第10話 2030年8月25日

 この日は二度目の家族面接の日であった。

 母親である里美から提出された澤村楓のパソコン、スマートフォン及びメモ帳、ノートなどの一切の分析は、一週間の間にほぼ終わっていた。提出は任意ではなく法務省によって強制的に行われた。この年の初め、物的証拠、IT関連に関する科学捜査に関する権限は法務省に一元化されていた。そのその分析が完了したのである。

 新しい政府は警察自体を問題にしたり権限を縮小させることはないとしながらも、地方公安委員会の体制を問題視していた。民主警察を標榜するために警察の上部機関として作られた公安委員会のメンバーは最初のうちこそその目的に合致するようなメンバーが選ばれたが、いつの間にか目的と違う選考がされていた。結果として、公選で選ばれることのない公安委員会のメンバーは階級的にも思想的にも次第に偏りつつあった。

 国家公安委員会の委員を三年かけて置き換えた政府は次に地方公務委員会に手を付けることにした。だが直接公安委員会に手を触れることをせず、まず捜査機関の権限の変更を試みた。都道府県に分散されている警察の権限のうちIT、科学捜査に関連する機能を国家レベルに統一したのである。そのため幾つかの機関は麻薬捜査を行う厚生労働省や消費者を保護するための消費者庁、その他の違法行為を摘発すべき機関との連関を重視することを目的に法務省のもとに一元化されることになったのである。法律を「作る」ことだけに特化し、目立たないように業務を矮小化する傾向のあった法務省にとっても、大多数の警察官にとっても青天霹靂の事であったが、警察の一部の幹部が法務省に移ることによって成し遂げられた。

 本来権限が縮小することを嫌う官僚機構が敢えてそれを受け入れたばかりか、一部のものがそれを推進したのは公安委員会の体質に関して警察内部でも疑念があったからである。地方公安委員会や都道府県の警察の旧体制派は一致して反対を試みたが、時の政府は辛うじてそれを押し切った。出雲もそれに与した人間の一人であったが、その件では前面に押し出ることはなかった。

 加えて楓の学校での友人関係は、そのために編成された特殊班によって綿密に分析され関係の深いとされた人間は徹底的にマークされた。友人の数は少なく、教師を含めた関係者に怪しい点は今のところ見つかっていない。IT関係の分析も同様の結果であった。とりわけサイトの閲覧履歴、メール、SNSは綿密に調査されたがどれも特異な点はない。

 そう記されたファイルを横に置いて、龍は河合里美ともう一度向き合った。


「お母様の方で、何か娘さんの事で気付いたことはありませんか?特に高校に入って以降の事で・・・」

 龍の問いに、里美は何か言いたげに龍を見つめ返した。一度は男と女の関係になった相手から「お母様」「娘さん」という言葉をかけられた抵抗感があるようだった。それに気づいても龍は気付かぬふりで、里美に据えた真っ直ぐな視線を逸らさないまま見つめ返した。やがて里美はふっと視線を上げ、天井にあるカメラを見遣ると、仕方なさそうに頷いた。

 楓の口数が減り、外で過ごすことが多くなったのは高校に入ってからの事であったと里美はその前の面接で答えていた。龍はその点からまず再確認した。

「例えば、高校の友人関係、あるいはそれ以外の友人関係で以前と変わったこと、そのことでお母さんに何か相談があったとか・・・?」

 里美は考え込むようにして再びちらりと天井に視線を遣ると、

「いいえ、気付きませんでした」

 と答えた。

 龍はSNSやメールで連絡を取り合っている人物のリストを里美の前に置いた。

「この中でお母さんの知らない方はいますか?」

 里美はリストを置いたまま、目を動かした。

「ユミちゃん、健吾くん、花岡先生・・・」

 リストはリストはそう長くはなかった。楓はたくさんの友人を持っているわけではないようだ。

「この・・・Mというのは何ですか?」

 Mというのはたった一度だけ、楓にメールを送った人物だった。

「わかりません。心当たりはありませんか?」

 里美は首を振った。Mという名のメールは二年前に八王子の漫画喫茶から一度だけ送られたものだった。その漫画喫茶に担当者が行って防犯ビデオの有無を確認したが、予想通り二年前のビデオが残っている筈はなかった。

 メールにはただ一言、

「航海の時は来た」

 と書かれていた。意味が分からない。単なるいたずらとも思えた。だが、単なるいたずらメールならなぜ楓はそれをそのまま取っていたのだろう?それにその頃から楓の行動が変わっていったという母親の証言は無視できなかった。

 龍は、目の前に反対側に置かれたリストを眺めながら、

「楓さんはゲームは余りやらなかったんですね」

 と呟いた。彼女が唯一やっていたらしい携帯ゲームは「謎のダンジョン」という名のゲームだった。ただ、そのゲームへのログインは逆に二年前くらいで途絶えていた。龍も何度かやったことがあるゲームだ。初心者用のRPGとしてはやったことがある。確か今でもバージョンアップされてそこそこの人気がある筈だ。

「そうでもないと思いますけど」

 里美は頷いた。

「一時は夢中になっていました・・・。何とかのダンジョンっていうゲームを。最近はそれほどでもないけど」

 そう言うと、メロディーを口遊んだ。

「何ですか、それは?」

 龍は尋ねた。

「え?このゲームの音楽でしょう?」

 里美は首を傾げた。

「いや・・・。そうではないと思うけど」

「そうですか?里美が時折口遊んでいたから、尋ねたことがあるんですけど、ゲームをしながら歌っていたから。でもそういえばあの時、あの子肯定も否定もしなかったわ」

 龍はそのゲームの事を思い返した。昔、人気があると聞いて短い間だがやったことがある数少ないゲームの一つだった。だが、その音楽が使われていた記憶はなかった。そもそもそのゲームに相応しい音楽ではない重厚過ぎるメロディー。だが、誰でも一度は耳にしたことのある音楽だった。

 ワーグナーの「さまよえるオランダ人」序曲。悪魔に呪われたオランダ人船長が上陸を許されないまま海を彷徨うというオペラだ。

「その曲を聞いたのは二年前ですか?」

「いえ、最近もときおり口遊んでいたみたいだけど・・・」

 龍はもう一度、携帯のログを見直した。ゲームへのログインの記録は二年前で途絶えている。

「ですが、ゲームをやっていたのは二年前までみたいですが」

「あら?」

 里美は首を傾げた。

「良く携帯をいじっていたから・・・てっきりゲームをやっていると思って・・・。じゃあ別のゲームかしら」

「いや、他のゲームをやっていた記録はないですね」

「そう・・・。じゃあ誰かとSNSで連絡していたのかも。いずれにしてもただのゲームでしょ?」

 ちらりと龍の方を向くと里美は言い訳するように呟いた。

「確かに。でもあらゆることを検討する必要があるんです」

 龍の言葉に里美は仕方なさそうに頷いた。

「こうやってみると、あの子のことを全然知らないのね。わたし」

「どこの親でも似たり寄ったりです。でも、それは親の責任とばかりは言えない。あの年頃の子供は親に隠し事をするものです。そうやって自立するものなのですから」

「そう・・・かしら」

「どんな親でも子供を持つのは、初体験です。その上、子供は一様ではない。色々な手抜かりや過ちがあるものです。でも僕の知り合いは子供を育てるのは単純なことだと言いました。苦しんでいるときに抱いてあげることだと」

「そう・・・」

 里美は視線を落とした。

「あの子を最後に抱いてあげた時なんて、もう覚えていないわ」

「ごめんなさい。皮肉を言うつもりではなかったんです。それに彼女、楓さんの場合は特殊なケースですし」

 視線を書類に落としながら言外に慰めた龍を里美はじっと見つめていた。

「あなたが・・・続けていてくれたら」

 ぼそりとそう言った里美に顔を龍は顔を上げた。

「あなたに辞めていただいた時、あの子はほんとうに悲しんだの。あの子の人生に一番影響があったのかもしれない」

「・・・」

 龍は里美を黙って見返した。

「ならば・・・あの時の事情をもっと詳しく教えてもらえませんか?」


 最後に愛し合ったあの日。

 里美からSNSのメッセージが届いたのは車で家に送ってもらったあと暫くしてからだった。スマートフォンに表示された「里美」の名前を見て龍は怪訝に思った。電話番号もSNSのアドレスも交換し合ってはいたがそれまでは一度も使うことはなかった。

 一見、私信のやりとりのように思えるSNSは実はサーバーのデータを読んでいるだけである。誰もがそこにアクセスできる可能性がある。まるで携帯やスマートフォンのない時代の恋人たちのように別れる時に次の約束をしあい、それを守っていた。二人にとってそれ以上の優先事項はない、という証のような物だった。

 メッセージを怪訝そうな面持ちで開いてみると、そこには

「突然、ごめんなさい。楓の家庭教師を申し訳ないけどやめてください。その代わりと言っては何だけど、三か月分の家庭教師代はいつもの口座に振り込んでおきます 里美」

 と書かれていた。唐突な別れの宣告だった。何が起きたのか分からず、

「どういうことですか?会って説明してもらえないでしょうか?もし会えないならメールでも結構です」

 と龍は返信した。里美からのメールもその返信もそれだけでは二人の関係は分からない。それだけの分別は互いに保っていた。だが龍のメールに返事はなかった。

 里美は芸能界の人間だ。おそらく週刊誌の記者かなんかに二人でいるところを見られたのだろう。独身とはいえ、歳の差のある龍と付き合っているということが世間に知られれば何を書かれるか分かったものではない。龍は暫く様子を見ることにした。写真週刊誌や普通の週刊誌が発刊されるたびに書店で確認し、ネットの情報も目を皿のようにして探した。だがいつまで経っても、その情報が世間に出回ることはなかった。もしかして金を払って揉み消したのかもしれない、とも思った。里美に対する想いはすぐに断ち切ることはできなかった。悶々とした感情を抱えたまま半年が過ぎた。両親は心配し、龍に留学を勧めた。龍はその勧めに従った。カリフォルニアの地に降り立ったその瞬間、龍は確信した。自分はあの思いをここで断ち切ることができる。それほどにカリフォルニアの空気は清々しかった。

 カリフォルニアで思い切り青春を楽しんだ後、日本に帰ってきた龍は里美とのことなど忘れたかのように元の明るい青年に戻っていた。半年のビハインドをものともせずに勉学に熱中し、国家公務員試験を突破した龍は問題なく、希望の省庁に入庁したのである。

 里美とのことを忘れたかのようであったが、一方で彼の周りに女性の影はそれ以来なかった。


「あの時・・・」

 里美は龍の言葉に項垂れた。

「あの時、あなたに本当のことを言えなかったのは後悔している。でも、仕方なかったの」

「・・・」

 龍は黙ったまま里美を見詰めていた。そうする方が、里美が喋りやすいと思った。

「あの日、家に帰ったら封筒が届いていたの。普通の封筒ならもしかしたらお手伝いさんに見ておいてもらったのかもしれない。でも、ダイレクトメールでもない差出人も書いていない茶色の封筒。宛書も妙だった。定規を当ててかいたような文字。ほらよく、サスペンスドラマで出てくるような・・・」

 龍は頷いた。

「そこに、私とあなたが映っている写真が一枚。そして、『もし、娘に知られたくなかったら』という手紙だけが入っていたの」

「もし、娘に知られたくなかったら・・・?それだけですか」

 龍の問いに里美は頷いた。

「妙だな・・・。手を切れとか、お金を要求する文言はなかったのですね」

「ええ、、、。その時は脅迫がこれから始まるんだと思った。あなたには慌ててメールを送った。その時はもうこれ以上、脅しのネタになるような真似はできないと思ったの」

「なるほど、、、。それは正しい判断でしたね」

「そう?」

 まるで褒められたかのように里美は少し表情を和らげた。

「で・・・その後どうなったんです?」

「お金を要求されると思った。私はお金持ちではないけれど、それでも人よりはなんとかできる。お金を取られたとしても働いて取り戻せばいいと思った」

 龍は黙って里美の話を聞いていた。それは、誤っている。脅迫者はそれを狙っているのだ。とことん搾り上げて、相手が搾りかすになるまで脅迫者は脅迫をやめない。搾り方のスタイルは違っても、その一点だけは変わらない。

「でも・・・いつまで経っても続きはこなかった。半年が過ぎて、あなたに事情を打ち明けようと思った時、あなたはもう日本にはいなかった」

「なるほど・・・」

 呟いたが、龍は首を小さく傾げた。ならば、脅迫者の目的は何だったのだろう?単に自分と里美を引き離す事だったのだろうか?

「失礼な質問ですが、一つお聞きしたい。あの頃別の男性と付き合っていたということはありませんか?」

 里美はその言葉に傷つけられたような表情をした。

「もちろん、ないわ。あの頃はあなたとだけ・・・」

 言い差して口を噤む。

「では、あなたの方からではなく、そのころに誰か男の人からアプローチをされていたということは?」

「それは・・・」

 里美は口ごもった。里美は女優だ。歳は少し取っているが、今でも十分美しい。男が放っておくはずはない。

「でも、そんな陰険な事をする方はいらっしゃらないわ」

「そうですか・・・」

 確かに里美目当てならば、脅迫めいたメールの後に何かが起こりそうなものだ。でもそんな気配はなかったようだ。里美が嘘をついているようにも思えない。

「何が目的だったのでしょう?」

「分からない。でも・・・ずっと不安だったの。いつ何をされるか分からない、そう思って」

「でしょうね・・・」

 目の前の人が苦しんでいた時、自分は遥か海の向こうで青春を楽しんでいたんだ。それも・・・自分こそが被害者だと思って。

 苦い思いが龍の心を満たした。


「その頃から娘さんの様子が変わっていったのですか?」

「そう・・・。でもまさかあんなことをしているなんて・・・人様を傷つけるような子ではなかった」

「どう変わっていったのですか?」

「昔から大人しい子だったけど、あなたが家庭教師をしてくれていた頃はちょっと明るくなった。でも・・・あの後はもっと無口になったの」

「それだけ?」

「それだけじゃなかったのかもしれない。でも私には気付いてあげられなかった」

 そう言うと、里美の両眼から堪えきれないように大粒の涙が零れ落ちた。

「龍君、教えて。私はどうしたら良いの」

 龍はポケットからきちんと四つ折りに畳まれたハンカチを取り出すと、里美に渡した。

「涙を拭いてください。そのことはこれから一緒に考えましょう」

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