第2話 保健室の乙女

「最近早いのねー、感心感心」


カラリと保健室のドアを開ければ、見慣れた保険医が朝っぱらからアイスを頬張っている姿が見えた。


「先生は、感心とは程遠い格好ですね」

「相変わらずはっきり言うなー! 事実だから反論できないけど!」


保険医の性別は女のはずだが、パンツスタイルをいいことに大っぴらに足を開き、背もたれにどかりと体を預けている。

彼女は憎まれ口を叩きながらも、この開けっぴろげな保険医が好きだった。今まで出会った人々は、彼女に〝普通の学生〟として在ることを求めるばかりで、やれちゃんと登校しろだの自分のクラスに行けだの遅刻するなだの煩かった。常識から考えれば当たり前のことなのかもしれないが、彼女にとっては当たり前が最も難しいことだと理解してくれる人は誰一人いなかった。両親でさえ、娘の普通から逸脱した姿に日々嘆いている。


「それにしてもここの所ちゃんと毎日来るし、時間も早いし……ははぁ〜ん」


保険医は縁の薄い眼鏡を得意げに弄り、ニタニタとえくぼを凹ませ彼女の顔をまじまじ見た。


「さては男ができたな」

「うっ、いっったぁー!」


彼女はまさに口をつけようとしていた水筒の口に歯を思い切りぶつけた。かろうじて中身は溢さなかったものの、衝撃に痛む歯を唇の上から押さえ、涙目で相手を睨む。


「何でそうなるんですか」

「だって思春期だし? そんで、実際どうなのよ、何年何組? どんなやつ?」

「決めつけないでください……」

「ふーん、じゃあ他に理由でもあるの?」


別に、と呟いて彼女は今度こそ水筒のお茶で喉を潤す。あけすけな物言いが好きとは言っても、繊細な年頃の生徒の恋愛事情に親父の如くズカズカ入り込むのは頂けない。


「まあどんな理由でもさ、あれほど学校に来るのを嫌がってたあんたが毎日、しかも朝の内に登校してくるなんて大した進歩よ! 先生感動しちゃうっ!」

「こんな時だけ先生ぶらないで下さいよ、全く」


彼女は苦笑を浮かべ、泣き真似までしている保険医を温かい気持ちで見遣った。友達が皆無と言っていい彼女にとって、何だかんだで保健室で過ごす時間はいつのまにか少し楽しいものとなっていた。


「もし。もしですよ? 仮に先生が好きな生徒がこの学校にいたとしたらどうします?」

「いやぁ、流石に15以上歳の離れたチェリーボーイには興味ないわー。捕まっちゃうし」

「チェリーボーイって何ですか! 同級生だったらってことですよ!」

「へぇ、同級生ねぇ?」


これでは先ほどの推測を認めてしまったようなものだが、人生初の色恋沙汰を前にして、彼女は少しでも情報が欲しかった。ただでさえ常識に欠けているのだ。下手なことをして彼に嫌われるのだけは避けたかった。

仮にも保険医は人生の先輩なのだから、役に立つアドバイスの一つでもくれるはずだ。


「そうねー、私なら……押し倒すかな!」

「アウト! アウトです、下手したら消されますよ!!」

「誰にさ」

「私たちでは逆らえない方々にです! そもそも私まだ高校生なんですけど!」

「今時の高校生は進んでるって言うしー」

「とにかくもっとプラトニックな方向にしてください!」


えー、と不満顔の保険医を睨みつけ、恭子は憤懣やる方ない様子で腕を組んだ。


「そうは言うけどそもそもあんたの事だから接点もないんでしょう? まずはそこからよ」

「せ、接点がないとは限らないじゃないですか。私の話じゃないんですし」


保険医は慎重に相手の様子を窺いみる。彼女は意味もなく指の先をいじり、顔を下に向けてキョロキョロと視線を動かしている。接点があるというのは嘘ではないようだ。


「それなら話が早い。相手が自分のこと認識してるなら、話しかけるしかないでしょ」


でも、と恭子は体を縮こまらせる。先ほどの威勢の良さはどこへやら、一気に大人しくなった様子に、保険医は肩を竦めた。


「それが出来ないなら諦めるのね」

「そんなっ!」

「あくまで私ならだけど、例えばまるで話したことも無い相手からラブレターなんて貰ってもまず付き合わないわ。だって知らない相手と付き合ってうまくいくかなんて分からないもの」


ラブレターとは随分古風だなと恭子は思ったが、彼どころか、彼女はSNSというものを一切利用していなかった。繋がる相手が両親しかいないので初めからやる意味を感じないからだ。

しかし馴染みのない事といえ、彼女の言いたいことは恭子にも理解できた。毎朝のように目が合って喜んでいても、彼が話しかけてくれた日は一度もないのは事実だ。お互い恥ずかしがっている所もあるだろうし、流石に一目ぼれを期待するほど夢見がちではない。

ひょっとしたら、彼には既にクラスで仲のいい女子の一人や二人いるかもしれない。恭子が知るのはあの交差点での彼の様子のみなのだから、他の部分は想像で補うしかなかった。


 「まあでもさ、好きな人が近くにいるってのはいいもんよ。遠く離れてしまったら、秘かに様子を見て自己満足に浸るなんてのも出来なくなるんだからね?」


静かな言葉に、恭子ははっと顔を上げた。保険医は先ほどからかってきた時の様子は鳴りを潜め、少しばかりしんみりとした雰囲気で諭すようにそう言った。過去に何かあったのだろうか。喉元まで出かかった疑問を飲み込み、恭子は思考に沈む。

あの交差点に立ち始めたのは衝動的な行動だったが、彼と話をするということは、安心できるこの保健室から出て、校内を歩き回ることと同義になる。極度の人見知りである彼女にとってそれは苦痛以外の何物でもなかった。

しかし保険医の言葉はもっともだ。何故なら彼らはもう高校生であり、もう何年もしない内に大学や専門学校、就職、様々な道に羽ばたきだす年頃だ。恭子は彼がこの先どうしようとしているかなどまるで知らない。ひょっとしたら遠くの街に行ってしまうかもしれない。そんな想像をしただけで、彼女の心は壊れそうな位にぎしぎしと痛みを感じ始めた。


 「だからさ、あんたにも後悔だけはしてほしくないのよ。どんな結果になったとしても、踏み出す勇気を持てなかったせいで未来で苦しむ姿は見たくないからさ」


保険医は苦しそうな恭子の肩をぽんと叩き、ようやく本来の業務を取り戻したかのようにほほ笑んだ。机の上にある完全な液体化したアイスを口の中に流し込んで捨てると、はい!と手を打ち鳴らした。


 「人生の先輩タイム終わり! そろそろ授業が始まるから、自習の準備するのよー」

 「あの、ありがとうございます……先生」

 「あんたに先生って言われるとむずがゆいわねえ!」


立ち上がった保険医は快活に笑い声をあげる。一歩踏み出す勇気。すぐに行動に移すのは臆病な恭子にとっては高い壁だった。しかしその言葉は確かに、彼女の胸の奥に大事にしまわれている。


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