま、病院の冷たい壁に向かって話し続けた。

 ポンポン、と左膝へ小さな振動。


「ちゃんと、気配りとか、目配りとか。出来てたらさ……礼ちゃん、ケガしなかったと思うんだ。女の子なのに……おデコ……、」


 神威くん、と。

 好きな子から名前を呼ばれる。それはとっても、幸せな瞬間。


「神威くんは、私のこんな姿を見て、こう思ってるのね? 私が、叩かれたり、突き落とされたりしたんじゃないか、って」


 そうでしょ、と想いをこめて礼ちゃんを見つめる。少なくとも、中学3年の時はそうだった。ただ、一緒に保健委員をしただけの子だったのに、本当に気の毒だった。


「違うわよ」


 そう言って、礼ちゃんは、ふふ、と笑う……俺、その笑い方、好きかも。


「階段から落ちた、というのは、本当に私だけが悪いの。勝手にバランス崩して、足を踏み外したのね。この口の端は……まぁ、叩かれた時に切れたのかな、と思うけど。やり返しましたから、私」


 誇らしげに言った礼ちゃんはすぐ、自慢することじゃないよね、と苦く笑って続けた。そうして、俺を窺い見て問いかける。


「意外? それとも、なるほど?」

「……やっぱり」

「やっぱり?」

「優しい。気を遣わせないように、気を遣ってる」


 ちょっとの間、沈黙だった礼ちゃんは、大きく溜め息を吐いた。頬がほんのり紅くなって、小鼻のあたりをポリポリと掻いている。


「何でしょうね、その高評価」


 好きだからに決まってるでしょ、と言いたかった。

 心配でたまらなかったのも。守ってあげたかったのも。何とかしてあげたいのも。

 好きだから。それに尽きる。


 ――でもそれって、今 言うこと?


 スキルが高いヤツなら、こんな場面でスマートに決めちゃうのかもしれないな。でも俺の口からは、不器用に回りくどく想いをじんわり届けるのがやっと。


「だって、礼ちゃん、嘘つきだから。俺の良いように解釈する」

「嘘つ……えっと、信じてない? 私、殴る蹴るの暴行をですね、」

「うん。理由は分からないけど、あの三人に呼び出されて、やっつけたんだよね? で、階段から、勝手に落ちた。俺のせいじゃない。俺は気にしなくて良い、……ん、だよね?」

「う、ん。……そう、です」


 真実がまったくそうじゃないことは分かってるつもりだよ、礼ちゃん。

 俺は、念が通じれば良いと思いながら、必死で照れを隠して礼ちゃんを見つめた。

 でも、礼ちゃんはそういうことにおさめたいんだよね?

 だから、頼む。俺の今からの質問に、イエスで答えて。


「じゃあ、今まで通り、……仲良くしてくれる、よね?」


 あー、もう! これが、こんな感じが限界! 今の俺の精一杯!

 礼ちゃん、その大きく見開いた瞳の意味は何ですか?

“私をこんな目に遭わせた元凶が何 言ってるの?”  とか?

“ネガティブ思考かと思ってたら意外と能天気だな、コイツ” とか? 或いは……、


「良かった。ちゃんと伝わってるわ、神威くん」

「……え、な」

「今まで通り、仲良くして下さい」


 あー、良かった、と両手で顔を覆った礼ちゃんの表情はよく見えなかったけど。

 まぁ、いいか。だって、俺の顔を見られなくて済んだから。相当、デレデレで気持ち悪かったはずだから。


「ごめんね、邪魔して」

「うわああっ!!」


 ソファーの背後から、突然、葛西先生が現れた。いや、たった今 現れたというか、そこにいた感じ。まったく、気づかなかった……!


「いつから?」

「ん? 何が?」

「いつから、いたんすか、そこ」


 んーいつだったかな、と考える素振りはどこか楽しげで、いや、からかわれている感が強いか。


「御子柴の “仲良くして下さい” は聞こえた」


 あぁ、それじゃあ最後の方だな、などと考えていたら、先生は礼ちゃんへ視線を定め、良いの? 御子柴、と問い質す。


「神威と仲良くする、ってことはイコール、それなりのリスクを背負い込むってことだよ?」

「先生……」


 リスク。

 その不穏な響きを持つ単語を耳にすれば、俺の顔は瞬時に歪む。

 分かってる。俺だって考えてる。礼ちゃんをきちんと守る術。


「先生、私、やれば出来る子なので大丈夫です」


 俺と礼ちゃんはソファーに並んで座り、向かい合う格好で、背後の葛西先生へ顔だけ向けている。

 歪んで情けない俺の表情から深意を汲み取ったのか、ポンポン、とまた礼ちゃんの小さな手から俺の左膝へ伝わる小さな振動。飄々と、何でもないことの様にサラリと言い切ると、それに、とつけ足した。


「リターンの方が大きいですよ」

「ふーん。御子柴、ギャンブラーだね」


 ま、分かってるなら良いけど、とにこやかに続けた先生は、一旦 立ち上がり礼ちゃんの傍へしゃがみ直すと、ん、と大きく広い背中を向けた。


「「……え」」

「先生?」

「何を……」

「何って、おんぶ。御子柴、その足じゃ歩くのキツいでしょ」


 ……あー、なるほど。葛西先生って、スペックが高い人だとは思ってたけど、こうもスマートに繰り出せるんだ。

 ……いや、いやいやいや! 俺も! いや、俺が! してあげたいとこだ、そこは!


「大丈夫です、ご迷惑でなければゆっくり歩いて」

「まーまー、さっきもしたんだし。遠慮しなさんな、って」

「……さっき?」


 あ、変なとこで食らいついた、と思ったけれど、口に出さずにはいられなかった。

 さっき? おんぶ、したの? されちゃったの?


「あー……学校でね、ちょっと、足がしびれてて。でももう、大丈夫ですから」


 手を小さく振りながら、申し訳なさそうに断る礼ちゃん。

 そ? と葛西先生は深追いせずに立ち上がる。

 その様子を見ている俺の顔は、また不細工に歪んでいると思う。原因は、分かってる。これは、あれだ。醜い、嫉妬。ヤキモチだ。葛西先生が礼ちゃんに触れた……しかも、おんぶ、って。非日常的なシチュエーションで。


「じゃあ、神威」


 行こうか、だったと思う。先生がその先に続けようとした言葉は。

 でも俺は、着ていたジャケットを脱ぐと、礼ちゃんのスカートに重ね、礼ちゃんの背中と膝の下へ、腕を回した。

 いわゆる、アレ。“お姫様抱っこ” ね。

 ヤキモチからの対抗心は、本当にみっともないと分かってはいたんだけど何か、動かずにはいられなかったんだ。


「わっ、ちょっ? か、神威くん!」


 礼ちゃんは想像だにしなかった俺の行動に戸惑って、俺のジャケットを掴んだままアタフタしている。いや、『カムイもとまどっている!』って某ゲームみたく脳内テロップ流れてるよ、俺だって。


「……かけてないと、パンツ見えるよ」

「えっ? パッ……」


 礼ちゃんはガーゼ部分以外、顔中 真っ赤に染めて、ピタリと動きを止めた。と、思う。いや、本当のところ顔中かどうか分からない。まともに見られないって。顔なんて。


「わー、良いねぇ。愛と青春の旅立ち、っぽい」


 ……何というか。ヤキモチ妬かされた人に救われるってのも癪だけど、葛西先生の茶化す声に、うるさいです先生黙ってて、と応える。ニヤニヤしながら先生は、こっち、と車が停めてあるであろう先を指し、歩き始めた。


「……か、神威くん……、」

「はい。何?」

「……重いでしょう?」

「チビッ子がなに言ってるの? ご飯、ちゃんと食べてる?」


 食べてます、とちょっとムッとした声で礼ちゃんが答える。息を浅く吐きながら。


「あのー、礼ちゃん」


 ん? と弾かれた様に動いた礼ちゃんと視線がバッチリ重なった。俺の顔、ひきつってなきゃ良いけど。


「恥ずかしいのは、俺もヤマヤマなんですが」

「……はい。スミマセン」

「いや、謝らないでよ。……えーっと、もうちょい力を抜いてくれた方が」


 前を歩く葛西先生の両肩が、ブクククク、という押し殺した笑い声と共に小刻みに震えている。もーホント、うるさいです、先生。


「あ、ごめっ…な、馴れてないからっ……えと、」


 俺だって馴れてません、と言いかけてからハタと思い直す。中途半端に途絶えた言葉の続きを待つように、礼ちゃんは俺を見つめてくる。まだ身体はしゃちこばったままなんだけどね。


「母ちゃんなら、何度かしたことあるんだよ。色気の無い話ですけど」

「……お母さん?」

「そう。あの人、ああ見えて、めっちゃ身体 弱いんだよ。父ちゃんは腰 悪いし」


 ガチガチだった礼ちゃんが、ふっと微笑みを見せた。ほんのちょっと抜けた力。

 自慢の息子なんだろうね、神威くん。

 そんな何気ない褒め言葉が、とんでもなく嬉しかったりするんですけど。


「何も出ないよ?」

「……アメちゃんくらい、」

「大阪のおばちゃんか、って」


 また葛西先生のブクククク、という奇妙な笑い声。今度は丸めた背中まで震えている。ホント、先生。うるさいですよ……。

 そんなやりとりの間に葛西先生の車へ到着、礼ちゃんをゆっくり降ろした。

 ありがとう、の言葉にじんわり嬉しさが込み上げる。

 うん、やっぱり母ちゃんから言われるのとは違うな。などとホクホクしていたら、そのまま俺も後部座席へ押し入れられた。チャイルドシートは取り外されており、少し前より広い空間へ、ぎゅうっ、と。


「神威、ニヤニヤして気持ち悪い」

「きも……傷つきます、先生」


 礼ちゃんはそんな会話を聞いて、ふふ、と笑っている。カチリ、とシートベルトを填める音がして、葛西先生はゆっくり車を走らせ始めた


 薄暮、って言うんだっけ。夜がやってくるよ、と知らせてくれる赤と黒と白の不揃いな層。ちょっと物悲しくなるのは、窓外に流れ去る無機質な壁が、病院だと改めて認識したから。


 礼ちゃんを、ケガさせた。

 俺のせいじゃない、と、誰も悪くない、と、今まで通り仲良くして、と。

 それでもそう言ってくれた礼ちゃんを想うと、嬉しいような、照れ臭いような、申し訳ないような、歯痒いような、どうしたら良いのか分からない気持ちになる。


 車は工事中の道に差し掛かり、ガタン、と車体が揺れた。砂利を弾く音と共に、ごめん、と先生の声が聞こえる。なるほど、スペック高い男は、こんな時 謝るんだな、さりげなく。

 俺、まだ運転すら出来ないな、と。意味も無く、へこんだ。葛西先生と自分を比べたって仕方無いのに。


 ――あ、れ?


 車体が揺れた拍子に、シートに着いた掌。右手、人差し指と中指の間に、小さく冷たい指の感触があった。

 ただ、じっと。しばらくの間、ただ、じっと。

 俺と礼ちゃんの小さな小さな接点を見つめていた。冷たい。だけど触れてる肌の内側は、やみくもに熱い。

 どうかしてる。さっき、お姫様抱っこしたんだぞ。身体の面で接したのに今、それ以上に恥ずかしいなんて。

 ギュッと瞼を閉じ、開ける瞬間、礼ちゃんの顔があるであろう位置を見定めた。と、俺の視線は、即座に絡め捕られる。小さな顔に比率間違いじゃないかと思うほど、大きく黒目がちな二重の瞳。ただそれは、すぐ解き放たれた。


「……綺麗ね。神威くんの指」


 礼ちゃんは目線を落とし、接点をユルリと離すと、自分の掌を隠す様に背中とシートの間へ移動させた。


「……私、カサカサなので。荒れてるし、見せられない」


 ガラス窓へ顔を向けた礼ちゃんの表情を、外界の暗がりがボンヤリと浮かび上がらせる。

 泣き出しそうな。いや、何かを諦めている様な。こんな顔も、させたくないな。礼ちゃんは、ふふ、とか、アハハ、とか、笑ってる姿が一番 可愛いのに。


「……礼ちゃんの、ケチ」

「……どうして?」

「それはこっちの質問。どうして、見せられないの?」


 礼ちゃんは、ん? と眉根を寄せる。さっき言ったよ? とでも言いたげだ。


「神威くんみたく、綺麗じゃないからよ。……嫌になるから」

「……見せて?」

「……い・や・で・す」

「見せて」

「い――」


 や、と拒絶の言葉が完成する前に、俺は礼ちゃんの左手を背中とシートの間から引っ張り出した。

 ちょっと引かれてる。分かってる。礼ちゃん、ビックリしてるもん。

 俺だって、自分にビックリしてる。でも、どうしても、伝えたいんだ。


「……礼ちゃん、分かってない」

「な、何――」

「礼ちゃんの手は、綺麗。働き者の、良い子、の手だよ」

「か、神威くん……」

「れ、礼ちゃん、あの――」

「ハイ、到着ー」


 ………ああああっ!! いや、そうだ! ここ、葛西先生の車の中だった! すーっかり、俺と礼ちゃんだけの世界に……!


「ごめんね、また邪魔して」


 でも俺だけじゃないよ、とまたニヤニヤ顔で窓の外を指す先生。ズラリとお出迎えしてくれた、姉ちゃんに心に武瑠に妹尾さんに母ちゃん。ピョンピョン飛び跳ねている小さな頭が3つ。

 皆様の視線の先は、俺の手元。

 いつの間にか窓ガラスが全開になっていた後部座席のそこからは、きっと車内が良く見えている。


「わあああっ?!」

「わっ!!」


 慌てて離した手のやり場が無い! それはたぶん、礼ちゃんも同じ。左手だけ、また宣誓している様に胸の前に掲げて止まっている。俺の顔は見えなくても分かる。目の前の礼ちゃん以上に、真っ赤っかだ……。


「……神威も御子柴も、動いて?」


 笑いを含んだ声で葛西先生が促す。


「御子柴、神威は素敵なこと言うよね」

「先生……」

「でも、本当のことだよ。胸に響くでしょ?」


 コクコクと頷く礼ちゃん。


「……何だか先生がオイシイとこを全部持ってった気が」

「気のせい気のせい」


 ハイ、おぶわれてー、と軽い口調でまとめられ、ちょっと納得いかないまま、俺は礼ちゃんへ背中を向ける。

 ごめんね、と小さい声。皆様の視線が、とっっても痛い。外気に当たる部分がどこもかしこも熱いし。おかえりー、の大合唱に、ただいま、とぶっきらぼうに答えるのがやっとだった。


「告白でも、した?」


 礼ちゃんをリビングで降ろすや、鼻息荒く放たれた姉ちゃんの囁きは、会心の一撃。俺にザックリと斬りかかる。カムイにもう、HPは残ってないな。


「……まだ、です」


 あいやー、と奇妙な感嘆。誰のマネ? それ。

 武瑠と姉ちゃんを通じて連絡を受け、早退してきた母ちゃんの歓迎攻撃を横目に見ながら嘆息する。


「ミコちゃん、お茶が良い? 紅茶? コーヒー? ジュース? あ、ジュースならね、リンゴにオレンジに、あ、牛乳もあるわよー」


 ……いや、母ちゃん。牛乳はジュースと同じくくりだと可笑しいだろ? 選択肢が多くなる程、人間 迷っちゃうんだぞ。

 遠慮からか、戸惑いからか。ぎこちなく張りついたままの礼ちゃんの頬は、すり寄ってきたトモくんの言葉で一気に緩くなった。


「カムイのおばちゃんとホットケーキ つくったよ!」

「……ホットケーキ?」

「そう! しろくまちゃんみたいにね、たまごポトン、ってしたの!」


 ねー! と顔を見合わせて満足げにニコニコ笑っている二人。何だろう、見ているこっちが微笑ましい。


「れいちゃんのも、あるのよ! どうぞ、めしあがれ!」


 トモくんの小さな手によって、ゆっくり運ばれてきたプレートには、ふんわりと柔らかそうな、まあるい膨らみがのっていた。絵に描いた様なザ・ホットケーキ。

 紅茶をお願いします、と丁寧な口調でオーダーされた母ちゃんは、承知しました、とどこかの家政婦みたいに応えていた。本当にどれだけテレビ好きなの。


 夜ご飯も食べていってね、母ちゃんはそう言いながら紅茶のカップを礼ちゃんの前へ置き、向かい側の椅子に座りながら言う。隣の椅子にはトモくん。フォークでホットケーキの一片を口に運ぶ礼ちゃんを、何だかとても心配そうに見守っている。


「……れいちゃん、おいし?」

「うん。とっっても美味しいよ。智、ありがとうね」


 よかったぁ、と言うトモくんのあどけない声を、良かったねぇ、と母ちゃんの穏やかな声が追いかけた。


「これで、れいちゃんのイタイ、よくなるね!」

「そうだねぇ。智くんが一生懸命 作ったもんねぇ」


 根拠なんて、どこにも無い。ホットケーキは、特効薬じゃない。子どもの純粋無垢な心に、そう信じさせ、仕向けた母ちゃんを、俺は間違ってると思わない。

 トモくんはトモくんなりに、礼ちゃんが心配で、何かをしてあげたかった。ただ、それだけ。ほら、現に、ちっちゃな騎士の顔は、充足感でキラキラしている。よかったなー、とリーとガクの絶妙な二重奏が更に嬉しさを増幅させているみたい。


 ありがとう、ともう一度繰り返す礼ちゃんの瞳は、ちょっと離れたここからでも分かるくらいウルウル。でも、礼ちゃん、泣いちゃ駄目だよ。トモくんが、また心配するからね。

 勿論、言わずもがな分かってるんだろうな、礼ちゃんなら。半ベソの笑顔も可愛いってば。

 俺が好きな女の子は、優しい気遣いが出来る人。だから皆、何かをお返ししてあげたくなるんだ。それぞれの、やり方で。

 俺だけじゃなく、その光景を見ていた皆が、ほっこりと優しい気持ちに包まれていた。



 我が家に礼ちゃんがやって来ると、本当に俺は礼ちゃんと話す機会が無い。母ちゃんと姉ちゃんが、二人占めしてるしさ、妹尾さんもピタと寄り添ってるし。夕飯はやっぱり、男だらけのテーブルについてるし、俺。

 ……良いんだけどね? 今日、誰よりも密着したのは俺だしね?

 などと考える自分の疚しさに、顔が紅くなりそう。青少年だからね。

 俺は茶碗一杯に盛られたご飯と所狭しと並べられた料理へ、箸を伸ばす。


 人に作ってもらったお料理は、本当に美味しくて嬉しい、と礼ちゃんが話している。分かるわぁ、と大きく頷いている母ちゃん。

 そうだよな、ほぼ毎日、礼ちゃんは家事をしてるんだよな。たまにはお休みしたい時があるよね。


 俺、家事を手伝える男になろうっと。山田家はわりと分業制ではあるけれど、それでも俺は家庭的な男子では、ない。葛西先生なら、軽々と出来そうじゃね? 独り暮らしらしいし。いや、比べても本当にへこむだけなんだけど。

 明日も、礼ちゃん家に何か届けて(もちろん、母ちゃん様に作っていただいて)、出来ることを手伝おう。と言ってもねー。


「よーし! じゃあ、チビッ子達、お風呂へレッツゴー!」


 ……まぁ、これくらいなもんだ。


 カムイ、絵 描くの上手だよ! とトモくんへ説明しているリーとガク。お風呂の鏡へ描かされすぎて、いつも逆上せる寸前なんだよね。

 おふろ はいる! と双子の後を追うトモくんの背中へ、いつもあんなに嫌がるのに、と礼ちゃんの不思議そうな声が吸い込まれた。


 リーとガクとは、もう何度となく裸のつき合いをした仲だ。トモくんへ対しお兄ちゃん風を吹かせているせいか、身体を拭いたり、お着替えしたり、と自分で完了出来ることが増えていて、成長を実感する父親の様な気分で眺めてしまった。

 ……俺、まだ17歳だった。心のこと、じじむさいとか言えないな。

 すっかり逆上せそうになるほどの長風呂を終え、苦笑混じりにチビッ子三人と居間へ戻る。


「れいちゃーん! おふろはいったー!」


 ホカホカと湯気が見えそうなピカピカの身体で、礼ちゃんへ体当たりしているトモくん。偉かったね、とトモくんを抱きかかえると、俺に視線を合わせ、礼ちゃんは綺麗な瞳を細めて笑う。


「ごめんね、神威くん。ゆっくり入れなかったでしょう?」


 俺はタオルで濡れた髪をガシガシ拭きながら、フルフルと否定する。


「あのね、礼ちゃん、謝りすぎ」

「……え、あ。ごめ―」

「ほら、また」

「………えーっと」

「……ありがとう、が良い。俺、別に嫌だった訳じゃないし。トモくんと お風呂」


 礼ちゃんは俺の言葉を自身へゆっくり浸透させるかのように、暫くじっと視線を合わせたままだった。


 ――吸い込まれそ。


 大きな瞳がフルリと瞬いて、口を開きかけた礼ちゃんの手を、トモくんがポンポンと叩く。


「れいちゃん、カムイのとトモくんのと、ちがってた!」

「……え? 何が?」

「あのね、おちん――」

「ハイ、放送禁止ー!」


 慌ててトモくんの口を塞ぐ。

 ……ホント、ちっちゃい子って! ちゃんと隠してたのにいやー、恐ろしい! 興味があるのは分かるけどね? TPOを考えようね?

 礼ちゃんは、と見ると、小さな背中を俺の方へ向けたまま、プルプルと震わせながら笑っている。


「……ふっ、あ、ありがとう、神威、くんっ…」

「……どういたしまして」


 あ、ダメだ、お腹痛い、と言いながら、礼ちゃんは結局、声を出して笑い始めた。

 トモくーん、アイスあるよー、とキッチンから母ちゃんの声が響く。やったぁ! と駆けていくトモくん。いや、ホント、至れり尽くせりですな。そして、俺に声がかからないのは何故だろう。


「……神威くんは」

「ん?」

「とっても良いパパになりそう」


 ……うわ。俺、今、すごくクラクラしたんだけど、逆上せたせいではないな、うん。あまり嬉しくはないような言葉を、無理やり聞かされた感じ……。というか、礼ちゃん、どんな意味で言ってる? それ。

 皆はテーブルには群がり、椅子が足りないメンバーはテレビの傍のフローリングへ直に座り込んでいる。俺と礼ちゃんの声は届く範囲、誰とも目は合わないけれど、きっと耳は傾けられているだろう。俺は、それまで立っていた居間の入口から一歩後退し、皆から姿を隠した。

 礼ちゃん、とトーンを落として囁くと、意識的か無意識か、礼ちゃんは一歩前進し、俺のパーソナルスペースへスルリと入り込む。


「……何?」

「……今の、どういう意味だった? 俺、複雑な心境」


 キョトン、という形容がぴったりの表情で、礼ちゃんは微動だにしない。視線は合ったままだけど、どこか遠くの意識で俺の言葉の深意を考えているらしい。

 ……だって、あまり嬉しくない。良いパパになりそう、って。

 良いパパ以前に、俺にはなりたいものがあるんだよ、礼ちゃん。

 そう意識すると、みるみる顔が紅くなりそうで、俺は頭に被っていたタオルで両頬を隠した。


「あ」


 礼ちゃんが、合点がいった! とでも言いたげに瞳に閃きを灯した。


「あの。また謝っちゃうけど、ごめんなさい。別に、神威くんが若年寄とかじじむさいとか妙な落ち着きがあるとかじゃなくてね?」

「――え。あ! そっち? てか、何?!  若年寄ってなに?!」


 そっち? の部分をなぞっている礼ちゃん。若年寄、はスルーなんだね?!


「え? 17歳にパパ、などと申し上げた点がお気に召さないのでは?」


 そうだけど。そうなんだけども。それもあるけどもたぶん、ちょこっと、違う。礼ちゃんと俺の視点は。


「……神威くん?」


 怒ってるの? と小さな声で心配そうに俺の顔を見上げる礼ちゃん。……もうね、怒りなんて沸き上がりもしないけどね? いやー、そんな上目遣い攻撃は反則でしょう……。なんて思ってたら、ビックリするほど静かに、つと、礼ちゃんの右手が俺の方へ伸びてきた。


 ―――え。


 息を呑む、とか、息つく間もない、とか、息をするのも忘れる、とか。そんな表現が頭の中をグルグル回り。身体全体で、ドクン、と脈打ち。

 礼ちゃんの手が触れた先は、俺が顔半分を覆っていたタオルの端。そうっと下向きへ引っ張られる。


「……表情が、見えない」


 見えない、から、何? 見えない、から、嫌なの? 見ていたい、と。思ってくれてるの?

 あー、でも俺、今 どんな表情してる? この期に及んでニヤけてたりしたら、もう――。


「……良いパパ、になりそうな、俺は……」


 ん? とほんの少し首を傾げる仕草に、またクラクラしてしまう。礼ちゃん、お化粧とかしてなさそうなのに、何でそんなに唇が紅いの? 俺の目がおかしい?


「……なれない?」

「……何に? 神威くんなら何にでも――」


 ずっと、考えてた。今日、ずっと。礼ちゃんをきちんといろんなことから守ってあげたい。同じ様なことは繰り返させたくない。優しい優しい嘘は、今日だけで良いように。そのためには――。

 気づけば礼ちゃんは、俺に視線を合わせたまま、見えてる部分の白い肌を薄紅に染め上げている。


「……俺、」

「……はい」

「礼ちゃん――」

「ねー! ミコちゃんのアイス、溶けちゃうわよー!」


 !! 居間から響いてきた姉ちゃんの声。あー、そう! 今! このタイミングで?! 読め読め! 積極的に読んでくれ! 空気!

 礼ちゃんは、弾かれたようにハッと息を漏らす。次いで大きく深呼吸をし苦笑すると、目の縁までも紅いまま、行きますか? と問いかけてきた。


 目が合うだけで意思疏通が出来る代物が発明されるのは、いつになるんだろう。いやその瞬間まで待ってられないけどさ、礼ちゃんの目、他のヤツらと合わせてなんかやれないし。

 俺、今 スッゴいビーム出してたけどなぁ。礼ちゃんには、ちょこっとも伝わらなかったかなぁ。


「……神威くんなら、何にでもなれると思うわ」


 ユルリと微笑みながらそう言い残し、居間へと向きを変える礼ちゃん。

 何にでもなれる? 本当に? 俺は礼ちゃんの彼氏になりたいんだよ?

 ……うーん。やっぱりちょこっとも伝わらなかったか。


 テーブルの上に置いてあった、柔らかくなりかけのアイス片手に、心と武瑠の傍へ胡座をかく。俺は頭からタオルを被り、顔を上げることなく、黙々とスプーンで高級バニラを掬い、口へ運んだ。


「神威、俺ら親父に迎えに来てもらうから」


 心がテレビへ目を向けたまま、穏やかな声で話し出した。


「……え、わざわざ? 姉ちゃんの車に乗ってけば?」

「妹尾は迎えが来るらしいが、それにしても神威が乗られない。美琴の車は7人乗りだからな」


 1、2…と指で追う。俺はスプーンを口に入れたまま、半ば茫然と心を見つめた。


「神威、ちゃんとミコちゃんを家まで送ってあげなよ? オレも心の親父さんに乗っけてもらうし」


 武瑠は俺の真っ赤な顔をわざと覗き込みながら、ニコニコ顔で言う。


「えー…二人共…」


 ちょっと、俺、感動。さっきは姉ちゃんに雰囲気ぶち壊されたけど、ヘタレな俺に、またチャンスを下さると?


「ちゃんと言えてないよね? 神威の気持ち」


 どうせ、とくっつけたいんだろ? 武瑠。分かってる。その通り。

 俺は常々、“立て板に水” の武瑠が羨ましい、躊躇、って無いよな、武瑠には。でも、俺にはあるんだ。俺は空になったアイスのカップをボンヤリ見ながら、声を低くして聞いてみる。


「……ね。今日、礼ちゃんへ告白する、ってアリ?」


 俺の声はとても低く、とても小さくて、心や武瑠と目も合わせてないし。むしろ、独り言かと放っておかれるかと思ったのに、いつだって、ちゃんと二人は受け止めてくれる。

 俺を覗きこむ武瑠の顔は、さっきまでのニコニコから真剣そのものへうってかわっていた。


「……神威的には、無い、の? 今日は」


 俺は眉間に皺を寄せ、うーん、と唸った。

 礼ちゃんや母ちゃん達は、スプーンを洗ったり、またお持たせの準備をしたり、と賑やか。俺達の会話は聞こえていない。


「……礼ちゃん、今日は心身共に弱ってるかと思って。そんな時に、何かこう……」

「つけこむ感じがするのか? それとも」

「ミコちゃんへ負担かけるかも、とか?」


 当に言い得てくれた二人を見ながら、首を縦に振り、苦笑する。意思疏通の精度って、時間共有と経過年数に比例するのかも。礼ちゃんとは、知り合ってまだ一ヶ月くらいだもんなぁ。


「神威の考えも分かる。ただ、お前、和泉達に何て言うつもり?」


 ……そうなんだ。その点も思案中なんだ。

 ただ、“礼ちゃんへ手を出すな” なんて言葉を吐いても、あの子らの上っ面をスルリと滑っていくばかりではないのか、と。


「ね、和泉って、初めて神威が泣かせたあの子?」

「わ――」


 俺の驚きの声は、心と武瑠の手で見事に塞がれる。背後には、いつの間に登場したのか、しゃがみこんだ姉ちゃん。


「第3回男子力向上委員会を緊急開催する」


 え? えっ?! なにそのサムズアップ?! 三人共いったいどうしたの?! 何か海外ドラマの諜報員みたいだけど!


「小学…、6年の時、だっけ?」

「いや、5年だろ。俺達三人が初めて同じクラスになった時だ」


 俺は塞がれていた手を片方ずつ口から剥がし、コクコクと頷く。


「やっぱりか。あの日の怒りは忘れられない」

「でも美琴、顔は忘れてたんだ?」

「だって、可愛くなかったんだもん、あの子。私、女子は可愛い子しか記憶に残らないの」


 愛らしい、と言える表情だし口調だけど、出てくるセリフが実に毒々しいよ、姉ちゃん。

 和泉から初めて『神威くんが好き』と言われたあの日、確かに恥ずかしさはあった。

 男子が女子を、女子が男子を、別の性だと意識し始める頃で、女子だけ集められて、頬を染める様な小難しい話をされていた日もあったりして。


 一緒に下校しようとしていた矢先、心と武瑠から半ば引き剥がされるように、和泉と常に行動を共にする女子から連れて行かれた場所には、和泉だけじゃない、クラスの大半かと思われる女子がいて。

 疑問も怒りも面倒くささもあったけれど、何より、恐怖が先に立った。


 好奇の視線。冷やかしの視線。申し訳なさそうに投げられる視線。この場に追随しているだけの感情の無い視線。

 多くの視線に囲まれ、しかも小学5年なんて、絶対的な体格差がさほどあった訳でもなく(心はその頃からデカかったけど)、多数に対する個、が儚く思えた。

 え、なにこのアウェイ、って。恐怖心を何とか誤魔化すために、心の内で呟いたもんだ。


 この名前ゆえ、というだけではなくずっと、傲るなと言われ育てられてきた俺は、自分の立ち位置なんてものに本当に無頓着だった。人気があるだなんて、まったく無自覚で。


 好き、の後に茶番劇かと疑うほど、綺麗に続く女子達の声。

 山田はどうなの? ハッキリ言いなよー! 黙ってないでさー! 熱いねー、この部屋!


『俺、別に好きじゃない、和泉さんのこと』


 BGMと場の雰囲気に呑み込まれることなく、淡々と言い切った自分を褒めて欲しい、と思ってしまった。酷い言葉を投げかけたのにも関わらず。この場にいる自分が本当に嫌だった。

 涙と、本物と偽物が混じった同情と、非難と批判。坩堝から救ってくれたのは、追いかけて来てくれた、心と武瑠。

 その夜、だったと思う、和泉が両親に伴われ、我が家を訪れたのは。

 姉ちゃんが、怒り、という感情でしか覚えてないのも無理はない。


 愛娘が受けた屈辱は、両親を通じて父ちゃんと母ちゃんへぶつけられた。理不尽、なんて言葉をよく知らなかった俺は、どうして? と表しようのない思いを抱えて、玄関に佇む大人達の成り行きを見守っていた。

 和泉は、大人達の身体の隙間から俺に鋭い視線を送ってきて、立ち竦む俺に代わって、姉ちゃんが睨みつけてくれたんだった。


 泣かせてしまった罪悪感はあった。でも、だからって――。


 父ちゃんと母ちゃんは、静かに笑うだけで、俺を叱りも責めもしなかった。ただ、姉ちゃんは一人、息巻いていたっけ。

 あの日以来、和泉のことは本当に苦手。取り巻き女子も。


 何て言うべきかは、分かってるんだ。

 自分から好きになりたいんだ、と言って断り続けてきたんだから。

 ただ、和泉達へ、そう言う前にきちんと礼ちゃんへ、伝えたいんだよな。俺の気持ち。


「でさ、ちょっとコレ見て」


 姉ちゃんの言葉に、クルリと身体の向きを変える。心や武瑠も半転し、姉ちゃんを中心に頭を寄せ合う格好だ。そこには、姉ちゃんのスマートフォン。


「コレ……?」

「良く撮れてんでしょ? 最近のスマホのカメラって何千万画素とかなのよー」


 誰が撮ったの? と驚きの質問をする武瑠へ、下僕が、と驚きの回答をする姉ちゃん。

 液晶画面に捕らえられていたのは、和泉と、見た覚えのない男の姿だった。制服姿だったり私服姿だったり、腕をくんだり手を繋いでいたり、アングルも男の顔も背格好も異なる画像がそこには5枚。


「神威とミコちゃんが噂になってる話、武瑠から聞いたからね、初詣の時に」


 ……あぁ、携帯電話片手に、武瑠と姉ちゃんは何やらヒソヒソと小声で話してたっけ。車中のワンシーンがぼんやり蘇る。


「神威のファンクラブなんぞ、断りもなく勝手に作りおって。和泉って子の話はよく聞かされてたの、私」

「誰から?」と武瑠。

「下僕から」と姉ちゃん。


 あの時の子か、って今さら気づいたわー。

 姉ちゃんは、あの日の怒りを再度思い出しているかの様に、熱い眼光を玄関の方へ向けた。


「もう、変な執着だと思うのよね、あの子の神威に対する気持ち、って。無い物ねだり、と言うか」

「そうだな、その画像から察するに和泉は和泉で、適当にやってる。純粋な気持ちの持ち主だとは思えないな」


 私の下僕が良い働きをしてさ、と妙に得意気な姉ちゃん。

 誰なんだ? 下僕って。

 俺の心の声を素直に口に出した武瑠へ、生徒会の後輩だよ、と小鼻を膨らまし、姉ちゃんは答える。

 苦笑しながら会話を引き継いだ心は、何かを思い出す様に遠くを見、胡座の姿勢から片脚を立てて続けた。


「誰かを好きだという激情を維持出来るのは、せいぜい3年だと聞いたことがある」


 えっ?! そうなの? と意外そうな武瑠。それは…どっちなんだ? 長いのか、短いのか。


「そうね。大失恋の痛手から立ち直るにも、3年って妥当なとこじゃない?」

「なるほどー、上手いこと言うなぁ、美琴」


 何も出さないわよ、と武瑠を小突きながら姉ちゃんは続ける。


「だからさ。あの子が未だに神威にしがみついてるのは、あんたが自分の思い通りにならなかったからよ。だけども他の女にホイホイくれてやりたくは、ないわけよ」


 俺は誰を見るでもなく、ウンウンと頷いていた。トラウマと言えばトラウマ。女子が苦手になり、好きだの何だのと色恋沙汰から程遠くなった始まり。


「ハッキリキッパリ言ってやんな。ミコちゃんは、俺が初めて好きになった女の子だ、って」

「だね。だから守りたいんだ、ってね」

「御子柴へ告白してから、その行動に出た方が良いと思うんだが。何故に神威が御子柴を守りたいのか、伝わらないだろ?」

「そうね。ああ見えて礼は意地があるから、ただ黙って庇護される様なタイプじゃない」


 ……えーっと。妹尾さん。いつから参加を?


「ちょ、不自然でしょ? 5人もここに集まってたら」


 俺はキッチンに立ちっぱなしの礼ちゃんと母ちゃんを見ながら、小声で話す。


「まぁまぁ。もう帰るよ、って言いにきただけ」


 妹尾さんが携帯電話を片手でヒラヒラさせながら言う。お迎えに来たから、と。

 玄関からチャイム音が鳴り、一気に居間は慌ただしい雰囲気になる。チビッ子達が湯冷めしない様に上着を着せ、俺もトモくんを抱き上げ、礼ちゃん家へ向かう準備。


 玄関先へ出て、驚いた。何、これ?! 超高級外車が重厚な存在感で佇んでるんですけど!


「妹尾さんって……お嬢様だった?」

「そーだよ。知らなかった? 成金、って結構 言われてんだけど」


 ほんの少し自嘲する様に、妹尾さんは幾つかのホテル名を挙げた。県内と近隣県へ最近 新設されているビジネスホテルのチェーン。

 妹尾さんのお父さんが手がける不動産会社が、昨今の円高を上手に利用し、海外施設と提携し波に乗ってるんだとか。


「……礼、さ。今日、私のこともなんぞ言われたみたいで」

「……何て?」

「いつも妹尾に守ってもらって、とか何とか。小耳に挟んだ1年生情報だから、曖昧なんだけど」


 本人は口を割らないし、と背後の礼ちゃんを顎で指し、苦笑する。


「ま、明日からもっと、和泉達には気をつけるよ。ほんっと、女子って面倒くさい」

「アナタも立派な女子ですよ、妹尾さん」


 ハハ、と空笑いする妹尾さんは振り向き様、ちゃんと言いなよ、とニヤリ顔で言い残し、高級外車へ吸い込まれて行った。

 我が家の車にはチャイルドシートなんてなかったはずなのに、いつの間にか後部座席の真ん中へ、簡易型のそれが付いている。母ちゃん? 姉ちゃん? それとも父ちゃん? 誰へともなしに感謝しながら、トモくんのちっちゃな腕をベルトへくぐらせ、その左右に俺と礼ちゃんが座った。

 シートベルトを填め、いざ出発、という頃には、トモくんは半分夢の中。右側の礼ちゃんへ、もたれかかっている。


「重くない? あ、痛くない?」


 トモくんを起こさない様に、小声で礼ちゃんへ話しかける。大丈夫、とニッコリ笑った礼ちゃんは、ごめ、と言いかけて呑み込んだ。


「……ありがとう、神威くん」

「ふ。学習能力あるねー、礼ちゃん。ありがとう言われるようなことはしてないけど、俺」

「気を遣ってくれてる。いつも」


 それは礼ちゃんでしょ、と返したかったんだけど、あまりに礼ちゃんが俺の頭部をじっと見つめてくるから言葉を呑んだ。

 そこには、礼ちゃんから頂いたキャップ。若干、毛羽立つ程に使い込んでいる。


「……お気に召しませんか?」

「え?」

「いや、あんまり見てるから。何か礼ちゃんのイメージと違ったのかと」


 礼ちゃんはフルフルとかぶりを振る。ありがとう、とまた綺麗に笑って。


「使ってもらって、嬉しい。あの……」

「ん?」

「おデコも、綺麗なのね。神威くん」


 初めて、見たから。

 礼ちゃんは目を細め、小首を傾げる。肩からサラリと前へ揺れる黒髪。


「……え、と。デコフェチ?」


 ふふ、そう。と笑いながら答える礼ちゃんの声が、耳に心地好かった。

 なんてことない会話なのに、なかなか上手く平静を装えない自分が歯痒い。あ、歯痒い、って本当に言い得てる表現だ、なんて気を逸らせたりして。

 おデコも綺麗、って。他に何が綺麗なの? あ、手か。指だったか。礼ちゃんと違ってろくに家事してないんだから、怠け者の、甘ちゃんの手なのに。


 初めて、見たから、って。確かに俺、いつもは前髪 下ろしてるもんな。単にセットするのが面倒なだけだけど。半乾きの髪をとりあえずキャップへ押し込めた今夜は、いつもと異なる “初めて” なのか。


 礼ちゃんは俺のこと、どれだけ見てくれてんだろ。俺のこと、どれだけ知ってんだろ。俺のこと、少しくらい、特別だ、って、思ってくれてる、……といいな。どうか現在進行形でありますように。

 礼ちゃんは左手でトモくんを優しく撫で擦りながら、窓の外の暗い景色をボンヤリ眺めている。俺はそんな礼ちゃんを、窓ガラス越しにボンヤリ眺めていた。俺のマヌケ面、映ってるかも。



 見覚えある礼ちゃん家へ到着すると、俺は絡まる思考を一旦 置いて、チャイルドシーのベルトをそっとトモくんから外し抱き上げた。これまた所謂、お姫様抱っこですが。

 礼ちゃんは先に立ち、不安定な足取りで玄関へ向かおうとする。ミコちゃん、とパワーウィンドウを下げ、姉ちゃんが運転席から声をかけた。


「お母さんからちょっと買い物頼まれちゃって。30分くらい、神威 置いていってもいい?」


 にこやかに礼ちゃんと話す姉ちゃんからは、見事なまでに他意が感じられない。あ、女優がいる。だからか、礼ちゃんは、躊躇うことも不思議がる様子もなく、はい、と快諾した。

 クリスマスイブに訪れた時は足を踏み入れなかった、リビングとは廊下を挟んで向かいの和室へ通される。


「智、寝相が凄く悪いから。お布団で寝てるの」


 押入れの襖を開け、高く積まれた布団を下ろそうとする礼ちゃんを、待って、と制する。


「替わって、礼ちゃん」

「え? あ、大丈夫よ、私が」

「ちっちゃい人は黙って交替」


 またチビネタ、と至極 不服そうな礼ちゃんへトモくんをそっと手渡す。素早く布団を敷き広げると、礼ちゃんは起こさない様に注意を払いながら、トモくんを横たわらせた。


 ……え。何? 礼ちゃん。そんなに見つめないでいただきたい。


「……神威くんの優しさって、後からじんわり心に灯るね」

「……詩人?」


 文系ですから。

 そう言って立ち上がる礼ちゃんは、部屋の一画に置かれたローボードに手をついた。

 俺の視線は本当に何気なく礼ちゃんの手を追っていて、その小さな指の先に触れたフォトフレームを見て、止まった。


「あ」


 俺は小さく呟いたつもりだったけれど、静かな部屋ではそれすらわけなく拾われる。


「……あ」


 俺の視線の先にある写真。そうだった、と困った様な表情の礼ちゃん。


「……えーっと。お茶でも、飲みませんか?」


 立ち上がった礼ちゃんは、そのフォトフレームをそうっと大切そうに両手に持ち抱えたまま、俺をリビングへと促した。



 前回はリビングの隅に追いやられていたソファーが、今日は堂々と迎えてくれる。少し脚が低めのテーブルへ、コトリと小さな音を立て、フォトフレームが置かれた。礼ちゃんの一連の所作はとても優しくて、俺の作品は大切に扱われてきたことは間違いなさそうだ。

 座っててね、と柔らかく言った礼ちゃんの頬は紅く染まっていた。首までも、と言ったら大袈裟だけど、色白な肌は熱を持ったようで、俺も何だか恥ずかしくなってしまう。

 久しぶりに対面する、お気に入りの構図。武瑠の長目の髪が風に靡いた瞬間、シャッターを切ったんだ。

 そういえば、受付係だった後輩くんが言ってた。


『神威先輩の作品、簡単に見破られてましたよー』


 俺が撮影した作品だと、どこかちょっと本当にちょっとだけ匂わせるような作品を、と部長から注文を出されたんだった。意味が分からない、と質問したら、悪いけど文化祭での集客効果狙いだと言われて。

 だからあの構図、物凄くヒキで撮ったんだ。武瑠達の表情も、拾いたかったのに。


 ――あぁ、そうだ。


 俺は、お茶をトレーに載せ運んで来る礼ちゃんをちらと見つめた。後輩くんは、瞳をキラキラさせながら、こうも言ってた。


『スッゴいスッゴい可愛いかったんすよー! 買っていってくれた人!』


「……礼ちゃんだったんだ……、これ、買ってくれたの」

「……はい。ごめんなさい」

「……あれ。学習能力なくなった? 今、謝るとこあったっけ?」


 若干、からかうような口調の俺に、礼ちゃんは、だって、と眉根を寄せながら答える。


「ありがとう、って言いたいわ。素敵な写真を、ありがとう、って。でも、気持ち悪いでしょう? 私の方だけが、神威くんのこと、ずっと前から知っていたの」


 ……ドキリとした。いや、もう、ずっと、ドキドキしてるのか。分からない。鼓膜に心臓がくっついたみたいで、鼓動の速さが頭に響き、思考回路を破壊するんだ。

 ソファーへ腰かけ両膝に両肘をついている俺と、ローテーブルへお茶を置き、その傍らへ左足を庇い横座りしている礼ちゃんと。

 物理的な距離は30センチくらいか。手を伸ばせば、難なく引き寄せられるくらいの。

 目線の高さは合わない。わざとかな、礼ちゃん。申し訳なさそうに、身体を縮ませているようだ。俺、礼ちゃんと向き合うとしたら、ソファーとローテーブルの間へ座り込まないといけないかな。


 どうしよう。どうしたら? もう、本当にどうかしてる。


「……いや、あの。気持ち悪いなんて、思わない。思うわけ、無い」


 俺はゆっくりとフカフカのカーペット敷きの床へ座り込んだ。あ、胡座かくんじゃなかった。ローテーブルとソファーへ挟まれて、窮屈。

 とりあえず、お茶を引っくり返す様な失態は演じたくない、と思ってるけど。いや、もう、俺、礼ちゃんとの始まりから、本当にずっと、格好悪いけどさ。


「……本当に?」


 俺はコクリと頷くと、むしろ、と続けた。

 口の中が、カラカラのカサカサだ。声は掠れるし、唾を呑み込む音が、喉の奥でグッ、とか鳴るし。顔、ひきつってんじゃないのかな。


「……俺の方が、気持ち、悪がられる」


 どうして? とキョトン顔の礼ちゃん。

 俺! 頑張れ! 今ここで頑張らなきゃ、他で頑張るって言葉、使えないって!


「……礼ちゃんと、知り合って一ヶ月くらい、だよ?」


 あの。

 礼ちゃんは複雑な表情で言いかけようとする。

 俺は焦りからか口を閉じることが出来ずに、俺がね? と急いでつけ足してしまう。

 そうだ、礼ちゃんは以前から俺のこと知ってくれてたんだ。複雑な表情にもなるよね。


 深呼吸をひとつ。


「でも、……それでも……俺、礼ちゃんの、こと……」


 あー、もう、俺。脳溢血とかで即死するかもしれない。礼ちゃんの姿、ボンヤリ滲んで見えるよ。


「………好き、なんだ………」


 ――あーー、真っ白。


 とりあえず、俺の頭の中に浮かんだ単語は、何を言い表したいのかよく分からない名詞。いたたまれない、って、こういうことかぁ。痛感、実感。堪らず、視線を逸らす。


 礼ちゃんの身体は、ピクリとも動かない。表情も、一体 どう捉えて良いものやら。複雑なんだよ、口元が。


 ……“え” のような気がする。

『え? 嘘でしょう?』とか。


 ……“わ” かもしれない。

『わ、ビックリした!』とか。


 ……“か” かな。

『神威くん』って。それから……分からないけど。


 行動に後悔はない。俺、良くやった、頑張った。気持ち、伝えたかった。直接、本人へ、ちゃんと目を見て。

 その、先の時間が痛いなんて。思いもしなかった。俺、何を期待してたんだろう。


 褒めてもらったな、と思考を逸らしながら、おデコをポリポリと掻いた。痒かった訳じゃない。ただじっとしていられないだけ。

 指を動かす間接の音までも、静かな静かな空間に響き渡るよう。

 家鳴りの音や、家の外を通る車のエンジン音、冷蔵庫のモーター音。いつもなら生活の中に溶け込んで意識する筈もない音までが、今の俺には際立って聞こえる。


 だから、それも、拾えたんだ。ポタリ、と布地に染み込む、滴の音。


 ………ぇ。えええええっ?!  涙?  泣いてる?! 礼ちゃん、泣いてる!!


「……ごめ、っ礼ちゃ――」


 咄嗟に伸ばした手をどうするつもりなんだ? そう自問して俺の右手は、力なく宙で止まる。そんな複雑な表情で、声も出さずに涙を流すほど―――嫌、だった? かぁ。俺の自惚れや勘違いが、過ぎてた? 特別、は現在進行形じゃなかった?


 所在無げな右手をトスンと下ろす。俺、告白されて、断ってばかりだったけど酷い仕打ち、してきたんだな。いや、だからと言って、同情や憐憫で承けるものじゃないけれど。あれかな、因果応報?


 数秒なのか、数分なのか。皆目 見当もつかない程、息が詰まりそうな時間が経過してやっと、礼ちゃんは、白く艶やかな頬を伝い、細く尖った顎の先から滴が零れ落ちていることにようやく気づいたようで、大きな瞳を瞬かせた。


「……どうして?」


 ……“ど” だったんだ、あの口元。

 礼ちゃんの声はほんの少し、震えていたけれど、怒りや迷惑、という風ではなく聴こえた。そのことに、ちょっと安堵。でも、声音から滲む感情が正確に定められない。


「……何が、どうして? 」

「どうして、そんな、急に…」


 私、あーもう、どうしよう。

 そう言いながら、礼ちゃんは小さな両の手をピッタリ合わせ、小さな顔を覆い隠してしまった。


「……ごめんね、礼ちゃん」


 顔を覆い隠した礼ちゃんを視界の隅に捕らえながら、俺は力なく謝る。


「……どうして謝るの?」


 指の隙間から漏れ聞こえる礼ちゃんの声はくぐもっていて、いつもの澄んだ響きはない。それが妙に可笑しくて、俺は自分の余裕にも笑ってしまう。礼ちゃんに今から何て言われるか想像もつかなくて焦ってるくせに。


「……泣くほど、嫌だったんだなー、って。俺から言われたの。や、確かに気持ち悪がられるかなとは思っ――」

「ち、がーーう!!」


 両手を外し、礼ちゃんは驚きの声量で真っ直ぐ俺に言葉を投げかけた。と思ったら、あ、と慌てて口元を覆い直し、身体ごと和室の方角を見遣る。あー、トモくんか。声に驚いて起きないかと心配になった訳ね。

 ……いや、俺だって。


「ビックリした……」

「あ、あっ! ごめんなさい…あ、でも、」


 礼ちゃんは、ハッとして、申し訳なさそうになって、何かに気づいて、思い直した。


「ふ。分かりやす、礼ちゃん。謝ったは良いけど、また謝ってしまったと思って、いやでも、ありがとうって言うとこ無かったな、って。当たり?」


 俺、何でこんなに饒舌なんだろう。礼ちゃんに完全に拒絶されないため? そのために少しでも印象良く、足掻きたいの?

 礼ちゃんは、今、何を考えてる? はちじゅうななぱーせんと、と訳の分からない言葉が聞こえたけど。


「……な、何? はちじゅうなな、パーセント?」


 礼ちゃんは、さっきの俺に負けないくらい、大きく深呼吸をする。ゆっくりと頷くと、意を決した様に話し出した。何て。何て言われる? 俺。


「ありがとう、って。言うとこ、ありました。でも、ありがとう、で正解なのかどうか、分からない。だから、87%、当たり」

「うーん…」


 そんな反応しか返せない自分がもどかしい。

 いや、本当は。礼ちゃんの答えを聞いていないから、もどかしいんだ。

 肯定なのか、否定なのか。受容なのか、拒絶なのか。

 怒とか哀とかではないにしても、喜や楽って感じ…でもない。


「でも、他に言葉が見つからないから。ありがとう、神威くん」


 ………何に対して? どのポイントに対しての、感謝?


「言ってもらえて、……嬉しかった」


 俺の、言葉? 涙で目の縁を紅くした礼ちゃんの頬は、みるみるうちに緩み、綺麗な笑顔をつくりあげた。それを見ている俺の頬まで、緩んでしまいそうだ。


「……好き、って、……生まれて初めて、言ってもらった」


 ……あ、そこ? 言ってもらった、ってとこが、嬉しかったの?

 嬉しい、の感情に違わず、紅潮した白い肌。美しく弧を描く瞳。口角が上がっている艶やかな唇。髪にスカートにカーディガンのボタンに頬に落ち着きなく動いている小さな手。

 ……うん。嬉しい、んだろう。


 もどかしさの払拭は、完璧ではない。俺、ハッキリ答えを求めて良いのかな。本当にスマートじゃないし、これっぽっちも格好良くないし、不器用にも程がある。

 でも、勘違いしたくない。


「……礼ちゃん。言ってもらった、が嬉しかった、の? それとも……、内容?」

「内容?」

「……礼ちゃん、俺のこと……嫌い?」


 瞬間、礼ちゃんは眉根を寄せる。あ、ヤバい。

 俺、何となくユルリと居心地好かったこの雰囲気をぶち壊した?

 いや、いやいやいや、でも! 答えが、欲しいんだ。いち早く。手探りじゃなく。

 神威くん、と大きく吐かれた息と共に名を呼ばれる。


「嫌い? って、聞く?」

「……え?」

「……好きなのに。嫌い? って質問されたら答え、」

「好き?!」

「う、……はい」

「え、なに? う、って。無理して――」

「もー、神威くん!」


 礼ちゃんは降参、とでも言いたげに両手を胸の前に上げ、眉尻を柔らかく下げて苦笑している。俺はいつの間にか礼ちゃんへとにじり寄っていて、30センチ程あった物理的距離を恥ずかしいくらい詰めていた。


「あっ?! わ、ごめ――」


 胡座の姿勢から、前屈みに床へ着いていた両手を慌てて離し、仰け反る様に礼ちゃんとの間合いをとる。というか、しりもちついただけ。もう本当に格好悪すぎて、涙も出ない。


 俺がせっかく開けた距離を、礼ちゃんはまた詰めてくる。意図せず立てた、俺の両膝の向こう側に、礼ちゃんの愛らしい顔。悪戯っ子みたいな、何か含みがあるような、キラキラした瞳とピカピカの表情。


「……私も、好きです、神威くん」

「!!!」

「う、って。うん、より、はい、できちんと答えたかったの」

「……あ、そういう……、」

「あのですね、私――」

「……はい」

「もう、ずっと、神威くんを好きなのね」

「えっ、なっ?! えっ?! は?!」

「かれこれ、2年くらい」

「っえ、えええええっ?!」


 ピンポーーン。


 あーーー、そう! また、こんなタイミングで?! ニヤニヤしている姉ちゃんの顔が目に浮かぶようだよ!! 本当に本当に、読んでくれ!空気!


「……お姉さん、だね」


 ふふ、と立ち上がりしなに混じる礼ちゃんの小さな笑い声。俺は目を見開き、口も大きく開けたまま、礼ちゃんのさっきの言葉を反芻することも上手く出来ず、ただただ動けずに茫然としていた。

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