第7話 捨てられた名前

ベッドに横たわる彼は、いつま恭子が見ている姿とはまるで違った。走っている時は汗をかき、頬が上気して赤みがさしていた。今は血の気を失ったように白く、微動だにしない。


 (生きてるよね……?)


あまりに静かなので、恭子の不安が段々増してくる。無事に起きて欲しいという気持ちと、目覚めてまた叫ばれたらどうしようという想いが交錯する。逡巡したのちに、手を鼻の下にかざして呼吸を確かめることにした。ベッド脇に屈む際、だらりと伸びた髪が彼の体にかかりそうになり、彼女は慌てて片手で纏めあげる。今度は慎重に、どこも触れることがないようにそろそろと手を伸ばていく。


 (息、してる)


鼻の下で僅かに湿る肌の感覚を感じ取り、恭子は詰めていた息を吐き出した。もし死んでいたら教師たちが騒いでいないはずは無いのだが、彼女は浮かんだ疑問を自分で確かめなければ納得できない質だ。

ひとまずは最悪の想像が外れていたことに安堵し、彼女はまたそろそろと手を引く。気が抜けてしまうと、カーテン1枚隔てた先に保健医がいるとはいえ、2人きりの空間に途端にそわそわとし出す。今まで交差点での交錯以外にゆっくり会う時間もなく、こうも彼をじっくり見つめられる日はなかった。

これで彼の方も恭子を見つめ返してくれていれば最高の環境なのだが、彼は今意識を失っている。一体どうして気絶したのか、ワカメ女とは何だったのか、疑問は山ほどあったが、ひとまず彼には休養が必要そうだ。


 (仕方ない、出よう)


このまま見続けているだけでも全く退屈はしないのだが、寝覚めに人がいる状況は誰であっても驚くに違いない。まして気絶前の彼は何かに怯えるような様子だった。

彼女がベッド脇の椅子から立ち上がる。当時に、ふっと見つめる先の彼の瞳が開いた。


 「えっ」


驚きの声が彼女の口から漏れる。対してじっとこちらを見つめる彼はただ黙ったままだ。凍り付いた狭い空間の中で、気まずさを逸らすために恭子は何か言うべきか逡巡した。唇を舐めて心の準備をしている間に、先に口火を切ったのは彼だった。


 「しいな」


焦点の定まらないまま一点を見つめたまま口にする言葉。それが何を意味するものか認識する前に彼はふっと閉じる。そしてまた何事もなかったかのように、すやすやとに寝息を立て始めてしまった。

彼女は止まったままの息をそのままに、じりじりと後退してそっとカーテンの外側に出る。思ったよりも傍近くに控えていた保険医を睨みつつ、はーっと息を吐きだした。


 「彼、起きたの?」

 「よくわかりません。目を開けて一言発したらすぐにまた寝始めてしまったんです」


ふーん、と呟く彼女は聞き耳を立てていた割に興味がなさそうだ。恭子は緊張で硬くなった体をほぐすように、両手を組んで前に突き出した。


 「ところであんた、そんな顔だったんだね」

 「えっ? 今更何を言ってるんですか」

 「だっていつも髪が顔を覆ってて見えなかったから」


彼女ははっとして慌てて後ろに流した髪を前に戻した。常であれば顔は見えないはずであるのに、先ほど彼の生死を確認する時に邪魔でかき上げたことを忘れていた。道理で視界良好であるはずだ。


 「あんたよくそんな髪型で目が悪くならないね」

 「それだけが自慢なんです」

 「顔も悪くないんだから、隠す必要ないのに」


恭子は保険医の言葉は意図的に無視し、彼が残した一言の意味を考える。たった3文字の言葉。意味のない羅列に見える言葉だったが、顔が見えていたのなら一つだけ彼女には心当たりがある。

しいな、つまり『椎名』とは彼女の両親が離婚する前の旧姓だった。


 「でも、どうして彼が知ってるんだろう……」


彼女の呟きに答える者は、今ここには誰もいなかった。

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