第15話 2030年8月29日

「和田君、ちょっと来てくれたまえ」

 神宮司からの電話を受けた龍はちらりと視線を潤に向けた。潤は相も変わらずペンを器用に回しながら窓の外を見ていた。その時二人の間を通り抜けた女子事務員で潤へ向けた視線を切ると、

「例の件ですか?」

 と神宮司に尋ねた。例の件なら潤も連れて行くべきだろう、と言外に伝えたつもりだった。

「いや、別件だ」

 神宮司の意外な答えに龍は眉を顰めた。間に榊がいるので、龍が神宮司の個室を訪れることは今まで滅多になかった。しかしあの件がある以上、これから増えるのは仕方ないことかもしれないが・・・。なるべく目立たないように連絡を取り合うと言ったのは神宮司の方からではなかったか。

 その上それ以外の用事?榊が戻ってきたことは、神宮司も分かっているだろうに・・・。だが短く、

「わかりました」

 答えると龍はジャケットを取って途中でそれをそそくさと着ながら、廊下を早足で神宮司の部屋へと向かった。


 部屋に入って龍は目を瞠った。そこにいたのは神宮司、そして大阪から帰ったばかりの榊とトップの出雲だった。捌けた性格の出雲は時折、オフィスにも立ち寄ることもあり、旧知の龍にも声をかけることがあったが、日ごろは忙しく滅多に会うことはない。政治家、警察・厚生官僚や検察などの重鎮との調整に時間を割き、それ以外の時間は主にパソコンで業務を統括する。それでいて、かなり細かいところまでを把握して適切な指示を与えるという能力を出雲は有していた。

 その出雲がいるということは・・・?よほど重大な案件なのだろうか。


「ドアを閉めたまえ」

 神宮司の言葉に黙って扉を閉めると、

「よし、これで揃った。榊君、もう一度説明を頼むよ」

「はい」

 榊が頷くと、龍を見た。その視線に懸念と深い憂慮の色がある。

「大阪で最近、悪魔ウィルスに感染した人間が頻出していることはご存じだと思います」

 龍一人ならば丁寧語を榊は使わない。龍や潤と同じくらいざっくばらんな話し方をする。そうすることによって年齢の垣根を超え、仲間だと思わせるのが榊のやり方だった。出雲と神宮司がいることに緊張しているかのようだったが、ふと見るとその眼は欠陥が浮き出て赤かった。昨日はよく眠れなかったのかもしれない。どこでも眠れるといつも豪語している榊らしくない。

「大阪オフィスに依頼されて協力し、そのうちの3人を捕まえたのですが、その一人の住所録、正確に言えばパソコンの中から我々東京オフィスの関係者・・・もっと言えばスタッフの一人のプロフィールが発見されました」

 そう言うと、榊はテーブルの上を指した。そこには、厚いファイルの上に島田源吾という名の男の顔写真と簡単な履歴が記されていた。

 島田源吾、株式会社 テルミナ従業員、2029年東京本社から大阪支店へ異動、独身、現在32歳。この男の知り合いが東京オフィスにいる?誰なのだ。顔写真の男は神経質であまり友人など多くはなさそうに見えた。

 龍は榊に目を遣った。誰なのです、とその眼は問うている。

「木下君だ」

 乾いた声で榊が告げた。

「潤が・・・?」

 思わず龍は呟いた。神宮司が別件だと強い口調で言ったのはそのためだったのか。

「どの程度のプロフィールですか?」

「住所録程度の情報、すなわち住所・電話番号・メールアドレス・・・」

 間髪を入れずに榊は答えた。

「偶然かもしれません。過去の友人の一人とか・・・。それだけの情報では友人とまで特定できない」

「二人に小学校から大学まで共通した学歴はない。もっともそれ以外の知り合いだった、という事までは否定できないが」

 暗鬱な口調で榊は答えた。

「とにかく、関係するものが見つかった以上、そこから関係を調べる。木下君以外のものについては大阪に任せたが、木下君については無理を言ってこっちで調査することになった」

「Disinformationの可能性は?」

 Disinromationとは捜査の攪乱のために偽の情報を流す事である。相手の正体はまだ掴めていないが、こちらが敵である以上相手も偽情報を流し混乱させてくる組織である可能性はある。

「それも含めてだ。調査してくれ」

「僕に・・・?」

「神宮司さんから強い勧めがあった」

 榊は上司を振り返った。

「私としては余りに近い和田君には却って難しいのではないかと進言したが・・・」

「いえ、僕がやります」

 龍は強い口調で答えた。

「良かろう」

 出雲がすぐさま答えを出した。

「君はその結果を逐一、神宮司君と榊君に報告するのだ。私には二人から報告してくれたまえ。それと榊君、第四ブロックと大阪オフィスへの対応に関して少し相談したい。部屋まで来てくれたまえ」

「わかりました」

 部屋を後にする二人の後ろ姿を見ながら、龍は神宮司に目で尋ねた。行かなくていいんですか?神宮司は黙って首を横に振った。

「出雲さんには榊君を連れだしてもらえるように頼んだんだ」

 ドアが閉まって暫く経ってから、神宮寺はぽつりとそう言った。

「?」

「あの話を彼にはまだしていない」

 あの話・・・すなわち、組織内に敵がいるという話だ。

「しかし・・・榊さんは出張中だったじゃないですか?それでも疑いの対象ですか」

 龍の問いに、

「その通りだ。可能性は低いだろう。だが、この件は出雲さんからの指示で木下君を含めて我々四人にとどめておくことにした。一方で木下君の名前が大阪で見つかった事は榊君を含めて当面さっきこの部屋にいた四人に留める。いずれのケースも自見君を含めて誰にも話さない。出雲さんはその点徹底している。一人当たりの負担は大きくなるが・・・。決して背骨を折られるな」

 神宮司は強い目で龍を見詰めてきた。

「わかりました。しかし・・・潤を疑うのは」

「君が難しい立場に置かれるのは良くわかっている。だが出雲さんは君ならなんとかできると思っていらっしゃるようだ。僕も同じ意見だ」

 神宮司は龍の目を覗き込んだ。

「なんとか、やってみます。あまり期待しないでください」

「もちろん期待はする。だがサポートが必要ならなんでもこちらでする用意はある」

 神宮司は笑った。この人は・・・どうやら危機があればあるほど楽しめる性格らしい。その点では心強い。だがそれはそれとして龍には河合里美と澤村楓というもうワンセットの懸念がある。うまく持ちこたえて耐えることができるだろうか?自問した。当面は何とかなるだろう。それが答えだった。


 神宮司の部屋から戻った龍を潤が横目で見てきた。手は相も変わらず、ペンをくるくると回している。

「何だった?」

「榊さんが戻ってきた。その事でちょっと相談をされた」

「そうか・・・」

 ようやくペンを回す手を止めると、

「どんな相談だ?」

 潤は尋ねた。

「向こうの方で手が足りなくなるかもしれん、という話だ。誰かヘルプに出せないか、と榊さんが大阪から頼まれたらしい。だがあのことがある。手は貸せないと神宮司さんは思ったらしいが、それを榊さんには言えない。だから一応、相談を持ち掛けられた。澤村楓の事がある、無理だ、と答えた」

「ふうん」

 潤は気のなさそうに応じた。

「おれも偶には出張でもしたいよ。大阪は食い物がうまい」

「そうだな。でも、俺達にはやることがある」

 龍は平静を装って答えた。もし、今潤が大阪にでも行ったら、大変なことが起こる。

「うん、確かに」

 潤は頷いた。

「榊さんにも本当のことを言えない、となるとやっぱり面倒だな」

 うん、と返事はしたが潤よりも数倍こちらは大変だ。と龍は思わざるを得なかった。組織に疑われたバディと裏切り者を追わなければならない。背骨を折られるな、という神宮司の言葉が身に染みた。

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