第一章

「どう思う?」

「どう思うって、そんな話、俺にしていいのか?」

「そりゃあ患者のプライベートな話を他人にするのはいけないと思うけど」

 恵子けいこは少しばつの悪い顔をしながら、しかし、もう一度涼介に

「でもあんただから話すんだけど、ほんと、どう思う?」と話を続けた。

 令和二年三月。都内にある灰色の五階建てビルの屋上、白い柵に囲まれたコンクリートが広がるスペースには、小さなプレハブとほんの少し目を休めることのできる緑の芝と黄色や赤の草花がある。

 プレハブ小屋は喫煙室になっていた。部屋の中央にはタバコの煙を吸い取るテーブル型の空気清浄機が置かれ、座りながら飲み物も飲めるようにイスが六脚と壁際にはコーヒーやお茶などの入った自動販売機もある。さらに暑い夏や寒い冬でも快適なエアコンまでついていた。

 今の時代、禁煙エリアが広がり、病院やレストランなど人が集まるところはタバコの吸えないエリアばかりだ。世の愛煙家達は肩身の狭い思いをしながら、人気から離れたかろうじてタバコを吸うことを許されるわずかな場所で肩を寄せ合い、日々煙をくゆらせている。そういった環境の中では、喫煙者にとってこのタバコ部屋と呼ばれる小屋はかなり居心地のいい部類にはいるのではないか。

 まだ肌寒さが残る春先の夕暮れの中、冷たい風を避けるために暖房の入ったその小屋の中で、恵子は一日の診察が終わってホッとする時間を過ごしながら隣に座り同じくタバコをふかしている涼介に話しかけた。

「う〜ん、まずそれって本当の話をしているんだろうか?」

 涼介が聞く。

「もちろん、私の受け持った患者さんだから、ウソというか、幻想のような空想のような話をしている可能性を完全否定はできないんだけどね」

 そう答えた飯尾いいお恵子はこのビルの四階にある、飯尾クリニックの院長だ。院長といってもまだ三十六歳の若さである。

 飯尾クリニックは内科とメンタルクリニックを専門としていて、彼女は院長兼メンタルクリニックの担当医師だ。今話している患者は恵子の担当する患者、すなわち精神疾患がある患者の話である。

 説明によると、診察した際に患者から相談というのかちょっとした悩み、というレベルで聞き取ったものだったため、涼介がその内容自体を疑ったのも無理はない。

「でも彼女は私が担当してから三ヶ月ほど経つけど、今までそんな妄想をいだくような様子は無かったの。それからこのクリニックにかかる前の病院でもそんな症状は見られなかったと、以前の担当医師に確認もしたんだけどね。このクリニックに来た時に持ってきた紹介状にもその点は何にも書かれていなかったし」

 その患者というのは菅沼すがぬまひとみ、生命保険外交員で三十五歳。恵子より一つ下だ。

 彼女は結構なやり手の外交員のようで副支部長という肩書を持ち、自らが保険契約の獲得により成績を上げ、収入を獲得するだけでなく下には三十名からの女性外交員がいた。ひとみはその教育、指導という役割を担っており大変な責任を持つ立場にあるようだ。

 その彼女の部下で厳しいノルマを課された三十名からの外交員には、下は二十歳の社会経験が浅い今時の若者から、上は五十歳を超えるひと癖もふた癖もあるベテランまで幅広い女性達がいる。

 その彼女達を叱咤激励しながら保険契約を獲得させ、また自ら走り回り厳しい経済不況の中で新規の保険契約を獲得し続けなければいけないという過酷な環境から、度重なる疲労、ストレスが蓄積されたようだ。そして彼女は体調不良を起こし、約一年前から勤務先近くの病院にかかるようになった。

 何度かその病院の内科に通った彼女だったが、血液検査や各種検査をしても体の異常とされることは特に見つからなかった。それでも彼女は、病院に通う間でも頭痛、動悸、体全体に倦怠感があって睡眠不足も続く毎日だったらしい。

そして病院にかかってから三カ月後、内科の先生から心療内科への受診を勧められ、彼女は自宅近くにあるメンタルクリニックへ紹介状を書いてもらって受診することになった。

その結果、メンタルクリニックでひとみは、軽度のうつ病と診断されたのだ。そこから半年ほど週一回の通院をしていたが、体調がなかなか回復しなかった彼女は、他にいい病院はないかと探したらしい。そこで恵子の勤める飯尾クリニックが女性の医師がいて評判が良いと聞きつけたようだ。そして飯尾クリニック宛に紹介状を書いてもらったという。恵子が担当することとなる三ヶ月前の話だ。

 自分の所見が正しいかどうかを確かめるような口調で、

「私の診断では、彼女は仕事上のストレスや疲労からくる鬱の症状から睡眠障害や、頭痛、動悸、倦怠感がでている他には、さしあたって異常はないの。実際彼女は今も通院しながら仕事を続けている状況で、一千万円を騙し取られた、なんてそんな妄想をもつような感じじゃないんだけどなあ」

と、涼介の疑問に答えた。

「その話が本当なら普通、警察に届けるなりするだろう? 彼女は生命保険の外交員をしていて副支部長と言う肩書まで持って鬱の症状を訴えながらも仕事は続けている。ということはそれなりに正常な判断ができる状況と考えられる。でも彼女は警察になんか届けられない、とんでもないそんなことできないと恵子に対して震えて断るっていうんだろう? それ以上言うと急に精神状態が不安定になる症状を見せる。頭が痛そうな、動悸がして苦しそうな、そんな素振りを彼女はする。そうだったな?」

「そうよ。そんな状態だと医師としてはその話は本当なの? なんてしつこく問い質すことはできないし、もともとそんな話を、医者の私にされても困るんだよね」

 恵子もだからあんたに相談してんじゃないの、と言わんばかりだ。

「じゃあ、結局恵子はなんてその患者に言ったんだ?」

 六つ年下の彼女に逆切れされて、挙句の果てにどうしてくれんのよ! なんとかしなさいよ! と言われる筋合いはないと思いながら苦笑した涼介は、そう聞き返した。

「一千万円って大金を騙し取られたのは大変だし、彼女は仕事上のストレスが主な原因で病気にかかったようなものでしょ。それが今の生活で経済的に大きく影響するようなら、仕事でしっかりお金も稼がなきゃいけないし、でもストレスは溜まるし、なんて状況だとさらに病気も悪化する可能性があるから聞いてみたのよ」

「どう聞いたんだ?」

「その一千万円がないと生活が苦しくなるの? って。そしたら、それほどでもない、今の仕事を続けてれば何とかなる。辞めたとしても独身だし、貯金はまだある、って彼女は言うのよ。確かに彼女、結構な給料をもらっているようで結構貯めてきたようなのよね。あの歳ぐらいの独身女性で給料もいい人は、将来ずっと結婚できなかったことも考えて自分の老後のためにしっかり準備してたりするんだよ」

「お前もそうなのか?」

 タバコの煙を口から吐き出しながらからかった。

 恵子も独身で、所得だってこの年で病院の院長をやっているくらいだから年収はおそらく三千万円ほどあるはずだ。背は低くぽっちゃりしているが、顔も小さく、美人というよりかわいい、といったほうが当てはまる愛嬌のある顔をしていた。

 涼介が冷静に見ても恵子は決して行き遅れるような外観ではない。問題は外見とは違ってやや強気で男性的な性格かな、なんてことを考える。

「うるさいわね!」

 図星だったようで彼女は、ふん! とそっぽを向いてしまった。

「すまん、すまん」

 手を合わせて笑いながら詫びた。

 おそらく年収一千万円位はあり、恵子と同じ年代の独身で高収入のひとみに対して、なにかしら共感を持つ部分があってここまで肩入れするのだろう、と考えた涼介は真面目な顔に戻り言った。

「しかし、だからと言って一千万円は大金だ。三十五歳の独身女性にとって今まで一生懸命働いて稼いで貯めた大事なお金だよ。それなのに警察には届けられないって言うのはやっぱりおかしい。今まで警察となにかあったのか、それともその一千万円自体が」

とそこで話を途中で遮り、恵子はひとみをかばうように言った。

「その一千万円自体は自分の貯金の一部だったみたいよ。そう、あんたの言うようにどうも警察にいやな思い出があるみたいで、なんかトラウマのようになっていてどうしても駄目みたいなのよ、警察に関わることが。もちろん彼女の過去に犯罪歴があるとかじゃないようなの」

「そう彼女が言ったのか?」

「彼女が言った部分もあるけど、問診したりする中で話を聞いて私なりに感じたことなんだけどね」

 割とその見方には自信を持っているような素振りで恵子は答えた。

「わかんねえぞ、人ってやつは。調べてみると意外な過去が、なんてことはいくらでもある。だから俺が副業でやっているような商売も成り立つんだからな」

 岸涼介は四十二歳で既婚。子供も五歳の男の子と三歳になる女の子がいる。

 このビルの五階の一角で犯罪被害者遺族保護と子供の健全育成を図る活動を行っている『セイフプレイス』というNPO団体の職員だ。その傍ら「騎士探偵事務所」を開いている探偵でもあり、彼はそこの所長でもある。といっても助手二人に事務員一人という小さな事務所の主でしかない。

 「騎士探偵事務所」の「騎士」は、岸を変換したもので涼介が命名したものだ。「岸探偵事務所」だと面白みがないので、名刺には英語で「KNIGHT RESEARCH OFFICE」という文字とその頭文字を略した「KRO」というロゴ、さらにチェスの駒で馬の頭の形をした「ナイト(騎士)」を象ったマークを入れている。

 涼介がチェスなんてしているところを一度も見たことのない恵子は、単なる思い付きの言葉遊び、駄洒落だと思っているようだが、面と向かってそう言ったことはない。涼介がそのマークとロゴを気に入っているからだろう。

 涼介の背はそれほど高くなく、ぽっちゃりとしている。見た目はとっちゃん坊やで若いというか幼いようにも見え、決して四十二歳とは思えないと言われる。人懐っこいと言われる顔のせいか恵子にはタメ口で話されるが、その事で怒ったことはない。そんな事は全く気にせず、いつもお互いまるで同級生のように気さくな会話を交わしていた。

 とはいっても涼介が時折見せるするどい眼にすごみを感じると言われることもあり、怒らせるとそうとう怖いタイプだ、と恵子は感じているらしい。そんな涼介は元警察官だ。

 元警察といっても一流の某国立大学を卒業、国家公務員一種試験を経て所謂キャリアとして警視庁に十五年ほど勤め、警視正まで経験して退官。そして今いるNPO団体職員として就職し探偵事務所も設立した、という相当な変わり種である 。

 事務所はこぢんまりとしており、このビルの四階ワンフロアを貸し切っている恵子の「飯尾クリニック」とは異なり、五階はNPO団体の事務所『セイフプレイス』と涼介の探偵事務所の他には、他の階のオフィスと共同で使用できる会議室、応接室、倉庫があった。二階は保険代理店事務所、三階は弁護士事務所が入っている。

 この「城ケ咲ビル」の所有は、一階のフランス料理レストラン「レ・ジュ・ドゥ・ラーンジュ(天使のほっぺ、という意味)」のオーナー、城ケ咲譲二じょうがさきじょうじだ。三十八歳の若さで都内に他にもフランス料理の店を一店、和食の店を二店、本店合わせて計四店舗を展開している。いずれも五階建て以上の自社ビルで、その一階に店を置き、二階より上をテナントとして貸し出していて、さらに軽井沢や那須、葉山などに別荘を持つ、超がつく大金持ちだ。

「それで恵子はどうしたいんだ? まさかそのひとみって女を俺に紹介するっていうんじゃないだろうな。一千万を騙し取った奴を探しだす依頼をしてみたらどうかといって」

「う〜ん、さすがにそこまでするのは医者としてはやりすぎだよね。向こうからそういう紹介依頼があったのなら別だけど。でもその問題が彼女の精神的なストレスになっているのなら、治療の一環として取り除いてあげたい気持ちもあるのよね」

「治療の一環でそんな悩みをいちいち取り除くことが精神科医の仕事だったら、イヤな上司がいるとか会社自体が合わないのが理由で鬱になっている人には、その上司や会社をなんとかすることまでお前の仕事になっちゃうぜ。そんなの無理だろう。それに患者はそこまで医者に求めてないし、求められても対応できる話じゃないだろし、対応すべきじゃないよ」

 涼介は恵子がその患者に肩入れしすぎていることが妙に気になった。

「もちろん彼女は私に解決して欲しいと言っているわけじゃないのよ。最近の調子は? なんていう問診の中で、実はこんなことがあって、ちょっと落ち込んでいて、なんて言われたもんだから気になっただけ。でも本当だったら犯罪でしょ。三十半ばの独身女性から一千万を騙し取るって許せないじゃない。結婚詐欺で騙されたなんて話だったら、あんたの見る目にも問題があるのよって思っちゃうけど、今回の場合は一千万を恵まれない人達への寄付に役立てようという善意を裏切ったんだから。あんただってわかるでしょ」

 一千万円の詐欺というのはどうもこういう話らしい。

 ひとみは将来のためなどにそれなりの貯蓄をしていた。彼女は生命保険の外交員をやっていることからファイナンシャルプランナー、個人的な資産運用・金融に関する総合的なアドバイスをする略してFPエフピーと呼ばれる資格も持っており、自分の資産運用も積極的に行ってきたようである。

 また彼女はボランティアにも興味を持っていたようだ。というのは、彼女の扱う生命保険の中には、支払われる保険金の一部を指定する団体に寄付できる商品があるという。 

 近年、環境問題や貧富の差などが問題となる中で、環境保護団体や人権保護団体などのNGOやNPO団体に寄付をする風潮が高まってきた。

 ハリウッドの俳優などは高額のギャラを受け取る代わりに、積極的にそういった社会貢献活動を当然の義務かのように行っている。企業もまたイメージ戦略や近年言われている企業の社会的責任(CSR)のこともあってか、寄付や支援により環境保護や社会高福祉に対する貢献に取り組んでいた。

 日本においても、個人単位で執筆家やアーティストなどが作品の売り上げやコンサートの収益などから何%かを寄付する行為がどんどん広まっている。

 そういった時代の流れから、外資の生命保険会社が、保険の加入者が死亡してその保険金が支払われる際に死亡保険金の三十%を限度にあらかじめ指定した団体に寄付できる、という生命保険の商品を開発したところ、先進国において爆発的に売れたのだ。

 例えば五千万円の死亡保険金の生命保険に加入して、その内三十%をある環境保護団体に寄付すると設定した場合、五千万円の三十%、一千五百万が団体に寄付され、残りの三千五百万が奥さんや子供など家族に渡されることになる。

 この商品が日本でも発売され、ひとみもこの商品を外交員として積極的に販売するなかで自然とボランティアなどの社会貢献に詳しくなったらしい。

 そんな彼女が資産運用と社会貢献に強い関心を持っていたことから、運用して得た収益の一部を海外の貧しい子供達を育成、支援する団体に寄付する投資ファンドがあることを知った。そしてそのファンドの素晴らしさに共感を得た彼女は、自分の運用資金から一千万円を預けたところ、実際にはそんな投資ファンドは実在せず、運用した収益を寄付するどころか一千万円の元金ごと騙し取られたというのである。

「独身女性でお金の運用に詳しいとはいっても、運用していた利益の一部を寄付するファンドに一千万円預けるっていうのはすごいな。話を聞いてみて一千万円が無くなってもまだ生活に困るほどじゃないとなれば、おそらく五千万円から下手すると一億円以上貯蓄している感じだな」

「そうね。私もそんな気がする」

 涼介の推測に恵子も賛同し、煙草の灰を灰皿に落としながら頷いた。

「まあ金額がどうであれ、恵子はその恵まれない海外の子供達を支援するための資金が騙し取られた、そういう意図を持った人間を騙すような奴がいることが気に食わない。そういうことだな」

「だって……。あんただってそう思わない? 他人事じゃない気がするでしょう?」

 恵子はその怒りに同意を求めるような口調で涼介を見た。彼女が他人事じゃない、と言うには訳がある。

 それは涼介の勤めるNPO団体『セイフプレイス』と関係があった。犯罪被害者遺族保護や子供の健全育成を図る活動を行っているこのNPO団体に対し、恵子は定期的に経済的支援として寄付をしているのだ。

 元々この団体『セイフプレイス』は、このビルのオーナーの譲二が、ある団体から引き継いだものである。現在彼は訳あって活動メンバーの名簿からは外れているが、多額の経済的支援は続けている。恵子はその譲二に賛同し、彼ほどではないにしても多くの資金援助をしているのだ。

 それだけではない。涼介はそもそもその団体の職員で活動を行っているのである。

「じゃあ、その患者からの相談、依頼ということじゃなく、俺達のような意志を持った人間を侮辱する奴を恵子の依頼で調査する、ということでいいんだな」

「その患者から得られる情報は少ないし、あまり信憑性がない話かもしれないけどやれそう?」

 彼女は申し訳なさそうに言った。

「恵子が何かある、と感じたその勘を信じて動いてみるよ」

「ありがとう。お願いね」

「俺もその話を聞いて少し思うところもあるし、その勘が正しければ」

 涼介は吸っていたタバコを灰皿で揉み消しながら言った。

「たぶん何か出てくるんじゃないかな」

 何か思い当たることがあるような、そしてそれが面白いことになりそうだ、と言わんばかりの含み笑いで彼女に答えながら、涼介はタバコ部屋から出て行った。

 その後ろ姿を見ながら恵子は呟いていた。

「やっぱり何かあるわよね」

 そして彼女もまたタバコの火を消し、診察は終わったがまだまだやることがあったんだ、と呟きながら階段を駆け下り四階のクリニックに戻って行った。

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