第9話 同日 夕刻
ベッドに倒れこむとヒカルは顔を埋め、深く息を吐いた。その息に少しアルコールの匂いが残っていてヒカルは顔を顰める。暫くしてから顔を上げると、食事の後で引き直した煽情的なピンクのルージュがベッドカバーに薄く残っていた。
あたし・・・なんで、ルージュを引き直したんだろう?
龍から飯でも食わないかと言われた時、もしかしたら、デートの誘い、とときめいた。お洒落をして、下着まで買い置きの高級なものをつけていったのだけど、でもたぶん、そうじゃないと心の底では思っていた。きっと、仕事でミスをしたのを心配してくれているんだ。でも、もしかしたら・・・。
その思いは、龍の
「澤村楓とのインタビューに同席したことがその原因じゃないか?」
という質問ではじけ飛んだ。私の事を思っていたら、あんな風には質問しないよなぁ。
別の女の子の話・・・それがミスの理由・・・?絶対に触れてほしくない話題だった。
溜息をつくと、ヒカルはベッドカバーについたルージュの跡をもう一度見た。それでも・・・もしかしたら、このあと、せめて慰めのキスくらいと思ってルージュを引き直したんだ。そんな自分が愛おしく、憐れに思えてヒカルはキスマークのついたベッドカバーを抱きしめた。
警官だとは思えないほど美しい肢体をもったヒカルは幾度となくモデルにならないかとスカウトを受けたことがある。どんな時代にも美しい女性には需要がある。いや、社会が不安定な時こそ、その需要は膨れ上がるのかもしれない。
だが、ヒカルは一度たりともその誘いを受けたことがない。
言い寄る男にも事欠かなかった。でも、ヒカルには恋愛に関する信念があった。自分が相手に選ばれるのではなく、自分が相手を選ぶ。
警官になったらそんな男の数は減るかと思っていたが、逆だった。警官は未だに男社会だ。女性もいるにはいるがヒカルほど目立つ女性は稀だった。男性警官は彼女をまるで視姦するように見た。いつか・・・機会があればこの女をものにしてやる。
現実に男女関係に陥る警察官の数も少なくはなかった。特に女性は複数の男性と交際するケースがあり、ヒカルも何度か噂を聞いたし、それで辞めさせられたという女性警官も知っていた。身持ちの悪い女性警官を男性がそれとしって共有するケースも少なくないと聞く。警官も人間だ。独身ならば性欲のはけ口は必要だが、一般の男性と違ってそういう場所に行けば世間から指弾される。あるいはそうした場所で暴力団に取り込まれてしまうことだってある。だから、割り切れば女性警官とそう言う関係になることがあっても仕方ないのかもしれない。だが往々にして女性経験の少ない男性が割り切って女性を共有するのは難しく、暴力沙汰を伴うトラブルに発展するケースも少なくない。昔は警官の上司がそういう事態を恐れて部下の結婚を急がせることもあったようだが、だんだんとそういう事は疎まれ少なくなっていった。確かに女性を性欲のはけ口に見てると捉えられかねない、そんな手法が廃れていくのは時代の流れだが、世の中には理念ではどうにもならないことがある。
だがそんな視線を同僚から浴びるのは苦痛だった。思い切って新しい組織に志願したのはそういう理由もあった。漸くその場所で、理想の男に巡り合ったのに・・・。
でも、私の答えは嘘じゃない。昔付き合った年上の女性、それに嫉妬したわけじゃないんだ。
でも、あの子、澤村楓・・・。彼女は龍を愛している、となぜか直感した。そして意識していないかもしれないけど・・・おそらく龍も彼女の事を・・・強く気に掛けている。いや惹かれているのかもしれない。ふとそんな感じがした。それがもしかしたら自分のミスに繋がったのかもしれない、とヒカルは思う。
悪魔の取りつかれた女の子に嫉妬するなんて・・・。バカバカしい。でもあの子はきれいだ。もし憑いた悪魔が取れたら、どうなるんだろ?
そして、もう一つ。それこそがヒカルが深く悩んでいる理由である。
龍による澤村楓の面接のあった翌日、ヒカルは密かに人見の部屋に呼びだされた。呼び出したのは人見自身である。退庁時間の一時間後に来てくれたまえ、と人見は言った。その時間になれば秘書は帰っている。
同じ警察組織に属するとはいえ、公安と刑事の間には高い壁がある。その上、人見は警視正である。刑事とはいえ、所轄の警部補である自分とは月とスッポンほどの違いがある。普通なら話をすることもない。
だがそうした壁は警察という組織の中にいてこそ厳然と存在するが、今自分たちが属している外部組織の中では「警察出身」という共通項になっている。少なくとも人見はそう考えているとまずは言った。雲の上の人間と話しているようで緊張しきっているヒカルに、まあ、リラックスしなさい、と瞳は優しく椅子を指した。
そして、
「君と和田君が澤村楓という対象をインタビューをしているビデオを見させて貰った。他の人間は大して問題にしていないようだが、対象者の親族それも母親と彼が親しい、いや男女関係にあったという事実は見過ごせない。もし、警察で被疑者の母親と刑事が性的関係にあったとして、その人間に捜査をさせるかね?」
と問うてきた。
「いえ、そのような関係があった場合、当然捜査から外すべきでしょう」
ヒカルは淀みなく答えた。そこまで深い関係になくとも、親戚であればもちろん、友人関係でも捜査から外されることはある。もちろん、趣旨は捜査に手心を加える恐れがあるからである。
「このケースでもその恐れはないかね?」
人見はヒカルに尋ねた。
「しかし、対象者は犯罪者という扱いではありませんし・・・」
ヒカルはそう答えたが、
「いや、通常ならすぐに施設に送るべきところを検査の名目で匿ったとも考えられないことはない」
と人見は鋭い口調で答えた。
「それは・・・」
ヒカルは言葉に詰まった。
「あるいは母親に頼まれたのかもしれない。いずれにしろ我々の基準では疑わしいと考えるべきだ」
「・・・」
確かに警察だったらこのような手続きは取らないだろう、だけど、
「では、本部長に上申されたらどうでしょう」
出雲も警察の出である。そういう問題があると考えるなら本部長に言うべきであって、下っ端の私に言っても仕方ないじゃない。
「もちろん、言った。だが、あの人は和田君に甘い、というか、彼を特別視し過ぎている」
苦々し気に人見は答えた。
「でも、彼には特別な能力があると聞いています。本部長はそれが、この問題を解決する鍵になると考えておられると」
「特別な能力については理解している。だが、組織として動くことを考えればそれをもって何でも許していいというわけにはいかない、それが組織というものだ」
そう言うと、人見はヒカルをじっと見た。
「まあ、君も彼に相応の興味を抱いているようだが・・・」
「そんなことはありません」
図星をさせれてヒカルは動揺した。
「まあ、いい。恋愛感情は仕事に持ち込むな。それが鉄則だ。だが、彼を助けるためにも君には協力してもらいたい」
「彼を助ける・・・?」
意外な言葉にヒカルは驚いた。
「そうだ。このままでは彼はいつか暴走しかねない。いや、いずれそうなるだろう。その時本部長は彼を見捨てざるを得なくなる。そんなことにならないように周りが気をつけなければならない」
「はい・・・」
どう考えていいのか分からなかった。確かに彼のやり方には危うさが見える。でも、それが問題解決への近道だという彼の言葉にも頷ける点がある。
「今日の所はそれだけだ。また連絡する」
「わかりました」
そう答えて人見のオフィスを辞した。その事があったのはつい一昨日の事で、ヒカルは人見がそう言ったという事を龍に告げるべきかどうか迷った。一度口にしかけたのだけど、それを口にすることで組織の中で対立が表面化するのではないか、と思い、ついに話しそびれてしまった。
「まあ、いいか。まだいくらでも話す機会はあるだろうし」
ヒカルはシーツについたルージュの跡を指でなぞった。明日、洗濯に出さないとなぁ、と考えていた。
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