第18話 2030年9月2日

 夜、八時過ぎの東急田園都市線普通電車。その三号車の混みあった車両でヒカルは窮屈な姿勢で揺られていた。帰宅途中のビジネスマンやビジネスウーマンで車内は混満員だった。COVIT-19でリモートワークが一時流行ったが、結局人々は顔をつき合わせていないと不安らしい。いつのまにか通勤電車の混雑は元に戻ってしまった。出社しないことで知らないうちに取り残されてしまうという不安は流行り病より根深く人々の心を蝕むようだ。エアコンは効いているものの、それを上回る人の熱気から逃げるように三軒茶屋の駅でヒカルは下車した。

 ヒカルが一人で住んでいるフラットは同じ東急でも目黒線の西小山にある。別の路線に乗っているのはこれから人と会うためである。

 その人とは・・・人見である。

「三矢君、相談がある」

 その電話がかかってきたのは、その日の昼休みだった。ヒカルが当直として一人オフィスに居残っているのを人見は知っていたらしい。

「はい」

 ヒカルは緊張した声で答えた。

「悪いが、この間行った店に来てくれないか?今日は会議があっていつ終わるかまだ分からない。車で行くのはちょっと都合が悪くてね」

「わかりました」

 会議の後には人が残るかもしれない。他のメンバーに誘われることもあるかもしれないのだろう。ヒカルと一緒に車に乗る所などを目撃されたら困ることになるのは人見の方である。もちろんヒカルも何か言われることがあるかもしれないが、失うものは余りない。だか人見が失うのは、自分が失うのと同じ事のような気がする。

「会議は何時までですか?」

「一応、六時ということになっている」

「じゃあ、七時に向こうについているようにします」

「悪いね」

「いえ・・・。待っています」

 最後の待っています、に自分の気持ちが滲み出たような気がしてヒカルは微かに頬を染めた。


「あれ、一緒じゃなかったの?」

 ドアにくくりつけられたカウベルの音に入って来たヒカルを向いたシェフの島本がヒカルに声をかけてきた。

「あ・・・ええ。忙しいみたいです」

「ごめんなさいね。やっと女性をエスコートするくらいのことはできるようになったかと思ったんだけど、最初の一回だけじゃ、ねぇ」

「いえ、そんな」

 ヒカルは手を振って否定した。だが島本は手で顎を支えるようにして考え込むような素振りをすると、

「あいつはねえ、勉強はできるんだけど女心なんておよそ分かっていないからね。いったい何のために勉強しているんだろう」

 としみじみとした声で言った。

「そんなこと・・・」

「でもね、あいつ、根は正直な男だよ」

 グラスに水を注いで、お絞りと一緒にテーブルに持ってくると島本は、ちょっといい?と尋ねてからヒカルの向かいに腰かけた。

「そうなんですか?」

「うん」

「人見さんって恋人を作ったことないんですか?」

 ヒカルは尋ねた。

「知らないなぁ」

「でも・・・小学校からの知り合いなんでしょ?」

「ふふふ」

 島本は奇妙な声で笑った。

「知らないことってどんなに長く付き合っていてもあるんだよ。彼とはもう何千年も一緒にいるような気がしているけど、やはり知らないことはある」


 その時、再びカウベルの音がした。島本とヒカルが振り向くと人見が入って来たところだった。

「やあ、彼女を一人で来させるなんて、ひどいじゃないか。待っていたよ」

 島本が席から立ち上がった。人見は少し不機嫌そうに島本を見たが、座っているヒカルを見つけるととびっきりの笑顔になった。

「待たせたね、悪かった」

「いえ」

 ヒカルも微笑を返した。


「どうかしたんですか?なんだかお疲れのよう・・・」

 ズッキーニのフリットを二人で分け、食べ終えたヒカルはそれをまだ半分くらい残している人見に尋ねた。

「うん?」

 人見は、残っているフリットをちらりと見た。

「食欲がないんですか?」

「そんなことはないよ」

 そう答えたが、人見はナイフとフォークを置いたまま天井を見上げた。ヒカルもついつられたように目を上げた。

「会議でね・・・。気付いたんだが、どうも出雲さんが秘密裏に何かを調べているようなんだ」

「え?そんなことはないでしょう?うちはどの政府系組織に比べてもオープンだと思いますよ。出雲さんだってそれを自慢されている」

「たしかに今まではそうだった。だが、このところどうもおかしいんだ」

 人見はまるで対等な立場の人間に話すようなフランクな口調で話しかけ、それがヒカルの心をつかんだ。

「どう?」

 ヒカルも思わず同僚に話しかけるような口調で尋ね、慌てて、

「どうおかしいのですか?」

 尋ね直した。

「敬語はいいんだ、僕たちは仲間だろ?」

「はい」

「ええ、で構わない。互いに心を許そう」

「ええ、分かりました」

 人見は微笑んだ。ええ、の後に「わかりました」と丁寧な言葉遣いが抜けなかったからだろうとヒカルは気付いて頬を染めたが、人見はそれ以上そのことを言わなかった。代わりに

「どうも僕たちに内緒で何かを調べているらしい。いわば特別部隊のような物を作ってね」

「特別部隊?」

「おそらく、それに関係しているのは神宮司ヴァイス、榊君、それと・・・」

とヒカルをちらりと見遣ると人見は言葉を継いだ。

「和田君と木下君だ」

 榊の名前が挙がった時に、ヒカルはその名が出てくるのを予期していた。

「どういうことでしょうか?」

「出雲さんが関わっている以上、それが何を意味しているのかは想像がつく」

「・・・」

「裏切り《コンタミネーション》を疑っているのだろう」

 深刻そうな顔で人見が呟いた。

「われわれの組織の中に『悪魔』と通じているものがいる、ってことでしょうか?」

「たぶんね」

「どうしてそう考えたのでしょう?」

 ヒカルの問いに人見は重い溜息をついた。

「分からない・・・。だが、今言ったメンバー以外は疑惑の対象だ。君も僕も」

「・・・・」

 ヒカルは黙った。疑いの対象である、という事に戸惑っていた。

「しかし、業務に差し障るのではという懸念がある。いずれ僕のように感づくものたちも出てくるだろう。そうすれば我々は組織として機能しなくなる恐れが出てくる」

「そう進言なさったら・・・したら良いのでは?」

 ヒカルは思ったことを率直に口にした。

「いや、そういう疑いを持った者と言うのは指摘されればされるほど、殻を閉じるものだ。僕にも経験があるが」

 人見は頭を抱えるようにした。

「何かそうした事象があった以上、疑われるのは仕方ないが、特に僕にとっては業務上の大きな障害になる。信頼できるデータが入ってこない。判断の基準があいまいになる」

「もっともですね」

「せめてどういう疑惑があるのか、分かればいいんだが」

「・・・でしたら、探ってみましょうか?」

 ヒカルの言葉に人見は抱えていた頭から手を離した。

「君が?」

「ええ・・・」

「確かに君は和田君と親しい。だが、迂闊うかつに探りなど入れたら君が疑われることになる」

「大丈夫です。下手なことはしません」

「しかし・・・」

人見は躊躇うように視線を動かした。

「何か・・・?」

「いや、君が、その、和田君と・・・」

 人見を見遣ったヒカルは人見が滅多に見せない照れた仕草で自分の頬を叩くのを見た。

「嫉妬かな、この歳になって」

「・・・」

 ヒカルは頬が火照ほてるのを感じた。

「何もありません、龍とは・・・」

「龍・・・。君が彼をそう呼ぶことさえ僕には羨ましいよ」

「では・・・人見さんを何とお呼びしたらいいですか?」

 ヒカルは思い切って尋ねた。

「ううん・・・」

 人見は顎に手を当てて考えるそぶりをした。

「僕の名前は順三だけど・・・」

「存じています。じゃあ順さん、でどうですか?」

 う、と人見は呻くと頭を抱えた。

「なんだか、恥ずかしいものだね。島本にじゅんちゃんと言われても何も感じないのに」

「じゃあ、やっぱり人見さんにしておきます」

「どうやら今のところはその方がいいみたいだ。君のことは、ヒカル君でいいかな」

「ですね。でもお願いですからヒカルちゃんとは呼ばないでください」

 子供の頃からちゃん付けで呼ばれるのが嫌いだった。

「じゃあ、ヒカル君」

 ふふふ、とヒカルは笑った。

「何だか不思議ですね。人の距離って。遠く離れていたものが一挙に縮まるって、あるんですね。人見さん、私に任せてください」

 ヒカルは胸を叩くような仕草をした。

「ああ、あの事ね。じゃあ、頼んでみるかな。でも少しでも彼が不審そうな様子を見せたらすぐに切り上げてください」

「分かっています」

 そう言いながら、ヒカルは出掛けの景色を思い出した。龍と潤は、いつも一緒にいるから特に不思議はなかったが、そう言えば潤の様子がいつもと少し違っていたような気がした。

「ちょっといいかな」

 そう言って、人見は席を立つと島本と話し始めた。ヒカルの席からは彼らが何を話しているのかは聞こえなかったが、最後に二人がこっちを見て、軽く笑ったのを見て、戻ってきた人見に、

「何を話していたんですか?」

 尋ねた。

「僕の彼女を誘惑しないでくれって頼んだのさ」

「え?」

「僕が入って来た時、彼が君と一緒に座っていただろう?それをとがめたんだ」

「そんな・・・」

「冗談だよ」

 人見は軽く笑った。

「彼が作るとっておきのカクテルを頼んだんだ」

「とっておきの?」

「そう、彼はもともとバーテンダーでね。実は世界コンテストに優勝したこともあるんだ。その彼が最も気に入ったカクテルがある。レシピも公開している。だが彼がそれを提供することは滅多にない。限られた人間にしかね」

「そうなんですか?」

「その名前が面白い。Devil Exorcismっていうんだ。悪魔祓あくまばらいという意味だけど、僕らにとって相応ふさわしい名前じゃないか」

「悪魔祓い・・・?」

「そう。彼のレシピで他のバーテンダーが作っても同じようなものはできるのだが、どこか少し違う。君もきっと好きになる」

 人見は自信ありげにそう言った。


「これはアブサントというリキュールを使ったカクテルなんだ。アブサントは悪魔の酒ともいわれる」

 島本は真剣な眼差しでシェーカーからゆっくりとトールグラスに液体を注いだ。

「悪魔の酒・・・ですか?悪魔祓いとは真逆だけど」

 思った通りの量を注ぎきると島本は満足そうな顔でヒカルに振り向いた。

「うん、もともとこのお酒はスイスでできたものなんだけれど、その時の正式なレシピの中ではニガヨモギが使われているんだ。ニガヨモギには少し毒があってね、常習性と向精神薬としての特徴がある。だから、これで破滅したと言われる人々もいる。有名なのは詩人のヴェルレーヌだね。だから悪魔の酒と呼ばれたんだ」

 よし、と呟いて島本はもう一つのグラスに移った。

「怖いですね・・・」

「まあ、今では解禁されているけど、禁止されていた時期もあるくらいだからね。といってもそういうお酒は何もアブサントだけじゃない。もっとよく飲まれているジンだって人がたくさん死んだ。あれは水松いちいを使っていてね。きちんと蒸留しないと水松の毒が消しきれない。でもアブサントもジンも今では普通のお酒として流通している。きちんとした製造法で作れば全然問題ない」

 人見が島本の説明を引き継いだ。

「そうなんですか?」

「大丈夫、僕の使っているアブサントには毒はない。ニガヨモギは使っていないやつだし。だからいくら飲んでも大丈夫だっていう意味で悪魔祓いって名付けたのさ」

 島本は得意げに言った。その意味を分からず戸惑っているヒカルに人見が説明した。

「ヨハネの黙示録には、ニガヨモギの星が墜ちた時に水を汚して人が三分の一、死んだという言い伝えがある。それもアブサントが悪魔の酒って言われる所以ゆえんかもしれない」

「よくご存じなんですね」

 感嘆したヒカルに

「いや、仕事柄悪魔に関する文献は一通り目を通したからね」

 人見は謙遜けんそんするように言った。

「なんだ、つまらないな。カクテルを作ったのは僕なのに、褒められるのはじゅんちゃんの方かい。毒でも混ぜた方が良かったな」

そう言いながら島本はグラスに湛えられた液体を二人の前にすっとスライドさせた。

「ますます怖いわ」

 ヒカルがおどけたように言い、男たちが笑った。カクテルに一口、口をつけた瞬間、ヒカルは目をみはった。

「美味しい」

 アルコールの芯は確かに残っている。だがそれを消すような熱帯の果実の濃厚な甘みが舌をくすぐる。かといってくどくない、不思議な味わいだ。

「だろう?」

 人見は得意げに言った。

「彼はカクテルの天才なんだ」

「ほんとうに・・・」

 人見もカクテルを飲み干した。

「本当はね、カクテルっていうのは食後酒じゃないんだけどね。恋人を待っているときの口さみしさに、とかさ。レストランを出てさて、どうやって女性を口説こうかとか、そういう哲学的な時間に飲むものなんだけど」

 島本がぼやく。

「恋人を口説くのは哲学的かい?」

「全ての哲学は人間関係に対する考察さ。恋愛ももちろんその一つだ」

 島本が笑った。 

「でもさ」

 人見は周りを見回した。他に客はいなかった。

「今日みたいに貸し切りだったらともかく、そうじゃなければ、他のお客さんの手前食前に頼むわけにはいかないだろう?君がカクテルを提供しているのは内緒にしているんだから。じゃないとまたバーテンダーの仕事みたいになっちまう」

「まあ、そうだけど」

 島本はまだ少し不満そうだったが、

「どうする?コーヒーとかデザートとか?」

 と二人を見た。

「僕はもう十分だ。君は?」

 人見がヒカルに尋ねた。

「私もお腹がいっぱい」

「じゃあ、勘定を頼むよ」

 人見が言うと島本は

「分かった」

 と答え、レジへと向かった。


「どうする、これから?帰るかい、それとももう一軒飲みにいこうか。そして僕は哲学的になる・・・っていうのは」

 ひそひそ声で耳元にそう囁きかけた人見に

「ちょっと酔いが醒めるまでお散歩しませんか?」

 とヒカルは微笑んだ。

「そうだね、それもいい」

 車の行き交う国道に出ると、渋谷の方角に向かって二人は肩を並べて歩き始めた。夏の名残は夜の空気に色濃く残っていた。やがて川にぶつかり二人は自然とその川に沿って歩き始めた。人通りはまばらで、時折夜のランナーたちが走ってきて二人を躱すように背後へと走り去っていった。

「なんだか平和。ほんとうに悪魔なんているんですかね?」

 ヒカルが呟くと、

「その感想はわれわれの存在意義レゾンデートルへの深刻な挑戦だね」

 人見が笑った。

「この深遠な闇のどこかに潜んで僕たちをみているかもしれない」

 ヒカルは思わず背後に広がる闇を見た。

「何も・・・いませんね」

「だが悪魔は実在する。僕はそう思うよ。僕らが追っているのは悪魔の手下に過ぎない。だが本物の悪魔がどこかに存在する」

「ほんとうに?」

「君は魔女狩りってしっているかい?」

 人見の言葉に、

「ええ、聞いたことがあります」

 ヒカルは昔、教科書で宗教裁判というのを習ったことを思い出しながら答えた。

「中世、魔女狩りの名目で民衆は多くの人々を裁判にかけ、殺した。教会も黙認した。自分たちに都合の悪い人々を何の根拠もなく殺した、その意味では魔女を狩ったその人々こそが悪魔の手下であり、その背後に本物の悪魔がいたのではないだろうか」

「魔女の方じゃなくて?」

「魔女もいたのかもしれないが・・・」

 人見はふと遠くを見るような目つきをすると、

「悪魔というのは誰の心にも潜んでいて、扇動されると表に出てくる、そんな気がしているのだよその扇動者こそ本物の悪魔なのではないだろうか」

 そう言った。


 いつの間にか川沿いの道は二人を中目黒の近くまで運んでいった。目黒新橋の上を通る車のヘッドライトが行き交うあたりで、

「ちょっと腰かけようか」

 ベンチを指した人見に、はい、とヒカルは答えた。

「僕のような歳の男に誘われて迷惑じゃないかい?」

 顔を覗き込むように言った人見に

「そんな・・・」

 ヒカルは答えた。

「もし・・・もし良ければ僕とその・・・将来を見据えてつきあってくれないかな」

「え?」

 突然、そんな風に言われるとは思っていなかったヒカルはまじまじと人見の顔を見返した。

「それってもしかしたらプロポーズですか?」

 ヒカルの問いに照れたような笑みを浮かべ俯くと、

「やはり無理かな。だったら気にしないでくれ。仕事には持ち込まないから」

 と直接の答えを避けた人見に、

「いえ・・・」

 とヒカルは答えた。

「ん?」

 人見が目を上げた。

「いえ、嬉しいです」

 ふと龍の顔が脳裏に過ったがヒカルは急いでそれを消した。

「喜んで」

「ほんとうに?」

 人見は子供のような無邪気な顔で笑った。今までヒカルが見たことのない表情だった。そしてすっとヒカルの手の甲に掌を載せた。思ったより細い白い指だった。ヒカルもその上に自分の掌を重ねた。彼の残った手がヒカルを抱き寄せ、そして二人はキスをした。途端にヒカルの体が反応したように熱くなった。醒めかかった酔いが体をとろけさせるように蘇った。なぜ?ヒカルは自問した。好きだから、したいの?お酒の残り、そう思いたかった。こんな気持ちに今までなったことないのに。唇を離し思わず言った、

「人見さん」

 その声は切羽詰まっていた。人見はヒカルの目を覗き込んだ。ヒカルの心はその瞳に吸い込まれそうになった。

 すっと目を逸らした人見の視線の先にラブホテルの建物があった。


 初めてとは思えないほど、ヒカルは燃えた。人見が体に入って来た時、痛みは走ったが快感がそれを上回った。乳房にキスを受けた時、最初の絶頂を迎えた。慎ましやかだった腰の振りはやがて、快感を求めるように大きくなっていった。三度の絶頂を迎えたあと、シャワーを浴びて心地よい疲労感に浸りながらシーツを体に纏ってベッドに横たわっていたヒカルの体から人見はシーツを捲り、ヒカルの下腹部に頭を載せた。

「恥ずかしい・・・」

 小声で抗ったヒカルの声を意に介さず人見はヒカルの恥部に舌を這わせた。新たな刺激にヒカルは小さく歓喜の声を漏らした。そして彼の体に手を回した時ヒカルはふと妙な違和感を感じた。

「これは?」

 人見の尻の上に小さく盛り上がった瘤のようなものがあった。

「気づいた?」

 人見は行為をやめ、小さくため息をついた。

「どうなっているの?」

 ヒカルが見ようとすると人見は体を回して抵抗した。

「いつもなの?」

 尋ねたのは座ると椅子の座面にあたりそうに思えたからだ。

「違う・・・。どういう理由なのか分からないけどセックスした時に現れるんだ」

 人見は腕を体の後ろに回すと、

「いつもより・・・」

 と口走った。

「いつもより?」

「大きくなっている。セックスが良いとそうなるんだ」

「聞き捨てならないですね」

ヒカルは柔らかくなった人見のペニスを握った。

「つまり、この子は他の女性とそう言う事をしたって告白したんですよね」

「あ、いや・・・」

 人見は慌てたようだった。

「でも、私の方が良かった、そうも聞こえます」

「話を聞いてくれれば分かる、もしろんそうさ」

「じゃあ、許してあげます」

「良かった」

 人見は安心したように呟いた。

「でも・・・病院に行った方がいいんじゃないんですか?」

「実は・・・言った事がある。子供の頃だけどね」

「どうだったんですか?」

 ヒカルの問いに人見は視線を落とした。

「尾骨の一種だろう、と言われた」

「ビコツ?」

「尾っぽのことさ」

「そんなことあるんですか?」

 ヒカルは目を丸くした。

「稀にある、らしい。とにかくシャワーを浴びてきなさい。そのあとで話してあげる」

「分かりました」

「気になるかい?」

「気にならない、とは言えないけど。でもだからって言って・・・」

 ヒカルはそう言うと人見の体に腕を回した。初めての男に与えられた快感の余震があった。

「そうか」

 胸に頭を埋めたヒカルを愛おしそうに抱くと、人見はもう一度優しい口調で

「さあ、シャワーを浴びておいで」

 と促した。


 二人は忍ぶようにラブホテルを後にした。

「僕の部屋に行こう。そこなら心置きなく話せる。これから僕もシャワーを浴びる」

 シャワーを浴びて出てきたヒカルにそう言うと、返事を待たずに人見はシャワー室へと向かった。駅前でタクシーを拾うと、人見は行き先を告げた。高輪・・・。ヒカルには縁遠い地域だった。

「その角を曲がって・・・うん、そこだ」

 降りたのは新築高層マンションの前だった。

「すごい、こんなところに住んでいるんですか」

 40階はあるだろう巨大な建築物のエントランスに車をつけるとがらんとした広いホールの手前にある指紋認証のセンサーに人見が手を翳し、それからキーパッドに番号を入れるとドアが開いた。

「セキュリティっていうと聞こえはいいが、段々と面倒が増える」

 苦笑しながら人見は手を広げ、ヒカルを先に通した。

「セキュリティが破られるたびにそれをカバーするセキュリティが必要になる。まるでいたちごっこだ。そのうちボケたら自分の家にも入れなくなるよ」

「新築なんですね」

 ヒカルはうっとりしたように言った。

「うん、一昨年親父が死んでね。母はとうに亡くなっていたからもう一戸建てに住むのが面倒になって、売り払って引っ越したんだ」

「そうなんですか・・・」

「だから親の介護の心配はない。それがボクの取り柄かな」

 コツコツと大理石の床にヒールと革靴の音を響かせ、二人が向かった先のエレベーターには35-41という数字が振ってあった。人見がエレベーターのボタンを押すと、静かにドアが開いた。オフィスのものと違って、真鍮とウッドでできた重厚な内装のエレベーターだった。


「きれい・・・」

 眼下にはクリスマスの飾りのようなイルミネーションがいっぱいに広がっていた。エレベーターが止まったのは最上階で、廊下には片側二つにしかドアがなかった。その一つを人見が開くと玄関と言うには広すぎるスペースが広がっていた。ヒカルの住むマンションの一室と同じくらいの広さだった。そして、そこからリビングへと招かれたヒカルは思わず窓際へと駆け寄った。

「気に入ったかい?」

 背後から問い掛けた人見に、

「はい」

 ヒカルは素直に頷いた。

「じゃあ、今日からここに住めばいい」

「まさか・・・」

「僕たちはつきあっているんだろう?そして将来の結婚を考えている」

「え・・・ええ」

 ヒカルは頷いた。

「じゃあ気にすることはない。君の指紋でのロック解除の登録もしよう」

「え?」

「もし、君がよければだけど」

 ヒカルは答えることもできずに眼下の景色を見下ろしていた。そして、

「どうして私・・・なんですか?」

 と蚊の鳴くような声で尋ねた。

「ずっと君のことを気にしていた。でも君には和田君がいると思ってね、遠慮していたんだ」

「そんな・・・」

「今でも彼の事を好きかい?」

 ヒカルは視線を上げた。部屋の灯りでガラスに自分の姿が映っていた。その後ろに人見が心配げな表情で見守っていた。やがて、小さくかぶりを振ったヒカルを人見が背後から抱きしめた。

「君が・・・初めてだなんて思ってもいなかった。良かった」

 耳元で人見が囁いた。


 人見がコーヒーを淹れ、二人はソファに並んで座った。イタリア産のレザーのソファの座り心地を楽しみながらヒカルは人見の言葉に耳を傾けた。

「実際に尾がある人間が生まれたという記録はあるんだ。ずいぶん昔の事だが、南カリマンタンのパリト川上流で発見された、と文献に残っている。それは僕のような痕跡ではなく、実際に長い尾だったらしい。それに比べて僕のこれは尾というまでには至っていない。本来、胎生期、つまりお母さんのおなかの中にいるときに消失する尾椎というものの一部が何らかの理由で消えなかった、そういう事だと聞かされた」

「人見さんは人類学にもずいぶん詳しいんですね」

「当然だ。肉体の一部が・・・いわば奇形ということだからね。親も心配しただろうが僕自身が一番悩んだ。子供の頃は体育は殆ど見学だった。とりわけ水泳なんてね。だが大人になるにつれ瘤は消えていった。だから安心していたのだけどね」

「・・・」

 ヒカルは首を傾げた。

「お医者さんから何か言われなかったんですか?」

 ヒカルの言葉に人見は頷いた。

「君は冷静だね。たしかに医者は最初それを公表したかったらしい。だが僕の父はね、厚生労働省の技官だったんだ。家系がね、役人の家系で。だから病院にもある程度の圧力はかけられたんだろう。もっとも、医者だって個人の希望を無視して人間を研究材料になんてできないし、とりわけ未成年が相手だと、無理を言うことはできない。それとだんだんと消滅していったのも一つの理由だろう。だが・・・」

 人見はその時の事を思い浮かべるように遠くを見た。

「大学生の時、僕にも恋人ができた。そして彼女とそういう関係になりかけた時がある。その時が初めてだった。もう少しっていう時に彼女が突然立ち上がった。その時の彼女の恐怖と嘲笑に満ちた目を見て僕は悟った。そして自分の体を確かめた。再び悪夢が僕を襲ったんだ」

「かわいそう」

 ヒカルの言葉に人見は目を上げた。 

「尾というのは樹上生活で体のバランスを取るために最も適した形状だったらしいよ。だから僕はセックスした後に木登りが上手になる。木に登ってここへ辿り着いたんだ」

 冗談めかして言った人見の言葉にヒカルは笑った。

 人見はコーヒーを飲み干すと少しヒカルの方へ寄った。ヒカルも拒まなかった。彼の手が再びヒカルの腰に回され、二人はキスを重ねた。そして、そのままヒカルは押し倒された。

「今日は泊っていくだろう?」

「でも・・・」

「明日の朝、早くタクシーで家まで帰ればいい。朝運転しているタクシーを知っている」

「・・・はい」

 答えたヒカルのスカートに彼の手が忍びこんできた。


 その夜、ヒカルは結局自宅には戻らなかった。人見の寝室にあるベッドで二人は再び睦み合い、やがて手を繋いだまま眠りに落ちた。

 そしてヒカルは夢を見た。奇妙な夢だった。二人はハネムーンでどこかの国の教会に佇んでいた。ヒカルはウエディングドレスを着て、人見はタキシード姿であった。二人の他には誰もその教会の中にはいなかった。十字架には磔になったイエスの像が掛かっており、ステンドグラスからの光が床に影を落としていた。なぜ・・・イエスが磔になった十字架がキリスト教のシンボルになっているんだろう?ヒカルは夢の中で考えていた。

 だが・・・そう思っているうちにいつの間にか教会の中でヒカルは人見に抱かれて恍惚を彷徨っていた。ヒカルは自分の中に入っているものが、人見のペニスではなく、尾の伸びて固くなったものだとなぜか知っていた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る