第10話 遅咲きの花
「ねぇ、来たよ」
「あんな事あったのによく来たよね」
彼よりも遅く、恭子は始業時間ギリギリに教室に滑り込んだ。昨日は彼が来る前に席についたものの授業を受けずに保健室に行き、そのまま帰ってしまった。今日こそは彼と話をする。そう自身を奮い立たせてやってきたが、席に着くまでの間に聞こえてくる囁きに気力がごりごりと削れていく。
どうにか席には着いたものの、プリントを後ろに回す際に彼があまりこちらを見ないようにしていると気づき、更にどんよりと落ち込んだ気分になる。まだ一言も言葉を交わしていないのに、どうしてなのか。
結局、その日は話しかけることも出来ずに、お昼まで何とか授業を受けてから保健室にも行かずに帰った。
お昼も食べずに帰宅した娘に対し、珍しく母は何も言わなかった。その対応に僅かばかり勇気が戻る。そして夕食の準備をする母に、悩みを少し打ち明けることにしてみたのだ。
「お化け? 誰にそんなこと言われたの?」
恭子は目の前で憤るように拳を握る母を何とも言えない気分で見ていた。普段であれば相談相手として決して選ばない相手だ。しかしだからこそ、普段接しない相手の意見が得られることを期待している部分があった。ふとこの母とまともに話したのはいつぶりだったかと疑問に思う。だが開いた期間を気にした風でもなく、彼女は目を吊り上げている。
「近所の幼稚園生」
「最近の子は口が悪いわねえ」
そういう問題ではないのではなかろうか。彼女はそう思ったものの、では何故そう叫ばれたのかという問いに対する答えがないために反論はしなかった。
「どうしてお化けだと思われたのか……その、悩んでて」
悩みを打ち明けるのには勇気がいった。彼女が母との会話を止めたのは、話が通じる人種ではないと考えているからだ。こうと決めたら一直線な母は途中で修正しようとしても中々想像で形作った思い込みを直そうとはしない。
「そうねぇ、暗い所にいたからじゃないかしら?」
「ワカメ女って言われた場所は明るかったよ」
「髪にウェーブがかかってるからかしらね?」
それも一因かもしれないが、流石に叫ぶ理由としては弱いのではないか。何とも言えない気分のまま恭子は相談したことを後悔し始めていた。ダイニングのテーブルを何となく見つめ思考に耽る。すると、そこに5000円札がすっとおかれた。
「あらパパ! お帰りなさい!」
「これで美容室に行ってきなさい」
いつも無口で、何を考えているか分からない父。この母を突然連れてきた時もそうだった。美容室などもう何年も行っていない。自分で毛の先を少し切る位、苦手な場所だった。嫌な思い出がフラッシュバックしそうになる。
「でも、髪なんて切らなくても」
「状況を変えたいなら、自分自ら行動するんだ。それで駄目ならまた違う方法を探せばいい」
「いいじゃない! 可愛くなるわよ~、早速予約しなくちゃ!」
「あっ、待っ……!」
静止の声も聞かず、母は電話をさっと取って行きつけの美容室への電話を始めた。ほんわかしている割にこうと決めたらやたらと行動が早い人なのだ。父はさっと席につき、話は終わりだとばかりに夕刊を読み始めた。
「良かったわね! 明日日曜なのに、たまたまキャンセルが出たから来てもいいそう
よ! 11時に予約したから、行ってらっしゃい!」
やり遂げたとばかりに喜色満面の母に対し、恭子はもう頷く以外に選択肢が残されていなかった。この人のこういう所が嫌いだ。彼女は心の中で呟いた。
入るのが怖い。でも行かなければ。
恭子は美容院の入口の近くで、迫る予約時間を前に焦っていた。ここまで来てしまっては入る以外にないと分かってはいても、1歩の勇気が持てないでいる。そうこうしている内に、中にいた美容師に見つかってしまった。
「あら! いらっしゃい! 瞳さんの娘さんよね、待ってたわー! 夏目よ、宜しくね」
「と……東郷 恭子です。本日はよろしくお願い致します」
「いいのよーそんな緊張しなくても! 楽にして、紅茶がいい? コーヒー?」
「あっ、お構いなく」
「じゃあコーヒーを入れるわね」
この美容室のオーナーは母の友人らしい。人の話をあまり聞かなそうな所が、とても彼女に似ていると恭子は感じた。こっそりとため息を吐いて室内を見つめる。この美容室は駅から少し離れた閑静な住宅街の中だ。駅前は人通りが多く、これまた苦手な場所なのでまだマシだと思える場所だった。
しかしこれから髪を切って自分が変わってしまうと考えると、怖ささえ感じてくる。それを見た周りの反応も怖かった。
「どういう風に切りましょうか? 凄く長いわね、伸ばしているの?」
「そうじゃないんですけど……」
「それなら思い切ってバッサリ切っちゃう? 遅めの高校デビューよ!」
「あの、できれば顔が見えないようにしたいんです」
「あら、どうして?」
「何というか、コンプレックスで」
ああ!と彼女は思いのほか明るい声を出した。そして前髪を分けて恭子の顔を見る。髪の向こうにある夏目と目が合って思わず固まる。
「なーんだ可愛いじゃない! もったいないわよ隠すなんて。切っちゃいましょ!」
案の定夏目は話を聞かないタイプのようだった。後ろの長さはともかく、前髪の長さについて2人は押し合いへし合いの言い合いのようになり、最終的にほぼ恭子が折れる形で多少は顔が見える長さに落ち着いた。
「これが私……?」
片目がほぼ髪で隠れるものの、斜めに切りそろえられた前髪はやけにスタイリッシュになり、後ろもショートになった。鏡を手に呆然と自分を見る恭子と、やり切ったとばかりに笑顔を浮かべる夏目。
「気に入らない?」
「いえ、その。かっこいい、です。自分じゃないみたい」
自らは決して指定しないであろう髪型だ。今までの人生でショートにしたことさえない彼女だが、似合うと認めざるを得なかった。
「良かったわ! これで意中の彼のハートもイチコロね!」
「そんな人いないですから!!」
恭子は真っ赤になった。加えて赤さを隠す髪がもうないことに気づいて、隠すように手を前に出した。
「恥ずかしがらなくていいのよー、青春しなさい高校生!」
愉し気に笑う夏目に対し、恭子は最早何も言う事ができなかった。
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