第4話 放課後のワカメ女
放課後、人目につかないように昇降口の端の辺りで彼を待つ。いつも人ごみを避けるために終了のチャイムが鳴る少し前にはもう帰路についてしまっているので、こんなに人がごった返しているシーンは初めて見た。
ぼんやりと立ち尽くす彼女を生徒達が怪訝そうに見ている。その一つ一つに身がすくみそうになるが、待ち人が来るまではと必死に逃げ出しそうになる足を抑える。彼は中々降りてこない。心が折れそうになった時、遂に足音が聞こえた。
普段通学用の靴が奏でる走りながらの音とは違い、上履きの彼は耳慣れた音よりも大分ゆったりペースで廊下を歩いている。心なしか嬉しそうで、弾んだ音だ。
彼女は何度も心の中で練習した言葉を口の中で小さく繰り返す。彼が外履きを取り出している間に恐る恐る近寄り、そして遂に肩を叩いた。振り返る彼に向って、第一声を発しようとした瞬間。
「わ、わ、ワカメ女ぁーー!!」
彼は聞いたこともない金切声をあげ、仕舞うはずだった上履きを放り投げて脱兎のごとく走りさってしまった。宙を舞った靴は天井に当たって跳ね返り、丁度唖然としていた彼女の頭に突き刺さる。
「痛い……」
頭への衝撃だけでなく、ワカメ女、という彼の言葉が彼女の胸に鋭利なナイフとなって突き刺さった。彼が自身のことをどう思っているのか。甘い想像ばかりしていた訳ではないだが、まさかそんなあだ名をつけられていたとは露知らず、彼女は毎日目があったと喜んでいたのだ。
恭子は彼と一緒に帰路につくつもりだったために履き替えた外履きを、再度上履きに吐きなおした。落ちてきた彼の上履きは靴箱にそっと入れ、重い足を引きずって保健室まで戻っていく。
「わ、ワカメ女か」
先ほどの出来事を伝えると、保険医は口元を抑えてぷるぷると震えている。感情の機微に疎い恭子でも今彼女がなぜそんな行動を取っているのかは流石にわかった。笑いを抑えきれないのだろう、手で隠しきれない頬がぴくぴくと痙攣している。
「あんなあだ名つけられてるなんて、もう彼とどんな顔して会えばいいのかわかりません。学校に来る意味もなくなっちゃった」
笑いを堪える教師を咎める気力もなく、恭子の気分は最低まで落ち込んでいる。ここの所毎日学校に来られたのも、ほとんど遅刻しないような時間に保健室に来たのも、全ては彼がいたからこそ出来たことだ。それが無くなる以上、また不登校がちな生活に戻ってしまう。
「そう悲観することもないって。だって向こうはこっちをちゃんと認識してくれてたわけでしょ? まだ話したこともないのにすごいことだよ」
「先生って、ポジティブシンキングすぎるって言われませんか」
「だってマイナスからのスタートならもう失うものないじゃない。変に期待しちゃうとがっかりした時につらいわよ」
既に期待で胸を膨らませていた彼女にとっては何の意味もない言葉に思える。
「目の前で悲鳴を上げられたんですよ。もう終わりですよ」
「まだ話もできてないんでしょ? 大丈夫よ、だって彼とうまくいってもいかなくても、どの道保健室登校は続けられるわけだから。失敗したらもう会わないようにすればいいだけ、どーんと当たって砕けなさいよ」
逃げ道を示して安心させようとしてくれる保険医に、彼女の冷え切った心は少しだけ温まった。話しながら用意してくれたお茶を啜れば、物理的に体もじんわりと熱を増す。確かにだめならまた元の生活に戻るだけ。話はできなくとも、またあの交差点で彼を待てばいい。あの一瞬の交錯のためなら、早起きすることなど大した問題ではない。
「じゃあ、先生に免じてもう一度だけ頑張ってみようと思います」
「いいねー、青春だねえ! 骨は拾ってあげるからさ、思い切りいくのよ!」
「どうして失敗前提なんですか! 最底辺から始まる成り上がりストーリーの始まり位には言ってくださいよ!」
「そんなラノベのあらすじじゃないんだから……」
保険医とのやり取りに、沈んでいた彼女の心は少しだけ持ち直した。明日一日は精いっぱいやって、それで駄目なら諦めよう。彼女は人の少なくなった校内を移動し、恐る恐る彼のクラスであり自分のクラスでもある場所を確かめた。幸い移動中を含めだれとも遭遇することなくたどり着いた。
彼の机の場所は窓の外から確認している。おあつらえ向きに後ろの席もあいているようだ。彼女は窓際一番奥の席を一撫でする。
「明日は勇気をちょうだいね」
一つ前の席をもう一度眺め、彼女は再びそろそろと教室を出た。外履きを取り出す時に苦い思いをしたものの、なるべくさっきのことは意識しないように努めて足早に学校を出た。その日の晩御飯は大好きなカレーだったが、緊張によって半分も喉を通らなかった。
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