第12話 いつも貴方を見てる

 (覗くだけ。他の生徒に見られないように彼がいるか見るだけだから)


恭子は葛藤の末、完全にチャイムが鳴り終わり人気の無くなった階段をゆっくりと登った。緊張が高まるともうないはずの髪を触ろうとして空気を撫でる。彼女を守る覆いはもう取り払われてしまったのだ。

足音を立てないように上履きを脱ぎさり、二階の踊り場から廊下を覗き込む。もう朝礼が始まっているため、廊下に立つ者は誰もいないようだった。


見られていないとなればいくらか足は軽くなる。手に持った上履きと鞄を握りなおし、そろそろと身をかがめて歩き出す。目指すは三組。階段から向かうには四組を通り過ぎる必要がある。ドアの部分以外は廊下の様子は上部が覆われていて中からあまり見えないはずだ。


 (よし! こっち見てない!)


一瞬中を見て静かにダッシュ。四組の前と後ろにある扉をやり過ごしただけで、彼女は今までにない達成感を覚えた。一息つき、いよいよ三組の後ろのドアにたどり着いた。

彼の席は窓際の後ろから二番目。あまりよくない目を凝らしてじっと見つめる。

目的の彼はあの騒動など何もなかったかのように、眠そうに授業を聞いている。時折左側にある窓の外へ目を向ける。早く休み時間になってほしいのかもしれない。ここに来るまで抱いていた恐怖と不安を一瞬だけ忘れ、恭子は人知れず息を漏らして笑った。気づかれるほどの大きさではない。吐息程度だ。

だがその瞬間、彼の視線が不意に廊下に向けられた。


 (うそっ)


しゃがんだまま教室内を見つめる姿はさぞ不気味だろう。しかも完全に視線は彼を捉えていた。また気絶でもされたらもう二度と教室には来れなくなる。焦りでしゃがんだままの重心が後ろに倒れ、音は出さないものの彼女はひっくり返ってしまった。かろうじて頭はうっていないがパンツは大公開状態だ。


どうしよう、最悪だ。顔色を赤や青や白にころころと変え、恭子はばっと起き上がってスカートの裾を直す。間違いなく見られた。一体これからどう接すればいいのか、そもそも近くにいくのさえ恥ずかしい。ぐるぐると悩んで恐る恐る彼の様子をうかがう。

気絶は、していなかった。それどころか目を丸くして、恭子と目が合うと少しおかしそうにふっと笑った。


 (鼻血出そう……)


いい意味で精神的ダメージを負った恭子の体がようやく動く。這うようにして教室の前を移動し、階段の前でやっと息をはいた。


 「もう、何やってるんだろう」


思わぬ所で笑顔を目にして、恭子の心臓は先ほどとは違う意味でバクバクと高鳴っている。死ぬほど緊張していたのに、今はもう彼の笑顔以外には何も考えられない。朝礼の最中でなければ、何事もなかったかのように教室内に侵入して間近で見てしまっていたかもしれない。それほどに衝撃を与える出来事だった。


 「どうしよう」


もう一度見たい。数日前まで交差点ですれ違うのをただ待つだけだったのに、自らに向けて浮かべたと分かる笑顔をはっきりと認識してしまってからでは我慢できなくなった。同時に一瞬の交錯で互いを意識していると考えていたのは、ただの妄想であるということも分かってしまった。否、本当は分かっていた。けれどその妄想に浸っていたかったのだ。

悶々としたまま、恭子は古巣である保健室にノロノロと戻っていった。



 「何気持ち悪い笑み浮かべてるんだよ」


朝礼が終わると、和哉が茂の席に近寄ってきた。思い出し笑いを浮かべる様を怪訝そうに見つめている。


 「気持ち悪いとはなんだ、酷いぞ」

 「だって一人で笑ってるからさ。担任の鼻毛でも見えたか?」

 「ここから見えるわけないだろ。さっき女子が廊下から教室を覗いててさ、突然漫画みたいにひっくり返ったんだよ! 噴き出すのを堪えるのに必死だったぜ」

 「何だって覗いてたんだ? 他のクラスの女子か?」

 「流石に同じ学年なら顔位は分かるはずだけど……どこかで見た顔なんだよな」


制服はこの学校のものだ。

凛とした少女だった。髪型はさばさばとした印象を与えるのに、教室の様子を見る態度はおどおどしていてギャップがすさまじい。


「可愛い子だったな」

「なになに、惚れた?」

「ばーか」


何となく気になる視線だった。


(また来るかな?)


茂がちらりとドアに目を向ける。廊下には誰もいない。当たり前の光景なのに、少しだけ物足りなく感じた。


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