第5話 (遡) 

 龍が「声」を聴いたのは児童養護施設でひとりきりでいた時だった。「声」という表現が正しいのかは分からない。それはむしろ思考、それも生の思考そのものだった。

 予告もなく、突然、脳の中に見たこともない人々の姿と共に流れ込んできた思考の奔流に龍は頭を両手で押さえ体を丸くして防御の姿勢をとった。だが、それが危険なものではないと感づくと目を開けた。瞠った目の先にあったのは現実であるはずの自分の部屋ではなく、ゆらゆらと宙を彷徨って大きくなったり小さくなったりする人々の姿だった。網膜に映った様々な大人たち・・・日本人もいるにはいたが、外国人が多かった。なぜ自分が知らない言語であるはずなのに彼らの話していることが分かるのかも不思議だったが、驚いたのはその話の内容だった。

 彼らは「悪魔」について真剣な口調で語っていた。悪魔、というのは龍も本で読み知っていたが、空想の存在だと思っていた。大人たちが「悪魔」についてまじめに語るなんて思いもよらないことであった。

 龍は気づかれないようにそっと彼らの会話に耳を傾けた・・・。


 それまでにも時折、龍には人には聞こえない音が聞こえることがあった。頭の中で何かが囁き始め、それは徐々に大きくなったり小さくなったりする。遊んでいるときに聞こえることもあったが辺りを見回しても他の子供たちには聞こえていないようだった。音に耳を傾けているときに、他の子に

「どうしたの」

 と尋ねられ、

「ううん、なんでもない」

 と答えたのはけ者にされるのが嫌だったからなのだろうか?だが龍は他の子供たちと心の底まで馴染むような性格ではなかった。たぶん、単に秘密にしたかっただけの事だと思う。もしかしたら自分が普通の子供ではないんではないか、と龍は物心がついた頃から思っていた。それを他の人に知られたくなかった。

 それでも一度だけそれを施設の職員に話したことがあった。その職員は龍が気を許すことのできるただ一人の女の職員で、頬に少し雀斑の浮いたぱっちりとした二重瞼の小柄な女性だった。龍は彼女といるとなんだか心が浮き立った。もしかしたらあれが初恋だったのかもしれない、と龍は時折甘酸っぱく思い出すことがある。


「今聴こえているの?」

 彼女は首を傾げた。

「うん」

 龍は頷いた。彼女は龍の手を取って耳を澄ませた。龍の心臓はどきどきと強く打った。彼女と二人で手を取って別の世界へ旅立とうとしている、そんな夢想さえした。だけど・・・、

「・・・」

 やがて再び首を傾げて、

「先生には聞こえないな」

 彼女は言った。

「そう?」

 龍は俯いた。なんだかひどくがっかりした。

「みんなには言わないでね」

 彼女は頷いた。だが、翌日龍は施設にやってくる医者に呼び出された。

「変な音が聞こえるんだって?」

 六十を過ぎている老人は、やぶ睨みの目で龍を見た。龍は答えなかった。ただ、その医者のごま塩頭を見詰めていた。

「どうなんだね」

 仕方なく、

「時々聞こえるけど、今は聞こえません」

 そう龍が答えると医者は黙って龍の脈を取り、それから幾つかの質問をした。

 今になって考えてみれば、彼女は龍が何かの病気にかかっているのではないかと心配して医者に相談したんだと思う。でも子供の自分は、約束を破られた、と考えた。

「特に異常はないようだな」

 その医者は色々と龍の診察をした結果、ぶっきらぼうにそう言った。

「これからも聞こえてくるようだったら、言いなさい」

 はい、と小さく答えて龍は医務室代わりの読書室を出た。廊下の先にあの女性職員が心配そうにこちらを見ている姿に気付いてはいたが、龍は素知らぬ顔で角を曲がり外へ出た。それっきり、龍はその音のことについて話すことはなかった。あの女性職員が尋ねても、黙って首を振るだけだった。


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