第13話 20302年8月27日

 その日、ヒカルがオフィスを出たのは夜7時だった。前日から再度、ロンと共に栃木に行き、今度こそは首尾よく、先日逃した男を捕まえ、護送車に乗せてオフィスに到着したのが午後5時、それから男の確保に関する報告書・手続きを完了するのに二時間かかった。その他の業務は明日にしよう、とヒカルは思った。疲れ切っていた。ロンに告げると、ロンは一言、

「分かった、お疲れさん」

 とだけ答えた。

「ロンは・・・。この仕事をしていて疲れないの?」

 思わず口を衝いて出たヒカルの問いに、ロンはふっと唇を緩めた。

「俺は大丈夫だ。男だし・・・体力だけが取り柄だからな」


 帰る途中、通路で龍と潤とすれ違った。

「聞いたぞ、今度はうまくやったんだってな。大変だったな」

 と言って龍はにこりと笑ったが、潤はなんだか変な雰囲気のまま視線を合わせようとしてこなかった。

 通り過ぎていった二人の背中を振り向いてみると、

「なんかね」

 と小声で呟き、ヒカルは建物を出た。疲れていただけではなく、なぜかひどく孤独だった。

「あたし、なにをやっているんだろ」

 世間の女の子たちは不景気でもそれなりに着飾って、友達と食事をしたり、彼氏とデートをしたり楽しい時間を過ごしている時間だ。

 悪魔を捕まえて、疲れ切って家に帰り、シャワーを浴びただけで寝る、そんな生活が不意にひどく味気ないものに思えた。その時、

「三矢君」

 突然背中から声を掛けられ、ヒカルはどきっとして振り返った。今のなんだか惨めな思いを後ろ姿で見透かされしまったような気がした。

 立っていたのは、人見だった。相も変わらずスーツ姿がピシっと決まっている。40代後半、確か48歳だと聞いているが見た目は40になるかならないか。たぶんそれは引き締まった体形の御蔭なのだろう。

 煙たい感じの上司であるが、密かに女子たちの中にシンパがいると聞くのはもっともだ。結婚はしているのだろうか?興味がなかったので知らないが、いわゆるキャリア組は30代のうちに出世を掛けて結婚をするのが普通だから、この人にも奥さんがいるのだろう。それもかなり世話好きの・・・。糊の利いたシャツ、皺ひとつない灰色のスーツのボトムを見ながらヒカルはそう考えた。

「はい」

 ぶっきらぼうな答えと、問いかけるような視線を投げかけると、人見は苦笑した。

「どうも僕は君に嫌われているようだな・・・」

「そんなことはありません」

 ヒカルは即座に否定したが口調はきついままだった。

「そうか。和田君のことをあんな風に言ったからてっきり嫌われているかと思ったのだが」

 人見の言葉に、

「いえ」

 ヒカルは視線を落とした。ヒカルがどんなに思っていても龍の心は別にある。そんなヒカルを励ますように、

「今日は活躍したそうだな。亀田というあの男、だいぶ余罪がありそうだ。しっかりと叩いてみてくれ。腕の見せ所だ」

 と人見は告げた。

「ええ」

 ヒカルは言葉少なに答えた。その口調に棘はなかった。

「どうだ、これから食事でも・・・。いいイタリアンレストランを知っているのだが」

「あ・・・でも」

 疲れている、と言った方がいいのだろうか。この人の前では警官という立場が先に出てしまう。疲れているなんていったら根性なしだと思われそうだ。

「疲れてるんだろう。だが、たまには美味しいものを食べて英気を養わないと・・・」

 返ってきたのは労わるような声だった。その言葉にふと、家に帰ってもカップラーメンくらいしか食べるものはない、という事実を思い出す。

「ええ、じゃあ、少しくらいなら」

「そうか、ちょっと待ってくれ」

 そう言ってスマートフォンを優雅に取り出すと人見は電話を掛けた。

「うん、これから二人・・・連れて行くのはとびっきりの美女だ・・・。珍しいって・・・?失礼な奴だな。とにかくうまいものを選りすぐっておいてくれ。今オフィスを出たところだから十五分後くらいかな」

 電話を切ると人見は目敏く走って来たタクシーを片手を挙げて止めた。後部座席に乗ったヒカルが腰を浮かせて奥に行こうとすると、人見は

「そのままで、運転手さん向かい側のドアを開けて」

 と制して、反対側からタクシーに乗り込んできた。

「三宿まで行ってください。246で・・・」

 人見が告げると、分かりました、と言って運転手は車を出した。

「良く行かれる店なんですか?」

 フランクな口調で予約を取った人見の口調を思い乍ら、ヒカルが尋ねると、

「ん?ああ、彼は小学校の時の友人なんだ」

 人見は答えた。

「意外です」

 思わずヒカルがそう言うと、

「友達なんていない、と思われていたかな」

 と人見は苦笑した。

「そういうわけではないですけど」

 だが、正直言ってタクシーに乗るときの気遣いも小学生の時の友人がやっている店があることも意外だった。この人を・・・私は誤解していたのかもしれない。

「でも、私なんか誘って奥さんに怒られません?」

 ヒカルの言葉に、

「いや、僕は独身です。君には興味なかったかもしれないけど」

 と人見は自嘲するように言った。

「あ、すいません。キャリアの方は結婚が早いと聞いていたから、てっきりそう思い込んでいたんです」

 慌てて謝ったヒカルを見て人見は微かに笑った。

「いいんだ。ちょっと残念だけど」

 残念って・・・どういう事だろう?

「・・・私、人見さんのこと誤解していました。すいません」

「誤解?」

「何だかとっつきにくい人だなぁって・・・」

 ヒカルがそう言うと、

「まあ・・・仕事柄、しかたない。キャリアっていうのは隙を見せることができにくいものでね」

 人見は溜息を吐いた。

「でも・・・」

「警察組織のことをあなたは良く知っているでしょう?ドラマなんかでは茶化されるけど、警察官僚は負わされる責任と必死で戦っている」

「はい」

「だから偶には息抜きが必要なんです。これからお連れする店は息抜きのために良く行くんだ。もちろん、とても美味しいんだが」

 誘われた時に感じた気づまりは次第に解れていった。青山通りにタクシーを停め、裏路地に入ったところに店はあった。

「いらっしゃいませ」

 ドアを開けると女の声がした。するとすぐに奥から、

「よ、じゅんちゃん。久しぶり」

 という声がして、コック服を着たシェフがニコニコしながら現れると、

「まさかと思ったが、本当に美人さんと来たんだ」

 ヒカルに目を向け、びっくりしたような表情をした。

「20年来、初めてだな。女性と一緒なんて。それもこんな素敵な人となんて」

「変なことをばらすなよ。それに他の人と来た時はじゅんちゃんはやめてくれ」

 照れたように人見はその男を小突いた。

「何言ってんだよ。じゅんちゃんはいつでもじゅんちゃんだ。ちょっと待っていろよ。腕によりをかけた料理を準備しているからな。じゅんちゃんの遅い春にとっておきの・・・」

 言いながら厨房に入っていった男を確かめるようと、

「ごめんね、失礼な奴で」

 人見はヒカルに謝った。

「あ、いえ・・・。どちらかというと羨ましいです。あんな友達がいて。私も滅多に下の名前で呼ばれることなんてないから」

「三矢くんには?子供の頃からの友達っていないの?」

 ヒカルは何人かの顔を思い浮かべた。

「・・・時々会って、無駄話をするくらいの友達はいますけど」

「それは良かった。あいつは島本っていう悪友でね。子供の頃から口は悪いし、余計な事ばっかり言うし」

「女性と初めてって・・・ホントなんですか?」

 ヒカルは気になっていたことを尋ねた。

「オフィスの女の子には結構ファンがいますよ。もてているのかと思った」

「いや、それは本当だ。女性と食事をしたことがないと言えばウソだけど、ここは僕の休息の場所だからね」

「そんなところに・・・私なんかでいいんですか?」

「貴女が良ければ」

 いつのまにか、呼称が「三矢君」から貴女に変わっていた。

「さあて、じゅんちゃん。まずはとびっきりのワインからだ」

 シェフがグラスとワインをワゴンに載せて運んできた。

「赤か・・・。良いですか?」

 自見は尋ねてきた。

「ええ、私は何でも・・・」

 ヒカルは答えた。頷くと、

「とびっきりって・・・大丈夫かなぁ」

 人見がシェフに冗談めかして尋ねた。

「公務員の給料は君たちが思っているより安いんだぜ」

 シェフはにやりと笑った。

「女の子と一緒のお客さんは財布のひもが緩めになるからね。じゅんちゃんも偶には緩めるといいよ」

「分かった。じゃ、それで」

 うん、と嬉しそうに頷くとシェフは器用にワインのコルクを抜いて、そのコルクを軽く拭くと人見の前に置いた。

「ヴァレンティーニのモンテプルチアーノだよ。さ、どうぞ」

ライトのもと、美しい紫がワイングラスの中で輝いていた。

「サルーテ」

シェフが囁いた。テーブルの二人は互いに見交わし、グラスを挙げた。


「本当に美味しかったです」

 少し酔ったせいか、言葉が少しもつれた。

 パスタ、トリッパ、シュクルート。どれもとびきり美味しかった。

 ヒカルは目の前に置かれたエスプレッソコーヒーを取ると、酔いを醒ますために飲み干した。

「さあ、これが最後だよ」

 シェフが皿に載ったティラミスを持ってきた。少し形が歪だが、たっぷりのクリームが運んだ時の振動でまだ揺れている。たっぷりとかかったココアパウダーが消えかけていた食欲を誘った。

「おいしそう」

 今まで食べたことのあるお行儀のいいティラミスと全然違う。

「じゅんちゃんにはチーズ。甘いものが苦手だからね」

 二人でワインを二本開けたのに、人見は全然酔っている雰囲気はなかった。むしろ、飲むほどにどこか愁いを帯びた視線になるのが気になった。

「さ、どうぞ」

 勧められるままにティラミスをスプーンで掬い取って口に運ぶと芳醇な甘みが口の中で蕩けた。

「おいしい。今まで食べたのと全然違う」

 ヒカルがそう言うと、シェフが

「でしょう?」

 と自慢した。

「これはジェノバのお店で修業したものだからね」

「ほんとうにおいしい」

思わずスプーンがもう一回皿に伸びた。

「気に入ってくれたみたいで良かった」

 人見は皿からチーズを一つフォークで刺した。そして再び愁いのある視線で天井を眺めた。

「何かあったんですか?」

「うん?いや・・・」

「仕事のこと?」

「まあね。僕らにもそれなりに悩むことがあるんだ」

 とだけ言うと人見はチーズを口に運んでから、店の奥に声を掛けた。

「グラッパを貰えるかな」

「分かったよ、じゅんちゃん。今日はお酒が進むね」

 奥から声が返って来た。ヒカルが尋ねるような目を向けると、

「グラッパっていうのはね、ブドウで造った、そうだな、ブランデーみたいなものだけど、それほど精製してないんだ。ワインの搾りかすで作る。フランスではマルスって呼ぶらしいけど」

「へぇ、そうなんですか」

 出てきたのは、ほんの小さなグラスに注がれた無色の液体だった。

「どう、少し試してみる?」

人見の言葉にヒカルは答えた。

「じゃ、ちょっとだけ」

 唇にそっと触れただけでも、芳醇な香りが鼻腔に伝わった。

「もう一つ持ってきてよ」

 人見がシェフに頼むと、分かった、と声が返って来た。

「でも・・・私、こんなに飲みきれません」

 ヒカルがショットグラスを置くと、

「いや、君のグラスに僕が口をつけるのは申し訳ないから」

 人見はシェフが持ってきたもう一つのグラスを手に取ると、チンとテーブルの上にあったグラスに打ち付けて鳴らすと、一気に飲み干した。

「うん、美味いね」

 脇に立っていたシェフは、だろう?と頷いた。

「うちにある最高級品だからね」

「そうなんですか?」

 ヒカルは目の前にあるグラスを見た。液体は少しとろりと、時間を中に溶かしたかのように照明に揺れていた。

「じゃあ、私もいただこうかな」

「無理をしてはいけないよ」

 人見が言ったのが聞こえたが、ヒカルは思い切って目の前の液体を飲み干した。

「ブラボー」

 シェフが歓声をあげた。

「おいし・・・い」

 ふっと照明が明るくなったり暗くなったりした感覚があった。その耳に

「大丈夫?」

 人見の声が聞こえた。


 それからのヒカルの記憶はところどころ飛んでいる。味気ない生活や龍の愚痴を言っていたような記憶がある。だが店を出た時、

「もしも・・・良かったら僕と真剣に付き合わないか?」

 と言われたことは覚えている。

「和田君は君の言うとおりだと思う。君が悲しむのを僕は見ていられない。僕のしてあげる事には限りがあるし、僕は和田君にはなれないが・・・しかし君を幸せにしてあげることはできる」

「ありがとう・・・ございます」

 ヒカルは答えた。

 こんなデートを私は望んでいたのかもしれない。心は揺らいだ。人見さんは・・・良い人だ。そして人見の唇が覆い被さった時、ヒカルは抵抗しなかった。キスをした瞬間、体に衝撃が走った。何か・・・望んでいたものが突然訪れたような気がした。

「今日は・・・」

 必死の思いでヒカルは男の胸を押した。

「帰ります・・・ごめんなさい」

 そう言わないとどこまでも行ってしまいそうだった。人見は頷くとスマホを取り出しタクシーを二台呼んだ。



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