第4話 2030年8月9日

 あの女性ひとと・・・最後に会ったのはいつだったか?

 唐突の別れは会うこともなく一方的に電話で告げられたのだ。だから最後に会ったのは再会を約して別れた日だ。横浜港を一望するホテルで2人は別々にホテルの部屋を出たけれども、別れ際にサングラスを探す彼女を背後から抱きしめ熱烈な別れのキスをしたあの時、彼女はそれに躊躇いもなく応えてくれたんだった。だが、それから後、彼女と出会う事はなかった。時折、テレビのモニター画面に彼女が映ると、龍はすっと視線を逸らせた。でも画面を消すことはしなかった。

 いずれにしても・・・。龍は遠くへ視線を彷徨わせた。

 ずいぶんと昔のことだ。

 とはいえ、記憶の鮮明さはその出来事がほんの昨日のできごとだったようにも思わせた。彼女の体から立つ甘い匂い、てのひらで撫でた少し汗ばんだ肌の感覚が鮮やかに蘇る。

 彼女は龍にとって最初の女性だった。そして今のところ、唯一の女性だった。


 龍は、建物の一室でその女性が来るのを一人待っていた。会うのは5年ぶりだった。まさか、こんな形で会う事になるとは思ってもいなかったが、会うと決まってからはさすがに気もそぞろであった。


 悪魔憑きと認定された場合、その周辺へどう伝えるかについては明確な基準ができていた。普通の伝染病でさえ、罹患した患者の周辺が差別を受けるのは昔からだった。Covit19は、そうした人間の心理が大昔とさして変わらないという事を世界中につきつけた。そのため、新しい政府は伝染病が発生した場合の秘匿方法について研究を重ねた。伝染病の重度に合わせて対応は段階的に決められCovit19のレベルを2と定めることを基準とした。1は天然痘に類似する伝播力が強く、毒性の高いものに適用されることになった。

 悪魔憑きにレベル1が適用されることになったのは、伝染ルートが不明確で、罹患者が死ぬわけではないものの社会的影響が極めて高いと政治的に判断されたからである。

 上場企業と国公立及び指定の私立大学には各々の社長と学長のみに担当の省庁で編成されたチームが秘密裏に接触をして対応方法について詳細な説明がなされ、全てはそのルートで個人情報を管理することになった。そこには万が一、秘密が漏れた場合責任は全てそのルートに懸かるということが明示されている。その場合、役職は直ちに解かれ、禁固に処される。そのための法律改正は済んでいた。反社会的行為に関する、と曖昧な表現の規定はそのために付された。だが内規でそれを発動するケースは厳しく定められた。その法律が許容されたのは、政治の倫理に関する現在の内閣が、少なくともその点において信頼されたからであり、出雲はその法律の策定にも大きくかかわっていた。

 それ以外の団体に関しては事前の通知はされない。万が一そこで発生した場合はその対応にだけ緊急チームが編成され、その団体の責任者に通知する。中小企業、指定外の大学、高校以下の教育機関、それらにまで事前に通知すると関連情報が漏洩するリスクは格段に高まるので事前通知はせず、発生した場合にはかなり強硬な秘密保持が課せられる。万が一にでも漏れた場合には責任者が予告なく逮捕され、漏らした相手も同じ目に遭うことになる。監視の目はあらゆる形で張られることになった。実際に逮捕され、そのまま拘留されているものもいる。

 親族は両親あるいは子供以外には知らされることはない。こちらには罰則規定はない。万一それを自ら漏らした場合、自分や家族にも影響が及ぶことを考え合わせると秘密の漏洩は起こりにくく、また過剰な負担を強いることになるからであった。現実、親或いは子供が罹患した途端、住居を替え社会から逃げるように隠匿する家族も少なくなかった。

 併せて感染リスクがある友人、恋人、関係者がいた場合には周囲に少なくとも二週間の監視がつけられる。これは出雲が出身母体である警視庁の公安が担うことになっていた。

 万が一でも拿捕だほ時に周囲に知られた場合でも写真などが取られないように強力な電磁波で電子機器は制御され、コンタクトが認められた人間は同じような強力な措置が取られることになっていた。それを担うのは龍が所属している組織である。

 普通の感染症でさえ、感染者に対する激しい非難が起きるこの国では必要な措置である。それだけではない。発症が身近で起きればパニックが起こる。そのため秘密は厳重に守られた。


 既に彼女の学校には神宮司が行って、校長に説明をして協力を要請したはずだ。協力を要請と言えば聞こえはいいが、半分は恫喝どうかつに似たようなもので、おそらく校長は震えあがっているだろう。学校も暫くは監視下に置かれることになる。龍が待っているのは彼女の母親である。父親は不明である。母親は知っているのだろうが、その名を漏らすことはまずないだろう。

 龍は脚を組み替えた。その時、ドアの向こうから足音が聞こえた。

 河合里美、龍が大学一年生の時、家庭教師であった先の娘の母親、そして生涯で・・・初めて関係した女。


 ドアがためらいがちに開いて、俯いた女が入ってきた。背は高くない、だが、すらりとしたスタイルは以前のままだった。一緒にやってきた女性担当者が娘を捕獲した経緯などに関して概要を説明しているはずで、既にショックのあまり手にしたハンカチは濡れているのだろう。

「では、ここからは担当が変わります。お願いします」

 落ち着いた声でそう言うと女性担当者はドアを閉めた。

「お掛けください」

 龍の言葉にも女性は放心しているかのように俯いたままだった。

「里美さん、河合里美さん、お座りください」

 その言葉に女はふっと視線を上げた。声の響きに記憶が呼び戻されたような表情だった。眼が大きく見開かれた。

「龍君・・・?」

「おひさしぶりです、里美さん」

「なぜ・・・なぜあなたが?」

 龍はもう一度、テーブルと椅子を指でさした。

「里美さん、どうぞ」

 その声に操られたように女は前に進み出て、そして力なく椅子に腰を掛けた。

「龍君・・・」

 里美は呟いた。

「楓は・・・どこ?会わせてくれない?」

「今はまだ無理です」

 落ち着いた口調で龍は答えた。悪魔憑きの家族と会うのはこれが初めてではない。

「どうして・・・こんなことになっちゃったんだろう」

 河合里美はテーブルに肘をつき顔を埋めた。

「それを一緒に考えましょう。すべてはそれからです」

 龍の言葉に里美は顔を上げた。五年前と変わらなかった。涙で目は赤く腫れぼったく膨れ、化粧をしていない顔は映画やテレビで見るときのシャープさに欠けているが、龍が一番好きだった素顔の里美がそこに、五年前と殆ど変わらない姿で存在した。

「・・・でもどうして、あなたが?」

「これが・・・今の僕の仕事だからです」

 彼女の目をじっと見つめながら龍は答えた。


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