第三章
第三章
いつも通り、櫻子は、近隣の空き地でスーフィーダンスの指導をやっていた。このダンスをやっていると、いつもながら、変なことをやっている人たちがいると言って、近所の人たちから、文句を言われるのが、常であるのだが。
「ちょっと、すみません。中村櫻子さんですね。」
急にそういわれて、櫻子は、メンバーさんたちに踊りを止める指示を出して、後ろを振り向いた。すると、一台のパトカーが止まっていて、華岡が出てきたので、メンバーさんたちはぎょっとした顔をする。
「なんですか、警察のお世話になるようなことは、しておりませんよ。私は、イスラム教のスーフィズムの教えに基づき、踊りを踊ることで、心に安らぎをもたらす活動をしているんです。つまり、日本の座禅と同じことですよ。中東では普通に行われています。其れがなんだというのですか?」
櫻子は強気でそういう事をいった。
「そうじゃなくてですね、中村さん。私は、スーフィズムの事じゃなくて、中村さん個人にお話があるんです。」
華岡は彼女に言った。
「あなた、瀧本和也さんという人をご存じでしょうね。あなたと一緒に、瀧本さんが歩いている姿が、目撃されていますよ。知らなかったとは、言わせません。」
「ええ、知っていますよ。彼は、私のところに来られました。」
と、櫻子は高らかに言った。
「それがなんだというのですか?何か悩みがあって、人に相談するのはおかしなことではありませんよ。」
「失礼ですが、何を相談に来たのですかな?」
と華岡は、彼女に聞いた。
「ええ、和也君は、芸能活動をしていくにあたって、事務所と自分の方向性が、一致しないと言って、相当悩んでおられました。自分は、これからは、人が悩んだり苦しんだりしたときの歌を作りたいと言っていたのに、事務所が恋愛歌を要求しすぎるとね。カウンセリング事業所などにも行ったそうですが、彼の名が有名であるからということで、断られていたようです。」
櫻子がそういうと、華岡は、
「それで、あなたは何か答えを出しましたか?」
と、聞いた。
「ええ、私は彼に、あなたは歌手として、これからも事務所が要求しているような歌を書き続ければならないと述べました。彼は、そのような歌で稼いだお金なんて何の意味もないと言いましたので、私はそうなってしまったら、サダカをおこなったらどうかとアドバイスしました。」
「サダカ?それ何ですか?」
「ええ、クルアーンに書かれている、ムスリムの義務の一つで、金品を誰かに与えることを義務付けているんです。国家の税金として、義務付けられているものは、ザカートと言いますが、個人的に任意で行う、金品の寄付を、サダカと言っています。」
「うーん、さすがイスラム教だ。わけのわからない言葉ばっかりだなあ。」
櫻子の説明に、華岡は頭をかじった。
「でも、そういうことを、信徒に義務付けているのはイスラム教だけですよ。そういうことをやって、人に対して優しくすることを学ぶんですから、素晴らしいじゃないですか。」
と、メンバーの一人がそういうので、華岡はさらに頭をかじる。
「なるほど。で、瀧本和也が、あなたのアドバイスを受けて、具体的に何をやったか、あなた、ご存じありますか?」
と華岡が聞くと、櫻子は、
「ええ、彼には、サダカのことを教えはしましたが、クルアーンには、イマームにサダカをしたと報告する義務はありません。私は、大まかな話ししか知りませんが、なんでもピアノを弾かれる方に、サダカを施したそうです。」
とこたえた。
「ですが、私たちは、指示を出すことはしても、実行させるのは、本人であるということも、重点を置いています。だから、本人の意思には介入しない。其れも、私たちの仕事です。」
櫻子がつづけてそういうと、
「そうですか。わかりました。それでは、われわれはここで失礼しますが、その何とかダンスと言われる変なダンスは、あんまり近所迷惑にならないようにしてくださいよ。」
と華岡は、手帳にメモを取ると、急いでパトカーに乗り込んで、帰っていった。
「じゃあ、もう一回、踊ってみましょうか。では始めますよ。」
と、櫻子たちは、何事もなかったように、スーフィーダンスを続けるのである。華岡はそれを、恨めしそうにパトカーの中から眺めていた。
「で、何かわかったんでしょうか。弟のことについて。」
と、警察署に杉ちゃんたちと一緒にやってきた、瀧本恵理子は、華岡に聞いた。
「ええ、彼はですね。芸能人としてやっていくのに、芸能事務所とことごとく対立していたようですね。事務所は、恋愛歌を中心に描かせたかったらしいんですが、彼の意思では、そうではなかったらしい。まあ、お姉さんも、その程度のことは知っていらっしゃると思うんですけどね。」
と、華岡は、恵理子に話をした。
「それで、お姉さん。ここからはあなたにも聞きますが、弟さんが、中村櫻子のもとへ相談に行っていたことは、ご存じですか?」
「そうですね。中村さんのことは、知っていましたけど、、、。」
と、恵理子さんは戸惑ったような表情をした。
「それで、中村さんが、えーと、なんて言ったっけかな。何とかという、金銭を寄付する行為をするようにと、指示していたことはご存じでしたか?」
「ああ、サダカの事ね。庵主様が、言ってた。仏教のお布施と似たようなところに、イスラム教のサダカがあると。」
と、杉ちゃんが口をはさんだ。
「そうそう!それそれ。なんでも、ムスリムに課せられた義務だそうだな。そうやって、貧しい人に、お金を寄付するの。」
「ああ、なんかそういうところあるよね。イスラム教の教えってさ。貧しい人の生活を体験するために、断食したり、誰かに寄付したりするんだろうが、その割に、殺し合いをすることも認めている。」
華岡がそういうと、杉ちゃんもはあとため息をついた。
「それで、弟は、誰かに自分の収入をあげたんでしょうか。」
と、恵理子が聞くと、
「ええ、弟さんが、ずっと長年慕っていた人物がいたそうで、その人に送金したということは、捜査でわかりました。それは、お姉さんではありません。別の人物です。」
と、華岡は答えた。途端に恵理子の顔が真っ白になる。
「弟は、私以外に、慕っていた人物がいたということですか。」
「ええ、そうですよ。今知ったんですか?」
と華岡が聞くと、彼女はこくりと頷いた。
「本当に、知らなかったんですか?誰か、ずっと慕っていた人がいると、同じ家に住んでいたことのある家族として、ご存じなかったんですかね。」
華岡がもう一度聞く。
「ええ、知りませんでした。それは女性でしょうか。其れとも?」
「ああ、そこらへんはまだわかっておりません。又わかり次第お話します。」
「でもなんで、そんなことが分かったのでしょう。弟は、なんでも私に話してくれたのに、それだけはなんで私に隠していたんでしょうか。学校でも、交際していた女性がいるのなら、ちゃんと話してくれたのに。」
「まあまあ取り乱すな。」
と、杉ちゃんが彼女に言った。
「そういうことはよくある事だ。家族に知らせないで交際していたということはよくあるの。だって、家族にいちいち知らせていたら、取られてしまう可能性だってあるでしょ。だから、あえて彼はお姉さんであるお前さんには話さなかったんだ。わかるか?」
と、杉ちゃんが言うと、
「そんなこと、だって弟はなんでも、話してくれたんですよ。学校の事、それ以外の事、何でも話してくれていたのに。」
彼女は、涙をこぼして、テーブルの上に突っ伏して泣いた。
「まあ、泣かないでくれ。弟さん、享年幾つだっけ?」
と杉ちゃんが華岡に聞くと、華岡は、静かに19歳と答えた。
「ほらあ、まだ大人にもなっていない年じゃないか。そういうわけだから、家族に知らせないでこっそり誰かと付き合いたいっていう気持ちがわいてくるときもあるの!」
と、杉ちゃんが言うと恵理子はそんなことあり得ないと言って、さらに泣くのであった。おいおい、テーブルを汚さないでくれないかなと華岡が言いながら、彼女にハンカチをそっと渡した。
「おい、もう。」
と杉ちゃんが言うと、彼女ははいと言って、涙をふく。
「じゃあ、とりあえず、捜査会議があるので、又何かわかったら、連絡するよ。じゃあ後は杉ちゃん
頼んだぜ。」
と華岡は言って、椅子から立ち上がって、捜査会議に戻っていった。まあ確かに現役の警察官であれば、人が逝ったことについてあまり感情的にならないのだろうが、一般人にとって、あまりにも大きすぎることでもある。
「まあしょうがないじゃないか。兄弟であっても他人と思わなきゃいけないことはなんぼでもあるよ。人生にはいろんなことがあるもんだ。」
杉ちゃんは、そういって、焼いた肉をがぶりと食べた。
あのあと、恵理子さんが泣き出してしまったので、杉ちゃんが家に帰る前に吐き出してしまえと、焼肉屋ジンギスカアンに、彼女をつれてきたのだ。仕方ないといえば仕方ないのだが、人間には、ハイそうですかと一度で言い切れるとは限らない場合もあるので。
「ほら、肉を食べな。ここの肉は滑らかで美味しいよ。ほら、食べろ。」
と、杉ちゃんに肉を差し出されて、恵理子は、肉にかぶりつくように食べた。そして、焼肉屋ジンギスカアンの店長であるチャガタイが持ってきたお酒を一気に飲み干してしまった。
「お、いいぞ、やれやれ。たまにはお酒をがぶ飲みするのもいいってことだ。そのために酒はあるんだから、ほら、もう一杯のみな。」
と杉ちゃんがいうと、チャガタイがまた酒をグラスに注いでくれた。恵理子さんは、またそれをイッキ飲みする。
「ご迷惑おかけしてすみません。」
恵理子さんは泣きながらいった。
「いいってことよ。だって知らなかったんだろ?弟さんが、中村櫻子さんのところに行っていたの。」
「はい、知りませんでした。」
恵理子さんは、また言った。
「それなら、今知ったんだからそれでいいの。それで、そのあとどうしたらいいか考えればそれでいいのさ。」
と、杉ちゃんがいうが、
「まあでも確かに、知らなかったことが、大きすぎたこともありますよね。」
と、チャガタイは彼女を慰めた。
「大きかろうが小さかろうが、事実は事実だ。それは、しょうがないことだと思ってくれ。それに、事実の大きさを考えるのは、誰も考えることじゃない。ただあるだけなんだ。そう思ってくれ。」
と、杉ちゃんがそういうと、
「確かに、うちの従業員でも、小山田和也の歌に励まされたという人は多いからな。何処かの女性歌手みたいに、恋愛歌の教祖みたいな感じでヒットしてたよ。小山田和也。」
チャガタイが、腕組みをしていった。
「まあ確かに、19歳という年齢であれば、まだ経験にも乏しいだろうし、そういう宗教的なものにはまってしまうこともあるだろう。それに、誰か家族以外の、スター的な人にあこがれることも、普通の事だよ。」
「まあな。でも、この人には、それは当てはまらないよ。今まで弟さんのために生きていたようなものだから。」
杉ちゃんは、また、焼肉にかぶりついた。
「まあそうだね。彼、つまり、小山田和也と聞けば、五年位前だったかなあ。いきなりデビュー曲が大ヒットして、其れからもヒット曲を連発して、19歳になった今でもそれを維持し続けているだろう。そういう彼だもの、学校にも碌に行ってないよ。其れに、中村櫻子という女性だって、自分がやっている教団の宣伝塔に、小山田和也を使えばいいと思うから、彼の相談にも乗るだろうね。そういう風になっても仕方ないんじゃないか。」
「そうだよな。義務教育だってまともに受けてないだろ。其れだけ、歌がヒットすれば、学校なんか行っている暇もなかったのでは?そういう時のために、教育っていうもんはあるんだろうけどさ。芸能活動のために教育を受けられなかったやつは、今も昔もいるよな。大衆演劇の跡取りだったとか。」
チャガタイと杉ちゃんが、相次いでそういうことを言ったため、恵理子も、そうしておけばよかったと思ったのであろうか、
「確かにそうかもしれません。私も、そういうところはちゃんとさせてやるべきだったかもしれないわ。教育を受けさせることも、今思えば必要だったかもしれない。」
と、小さな声で言った。
「最も、その教育機関にも寄るけどさ。いきなり怪しい宗教団体に足を踏み入れないようにするためにも、やっぱり、和也君みたいな若くてすごい才能がある子には、教育を受けさせることは大切だと思うね。芸能人って、簡単に結婚したり離婚したりしてて、家庭的な幸せが得られない人が多いから。そういう事もちゃんと、教えてもらってないから、そういうことになっちゃうんじゃないのか。」
と、杉ちゃんが言った。チャガタイも、そうだねえといった。そういうひとってのは、自己管理の大切さが、何よりも大きな課題となる。
「だけど杉ちゃん。」
チャガタイが、杉ちゃんに言った。
「まあ、確かに、和也君のような若い子が、中村櫻子のような宗教家の元を訪れるのも問題だが、その中村櫻子という女性は、どんな人物なんだろうね。イスラム教に入ったなんて、そもそもさ、イスラム教なんて、女のひとには、非常に不利な宗教じゃないか。だって、国家によっては、女性の選挙権がないところだってあるだろう。そんな不利な宗教に、なんで彼女は魅力を感じたんだろうか?」
「ええ、それはイスラム教のスンナ派というところにいればそうなりますが、イスラム教にはもう一つ派があるんですよね。」
いきなり店の正面玄関がガラッと開いて、ジョチさんが、カバンをもって、入ってきた。ちょうど、経済産業省の審議官と会食をして、帰ってきたところだったのである。
「なんだ兄ちゃん、帰ってきたのか。それに、俺たちの話はちゃんと聞いてたの?」
と、チャガタイが言うと、ジョチさんは、黒の羽織を脱ぎながら、そういうことを言った。
「ええ、杉ちゃんの声が大きいから、玄関の戸を開けたら丸聞こえでした。敬一の話していることもちゃんと聞こえました。」
「兄ちゃん耳が良いな。」
とチャガタイは、うらやましそうに言った。実はジョチさんとチャガタイは実の兄弟ではない。母親は同じであるが、父親は異なっているという、事情があった。ジョチさんが幼い時に、母親が再婚し、その相手の生まれたのがチャガタイだ。その事情をしった杉ちゃんがジョチさんとあだ名をつけたのである。ジョチとは、よそ者という意味のモンゴル語である。
「で、イスラム教にもう一派あるっていうけど、それは何なの?」
と杉ちゃんが言うと、
「ええ、イスラム教の八割くらいは、スンナ派という派閥になるんですが、大体イスラム教の典型的なイメージは大体スンナ派からとられていますよね。実は、イスラム教にはもう一派あって、それがシーア派です。ちなみに、スーフィズムもシーア派から生じた一派と言われています。どちらも、唯一の神アラーには、忠誠を示さなければなりませんが、日常生活や、服装まで制限されているスンナ派に対して、それらのことに、あまり厳しくないのがシーア派と言われています。細かく分けばイスラム教は、いろんな派閥があるんですが、代表的なものはその二つです。ただ、日本では圧倒的にスンナ派が知られているでしょうね。」
と、ジョチさんは、言った。
「すごいなあ、兄ちゃんは。そんな知識、どこで手に入れたんだい?俺、兄ちゃんが、そんな勉強していたところを、見たことないよ。」
とチャガタイが驚いてそういうと、
「ええ、外務省に勤めている知人から聞いたんですよ。」
ジョチさんが種明かしをしたので、笑い話になってしまったが、
「でも、イスラム教も、表と裏があるんだね。やったら制限の多い宗教だと思っていたのに、そういう優しい派もあるなんて。」
と、杉ちゃんが話を戻した。
「それで、中村櫻子が、取得したのは、シーア派のスーフィズムですから、比較的わかりやすいでしょうし、若い青年だった、瀧本和也君も理解できたのではないでしょうか。シーア派は、戒律が厳しくなく、教義もわかりやすいとして、入信しやすいと聞いていますしね。」
「はあ、なるほど。カウンセラーに心理分析してもらうよりも、かえってアラーがどうのと言っていたほうが、わかりやすいかもしれないね。それに、日常生活にさほど影響しないならなおさらだ。」
と、杉ちゃんが、ジョチさんの話に応じた。チャガタイと、恵理子は、何を話したらいいのかわからないという顔をして二人を見ていた。
「まあそういう事ですから、瀧本和也も悩みを救ってくれる存在だと思ってしまったのかもしれませんね。五年もしないうちに、大御所の仲間入りをして、曲が飛ぶように売れて、テレビにも頻繁に出て、はたから見れば、素晴らしいほど幸せをつかんでいる瀧本和也にとって、事務所と音楽性が合致しないという、傍から見れば大したことのない悩みであっても、ものすごい大きなことに見えてしまったのかもしれません。それは、そう見えてしまっても、仕方ないですよ。それで、彼は彼なりに悩んだんだと思います。それで、彼なりのやり方で、中村櫻子さんに近づいたのでしょうね。」
「すごいなあ、兄ちゃんは。そんなところまでわかっちゃうなんて、俺は尊敬するよ。」
とチャガタイが、うらやましそうにそういう。チャガタイ本人は、正確には義理の兄を、尊敬の目で見ているのであるが、ジョチさんにとっては単に迷惑だとしか感じていないようであった。
「でも、私は何だったんでしょう。姉として、何か才能があったわけでもないし、逆を言えば、迷惑な存在だったのでしょうか。弟にとって。弟が、あんなに有名になって、爆発的に売れて、テレビにも出て。弟のお金で、私は不自由しなくなりましたけど、今度は近所の人たちから、嫌がらせを受けるようになって、弟を、ねたむようになってしまって、、、。」
「まあ確かにそうですね。僕もなんとなくその気持ちがわからないわけでもないですよ。でも、人間どうしても、何とかそれを持ったまま生きていかなければならないということもあるでしょう。其れが、宿命的なものなのかもしれませんね。」
恵理子は、又涙をこぼしてないた。それを、ジョチさんとチャガタイは、確かに大変だという顔で、見守った。
杉ちゃんだけ一人、焼肉にかぶりついていた。
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