当惑エイティーン(二)

「そういえば自己紹介がまだでしたね」

 一口大に切ったパンケーキを口に運んでいたその人が言った。

「そうですね……。」

 パンケーキにナイフを入れている私は、か細い声でそう答えた。

 その人はポケットから名刺を差し出した。桜庭遥さくらば はるか。務めている会社の名前のものと思しきロゴと、名前だけ。淡々と事実だけを書いた、シンプルなデザインだった。私は手に取ってまじまじと見て、いそいそと財布に直した。

「檜木 朱里、18歳の高三です。……字は、檜にさらに木を書いてヒノキ、朱色の朱に里で、アカリ」

「いい名前ですね」少し思案して、その人はにこやかな笑みを浮かべた。

 どうもありがとうございます。そう言って、頭をぺこりと下げる。

「ところで」どうしてあの場所に、と聞こうとしたが、聞かなかった。流石にそれほどの度胸はない。空いた口を塞ぐためにたった今放り込んだオレンジの酸味が、甘ったるくなった口の中に満ちてゆく。それを言葉と一緒に飲み込んで、代わりに「俺のこと、一目見てよく分かりましたね」と言ってみた。

 その人はただ笑みを浮かべている。少し考えればわかるでしょうに、そう言わんばかりの微笑みである。で、恥ずかしさの後味だけが残ったので、手元にあった水で洗い流した。

 目の前に座るその人は、それこそ桜のように儚い美しさを持ち合わせている。人を見る目のないことに定評のある私は、しかしながら少なくともその見た目と所作からそう感じたのだ。パンケーキを切る動作、そのひとつを取ってもそうだ。ナイフを入れて、フォークで捉えて、口元へ運ぶ。何一つ無駄のない動きで、けれど食事を楽しむ余裕を失わないままでいる。……余計なものを削ぎ落とした所作というと、どうしてもその行動において大切な何かをも削り取ってしまいそうなものだが、その人の行動には不思議と、かえって優雅さすら漂っている。洗練されたが故にかえって優美さが入り込む余地を与えるような感じ。この無頓着な私ですら饒舌に語れるほどなのだから、相当なのだろう。

「檜木さんは普段何を?」

 人魚もかくや、なほど透明な声が問いかけてくる。嘘をつく道理も無いので、「受験勉強をしています」とだけ答えた。誕生日を聞かれたので、素直に四月だと答えたら、その人は口に手を当てて少し微笑んだ。そして、「十八を超えていなければ出頭するところでしたから、助かりました」とその人はさらっと言ってみせた。その言葉があまりにも自然すぎて、冗談か本気かの区別が付かなかった。あと犯罪臭もしなかった。……いやまあ、そもそも、こちらの非が大きすぎて犯罪には到底なり得そうもないのだが……。苦虫を噛み潰したような顔が出かかって、抑え込もうとして、結局変な顔をした。少しその人の口角が動いたからきっとそうだろう。自爆。頬が紅潮する。その顔を見てその人はまた笑った。こうなったらもうおしまいである。結局、暫く(少なくとも私にとっては)気まずい沈黙が流れることとなってしまった。


 で、結局パンケーキはご馳走になった。お詫びだとかなんとか言っていた。対する私は恥をかきっぱなしで、基礎体温が一度ほど上がった心地である。

 この後何をするでもないので、さあ帰ろうと思った頃に、桜庭さんが口を開いた。

「今度、うちにでも来ませんか?」

 この時本格的に、『何を言ってるんだコイツ?』となったわけである。当然口には出していないのだが、果たして顔に出ていなかったかどうか。

 で、

「えーと」

 何故言いあぐねたのか分からない。大方意図が分からず混乱していたせいだろうが。そんな私を見た目の前の麗人は、真面目な顔をしてまた話し出す。

「昨日のメイク、あれ、誰にしてもらいました?」

「えー、と」

 思わぬ言葉がまた飛び出して、まだしても返事に窮する阿呆が一人。

「私でよければお教えできますが、いかがですか?

 こう見えて心得はありますから、更に綺麗にできますよ」

 妙な説得力があった。

 本来なら断るべき状況で、あからさまな罠で、……でも、胸は高鳴っていた。特に見た目になんの取り柄もない私が、? そんなふうに考えていた。あるいは、先日の一件でもう吹っ切れたのかもしれない。

 気が付いたら「……是非、……」なんて答えていたのだから、救いようがない。と、帰路に着いた頃の私はその時の自分を思い出しながらそう思ったわけである。はあ。つくづくバカだ。はあ……。

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二人きりアイソレーション Garm @Garm

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