第16話 2030年8月31日

 その日の午前、龍と潤の姿は神南にある消防庁渋谷消防署にあった。

「未確認犯罪要因対策本部本部 主任 和田龍一」

 と書かれた名刺を受け取ると、五十代半ばと思しき副署長は物珍し気に名刺をひっくり返した。悪魔対策室とでも書いてあると思ったのかもしれない。だが、裏に何も書かれていないのを見ると、つまらなそうに

「それで・・・?」

 と龍と潤の顔を眺めた。

「出火の理由をお尋ねしに来ました」

 龍が応じると、

「・・・。警察とは連携して捜査していますが、なぜ悪魔・・・対策本部の方が?」

 と平然と尋ねた。

「本事案について、我々の捜査の一環としてお伺いしたいと考えているのです」

 龍はできる限り愛想よく答えた。

「という事はこの出火が悪魔の仕業とでも・・・」

 その言い方にどこかあざけりが含まれているのを龍は感じた。潤も同じなのだろう、表情が強張っていた。

「仕業とは申しませんが、関わっている可能性があります」

「どのような関りが?」

「それは捜査上支障がありますので・・・」

 龍の答えに、副署長はわざとらしく大きな溜息を吐いた。

「あんたな・・・」

 隣の潤が突っかかっていった。

「いい加減にしろよ」

 相手の胸ぐらをつかみかねない潤を手で制して、

「ご協力を頂ければ有難いのですが・・・。せめて教えていただきたい。あれは失火でしょうか放火でしょうか」

 龍の問いに、目の前の男は潤を一睨みすると、

「放火ですね。ガソリンが撒かれた跡があった」

 とだけ答えた。

「ありがとうございます」

 答えて立ち上がった龍に、副署長は、

「一つ申し上げたいのだが・・・」

 と手を挙げた。

「何でしょう?」

 隣で潤が男を睨みつけている。言いがかりでもつけられると思ったのであろう。だが副署長はそれを無視して

「昨年のデータで東京消防庁管内で起きた火災の数は3990件、死者は125名、負傷者は801名、損害額は87億円です」

 淡々と述べた。

「それが・・・何か?」

「その上、救急出動件数は85万回に上っている」

 副署長はそう言うと、龍を見詰めた。

「あなた方の組織が摘発した件数、死者はどの程度ですか?」

「全国で死者50名、摘発者は48名です」

 龍はすらすらと答えた。

「その程度の被害に対し政府は全国組織を立ち上げた。いったいいくらかかると思います?」

 目の前の男は立ったままの龍を見上げた。

「われわれは都道府県の組織だから関係ないと思われているが、実際にはあなた方の予算の一部は都道府県から出ている。その煽りを食らって我々の予算は縮小されてしまった。特に東京は高層ビル火災に対応した消防車の予算が3割も減らされてしまったのです。正直言って、あなた方の組織は警察の業務範囲内で従来の予算の中で対応してほしかった。少なくとも私の周りには悪魔などいない」

「お言葉、肝に銘じます」

 龍は答えた。

「ですが、警察と言うのは犯罪に対応する組織です。我々の組織は犯罪と言うよりどちらかといえば病理に対応しています。副署長にはお子様がいらっしゃいますか?」

「ああ、大学生の息子と娘が・・・」

「おそらくご立派に育て上げられたのでしょう。ですが、もし、そのお子様たちが突然ウィルスに冒され凶悪な犯罪に手を染めたら?」

 副署長は、腕を組んだ。

「我々はその病理の源を探り、壊滅させなければいけない。もしそんな事態があなたのおっしゃるように蔓延したら、火事どころではないかもしれません。社会全体が壊滅する。だが・・・それを防ぐことができたら我々の組織は解散します」

「・・・」

 組織を解散する、という龍の宣言を聞いて副署長は棒を呑んだような顔つきになった。

「解散?」

「悪魔・・・それがいたとしても恒常的に存在するわけではありません。我々は守らなければならないものを守り、脅威がなくなったら姿を消す。そういった組織です。暫くはご辛抱願いたい」

「しかし、君がそれを言う権限が・・・」

 あるのか?と言う前に龍は男を遮った。

「もし、万が一この世の中から火事がなくなったら、あなたはどうします?」

「それは・・・」

 男は言葉に詰まった。

「常識です。火事がなくなったら消防署もいらない、誰に尋ねられてもそう言い切るべきでしょう」

 そう言い捨てると龍はきびずを返した。潤が慌てて立ち上がると後を追った。


「かっこいいね、龍は」

 じゃれつくように潤が龍の横から小走りに前に走り出ると振り向いて言った。

「何が・・・?」

「何がって、あのいけ好かない野郎をやりこめてさ」

「事実を言っただけだ。現実、悪魔が消えたらあの組織はなくなる。俺だけの考えじゃない。出雲さんも神宮司さんも同じ考えの筈だ」

「ってことは悪魔がいなくなったら俺たち失業か?」

 潤が腕を組んだ。

「心配するな。潤ぐらいの実力があればどんな仕事だってできるさ」

「嬉しいこと言ってくれるね。龍は。俺たちバディだろ。俺は龍の行くところどこでもついていきます」

「それよりも警察だ」

 公園通りを早足で二人は駅の方角へと向かった。


 渋谷警察署は駅の近く、明治通りと六本木通りに挟まれた一角にある。担当の刑事課強行犯係の担当刑事は想像していたのと違って、痩せた体つきのスマートそうな青年であった。

「ご連絡は受けています。課長から詳細をご説明しろと私が指示を受けました」

 龍と潤は顔を見合わせた。誰が連絡をしたのか?

「うちの署長がおたくのトップの下で以前一緒に働いていたことがあるそうです」

 勘が良いのか、香月と言う名の警官はすぐにその疑問を解消してくれた。

「本事案は間違いなく放火です。既に消防署でお話を聞かれたでしょうが、ずいぶんと念を入れた放火ですね」

「と言うと?」

 龍が尋ねると、

「ほぼ同時に三か所で火をつけた形跡があります。玄関付近、部屋、そして裏の出入り口付近・・・おそらく単独犯ではない」

「愉快犯という事は考えられない、という事ですね」

「ええ、滅多にないことです。あの建物を焼失させたいという強い意志が感じられます」

 香月という刑事は眼を上げた。

「放火の多くは愉快犯ですが、保険金の詐取や恨みによるもの、そうしたものはあります。ですがこれほど徹底しているものは少ない。考えられるものは恨みですが、あそこは空き家だったそうです」

「ええ・・・防犯カメラには何か映ってなかったのですか」

「それが・・・」

 刑事は困ったような顔をした。

「何も・・・」

「まさか」

 松濤一帯は高級住宅街である。殆どの住宅には自費で取り付けられた防犯カメラがある筈で、それどころか一般には普及が遅れているセキュリティが施されている筈だ。そればかりか、自治体やコンビニなどに設置されたカメラがあるはずではないか。そのどれにも犯人が映っていないなどと言うことは考えられない。

「それが・・・」

 香月は再び困ったような顔をした。

「もしかしたら・・・」

 防犯カメラへの妨害があったのではないか?と龍は尋ねた。

 防犯カメラが普及してから単純な犯罪は減少した。巷では犯罪者が帽子・ストッキング・サングラスなどを着用して防犯カメラの映像から逃れようという試みをしているが、いずれも原初的なもので、映像から捉えられるものは顔だけではない。犯人の数、歩行認容や思わぬ癖、諸々の情報がそこには映し出されている。だから顔を隠したくらいでは逃れられるかどうかは運任せに過ぎない。しかし防犯カメラも一つの技術である。それを上回る技術があれば万能ではない。実際に防犯カメラに関する幾つかの欠点は警察で検討され、幾つかの方法の存在が確認されている。

 だが、それを公表することはなかった。自明の理である。犯罪抑止力が実証され、犯人確保に多大な貢献をしている防犯カメラを操作不能の状態にする技術などが世に広まっては困る。龍も噂を聞いたことがあるだけで実際の方法は知らない。

 香月は額の汗を拭った。

「実はその通りなのです」

 詳しくは言えないが、と前置きして香月は話し始めた。

「一番原初的な方法は、その地区の電源を落としてしまう事ですが、それ以外に二つの方法があります。科学捜査研究所の話では今回はその二つの方法が重複的に使われている、とのことでした」

「という事は・・・」

 潤は身を乗り出した。

「その方法を知っている人間が犯人ということか・・・。まさか警察が?」

「その疑いがないとは言えません。実際、その方法を知っているのは警察の中でも限られた人間ということですが」

「あなたは?」

「もちろん知りません」

 香月は即座に断定した。

「ということは・・・身内を疑うという?」

 龍の言葉に香月は反応した。

「実際にそうだとまでは断定していません。ですが・・・」

 香月によると、渋谷警察の署長・副署長と警視庁、更には警察庁の間で本件に関して話し合われたのだという。

「当初は監査に回そうかという話で落ち着きかけたのですが、本件に関しては監査が汚染コンタミネートされていないとも限らないと紛糾して。そこに・・・出雲さんからの電話がありました」

「で?」

「この件に関して、そちらで捜査をしていただけないかと・・・。出雲さんは警察でも隠然とした力と信頼を持っておられます。もし犯人が警察内部のものだとしてもまずは警察に相談なさってくれるとのお申し出で、ならばこの件については悪魔案件という事で任せようかと。出雲さんは取り敢えずお二人に話していただけないかという事で、本来なら署長からお話した方がいいのですが、誰がみているか分かりませんので、私が代わりに」

 渡りに船ということか。警察組織は県警レベルでも組織間で対抗意識はある。だが、警察全体に疑いが掛かってしまうと話が複雑になる。互いの縄張り意識が警察を自壊させかねない。警察に近い組織で警察と異なったアプローチをすることのできる龍の組織に目をつけたのは悪くない。いざとなれば警察の人脈で圧力も掛けられる。

「なるほど」

 龍は答えたが、警察はともかく、こちらでは間違えなく汚染が発生している。現に横にいる潤だってその対象だ。それにも関わらず、平然と警察にそんなことを申し出る出雲の胆力に内心驚いていた。

「申し訳ありませんが、本件に悪魔が関わっている可能性があるということで、そちらからの申し出で、という事にさせていただければ」

さすがに、厚かましい依頼だという事が本人にも分かっているのだろう、香月は身を縮こませた。

「防犯カメラ対抗措置に関する情報はどうしても警察内部での亀裂を起こす可能性があり、それだけは避けたいという意向がありまして」

「分かりました。その代わり全ての情報をこちらにいただけますか?」

「もちろんですとも」

香月は厄介な交渉が片付いたと思ったのだろう、喜色に溢れた表情で頷いた。

「ところで香月さんは・・・」

 龍が目を上げた。

「はい?」

「渋谷署の方ではないですよね」

 香月は目をすがめるようにして龍を見た。

「研修の時、お目にかかったことを覚えています」

 はっとしたように、香月は身構えた。

「ではあなたも・・・」

「国のために働く・・・志を互いに大切にしたいですね」

 そう言うと龍は立ち上がった。


「いったいどういうことなんだ?」

 潤はオフィスに戻る途中、龍に尋ねた。

 警察が持っていた情報は全てフラッシュメモリの中に納められ、龍のバッグに入っている。龍が設定したパスワードと後から香月が送ってくるデコードを入力することで情報は明けることができる、それ以外の方法で見ようとすれば情報は全て破壊される、そういう仕組みになっていた。ネットのみで情報を送付する方法は本当の機密情報に関しては現在は公的機関では使用されていない。残念ながらネットはどのような仕組みを作ってもいつかは破られる、ということが鼬ごっこの中で定着してしまった。

 そのメモリの入っているバッグを軽く叩きながら、龍は、

「説明された通りさ。おそらく彼らは公的な機関にも入り込んでいるという事だ。今の警官のリクルートの方法では選別しきれないってことさ」

「だけど・・・」

「昔、冷戦という時代があった頃でさえスパイは相手方に入り込んでいたんだ。同じことだよ」

「っていうことは仲間さえ信じられないっていう事なのか?」

「だな・・・」

「っていう事は俺たちの組織も?」

「警察に比べたら人数ははるかに少ない。思想背景や過去の行動に関する調査も多少は違う。確率は小さいだろう、と言っても万全とは言えない」

 龍が応えると潤は少し考えこんでから、

「龍は俺の事を信じているんだろ?」

 と尋ねた。

「ああ、もちろんだ」

 龍は頷いた。龍は潤の事を信じている。しかし、潤は組織の中では疑いの対象だ。その二つの事実は龍の中で共存している。信じていても疑いの目は常に向けていて、その「信じている」というバロメーターという変数の針を少しづつ動かす、それができなければ疑いのあるバディと組むことはできない。だが、現段階でもし潤が事故に巻き込まれたら疑いなく龍は助ける。

「良かったぜ」

 潤はほっとした顔でいう。その表情さえ、龍の中のバロメーターの針を動かすことになる。

「潤、お前も対象だ。気を付けろ」

 と言えたらどんなに気が楽だろう、そう考えながら龍は空を仰いだ。いつの間にか黒い雲が渋谷の街を覆っていた。


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