Rain, rain later

夏永遊楽

雨のち雨

 紺色の小宇宙を、白い猫が駆けている。

 白猫が蹴り出すあとからあとから、雨水の滴が降りおちる。


 ……正確にいうと、それは傘の模様。

 小宇宙の主は、2クラス向こうの男子生徒だった。

 名前は知らない。

 ただ、不思議なことに彼にはよく目を奪われた。

 ごく平均的な体つきなのだけれど、肌がとにかく滑らかで真っ黒な髪は濡れたように艶やかで_____なんとなく綺麗な人だと思ったのだ。

 台風が近づいているらしい。ごうごう唸る風に煽られて、雨粒が降りかかる。

 傘なんて申し訳ばかりの防具はなんのその、制服のワイシャツに水玉のしみができていく。

 少し身震いして、すこし緊張を覚えながら"主"の前を通りすぎようとした。

 校門を飾る花壇のブロック(そんなところ誰も座らない)に腰掛ける彼の顔を、すれちがいざまに盗み見る。


 醒めた目をしていた。


 くるくる愉しげにまわる傘とはあまりにも対照的に、私をぞくっとさせるには十分な何かがそこにはあった。

 彼の表情はやわらかく、しかし考え事をしているようにぴくりとも動かない。

 不自然に冴えた目が、刺すように冷たい。

 と、コンマ数秒をものすごくスローモーションに感じながらフォーカスする私の目が、反射的にぎゅっと閉じた。

 驚いて足がとまる。

 左目をこすると、かすかな痛みと生温い水が指先に伝った。

「……ごめんっ!水、飛んだ?」

 やわらかな声。

 雨音の中でもはっきりと輪郭のある声。

 彼が立ち上がった拍子に小宇宙が転げおちる。

「おわっ」

 匂う雨が容赦なく彼を責める。きれいな黒髪の毛先から滴がしたたり、いっそう艶っぽくなった。

「……大丈夫?」

 雨にかき消されるほど小さな私の声。

「あ、ヘーキヘーキ。それより目、大丈夫?」

 ごめんねボーッとしてて、と彼は目をのぞきこんでくる。

 ああ、間近で見てもやっぱりきれいな肌……荒れも、しみひとつもない。

 ばつが悪そうに顔をゆがめる彼の目に、いまはもう、さっき感じたものは消えている。

「いいの。私も平気だから」

「そう?」

 こくん、私が頷くと彼は安堵の息を吐いた。

 そこでやっと転がった小宇宙をひろいあげた。

「あ。それ」

 彼が前髪をかき上げる。「ん?」

「ほんとに宇宙だった……」

「え?ああ、これ?」

 小宇宙の裏側がくるりと返される。

 濃紺の裏地いっぱいに、無数の星たちがひろがっている。

 小さな月も発見した。

「俺のお気に入り」

 自慢げな笑顔がかわいい。

「かわいいね」

 いつの間にか笑顔が伝染ったみたいだ。自然と口角が上がる。

「じゃあ俺行きます」

 月の主が小宇宙を持ち直す。「もう濡れすぎて意味ないな」ちょっと考える素振りを見せた。

「……だれか待ってたんじゃないの?」

 感じた違和感にふっと浮かんだ疑問が口からこぼれる。

 彼は表情を固めて瞬きする。

 あ。このひとことは余計だったかも……。

 口ごもっていると、彼はふっと息をもらして笑う。

「雨が憂鬱で動きたくなかっただけだよ」

 一息にそれだけ言うと、彼は歩き出した。

 シャツが貼りついた背中に小宇宙をたずさえて。

 たぶん、女物の、小宇宙。


 みるみる縮んでいく小宇宙を見るでもなく眺め、やがて見えなくなる。

 急激にこみ上げる熱を感じてそっと額にふれると、うっすら汗がにじんでいた。指でそれをぬぐう。

 湿っぽい空気のせいじゃ、ないよなコレ。

‘主’の声が頭のなかで反芻する。

 感じのいい人だった。

 名前も訊けなかったけど……

 クラスの派手め女子みたいな積極性がほしい。

 熱いため息を何回か出しつつ、ふらっと家路を歩きはじめる。

 人目もはばからず傘をくるんくるん回した。

 そんなこと初めての放課後。



 宇宙傘の彼の名前はすぐに判明した。

 恋愛とか、そういった色事におくてな私はなんとなく気恥ずかしくて、2年生になった今まで彼のことを誰にも聞けずにいた。

 彼のほうも特別目立つ人ではなく、うわさも聞かない。

 かれこれ半年、たまに姿を見つけては注意力散漫させて目で追う____なんてことを飽きずに続けてきた。

 飽きないのは当然かもしれない。

 知らないものには飽きようがない。

 それが今日、初夏のとある1日、私はようやく知ろうとしている。

 手はじめに一番仲のいい友人にそれとなく訊いてみたのだけれど、彼女と宇宙傘の彼とは出身中学が同じだったらしく、無駄にいきんでいた私は拍子抜けしてしまった。

 やわらかく陽に照らされた中庭は広々として気持ちがいい。今日は湿ったにおいが鼻腔をくすぐる。

 お昼の校内放送が流れてきていた。

 昨日から降り続いた雨は、今日の午前中やっと涸れた。

 ベンチはたくさんあるけれど、まだ乾いていないので雨に侵されていない屋根つきのテーブルセットを選ぶ。

 そこで、友人と向かい合わせに座ってお弁当を開ける。

 なんだか食欲がなくて、食べるでもなくお弁当の中身を箸先でいじる。デザートはくず餅で、そのつるりとした乳白色を見つめていると宇宙傘の彼が浮かんでくる。

 あの肌もこんな風に瑞々しかった。

「恋わずらい?」

 友人の声で気を掴み直す。

「…………いやー……」

 どうだろ。とりあえず食欲がわいてこない。

「恋患いの症状その1、食欲が湧かない。その2、ボーッとする。3、カオが熱るっ!」

 むにゅ。

 テーブルに身を乗り出して笑顔の友人に、頬をつぶされた。

「なにしゅ、」

「ほらー、カオ赤いしー」

 あっつ、と友人は手を離す。

うるいのこと考えてたんでしょ」

 否定できない。そしてむしろ肯定したい気になってくる。

 胸のあたりがむずむずしている。

 おかしい。私どうかしてるかもしれない。

 あつい。

「恋でしょうか」

 湿った香りが、雨のなごり。

「恋でしょうね」

 甘く立ちこめる植物のにおい。

「好きなのかな」

 肌を包む潤んだ空気。

「好きなんじゃない?」

 小宇宙と猫。

 ……醒めた目。

 友人の言葉がたしかな自覚をくれる。

 正解の答案にひとつひとつ赤マルをつけてくれる。

 すん、すん、と静かな音をたてて、私の胸に気持ちが収まってく。

 ああ、だんだん、さえてきた。

「……ずっと見てるだけだったの。けど、前よりもっと気になっちゃって」

 むぐむぐ、ちいさく口を動かす。

「潤はー、元水球部で、目立たないけど品があって、けっこう好青年」

 友人が口もとをゆるめながらサンドイッチをかじる。

「……でね、彼女がいたの」

 指先に力が入る。

 ぴくっとしたのに気がついてか、友人がニタリと笑う。

「去年別れてる。美人だったけどすっごい悪評流れててー、彼女、クラスで色々あったらしくて」

 またサンドイッチをかじる。

「そんで転校した」

「え」

 転校。

 もう高校生だ。めったなことでは学校を移ったりしないだろう。

「まあ人づてに聞いたし、なんで転校したかまでは知んないなあ」

「そっか」

 くず餅をながめる。

 宇宙傘____潤くんの肌。

 同時に、醒めた目。

 連鎖的に浮かんできても、私が探り入るべきじゃない。そんな気がした。

「それくらい、食べとけば?もったいないし、ママ泣くよ」

 友人が乳白のくず餅を指さす。

「そうだね」

 湿り気が息苦しくなってきた。

 箸で切ってくず餅を口にふくむ。

 喉にぷるぷるの感触が冷たく、きもちいい。

 のみこんで胃に落ちると、大げさにも重みを感じた。


 屋根の下から陽のなかに出ると、開けた視界であちこちうるうる光っている。

 花壇の花が雫をまとい、鳥が低く飛ぶ。

 足もとでは、靴裏が強く摩擦している。

 この潤いと離れたくないと。

 その潤いに惹きつけられたみたいに。



 数日たって、移動教室で廊下を歩いているとき、私は無意識のうちに潤くんを探している自分に気づいてひとりで勝手に気恥ずかしくなった。

 そして淡すぎる期待に自分でキョドりながらくるくる視線を泳がせる。

 なら普通にクラスを覗きにいけばいいじゃないかとはわかっているけれど、恥じらいと不安と勇気のなさで行動がともなわないのが私のようなオクテ女子だ。

 でも、今日はちょっとついてるみたい。

 前から歩いてくる潤くんをしっかり視界にとらえた。

 期待していたはずなのに俯き気味になる私。

 すれ違う瞬間、ちらっと目を動かすと、彼がこっちを見ていた。

 というか、目が合う。

 しかも彼は、あろうことか軽く会釈してくれた。

 びっくりしたのと、クイッとした首の動きがかわいくて、とっさに反応できず見とれたくなったけど、なんとか平静を装って会釈を返した。

 体がほこほこして、くすぐったい。

 潤くんのやわらかな表情も、やっぱりいい。



 三日後、また雨が降る。

 お天気おねえさんの予言どおり、昼からやわらかな小雨がずっと降り続いている。

 今は放課後で、部活終了も間近の6時過ぎ。夕焼けの、青いような赤いようなふしぎな色を拝める、お気に入りの時間。この春気づいたばかりだ。

 私が所属するオーケストラ部で、私が所属するパート・ファゴットは東校舎の端、空き教室前の廊下で練習することになっている。

 譜面台を窓際に移動させ、窓に向いて楽器を構えると、4階のそこからは夕空が一望できた。

 空よりもっと下のほうに目線を落とすと、そこには校舎入口の正門があるのだけど……さっきからチラチラ気になるものがあった。

 ……花壇に人が座っている。

 雨だし、花壇のブロックは幅が狭いし、うちは進学校だしで、そんなところに腰をすえる人を私はひとりしか知らない。

 潤くん。

 心の中で呼んでみる。

 彼は相変わらず、あの小宇宙を回し続けているようだった。

 あれは何なんだろう。くせなのかな。

 ここからでは表情もわからないけど、きっと今も醒めた目に無表情でいるのだろう。

 なのに、ぴくりとも動かない体の上で、ひどく落ち着きなく、宇宙傘だけがくるくる表情を変える。白猫が優雅に行っては戻り、遊歩する。

 あれは。

 待っている人がなかなか現れないイライラでも、

 水滴を飛ばして遊んでいるわけでも、

 といって無意味な行動でもない。

 と思う。

 確証はない。推考する理由も、意義も、ない。

 横で同じように楽器を傾けるパートメイトが何気なさそうに言った。

「あそこに座ってる人、部活始まったくらいからずっといるんだよ」

「……」

 傍目に見れば、友達か彼女を待つ青春真っ盛りの青少年。

 ただ、誰かを待つでもなく何時間も雨の中居すわりつづけるって、

 普通できなくて、

 それってなんだか、

 異常じゃない?


 まもなく部活も終わり、さっきより少し暗く色づいた空の下に出る。

 謎の解放感。軽くのびをしながら正門に向かって歩く。

 片付けやら何やらこなしていたので、練習後30分くらいは経つだろう。

 ____どうかな。どうだろう。

 もうさすがに、いやいや、でも。

 期待とよくわからない焦燥と、ほんのすこしの好奇心を押し沈めて門をくぐる。

 一緒に下りてきた部活仲間に手をふる。

「え、帰んないの」

「寄るとこあるから」

 寄るとこ、ね。

 彼女らがちょっと離れるのを待ち、居ずまいを正した。

「ねえ、何してるの?」

 彼が顔を覚えていてくれたことも後押ししてか、それともでしゃばった好奇心か。

 たいして躊躇うこともなく、私は潤くんに溜め込んでいた疑問をなげた。

 素直に思った、私らしくない大胆な行動だ。

 だけど、気づいてしまったものは気になるのが性。だって彼はすこし“おかしい”。

 うつむき気味の潤くんは生気のない人形のような動きで、ことんと首を持ちあげた。

 ちょっと怖かった。この目。無い表情。

「やほ」

 しかし醒めた目が私を映すことはなかった。その前にフラッシュのごとき速さで彼の目に吸い込まれた。

 私を認識すると途端に朗らかに笑う。空気がふっと緩む。

 一瞬前までの彼はいなくなる。跡形もなく消えてしまう。

 とても不思議で、とても普通じゃない。

 実態はなく、でも手をさ迷わせて探れば掴めそうなモノ。感覚。

「何もしてない。雨がきれいだったから、癒されてただけだよ」

 そう言ってにっこり浮かぶ笑顔が、虚空でずっとおなじ人形じみた彼のまま……というわけでもなさそう。そこには目に見える感情が、ちゃんとあった。

 今度はなめらかな動きで傘を持ちなおし、雨を見つめた潤くんのまつげに水滴が乗る。まさに、濡れたようなツヤ。

 濃く、濃くなっていく空を見上げてみる。

 小さな雨粒が細やかな直線を描いて、私を中心に落ちてきているように錯覚をおこした。

 こんな角度で雨を見たことはあったっけ。

 無数の針が、私を避けながらさらさら……

 ひとすじ目頭を刺して、私はンっと声をあげる。

 まただー、と潤くんが笑う。

 私もちょっと笑った。

「帰んないの?」

 潤くんは立ち上がって、大きく伸びる。傘が高く掲げられて、裏地の星柄が現れる。「いや……行きますか」

 おたがい手を振って、潤くんは背中を向けて。

 私はそれを眺める。

 ところで、こんなところに座ったら、お尻は濡れない?

「……あ。」

 花壇には、白いタオルが置いてきぼりにされていた。

 そっとつまみ上げると、ブロックの水分はタオルに吸われて、そこだけ色が変わっている。

 潤くんの痕が、残っている。



 潤くんのことが全然わからない。

 深く知るとか、そういう意味でなく、ただ人間がわからない。

 何を考えてるの?

 何をしてるの?

 なんで傘が女物なの?

 なんではぐらかすの?

 雨がなんなの?

 どうしてあんな目をするの?

 普通じゃ、ないよね?

 私が気づく前から何時間も何時間も。

 なんの理由があって。なんのために。

 何があなたをここに縛るの?


 気になるよ。

 気になってしょうがない。

 だって潤くんが好きだから。せわしなく姿をさがして、そうして見たのがあんな姿で。

 やっと少し近づけたのに。

 ああでも、

 留め具が外れたみたいに気持ちだけ先走ってる。

 ばからしい。

 しんどい。

 ほんとに、ばからしい。

 私らしくない。

 彼にとっては私は何でもない。取るに足らない。

 それだけが事実で、確かなものなのに。

 あとはぜんぶ、私の勝手な先入観で、興味で、思い込みで、形の無い一方通行で、妄想で______

 無駄でしかない。

 探りまわすべきでもない。

 もしかしたら、関わらないほうがいいのかもしれない。それは、私たちに変わりない平穏をくれる。変化を欲するかどうかは、すごく難しい議題で、見てきたイメージを裏切られる可能性をも匿っている。

 へたに踏み込んだりしなければ、知らないふりを貫けば、きっとなにも心配せず望ましい関係を築いていけるのかもしれない。


 でも、中途半端に見てしまった。

 この恋慕の感情は、ずっと育っている。

 垣間見えたモノは引っ張り出したい。

 やっぱり、どうしても、

 知りたい。


 小宇宙を傘に着る、あのきれいな、潤理一をたしかにつかみたい。



 ……こんな私は、今までどこに隠れていたんだろう。



 潤理一りいちは泣いているのかもしれない。

 雨の日にしか例の奇行をしないことがわかったから。

 雨と共鳴しているのかも……

 なんてね?いや、さっぱりわからないけれど。

 わからないことは本人に聞くしかない。周りでチョロチョロするもんじゃない。

 ここは、そう、美人で活発なお姉ちゃんのように。

 私のふたつ上のお姉ちゃんはうちの高校のOBで、底抜けに明るい人。遠慮というものを知らなくて言いたいことはずばずば言ってしまう気の強い人で、そのせいでよく女の子とモメていたみたい。

 お姉ちゃんは何も言わなかったけど、敵意悪意を向けられる日々はしんどかったに違いない。

 けどそんなお姉ちゃんにも彼氏はいて、強くてリア充なお姉ちゃんを私は好きだった。「彼氏がいる」ってことしか聞かされていないから彼のことは全然知らないけど、オトコマエなお姉ちゃんが認める人だ、強くて優しいんだろうな。

 さて、そのお姉ちゃんに敬意を示して、ちょっとだけ言動をまねてみようと思う。

 自信がないときも、不安なときも、お姉ちゃんを意識することでふしぎと強くいられる。今までだってそうしてきた。苦手だ奥手だなんだと言ってられない。

 お姉ちゃんはいつでも強く笑っていたから、弱さなんてないんだと思ってた。


 お姉ちゃんならどうするか?

 まずは接近。

 文字通り接近。

 春は雨がよく降る。潤くんの行動パターンが分かればこっちのもの。


「潤くん」

 いました、彼は花壇の上に座り込んでいる。今日はタオルがないのか、腰かけることはせずにヤンキー座り。

 午後から急に降り始めたからかな。

 顔が傘の影にかくれて見えない。

「おす」

 私の姿を認めると、軽く手を上げてくれた。

「私友だち待ってるんだ。ちょっとだけ一緒にいてもいい?」

 彼はあまり間を置かずに応えた。

「いいよ」

 よし。やった。お姉ちゃん効果だ。

 お姉ちゃんになったと思えば、なにも恐くなんてない。

「潤くんは、いつもここで何してるの?」

 だから、いきなりド直球も平気。

 これが、良かったのか悪かったのか。

「_____言ってるじゃん。雨が好きなんだよ」

 彼はまた小宇宙に表情を隠した。

 その仕草がすごく気になった。

「だから、ここでずっと座ってるの?」


「________なに」


 ふっと現れたその目は、

 醒めているでも、ましてや細まってもいなくて。

 度が過ぎるほど解りやすい、牽制だった。

“それ以上踏み込んでくるな”って。



 やらかした。私は焦燥に駆られ、手の内側が湿った。

 私は怖くてたまらない。

 でも。

“お姉ちゃん”は、そんなこと気にも留めなかった。

「ねえ、どうなの?教えてよ」

 私が造り出した完璧なお姉ちゃんは、にいっとなにも考えず笑った。

 ゆるやかに弧を描く唇と目もとには、純粋なだけの好奇心以外存在しないのだ。


 そうだよね、お姉ちゃん。



「_____……」

 潤くんの瞳は黒々と艶めく。

 ふたり瞬きもせずに見つめあい、一瞬の体感速度は限りなく遅くなる。

 ふたりの間で、何かが動く気配がした。

「嘘だよ」

 哀しげに潤む瞳は私を見つめ続ける。

「雨なんて大嫌いだ」

 苦しげに声をこぼしていく。

「そうだよね。こないだは、雨が憂うつだって言ってたし」

 私はきぜんとして微笑むのだ。

「違う。……そうじゃ、ないんだ」

 彼の、小さくて大きな嘘に、なんの意味があったのかなんて私にはわかり得ないこと。

「なんで……あんたは」

 ただ、今にも涙が溢れ出しそうなほど歪めた顔を見ていると、

 綺麗な肌が強ばるのを眺めていると、

 無性に腕を伸ばして抱き締めたくなるんだ。



「俺はさあ、」

 再び小宇宙に身を隠した彼の声はどこか無防備で、聞くと何だか安心する。

「前から知ってたよ、西野さんのこと」

 というか、よそよそしさが抜けた。

「え。そうなの」

 喋ったことも、目があったこともなかったのに。

「うん。でも思ってたより図々しいね」

「それ、ひどくない?」

「どうだか」

 今この瞬間、自然に会話できることが、突き上がるほど嬉しかった。

 浮かれていた。

「私も潤くんのこと知ってたよ」

「だろうな。名前も教えてないのに呼んでるし」

「名前きいたのは先週だよ」

「え?」

 え?

 なんの“え?”

「……人づてに俺のこと聞いて知ってたとかじゃないわけ?」

「違うよ。噂もなくて私と接点もないのにわざわざ聞かされたりしなくない?」

 潤くんはちょっと目を伏せた。「……それも、そうだな」

「うん。どしたの」

「西野さん、友だち遅いね」

 間髪入れない華麗なスルーを決めてきた。

 もう会話終了の合図かもしれない。

「それね、嘘」

「は」

「じゃあまたね、潤くん」

 嘘ひとつずつで、おあいこだよ。

 雨もやんできた。

 潤くんの態度はいろいろ意味深だけど、ひとまず気にしない方向でいこう。



 敬愛する逢里あいりお姉ちゃん。

 あなたの妹には想い人ができました。

 そして(無理矢理だけど)ちょっと接近できました。

 お姉ちゃんになったつもりで私が動いてるって言ったら、お姉ちゃんきっと怒るよね。自分以外自分じゃないんだから、って。

 ごめんね。でもありがと。おかげで仮衣の強さが持てた。

 私じゃだめなんだもん。だけど近づきたいこの気持ち、恋を知ってるお姉ちゃんなら分かってくれるんじゃないかな。ああでも、お姉ちゃんは矛盾と不安がキライだもんね。私じゃだめなんて、絶対考えないよね。

 それはお姉ちゃんだからできること。

 おねがい、許してね。

 お姉ちゃんパワーは偉大なのだ。



「はやく、おきて」

 外界から隔離された、白い空間。

 独特で清潔な香りが部屋中に充満して、とても不快だ。

「……ねー……」

 でも、お姉ちゃんがいる。

 色の抜けた、明るい髪先をなでる。

 私の倍はある、長い髪。

 プールの塩素で傷んでいたけど、今はもう本来の艶を取り戻している。

 お姉ちゃんが横たわるベッドに顔を伏せると、綺麗な茶髪に黒々しい私の髪が重なった。

「ねえ、お姉ちゃんの彼氏ってどんな人」

 応えはない。

 あるはずない、わけでもない。

「きっとさ。かっこよくて、優しくて、背が高くて」

 ぴくりともしない瞼を見つめる。

「そんで、自分をしっかり持ってる人だよね……」

 私と同じ鼻の形をしてる。

「私の好きな人はねぇ……」

 お姉ちゃん。

 逢里は、昏睡状態なのだ。

 もう半年になる。




 梅雨がくる。


 相も変わらずそこにあった。

 小宇宙と、駆ける白猫、そして。

 ついっと猫がブレーキをかけたところで私は彼の後ろにたどり着いた。

“誰を待ってるの”

 きっとはぐらかされるな。と思いつつ、前に回ろうとすると、雨の中でもわかるほど震えた吐息が聞こえた。


「…………逢里……」


 あいり。

 あいり。

 逢、里?

「逢里、お姉ちゃん……?」

 急にな脳の血が足りなくなったみたいだ。視界がぼやけてピントが合わない。

 なんだか、とても、くるしい。

「だれ?……西野?」

 そうだよ。西野だよ。こっち見て。

 理一は振り返らずに言った。「となり、きて」

 かすれた声が耳を痛くなでる。

 大人しく隣に移動したものの、そこに座ることも顔を見ることもできなくてただ突っ立っていた。

 見下ろす形になると、理一がとても小さく、頼りなく弱々しく見える。

 なんか私まで泣きそう。

「ねえ。誰を待ってるの」

 もう何も期待しないよ。これ以上は何の詮索もしないよ。だからお願い、涙のわけを、雨の意味を、私に教えてほしい。

「……俺、ずっとここで待ってたんだ」

 視界の理一がぐにゃっと歪んで、冷たいまつげが目元をくすぐる。

 顔は火照っているはずなのに、指先はひどく冷える。

 その指先でぴりぴり痛む耳をなでた。

「雨の、日は……っ逢里が、バスで…帰るから……一緒に、学校、出るのに」

 小宇宙からのぞく手が、傘の柄を強く掴んで真っ赤に染まっている。

「あの日……俺、ずっと待って…そ、たら、救急車、が……きて……!」

 湿った声がする。このまま雨に溶けてしまうんじゃなかろうか。

 そしたら、そう、わたしが掬ってあげる。


「 」


 そのあと、理一が何と言っていたのかわからなかった。

 聞こえてはいるんだろうけど、頭が言葉を処理できない。

「私は逢里にはなれないや。……私にも名前があるもん」

 なんでそんなことを言ったのか訳もわからないまま、たぶん私は穏やかな顔をしていたと思う。

 だって、白くてきれいな肌に、つい、ついっ、て滴が滑ってまた水に還ってく。

 なんてきれいなんだろう。

 雨と涙でひたひたの黒い目に、見られているのに私は映ってない。

 それでもいい。

 それでもいいよ。

 声もなく、叫ぶようなすがるような顔が悲痛で仕方ない。

 皮膜一枚隔てた別空間のいきものみたいな感じがして、私はこれ以上近づけない。


 雨は一向にやむ気配を見せない。

 雨音は鼓膜を打つのに、理一の声だけが届かない。

 お姉ちゃん。

 はやく、気づいてあげて。

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Rain, rain later 夏永遊楽 @yura_hassenka

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