第二章

「いつになったら一緒になれるの! あんな女と毎日顔を合わせるなんてもう耐えられない!」

 平成二年五月。夜遅く女の住むマンションを訪ねた男は、興奮している女を宥めながら説明した。

「お前の為にマンションを購入までして近くに引っ越して来たんだろ。住む場所をこの辺に決めるよう、家内を誘導するのだって大変だったんだ。それに子供達の幼稚園が同じになることまで想定していなかったんだよ。仕方がないだろう」

 女はまだ怒りが収まらない。声がさらに大きくなる。

「私と関係を持ちながらあなたは奥さんにあんな娘を産ませるなんて。それだけじゃない。おかげでその娘とも私は毎日顔を合わさなきゃいけなくなったのよ! 私の苦しみや悔しい気持ちをあなたには解ってないのよ!」

「まあ、落ち着けって。声が大きい。夜遅くにそんな大声出したら子供が起きるじゃないか。今仕事がらみでいろいろあってな。詳しくは言えないが、お前と一緒に住むための計画を進めているところだ。これは本当だ、信じてくれ」

 男の言葉で女は声を落としてまだ男に迫る。

「じゃあ、あの女と別れてくれるのね?」

「まあ、別れると言えば別れることになるんだが……。詳しくは聞くな。俺を信じてもうしばらく待っていてくれ」

 男は女を抱きしめて話を終わらせた。女も黙ってそれ以上責めることはしなかった。

 部屋の奥では、小さな女の子が静かに眠っている。あの子と一緒に暮らす日も近い。この二人は絶対守ってやらなければならない。男はそう考えていた。

 

                    

「なぜこんなことになったんだ・・・・」

 外はもう暗く、薄い白いカーテンから射すネオンの光が什器などをすべて運び出されて広く見える店舗の中を照らしていた。

 何もない、いかにも潰れましたというガランとした店の中央で、運び出し忘れたかのように取り残されたイスにポツンと座り、腕をだらりと下ろし首を項垂れたまま、神田雄一かんだゆういちは絞り出すような声で呟いた。

 若者を中心として多くの人が集まる都内でも有数の繁華街であるこの街は、飲食店などが多く軒を連ねていて夜でも賑やかな一角である。しかしその中で彼のいる店だけが寂しく暗い影を落とし、街の喧騒からはそこだけポツンと取り残されたような、そんな悲しげな空気を生み出していた。

「なぜなんだ……どうして……」

 雄一の店は有名店から暖簾分けされた二号店であり、本店はほんの少し前まで雑誌やテレビで取り上げられ、なかなか予約が取れないといわれるほどの人気があったフランス料理店である。二年前にオープンすると本店に負けず劣らずの人気がでた。そして当初から多くの客が押し寄せ、一気にその街を代表する有名店の一つに挙げられたのである。本場フランスで修業した腕を存分に発揮して評価された雄一は、二号店を任されることになり、成功を収めたと思った。いや成功していたはずだった。

 それまでの道のりは険しく長い道のりだったにもかかわらず、没落し始めたそのスピードはまさしく急な坂道を転がり落ちるようであり、あっという間の出来事であった。

 雄一は高校を卒業してすぐにフランスへ渡った。小さい頃から勉強も特に出来るわけでもなく、運動も得意ではなかった雄一は平凡な少年であった。

 家は裕福でもなくとてつもなく貧乏だったわけでもない。平凡なサラリーマンの父を持つ、専業主婦の母と二人の弟の五人家族。将来の夢など特に考えたことがなかった彼が料理人なろうと思ったのは、中学一年の春のことである。

 中学に入ると、その学年の三分の一は同じ小学校の同級生達であったが、残りは他の小学校から集まっていた。雄一にとって河原浩司かわはらこうじは、中学生になって初めて知り合うその数多くの同級生の一人であった。

 中学生最初の学年でその河原と同じクラス、しかも彼の席は雄一の一つ前であった。五十音順で出席番号が決められ、出席番号順に窓側から順番に席に座って行くと、「かわはら」と「かんだ」は窓側から二列目の後ろから三番目と二番目の順番だった。

 入学式が終わって何日か経ったある日の放課後、その「かわはら」が、ふと後ろを向いて「君も来るかい?」と話かけてきた。

 彼は雄一とは別の小学校時代に同じ学年のリーダー的存在だったようで、すでにこのクラスでも小学校時代の友人を中心に一つのグループを組み、その存在は目立っていた。

「僕の誕生日が四月でさ。僕の家で来週の日曜日に誕生日会を開くんだ。同じクラスの友達とか呼んでさ。毎年やっているんだけど今年は君のように別の小学校から来た子もいるから新しい友達もいっぱい作りなさい、ってママが言うから今クラスのみんなに声をかけてるんだよ。君も来るかい?」

 そう話しかけられた時は、

 ― なんてキザな奴だろう。ママってなんだ? お金持ちのボンボンみたいだけど嫌な奴っぽいな ― 

 と思っていた。

 だが彼はすでにクラスでは中心人物になりつつあり、その誘いは断りづらい。また雄一の小学校の時からの数少ない友人も誘われて行くらしいと分かってその流れに逆らわず、彼の誕生日会に参加することとなってしまったのである。

 招待された日曜日の日に、数人の同級生とともに彼の家を訪れた雄一は、とんでもなく広い庭に建つ大きく立派な屋敷に圧倒された。他の同級生から聞きかじる情報からなんとなく予想はしていたが、その予想をはるかに超える金持ちの家の子供だったらしい。

 誕生日会は彼の家のとてつもなく広いリビングで行われた。別の中学に行った河原の小学校時代の友人もいるらしく、見知らぬ男の子や女の子を含め招かれた同級生達はおそらく五十人はいた。それだけの人数がいるのに全く狭苦しく感じることはない、広々とした空間が目の前に広がっている。

 それでもそこが息苦しいような居心地が悪い空間に感じた雄一は、なるだけ主役の彼とそのとりまきから離れるように端の方で一人ポツンと座っていた。

 日曜日のお昼前から始まった誕生日会は、初めから大きな長いテーブルに豪華な大量の料理が並べられていた。まだ育ちざかりの中学生には魅力的でたまらない光景である。

 鳥の唐揚げやポテトなど雄一が食べたことのある料理は半分ほどで、もう半分は全く知らないもののが、これまた見たことのない綺麗な模様が入った皿に乗せられていた。

「みんな、遠慮しないでいっぱい食べて頂戴ね」

 河原の「ママ」と呼ばれる女の人が、ニコニコした顔で同級生達に声をかけていた。いかにも漫画で出てきそうな、お金持ちの家に住む気取ったセレブの女性といった雰囲気で雄一には苦手なタイプだ。

 あまりにも自分には場違いな感じがして、すぐにでもこの場から離れて帰りたいと思っていたが、目の前に広がる食べ物の誘惑には勝てなかった。周りの同級生が食べはじめるのを待って、何人かが料理に手をつけたことを確認してから、雄一は最も近くにある皿の料理をほんの少しだけ取り皿に乗せた。

 雄一はなるべく見たことの無い、または高級そうなものを少しずつ、できるだけ多くの種類を食べてみようと考えた。一つ一つ食べてみると、どれもこれもが美味しい。

 それが何という名の料理なのか雄一には全くわからなかったが、夢中になって次から次へと食べていった。ここが河原の家で主人公は彼であり、今日はその彼の誕生日を祝う会であることなどすっかり忘れ、食べることに集中していたのである。

 そして何皿目だったか、テレビでも見たことのある「牛肉のシチュー」と呼ばれていたようなものが目に入った。これと似たようなものを食べたことはある気がする。しかし、雄一が食べたものとは香りからして全く違う気がした。

 それでいて他の気取ったような料理とは違う、後から思うと河原とその「ママ」が持つイヤな雰囲気に似たような料理とは異なる、温かみが感じられる料理がそこにあった。

 小さめの肉の塊と一緒にシチューを小皿に取り分けた後、スプーンですくって口の中に入れてみた。

「うま〜い!」 

 雄一は思わず大きな声を出してしまっていた。

 自分が発した声に驚き慌てて顔を上げると、周りの同級生が一斉にこちらを見ていた。極力目立たないように、テーブルの端の方から次から次へ新しい料理を静かに黙々と食べていた雄一は、知らぬ間に自分がテーブルの中央近くにまで来ていたことにその時初めて気づいたのだ。

 自分の顔がどんどん真っ赤になっていくのがわかった。恥かしくてどうしようもない。なるべく人目につかないように静かにしていよう、しばらくしたらこっそり帰ろうと思っていたのに。どうしよう、と俯いて黙っていた雄一に、

「ありがとう。それ僕が作ったんだ。喜んでもらえてうれしいよ」

 そう声をかけてくれる人がいた。顔を上げると、高校生くらいの背の高い男の人が笑ってこちらを見つめていることに気付く。その笑顔はとても優しくて、雄一が食べたシチューと同じ、とても温かかった。彼の周りだけがぽかぽかする、色が付いているとしたらオレンジ色の空気に囲まれたような、そんな感覚だった。

 でもこの人は誰だろう? 料理人のような大人の人ではないのに、とぼんやり彼のことを見ていると、

「そう、けいが作ったのよね。圭が作るブッフ・ブルギニョンはとても美味しいのよ。皆さんも召し上がれ」

 河原の「ママ」が、またニコニコした顔をしながら周りに向かって得意げに、まるで自分が作ったかのような口振りで話している様子が耳に入ってきた。ケイって誰? そう思っていると河原が、

「お兄様は料理が得意なのさ」と隣の女の子に話しているのが聞こえた。お兄様?

 河原とその「ママ」がいろいろ自慢げに話している内容から、ケイとは彼のお兄さんで、都内の有名進学校に通う高校二年生であることが理解できた。

 なぜその彼がこんな料理を作ることができるのか不思議だったが,その理由も少しずつ分かってきた。というのも彼らのお父さんは外交官で、十年ほど前フランスに赴任していたそうだ。

 その時家族も一緒で、ケイは当時七歳。そこから三年ほどフランスで生活をする中で、彼はフランスの家庭料理がとても気に入り、日本に帰国してからはその味を懐かしみ、自分で作るようになったそうだ。

 料理をすることが好きでたまらなかった彼は、作り続ける内に料理の腕がどんどん上達していき、それは子供の作ったものの領域をはるかに超えていたという。そして今日のこの日、兄から弟への誕生日プレゼントとして一品だけ作った料理を出したらしい。それが先ほど雄一が思わずうまい、と大声を出してしまった料理というわけだ。

 さらに他の料理は「ママ」が作ったものではなく、どこかのホテルのケータリングとかいう、プロの作ったものだったということも後に知った。

 すげえ! 高校生がこんな料理を作り、プロの作ったものに決して負けない、いや雄一にとってはプロ以上の味だと感じた。体に電気が走る。食べ物でこんな思いをしたのは初めてだ。これが感動というものなのだろうか。

 ふと気がつくと、ケイが雄一の隣に来ていた。

「美味しいかい?」

 首を縦に、ぶんぶんと振った。ケイはまた優しい、温かみのある笑顔で

「ありがとう。これは日本語でいうと牛肉の赤ワイン煮込み、というフランスを代表する家庭料理のひとつでね。僕も大好きなんだ。小さい頃食べた味が忘れられなくて、自分で作るようになったんだ。今日はうまくできたと思うんだけど」

「とっても美味しいです!」

 大きな声で雄一は、背筋をピンと伸ばして彼に向って答えた。

 これが圭との初めての出会いであり、また雄一が料理人になるきっかけになった出来事であった。しかもその後圭とは運命的なつながりを持つこととなる。

 河原圭が作った料理を口にした後、その感激をいつまでも忘れられなかった雄一は、将来料理人になろうと心に誓った。それまで何かを一生懸命にやったという経験はなかったが、彼は本気だった。

 どうしたら料理人になれるのだろう、どうしたら美味しい料理を作ることができるんだろう。雄一は毎日そんなことを考えていろいろ勉強した。語学も勉強した。学校で習う英語だけでなく、フランス語も独学で勉強した。雄一はフランス料理を作りたかったのだ。圭が作ったあのような料理を。そのためには彼と同じようにフランスに行って料理の勉強をする必要がある。そのためにはフランス語ができなければいけない、と考えた。フランス料理人になりたいと思い続ける過程で、そう思い込んでしまったのだ。

 雄一は高校生になると、近所にある洋食店の厨房の手伝いとしてアルバイトをし始め、料理の勉強をしながら同時にお金を稼ぐことに努めた。このアルバイト先で、皿洗いからはじまり、野菜や肉を切ることで包丁の使い方なども学んだ。

 カレーやスープなどの仕込みなども覚え、味付けや盛り付けなど料理の基本的な事の多くも会得した。そして高校を卒業すると、雄一はそれまでアルバイトで貯めたお金を持ってフランスに渡り、料理人になるため某フランス料理店で働けることになったのである。

 その料理店は圭がすでに働いている店だった。彼は高校を卒業後、親の強い勧めで大学には入ったものの一年経たないうちに親の反対を押し切り大学を辞め、家出同然でフランスに渡って料理の修行をしていたのだ。

 雄一はあの誕生日会の出来事から圭とは一度も話をしたことがなかったが、彼がフランスに渡ったという噂を聞いて、連絡先をなんとか調べ彼に手紙を何度か書いて送った。その甲斐あって、雄一が高校卒業後同じ店で働くことができるように取り計らってくれたのである。

 雄一はその店で三年間働いた。その後料理の腕を認められ別の店を紹介してもらい、転々と店を移りながらさらに五年の歳月が過ぎた。もちろん圭もその間に、店を渡り歩きながら料理の腕を磨いていた。

 料理人というのはある程度腕が認められると、店の中で重要な位置を任せられるようになり、一つの店の中でランクアップしていき、その過程でさらに腕を磨く場合がある。ただ一方、一つの店の中だけでは腕の立つ先輩方がいると、なかなかランクアップできない状況も起こりえる。

 その為ある程度上達すれば、別の店に転々と移りながら腕を磨いていくことも料理界では珍しい話ではなかった。圭と雄一は後者のパターンで腕を磨いていったのである。圭と一緒に働いたのは、最初の店でのほんの一年の間だけだった。それでも二人は他の店に移っても時々連絡を取り合い、料理について情報交換し時には一緒に食事をしたり酒を飲んだりもした。

 雄一がフランスに渡って八年経ったある日、圭からある誘いの話があった。彼が日本で自分の店を持つことになったため、一緒に帰国してその店を手伝って欲しいというのだ。

「どうだ、雄一。日本に戻って俺と一緒にフランス料理の店をやってみないか」

「本気なんですか? 圭さんはいつも将来、フランスで店を出すのが夢だって言っていましたよね。日本に戻ることはおそらくないだろうから、と」

 彼は家出同然でフランスに渡り、親からは勘当同然の状況だったからだ。そのため将来の夢を語る彼の話には、今まで日本に戻るという選択肢は出たことが無かった。両親のことを相当嫌っていたはずだ。いや、憎んでいたと言っていいほどだった。

「ああ。俺は家を捨ててフランスに渡ってきたからな。だが、状況が変わった。半年前に親父が倒れたんだ」

「え? お父さんが? 倒れたって……大丈夫なんですか?」

「心筋梗塞で入院したんだが、幸い命には別状ないらしい。しかし倒れてから急に弱気になったようだ」

 その時すでに外交官から退いていた彼の父親は、倒れたことをきっかけに何度も何度も圭に日本へ帰ってきて欲しいと懇願していたようだ。

 しかも戻ってきたらオーナーとしてフランス料理店を開けばいい、その資金を全て出すからと言って長年の確執を解き和解したいと申し出ていたという。

「俺もすぐには、ハイそうですかという気にはならなかったんだが、余りにも親父がしつこくて、とうとう根負けしてしまってね。それにそろそろ自分の店を持ちたいとも考えていたから」

 複雑な顔をしているが、少し照れくさそうに話す圭の顔を見ていると、彼はやっと両親のことを許すことが出来たんだ、と雄一は感じた。それならば何も心配することはない。

 彼の料理の腕はすでにフランスの三ツ星レストランで認められており、日本で店を開いても十分成功すると雄一は確信していた。この時、雄一自身も五人のシェフを統括してこのフランスで二ツ星を獲得した店を任されるほどに成長していたため、日本に行っても彼の足手まといにならない自信がある。

「圭さんが日本で店を開く、というのなら是非お手伝いさせてください」

 笑いながら彼に手を差し出した。圭もまた笑顔で雄一の手を固く握った。 

 彼は日本で開く店が成功したら二号店は雄一に任せたい、とまで言ってくれた。お金持ちである彼の両親が出資してくれることもあり、報酬や待遇の条件は素晴らしく良い。いやそれ以上に尊敬する圭のもとで働くことができる、料理人になることを導いてくれた彼の役に立てるということが雄一にとって何よりも嬉しいことだった。圭の誘いを二つ返事で受け、二人は日本で新しい店を開くことになったのである。

 日本で開いた圭の店はとても順調な滑り出しだった。最初は元外交官といった彼の親の力もあったかも知れないが、開店当初からテレビや雑誌など様々なマスコミに取り上げられ、店は一気に有名店の仲間入りを果たしたのだ。

 もちろん圭自身が本場フランスで修業し三ツ星レストランで働いていた、という確かな腕もあったからだろう。連日満席、予約も何ヶ月か先まで埋まっている状況が続いた。さらに店がオープンして五年後、念願の二号店を出すことも出来た。そして当初の約束通り、暖簾分けをしてもらった雄一が二号店を任されることとなったのである。

 店の名前は同じで、暖簾代を本店に支払って経営は独立採算制を取ることになったが、料理で出す材料の仕入れなどは提携して行うなど効率化も図っていた。

 そして二号店もすぐに有名店の一つとして認められ、本店同様順調にお客も入っていたのである。そしてオープンから二年、雄一も日本では指折りのフランス料理人と周囲から認められるようになった。

 その間決して天狗になったわけではない。有名になってからも純粋に美味しい、人に喜びを与える、そう雄一が中学一年の時に感じたあの時のような感動を与える一品の料理を目指して日々努力していたのだ。

 それなのに今、雄一の店は閉店することとなってしまった。食品の産地偽造という汚名を着せられて。

 事の発端は、圭の本店で出されるメニューの中で、記載されている食材の産地と実際のものが違うのではないかという噂がインターネット上で書き込まれたことから始まった。

 料理のメニューにはフランス料理店に限らず、○○産の野菜を使ったオードブル、××産のスズキのムニエル、■■産牛肉のヒレを使ったステーキ、などの言葉が並ぶことがある。

 特に食材が国産であることや有名な産地であることなどをしっかり示すことで、お客様に安心できてかつ高い品質であることを理解してもらうためだ。雄一の店もこれらと同様な表示をしてきた。

 もちろん食材の仕入れに神経を使い、当然厳選したものだけを手にいれて調理してきている。だからこそ評価されてきたのだ。料理の味は調理する人の腕でも違いが出るけれど、やはり食材自体の味が最も大切である。食材の味をどう生かすか、それが料理人の腕といっても過言ではない。

 当初、インターネットでの書き込みは悪質な嫌がらせだと雄一は思っていた。圭の本店と雄一の店は独立採算をとってはいるものの仕入れは提携しており、同じ食材を仕入れることが多い。

 もちろんそれぞれの店でのメニューの都合で、独自の異なった食材を仕入れる場合もある。店の名前は同じでも圭と雄一、それぞれの料理人としての思いとセンスでメニューが決まるからだ。

 だからと言って共通に仕入れる食材は、雄一自身も吟味して確認している。雄一の二号店ができるまでの五年間、本店の食材は圭と一緒に確認しながら仕入れ業者の選定なども二人で意見を出して決めてきたのだ。よって産地を偽ってメニューをだすことなどあり得ないことだった。

 それでも少し気になることはあった。本来なら圭の店と同様、雄一の店もそのような中傷を受けていてもおかしくない。同じ店の名で、仕入れた食材も共通していることが多いからだ。それなのに攻撃されているのは彼の店だけだった。それはなぜなのか。

 店に対する妬みや嫌がらせではなく、圭に対する個人的な恨みなどが原因なのか、とも考えた。その問いに対して

「誰かに恨みを買った覚えはない」と、彼は雄一に断言していた。

 一週間ほど経ってもインターネット上で起こった騒ぎはなかなか収まらない。それどころか、俺も私もと複数の食品偽造を疑う書き込みが次々と現れたのである。

 もちろん一人により、複数の人間が書き込んでいるかのように見せることは可能だ。しかし一度走り始めた噂は収まらず、口コミでも広がり始め、彼の店の予約はキャンセルが相次ぎ新規予約も急激に少なくなり始めた。

 食品の偽装をしているという噂は本当なのか? という電話による店への直接の問い合わせも殺到したらしい。もちろん本店ではそんなことはないと説明していたようだ。

 そして雄一の店にも食品偽装をしているのか? という電話が少しずつ増え始めた。そして圭の店ほどではないが、新規予約も以前より減少しはじめたのである。

 その対策も含めた打ち合わせの席で、彼は個人的な恨みという疑いをあらためて否定した。

「書き込みをしている人間の意図はともかく、店の売り上げに影響がではじめている今、何か対策を取るべきではないでしょうか? インターネット上の書き込みの削除依頼や警察へ名誉棄損の訴えを出すことなど、弁護士に相談はしているのですか?」

 雄一が尋ねると浮かない顔で、圭は答えた。

「親父も心配して知り合いの弁護士を紹介してくれた。正式な依頼ではないが、弁護士には相談している。でも解決するには時間がかかるようだ。雄一の店にも迷惑をかけているが、もう少し我慢してくれ。申し訳ない」

 彼は頭を下げた。

「いえいえ、圭さんが私に謝ることではないですよ。頭を上げてください。私の店のことは何とか頑張ってみますから。弁護士と対策を検討しているのであれば、私達現場の人間は今まで通り美味しい料理を、お客様に喜ばれるよう提供することだけを考えます」

 雄一は慌ててそう答えた。尊敬する圭には意見は言っても逆らったことなど一度もない。今までそんな必要も全くなかった。しかし今回は違う。どうも冴えない。彼の歯切れが悪いのだ。

 いつも自信に充ち溢れ、太陽のように温かくそして逞しいオーラを持っていた圭の姿ではない。今回の中傷で精神的にも経済的にも相当苦しい思いをして疲れているのは確かだが、それだけではない気がした。

「圭さん。何か他に心配なことがあるのですか? 顔色がよくないようですが、体調が悪いのですか?」

 雄一は恐る恐る聞いてみた。

「いや、疲れているだけだよ。さっき言ってくれたように、雄一は雄一のできることをやってくれればいい」

 圭にそう言われてそれ以上問いただすことはできなかった。

 その打ち合わせの一週間後、週刊誌に圭の店の記事が出た。

 ― 内部告発! 有名フランスレストランの食品偽装! 

 ― 仕入れ業者も認めた悪質な儲け主義体質! 

 噂は事実だった、と圭の店で働くシェフの一人が取材に答えたのだ。彼が独自に仕入れていた食材の中で食品偽装があったと記事では書かれている。

 その内部告発を裏付けるように、仕入れ業者からの証言や偽の仕入れ伝票の写しなどもリークされ、マスコミは一斉に店を取り囲んだ。

 連日連夜騒がれたことで店は休業に追い込まれ、当然雄一の店も被害にあった。そして圭は姿を消し、全く連絡が取れなくなってしまったのである。よってなすすべもなく店は潰れた。あっという間の出来事であった。店は暗闇の中に消え、やがて雄一も姿を消した。

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