第十六章

 雲ひとつない青空、日差しが眩しく周りには見渡す限り静かな海が広がる伊豆、小笠原の沖合で、一隻の豪華な大型クルーザーがエンジンを止めて停泊していた。

 波は穏やかに凪いでいて、船は静かに海原の中を漂っていた。 

 船のデッキには、涼介、譲二、恵子、英吾、智子の五人に加えて涼介の義理の父である警察庁の「藤堂」、恵子の父親で東京医師会役員である飯尾潤三、英吾の父で与党大物政治家の阿川大悟、智子の父で最高裁判所判事の榎木光五郎の四人が揃っていた。

 ここにいる九名が『セイフプレイス』を支える幹部である。

「このクルーザーって何人乗りだっけ」

 涼介の問いに、持ち主であり操縦者である譲二が答える。

「ゲストは最大十二名ですね」

「しかしいままでも何度か乗せてもらったが、いい船だね」

 阿川大悟がデッキチェアに座ってくつろぎながら褒めた。

「このメンバーでこの船に集まるのは久しぶりだな。三年振りか」

 飯尾潤三が「藤堂」に話しかけていた。

「そうですね。大きな案件を仕掛ける時や片付いたりした時にこうやって海の上で集まるのは五回目になりますね」

 河原源蔵と花江が自殺と判断されてから、榎木智子が河原圭の子供、圭一を出産。法的な手続きなどを経て圭一が河原家の財産を無事相続し、母親の智子がその後見人となった。 

 『セイフプレイス』の組織は、智子やその父の榎木光五郎の協力も得て、河原家の全ての隠し財産と隠された情報のありかを探しだし、多くの資産を処理した。そのほとんどを『セイフプレイス』に寄付させるまで約一年がかかった。特に山の中に隠されていたシェルターの中の隠し財産を取り出すことに相当な費用と時間を要してしまったのだ。

 それらの仕事が一段落したため、こうして組織幹部が集まることになった。前回の集まりは河原源蔵をしとめるための作戦会議であり、今回がその作戦成功を祝っての会合である。今回の作戦は、組織始まって依頼の最大のターゲットで、莫大な資産を得ることに成功した、記念すべき日であった。

 英吾は智子と話をしていた。

「智子、今日息子の圭一はどうしてるんだい?」

「ふみえさんに預かってもらって面倒を見てもらっているわ。今日は大事な会合だから」

 そう言ってちょっと気だるそうに智子はデッキチェアに横になっていた。少し船酔いしてしまったようだ。

「もうすぐ一歳になるんだっけ」英吾は遠くを見つめながらそう呟いた。

「そうね。あれから一年近くが経つのね」

「父親がいない子供だが元気に育っているようだな。君は一人で大丈夫かい」

「圭と付き合って彼の子供を産むことを計画した時から覚悟していたことよ」

 智子はそう言って海を見つめた。

 智子は今回の出産を機に「榎木弁護士事務所」の所長の座を組織の一員である別の弁護士に譲って産休に入っていた。

「仕事はいつ頃から始めるつもりだい?」

「まだしばらくは弁護士の仕事を休んで育児に専念する予定よ。今は仕事より、圭一の面倒を見ることが私の生き甲斐なの」

「そうか。確かに弁護士の仕事はいつからだって始められるからな。でも圭一の面倒は、今しかできない仕事だからな。三つ子の魂百までっていううけど、子供は三歳頃までが大切な時期だって言うからね」

「そうね。英吾さんもそろそろ子供が欲しくなったんじゃない? ああ、結婚が先ですけどね」

「そうだなあ。それが問題だよ。パートナーがいないと始まらないからな」

「恵子さんなんかどうですか? 英吾さんと同い年だし、結構いい組み合わせだと思いますよ?」

 そんな話をしていた所に

「さあ、シャンパンの用意ができましたので改めて乾杯しましょうか」

 恵子がそう言いながら九人分のグラスを運んできた。一緒に持ってきたのはなんと一本が二十万円はするドンペリのゴールドである。

「ほう、豪勢だね」榎木光五郎が言うと

「これはちゃんと私が稼いだお金から出ていますからご安心ください」

 譲二は笑って恵子の手伝いをしてシャンパンが注がれたグラスを全員に配った。

「恵子さん、すみません、お手伝いせずに」

「良いのよ。船に酔っちゃったみたいね。でもこのシャンパンはなかなか飲めるものじゃないから無理してでも飲んだほうがいいわよ」と恵子は笑って智子にもグラスを渡した。

 九人の中で一番最年長の阿川大悟がグラスを持って立ちあがって全員を見渡し

「皆にグラスは渡ったね? ではお疲れ様でした。乾杯!」

 そう言ってグラスを持ち上げシャンパンを飲み干した。そこにいた全員が高級なシャンパンに誘われて船酔いしていた智子さえも一口、二口と飲んだ。

「ん? 少し口当たりが良くないな」

 榎木光五郎がシャンパンを飲み干した後、首を傾げた。

「そうでしょうね。あなたのシャンパンには少し睡眠薬をブレンドしていますから」

 涼介が光五郎に向ってそう言った後、智子の方に振り向いて

「お前の分もな」そう囁いた。

 榎木親子は涼介の顔を凝視した。二人の顔はどんどん青ざめていった。

「なぜ?」

 智子は自分の意識が遠のいていくことを感じながらそう叫んでいた。

 

 智子は意識が戻り気付いた時には、光五郎と一緒に背中合わせにロープで手足を縛られ、海に浮かぶ救助用ゴムボートの上で横たわっていた。

 クルーザーに乗っていた時のように海は凪いでいたが、ゴムボートの上では波の影響は大きく感じられ、榎木親子は上下に揺られていた。

 光五郎はすでに意識を取り戻していたようで、何かを叫んでいる。

「どういうことだ! 私達を殺すつもりなのか! 何か答えろ!」

 縛られて体の自由が利かない智子もなんとか首を動かし、周りの状況を確認した。

 するといつの間にか、譲二のクルーザーの他にもう一隻のクルーザーが現われていて、二人が縛られ乗せられているゴムボートを挟むように二隻が並んでいた。

「二人とも目を覚ましたようだな」

 その声は涼介だった。もう一隻のクルーザーに乗り移っており、助手である後藤兼次、香川謙太郎の二人も乗船していた。

 おそらく榎木親子が睡眠薬入りのシャンパンを飲んで意識を失っている間に、後藤達がもう一隻のクルーザーに乗ってやってきたのだろう。 

 涼介と後藤、香川というメンバーを見て智子は血の気が引いた。父である光五郎と二人で縛られ、涼介の他にこの二人がいるということは、確実に智子達の裏切りへの制裁に現れたのであろうことは明白だ。

 この三人が自分達の組織『セイフプレイス』における闇の仕事を主に引き受けているからだ。一年前の河原源蔵と花江を自殺と見せかけて殺したのも彼ら三人と譲二を含む四人だと聞いている。

「君たちは私達をどうするつもりだ!」

 光五郎はまだ、涼介達に怒鳴っている。そんなことをしても無駄だということは幹部である彼なら判り切っているはずだ。この状態ではほぼ全てが明らかにされた状態であり、制裁が下されることは決定事項なのだ。しかし彼はまだ無実でも証明しようというのか、虚勢を張って賢命に抵抗を試みている。

「榎木判事。あなたはなぜ幹部メンバーの目の前でこのような姿を曝しているかはもう理解しているはずだ。これは事実を知りたいという事情聴取ではない。俺達は知っている。あくまで確認だ」

 涼介がやや離れたクルーザーからよく聞こえるように大きく、しかしドスの利いた声で怒鳴った。

 智子は背中越しに光五郎が震えているのが分かった。そう、確認だ。

 これは涼介達のように代々闇の仕事を行ってきた幹部が、追い詰めた相手に告げる決まり文句である。その言葉を知らない幹部はいない。光五郎も智子もそうだ。だから彼は震えているのだ。

「な、何が確認だ。私達が何をやったというのだ」

 まだそんなことを言っている。本当に父はこのメンバーを騙し通せると思っていたのだろうか。智子は父から『セイフプレイス』のルールに背く提案を受けた時点からこうなることを覚悟していた。しかし彼は覚悟していなかったのだろうか。

「俺達、『セイフプレイス』のルールは覚えていますか? 榎木判事」

 涼介がタバコに火をつけながら尋ねた。言葉に詰まりながらも光五郎は答えた。

「わ、私達の様な隠蔽された被害者、コンシールドヴィクティムを救済することだ」

「それが俺達のルールは何かと聞かれて一番に答える答えかい? それは幹部の答えじゃないな。後ろめたいからそんな答えしか言えないんだろ」

 涼介はその言葉を鼻で笑い、そして矛先を智子に向けた。

「それじゃあ智子、お前はどう答える?」

 智子は涼介に対し、背中を向けている状況だ。背中合わせに縛られている光五郎が彼と正対している格好になっている。

 だから智子からは首をひねり、体を後ろにむけなければ涼介の顔は見えない。

 智子は背を向けたまま彼の問いに答えた。

「私利私欲に走らない、ということよ」

「そうだ。娘はしっかり分かっているようだぜ。榎木判事」

 智子の言葉に満足したかのように頷いた涼介はタバコの煙を吐き出しながら光五郎に言葉を浴びせた。

「私達が私利私欲に走った、とでもいうのか」

 声を震わせながら光五郎は言った。

「そうだ」

 あっさりと答える涼介に光五郎は言葉を失った。

「だから俺達は知っていると言っただろ。俺達の調査を甘く見るんじゃない。これはあくまで確認なんだ」

「もういいわよ、お父さん」

 涼介の言葉を聞いて、智子は背中越しに光五郎に囁いた。智子の言葉にカッとなった光五郎は涼介に怒鳴った。

「じゃあ、何を確認するっていうんだ。言ってみろ!」

「開き直ったか。じゃあ言うが、まずお前らは河原圭のフランスでの居所を河原源蔵に教えたな。さらに神田雄一のことも」

 やはりそこから知っていたのか、と智子は呻いた。

「まず圭の居所を教えて、わざと河原源蔵に圭を殺させるように仕向けた。圭に智子を近寄らせて二人が付き合うようになり、お腹に圭との子供が出来て二人が婚姻届を出せば将来河原源蔵の隠された莫大な遺産や秘密を知ることができる、という俺達の長期に亘った計画をうまく利用してな。河原圭が殺されれば圭の遺産相続分は子供である智子のお腹の子に確実に受け継がれる。それを狙ったんだな」

 涼介の眼は怒りに震えながら光五郎を睨んでいた。

「ちょっと待ってくれ。河原圭の居所は河原源蔵しか知らなかった、という話じゃなかったのか。譲二さえ圭の場所は知らなかった。それをなぜ私達が知っていたというんだ」

 光五郎は反論した。

「譲二は知っていたさ。そして圭は河原源蔵とは連絡を取らないはずだった。ほとぼりが冷めるまで誰とも、譲二とさえも連絡を取らず一人でじっとフランスに隠れ住む予定だった。しかし、圭は我慢できなかったんだ。子供を宿している智子とも連絡を取らないということを。妊娠している妻をこよなく愛していた圭は一度だけ、智子と連絡を取った。その時居場所を知ったお前達は、河原に情報を流すことで圭を殺すように仕組んだんだ。そのフランスからの通話記録なども全て証拠は揃っている」

「そんな話は聞いていないぞ。河原源蔵だけが知っていたという話だったではないか」

「圭が殺されてから通話記録を調べて分かったんだ。それからお前達の企みがどういうものかを確認するために幹部に対しても違う情報を流していたんだ」

 光五郎は絶句した。榎木親子は完全に泳がされていたのだ。

「そして最終的に河原源蔵夫婦と浩司が亡くなれば、莫大な財産を相続するのは智子のお腹の子、つまり圭一だ。その受け継いだ財産は『セイフプレイス』が管理する予定だったが、実質は親であり弁護士である智子が管理することになる。そこに目を付けたお前達はその財産と裏の情報の一部を私利私欲のために自分達のものにしようとした」

 涼介の話に対して光五郎はもう黙っている。

「圭だけでなく神田雄一も麻薬のことを何か知っているという情報を流すことで、神田雄一まであいつらに殺させた。さらに薬の入った小瓶のことも伝え、神田雄一から他にも情報が漏れていることを匂わせてお前達は河原源蔵に危機感を与えて揺さぶりをかけたんだ。そうやって河原源蔵を追い込むことで、圭を殺害した浩司と暴力団達をも奴らの手で殺させるように仕向けた。もう一人の相続人である浩司が死ねば自分達の相続分が増える。さらに源蔵が本気で司法の手から逃げようとすれば、俺達闇の仕事人が最後には抹殺するだろうと予測していた。現にそうなった。違うか」

 智子は涼介の推理に口を挟む余地はなかった。智子が圭に接近して付き合うようになり、お腹の中に子供ができたことで『セイフプレイス』が計画していたことが予定通りになった時、光五郎は智子に言った。

「河原源蔵の遺産が手に入るのはずっと先のことであり待てない。組織のやり方は気が長すぎる」

 そして早くお腹の子に遺産相続させるために涼介が言った通りの計画を智子に打ち明け、それを実行するように促したのだ。その時一度は反対した。しかし

「計画の為に智子を圭に近寄らせ、子供を産ませるなんて計画をした組織のやり方に従うのか。お前は利用されているんだぞ。それにお前は自分の母親を殺したあいつを許せるのか」

 という言葉に動かされた。

「私達は情報を少しだけ河原源蔵に流す。それだけでいい。それだけで後は何もしなくても事態は動く。何の問題もない。相続が計画より早くなるだけだ」

 という光五郎の強い説得に智子は反対しきれなかった。そして圭から智子に連絡してくるだろうと読んでいた光五郎の予想通り、フランスにいる圭と話をした際、最初は居場所を言おうとしなかった彼に、智子が大変心配している気持ちを伝えることで、なんとか聞き出したのだ。

「お前達の私利私欲のために、圭一は俺達によって隠された被害者遺族になったんだ。本来隠された被害者遺族を守るはずの俺達が、父である圭を殺させ、その叔父である浩司を殺させ、そして祖父母である河原源蔵夫妻を殺すことで、隠れた被害者遺族を俺達が自ら生み出したことになるんだ。この罪は重いぞ!」

 涼介は怒鳴った。すると黙っていた光五郎が口を開いた。

「じゃあなぜ、お前達は河原源蔵達を殺した! 圭と浩司を殺したのは河原源蔵達だ。河原源蔵達を殺さなければ、圭一は俺達の作った隠された被害者遺族にはならなかったはずだろう!」

「何を言っている。源蔵達を殺さなくても、圭が殺されたことでお前らによってすでに圭一は被害者遺族になったんだ。直接手を下していないがそう仕向けたのはお前達だ。つまり俺達『セイフプレイス』の幹部がやったことになるんだ!」

 それまで黙っていた譲二が口を挟んだ。彼も光五郎の裏切りに対し相当な怒りを感じていたのだろう。我慢しきれず、そう叫んでいた。涼介は譲二に続いて彼の問いに答えた。

「源蔵を殺さざるを得なかったのは、お前が最高裁判事という立場を利用して裏で源蔵の保釈に手を貸したからだ。それが無ければ、あいつらの制裁は司法の手に委ねられていたはずだ。源蔵が保釈された後あのまま放って置けば、外交官という特権を利用し不正な海外取引によって得た莫大な隠し財産を、源蔵は処分しかねない状況だった。そうなれば智子に子供まで産ませたこれまでの計画も泡となる。だから俺達は闇の制裁を下したんだ。そうせざるをえなくなるように仕向けたお前達のせいではないか」

 やはりそこまで調べはついているようだ。智子は涼介達の調査能力を甘く見ていたわけではないが、光五郎はそうではなかったのだろう。

「保釈は私の力が及ばなかった為であって、私が指示したのではない」

 光五郎はそう釈明したが言葉に力はなかった。

「榎木判事。幹部であるあなたは忘れたのですか? 幹部が知っているメンバーだけが私達の仲間ではない。幹部も知らない裏のメンバーが存在するということを。それは判事であるあなたの周りにもいるんですよ。いや幹部の周りにだからこそ裏のメンバーが存在すると言ってもいい。もしものために備えてね。しかし今回、その裏のメンバーがあなたの裏切りをしっかり確認してしまっている」

 涼介がそう言って、光五郎が情報を流したとされる二世議員の名を上げると、光五郎の顔は驚愕の表情をして真っ青になった。そしてガックリと項垂れた。

 やっと涼介達の恐ろしさを知って観念したようだ。

「それだけじゃない。源蔵達が死んでからこの一年、お前は智子を使って源蔵の隠し財産を暴いていく間に、その財産の一部と源蔵の持っていた秘密の一部を個人的に隠していた。組織に情報提供せずにな」

 今度こそ光五郎も黙ってしまった。

「すべて調べてある。お前達が組織を裏切ってまでやったその動機もな」

 その言葉に光五郎と智子は反応した。

「榎木判事。あなたは俺達組織の力を利用して、河原源蔵が持っている裏の情報の中にあるあなたが過去に犯した罪の情報を消そうとしたんですね。そして河原に愛人を殺された復讐を果たそうとした」

 光五郎も智子も何も言わない。しばらく沈黙が続いた海上では、サブンッ、と波がクルーザーに打ちつけられる音だけが聞こえていた。

 手にしていたタバコを一服しながらその沈黙を破り、涼介が口を開き語り出した。

「あの事件の全ての真相を知った時は私も愕然としたのは事実だ」

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