第5話 氷漬けの教室
次の日。彼女はいつもより30分も早く自然と目覚めてしまった。昨日は動悸がして中々寝付けなかったのだ。まさか自分自らクラスに行こうと思う日が来るとは、入学当初思いもしなかった。何しろ入学式にさえ参加していないので、担任の顔さえまともに覚えていない。
登校時間はほんの少しだけ早めることにした。やはりまだ人の多い時間帯に昇降口に行く勇気はなかったし、出来れば彼がクラスに入るのを見届けてからしれっと席につきたい。珍しく悠々と朝ごはんを食べている彼女を見て、母親が機嫌よくニコニコ笑っている。
「今日は早いのね、偉いわ~」
「ちょっと、用があって」
昔から朝中々起きてこない娘に、母は毎日苦労していた。そのため無愛想に母を見ようともせず黙々と朝食を食べ続けていても、早起きというプラスポイントによって全く気にされなくなるのだった。
普段ならば恭子が留まり続ける交差点を足早に通り過ぎる。まだチャイムはなっていないものの、彼と違って彼女には校門を走り抜ける体力はない。早めに学校にはついて、時間まで保健室で待たせてもらう予定だ。幸いクラス担任には昨日の内に彼女がクラスに登校することは伝えてもらってあり、余計な干渉はしてこないはずだった。
保険医と他愛のない言葉を交わし、チャイムが鳴りだす頃、彼女は遂に重い腰あげた。緊張のあまり無表情で保健室の扉に手をかけた恭子に対し、保険医はぐっと親指を天に向け、にやりと笑みを浮かべる。
「グッドラック!」
相変わらず年代を感じさせる仕草に和み、恭子は小さく笑って同じように親指を上に向けた。最後の一押しを受けて、彼女は遂に自ら扉を開けて歩き出す。
恭子が教室に入ったのは、丁度チャイムがなっている最中だった。他のクラスに遊びに行っていた生徒達がちらほらと戻ってきて、教室前で呼吸を整えている彼女を怪訝そうに、時にぎょっとして見やりつつ入っていく。
「なぁーーだよな?」
「やばいって、絶対」
「ちょっと、マジ何なん?」
「誰? 知ってる?」
教室中から聞こえてくる声に思わず回れ右しそうになるが、恭子の意思は鋼より固い。生半可な覚悟でクラスに登校すると決めた訳では無いはずど。
よし、と小さくつぶやき、彼女は遂に人のいる教室の中に足を踏み入れた。心臓がバクバクと音をたてている。教室内ではまだ席につかずに友人と話す生徒が多い中、教室に入ってきた見知らぬ女生徒に波のようにざわめきが広がっていく。
「入ってきたぁー!」
「ねぇ、先生呼んだ方がよくない?」
「もうすぐ来るだろ、ほっとけよ」
事前に席を聞いていて本当によかった。昨日は彼の近くに勝手に座るつもりでいたが、今朝保険医経由で聞いた話では、彼の後ろは元々彼女に用意された席だったそうだ。担任の教師は必要以上に干渉してこようとしない良い人物だったが、彼女がクラスにもし来たいと思ってくれた時の為にと、常に席を用意してくれていたらしい。彼女は意図的に周囲の声を遮断し、足早に席へ向かう。
彼と出会わなければきっと高校在学中にクラスに訪れることはなかったに違いない。そう考えると、教師の見えない気遣いは、今となっては心に沁みる温かさだった。少し前の彼女であれば穿った見方で余計に教室を敬遠していたに違いない。
優しい言葉で彼女をまともに戻そうとする人々を見てきたので、彼女は無償の優しさというものに対して酷く警戒心が強かった。彼の反応に心底めげなかったのも、彼の反応に一切取り繕う様子がなかったからだ。
だから有象無象の声は、聞かない。
今日一日だけは頑張る。その想いを胸に、彼女は用意された席に腰を下ろした。
緊張を落ち着けるために、そしてざわめきの中から求める音を聞き逃さないように、彼女は集中して目を閉じる。チャイムが終わる頃、少し開いた窓の外から、ダダダダッと耳慣れた音が聞こえてくる。
来た、と彼女は声を漏らさずに思った。いつもと違うのは彼が昇降口に向かった辺りで一旦音が聞こえなくなり、階段を登るダンダンという力強い音が聞こえてきたことだ。一歩一歩、確実に教室に近づくにつれ大きくなる存在感に、彼女の心臓は張り裂けそうになる。そして遂に彼は教室に現れた。ゼェゼェと息を吐きつつ、彼はどかりと自分の席に座った。いつもよりも焦っていたのだろうか、うなじの辺りに汗が光り、そして彼女にとっていまだかつてない距離で彼の匂いを感じられる。昨日は一瞬すぎてまるでそんな余裕はなかったのだ。
朝礼前に一度話しかけてみよう。彼女はうるさい心臓を押さえつけ、教師がやってくる前に震える指でとんとんと彼の肩を叩いた。彼は気だるげに何だよ和哉、と小さく呟いてこちらを振り返る。教室のざわめきが一瞬二人の周りだけ凍りついたかのように、彼らの時が止まった。
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