第2話

  リヴィング・ルームでの夕食が終わると、いつものようにエディーが俺を背負って二階に運ぼうとする。エイセックスがその様子をそれとなく見守っている。そこで俺は暴れ捲くって抵抗する。エディーは俺を落とすまいと慌てる。

「どうしたの、ギルバート?もう寝んねの時間でしょ?」とエイセックス。

「彼は二階でなく、ここにいたいんですよ」とエディー。

「仕方ないわね。彼を一階にいさせましょう。彼はもう自由にしたいんだわ。彼には犬小屋なんていらないのよ」とエイセックス。

「彼はきっと良い番犬になりますよ」とエディー。

 エディーは俺の便器と水入れを二階から持ってくる。俺は窓際に行き、鍵を閉められないようにと窓の前に遮るように寝そべる。

 夜の十一時になると、窓の鍵はしっかりと閉められてしまう。

 深夜一時になり、エイセックスとケヴィンは各々寝室に行く。少し後にエディーとフランキーも一階にあるそれぞれの部屋に下がる。俺はこの日、初めて彼らが夜遅くまで起きているのを知る。

 深夜二時になり、俺は肘で窓の鍵を開け、庭に出る。一年と四ヶ月目にして初めての脱出である。どうやらこの初めての脱出の試みは先送りになりそうだ。もうフランキーにからかわれる心配はない。今、俺がここから逃れて生きようものなら、俺はこの体のせいで多くの限界を経験しながら、苦しんで生きる事になるだろう。庭に出てはみたものの、小屋を出入りする犬のように再び家の中に戻り、肘で鍵を閉める。

 以後三日程俺は心静かに漠然とした物思いに沈む。些細な記憶に感情が弄ばれる事もある。その内、体も日常的にだるくなっていく。そんな生活を続けている内に怒りや憎しみで頭が一杯になる。毎日毎日救われない自分を哀れんでこの家の者らを呪う。

 或夜、そんな思いで眠れない夜を過ごしていると、頭が熱くなっている事に気づく。掌で頭を触って確かめる事は出来ない。体のだるさに次いで酷い頭痛がする。言葉にするのも嫌なくらいの偏頭痛だ。五寸釘を頭に打ち付けられるような痛みに度々襲われる。血圧が高くなっているのか。体を冷やそうと水を飲む。水の量は限られている。頭を直接冷やすようには水を使えない。口を潤す程度では幾ら飲んでも体がだるい。死んだ父親が酷い頭痛に苦しんで、間もなく死んだ。お父さん!頭が痛いよ!お父さん!助けてよ!神様!頭が痛いです!アーメン。


 お父さん、頭痛かったろうね。判ってあげられなくて御免ね。体があるから病気があり、体があるから痛みも感じるんでしょ?お父さん、俺を天国で見守ってくれてるの?お父さんは本当によく苦しみや痛みに耐え抜いたね。アーメン。お父さん、俺はまだ死なないよ。頭痛は何とか止んだよ。イエス様、お父さん、ありがとう。アーメン。

 胸はポカポカと温かく快い。胸の熱さは人恋しさに似ている。思い切り誰かを愛したい思いの表われだ。それが具体的に誰かを思い浮かべると、憎しみと恨みが蘇る。ハートはこんなにも清らかなのに、どうして俺はこの生活の苦しみから救われないのだろう。目を瞑ると訪れる闇が快い。悲しみが募って涙が出てくる。

 胸の熱さは消えない。胸の温もりは優しい太陽を宿しているかのように俺の意識を惹きつける。

 三日経ち、俺は昔から時々憎しみを持ったであろう自分の半生を振り返る。親切にしてくれた人々を思い出し、彼らが誰よりも大切な友である事に気づく。俺の優しさは彼らの親切さよりずっと劣っていた。一級年上の幼馴染達で、どうあろうと憎めない奴らである。彼らの優しさは決して忘れない。彼らは俺が人を愛せるようになるまで沢山優しさを示してくれた。手足がなくなった分、ハートが熱くなると、そこが強調されて、胸一杯に愛が広がっていく。誰かを思い出し、自分の慈愛が劣っていたならば、素直に尊敬の念を抱くべきだろう。

 一週間して、俺を産み育ててくれた両親に詫びたい思いが募る。お父さん、お母さん、迷惑や心配をかけて御免なさい!アーメン。

 十日程経つと、今度は両親に対する親不孝を心から詫びたくなる。こんな体になってしまった事から過去を振り返ると、小さな頃に受けた沢山の愛情の記憶に遡る。過去に遡ると、今度はまた声もなく泣きながら、もう謝り続けるしかない。思い出すと、学校を出てからの俺は生活上の金の工面は全部自分の労働の収入で何とかやってきた。学生の頃は退屈を紛らわすようにチンピラ紛いの悪さもした。フリー・セックスをする者を友人に持ったり、ドラッグもやった。そこにはグループの勢いに着いてこれなくて泣き始めた女の子がいた。俺はその子がねじ伏せられるのを知らんぷりしているような冷血漢に成り果てていた。その時、俺はこの胸で感じた自分の意気地のなさがどうしても忘れられず、勇気に欠けている事が嫌で嫌で仕方なかった。俺は悪魔なんかじゃない!

 それから一ヶ月の間、この家の者への愛が募るのを実感する。眠っていたエナジーとは愛だったのだ!俺は仲の悪かった古い知人達の事を思い出し、彼らを許すつもりで、率直さの足りなかった自分の態度を詫びる。

 一ヶ月と三日経って、俺が経験した全ての出会いを神様に感謝する。

 一ヶ月と一週間が経過すると、俺はエイセックスを許す。

 一ヶ月と二週間が経過すると、俺はエイセックスを再び愛し始める。相変わらず俺を愛犬のように扱うエイセックスに優しい眼差しを向けると、気のせいか、エイセックスの眼が涙で光ったように見える。エイセックスはそんな俺を見て抱き締める。

 二ヶ月して、俺はケヴィンを許す。ケヴィンは彼を見つめる俺の眼差しの変化に気づき、俺にウィンクする。

 三ヶ月して、俺の手足を切断したエディーとフランキーの二人を許す。エディーは俺に微笑みかける。フランキーは、フランキーは、ああ!俺の顔に、唾を吐きかけた!何故だ!何故フランキーは俺に唾を吐きかけたんだ!俺の姿はそんなにも醜いのか!その場では途方に暮れた俺も、夜になって独りになると、心の中で良心の痛みを覚えながらも、悔しくて、悔しくて、お前なんか死んじまえとフランキーの顔を浮かべて声もなく叫ぶ。頭をカーペットに何度も激しく打ちつける。頭が猛烈に熱い。それでも俺は悔しくて、自分の頭や胸を掻き毟りたいような気持ちになる。掻き毟る手がないので仕方なくカーペットに顔を押しつける。涙が溢れる。俺は涙で癒し尽されるまで泣く。俺はフランキーに謝られ、優しく抱き締められる事を夢想する。色んな事が目の前に浮かんできて、悲しみにも憎しみにも心が定まらず、なかなか眠れない。エイセックスにも、ケヴィンにも、エディーやフランキーにも、きっと生まれながらの清らかな愛がハートにある筈です。そうではありませんか?人間は魂までも悪魔に支配される事はない筈です。私は主の愛の手足となって生きます。どうか私を神の愛に目覚めさせ給え。アーメン。

 翌日にはフランキーをも自分の愛で満たしたくなる。

 四ヶ月経つと、ケヴィンや俺の手足を切断したエディーやフランキーをも愛せるようになる。全ての世話を彼らから受けているのは事実だからだ。彼らが罪の意識を持たずに俺に接してくる事が却って俺に業の報いだけを深く自覚させる。俺は彼らの姿の中に主の御顔を見ようと、彼らの人間の神性そのものに視線を向ける。主の御顔は一向に見えてこない。彼らの姿そのものに神性の表れがあるのか。それは邪悪な考えなのか。俺は邪悪な考えに深入りしないようにじっと心を無にする。俺は彼らとは別の姿を神の御姿に定めている。彼らは俺に考える間も与えず、まるで思い浮かべた祈りの対象に立ち塞がるかのように俺に構ってくる。

 半年経つと、憎しみは俺の中で存在する事が難しくなる。愛が一層強くなってきた。愛があっても、誰にも何もしてあげられない。それが辛くて、鼻がツンと熱くなる。愛で全身が漲っているのだ。大分精神的には満ち足りた気持ちで暮らせるようになった。俺の中に眠っていたエナジーとは愛だったのだ!

 瞑想は熟睡のための行為以上にはなかなか進歩しない。目を閉じてハートと眉間に集中しながら、天国の霊の爽快な頭を想像する。瞑想中の忘我の闇を静かに振り返られるようにはなった。まだ神の光を見た事はない。神の光の中で覚醒した意識を保ちたい。

 もう直ぐで七ヶ月が経つ。俺は神のお告げについて考える。神の声が外界に現われるのを何となく期待している。俺はドラッグや統合失調症による幻聴を突然目覚めた霊感によるものだと考えた。その考えをなかなか捨て切れずにいる。『普通の人が神のお告げを受けると、人は間もなく死ぬ』と大真面目に言う友人がいた。何かおかしな男であったけれど、神に関する不思議な話をよくする男だった。

俺は光り輝くジーザス・クライストが空中に現われ、俺を祝福する場面を思い描く。それが俺を変に得意な気持ちにさせる。俺の愛はジーザス・クライストの愛に準えて自覚されたのだ。

 八ヶ月経つと、もし本当にジーザス・クライストが現われたなら、この愛で傷ついたイエス様を思い切り抱き締めてあげたい。ただ俺には主を抱き締める手もない。俺はイエス様に胸の中で話しかけるように祈り始める。悪い王女によって聖書から生まれ変わりに関する教えが削除されたとエドガー・ケイシーの本に書かれていました。イエス様が現われた時には生まれ変わり説について御聴きしたいです。イエス様は預言者エリアの生まれ変わりらしいですね。私も自分の前世が歴史上人物だったら良いなと思ってるんです。来世の私はこの私の人生を直前の前世と見做す訳ですよね。今生私が歴史に名を残す事をしなければ、来世を知る時には名もなき前世を知る訳です。何とか写真集をこの世に残して去れます。来世、自分の写真集を手に入れたいです。イエス様は私の最愛の友です。イエス様と共に生きる事は例えようのない喜びです。人生は神様とどれだけ親密な関係になれるかに真の価値があるように思うんです。アーメン。

 或日、いつものように友に対するような親しみを抱くイエス様を相手に心の中で話しかけていると、「イエスよ、私も神の子だ」とつい心の中で調子に乗って言ってしまう。思っていたより大胆な言葉であった。自分の言葉ながら、酷く動揺し、何だか胸の内が寂しくなる。意中に留まった言葉であったにも関わらず、鼓動までも乱れる。聖書の中の十字架を背負って街を歩かされる喉の渇いたイエス様が水だと思って民衆の施しを受けて飲んだら、酸い葡萄酒を飲まされる羽目になる場面がある。それを思い出し、イエス様が気の毒に思え、涙が溢れる。胸の熱さが冷めると、俺は再び孤独になる事を恐れる。穢れたまま変わる事のない心と死ぬまで共に生きるように神様が定めている訳ではない。人間は心が穢れているのに気づけば、より望ましい状態に変わる事を望む。清らかな心になりたいと思い始めると、病んだハートの痛さや苦しさを無視出来なくなる。見返りも考えずに愛したいとは思わない。俺は愛されたいと思うからこそ人を愛そうと思うのだ。それは人間として正常な欲求であろう。特定の好きな女性を愛すると胸が苦しくなり、その上、他が見えなくなる。愛によって誰かに奉仕した後には自分を単なる人間である以上に天にも昇るような神聖な気持ちの高まりが起きる。子供の頃、教会の手伝いや身体障害者への奉仕活動を学校の課外授業で行った。その時、俺は健常者の役割を自覚し、助け合いの精神を学んだ。それは何とも不思議な歓喜を齎した。俺は奉仕活動に天国への道を見出した。愛は試練と深く関係する。愛はとても見失い易い心だ。何時の間にか溢れんばかりの愛がまた俺の胸を熱くする。胸が熱くない時、俺は自分の愛が人に流れる事を夢見る。胸が熱い時、俺は愛を神聖視して、神様に揺ぎなき愛の信仰を誓う。この愛の力さえ自由に出来れば良い。

 十ヶ月が過ぎ、俺は深夜二時にこの家から脱出する事を決意する。インド人の哲学者の教えがまた思い出されてくる。

『どんな事が自分の身に起ころうとも、決して軽はずみに無神論者の馬鹿騒ぎに賛同してはならない。信仰に対する純粋な気持ちを忘れる事なく、誰よりも真面目に生きようとする心掛けが必要だ。神を知る事に焦る思いは修行に役立てなさい。乱読は避けなさい。多くの事を身につける事を焦ってはいけない。信仰の友が欲しければ、この世には絶え間なく聖人が表われては去っていく現実がある事を知る人と付き合いなさい。そういう友が欲しいと強く願いなさい。

 あの世の理想郷である天国を否定し、人間の思想だけでどれ程の希望が見出せるか。人間の思想だけでどんな理想に到達し、どれだけの完成が獲得されようか。自分で完成と認めた境地を世に問うてみなさい。修行者は神への道における自己実現以外に絶対的な価値を認める事はない。何度も生まれ変わりを繰り返して達成しようなどと考えてはならない。そんな心構えで修行の達成を先延ばしするぐらいなら、生まれ変わり思想など知らない方が良いのだ。神を否定して神以上の存在を示した哲学はない。神を否定した哲学者が神に勝る事もない。愚かな人間程良心に反して無神論にかぶれ易いのだ。信仰には他のものでは到底代えられない充足感がある。あなたの一日一日が完全に神に捧げられた神聖な一日となるように心がけなさい。それが我々に出来る神の仕事のお手伝いであり、世界を変える確実な第一歩なのだ。そのために社会や困っている人々や孤独に苦しんでいる人々に奉仕しなさい』

 深夜二時になり、肘で窓の鍵を下ろし、何とか庭に出る。二年と二ヶ月の時を経て、遂に俺は四つん這いで庭から玄関の方に回り、逃げ出す事を実行する。

 コンクリートの上に両肘と両膝を突いて四つん這いで歩いても不思議と痛みがない。豪邸の並んだ高級住宅街の路上を疲れ知らずのように着実に四つん這いで歩き続ける。エイセックスの家からどんどん離れていく。夜は長い。心は喜びに溢れ、涙も止め処なく溢れ続ける。八〇〇メートル近く四つん這いで歩くと、下り坂が見えてくる。人通りは全くない。俺は神様に命の安全を祈りながら、他の事は何も考えずに只管四つん這いで歩き続ける。

 下り坂の頂上まで何とか辿り着く。俺は下り坂を見下ろしながら、一息吐くと、丸太が転がるように坂を下っていく。

 下り坂を下り終えると、道路が左右に延びている。左の遠方から車の音が聞こえてくる。俺は車の音がする方に視線を向ける。遠くから大型トラックがライトを照らし、俺の方に近づいてくる。このまま道路の真ん中にいれば、ドライヴァーがトラックから降りてきて、俺をトラックに乗せてくれるかもしれない。

 トラックが手前三メートル付近で停止する。ドライヴァーがトラックから降りてくる。

「ヘイ・ユー!お前、頭がおかしいのか!こんな道路の真ん中にいたら、危ないじゃないか!」と赤い野球帽を被った髪の長い痩せた長身の白人の男が俺に注意する。俺はボディー・ラングエッジで肢体を切断された体を動かして見せる。

「何でお前、裸なんだよ?ああ、何てこった!どうしてそんな痛々しい姿になったんだ?名前は何だい?声も出ないのか?判ったよ。俺はアンディー。警察署に行こう!」とアンディーが哀れみの眼で言う。

 俺は首を左右に振る。

「嫌だって言うのか?」とアンディー。

 俺はまた首を左右に振る。

「何で警察に助けを求めないんだ?」とアンディー。

 俺は首を左右に振り、頑として首を縦に振らない。

「じゃあ、病院に行こう!」とアンディー。

 俺は同意して頷く。

「俺はニュー・ヨークに向かってるところなんだ。序でだから」

 俺はアンディーが言い終える前に喜んで首を縦に何度も振ってみせる。

「何だ、そんなに遠くの病院が良かったのか。よし!それなら一緒にニュー・ヨークに行こう!」とアンディー。

 俺は喜びの余り何度も頷いてみせる。アンディーは俺を肩に背負い、トラックの助手席に座らせる。アンディーは裸の俺を哀れみ、彼が持っていた自分の黒いTシャツと青い短パンを俺に着せてくれる。アンディーはトラックの運転席に着くと、ノートとペンを俺の顔の前に近づけ、「このペンを口に銜えて、君の名前を書いてくれ」と言う。俺は何とか解読出来る程の文字を口に銜えたペンで書き、名前を伝える。

「それじゃあ、ギルバート!ニュー・ヨークまで一緒に行こう!君は少し眠ると良い。もしかしたら、寝ている間にニュー・ヨークに到着してるかもしれないぞ」とアンディー。

 アンディーがトラックを動かす。俺は疲れが溜まっているせいか、車に揺られている内に眠くなってくる。


「ヘイ・ギルバート!フレンチ・フライとハンバーガーは好きかい?何か食べた方が良いだろうと思って買ってきたんだ。これはコーク。口を開けてくれれば食べさせてあげられるよ」とアンディー。

 トラックは夜の大型モールの駐車場に停車している。沢山の車や人が動いている。

 俺は口を開けてアンディーにウィンクし、アンディーに食べさせてもらう。アンディーは俺のおどけたウィンクを見て微笑む。アンディーは俺にハンバーガーを食べさせる。アンディーは俺の顎に垂れたソースも親切にペイパー・テーブル・ナプキンで拭き取ってくれる。フレンチ・フライもコークもとても美味しい。

「ここはもうニュー・ヨークなんだよ。橋の向こうが有名なマンハッタンさ。ニュー・ヨーク・シティーの事だよ!あそこには勿論、君のための最良の病院だってあるよ」とアンディー。

 俺のホームタウンはマンハッタンだ。それを知らずにアンディーは街案内を続ける。それはさておき、どれくらい俺は眠っていたのだろう。

「ギルバート、君にはあっと言う間に着いちゃったみたいな旅だったろ?二十四時間以上君は眠っていたんだよ」とアンディー。

 こりゃあ、驚きだ!どうやら俺は長くフロリダ辺りにいたようだ。それより久々に人間の食べ物を食べた。その満足感でとても気分が良い。何てったってビッグ・マックを三つも食べたんだからな!

「満足かい?」とアンディー。

 俺は頷いて笑ってみせる。アンディーはトラックを再び動かす。極小さな音ではあるけれど、作曲家の判らない交響曲がレイディオから流れている。俺はクラシックは余り詳しくない。信じられない事ながら、俺の頭にはまだ寝足りない感じが残っている。病院まではまだ時間がある。俺は再び瞼を閉じて眠ろうとする。主よ!脱出は無事成功したようですね。このアンディーという男は神の使者ですか?この男は本当に善良な人間ですね。どうか私を母のところまで無事御導きください。アーメン。


 病院に着くと、アンディーが俺の母の電話番号を例の方法で聞き出し、親切に母に連絡を取って、病院に迎えにきてくれるように手配してくれた。アンディーは俺の座っている外来の同じソファーの左隣に腰を下ろし、「君のお母さんが直ぐに迎えにきてくれるよ。俺はもう行かないと。その服は俺からのプレゼントだ。それじゃあ、ギルバート、元気でな!」と言う。俺はこのアメリカン・ナイス・ガイの象徴のような男に言葉と態度で深く感謝したい。声は出ない。握手も出来ない。俺は中途から切断された両腕を振り回し、親愛なる気持ちを笑顔で表わす。アンディー、君は俺の人生最高の恩人だよ!君こそがアメリカだ!

 アンディーは俺の中途から切断された腕の先を握って握手すると、「さよなら、ギルバート。俺が必要な時は遠慮せずに呼んでくれ。お母さんには俺の住所を教えてある。じゃあな!」とソファーから立ち上がって別れの挨拶をする。アンディーは俺を抱き締め、「天は常に君自身を救い、君を導くためにあるんだよ」と言う。彼は俺の背中を軽く叩いて励ますと、振り返る事なく去っていく。

 俺は母に会える事を心待ちにし、アンディーのいなくなった寂しさと不安を神への祈りに変える。神様が本当に実在する事を信じられそうです。主に救われたこの命を社会や人々に役立つ事に使います。天国に入れるように頑張ります。ありがとうございます。アーメン!

 本当のところ、こんな姿では母に合わせる顔がない。何時まで親に心配を掛け続けるんだろう。まともに産んでもらった子供が親に味合わせる不幸にも限度がある。これじゃあ、母が我が身に起こった事のように惨めじゃないか。あんなに愛されて育ててもらったのに。無念の涙が溢れて止まらない。この泣きっ面を母には見られたくない。何と言って母の悲しみを和らげようか。抱き締める事も自分の声で優しく慰める事も出来ない。両親とも夫とも死別している母がずっと孤独の裡に生きていた事を知っていながら、俺はずっと優しい言葉一つかけてあげなかった。とにかく自立して生活する事だけを想い、ハイ・スクール卒業後はクリスマスにも会いに帰ってない。

「彼ならそこであなたを待ってらっしゃいますよ」

 廊下の遠くの方から看護婦が誰かに言う。お母さん!母が遠くの方から目を細めて俺の姿を見ている。

「ギルバート?」

 母は俺の名を確認すると、中途から切断された両腕を振る俺の方に走り寄ってくる。どうやって詫びよう・・・・。

「ギルバート・・・・」

 母が涙を流しながら強く俺を抱き締める。やっと母に逢えた!母に会える事以上の喜びはないです!神様、母を守ってください!もう悪い事はしません。私の命は主に捧げます。どうか母を守ってください。今の私には母の温もりを自分の満足のためだけに独り占めして良いのかさえも判りません。神様、私は幸せです。母の愛情を感じます。母は私を必要としてくれているんですね。今、母は何を思っているのですか?母と話せるようになりたいです。アーメン!

 母は頬を寄せ、静かに探るように、「ギルバート、何故、何も話してくれないの?うん?」と尋ねる。母は俺の首元を見て、傷口を優しく手で触れる。愛してるよ、お母さん!母は無言の裡に自分の震える唇を強く結ぶ。母は自分の目から溢れ出る涙を悔しそうに、自分を責めるかのように、固く眼を閉じて止めようとしている。

「お前がどんな姿になろうとも、お前が元気でいてくれさえすれば、私は幸せよ」と母が俺の髪のない頭を撫ぜながら言う。

 お母さんが来てくれる事だけを待ち続けていたんだよ!母は俺の額に口づけすると、「ギルバート?あなた、お腹空いてない?」と訊く。母は俺の両耳の緊張を和らげるべく手で揉む。俺は首を左右に振る。お母さん!俺は家に帰りたいだけなんだよ!

「今日はお家に帰りましょうね。先生にもあなたの事を訊いてみるからね」

 母は俺の背を優しく擦ると、不意に立ち上がり、執務室の方まで歩いていく。その母が不意に途中で振り返り、右手で俺の顔を指差しながら、「直ぐ戻るからそこにいてよね!良いわね、今度はもういなくならないで頂戴ね!そこにいるのよ!かくれんぼはもう終わりよ!」と言う。俺は母の言葉に思わず声もなく笑う。母は執務室の窓口で何か案内を受けると、細身の若い看護婦を指差して、執務室の人に何事かを確認する。今度は先程指差した看護婦を呼び止め、何か話し始める。俺はその様子をただ遠くから眺めている。母は医務室らしき部屋にその看護婦と入る。母は背の高い大柄の黒人の医師と共に再び俺の近くに戻ってくる。俺は中途から切断されて短くなった両腕を左右で上下に振り、「俺ならちゃんとここで待ってたけど、ご褒美なら要らないよ」と心の中で冗談を言いながら、喜びを手振り身振りで精一杯表わす。

「今度はちゃんといてくれたわね」と母は言って、俺の両膝を擦る。

「どうかな?元気みたいだね」と太った黒人の医師が笑顔で俺に挨拶する。

『アイム・ファイン・センクス』と俺は希望に胸ときめかせて心の中で答える。

「君の名前を教えてくれるかな?」と医師が問う。

「ギルバート・ライトと言います。私の息子です。確かです。親の私が息子を間違える筈はありません」と母が代わりに答える。

 俺は母を微笑みを以て見つめる。

「何時何処で怪我をしたのかな?うん。話したくないのなら仕方ない。ギルバート、今日はお母さんが言う通り、一度家に帰ると良い」と医師は落ち込んだ俺を哀れみ、生徒の心を心配する教師のように優しく言う。

「一寸、体を診せてごらん」

 医師は俺の喉元に顔を近づけて診察する。続けて医師は俺の両手両足にも触れて診察する。

「君の身に一体何が起こったんだい?」と悲しそうな目で医師が俺に訊く。俺は医師の眼をただ見つめ、どうしたら良いのか判らずにいる。

「警察を呼んでくれ!」と医師が看護婦に大声で指示を出す。

「ドクター!警察には明日の朝私が連れていきます。今日は彼をこのまま家に帰れるようにしてください。お願いします」と母が俺の気持ちをそのままドクターに伝える。

 イエス様、今日はこのまま家に帰り、母と同じ屋根の下で眠って心を落ち着けたいです。アーメン。

「オー・ケイ。それでは明日の午後までに必ず警察署に行ってください。良いですね?必ず行ってくださいよ」と微笑んで医師が母に言う。

「判りました。ありがとうございます、ドクター」と母。


 二人の看護婦の手を借り、俺は母の車に運び込まれる。看護婦は更に折り畳み式の車椅子を一台、後部座席に運び入れる。母は丁寧に看護婦らに礼を言い、運転席のドアーを開けて車に乗ると、ドアーを閉める。母は窓を開けて看護婦らに、「ありがとうございました」と礼を言って手を振ると、キーを回してエンジンをかけ、銀色の真新しいフォードを動かす。

「彼の名前、そう!オー・ノー!何だったっけなあ?思い出さないといけないわね。あなたも思い出して!」と母が運転しながら言う。「そう!アンディーよ!」と母は叫び、病院の車庫の出口で急停止する。シート・ベルトこそしていたから怪我はなかったものの、俺は母の急停止で頭がつんのめり、何がどうしたって!ああ!アンディーの事か!と心の中で言いながら、遅れて理解する。

「アンディーは近い中に私達の晩餐会に招待しましょうね!あなたの大の恩人ですものね!」

 母は少しはしゃいで言い終えると、何度も一人で頷いてから、「キャ!」と満足そうに喜びの奇声を上げ、レイディオを点ける。ニール・セダカの『スーパーバード』が流れ始める。俺は音楽を聴きながら、夜の街並を見ている。俺は人影が現われては後方へと流れる様を車内から黙って眺めている。母は俺を気遣い、「あなたは着くまで寝てなさい」と言う。俺は見る物全てが美しく光り輝く夜の街をもっと見ていたかった。母といる安心感に浸って、もう一眠りするのも悪くない。瞼を閉じると涙が溢れる。母は運転しながら、右手を俺の方に伸ばし、黙って手で俺の涙を拭う。ありがとう。あなたの前では決して泣くまいと決めていたのに・・・・。


 何とかこれで無事実家に辿り着いた。母はガレイジに車を止めると、車を降りて、後部座席から病院で借りてきた折り畳み式の車椅子を苦心して取り出す。母は車椅子を押しながら、助手席側まで一回り歩き、助手席のドアーを開ける。母は車椅子を指差し、「ヘイ!この車椅子に飛び込んでごらんなさい!」とふざける。俺は母のウィットが楽しくて、自然と笑顔を見せる。母は俺を抱えて車椅子に乗せると、玄関まで俺の座った車椅子を後ろから押す。俺は懐かしい昔ながらの実家を見つめ、美しいと意中で静かなる感動を言葉にする。

「はい!ここはあなたのお家よ!」と母は言って、背筋の真っ直ぐ伸びた薄手の白いコートの右ポケットから家の鍵を取り出す。母は茶の厚手のロング・スカートから見える赤いスニーカーズを履いた脚を大きく開き、手早く玄関の鍵を開ける。俺は母に車椅子を押され、電気の消えた玄関に入る。母は玄関の電気を点ける。室内は玄関にも懐かしい母の香りが満ちている。俺はずっと人が住んでいた平和な家の温もりに安心する。暖房も効いている。俺は後ろから母に車椅子を押され、家の中に入っていく。母が廊下の電気を点けると白い壁の廊下が照らし出される。廊下の壁の両側には日曜画家だった亡き父の絵が飾られている。父は雲の絵を好んで描いた画家だった。父の本職は舞台美術だった。母は俺を産んだ後、大好きだった映画の評論家になり、その後小説も書くようになった。母は若い頃から一言か二言台詞のあるエキストラとして時々映画に出演する。俺が産まれる前の母は映画館でチケットを切るパート・タイムの仕事を本職としていた。

 俺は車椅子に座ったまま母に押され、リヴィング・ルームに向かう。母はリヴィング・ルームの電気を点ける。リヴィング・ルームに入るとTVを点け、MTVにチャンネルを合わせる。母は俺を車椅子から黄緑色の布張りのソファーに移し、俺の右隣に座る。明日は警察に行かないといけないんだね。

「ギルバート!アイス・クリーム食べない?」と母は俺に尋ねると、俺が答えるよりも先に立ち上がり、キッチンへと向かう。アイス・クリームか・・・・。イエス様、やっと我が家に帰ってこれたんですね。ありがとうございます。アーメン。俺は再び我家の温もりの中に帰った事を深く神様に感謝する。俺はボビー達のような同じ犠牲者がまだ監禁されたままでいる事を思い出す。

 母がリヴィング・ルームにアイス・クリームを持って戻ってくる。母はアイス・クリームをソファーの前の硝子のテーブルの上に置くと、白いコートを脱ぐ。母は白いコートの下に赤い毛のタートル・ネックのセーターを着ている。

「はい!ギルバート、お口を開けるのよ!」と母が明るくはしゃいだような声で言う。俺は母の眼を見て口を開ける。母はアイス・クリームを俺の口許に近づけて食べさせる。チョコレイトとナッツのかかった棒つきのラクトアイスだ。凍る程の冷たさがこんなにも幸せな気持ちにさせるなんて!思い起こせば、子供の頃から泣きべそを掻いた後には、母が決まってアイス・クリームを勧めた。母が勧めるアイス・クリームが必ず気持ちの良い慰めになった。とても懐かしい思い出だ。些細な事が心の中で力なく思い出される。どうやら俺は古い昔の恨みを当時と同じ感情のまま心の中に残しているようだ。何て事のない些細な事だけれど、俺は両親に対して恨みを抱いていた。子供の時に親との意見の不一致が原因で口論にまでなり、親に向かって悪態を吐いて酷く叱られたのだ。その時に俺が怒りを顕わにした言葉は、『親だからって、人に命令するな!』であった。俺はそう親に怒鳴りつけて悔し泣きしたのだ。子供らしい日常的な不満である。

 母はアイス・クリームを食べさせながら、俺の頭や背中を撫ぜる。俺はとても安心し、幸せな気持ちで心が一杯になると、また涙を流す。

「泣かないで、坊や!『コーク』を飲むと良いわ。一寸、待っててね」と母。

 母はまた立ち上がり、キッチンに向かう。母は急いでグラスに『コーク』を入れて持ってくると、俺が飲むのを手伝う。

「子供の頃にあなたが遊んでた部屋にはね、まだベッドも何もかもそのまんまあるのよ」と母が微笑んで言う。あの懐かしい部屋がまだあるのか!

「自分の部屋の様子、あなた、まだ憶えてる?」と母。

 俺は微笑んで頷き、切断されて短くなった両手を動かし、喜びを表現する。

「一緒に行きましょ!」

 母は言って、俺を車椅子に乗せると、俺の車椅子を後ろから押す。母は俺を少年期の部屋に連れていく。俺は後ろから母に車椅子を押され、部屋に入る。部屋の中は当時の俺が遊んでいる姿まで思い出される程に、美しかった当時そのままの時間を留めている。母は黙って部屋を見回す俺を気遣い、俺一人部屋に残して、その場を去る。毎日、陽が射し込むようにカーテンを開け、窓を開けては空気の入れ替えをしているのだろう。部屋の中には黴臭さなど全くない。とても気持ちの良い空気で満ちている。俺は目を瞑り、神様に祈りを捧げる。主よ!明日、私は警察で全てを告白します。自分と同じ多くの犠牲者達を私と同じように愛する家族の許に帰れるようにしてください。アーメン!

「お風呂に入るわね?」と母が俺の背後に来て、顔を近づけて俺に訊く。俺は頷いて笑ってみせる。母が車椅子を押して、バスルームに連れていく。俺は母に服を脱がせてもらい、風呂に入れてもらう。頭や体もよく洗ってもらう。あそこに毛の生えたような大人がおちんちんなんかを母親に洗ってもらっても良いのだろうか。母は実に母親らしい手つきで、丁寧に俺のおちんちんやお尻を洗ってくれる。母は俺を脱衣室に座らせ、濡れた体を拭いてくれる。母は俺にパジャマを着せると、俺を再び車椅子に乗せ、背後から俺を乗せた車椅子を押して、俺を部屋まで運ぶ。

「一人で眠れるわよね?」と母。

 俺は微笑んで頷く。母は俺をベッドの上に寝かせ、毛布をかけると、俺の額にキッスをし、「おやすみ!」と言う。俺は微笑んで瞼を閉じ、また目を開いて母にウィンクすると、再び瞼を閉じる。

『グッナイト!』

 母は部屋の電気を消して俺の部屋を出ていく。部屋には暖房が点いている。電気を消した部屋に射し込む柔らかな月明りに照らされ、俺は美しい思い出の部屋の匂いを顔一面で心ゆくまで楽しむ。俺は幸せと疲れの裡に眠くなってくる。この世界は本当にイエス様の愛で満ちていますね。不幸に遭っている時にも見えない神様が愛で包み、寄り添うような安らぎを背中の真ん中辺りに感じます。イエス様の御本体がいつも近くにいらっしゃいませんか?私は自分に出来る神の僕としての役割りを必ず果たします。アーメン。


 翌朝、俺は母が部屋の様子を見に入ってくる気配で目を覚ます。

「おはよう!」と母は俺に顔を近づけて言う。

『グッ・モーニング・マム!』

「もう起きるわよね?もう朝の八時よ!」と母が笑顔で言う。「温かいタオルでお顔を拭きましょうね」

 母は湯で濡らしてよく絞った温かいタオルで俺の寝起きの顔を優しく拭いてくれる。

「じゃあ、起こすわよ!一!二!三!」と母は言って、俺の半身を起こす。「よいしょ!」

 母は俺を車椅子に移す。

「歯磨きは食後にしましょうね」と母。

 歯磨きか。あの家ではずっとエイセックスに歯を磨いてもらっていた。飲み水で嗽をしては、その水を吐くのを惜しんで飲み込んでいた。

 俺は母に後ろから車椅子を押され、リヴィング・ルームに連れて行ってもらう。リヴィング・ルームに入ると、俺は母にダイニングテーブルの椅子に抱き移される。母は冷蔵庫から作り置きのアップル・パイとチーズを持ってきて、昔からの自分の席に着いた俺の前に置くと、俺のためにアップル・パイを皿に分けてくれる。母は俺の右隣の席に腰を下ろし、俺が朝食を食べるのを手伝ってくれる。俺は大口を開けて舌を出し、顔を左右に振ってみせる。俺は微笑んで母の眼を見つめ、母がその行為を理解するかどうかじっと黙って様子を窺う。

「美味しいのね?それ、一緒にTVで観た知的障害児のトムの美味しいの表現よね?小さい頃あなた、よくそうやって真似して笑わせたわね」と母が微笑んで言う。突然、母が泣き出す。「ごめんね!気にしないで・・・・。あなたは何も悪くないのよ」と母が悲しみを押し殺し、俺のために無理に笑顔を作って言う。

 俺は首を傾げ、母の事をとても気の毒に思う。

「あの頃、皆でレストランに外食しに行く時、あたしがお化粧しておめかししてると、あなたがお父さんの真似をして、お前は良い女だぞって言うから、お父さんがその度に・・・・、それはお父さんの台詞だ。そう言う台詞を言いたけりゃ・・・・、早く、ガール・フレンドでも探すんだな!って・・・・、まだ、ほんの小さな子供だったあなたに、お父さんったら、少し本気で言ってたのよ。だって、子供の面倒ばかりで、お父さんの事は度々ほったらかしにしてたからね」と母は涙と鼻でびしょ濡れの顔で笑いながら話す。

 昔懐かしい母の手作りのアップル・パイ、俺の本当の好物だ。チーズもとても美味しい。冷たいミルクも沢山飲む。

「あなたの身に何が起こったの?あなたはまだ独身なの?」と母。「O・K。でも、あなたの身に起きた真実を全て警察に伝えると約束してね」と母は落ち着きを保ちながら言う。

 誰にも邪魔されず、ずっと母との二人暮しを楽しむ事は出来ないものか。今のこの幸せを出来るだけ長く味わいたい。あの家の者らが追ってくる心配はいらない。母のいる実家で母と朝食を摂っているこの平和、この安心感を、俺はまだ目覚める事の出来ない悪夢の続きなのではないかと疑いながら、不安の裡に幸せの味だけを噛み締めている。この幸せは本当に自分の現実として獲得されたものなのか。それを今、この瞬間でさえ手探りで確かめている。お母さん!って、声を出して母を呼びたい。お母さんがそれに答えてくれる声で俺は自己存在を強く確認したい。お母さん、俺は家に帰ってこれたんだね。俺、ずっとお母さんに会いたかったんだよ。母は洗面器を持ってきて、俺の歯磨きを手伝う。

「ギルバート、早く着替えて警察に行かなくちゃね」と母。

 母は俺の着替えを手伝う。

「これ、お父さんが若い頃着てた服なの。これを着て警察に行ったら、自分に起きた事の全てを落ち着いて伝えられるわよ」と母。

 母は父が若い頃着ていた茶のスーツを俺に着せる。母は俺を乗せた車椅子を押し、玄関のドアーの外に止めると、家の鍵を閉める。鍵を閉めると、昨日俺を病院の帰りに乗せてきた銀色のフォードの助手席に再び俺を乗せる。そうだよ、お母さん!昨日俺を家まで乗せた車に再び俺を乗せ、警察に行くんだ。そうだよ、レイディオも昨日とは違う音楽を流してるだろ?一寸世代感の違うロックばっかり流れる放送局もお母さんの車らしくて良いよ。この曲、八〇年代のグレイトフル・デッドの曲だろ?この次は何だ?ザ・ローリング・ストーンズのミックのソロか。母が車を運転しながら、「どっかでコーヒーでも飲んでいく?」と俺に訊く。

 俺は首を左右に振る。母が気を利かしてレイディオを別の放送局に変える。お母さん、俺、九〇年代組のパンク・ロックなんてちっとも馴染みないよ。ああ、やっぱり、お母さんもこの手は聞いてられないか。母がチャンネルを替え、ニュースが流れる。最初のチャンネルにしたら?

「ギルバート、緊張してる?」と母。

俺は微笑んで首を左右に振る。

「警察はもうそこよ」と母。

 俺は真っ直ぐ警察署を見ている。

「そうね、あなたにだって判るわよね。何か考えてるの?ああ、ごめんなさい。心配無用ね。そのスーツ似合ってるわよ」と母。

 母は警察署の駐車場に車を止める。母は後部座席から車椅子を出し、助手席側のドアーを外から開けると、俺をその車椅子に乗せる。警察署から若い細身の警察官と小太りな警察官が出てきて、母と俺を署内に案内する。

 俺にはエイセックスらに対する恨みの念はない。全ては自分の犯した悪業の報いだ。俺はただ全てを有りの儘に告白する。第一の目的は他の犠牲者を全員解放する事だ。

「息子の件で参りました。息子がこんな身になった事を証言しに来たんです」

「判りました。それでは中でお話を伺わせて戴きます」と若い細身の警察官が母に言い、「酷い目に遭ったみたいだな」と車椅子に座った俺を見下ろして言う。俺は頸を右に傾け、複雑な気持ちを含みある笑顔で伝える。

 若い細身の警察官と小太りな警察官が我々を取調室に案内する。

「どうぞ、そちらにおかけください」と若い細身の警察官が母に席を勧める。

 俺は警察が質問する事に首を振ったり頷いたり、手振り身振りを交えて伝えたり、口に銜えたペンで文字を書いて証言する。


 調査が終わると、警察側は俺の命の安全を保障する。警察側は病院で俺を検査するため、早急に俺の同意を求める。勿論俺は同意する。

 俺は家賃を滞納して失踪したため、アパートメントのオーナーから失踪後直ぐに警察に届出が出されていたらしい。俺はその事を調査中初めて警察側から知らされた。俺が誘拐監禁されている間、俺を行方不明者とした失踪事件の報道が新聞に載り、TVニュースでも長く騒がれていたらしい。

 俺は病院で簡単な検査を数時間受けると、誘拐監禁されていた家まで警察を案内する事になった。アンディーも警察に呼ばれ、俺をトラックに乗せた場所に警察を案内する。ラッセル家とグラント家とジャクソン家は同じ界隈のお屋敷だった。周辺一帯を道路封鎖し、家宅捜査が行われる。この捜査において逃亡しようとした容疑者は一人もいなかったようだ。

 しばらく、俺は入院し、一通り検査を受ける事になった。

 夕方から明朝にかけて、エイセックス達と他の犠牲者達を同じように犬人間として監禁していた上流社会の者達が大勢容疑者として逮捕される。俺は警察に連行されていく上流社会の者らを病室のTVニュースで観ている。他の家にも犠牲者がいる可能性はある。俺が証言した三件からは二十人が逮捕された。エイセックスとエイセックスの父親以外の容疑者らは報道陣に対して記念撮影でもするかのように、皆、笑顔を振りまいている。彼らが最期の快楽として死刑を望んでいるのは容易に推測出来る。

 ボビーらの証言でもう二件犠牲者を監禁している家が判った。僅か三日間の中に上流社会の者らと彼らの世話人らと共通の一人の医師ら、計三十七人もの容疑者が逮捕された。

 俺は連日のように報道陣から記者会見を求められている。会見に出るには母の同意がいる。母は御近所の方々への迷惑についても考えている。俺は何とか母を説得し、自分の事を心配してくれていた合衆国の人達のために記者会見を開く事にした。

 TVの記者会見は俺の知らぬ間に世の中を騒がせていた俺の失踪事件の続きである。辛い記者会見だ。知らせずに済まそうと思っていた事も、警察は衝撃的な事件の結末として敢えて隠そうとはしない。俺が生きていた事の報告と、俺が監禁されている間どんな生活をしていたのかを世の中に或程度知らせる必要があるのだ。それを結局、主な目的として、報道陣が一層質問し続ける。誘拐監禁中の俺の生活が全て明るみに出る。俺は記者会見で自分の口から話らしい話が出来る訳ではない。警察側が報告している間、俺はその隣でただ静かに車椅子に座って聞いているしかない。その間、大勢の報道カメラマンがテレカメラで俺の様子を撮影している。

 声帯の方は簡単な悪戯に過ぎず、手術によって再び声が出るようになった。どういう事なのかとしつこくドクターを問い詰めると、女性の生理用ナプキンを利用し、発声が出来ないようにされていたらしい。俺にはそれが余りにも屈辱的に感じられた。それ以上その仕掛けについて医師に説明を求めようとは思わない。俺はその屈辱感を黒人のボビーにも当て嵌める。その一瞬の差別心を自覚しただけでも相当な自己嫌悪に陥る。俺はその問題を更に白人の問題として考える。俺は自分が白人に生まれた事を前世の善行の報いと解する程、白人である事に誇りを持っている。白人に生まれたから偉いのだと思うのだ。異人種に生まれていたなら、本当に自信のない人間になっていたのかもしれない。いいや、固有の人種に生まれた肉体的なアイデンティティはどの民族にもある。黒人にだってナルシシストはいるのだ。自分が白人に生まれない人生など恐ろしくて考える事も出来ない。俺は白人である事や肌が白いという事だけで成り立った人間なのか。自分の存在を黒人と同一視しようものなら、顔に染みが出来そうなくらい恐ろしい不安に襲われる。その不安を解消するには多くの白人的な要素を自分の中に見出し、自分の心を白人としての思いで満たさねばならない。


 休む間もなく裁判が始まる。

 俺は母と住む幸せな家から裁判所へと出向く。裁判が始まり、俺は裁判長に発言許可を求める。裁判長は許可する。

「自己犠牲とは利己主義的な心の中からは決して為され得ない行為です。人間が人間を裁く事を批判する者は、この世界、この宇宙を、神と宇宙、神と世界、そして、神と人間と区別する事で神を目に見える世界の外で照覧する者のように思っているのだろうと思うのです。ここに居合わせた全ての人間はそれぞれが意志した通りに巡り合わせた者同士ではありません。我々はそれぞれを等しく見る事なく、善と悪の相に見分け、誰が誰と、誰と自分がどう関係するかという事だけに注意して、この状況を把握しようとしている事でしょう。私はそれぞれがそれぞれの義務を果たし、権利を主張し合う言葉の中に神の審理が表われるものと信じます。言葉の中だけではありません。我々は様々な原因が複雑に入り乱れてこの場に居合わせているのです。

 私は自分で行った過去の行為を原因とし、善には善の、悪には悪の業の報いが返ってくるものだと信じます。カルマの法則、この法則こそがこの宇宙の実相なのだと信じます。

 完全なる善人と完全なる悪人とがあるのではないと私の師は言いました。全ての者に神の愛は注がれています。私はこの場における公平な愛を神様に誓います。私は事実を有りの儘に語ります。我々は我々の全てが罪人である事を決して忘れるべきではありません。神と自分とを区別し、自他の区別をする私達は利己的な欲望の中に生きています。自己犠牲や奉仕による利他的な生き方を貫き、神への献身によって人間の神性を追求し、神と一つになるためのあらゆる努力をして天国に入る事こそが我々が生まれてきた目的です。

 天国とは愛の権化が行き着くところなのか、死の信者が行き着くところなのか。その答えは神の実在を信じる者の中でも、神の実在を信じない者の中でも、同じ答えが共通してあるものです。愛は人を活かします。イエス・キリストは愛と慈悲、自己犠牲と無抵抗主義を御示しになり、人々を幸福へと導くための多くの奇跡をもたらし、その清らかな御心をこの世に修めて去りました。

 私は生まれ変わりというものをほんの少しばかり信じる稀なアメリカンです。人間が生まれ変わる目的とは何であるのか。生ある全ての者が再びこの世に生まれ変わるのか。生まれ変わりには終わりがないのか。生まれ変わりには解脱と言う終わりがあるとインディアでは言われています。生まれ変わりに終わりがあるなら、最終的なこの世の完成の際には地獄なるものは取り残されるのか。悪魔や悪霊は悪魔のまま、悪霊のまま取り残されるのか。その魂は滅びないのか。この世はこの世として、あの世はあの世として区別されたまま、二つの世界が永遠に残るのか。地獄に堕ちた者は二度とこの世に生まれ変われないのか。人間界には地獄があります。生き地獄の苦しみに遭っている人達が大勢放置されています。この世の地獄を恐れない人間とは一体如何なる苦痛を恐れているのか。我々が本当に恐れねばならないのは自分が犯す罪です。この世は天国から生まれきた者より地獄から生まれ変わったような者達の方が多いように思います。聖者とはイエス・キリストだけではありません。イエス・キリストだけであって良い訳でもありません。もしも、聖者がイエス・キリスト一者であるならば、肉体を纏ったイエス・キリストが呼吸し、愛を放ち、直接教えを説いていた時代と、その恩寵を受けられない我々の時代との違いをどう我々信仰者に納得がいくように説明するのか。世界中のあらゆる民族にあらゆる神が存在します。神の御名もまた一つではないのです。

 カルマの法則の結果、私はこのような体になりました。これ以上の不幸はないだろうと信じたい思いもあります。しかし、私にはまだ罪があります。私には英知は獲得されていませんし、奇跡を起こす力もありません。そして、私は自分がまだ神としてではない、人間以外の何者でもない事を知っています。私は人間の神性の実感すら経験していないのです。

 この裁判は私のための裁判ではありません。私を苦しめた者に対する法の裁きは私には関係のない事です。私は彼らとの生活の中で可能な限りの罪を償いました。罪を償ってきた生活の苦しみは私にとっては過去の出来事なのです。私は偽りを証言する事によって罪を重ねる事はしません。この裁判が終わらぬ内はこの中の一人一人の方々から嫌な過去を掘り返され、その度に罪の償いをする機会を与えられるのでしょう」

 裁判長が力ある迷いなき目で俺の目を見つめながら、俺の話した事に言葉を返そうとする。

「あなたのこの裁判に対する心構えは私達にもよく判りました。しかし、一つ確認しておきたい事があります。あなたは被告人を審判するに当たり、弁護人や陪審員を含む我々裁判員に対して既に不当な発言をしています。あなたは四肢を切断される残虐行為を受け、手足を失ったのです。そして、長きに亘って監禁され、干渉され、心身の自由を奪われ、人権蹂躙され続けたのです。あなたの人生をめちゃくちゃにされたんですよ。いいですか、あなたは彼らとの関係にそうされる理由が個人的にあるのですか?そういう事が今後もこの世界に誰かの苦しみを犠牲にまかり通るような事をあなたは許してしまうのですか?失われたのが御自分の四肢や心身の自由だからと、あなたはこの裁判において信仰上の理由から被害者として積極的に被害を訴える事や、彼らの罪を仔細に亘って訴えたい気持ちを御自分の中で禁じてしまっていませんか?例えばもし、あなたの御家族の誰かの命が何者かによって奪われ、一生懸命稼いだ財産を全て盗まれたとします。あなたは独身者であられますが、その上御家族が一家離散の目に遭うようになっても、あなたは今と同じように、御自分の過去の悪業の報いとしてだけで済ませられるのですか?あなたの思想に御家族も従わなければいけないのですか?失ったものが返ってこなくても良いのですか?あなたはただ、あなたの四肢への執着を早く解決したいだけなのだろうと思うのです。あなたには御家族がいますね。親戚や友人や恩師も恩人もいますね。人権というのはですね、皆が互いに認め合い、守り合うべき、大切なものなのです。罪人が罪を重ねるのを見て見ぬふりをしてやるのが正しい人間である訳ではないのです。それでは人間として十分な責任を果しているとは言えないのです。人間らしく、人間としての秩序や倫理道徳を保ち続けられるよう、あなたは積極的にこの裁判に加わり、尽力すべきです。事実を有りの儘に語るとあなたは仰いました。それで良いのです。良いですか?」

「はい」と俺。

「あなたの思想の大半にはとても胸を打たれたんです。あなたがイエス・キリストに帰依している事もよく理解したつもりです。あなたは御自分が人間である事を知っていると仰いました。だからこそ同じ人間としてこの国の平和のためにあなたの本当のお気持ちを確認させて戴いたのです。

 この国は他の国と同様、まだまだ沢山の解決せねばならない問題を抱えています。私も出来るなら、あなたと同じ気持ちで、自分の責務を、人類の一員として、一人のアメリカンとして、神の僕として遂行していきたいと思っています。裁判長とは言え、神の裁きを全く受けない者である訳ではありません。自由気ままに罪人を裁ける権力がある訳でもありません。一つ間違えば、私も罪を犯した事になるのです。天国を想う気持ちもあなたと同じです」と裁判長。

「根掘り葉掘り問い質される事に少しうんざりしていたんです。悪を為さず、神様だけを想って生きるには、私の中にはまだまだ消し去るべき多くの悪の心が残っている事に気づかせて戴きました。どうもすみませんでした」

 裁判長は言った。

「随分とお疲れのようですが、大丈夫ですか?裁判を延期しましょうか?」

 俺は堪らず泣き出す。俺にはこの裁判は辛過ぎる。俺は再び胸の中を語り始める。

「もしも、私の家族の誰かの命が何者かによって奪われ、一生懸命稼いだ財産を全て盗まれ、一家離散の目に遭おうとも、今と同じように私は自分の過去の悪業の報いとして、ただ罰を受けます。そして、私は私の思想に家族をも従わせる事でしょう」

 裁判長が叫ぶ。

「それは利己主義だ!あなたは」

 俺は裁判長の言葉を遮って発言する。「裁判長!私をお許しください!私は誰かに自分を利己主義者だと言われたかったのです!どうか私の言った事をお許しください!」

 裁判長は言う。

「あなたは先、事実をありのままに」

 俺は再び裁判長の言葉を遮って発言する。

「私は彼らが一方的に裁かれるのが我慢ならないのです!」

 裁判長は言う。

「あなたは慢心している!我々は被告人を一方的に裁こうなどとは思ってもいません」

 俺は言う。

「そう、私は慢心を改めなければいけないのです。私はその事を言って戴きたかったのです」

 法廷にいる神父が立ち上がり、「裁判長!彼は懺悔を求めているのです。彼は今日、ここでこれ以上裁判を続ける事は出来ません」と裁判長に言う。

 裁判長は言う。

「判りました。我々はミスター・ライトへの配慮が足りなかったようです」

 俺は神父に連れられて教会に行き、懺悔をする機会を与えられる。


 母が裁判と教会の帰りにスティーヴ・マーティン主演『天国から落ちた男』のヴィデオを借りる。帰宅した我々は居間のソファーに並んで座り、借りてきたヴィデオで映画を観る。俺は映画の黒人差別をユーモアに変えた場面でボビーへの差別を胸に突きつけられ、涙が溢れる。自分の黒人差別が堪らなく悲しい。母は俺の涙顔を哀れみ、髪のない俺の頭を優しく撫でると、「映画なんて観る気分じゃないわよね」と言って、突然泣き始める。「あなたが今望む事って何なのかしら・・・・」と母が涙声で呟く。

 白人の白い肌を得た事が一体何だと言うのか。何故、これ程までに白人に生まれ変わった事に優越心を抱き、有頂天になるのか。黒人に生まれ変われば、黒人である事に十分な誇りを持てるのか。妬ましくみすぼらしい目で白人の肌を遠目に眺めるのか。白人に生まれる自分も黒人に生まれる自分も本当に同じ魂なのか。善行を多く為した前世を生きると来世は白人に生まれ変わると信じていた。その説を今でも否定出来ないでいる。俺にとって白人に生まれるとは何なのか。俺は白人に生まれた事を神の恩寵だと思っている。肌が白いとは色素が薄いって事だろう。肌の色素とは悪魔の成分なのか。そんな筈ないだろう!深い倫理道徳や霊的な知識は全てインディアンやジューウィシュやエイジアの聖者達から学んだ事じゃないか!冗談じゃないよ!主よ!この肌とブロンドの髪と青い眼は悪魔の証なんですか!自分の身体特徴をほんの少し否定的に捉えるだけで白血病や癌になりそうな不安で一杯になります!私の本当の心はそれよりもう少しマシなんです!もっと深く自分の心を見つめられるようになりたいです!私は心の事でこれ以上悪業の報いを受けるのが本当に怖いです!私は苦しみました。本当に苦しんだんです。有色人種への差別心がハートに染みついているんです。私は自分の病んだハートを治したいんです。心の病が治るまでどうか私に御慈悲を御与えください。アーメン。・・・・民族的な遺伝。心の遺伝。白人の心の病・・・・か。


 日を改めて再び裁判が続行する。俺は事前に教会で懺悔を済ませてから出廷する。

 検察側が被告人であるケヴィンに尋ねる。

「あなたは自分の犯した罪を反省していますか?」

 ケヴィンは言う。

「憎らしい罪人として私が痛みや苦しみに泣き叫び、時には放心したりする様を見て、この体に電流を流したり、鞭打ったり、場合によってはこの体を切り裂いたりなどして、あなた方にも我々の死刑をすばらしい最期の快楽である事を御理解して戴き、存分に工夫を凝らして楽しんで戴きたい。私はもう死の快楽以外何も望んでいないのだ。私にはあなた方が期待するような罪の意識など全くないのだよ」

 裁判官が言う。

「あなたは死刑を望んでいるようですが、ニュー・ヨーク州においては死刑制度は既に廃止されています。宜しいですかな?」

 ケヴィンは裁判官の眼を見てウィンクすると、舌嘗りしてみせる。ケヴィンは裁判官の迷いなき眼差しを見て、怯えた子供のような顔をして唾を飲む。裁判官はその様子をじっと冷静に見つめている。ケヴィンはおどけたような顔で周囲を見回すと、独り天井を見上げて大笑いし始める。裁判官はその様子をじっと冷静に見つめている。裁判を聴講していた若い女性の陪審員がケヴィンの背中に向かって、「HA!HA!HA!」と白けた笑い方をする。ケヴィンはゆっくりと背後の陪審席に振り返り、自分を嘲笑った陪審員のいる陪審席に向かって人差し指を前に突き出し、突き出した指先をゆっくりと動かしながら、一人一人の顔を見定め、自分を嘲笑った者を捜す。若い女性は声のした方角には黒人男性と白人男性達の間にいる女性一人しかいない。その女性は勇敢にも鋭い目つきで堂々とケヴィンを睨みつけている。ケヴィンは遠方からその女性の眉間を人差し、指の先で眉間を突くような仕種をしてにやりと笑う。ケヴィンはその女性に向かって険しい目つきで白い歯を剥き出し、恰も女性の胸の中の魂を鷲掴みするかのようなジェスチャーをし、自分の顔の前に上げた拳を歯を食い縛って力強く握り締める。その若い女性の陪審員は恐怖に慄き、おろおろと周囲を見回す。左隣の勇気ある若い細身の黒人男性がその女性の頭を自分の胸に抱き寄せる。その黒人男性は歯を食い縛り、ケヴィンの顔を黒い手で指差す。ケヴィンはその黒人男性ににやりと笑いかけると、くるりと再び裁判官の方に向き直る。

 検察側が言う。

「ミスター・ライトが脱出して実家に帰るまでには丸二日ありました。あなたはその間逃亡しようとは思わなかったのですか?」

 ケヴィンは答える。

「ドクターに整形手術をしてもらい、パスポートやIDカードを偽造する事なども提案してみたんだ。しかし、私の顔に挿げ替えて殺した犠牲者の遺体が発見され、本人かどうかを調べるためにDNA鑑定でもされたら、直ぐに別人だとバレてしまうと医師に言われたんだ。次々顔や名を変えて警察をあくせく働かせるのも良いが、よく考えての籠城となった」

 検察側が言う。

「犬として監禁しようとミスター・ライトを犠牲者に選んだ理由は何ですか?」

 ケヴィンは答える。

「実は私の母は数年前に自殺をしたんだ。母は我々快楽主義者を非常に軽蔑していた。私は母と自分が同類である事には何の疑いもなかった。私は母が不倫に走るようにと或愛人候補と金で契約した後、或写真家に母がホテルで密会してるところを写真に撮らせたんだ。その写真家は契約通り母がホテルで密会している証拠写真を撮って、我々に送ってきた。その後、私はその送られてきた証拠写真を母の枕元によく見えるように置いておいたんだ。母は寝室を共にする父に不倫を知られ、非常に自分の犯した罪を苦に思い、自殺してしまったんだ。母の真面目さは非常に曖昧な真面目さだった。

 それ以後、例の写真家が私達を恐喝するようになった。母の不倫と自殺は有名ホテルを経営するファミリーのスキャンダルでもある。彼はそれで我々から小銭を稼げるとでも思ったんだろうな。悪い欲を出した訳だ。しかしね、我々にはそんな乞食同然の男に恵んでやる金はペニー一枚たりともありはしない。で、我々はそいつと取引するふりをして、そいつが指定した場所に行くと、その場でそいつの体を言葉通り生きたまま八つ裂きにして火で焼き、その死体の灰を空からヘリコプターでニュー・ヨーク・シティーにばら撒いてやったんだ。ニュー・ヨーク・シティーの美しい摩天楼の中にはそんなクズのような者の亡霊が数え切れなく彷徨ってる事だろうよ。その写真家はマイケル・アンダーソンと言う二十八歳の男だった。そいつの処刑をもう少し楽しんでおけば良かったんだろうな。まあ、そんな風に思っていたところに偶然か必然か、まあ、そんな事はどうでも良い事だがね、或日妹のエイセックスと良い仲になった、これもまた二十八歳の別の写真家が現われたんだよ。別にギルバートを犬にするための理由らしき理由なんてものはその偶然の一致以外にはないんだよ。それを訊いてるんだろ?一寸話が一足跳びに飛んでしまったかな。決して話下手って訳でもないんだが、何か詰まらぬ前置きが長くなって、オチを先に言いたくなったんだよ。何しろ盛り上がりに欠ける詰まらん話だからね。

 まあ、どうでも良い事かもしれないが、少し細かい所有権を主張させてもらうとだな、ギルバートは今でも家の飼い犬なんだ。だからだね、変に同情して人間扱いするのは止めてくれないか。特別拘りのあるペットって訳でもないんだが、確かにそいつは家で飼ってた犬なんだ。返して欲しいなんて頼んじゃいないんだ。さっさと返して家に届けろ!そいつは私が妹に贈った大切なプレゼントなんだ!良いな!直ぐに送り届けろ!期日の遅れは一日たりとも赦さんぞ!」

 母が裁判の帰りに俺の好きな寿司バーに寄り、テイク・アウトする。

 家に帰ると母か俺に大好きな中トロを鱈腹食べさせてくれる。夕食後、母はクリス・レアの『ダンス・ウィズ・ストレンジャーズ』をオーディオから流す。聴いた事のないアルバムだ。余りに良いアルバムなので、俺は夢中になって聴く。

「良いアルバムだね」

「クリス・レアは『オン・ザ・ビーチ』以来ずっと聴いてるの」

「お母さんは白人が黒人音楽を真に理解出来ると思う?」

「出来るでしょうね。こうしてクリス・レアの音楽を好むのもその証拠じゃない」

「黒人で好きなアーティストっている?」

「有名なアーティストは人種を問わず何でも聴くわ」

「CDで買った黒人のアーティストはいる?」

「何よ、変に黒人に拘るわね」

「いやあ、大した意味はないんだ。一寸確認したかっただけだよ」


 後日、再びケヴィンの裁判が続行する。

 検察側が尋ねる。

「あなたの快楽は何かしら憎しみから生じているとは思いませんか?もし、そうであるなら、それ程の憎しみは何が原因になっていると思いますか?」

 ケヴィンは答える。

「愛憎の入り交じった快楽であって、憎しみだけから生じているとは思わない。愛するためには憎しみも経験しておく必要がある。上辺の憎しみなんかじゃどの道役には立たない。泣き足りない者もいれば、叫び足りない者もいる。笑い足りない者もいれば、怒り足りない者もいる。それを犠牲者の内から上手く汲み取ってやる注意や気配りには全力を尽くしたよ。恥の経験の足りない者や、嫌われる経験の足りない者、驕りの限りを経験していない者だっている。私は実は神と悪魔の区別がよく判らないんだ」

 検察側はケヴィンの言葉を遮って言う。

「もう良いです。以上」


 ケヴィンの余罪は世話人との共犯で二〇〇以上見つかった。エイセックスとエイセックスの父親はその証人に留まる程度で、直接的な犯行にはいつもぎりぎり手を出す事はなかったようだ。不思議な家族である。ケヴィンはエイセックスに対して性的な欲望を抱いていた。エイセックスはケヴィンに対して彼が満足するような肉体関係を或時期までずっと拒否してきた。ケヴィンの幾つかの犯罪は目隠しをしたエイセックスとの性向が叶えられなかっために繰り返された事もあるようだった。ケヴィンの父親は自殺した妻がケヴィンとエイセックスを教育するに当たり、仕事なんかをする者は腐った奴隷根性で生きる卑しい人間に他ならないと言って、頑として二人が仕事をする事を禁じていたと証言した。世話人達二人はケヴィンに服従するだけの埋め合わせをケヴィンから与えられていたと証言した。世話人達は何処の家の者も皆、麻薬中毒者であった。世話人達はケヴィンに服従してさえいれば、麻薬を手に入れる金に困る心配はなかったらしい。余罪の全てに亘って世話人らが共犯者となっていた。それらの事件の背後にはケヴィンら上流社会の者らの間に広まっていた或悪魔崇拝的な思想が関係していた。その思想家はもうこの世にはいない。


 母が昼食にブルーベリー・アンド・ホイップ・クリーム・パイを作る。家の習慣では二回アップル・パイを作り、三回目にブルーベリー・パイが出る。

「ギルバート、夕食はミート・パイなんだけど、パイ尽くしでも良いかしら?」

「お母さん、俺は大のパイ好きだよ」

「今夜はビーフ・ステーキもあるのよ」

「お母さんって、一時期菜食主義だったよね?」

「ああ、健康食に凝ってた頃ね。あなたもクマール先生の教えで菜食主義だった事があるわよね?」

「ああ、一時そういう時期があったね」

「何で止めたの?」

「肉を食べたいって欲求が強く出て、修行者の生活を丸ごと放り投げたんだよ。お母さんは?」

「お母さんも結局お肉が食べたくなったの(笑)」


 エイセックスは裁判で証言する。

「私は自宅から出かける時には必ず兄に行き先と誰と会うのかを執拗に問い詰められました。兄が犯罪を犯している事は知っていました。何度か警察に行って、全てを話そうかとも思いました。兄はその度に、警察に行って全てを話すなら、俺が持っている拳銃で自分を撃ち殺してからにしてくれと言いました。それも嫌なら私が警察に行っている間に自殺すると言って、私を家に留めました。嘘を言って外出する時や、本当の気晴らしで外出する時も、必ず世話人の中の片方が私を尾行していました。私はミスター・ライトにはなるべく苦しみを少なくしてあげようと努力していました。時々、いえ、そうですね、私はミスター・ライトに対して憂さ晴らしもしました。まんまと兄にあんな体にされて、無力になったミスター・ライトを逆恨みしていました。私は度々死んだ母のような気持ちで兄を心配しました。兄が望むように、私がこの手に銃を持ち、二度と犯罪を犯せないように兄を殺してあげるべきなのだろうかと思いました。でも、それは私にはどうしても出来ませんでした。私は密かにギルバート、いえ、ミスター・ライトの脱出に期待していました。ミスター・ライトを一階に住ませるようになってからの十ヶ月の間、私は毎夜兄の希望通りに目隠しをされて抱かれ、兄の性的欲望を満足させるために兄に体を許しました。兄の気を私に惹きつけ、ミスター・ライトが何時逃げても良いようにしていたのです。私と肉体関係を持つ事が兄の最大の望みであるのも知っていました。兄とセックスをするようになってから、私はピルを欠かさず飲み続け、避妊には極力注意していました。実は私はミスター・ライトと愛し合った一日だけの夜の後、妊娠したのです。私は兄のいる環境でミスター・ライトとの子を産み育てる事を大変恐れました。その子が生まれていたら、兄がその子に何をするか判ったものではないと心配したからです。ミスター・ライトには大変申し訳ない事をしたと思っているのですが、私は自分の独断でその子を堕ろしました。ギルバート!ごめんなさい!でも、私はあの時の自分の判断を正しかったと信じているの!」

 エイセックスは罪の赦しを乞うような悲しい眼で、涙を流しながら俺の顔を見つめる。俺はそんなエイセックスに笑顔を送り、何度も何度も頷いてみせる。エイセックス!俺は君がそんなに辛い思いをしていた事をまるで知らなかったんだ!

 俺はエイセックスが証言している裁判を遮り、エイセックスに向かって自分の想いを贈る。

「エイセックス!これで全てが終わったんだ!やっと終わったんだよ!そう!全ては終わったんだ!終わったんだよ・・・・(涙)。あれは皆が同時に見ていた長い長い悪夢だったんだ。俺は誰も憎んでない。あの中には誰一人悪者なんていなかったんだ。主は俺達皆を大きな愛で包んでくださるだろう。エイセックス!頼むからこれ以上苦しまないでくれ!俺は今でも君を愛してる!主の愛を信じよう!主に世界の平和を心の底から祈ろう!君は悪くない!君は決して悪くないよ!」


 エイセックス達といたあの家を脱出してから一年が経った。最新の医療機器の義手義足が俺の短く切断された肢体に宛がわれた。本物の手足のように使いこなせば、訓練次第では走る事すら可能であるらしい。勿論、訓練次第では車の運転も出来る。義手は最先端科学を駆使して作られ、失われた手の先や膝下の先に残る見えない神経を利用し、今ある腕や脚と機械を繋ぐ事で義手義足が生きた手足のように動く。それを活用すれば、以前のように再び写真も撮り続けられる。俺は科学の世界からそんな予期せぬ幸運を授かった。きっと俺が写真を撮り続けていく事をイエス様は許してくださっているのだ。俺はイエス様を瞑想しながら、どんな写真を撮れば良いのかとハートでイエス様に尋ねる。イエス様は何も答えてくれない。そうだ!神を写真に撮る事を一生追求しよう!


「今日は良いところに連れて行ってあげるわ。外に出かける準備をしてね!」と朝食後に母が俺に言う。俺は外出の準備をし、母の運転する車の助手席に座る。俺は助手席に黙って座ったまま、母が運転する車の進行方向だけを見ている。

「何処に行こうとしてるの?」と俺。

「着けば判るわ」と母。

 着いた場所は何とニュー・ジャージーの俺が住んでいたアパートメントの前だ。

「さあ、私の隠れ家よ」と母が嬉しそうに言う。

「あのブルーのフォードが俺の車だ!」と俺。

「部屋に入れば全て元のままよ。家賃を払い続けて、あなたが必ず帰ってくると信じた私の勘の良さをもっと評価してくれても良いのよ」と得意気に母。

「勿論、評価してるさ。お母さんが思うより以上の高い評価だよ」と俺。

「入りましょ!」と母。

「うん!」と俺。

 母と俺は階段を上がり、母が一番手前の右のドアーの鍵を開ける。ドアーの鍵は俺が住んでいた時とは違い、きちんと修理されている。部屋の中は綺麗に掃除され、以前のような埃だらけの部屋ではない。バスタブや便器も綺麗に磨かれ、以前よりもずっと清潔になっている。俺は懐かしい部屋の中を眺め回し、ベットルームの前で立ち止まる。

「お母さん?」と俺。

「何?」と母。

「ここから必要な物だけを持ち去って、後は部屋も車も処分しようと思ってるんだ。良いかなあ?折角お母さんが守ってくれていた部屋だけど、今の俺は余り必要としてないんだ」と俺。

「あなたがしたいようにしなさい。それじゃあ、必要な物を急いで持ち出すのよ」と母。

 母は俺に背を向け、小さく肩を震わせる。母が泣いている。

「ごめんね。お母さんの気持ちはちゃんと通じてるよ。でも、この部屋でお母さんを歓迎する訳にはいかないんだ。判ってね」と俺。

「判ってるわよ。泣いたりなんかして、お母さん、変ね」

 母は後ろ向きになって涙を拭いて言うと、振り返って微笑んでみせる。


 誘拐監禁事件の容疑者逮捕後、エイセックスがホテルの経営を受け継ぐと言う噂が新聞に掲載される。それから間もなくラッセル家の経営するホテルが経営難に襲われ、あっけなく倒産してしまう。逮捕された容疑者の内、エイセックスとエイセックスの父親がしばらく拘置された後、保釈金を払って釈放された事は知っていた。俺の証言に偽りがあった訳ではない。彼らが事件に全く関与していなかったと見做された訳ではない。二人は犯罪の流れを制し切れなかっただけなのだ。他の容疑者らはラッセル家による事件に関しては全て終身刑を宣告された。二〇〇にも及ぶ彼らの余罪の全裁判が終わる前に俺の寿命の終わりの方が先に訪れるかもしれない。彼らの裁判は気の遠くなるような長い時間を必要とする。


 俺は師であるインド人の老哲学者の住んでいた家を訪ねる。師がとっくの昔に他界しているのは知っている。師の家は既に取り壊され、そこには新しい家が建ち、新しい家主が住んでいる。今日は母から師の墓の場所を聞いて一人で墓参りに行く。師の家のあった近くに師の墓の墓地がある。墓石にはアールシュ・クマールと刻まれている。俺は師の事をスワミ・クマールと呼んでいた。俺はここに来る途中の花屋で買ってきた薔薇を師の墓に供える。母が我が師から、俺が三十になったら、或孤児院を訪ねるようにと言伝を受けていた。三十歳とは俺が最初にあの家から脱出しようとして止めた年令だ。

 孤児院は師の家からバスで十五分程の所にあった。着いたのは朝の九時頃だ。孤児院のドアーは開いている。入って直ぐの広間で幼い子供達が四、五人カーペットの上に腰を下ろし、飛行機や車の玩具で遊んでいる。この日は月曜日で、他の子らは学校に行っているのか、大きな子は一人もいない。壁に貼られた子供達の絵を眺めていると、二〇代後半ぐらいの日系人風の女性が、「何か御用ですか?」と話しかけてくる。

「スワミ・クマールが御亡くなりになる前に、三十になったら、ここに来るようにと母に言伝を残してらしたようで、それでお伺いしたんです。用という用の内容までは何も知らされていないんです」と俺。

「お名前は?」と女が訊く。一五五センチメートルぐらいの小柄な細身の女性で、黒く長い直毛の髪に、赤と緑の横縞のポロ・シャツとブルーのデニムのパンツを着て、白いスニーカーズを穿いている。

「ギルバート・ライトと申します」と俺。

「こちらにいらしてください」と女は歩きながらこちらを向いて言う。俺は女の後に着いていく。

 広間を出ると、廊下を隔てて食堂が向かいにある。女はその広間と食堂の間の廊下を左に曲がり、更に先へと進む。女は俺をお香の匂いのする突き当たりの扉の開いた礼拝堂の右手前の小部屋に案内する。女は俺が小部屋に入るまで戸を手で押さえる。女は俺が中に入ると、静かに戸を閉める。入って左側にファイルが沢山保管された棚が壁一面にある。それらのファイルはきちんとアルファベタイズされて並んでいる。女はGに当たるファイルを取り出し、そこから白い封筒を取り出して言う。

「ええと、ミスター・ライト、我々はスワミからあなたにこの手紙を渡すようにと預かっています」

「あのう、スワミとこの孤児院の関係は?」と俺。

「この孤児院はスワミが他界される前に自らお建てになりましたものを今の管理者がそのままの趣意で受け継いでいる施設でごさいます」と女。

「それは全く存じませんでした」と俺。

「あのう」と女が俺を見上げて何か言おうとしている。

「はい?」と俺。

「TVニュースに出てらした方ですよね?」と女。

「はい、そうです」と俺。

「良かったですね、助かって!うわあ!大きい方なんですね!」

 女の目から涙が溢れる。俺は義手でスラックスの右のポケットから青いハンカチーフを取り出し、女の涙を拭う。

「あなたは皆のギルバートよ!」と女が涙顔で言う。

「皆のギルバートだって!まあ、それは確かにそうなのかもしれないね。俺は本当に長い間、散々アメリカ中に心配をかけてたみたいだしね(笑)」と俺。

「笑い事じゃありませんよ!もう二度とあんな風にいなくならないでくださいよ!」と女。

「判ってますよ(笑)」と俺。

「いいえ、あなたはまだ判っていません!あなたはまだ私と結婚する心の準備が出来ていませんからね」と女。

「えっ、君と結婚だって!俺達はたった今逢ったばかりで」

「ほらっ!判ってない!あなたにはアメリカ中に結婚相手がいるんですよ。あなたはその内の一人を自分の意思で妻に選ぶ事は許されていません」と女が真顔で言う。

「何だって!参ったな!」と俺。

「その手紙には恐らく、ここで一生孤児達の面倒を看るようにと書かれてます」と女。

「この手紙に本当にそう書かれているなら、それは私の望むところです」と俺。

「私があなたの手足になります。そして、ここであなたは私達と一緒に働くんです。あなたが神様と一つになる事の他に、どうしても綺麗で賢い奥さんが欲しいと個人的にお望みならば、ここに最高にイカした独身女性がいる訳です。その場合には迷う事なく私を妻とすれば良いんです。スワミが私に言い残した言葉には、やはり、私の場合も手紙に書かれているんですけれど、私達の結婚についても仰っています」と微笑んで女が言う。

「ここで働くのはありがたくお引き受け致します。ただあなたとの結婚についてはもう少し時間をください。それとスワミからあなたに残された手紙も見せてもらわなければいけません」と俺。

「私の手紙を見なくたって、あなたはあなたの手紙を読めば判ります」と女。

「なるほど。確かにそうだ。では、今日は一端母の待つ家に帰ります。手紙も家で読んで、後日あなたに連絡します」と俺。

「はい。お待ちしております」と女は言って、微笑む。結構、良く見ると、可愛い顔をしただ。化粧けがないから地味に見えるけれど、量の多い黒い髪をもう少し梳いてお洒落に整えたら、結構美人かもしれない。

「あのう、君の名前を教えてくれないかな?」と俺。

「ああ、失礼!ジェーン・ジュンコ・クマールと申します。ここでは皆、私をJJと呼びます。今は職員ですけれど、私もこの孤児院で育った孤児なんです。この家で育つ孤児は、皆、クマールと姓を名乗ります」とジェーン。

「ありがとう、ジェーン。それではまた!良い一日を!」と俺。

「JJで良いです」とジェーン。

 俺は彼女の左の頬にキッスをし、その場を去る。


 家に帰るまで手紙を読まずにいる事が出来ず、俺はバスの中でスワミ・クマールが書き残してくださった手紙を読む。


『我が愛するギルバートへ。

 時期は来た。お前の事を忘れた事は一日とてなかった。私は生涯独身を貫いた。お前にも同じように独身を貫けという意味ではない。孤児院で多くの子達の世話をし、神に献身しなさい。今のお前ならそれを神に誓える。お前は独りじゃないんだ。お前を必要とする孤児達が沢山いるんだ。

 成人すると孤児らのほとんどは孤児院を出ていく。孤児院で既にお前も会った事だろうが、JJは孤児院に残り、神に献身する誓いを捧げた信仰者だ。孤児院で未婚のまま奉仕して働いているのはJJだけだ。他の四人はこの孤児院で育った者ではない。お前と同じように私が育てた教え子達だ。JJは時々真っ暗な部屋の中で独りになる事があるんだ。独身を一生貫く事に迷いがあるんだ。お前と結婚すれば、その問題は消える。悔いを残したまま修行をしたって、心から神に献身して大成就するのは難しい。人の幸せを自分の幸せとして人々に奉仕する日常が彼女には時々信じられなくなるのだ。結婚さえしたなら、もっともっと世のため人のために役立つ子なんだ。女の幸せを満たしてあげないと、彼女は孤児院すら出ていってしまい兼ねないのだ。彼女に育ててもらい、世話を受けている孤児達だって悪いのだ。孤児達にはあんなに優しくしてくれる母親のような彼女を他の人間と取り替えられても同じ事だと考えているようなところがあるんだ。彼女はそれを自分の経験でもよく知っている。彼女は自分が孤児院で孤児達を育てる番になったら、それがどうにも悲しくなり、時々独り真っ暗な部屋で神に祈りを捧げるのだ。

 ギルバート、私はいつもお前を見守っているぞ。良いか、命ある者に死などないのだ。』


 自宅に帰ると、母が玄関まで駆けてきて言う。

「今度の日曜日にアンディーとドクター・マコーレイを招待して、家で晩餐会を開こうと思ってるんだけど、どうかしら?素敵でしょ?」

「うん、良いね。それにもう一人招待して、是非お母さんに紹介したい人がいるんだ。今日、仕事先が決まってね。そこで働いてるで、ジェーン・ジュンコ・クマールって言うんだ」

「あなたのガール・フレンドかしら?」と母。

「いや、まだ遇ったばかりの人なんだけど、俺の事を向こうはよく知っていてさ。それで、何て言うかな(笑)、プロポーズされたんだ!」と俺。

「連れてきなさい!私なら大歓迎よ!」と母は言って微笑む。


 翌日の夕方、俺は裁判の帰りに再び孤児院を訪れる。ジェーンは留守だ。他の四人の職員が揃って俺を迎え入れる。俺が正式に孤児院で働くための紹介状代わりにスワミ・クマールの手紙を見せようとしたら、「院長のアイザック・コールリッジ」と申します。あなたの事はJJに全て聞かされています」とミスター・コールリッジが笑顔で言う。ミスター・コールリッジは六十五歳ぐらいの太めで小柄な男性である。「ようこそ、私達の孤児院に!あなたがここで働かれる事をここにいる全員が歓迎しております」とミスター・コールリッジは言い、傍らに立っている院長と年齢の近い一六五センチメートルぐらいの背の細身で優しそうな女性を紹介する。「こっちは副院長で、私の妻のサマンサです」

「よろしく御願いします。私はギルバート」と俺が自己紹介しようとしたら、「ミスター・ギルバート・ライトね」と俺の名前を彼女が確認する。

「そうです」と俺。

「皆、もうあなたのお名前は存じ上げております」と副院長のサマンサ。

 残る二人の中の四〇代後半ぐらいの一七〇センチメートル程の背の体格の良い善良そうな黒人女性が、「アリス・ブラウンと申します。アリスって呼んでください。こっちが旦那で、苗字は同じです」と自己紹介すると、職員達がドッと楽しげに笑う。二メートル近い長身で細身の黒人男性が恥ずかしそうに、「ただいま妻からぞんざいな紹介をされましたアリスの夫のトム・ブラウンです」と自己紹介する。院長は職員の自己紹介が終わると、「さあ!中に入って、子供達にお顔を見せて、自己紹介してやってください」と言い、建物の中に先頭を切って入っていく。残りの三人の職員は俺の背中を押して建物の中に俺を招く。孤児院の中の食堂に孤児達が全員着席して俺を待っている。

「さあ、皆に自己紹介してください」と副院長のサマンサが俺の背に右手を当て、孤児達全員の前に立たせる。

「今日からここで皆のお世話をさせて戴く事になりました」と俺が自分の名前を言いかけたら、孤児達全員が大声で一斉に、「ギルバート・ライト!」と俺の名を叫ぶ。職員達はにこやかに笑い、「拍手!」とトムが号令をかけると、一斉に孤児達全員が拍手する。

「あら、皆、どんなスターがいらしたのかってわくわくして入ってきたのよ」と食堂の入口に買い物袋を四つ提げて立ったJJが言う。「ああら、これはやはり有名な方だったわね。確かお名前は」とJJが俺の名を言いかけると、また孤児達全員が一斉に、「ギルバート・

ライト!」と元気良く俺の名を叫ぶ。その後は孤児達全員の自己紹介が始まる。孤児達の自己紹介の仕方はそれぞれ違い、どれも個性豊かで楽しく印象的だ。


 誘拐監禁されていた犠牲者達との合同記者会見後、メンバー間でアドレスとフォーン・ナンバーを教え合う。

 後日、俺は犠牲者の会を開こうとボビーに電話連絡をする。

「ギルバート・ライトと申す者ですが、ボビーに用があって電話したんですけど」と俺。

『オー・ギルバート!俺だよ。どうしたんだい、元気にしてるか?」とボビー。

「皆で一回集まって、食事でもしないか?」と俺。

『それは良いアイデアだ』とボビー。

「暗い会には絶対にしないから、メアリーやロバートやデイヴィッドも誘ってくれないか?」と俺。

『メアリーには俺が連絡しておく。ロバートとデイヴィッドにはお前が連絡してくれ』とボビー。

「判った。じゃあ、ロバートに連絡して、デイヴィッドにはロバートに連絡してもらうよ」と俺。

『メアリーとは一回電話で話した事があるんだ』とボビー。

「・・・・そうか。ボビー、君とずっと話がしたかったんだ」と俺。

『お互い顔は知ってるのに、あそこじゃあ何も話せなかったしな』とボビー。

「君は俺と話したい事なんてあったのかい?」と俺。

『俺も話したい。いつか話そう。いつか話そう。お前の気持ちはよく判るよ。でも、今は時期じゃないって、俺はお前を見つめながら、心の中でいつもそう言っていたんだ』とボビー。

「君はいつも俺に微笑みかけてくれた。そうか、心の中ではそういう風に話してくれていたのか」と俺。

『お前は俺以外はよく知らないようだが、俺は監禁されてた家で他の三人にもよく会っていたんだ』とボビー。

「じゃあ、君がロバートとデイヴィッドに連絡してくれよ。俺一人はしゃいでるみたいで、何だか気が進まなくなってきたよ」と俺。

『無理するなよ。俺と話したいだけなら、二人で会おう』とボビー。

「なら、電話で良い」と俺。

『そうか』とボビー。

「訊きたい事があるんだ」と俺。

『何だい?』とボビー。

「白人を憎んでないか?」と俺は思い切ってボビーに訊く。涙が止め処なく溢れてくる。

『おい!俺達は同類なんだぞ!』とボビー。

「え?ああ・・・・」と俺は自分のおかしな考えに動揺する。

『俺達は白人が白人を愛し、黄色人種が黄色人種を愛するように、同じ黒人同士愛し合ってるんだ。俺達黒人は肌の色の違いなんかで黒人に生まれた事を哀れまれるような理由なんて何もないんだよ。しかし、白人の黒人に対する差別の歴史は容認出来ない。黒人は現在の自分達が受け続けている差別に対しても、自分達の当然の権利として、このままただ受け身でいようとは思っていない』

「何故、奴隷として祖国アフリカから白人にアメリカに連れてこられた黒人達は奴隷解放と共にアフリカに帰らなかったんだろう?何故、黒人はアフリカを黒人の大陸として全黒人が一体となって取り戻さないんだろう?」

『俺達は合衆国に生まれ、お前達と同じように合衆国を自分達の国だと思っているんだ。俺達はアメリカに合衆国を建国した正当な先祖の血を受け継いでいるんだ。俺達はアフリカンではなく、お前達白人と同じアメリカンなんだよ。お前が言わんとしている事は確かに俺達黒人が一度は想い描いた事のある夢で、全く判らない訳ではない。しかし、アフリカンとしてだけの自己認識では俺達のアイデンティティーは成立しないんだよ。お前だってそうだろ?お前はこの国でユーロピアンとして存在するだけで自分の存在に満足出来るのか?奴隷だった女の先祖をその奴隷のオーナーだった白人の先祖が動物的本能を丸出しにして犯したって事も、その二人の先祖との間に生まれた子との関係も、男である限りそれ程理解出来ない関係ではないし、奴隷だった母親を犯した白人のオーナーを先祖の父親として受け止める事にも何世代もの生命の連関の隔たりがあるんだよ。普通にその白人のオーナーの血が俺達の先祖の血として俺達の中には流れているんだよ。現在のアメリカの性の乱れを想えば、俺達にとって、そういった先祖との関係は白人が想うような呪わしい歴史とばかりで受け止めている訳ではないんだよ』

「なるほどね。歴史から抹殺された黒人の歴史を俺はまだ表面的にしか捉えていなかった訳か。俺達白人は本当に黒人として生きた事がないんだな」

『アガペーを追求してるんだろ?皆、同じさ。がんばれ白人代表!』とボビー。

「いやっ、参ったな(笑)!」と俺。

『白人ってのはそれ程に野暮なのかねえ』とボビー。

「ありがとう。話したい事はもう済んだよ」と俺。

『おや、もう済んだのかい(笑)』とボビー。

「もう、電話を切るよ」と俺。

『また電話してこいよ!何時だって歓迎なんだぜ。本当だよ』とボビー。

 俺は遂に声を出して泣き出してしまう。

『オー・ボーイ!泣いたりして、どうしたんだい!俺達は友達だろ?』とボビー。

「俺達は黒人の事を何にも知らないで差別してきたんだな」と俺。

『おいおい、好い気になるなよ。その内黒人からもアメリカの大統領が出るかもしれないんだぜ』とボビー。

「うん、そうだね。いや、でも、そんな事あるのかなあ?」と俺。

『もっとまともな人間になれよ。じゃあな!』とボビー。

「判ったよ。それじゃあ、また!」と俺。

 ボビーは電話を切る。


 忙しい毎日である。その合間に俺は毎日欠かさずJJと二人になる時間を作っている。上手く言えないが、JJといると、何故だか他人と一緒にいる気がしない。それをJJに告白したら、前世のJJは俺が直前の前世で唯一恋した女性であったらしい。俺は彼女が既婚者となったのを機に終生独身を神に誓い、作家を職業として、その誓い通りに一生を送ったのだとJJへのスワミ・クマールからの手紙には書いてあるらしい。


 晩餐会の日、食後にドクター・マッコウレイが、「ミセス・ライト、薬を飲みたいのでお水を一杯戴けないでしょうか?」と言う。

「はいはい、今、持ってきますから、一寸お待ちください」と母は言って席を立つ。

「どこかお悪いんですか?」と俺。

「血圧が、一寸ね」とドクター・マッコウレイが眉間に皺を寄せ、険しい眼で答える。

「高血圧ですか」と俺。

「これだよ」とドクター・マッコウレイは右手の人差指と中指を唇に当てて言う。

「父も煙草を吸っていました。酷い頭痛に苦しみ、脳溢血で死んでしまいました。父は大変なヘヴィー・スモーカーでした。煙草で血圧が上がるんですか」と俺。

「吸う度に上がるよ。人それぞれ程度は異なるけれどもね。皆が皆、煙草で高血圧になるって訳ではないんだ」とドクター・マッコウレイ。

 母がグラスに水を入れ、「はい、どうぞ。お水です」とドクター・マッコウレイに水を持ってきて言う。

「ありがとう」とドクター・マッコウレイ。

 アンディーはソファーに横になり、すやすやと眠っている。お酒を大分飲んでいたので、一寸横になり、酔いを醒ましてから車を運転して帰ると言っていた。もう三十分はソファーで寝ている。

 晩餐会では全くあの事件の事に触れる者はいない。俺はエイセックスとボビーを招待しなかった事を心密かに悔いている。その代わり、この晩餐会にはJJがいる。母がJJに、「ギルバートには毎日何通もの手紙が届くのよ」と言う。

「多分、その中に私の手紙も入ってます」とJJは言う。

「あなたの御両親は全くの日本人かしらね」と母。

「両親って言えるような年齢じゃなかったみたいですけど、母は日本からの留学生だったみたいです」とJJ。

「お母さん、お幾つだったのかしら?」と母。

「十七だったそうです」とJJは言い、肩を竦める。

「お父様は?」と母。

「それがどうも、誰なんだか判らないみたいで」と困ったような顔でJJが言う。

「そう」と気の毒そうに母は言い、「日本の女の子って、私なんかからしたら、一寸心配になっちゃうが多いのよね。何かこう、男の子達の方とは違って、異人種なら来る者拒まずみたいなとこがあって」と母。

「ああ、そういうの判ります」とJJ。「でも、私ももしかしたら、そういうところがあるのかもしれない」

「あら、しっかりしてよ、JJ」と母。

「だって、親は選べないし、遺伝はするんだし、子として全く無関係って訳じゃないんだから。それに私、日本人学校で育ったから、アメリカンでも日本的な心を併せ持って育ってるんです」とJJ。

 母は声を潜めてJJに話し続ける。

「あの時の声が良いって、夫が言うのよ。日本のヴィデオを亭主が買ってきたの。ああ言う声は反則よねえ」と母が潜め方の不十分な声で言う。「あら、JJ、顔が赤くなってるわよ!」

「だって、私、半分日本人なんですよ(笑)!」とJJ。

「だって、あなた達、結婚前提に付き合うんでしょ?恋人ならまだしも、それじゃあ、結婚して何するつもりよ(笑)!」と母も顔を真っ赤にして言う。

「マム!」と俺が母に注意する。

 JJが俺に笑いかけながら、「面白いお母さんね」と顔を赤くして言う。


 監禁事件から三年と二ヶ月後、つまり、脱出してから一年の中に或出版社から事件の有様を書いた本の執筆を依頼された。俺はその依頼に応じた。過去の自作品の写真集二冊がインターネットを通じて再び売れるようになった。俺とJJの結婚式は孤児院の中で仲間達の祝福を受けて行われた。JJはこれで正式にジェーン・ジュンコ・ライトとなった。

 俺は結婚式の食事を食べながら、副院長のサマンサに、「スワミ・クマールは元々何のお仕事をされて生計を立てていらしたんですか?」と質問する。

「スワミは孤児院を経営される前も後もずっとインド文学の翻訳を精力的にされていました。孤児院に贈られる寄付金や援助金は本当に僅かな金額なので、この孤児院を経営していくにはどうしてもスワミの翻訳業の収入が必要不可欠でした。それは今もそうなんです。未だにスワミが翻訳された本の印税が入ってくるんです。本当に有り難い事ですよね」

 

 あの事件から間もなく四年が経つ。俺はスワミ・クマールの事を知りたいがためにスワミの蔵書を読み漁っている。俺はインディアやチャイナや日本の聖典を楽しく勉強している。

 毎日毎日、ほとんどの時間を子供達の日々の問題解決に充てている。JJと俺に元気な男の子の赤ん坊が産まれた。我々はその子にジェイコブと名づけた。彼は皆にジャックと呼ばれて親しまれている。

 今日は母のバースデイ・プレゼントを買いに母と近くのデパートメント・ストアーに車で出かける。母はジャックが生まれてから色々とJJの子育てや子守りを助けてくれている。母は天涯孤独の身で育ったJJに子育てを教え、心の支えになってくれている。俺はそんな母に心から感謝している。俺は孤児達の世話で母への感謝が追いつかないくらい忙しい日々を送っている。俺はそんな母に対して、ささやかながら、何かお礼がしたかった。そんな折にたまたま母の誕生日が近くなり、俺は母と一緒に母のパースデイ・プレゼントを買いに行く事にしたのだ。今日は一日母と二人だけで過ごしたくて、JJやジャックを家に残し、母と親子水入らずで出かける事になった。

 デパートメント・ストアーで母のバースデイ・プレゼントを買った帰り際に車を停めて信号待ちをしていると、隣に黒い高級車が停まる。後部座席の窓が開いているので、ふと車内を覗き見ると、何とエイセックスが乗っているではないか!

「やあ、エイセックス!」と俺は親しげに車の中にいるエイセックスに声をかける。エイセックスはこちらを振り向くと、運転手に向かって何やら取り乱した様子で指示を出す。エイセックスは胸の前で手を組み、顔面蒼白の怯えた顔で俺の眼を見つめながら、声のない祈りのために唇を微かに動かし、涙を流している。エイセックスを乗せた黒い車は他の多くの車が前を左右に過ぎる赤信号中に急発進し、他の車に衝突事故を起こさせながら横断していく。

「あら!あの車、危ないわね!大事故じゃない!全く頭がイカれてるわ!」と母が興奮した声で言う。


 母との買い物途中でエイセックスを見かけた翌年、新聞でエイセックスの父親が病死したのを知った。葬儀が終わると、後を追うようにエイセックスが自殺未遂をしたと新聞で知った。どうやら命には別状はなかったようだ。


 獄中でケヴィンが執筆した悪魔的な自伝が世界各国で翻訳出版され、何処からともなくケヴィンが所有していた殺人動画が世界中のインターネットで無料配信された。その中にはケヴィンが撮影していた私の四肢切断の動画や、私が何時何処で撮影されていたのかも気づかずにいた監禁中の動画までもが含まれていた。それを世界中のTVが報道し、世界中の映画館で上映された。


こんな渦中に一人取り残されたエイセックスも彼女一人分の人生を彼女なりに生きねばならない。世界にたった一人の人間として生きているのであれば、誰しも自分一人のためだけに生きて幸せを獲得する術にも迷わない。

 エイセックスよ!この世には皆で生きるための世界がただ一つあるだけなんだ。国境や海を越えたところに異人種の国があろうと、異教徒の国があろうと、遠い宇宙の彼方に異星人の住む惑星があろうとも、俺達に必要とされるのは愛なんだ。それは霊的な愛、人類愛、同胞愛の事なんだよ。


 愛に目覚めし者よ! 争うのは常に人間なのだ。

 世界宗教は全て東洋から生まれた。その中から欧米人は一つか二つを主に受け入れ、東洋の英知を狭い考えの中で広める事を繰り返してきた。宗教を一つにする必要などない。自分の信仰する宗教が自分のために一つあれば良いのだ。キリスト教を信じる者はクリスチャンとして愛と平和を広め、ユダヤ教を信じる者はユダヤ教徒として愛と平和を広め、イスラム教を信じる者はムスリムとして愛と平和を広め、仏教を信じる者は仏教徒として愛と平和を広め、ヒンドゥー教を信じる者はヒンドゥー教徒として愛と平和を広めれば良いのだ。自分達それぞれが信じる宗教を他人に強要したり、異教徒を迫害したりするような争いや殺戮など全く必要のない事だ。宗教を統一する事を喜ぶのは神ではなく、単なる狂信的な信者の想像上の理想世界に過ぎない。この世には様々な宗教があって良いのだ。世界平和は宗教統一なんて単純な方法で実現するものではないのだ。

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愛に目覚めし者よ! 天ノ川夢人 @poettherain

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