ベーシックインカムは日本を救うか

逸真芙蘭

ベーシックインカムと日本の未来

 数年前から度々話題に上がっては、批判にあって沈んでいったベーシックインカムという制度。

 菅政権が発足し、そのブレーンである竹中平蔵がベーシックインカムの導入を提唱し、世界中がコロナ禍に見舞われる状況とも相まって、本格的な議論が起こっている。

 ベーシックインカムという制度は「政府がすべての国民に対して、最低限度の生活を保障するため、一定の現金を定期的に支給する」というものだ。

 竹中氏の考えは、社会保障をベーシックインカムへと一元化する、新自由主義的なものである。これに関してネット上で議論がされているとともに、著名人の間でも賛成派と反対派に分かれて論争が巻き起こっている。

 まず賛成派と反対派、双方の意見について簡単にまとめていきたい。


 賛成派によれば、ベーシックインカムを導入することで、国民の最低限度の生活を一律に保障することが可能で、心理的かつ経済的な余裕を生み消費が拡大して景気につながる。また生活費を稼ぐために働いていた時間を、自分のスキルアップのために使うなど、自己への投資をすることで、長期的に国の発展に寄与する、というのがおおよその論拠らしい。

 一方反対派は、ベーシックインカムの導入は労働意欲を削ぎ、経済に悪影響を及ぼす。また、ベーシックインカムの費用を捻出するためには、百兆円規模の予算が必要であり、それを捻出するためには、現在の社会保障費をすべて当てる必要がある。そのため、年金、医療費、介護費、失業手当等の社会保障が喪失することを意味する。そのような論拠を以て、ベーシックインカム導入に反対している。


 この件に関しては影響を受ける分野が多岐にわたり、多元的に論じようとすると、論点がぶれかねない。

 そこで今回は、労働と社会保障、特に医療に与える影響に絞って考えていきたい。


 まず労働についてだが、反対派が懸念しているのは、ベーシックインカムによって、不労所得が得られ、働かなくても生活ができるという環境になれば、働く意欲が減り、結果真面目に働く人が損をするということだ。

 しかしながら、ベーシックインカムの導入により、働かない人が増えるという状況になるというのは、現実的であるとは言い難い。というのもベーシックインカムでできるのは、あくまで最低限度の生活であり、ちょっとした贅沢、例えば車に乗る、テレビを買う、通信費を払う、外食をする、気に入った衣服を買う、映画を見る、ゴルフをする、と言った最低限の生活に必須ではない活動をするにはとてもじゃないが足りない。そして十分な医療サービスを受けるためにも、ベーシックインカムでは足りないだろう。今の日本人が真に文化的で満足できる生活レベルを送るためには、働いて所得を得る必要があるのだ。

 さらには、最低限の生活費が得られるとして、暇な生活を受け入れられるかどうかと言うのを考えてほしい。遊ぶ金はなく、毎日慎ましい食事をして、ひなが一日ぼーっとする。そのような極めて単調な生活を、勤勉さが自他ともに認められている、本邦の国民が甘んじて受け入れられるだろうか? そんなことはおそらくない。人は暇があれば無性に何かしたくなるものだ。そういう意味でも、ベーシックインカムが労働意欲の喪失の原因となるとは考えにくい。

 仮に働かないにしても、自分のスキルアップのために、大学に入り直したり、資格の勉強をするという前向きなことに時間を使える人も増える。個人の価値がそのようにして高まれば、長期的に日本社会にとってもプラスになろう。


 しかしこういう人もいよう。

「ベーシックインカムが導入されれば、経営者が従業員に払う給与をその分減らしてしまうのではないか?」

 確かにその危険性は大いにある。実際、先のコロナ救済策での十万円給付の際、十万円分、賞与をカットされたなどの事例があったらしい。

 この点に関しては、賃金のルールに関して、ベーシックインカムを理由に不当に給与を下げることを禁ずるようなルールを合わせて制定して対処することで、ある程度対応できるだろう。

 また補足して言うと、雇用者側としても、賃金カットというのはしにくい状況になることも考えられる。

 というのも、ベーシックインカムで一定の収入が見込めることから、被雇用者側としても、不当に賃金をカットするようないわゆるブラック企業に対してすがる必要がなくなるからだ。つまり雇用者に対して被雇用者の優位性を強めることができるのだ。

 

 経済を刺激し、労働者の価値を高めるとあれば、その点に関して、強くベーシックインカムを否定する論拠にはならない。


 では社会保障に関してはどうだろう?

 ベーシックインカムで最低限度の生活を保障する。言い換えれば、ベーシックインカムで送られるのはギリギリな生活、つまり働かなければ家計は火の車だ。

 火の車の家計で、そこに予期せぬ自体が起こったら、帳簿のパンクはさけられない。ここで言う予期せぬ自体とは事故や病気のことである。こればかりは当人がどれだけ気をつけていても、起こるときは起こるものだ。

 また年を取ればいつかは働けなくなるときが来るし、そもそも体に障害があって働くことができない人もいる。

 上で述べたように、新自由主義的ベーシックインカム導入論では、医療費、年金、介護費等の財源をベーシックインカム費として充て、社会保障を一元化することで、それを実現化しようとしている。つまり年をとって働けなくなろうが、病気になろうが、体に障害があって働けなかろうが、最低限度を保障すると謳って支給される、雀の涙のお金しか得られないのだ。そこから文化的な生活を送るための費用と、医療費をやり繰りするのは無理な話である。

 推進論者はそれに対しこう言うだろう。

「支給総額としては従来と変わらない。生まれたときから死ぬまで払う案なら、むしろ長生きすれば従来よりも多くの額を国から得られる」

 それは事実かもしれない。

 社会保障費として毎月支払うお金は、若い人にとっては、ただ金を吸い取られているようにしか感じられないだろうが、社会保障費がベーシックインカム税に一元化されるにしても、毎月一定額が還元されると思えば、一月の収支で見たとき収入が増えたように見えるだろう。

 しかしそれは増えたように見えるだけであって、実際増えているわけではない。あとから老年年金としてもらうお金だったものが、若いときから受け取れるようになっただけで、繰り返すが受け取るお金の生涯を通した額は大きく増大するわけではないのだ。つまり推進派は朝三暮四で、国民をけむにまこうとしているのだ。

 そしてこれは移行期に限った話ではあるが、今まで社会保障費を真面目に払ってきたリタイア手前の労働者にとっては、月々もらえる予定だった年金額がベーシックインカムに化けることで、月の収入でも、受け取る総額でも減少することになる。年金からベーシックインカムに変われば、もらえる月額は減り、さらに若い人に比べお金をもらえる年月も少ないからだ(制度施行後に生まれた人はお金を80年受け取り続けるが、それまで社会保障費を収めてきた人は20年しか受け取れない)。


 次に医療に関して述べる。

 現行の医療制度では医療費を公的機関が運営する保険で賄い、通常、利用者は3割負担で済む。

 ベーシックインカムを実現させるには、ここを削る必要があるため、医療費は全額自己負担か、そうでなくとも大部分を利用者本人で負担する必要が出てくる。

 確かに風邪くらいならなんとかなるだろう。賛成論者はそういった費用も含めて、ベーシックインカムで先払いをするのだと言い、病気に備えて金をためておくのは各人の義務であると言うかもしれない。

 だが近年発達してきた、分子生物学の知見を応用した先進医療(本庶先生のノーベル賞受賞で一般にも知られるようになった分子標的薬ニボルマブや、遺伝的多型に対応したオーダーメイド医療、不治の病だった慢性骨髄性白血病を克服するに至ったグリベックという薬、さらには新型コロナで広く知られたPCR検査)や、精巧な手技を可能にするロボット手術、そして救命率増大に寄与するドクターヘリなど、日本国民なら保険制度で受けることのできた一人あたり数百万、数千万円かかる高度先端医療というものは、庶民には手の届かないものになる。

 誰もが高額医療を受けるような疾患になるわけじゃないのかもしれないが、病気になることまで自己責任と言われたらたまらない。難病になった人に、病気になるお前が悪いと面と向かって言えようか? ベーシックインカム導入とは病人に対する死刑宣告に等しいのだ。

 ここで推進派はこう反論する。

「国が保障しなくとも、民間保険の医療プランに加入し各人が備えれば良い」

 確かに北米のように民間の医療保険に加入すれば、上の高額医療も一般の人の手に届く可能性はあるかもしれない。

 自動車事故の任意保険で高額な損害賠償に対応するようなものだ。

 だが医療に関してはそう単純な話にならないのだ。

 病気というのは、生きていれば誰もがなる。事故で死ななくとも、最後には病気で死ぬ。そのような性質がある上で、保険を運営するのが、公的機関ではない、つまり利益を出さなければならない民間企業ならどういうことを考えるだろう?

 民間企業である以上考えることは一つ。それはコストカットだ。

 「たった数カ月の延命」「数千万かかる先端医療」

 利益を求める企業の立場にたてば、それはカットすべき余分と判断されるのは仕方ないことだ。もちろん表向きにはそのようなことは言わないだろうが、保険金の請求書に難癖をつけて、出ししぶりが起こることは想像に難くない。公的機関がやっていたからこそできた、高額治療が簡単にはできなくなる訳だ。金と命を天秤にかけて、金を取るという光景が現実にさらに頻繁に起こるようになる。

 また皆保険制度を崩壊させるのだから、すでに病気であること、あるいは家族歴で病弱な家系であることを保険会社に知られれば、保険料は高くなり、最悪の場合加入すらさせてもらえないだろう。

 さらには、せっかく国が金を出して実施したベーシックインカムの資金が、力のある外資系の保険会社に吸い取られ、国民ではなく他国の企業に甘い汁を吸わせることにもなりかねない。つまり国民の血税が外国に流れることに繋がるのだ。

 この問題に対応するためには、国から保険会社に対しての監視役を設置する、外資系ではなく国内の保険会社が従来の保険制度を肩代わりできるよう支援する、などの対策を取る必要があるだろう。しかしそれも限定的な解決にしかならない。

 そもそも医療任意保険に加入するであろう人は、ある程度の水準以上であると考えられるからだ。

 月々数千円、数万円の医療保険。加入は任意であると言われたら、目先の生活のために、加入しないことを選択する人も一定数いるだろう。

 そういう人が大病を患ったら、以前だったら、克服できていた病気でも、諦めるしかなくなるのだ。

 また、気軽に病院にいけなくなるということは、それだけでもリスクを生む。というのも、体の不調は重大な疾患のサインであることが多く、風邪様の症状であっても、重篤な疾患の前触れかもしれないのだ。お金がもったいないから、保険に入ってないから、保険の等級が下がるから、病院に行かない。そういう人が増えれば、見逃される重篤な疾患も増えるわけで、以前の制度では助けられたのに、手遅れになったときに病院に運び込まれて、もう助からないという命も増える。

 国民皆保険制度の解体はこういう問題を孕んでいる。


 ここまで書けば、ベーシックインカムというものを、無批判に受け入れることの危険性はよくわかっていただけると思う。

 だが筆者が一番恐ろしいと感じたのは、これを賛成している人間が少なくないことに対してだ。それはこの論の問題というのは、少し考えればわかることであるから。ベーシックインカム賛成論者は、プロアマ問わず見受けられるが、ネットの論客気取りならばともかく、一流の評論家がそのことに気づかないはずがない。

 これが意味するのはどういうことか。

 それは、推進派は端から社会的弱者を切り捨てるのも厭わないということ。

 国民の自由を尊重する。個人の権利を尊重する。

 聞こえはいいが、新自由主義の行き着く先は、格差を拡大し、弱肉強食を推し進めること。

 つまりは弱者の切り捨てだ。

 

 もちろん痛みなき改革などありえないし、1億2千万人すべての人を幸福にするのは土台無理な話だ。このままでは増え続ける社会保障費と、縮小する日本経済のダブルパンチで、国民総倒れというのもあり得る。

 あるいはベーシックインカム導入を推す新自由主義達も、真に国を憂い、犠牲になるものがいることをわかった上で、身を切る思いで、救えるうちに救えるものを救おうとしているのかもしれない。


 一つ確かなことは、いずれ日本国民は選択を迫られるということだ。 

 国民全員で一家心中するか、涙をのんで口減らしをするか。

 その判断だけは人任せに、為政者任せにはできないだろう。


 

 


 

 

 

 

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ベーシックインカムは日本を救うか 逸真芙蘭 @GenArrow

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