【本物の光】

 高校入学にあたり、必要書類の中に『戸籍謄本もしくは抄本』とあった。


 市役所へ来たのは、二度目。前回は転入届の提出だったけれど、同じ様に『戸籍住民課』で良いのかな。

 入口付近の案内板をチラリと見、総合案内、と書かれたプレートの傍で行儀良く座っているお姉さんを見、私は溜め息を吐いた。

 ……いいや。喋るのも億劫だ。馴れない場所だと、智を抱っこしている左腕が余計に重く感じられる。

 スリングや抱っこひもを私は使いこなせなくて、智を連れて出かけなければならない時は、常に抱っこ。

 この前、1歳になったばかりの智は、まだ上手に歩けない。どこかの誰かから譲られたベビーカーは旧式で重く折りたたむこともできず、バスでの移動をより困難にするから、活用した試しが無い。


「……ぃしょっ」


 私は自分を奮い起たせる様に智を抱っこし直すと、記帳台目指して歩き始める。記帳台の近くにあるベビーベッドを覗きこめばちっちゃな先客が眠ってらした。


 智を抱っこしたまま、申請用紙書けるかな? 無理かな。立たせとく? あ、印鑑も用意しとかなくちゃ。

 記帳台の上へ、智の荷物を入れているバッグを置き、中身を探る。

 最近よく聞くママバッグ、ではない普通のトートバッグはあまり機能的ではなく、私はなかなか目当ての物を探せずにいた。片手では、無理があるか。


「……っこ」

「え?」


 突然、左側から声がした。男の人の声。抱っこしてる智がぶつかっちゃったのかしら?


「抱っこ、しときますよ。その間に、書いたら?」


 その声音は、どちらかと言えばぶっきらぼうで抑揚も無く、淡々としていた。でも、穏やかで安心出来る声だった。何より、今の私には的確でありがたい申し出。


「……ありがとうございます。すみません、お願い、します」


 幸い、智の機嫌は良い。人見知りもしないから、大丈夫だろう。急がなくちゃ。

 そう思って、私はその人の顔をよく見ることもせず、智をやんわりと引き渡した。私の視界に入ったのは、その人のスッとした顎のあたりだけだったし。


「カムイー、これお前の分!」

「あ、タケル、書いてよ」


 声の主は、カムイ、と呼びかけられ、友達だろうか、タケル、という子とそんなやり取りをしている。


「俺、戸籍って初めて取る」

「どうするー? カムイ、実は養子でした、とかだったら?」

「カムイの顔は、どう見てもおばさん似だろ」


 友達と思われる男子の声がもうひとつ増え、背後の記帳台でどうやら私と同じ書類を取得しようとしているらしい。

 同じ歳なのかも。待たせちゃいけない。


「申し訳ありませんでした。助かりました」


 お辞儀をして顔を上げた時、私はその人をまじまじと見つめてしまった。否、見惚れてしまった。

 だって、とっても、綺麗。綺麗、という形容は、男子にそぐわないかしら。でも、今はそれしか思いつかない。

 庁舎内の開放的な窓ガラスから射し込む午後の陽射しが、その人のサラサラな黒髪に天使の輪を作っている。無駄がない輪郭も、切れ長で凛とした光を宿す黒々とした瞳も、涙袋も、筋の通った鼻も、穏やかな言葉が紡ぎだされた、意志が強そうな少し薄い唇も。何もかもが、綺麗。

 だー、という愛らしい声と、私へ向けて広げてくるちっちゃな両手が目に入り、それこそハッと我に返った。


「ありがとう、ございました」


 私が広げた腕の中へ、ゆっくりと戻って来た智は、キャッキャと楽し気に身体を揺らす。私はもう一度、深々と頭を下げた。


「いえ」


 カムイ、と呼ばれたその人は、特に愛想笑いをするでもなく、ごく当然のこと、といった風で、友達との居場所へ帰って行った。

 あの一瞬。

 あまりに美しいものは、脳裏に深く刻み込まれるのかもしれない。


 高校入学式の日。

 私はそこを包む空間だけが明らかに他と異なる、オーラめいた輝きをすぐに見つけることが出来た。


「れーいー! 良かったぁー! また同じクラス!」


 掲示板に貼られたクラス表を先に見てきた万葉が朗らかに言う。背が低い私は、人混みから離れた場所で待っていた。


「本当に? 良かった」

「あんた、喜び方に温度差を感じるよ? もっとこう、ウキウキ! ってならないの?」

「ウキウキ、……おサルさん?」


 面白くないよ! と一蹴された。左肩にツッコミの魔手。テニス部でならした万葉のそれは、とりわけ痛い気がするよ。

 でも。

 本当に万葉とまた同じクラスで良かった。万葉以外、知ってる人が居ないし。

 私が通っていた中学校から、この高校を目指す人間はそもそも少ない。偏差値が高い進学校、という理由は大きいのかもしれない。入学後は、多くの補習に加え、休み毎の模試、と “青春する” 暇が無いらしいから。

 あるいは、校門まで2kmほど緩やかに続く坂道のせい、か。夏場は登校する度に灼熱地獄を味わわされるし、今どき、この坂を活かしたマラソン大会も開催される。

 もしくは、さほど可愛くない制服は不評だし、プールが無いから、かもしれない。


 いずれにしても、ここなら私を悩ませた右京くんはいない。物理的に離れてしまえば、あの突き刺さる様な執着心も凪いでくれる気がして、私はそっと安堵の息を漏らした。

 そして、あの輝きの主の方を見遣る……うん、チビな私には無理がある距離だった。


「万葉、これから3年間よろしくお願いします」

「お。なに? 改まっちゃって」


 瞬時、万葉の頬にサッと朱がはしる。

 照れ隠しなのか、ニヤリと笑うと、背中をパシンと叩かれた……うん、痛いわ。


 ***


 転校した先の中学校で、同じクラスの万葉と出逢った。右京くんとも。

 万葉と仲良くなれたきっかけは、隣の席だったから。その点は、本当にラッキーだったと思ってる。

 学期の途中、中途半端な時期の転校生は奇異の目で見られ、必要以上に関わろうとする子はいなかったと思う。


 スラリと細身でショートヘア。

 中性的とも言えるキリリとした顔立ちのせいか全体的にボーイッシュな万葉は、見かけに違わずサバサバした性格。ボンヤリした、私という迷える子羊を正しく導いてくれる姉御肌だった。

 クラス内に出来ていた幾つかの女子グループ。そのいずれとも上手に距離をとり、また私が奇妙に浮かないように、然り気無く傍にいてくれた。


 放課後の掃除当番が一緒だった右京くんは、私の携帯電話の番号とアドレスを聞いてきた二番目の人だった。

 一番目は、もちろん、万葉。持ってて、と引越した際にお母さんから買い与えられた電子機器。


『お母さん』『自宅』

 これ以外のメモリが増えていくことで、意図せず強いられたこの街での暮らしが充実していくのかと思っていた。

 そんなの、錯覚だったのに。何を浮かれていたんだろう。

 右京くんが誰かの彼氏だとか、もう別れそうなんだとか、また次の子がアピール中なんだとか、そんな歪な噂も知らずに私は個人情報を躊躇いもなく教えたんだ。


 可愛いふりしてあの子、という懐メロの歌詞みたいな噂は瞬く間に広がった。

 万葉からは、右京を誤解させた礼にも非はある、と厳しく言われた。


 礼は男子と接する距離が近い。

 相手の目をじーっとみるし、髪とか肩とか、平気で触れる。

 ましてケー番とメアド、あっさり教えるなんて。

 いや、誤解する男が悪いんだよ? でもあんた、自分が可愛い、ってこともっと自覚しなよ。


 万葉から言われたんじゃなければ、言葉の強さにきっと泣いていた。

 本当に心配してくれている、その真剣さが伝わってきたからこそ、素直に頷けた。

 ここは、礼が育ってきた場所と違うよ、と。そっと、悲しく、言われた。


 右京くんは、女子の間での噂を知ってか知らずか。

 隣のクラスの彼女とは別れた、つき合って、つき合おう、と告白してくる。何度も何度も、事ある毎に。

 それは、その想いの強さゆえ、というよりも、怖くなるほどの執着に感じられた。


 私は、授業についていくのに必死で、右京くんと違う高校へ行きたくて。

 智の送り迎えや、働くお母さんに代わっての家事。

 右京くんからの、夥しい電話やメール。女子からの冷たい視線。根も葉もない噂に付随していく、私についてのエトセトラ。

 ほとほと疲れ、辟易していた。


 だから合格発表後、私はお母さんへ相談した。携帯電話を解約したい、と。

 右京くんから漏れたのかどうか、定かではないけれど、数々の冷やかしや悪戯電話、迷惑メール。着信や受信を告げる鳴動が怖かった。


「……携帯、持たせない訳にはいかないわ。智の保育園からの緊急連絡もあるし」


 それはお母さんが対応すれば、と喉元まで出かかった。


「なんで解約したいのよ?」

「……悪戯電話とか、迷惑メールとか。多くて」

「なに? アンタ、苛められてんの? それともオトコがらみ?」


 該当する、といえばそう。しかもどちらにも。

 私の表情はとても苦々しかったのだろう、お母さんはあっさりと、良いわ、と言った。


「でも、新しく契約し直してきて。アンタの名義の方が、学割とかで安いでしょ? 委任状だの同意書だのは書いてあげるから。アタシ、家 空けることが多くなるから、アンタと連絡つかないと困る」


 それだけ一方的に言い切ると、もうおしまい、とでも言いたげに手をヒラヒラと振られた。


「……どうして?」

「ん?」

「家を空けるのが多くなるのは、どうして?」

「ふ。そりゃアンタ」


 新しく男が出来たからよ。

 悪びれもせず、そんな言葉が吐かれるのは初めてのことではないけれど、やっぱり何度経験しても、胸に気持ちの悪いものが込み上げてくる。


「アンタも上手くやんなさいよ」


 気味悪く上がった口角が魔女みたいだ、と思った。私の要領の悪さを見透かされている様で、いたたまれない。


 ――お母さんみたいには、なりたくない。


 口には出せないその言葉は、私の内で呪文の様に繰り返され、私自身をがんじがらめにし、色恋沙汰に対して臆病にさせた。


 ***


 入学式が終わり、我が1年2組へと向かう途中、ちょっとした人だかりにぶつかった。

 1年4組の入口付近。前後とも、何かを覗きこむ様な姿勢の女子で埋められている。


「何だ、あれ」


 長身の万葉は難なく人の隙間をかいくぐり、状況確認をしている。

 好奇心旺盛だな。チビだと自認している私は、チャレンジしようとも思えない。


「超絶イケメンがいた。だからだよ」


 万葉は私の傍へ戻って来ると、また並んで2組まで廊下を進む。


「……あの人かな」

「何?」

「ううん。何でもない」


 見た目が綺麗、って大変だな。そんなことを思いながら、チラリと4組を振り返る。あんなに注目されちゃうんだもんね。

 市役所で助けてもらった件を考えると、性格も良い人だと思うし。私は、何となく口元を緩ませた。

 あんな人気者の意外な一面を知っている、みたいな優越感。

 ……あ、意外な、じゃないか。元々、あんな素敵な行為が迷い無く出来るしなやかさを持っている人だから。素の一面、というべき?


「どうしたのよ? 礼」

「え? 何?」

「久しぶりに、笑ってるとこ見た」


 ふふっ、と声に出てしまった。そんなに笑ってなかったかな。


「高校生活は、楽しくなるといいなと思って」


 初めての教室へ、初めての一歩を踏み入れる。机は、窓際の前方から名前順に着席する様に並べられていた。出入口付近の壁には、席次表も貼られ、見ると妹尾の “せ” と、御子柴の “み” では、かなり離れている。何だか少し、寂しかった。

 ボンヤリしていると、礼、と背後からかけられた万葉の声で我に返る。


「ここには、右京はいないよ。噂好きで面倒な女子も。田舎者は田舎者らしく、素朴でノビノビしてなよ」

「……万葉?」

「礼は笑ってた方が良い」


 そう言い置くと、名前が貼られた自席を探し始める。もう、格好良いんだから。

 私の席は、最も廊下に近い列の一番前にあった。後ろの席の女子、左隣の席の男子に軽く頭を下げ、着席する。

 本当に、3年間、笑って過ごせたら良いな。

 あまり悪目立ちしない様に気をつけて、男子との距離感は特に注意しなくちゃ。浮かないように、大人しく、万葉へ頼りすぎない様に。


 ――あの人と、同じ空間を共有するんだし。


 そう思うだけで、この学校は特別なものに感じられた。


 カムイ、と呼ばれていたあの人の噂話は、この学校に通う女子ならば、校則以上に知っておけ、という程の勢いと熱のこもり様で、嫌が上にも私の耳に入ってきた。


 山田神威、というフルネームは本名。180センチ近い長身。お姉さんが生徒会長。ご両親は健在で公務員。右利き。なかなかの成績。


 などという基本情報から、トランクス派ではなくボクサーパンツ派なのだという、真偽は疑わしいこだわりの情報まで。極めつけは、告白されても悉く断るため、女嫌いでゲイなのかも、という……。

 ゴールデンウィーク明けには、私達のクラスでもまことしやかに語られ始め、私は本当に気の毒に思った。


 噂の厄介さは私もよく解っている。

 いや、神威くんの場合は、好意的に語られているけれど、訂正も否定も、仕様が無い。自分が創りあげた訳でもない自分像が独り歩きする、居心地の悪さ。


「まぁ、注目されるのは仕方無い。あれだけの見てくれだし」


 お昼休み。私は万葉と机を向かい合わせ、お弁当を食べていた。


「……優しい、人だしね」


 私の言葉に万葉はピクリと反応した。何を根拠に? と問うてくる。

 私は、そういえば万葉へ話してなかったな、と思いながら、春休み中の出来事を伝えた。


「へぇ。とすると、アレだ。山田が子ども好き、って噂は本当なんだ」

「そんな噂まであるの?」


 万葉は高校でもテニス部へ入った。部活の先輩の中に、神威くんのお姉さんと同じクラスの人がいるため、噂のネタは尽きないらしい。


「山田といつも一緒にいる、弓削って男子。あの、いかにも和風、な方」


 万葉の喩えに吹き出してしまう。確かに言い得ているから。それならさしずめ、もう一人の吉居くんは洋風、といったところか。


「あいつの双子の弟。まだ小さいらしいけど、スッゴい可愛がってるって」

「なるほど」


 でもね、と万葉へ続けて伝える。

 私が思った優しい、とは、子ども好きだから優しい、という明瞭で安直な方程式ではない。


「子どもを抱っこしたまま行動するのって、かなり難しくてね、馴れないうちは、尚更。救いの手を絶妙に伸ばしてくれる人って、本当に尊敬するわ。相手の行動を思い遣ってる、想像できてるってことだから」


 万葉はまた、へぇ、と言って何かを考え込む様に腕を組んだ。私、何かおかしなこと言ったかな?


「どっちが、本物なんだろうね」

「どっち、って?」

「山田の素顔。常々、ファンの女子どもが言ってるじゃん。クール、無愛想、仏頂面、ぶっきらぼう、女嫌いの無関心」


 私は、どっち、と答えることはしなかった。

 判断材料は多くない。私が知っているのは、あの一瞬の神威くん。

 あれが気まぐれなのか、本来のものなのか、私にはまだ分からない。

 何せ、不馴れなせいか、見誤るのだ。男子の気質。優しい人かと思っても、豹変したり。

 お昼休みの終わりを告げる音が鳴る。午後の授業は、ボンヤリと過ごした。


 以前住んでいた島内の学校は、全校生徒の数が少なく、良くも悪くも互いの家族のことまでよく知っている間柄だった。それが当たり前だった。

 私達母子が住み続けていきづらくなったのは、それが理由でもあるけれど。


 だからか、こんな風に、同級生であるにも関わらず、噂だけでしか知る機会が無い男子がいることとか、果ては結局、一度も接点が無いまま、卒業を迎える誰かがいることとか。

 信じられなかった。でも、ここではそれが、当たり前。

 神威くんとも、もう会話を交わす機会は無いのだろう。


 何だか、少し、寂しかった。


 ***


 2年生になり、文系クラスでも万葉と過ごせると分かった時には、本当に安堵した。友達、と呼んで良いような存在は幾人か出来たし、携帯電話のメモリも女子の名前が数件、慎重に追加されたけど、やはり傍にいて欲しいのは万葉だった。


 私は淡々と日々を過ごしていた。

 智の送り迎えや家事を頼まれる時間は確実に増えていき、それと比例する様に、お母さんは家を空ける回数が多くなっていったけど、私は何かを言う気力が生まれなかった。

 生活費はちゃんと貰っている。高校生には多く感じられる程のお小遣いも。

 セキュリティ会社とも契約したみたいだし、私と智の心配を、全くしていないという訳ではなさそうだ。稼働をお金で解決できるならそうすることに決めたらしい。

 ただ、私が来年、受験生になろうとも特別な配慮はなされないだろう。それはあまりに容易に想像出来て、私はちょっと苦笑する。むしろ、智が夜食とか作ってくれるかもしれない。


 6月。

 梅雨独特の湿気を含んだ空気に纏われながら、私は文化祭の一日を憂鬱に感じていた。

 進学校、って、行事への取り組み方が全般的におざなりなのではと思う。

 おそらく、冬のセンター試験へ照準を絞って、先生方が動きやすい様に計画されたせいだろうが、体育祭も文化祭も、例年5月・6月に行われる。校外への開放も行われないため、地味にひっそりと終わってしまうし。

 クラスが替わって、新しいクラスメイトの顔ぶれを確認し、探りさぐり仲良くなっていく時期に大きな行事を2つ当てられても、なかなかおいそれと団結力は生まれない。

 万葉は、沈黙のまま進行しないLHRの時間に苛立ちを爆発させ、文化祭の実行委員をかって出た。


 忙しく動いている万葉とは、一緒に校内を回れない。クラスの出し物は、体育館のステージで歌を歌って終わり。

 プログラムを見ても、出し物自体、あんまり大した内容は見当たらないのだ。

 お化け屋敷とメイド喫茶。若者ウケしそうなものといったら、これくらい。こういった、イベントの盛りあがらなさも、この学校が受験を敬遠される所以かも。


 ――独りで行く気にはならないな。


 当てなく校内をブラブラしていた時だった。

 1年生の校舎の端、グラウンドに隣接する文化系の部室へと続く、人通りが少ない地味な場所。


 神威くんを、見つけた。

 といっても神威くん自身を見つけた訳ではない。

 神威くんの瞳が捕らえたもの、を見つけた。


 その教室は、写真部の作品展示会場だった。

 パソコン作製だろう、『写真部員作品』と綺麗なポップ体が掲げられている下に『山田神威くんの作品がどこかに1枚隠れている!』と手書きで乱暴に記されていた。


 ……何のエサなの、これ。

 神威くん、お気の毒、と思いながら、三面の壁一杯に広げられた作品を見て回った。


 室内には他に3人の女子生徒。神威くんの、どれだろうね、なんて呟きが漏れ聞こえるところを考えると、立派に集客効果を上げているらしい。


「……あ」


 見つけた喜びに思わず漏れた声を、慌てて封じ込める。これ、間違いない。

 四つ切り、だっけ。このサイズ。

 大きく引き伸ばされたその写真には、四人の人物が小さく写っている。

 大人二人、子ども二人。夕暮れの浜辺に点々と続く四組の足跡。

“家へ帰ろう” と題されたそれは、一見すると、仲良し家族にも思われた。


 後ろ手を伸ばすお父さん。駆け寄る子ども達。

 二人の小さな背中を優しく押すように、両手を広げているお母さん。

 でもこれ、この背中はきっと、弓削くんだ。

 ちょっと長めの髪が風にふわふわとなびいて、遠目で女性に見えなくもないのが、吉居くん。

 チビッ子達は、弓削くんの双子の弟さんじゃないかな。

 神威くんの瞳を通じて、穏やかな心地好い空気を共有してるみたい。その、幸福感が私の口元を緩ませた。

 一枚ずつ簡素なフレームに入れられており、買い取りが出来るらしい。

 名札の色からして1年生だろう、会計用の机にポツンと退屈そうに座っている男子生徒へ声をかけた。


「すみません。これ、おいくらですか?」

「あ、えっと……」


 急に話しかけられてビックリしたのか、その子は顔を紅く染めると、善意で、と言った。


「売り上げは活動費に充てるんですけど……、値段は、決めてなくて」


 私はちょっと困ってしまった。

 大きめサイズの現像代なんて相場を知らないし、このフレームも、高品質のものなのか、はたまた100円均一とかなのか、皆目 見当がつかない。

 百円玉や五百円玉が数枚入れられたトレーを見遣り、私は千円札を一枚、そっと置いた。


「……プレミアム込みで。よろしいでしょうか?」


 私の囁きに対し、目の前の訝しむ様な表情が、私の手元の写真を見るや、あ! と合点がいったそれに変わった。ハイ、とにこやかに返事をされる。私は、何故かレジ袋に写真を入れてもらい、教室を後にした。

 私が廊下を進み始めた時、程なくしてさっきの会計くんが姿を現した。集客効果を上げていた釣り文句は、油性マジックで黒々と塗り潰されていく。


 なかなかの、目利きだった、私。このフレームの値段は、分からないけど。


「あれ? ミコちゃんじゃん! 珍しー、今日は独り?」


 次は何処へ行こうかと、レジ袋を提げ、プログラムを広げながら廊下をゆっくり歩いていた時。

 男子の大きな声に呼び止められた。


 からかう様な、試す様な視線。歩み寄る姿が放つ威圧感。しかも、複数。ゾワゾワと胸の奥が気持ち悪くなってくる。

 ……何故だろう。単にクラスメイト、なのに。

 何故、今、右京くんを思い出したの? 何故、嫌悪感を抱いてるの?


「いっつも妹尾といるからさー、ミコちゃんと話したくても無理だし。ヒマならオレらと一緒に回ろうよ!」

「え、や、えぇーっと」


 ……どうしよう。何が理由かよく分からないけど、怖い。さっきまでの幸福感が嘘みたいだ。

 顔から血の気が引く音がする、サーッ、って。自分が蒼く、冷たくなっていく。

 男子の一人がスッと近寄って来て、私の手首あたりを掴もうとした。あんな、大きな掌。きっと、簡単に一周してしまう。


「……っ、あっ! わ、私っ、万葉に呼ばれてるのでっ…」


 わざとらしく、精一杯の嘘をつくのが、やっと。私は一目散に廊下を駆け出した。


「……う、」


 ……私、きっと、物凄く感じ悪い。あの人たちに他意も悪意も、無かったのかもしれないのに。

 ……いや、でも、無理無理無理! 何だか、怖いと思ってしまった。

 そう、右京くんに両手首を強く掴まれ、校舎の古びた壁へ押さえ込まれ、極限まで顔が近づいて来た記憶が蘇ったから。


 あぁもう、ちょっと、泣きそうだ。


 ミコちゃーん! という声が追いかけてくる。

 ぶつかりそうになる人を避け、ごめんなさい、と誰にともなく謝りながら、廊下を突き当たりまで走る。左に曲がってすぐ、保健室だ。


「……んっ」


 乱暴に開けて後ろ手で閉めたドアにもたれ、室内にいた人物に驚かされた。

 ……葛西先生? ビックリして喉に声がつまっちゃった……。


「……御子柴? なに、」

「か、隠れたい、です」


 ちょー、ミコちゃーん。

 怒号にも似た声と複数の乱暴な足音がドアの向こうに近づいて来た。

 葛西先生は特に表情を変えることも無く、座っていた椅子をクルリと回転させ立ち上がると、こっち、と仕切り用の薄いカーテンをめくり、ベッドが置いてあるスペースへ私を促す。


「寝てるヤツいるから、そっとね」


 低く囁かれた言葉にコクコクと、声は出さず顔と目だけで頷くと、私はベッド脇に座り込んだ。

 ガラガラとドアを開ける音。お前らうるさいよ、と押し殺した様な葛西先生の声。


「あー、葛西先生ー、ミコちゃん、見てねぇ?」

「見てないな、なんか足音は聞こえたけど」


 葛西先生、ありがとう! 私は座り込んだ姿勢のまま、手を合わせ拝んだ。

 ちぇーっ、と間延びした不機嫌そうな声。ペタンペタン、と不揃いに遠ざかる足音。

 葛西先生の溜め息と共にガラガラとドアが閉められた。

 もう、大丈夫みたい。私は、それまで物凄い勢いで打っていた脈が少しでも落ち着いてくれないかと、深呼吸を繰り返した。


「御子柴。……お茶でも、飲む?」


 カーテンがシャッ、という無機質な音と共に開けられ、葛西先生が顔だけ出して言う。何となく、お茶目。

 深呼吸真っ最中の私は、またコクコクと顔と目だけで頷くと、立ち上がり、ベッドで眠っている人へ何気無く焦点を合わせた。


「……あ」


 とても綺麗な寝顔で横たわる、神威くんが、いた。

 私はしばらく、ボンヤリと寝顔に魅入っていたのだろう、ほんの少し開いていたカーテンの隙間から、葛西先生が片方の目を覗かせて、また低い声で囁かれた。


「寝込みを襲っちゃ駄目だよ」

「! んなっっ…!」


 思わず出そうになった大きな反論の声を、慌てて呑み込んだ。

 ね、ねね寝込み、って! 襲う、って! 何ですか、それ! そんなに見てましたか? 私……。


 微動だにしない神威くん。首から下は薄い毛布の中、規則正しい寝息が聞こえている。

 なるほど。神威くんは、イビキとかかかないんですね。

 あ! でも髭 伸びてる! サラサラ黒髪もなんだかグシャグシャだし。あ、寝乱れたのかな……。


「……だから、御子柴、お茶」

「あ、ハイ……」


 葛西先生の声は、明らかに笑いを含んでいて、私は何だか無性に恥ずかしくなり、弾かれる様に神威くんの傍を離れた。


「……見てたいだろうけど。神威、お疲れだから寝かせてあげて」

「……何かあったんですか?」


 葛西先生の担当は化学。どうして保健室にいらっしゃるのだろう、と不思議だった。

 そして、保健の安西先生は? 机の上に置かれた湯呑みから立ち上がる薄い湯気を、私はボンヤリ眺めていた。


「安西先生はね、お身内に不幸があって、早退」

「な……」


 何故に私の思考回路が分かったのでしょうか? 恐るべし、銀縁眼鏡。


「御子柴が分かり易いだけだから」


 ……またもや。

 見ると眼鏡の奥の葛西先生の瞳には、悪戯っ子の様なからかいの色が若干 浮かんでいる。恥ずかしくなった私は視線を逸らし、提供されたお茶へ手を伸ばした。


「御子柴……、神威のこと、好きなの?」

「なっ、あ! っつ!!」


 今、絶対、タイミング測ってた! 葛西先生、意地悪だ! 危うくお笑いのお約束みたいに湯呑みをひっくり返すとこだった! 熱いしずくが手にかかって痛かったですよ! 痛いけれど、神威くんが寝てるし、大きな声出せないし!


「熱ーい眼差しで見つめてたもんね」


 至極、真面目を装って発言根拠を述べる姿が何だか忌々しい。

 私は左手を右手で強く覆った。熱くて痛かったせいもあるけれど、何とも言い現し難い感情が、じくじくと蠢くから。


「そんな、熱いって……」

「いや、神威が溶けて穴が空くかと思った」


 私の否定を、被せる様に否定された。あ、いやいや、否定すべきはそこじゃなかった。


「……す、好き、かどうか。……分からない、ん、です」


 不格好に途切れた私の言葉。日本語の使い方がおかしかったのでは?

 確かに神威くんのことは、特別視しているようにも思う。

 それは噂をよく聞いているから? それとも、彼の優しさに直接触れたから?

 ……もっともっと、触れてみたいと思ったから?

 葛西先生はお茶を啜り、ふーん、と抑揚の無い相槌を返してくる。からかいの色は瞳から消え、穏やかな年長者の、いや、教職者のそれに変わった。


「神威さぁ。うちのクラスのお化け屋敷、セットやら小道具やら、ほとんど独りで作り上げちゃって」

「……え、」


 神威くんのクラスだったんだ、お化け屋敷。見に行ってみれば良かった。あ、でもどうしてここで寝てるの?


「スッゴい器用なんだよ、神威。でも無理しちゃってヘロヘロ。朝から顔色悪いし、小汚いし」


 俺がここへ強制連行、と葛西先生は自慢気に言った。

 どうして私にそんな話を、と思いながらも、葛西先生の口から紡ぎ出される神威くんを、聞いていたいとも思っている。もはや雲上人に等しい神威くんの日常を知りうる機会は滅多に無い。


「強制連行、ですか……」

「そ。あんなデカいヤツ、担げるのなんて俺くらいでしょ」

「え。先生が担いだんですか?」

「うん。神威、休めっつーのに、言うこと聞かないから」


 ……小学生でもないのに。神威くんが葛西先生に担がれる様を想像して、私は声を出して笑いそうになった。

 二人共、かなり長身だ。

 葛西先生は、年配の先生方が多いこの学校における、希少な30代。銀縁眼鏡が理系のインテリ感に輪をかけていて、取っつきにくい様でもあり、それでいて親身な進路指導には定評がある、不思議な先生。

 二人が担ぎ、担がれ……。


「……何だか、ざわつく構図、です、ね」

「ね? 腐界に住んでる方々には大ウケだったぞ。神威は目一杯、嫌がってたけどな」


 葛西先生はまたお茶を啜り、目尻を下げた。

 腐界、って。そういう嗜好じゃなくたって、絵的にキャーキャー言っちゃいますよ。神威くん、ジタバタしたのかなぁ。

 私は自分でも気づかない内に、頬を緩めていたらしい。葛西先生が、あらまぁ、とまた抑揚の無い感嘆の声をあげた。


「やっと、笑ったね」


 私は、はたと両の頬に両手を添えた。笑ってましたか? 私。ニヤけてませんでしたか?


「……御子柴、今日は何故に独り? 王子様はどうしたの?」

「王子様?」


 妹尾、と先生は短く名前を告げた。


「妹尾が一緒じゃないと、さっきみたいなのに、また絡まれちゃうかもよ。連絡して、迎えに来てもらったら?」


 私はフルフルとかぶりを振った。実行委員として忙しく動き回っている万葉に迷惑はかけたくない。

 小さな子どもじゃないんだし、また絡まれるとは限らないし、私が上手く対処すればいい。それだけのこと。


「……俺は、一緒に回ってあげらんないのよ。特定の女子生徒と行動を共にしちゃいけません、って主任からきつーく言われてるので。……また、逃げてくる?」


 私は何も答えられなかった。

 逃げてばかりだね、と言われている様で。葛西先生に、そんなつもりはないだろうけど。

 ただ、事実、そうだから。

 右京くんからも。さっきの男子からも。逃げてるだけだから。

 どう接するのが最良なのか。どう接したら誤解されないのか。あらぬ噂をたてられたりしないのか。

 逃げてきます、とも、逃げません、とも、答えられなかった。


「……難しいですね、男女の理、って」

「……御子柴、アナタ、日本語の使い方 間違ってない?」


 文系でしょ、と葛西先生は薄く笑う。私もつられて、ほんの少し口角を上げた。

 保健室の腰高の窓ガラスを覆っていた曇天からは、ついぞ雨の滴が落ちてきたらしい。葛西先生の向こう側に見える小さな人影が、慌てた様子で校舎内へ駆け込もうとしている。

 静かな時間がゆっくりゆっくり流れていく。暖炉の前で暖まっている時って、こんな風にたゆたう感じなのかな。葛西先生の声はアルファ波を出しているのかもしれない。

 先程より距離はあるのに、私の耳には神威くんの微かな寝息がはっきりと聞こえていた。


「……御子柴は、男子が苦手?」


 葛西先生は、お茶のお代わりを注ぐために立ち上がりながら、静かに問いかけてきた。


「……そう、ですね。苦手……な、時が、あります」


 私は考えながら、一番言いたいことに近そうな答えを口に出した。


「俺は? 今、大丈夫なの?」

「先生には……父性を感じます」


 えー、なにそれ。

 葛西先生は、またお茶を啜りながら、小さく笑った。


「私、父親をまったく知らずに育ってますので。そのせいだと思います、歳上の男性には安心感を覚えます」

「あらー、男としては複雑」


 片手で頬杖をつき、葛西先生は曖昧な笑いを浮かべる。


「複雑……どういう意味ですか?」

「父性って、恋愛感情には変わりにくいと思うから」

「うーん、変わり……、え。先生を、好きになっても、いいんですか?」


 あ、今よくよく考えずに発言してしまった。葛西先生、目が真ん丸になってる。

 あぁ、何だかな。何がどうしてこんな話になったのかな。


「いやー、御子柴……、そんな大きな目でジーっと見つめながらそんなこと、他の先生に言っちゃ駄目だよ、絶対」


 葛西先生は、ズレてもいないのに両手で眼鏡のフレームを持ち、正しい位置へ直そうとしている。


「え、そんっ、あ! いやいやいやいや、言いません、言いません!」

「俺、迂闊にも恋に落ちそうになった」

「…………」

「分かってるよ、御子柴にそんなつもりは毛頭無いことくらい」


 先生は、大人ですからね。

 そう言って、葛西先生はまた頬杖をつき、何故だかカーテンの向こうに眠る、神威くんの方へ視線を投げた。


「御子柴はさ、アナタ。学年一…いや、校内一だったか? 可愛い、って言われてるの、知ってる?」

「知りません」


 あら、即答。

 先生は面白そうに呟くと、まぁ妹尾があれだけガードしてりゃね、と自身で納得したような答えを見つけていく。


「私、自分の顔かたちは嫌いです」

「……何故に?」

「父親にそっくりらしくて。母からよく殴られてました」


 スッと何かが横切った様に、先生の瞳は忽ち真剣な色に覆われる。あぁ、この先生のこういうところが信頼される所以なのだろう。しかもどこからどう切り出そうかと、私を気遣っているかの表情。


「……すみません、暗い話をしてしまいました」

「御子柴」


 先生の問いかけを中断する様に、私がスカートのポケットに入れていた携帯電話が、着信を知らせて振動する。

 ヴー、という機械音。5秒経っても終わらないから、メールではない。


「……出ていいよ。お構い無く」


 葛西先生は柔らかく視線を逸らす。一応、携帯電話の携行は、校則違反だから。

 止まない振動が静かな空気を破りそうで、神威くんを起こしてしまいそうで、私は急いで受話ボタンを押し、小さな声で、もしもし、と応えた。


《礼?! 今どこ?!》

「あ、保健室に……」


 きっと携帯電話の受話口越しに、万葉のキリリとした声は漏れ聞こえているのだろう。明後日の方角を向いたまま、葛西先生の口元は緩くなっている。


《あんた、男子に追いかけられてたって? 大丈夫なの? ってか、なんですぐ連絡してこないの?》

「ごめんね、万葉……」

《行くから! そこいて!》


 全くもってろくに口を挟む間もなく、万葉の一方的な勢いによって通話は切断された。私は暫し、携帯電話を片手に茫然とする。

 こういう行動力というか、適切な時に的確な所作が出来る人って素晴らしい。考え考えしてる間に、流されたりタイミングを失する私には憧れだ。


「王子様……迎えに来るって?」

「はい。素敵ですよね」

「御子柴」


 葛西先生は、私の目を真っ直ぐ捕らえた。真面目な話だよ、と前置きするみたいに。

 そして二つ、と言いながら右手でVサインを作る。


「一つ目。妹尾は、好きで御子柴と一緒にいるんだよ。迷惑かけたくない、と思って強がる必要は無い、甘えなさい」


 葛西先生は、やっぱりちゃんと先生なんだな。あ、また日本語の使い方が可笑しいかな。

 優しく柔らかく、教え諭してくれる、文字通り。そしてそれは嫌味無く、素直に頷ける内容だもの。


「二つ目。神威は、そんじょそこらの男子とは、ちょっと違うから。安心して、好きになりなさいよ」

「……………え」

「ね?」

「……………え、えっ、す、」


 私が言葉にならない単語を並べていると、薄いカーテンの向こうから、うーん、と目覚める前の伸びをする声。衣擦れの音。

 あ、神威くんが起きちゃうのかも。


 コンコン、というノックに続き、失礼しまーす、と躊躇いの無い万葉の声。

 私は熱をもった顔をどうにももてあましたまま、急ぎ葛西先生へお辞儀をし、ドアへ向かう。優しく静かに流れていた時間は終わり。

 ドアが開き、礼! という安堵の声と、じゃあね御子柴、という笑いを含んだ声は重なる。私は背中で葛西先生へ頷くと、何か言いたげな万葉へ、しーっ、という身振りを示し廊下へ出た。


「眠ってる人がいるの」


 あぁ、と万葉は納得し私の背後でガラガラと閉まるドアへ一瞥をくれる。

 ふあぁー、よく寝たー、と神威くんの声が遠ざかる私を追いかけてきた。


 ***


 私は結局その後、神威くんとの接点が無いまま、半年あまりを過ごした。


 相変わらず、絶え間なく噂ばかりが耳に入る。

 夏休み中に誰が告白してあっさり断られた、とか。断る時の決まり文句は誰にでも「自分から好きになりたい」なんだとか。修学旅行中に地元のお姉さまに連れて行かれそうになってた、とか。写真部なのに、怪我をした吉居くんの代わりに高校総体へ出場するくらいサッカーが上手だ、とか。迷子になってた小学生を家まで送り届けてあげて、交番のお巡りさんがお礼に来てた、とか。


 最初は何ともなかったのに、私はいつしか、そんな噂という曖昧模糊なフィルター越しに神威くんを感じ取るのが嫌になっていた。


 私はバカだ。

 春休みのあの日の神威くんが、私だけが触れた本物なのだと、噂をいちいち否定したいと思ってる。何を知ってる訳でもないのに。

 でも、もうこれは、好きだってことかもしれない。

 私はうっすら感じていた。私、神威くんを、好きなのかもしれない。


 その宙ぶらりんな想いは、12月のあの日、図書室での一件で確信に変わる。

 万葉の代わりに図書室のカウンターへ立った日。


 貸出と返却の簡単な処理を行うだけで良かった。智のお迎えは19時まで延長保育を頼めたし、たまには万葉の役に立ちたい。

 カウンターからは、図書室内を見渡す事が出来る。

 普段、図書委員さんはカウンター内へ置かれたパイプ椅子へ座るらしいけれど、あんた、ちっちゃいんだから立ってなさいよ、と言われた。

 腰高のカウンターにすっぽり隠れて、いるのかいないのかパッと見 判らないから、と。

 ……失礼な、万葉。まぁ、事実だけれど。


 だから、神威くんと吉居くんの姿は、容易に視界の隅に捕えることが出来た。大きなくしゃみをする様子も。

 ……神威くん、顔が紅い。目の縁が何となくボンヤリしてるし。熱があるんじゃないのかな。風邪が流行ってるしね。

 先に吉居くんが図書室を出て行く。部活へ向かうのだろうか。

 次いで、帰ろうと出口へ向かう神威くんへ、鼻血という接点を見つけられたことに、私は本当にお礼が言いたかった。神はこの世にいるのかもしれない。


 とにかくあまり目立たない様に、とまず思った。それはいつも注目の的である神威くんを、些か気の毒に感じていたからかもしれない。

 パイプ椅子へ座らせて、えーっと、鼻血の応急措置は、と思い出す。

“子どものケガと病気” とかって一覧表をもらって冷蔵庫に貼ってたのに! 咄嗟の時に役立てないでどうするのよ、私!


 下を向かせ、図書室の目の前にあるトイレでハンドタオルを濡らし引き返す。私の手に触れた神威くんのおでこは、そうかも、と思っていた以上に熱を帯びていてビックリした。歯の根も噛み合ってない感じ。寒気がしてるんだね。

 神威くん、と勝手に呼びかけそうになった自分を自制出来て良かった。山田くん? って、奇妙に語尾が上がっちゃったけど。


 ひとまず病院へ行った方が良さそう。風邪かインフルエンザか、判別は必要だもの。そして神威くんを担げる先生なんて、経験者のあの人しか居ない。

 私は着ていたカーディガンを脱ぎ、神威くんの肩へかけると、職員室へ急いだ。

 失礼します、と肩で息を吐きながら、祈る様な想いで職員室のドアを開け……良かった! いた!


「葛西先生…っ!」


 ん? と飄々とした体で私へ視線を向けるも、尋常ならざる風に気づいたのか、ガタ、と席を起ち、出入口へ歩み寄って来た。


「どうした?」

「先生、か、神威くんがっ……」

「神威? 神威がどうしたの?」

「凄い熱で、図書室に、今、病院に連れてっ……」

「泣かないの、御子柴」


 葛西先生はポンポンと私の頭を撫でると、すぐ戻るから、と言い置いて職員室内へ姿を消した。


 ――泣いてた……。


 冷静でいられない。智の場合と比べても理にかなわないけれど、それでももう少し落ち着いていられたのに。

 行こう、といつの間にか傍に立っていた葛西先生に促される。先生の手には黒いバッグに仕立ての良いコート。私は先生の急ぎ足に遅れまいと必死。

 図書室は丁度 閉館時間を告げる音楽が小さく流れていた。帰り支度をする数名の生徒。カウンターに隠れる様に置いた椅子へ、グッタリともたれかかっている神威くん。あぁ、また。涙が出そう。


 神威くんのおでこに手を当て熱を確認した葛西先生は、図書室を出て行く生徒と挨拶を交わしつつ、神威くんを担ぎ上げる。


「御子柴、自分のバッグ持って来てる?」

「あ、はい」

「念のため、インフルの予防接種とか。してる?」

「してます、うちに小さい子がいるので」

「……この後、つき合える? 病院」


 私はコクコクと頷く。

 智のお迎え時間が近づいたら、先に帰らせてもらおう。この後を葛西先生へすべてお任せするなんて、気になりすぎて絶対無理。

 私は神威くんの荷物までを抱え、図書室の鍵を閉め、先生の後を追って、職員専用駐車場へ急いだ。


「神威、それ鼻血出したの?」


 顔についた血痕のことだろう、ルームミラー越しに運転席から葛西先生が訊いてくる。私はコクリと頷いた。神威くんの頭は、私の膝の上。

 後部座席、私の隣へ神威くんを座らせた先生は、支えてあげてて、ともたれかかる様に配置した。

 ……したんだけど。何せ体格差はあるし、カーブを曲がった時にずり落ちてきた頭をどうにも戻せず、膝枕に至る。


 寒気は無くなったのだろうけど、きっと熱が上昇してる。独特の熱い息と、う、とか、ふぅ、とか、時折漏れる気だるい声。唇はカサカサ。血の痕も乾いて、鼻の下や頬にこびりついている。指の腹でそっとなぞってみた。


「……取れないな」


 神威くんへ渡していたハンカチやハンドタオルは、握りしめていた神威くんの熱のせいか、ほとんど水分が残っていない。これで拭いたとしても、痛くなりそう。


「……神威くん」


 呼びかけたところで返事は無い。当たり前だ。こんなに苦しそうなんだもの。

 ポタリ、と。

 神威くんの頬へ滴が落ち、歪な形はやがて皮膚へゆっくりと吸い込まれていった。


「泣かないの、御子柴」


 気づかれたくなかったのに、葛西先生はまたルームミラー越しに私と視線を合わせようとする。私は鼻を啜ると、窓の外をボンヤリ見ながら応えた。


「……スルーで、お願いします」


 先生は、ふ、と笑うと、でも安心した、と続ける。意味が解りません、先生。


「カーディガン着てないし、息 あがってるし、血相変えて俺の名前呼ぶんだもん。御子柴、誰かに襲われたかと思った」

「あぁ……」


 そういう意味での、安心した、か。

 無頓着だね、相変わらず、と先生は苦笑している。

 途端、先生の携帯電話が車内に鳴り響いた。ピ、という電子音の後、ハンズフリーで会話し出したお相手は、折り返しかかってきた神威くんのかかりつけ医らしい。


 先程、先生は神威くんのバッグやポケットをガサゴソと探り、財布の中に入っていた保険証と病院の診察券数枚を見つけていた。

 手元の携帯電話で次々に発信し、症状を伝え、時間外診療をお願いしていく。

 その所作の素早さに圧倒され、同時に神威くんへ寄り添っているだけの自分が恥ずかしくなった。


 すぐ連れて行きます、と穏やかに応じている先生。ナビに入力を済ませると、車はスピードを上げた。


「……先生、手際が鮮やかです」

「えー、殺人犯みたいだね」

「……私なりの褒め言葉でしたが」

「分かってるよ。御子柴、笑わないかな、と思ってさ」


 病院へと急ぎたいのに、流れる景色は随分と緩やかに感じられる。私はふと、智が突発性湿疹にかかった日のことを思い出した。


『水銀式体温計は42℃まで表示されてるじゃない?』


 引越し後、智のかかりつけ医をどこにしようかと思案していた頃だった。突然の高熱にオロオロしながら、万葉がネットで調べてくれた評判をもとに、一番近い小児科を訪ねた。


『42℃まで出る可能性があるんだよ、人間。あれ、ダテじゃないから』


 うちの体温計はデジタル式なんです、と若そうなお医者様へバカ正直に答えると、それだけ冷静なら大丈夫、と柔らかく笑われたんだ。


 そう、あの時は、泣いたりしなかったのに。智には私しかいないから、私が、私だけはしっかりしなきゃと思ったからかな。気を張りつめて。お医者様からの質問へ、逐一ちゃんと答えなきゃ、って。


 葛西先生がいてくださるから、今日はちょっと気持ちが緩んでる。そして、抱きしめてあげたい目の前の男の子が、智じゃなくて、神威くん、だから。



 小児科・内科と標榜が掲げられたそこは、神威くんを小さい頃から知っている方々で構成されているらしい。葛西先生の背中でダラリと意識をなくしている神威くんを見た、お医者様や看護師さんの第一声は、まるで親戚のおじ様おば様方のようだった。


「お、しばらく見んうちに、またでかくなったなぁ」

「あら、あらあら! ちょっと! 良い男になって!」


 み、皆さん! 神威くん、高熱に苦しんでるんですよ! 早く診てあげて下さい!


「いやぁぁ、神威の担任の先生? シュッとしてスラッとしてピシッとした男前ねぇぇ」


 な、何だろう……。葛西先生、擬態語だけで表現されちゃった。当のご本人は、愛想笑いを絶やすことなく、どうも、なんて会釈してるし。大人ってつかめない。

 慌ただしく通された診察室で、先生は神威くんをベッドへと降ろす。私はそれまで、先生と神威くんの身体で隠れる位置にいたため、初めて視界にお医者様方を捕らえた。


「……え?!」

「え」

「恋人?! 神威の?!」

「イヤだ、先生! カノジョ、って言って下さいよ!」

「ええっ! 神威ったら、彼女連れて来たのっ?」

「どれ、あら、可愛いお嬢さんねぇぇ!」


 いえ、違います! 違うんです! と慌てて否定しても、ワラワラと目の前に群がる看護師さん達に茫然……。そうこうしている間に、流石にお医者様は緩ませた神威くんの胸元へ聴診器を当て、細長い検査キットを鼻の最奥へ挿入する。


 あ、あぁー、痛いよね、痛いんだよね、あれ。何だったか、映画で観たけれどどこまで突っ込むんですか?! って、暴れたくなっちゃう。


 いくつ? いつからつき合ってるの? 同じ学校? と質問攻めにあいながら、うーん、と身じろいだ神威くんを見つめる。

 いっそ、苦しさも痛みも引き受けられたら良いのに。そう思いながら、眉をひそめた。



 結果が出るまでの数分間、待合室へかけてて、と指示された。革張りのソファーへ葛西先生と並んで座る。院内は白とベージュを基調に淡いパステルカラーで彩られていて、何となく気分を落ち着かせてくれた。


「御子柴」

「はい」

「泣くほど、神威を好きなんだ?」


 私の口からは、ふ、と笑みが漏れる。葛西先生、突然 口を開いたかと思ったら。私はキッズスペースであろう絵本が置かれた本棚を見つめながら言った。


「そう、みたい…です、ね」


 あれ、否定しないんだ、と言いながらクツクツと笑う先生。私はある絵本の背表紙へ視線を落とす。


 ――あぁ、思い出した。


「……抱きしめたいな、と。思いました。それで楽にならないか、熱が引かないかな、と。弟が病気にかかった時は、いつも抱っこしてあげるんです。……でも、神威くんは弟ではないし弟に対するような情、ではないし」


 あぁ弟さん。

 ピタ、と先生の笑いが止まる。

 私の家庭の複雑な事情は、2学年担当の先生方できっと共有されているのだろう。保育園からの緊急連絡先に指定されている高校の職員室、なんて滅多にないだろうし。


「人を好きになる、って。いろんなことがぐっちゃぐっちゃになりそうで、無意識に遠ざかってました」

「どうして?」

「……うちの母は、恋愛至上主義、なのだろうと思いますが。子どもながらに修羅場をくぐると、恋愛って、お昼のドラマみたいな愛憎劇なんだと敬遠してたんです、たぶん」


 身を焦がして。気持ちを磨り減らして。周りの忠告も耳に入れず。その人だけを見つめて。嫉妬に狂い、猜疑心が生まれ。駆け引きをし、計算をし、騙し騙され。

 あんな風には、なりたくないと思っていた。


「先生、この絵本、ご存知ですか?」


 私はつと立ち上がり、本棚から一冊の絵本を取り出した。昔、隣の家のおばちゃんから頂いた玩具や多くの絵本の中にあったそれを、私は装丁がほとほとくたびれるほど、繰り返し読んだんだ。


「……ごめん、知らない」


 プロポーズに使うと良いですよ、とまた隣に座り直しながらからかうように表紙を見せると、先生は口の端に笑みをのせ 暗記した、とおっしゃった。


「今度、読んでみるけど。どんな話?」

「……黒いうさぎは、白いうさぎを大好きで。でも時々、寂しくなるんです。いつもいつまでも一緒にいたいけど、どうしたらいいんだろう、って。それ、願うんですよ、強く。そうしたら、白いうさぎがね、じゃあ、私、これから先、いつもあなたと一緒にいるわ、って」


 世界の最小単位は二人ではない。世の中はこんなに単純明快ではない。それは、分かっているけれど。

 読み終わった後に私が感じたほんわりとした温かさは、神威くんを初めて見かけたあの日の気持ちに、とても似ていたんだもの。

 こんな想い、幼稚かもしれない。リアリティーに欠けるかもしれない。でも私は、神威くんとならどちらでもいいな、と思った。


 好きすぎて、考え込んで、寂しくなる日があっても、真っ直ぐな想いは、やがて真っ直ぐ受け止めてもらえるのだから。どちらのうさぎも愛らしい、と思った。


「私、人との距離が近い、と万葉によく指摘されます。誤解を招く、って」


 うんうん、と先生は隣で頷く。私はページをパラパラと捲りながらポツポツと言葉を紡ぐ。


「でもそれは、特別な感情が何もないから。近すぎる距離を何とも思わない。男女問わず、他意はありません。或いは、身内の様な要素を感じ取っているか…、近すぎて怖い時はあります、もちろん。生々しい剥き出しの感情とか、相手が男子だと、特に。……神威くんに対する感情は、なかなか上手に分析出来ません」

「特別?」

「……特別、ですね、あの日からずっと。だから、噂も気になる」


 私は葛西先生へ、高校入学前、市役所での神威くんとの出逢いを話した。ふーん、と耳に入った相槌はとてもとても優しく聞こえた。


「惚れちゃうね、それは。神威、素敵すぎる」


 ふふ、とまた小さく笑いが漏れた。

 素敵すぎる、って。でも、そうね。あの時の神威くんは、素敵すぎてだから目が逸らせなかった。本物の光は眩しかったけど、だからこそどこででも見つけられる。


「そんな可愛く笑えちゃうほど、好きなんだね」

「好き、なんでしょうね」


 ペタペタとスリッパの音が近づいてくる。

 お医者様が葛西先生を手招きし、インフルエンザじゃなかったよ、と告げた。



 葛西先生は、神威くんのご自宅へ連絡を入れると、ゆっくりと車を走らせ始めた。

 程なくして見えてきた山田家は、昔ながらの純和風平屋一軒建てが建ち並ぶ一画にあって、異彩を放つ洋風の庭付き2階建て。

 ご本人に負けず劣らず、オーラがある家だと感じられた。幸せオーラ。可愛らしい。きっと愛情をこめて、育ててあるのだろう、このお家、このお庭。

 頃合いを見計らっていたのか、玄関から勢い良く飛び出してきたお姉さんは、とても可愛い方で、そういえば去年までうちの学校の生徒会長さんだったな、と思い出した。

 神威くんとは、どこかしら、という程度にしか似ていない。目を真ん丸に見開き、オロオロする様も可愛らしい。

 私は出来る限り丁寧にお詫びをし、詳細に、病院へ連れて行った経緯、検査結果と服薬の必要を伝えた。

 2階へ上る神威くんと先生を凝視しているお姉さんの耳へ届いたかしら。


 よっこいしょ、という声と共に、先生はベッドへ神威くんを横たわらせたようだ。

 階下にいた私は躊躇ったけれど、お姉さんへ断りを入れ、神威くんの部屋へ入らせていただいた。神威くんに羽織らせたきりそのままのカーディガンを回収しなきゃ。変に気を遣わせてしまってはいけない。


 病院で洗ったハンドタオルで顔の血の痕をそっと拭い、ベッドやその周辺を携帯している消毒用ウェットシートで拭きあげる。ハンカチもカーディガンも素早く回収。良し!

 部屋の外では葛西先生とお姉さんが何やら会話している。私はクルリと部屋を見回した。失礼だ、と思ったんだけれど、やっぱり気になる、が勝ってしまった。

 無駄なものが無い、というか。男の子の部屋、ってこんな感じなのかな。初めてだから、よく分からない。

 島にいた頃、遊びに行ってた近所の男子には、自分の部屋ってなかったし、たいてい居間に通されてたし。彩りが少なくて、地味とシンプルは紙一重、という印象。

 壁に数枚、掛けてある風景写真が何となく優しくて、あぁこれは神威くん、らしい、っていうのかな。

 本棚に数冊、隠しきれていない、そういう雑誌も。1巻からきちんと並べられている有名マンガも。神威くんらしい、っていうのかな。

 ほんのり紅い頬が、未だ高い熱を伝えている。ほんの少し眉根が寄って、神威くんの倦怠感を表していた。

 ふと、お医者様が緩めたままのシャツの胸元から見えた鎖骨。


 ……不謹慎だ、私。ビックリした。そんなところも綺麗で。拍動が奇妙に跳んだ。


(早く良くなってね、神威くん)


 私の顔も真っ赤になってないだろうか。窓から射し込む夕焼けのせいになんて出来ないだろう。冬の陽は落ちるのが早く、辺りには夜の闇が広がっている。

 良かった、充分間に合う。智を急いで迎えに行こう。深呼吸をして。


 私の不審な挙動をお姉さんと葛西先生に見られていたなんて、まるで気づかなかった。


 ***


 気づいた気持ちもあったけれど、総じてボンヤリの私は気づけなかったことの方が多かったのだろう。だからこそ、招いている、この現況。私を射ぬくように睨みつけてくる、複数の双眼。

 死の直前には、人生が走馬灯の様に流れくると聞くけれど、私、死んじゃうのかしらと不安になるほど、この冬休み中の出来事が目の前を過った。


 初めての電話。きちんと伝えられたお礼の言葉。智へ作ってくれたダンボール電車。サンタ帽を被った神威くん。伝わってくる心根の温もり。口に出して呼んだ名前。私を探してくれた必死な姿。摘まんだセーターの裾。温かなお家。優しいご家族。


「……何とか言ったら?」

「なに考えてんの?」

「神威くんには近づかないで、って言ったよね?」


 気づけなかった。気づかなかった。

 初詣の日、並んで歩く姿をクラスの誰かに見られていたなんて。そしてそれは、瞬く間にクラス中に広まっていたなんて。

 普通にしてる、気にしない、と神威くんには言ったものの、無理だったなぁ。たとえ私が気にしなくても、放っておいてはくれないよね。目の前で怒り心頭の様である三人は、たしか神威くんのファンを自称する人達。



 冬休み明け、始業式。

 万葉が職員室へ呼ばれ、私一人になったところを連れて来られた。

 ここは、屋上へ通じる階段の踊り場。階下には1年生達のあどけない声が聞こえる。冬場は、生徒も先生も滅多に通らない冷々とした場所。静まり返った空気の中、彼女達の声が反響して私を包む。


 何とか、言わなくちゃ。こういう時、しれっとした態度をとり続けていると、余計な怒りを煽る。

 ……違うな。何したって、怒りがおさまることはないかな。


 和泉さんが口火を切った。神威くんへついて回る噂はいつも、彼女から発信されている気がしていた。神威くんと、小学校から同じなのだと聞いた覚えがあった。


「……中学の時も」

「え」


 ……ドキリ、とした。何だろう、何を言われるの? いや、分かってる。きっと、右京くんの件でしょう?


「人の彼氏、横取りしたんだって? あたし、ミコちゃんと同じ中学の子と塾が一緒なんだよね」

「……横取りなんて、してない」

「そう? でも、可愛い顔してやることえげつない子だよ、って」

「抜け駆けとかってマジあり得ないし」

「神威くんに、どんな手 使ったの?」


 他の二人の追随も勢いを増して、私はシクシクと胃が痛くなった。

 剥き出しの感情は、やっぱり苦手。たとえ相手が女子でも。

 木曜22時台のドラマじゃない? こんなの。あぁ、でも人気者に近づく、って、こういうことだった。本当に学習能力ないんだな、私。

 私は小さく嘆息する。そんな覚悟、してなかった。ただ、神威くんを、好きだと感じただけだったのに。


「何? ため息ですかー? バカにしてんの? 何様?」

「アンタ、神威くんをどうしたいの?」

「ボンヤリぶってて、実はあれこれ計算してるんでしょ?」

「妹尾に守ってもらってるもんねー、強かに力関係、見てんじゃん」


 腹を立てるのも腹立たしい、と思ってた。興味も関心も無い人達に。

 私はフルフルとかぶりを振って、真っ直ぐ視線を合わせる。

 おかしなもので、修羅場には慣れてる。怖くはない。えげつないのはそっちだ。

 私、ちゃんとお腹の底から声を出して。怯んで負けたくない。


「……私、神威くんとどうこうなんて、考えてない。好きでいるのに許可が必要? 神威くんは和泉さん達の所有物じゃないよね? それに、万葉のこと、悪く言わないで」


 言い過ぎた、と思った瞬間、左の頬にピシリと打ちつけられた痛みが走る。寒さが余計に痛みを感じさせる。よろけて壁にぶつかった肩も痛い。


 その後のことは、よく覚えていない。


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