第7話 2030年8月15日

「それで、分析は進んでいるのか?」

 潤がペンを空中に放り投げ、器用に受け止めながら龍に尋ねた。

「ある程度はな。しかし個人情報の保護という問題がある。特に遺伝子情報は問題が多い。或る程度のレベルから先は許可されないことも考えなければならない」

 龍はファイルを見たままで答えた。

「こうなると強権国家の方が効率が良いな」

「効率という観点だけで決めちゃいけないものもある」

 龍は真面目な口調でそう言うとファイルを閉じた。

「しかし、遺伝子に本当に関係あるのか?遺伝っていうのは親から子にうつるものだろう?」

 潤がもう一度ペンを空中に投げる。

「確かにな。だが明らかに対象者に攻撃的なホルモンの分泌異常がみられる。どういうメカニズムかは分からないが、人工知能の分析では遺伝子改変の可能性が高いとみられている」

「ほんとかよ」

 受け止めたペンで指すと、潤はうさんくさそうな目で龍のファイルを眺めた。

「なんだか怪しげな話だな」

 潤の言葉に龍はふと呟いた。

「スイッチ・・・じゃないかな?」

「スイッチ?」

「ああ。ある条件下だと、本来なら出現しない筈の特徴が現れることはある。特に継続的なストレスに晒されるとそのスイッチが入って眠っている特定の遺伝子が活動を始めることは考えられないでもない」

「そんなことが起きるのかよ?」

 潤の問いに龍は、首を傾げた。

「分からないな。そもそもそれが正しいとしても何の条件がそれを引き起こしているのか、皆目見当がつかない。だがサバクトビバッタのように急激な相変異を起こすのは遺伝子がなんらかのスイッチで活動を始めるからだ」

「人間はバッタじゃないだろう。それにこれは群での相変異でもない」

 群の相変異とは同じ群の生物が一斉に変異することを意味する。だが、

「わからないぞ」

 龍が言うと、

「お前、本気か?」

 と潤が目を剥いた。

「これが群相変異だということになったら大変だぞ」

 それは人間が一斉に悪魔化することを意味する。

「しかし・・・大虐殺というのは歴史では何度も起こっている。人間は意志で行動していると思いがちだが、その背後に何があるか分からない。あの理性的なドイツ人だってユダヤを虐殺したんだ。もしかしたらあれも一種の相変異なのかもしれない」

「・・・」

 潤は目を泳がした。

「なら・・・そのスイッチってなんだ?」

「それが分かれば苦労はしない」

 龍は苦笑した。

「だが、あの子のことは良く知っている。母親もだ。そこから何かを見つける事ができるかもしれない」


 しかし肝心のあの子、即ち澤村楓の調査には手間取っていた。最初の日、生体検査を終えたばかりの澤村楓にインタビュールームと名付けられた、実質は檻にも似た部屋で会った時、澤村楓は龍を見て、一瞬、首を傾げた。

「せんせい・・・?」

 と尋ねた時の楓は幼い声で、まるで最初に会った時の少女のような表情だった。

「・・・」

 黙って頷いた龍に突然楓は襲い掛かろうとした。思いがけない素早い動きだった。

「てめえ、てめえのせいでこんなことになっちまったんだぞ。このくそやろう」

 拘禁服で彼女の動きは制されたが、罵詈雑言が止まることはなかった。

「あの色呆けババァとてめいのせいであたしの人生は滅茶苦茶になったんだ。どうしてくれる」

 端正な顔立ちゆえに罵詈雑言を吐き続ける楓の姿は壮絶なものであった。女性という事で立ち会ったヒカルも蒼白な顔で立ち上がったが、龍が手で制した。

「澤村楓さん、あなたの言っていることもわかります。確かに僕はあなたのお母さんと不適切な関係になったことがある」

 そう続けた龍の言葉にヒカルがはっと龍を見た。

「ですが、我々はそれだけが今のあなたを、あなたがあのような事件を引き起こすようになった人格を形成していると思ってはいない。他にも何か理由がある、そう考えています」

「何言ってやがる。てめえがあのババアと乳繰り合っていたせいで、あたしはこうなったんだよ」

 室内には三人しかいないが、この様子は録画されている。つまり、龍がこの女子高生の母親と性的関係を認めたことは少なくと録画を見る権限を有した上司たちには知られることになるのだ。だが龍は臆した様子もなく、淡々と話し続けた。

「それに関して否定はしない。だが、もっと重要なことがあるんだ。君は悪魔に憑りつかれている可能性がある。その原因を知り、君自身も治さなければならない。そのために僕はここにいる」

「悪魔はお前だろっ」

 そう言って横を向いた楓との面談はそれ以上進展しなかった。


 翌日から始めた母親との会話は龍が一人で対応した。ヒカルは捕縛の対象が見つかったという事で席を外した。だが録画が取られていることは変わらなかった。既に面会は二回行われているが決定的な事実はまだ出てきていない。

 面接が不首尾に終わったまま、その経過に関する資料を書いている龍を潤がつまらなそうに見つめていると、ドアが開いた。中にいた二人が目を一斉にドアに向けた。

入ってきたのはロンだった。

「よぉ」

 手を挙げて気さくな様子で入って来た男が、つい数日前澤村楓を捕まえた浮浪者だと見分けるのは難しい。ロンは意外と服装に気を使う男で、まるで貧乏な大学生のままのようなジーンズ姿の潤やめだたない地味なサラリーマンのような服装をしている龍と全く違う雰囲気を醸し出している。アメリカの西海岸の高級なビーチにいるカレッジの学生とでも言ったらよいのだろうか。だが、仕事の時には浮浪者のなりをしても全く気にしない。変わった男である。

「どうした?今日は狩りじゃねぇのか?」

 潤の言葉に、

「全くお前は・・・狩りっていうな」

 ロンは眉を顰めた。

「へいへい、言葉遣いの悪いのは昔からでしてね。みなさんお上品だから」

 潤は拗ねたように返した。

「どうしたんだ。ここに来るのは珍しいな」

 龍も別のファイルを広げながら尋ねた。ロンはヒカルと共に悪魔憑きと思われる人間を捕獲するのが仕事である。潤が狩りといったのはこの捕獲作業の事で、何日も前から周到に用意して捕獲する作業は実際に狩りに似ている。

「うん、ちょっとな・・・。この間ヒカルを呼んだだろう」

「ああ、面接に女性がいた方がいいと思ったからな。彼女を借りた」

「何か、その時あったか?」

「うん?」

 と言って龍は読み始めたファイルから眼を逸らし、ロンを見た。

「あれ以来ヒカルの様子がちょっと変だ。時折ボーっと考え事したりしている。そういう娘じゃないからな」

「いや、特に・・・思い当たらない。まあ、相手はかなり狂暴だったから、驚いたんじゃないか」

「そんなわけはない。相手が男であろうと女であろうと彼女が悪魔憑きに怯えたことなど一度もないからな」

「まあ・・・な」

 龍もそれは認めざるを得なかった。

「俺が考えているのはお前とのことだ」

 ロンはずばりと言った。

「俺とのこと?」

 怪訝そうな目で相手の顔を見た龍に、

「そうだ。あいつはお前に惚れているからな」

 とロンは続けた。

「まさか・・・」

 言いかけた龍を制するように潤が口を挟んだ。

「オレもその見立てに賛成だな。あいつ、オレといるときは男みたいだけどさ、龍がいるとちょいちょい、女を出してくる」

「そんなことはないだろう」

 ヒカルはさばさばした性格の女の子だった。仕事柄という事もあるが、男勝りを自認していて、ロンと捕獲チームを組んでからますますその傾向に磨きがかかっている。もともとは警視庁の巡査部長で所轄の刑事課に属していたのだが、華奢で可愛い見てくれに反して、剣道は五段、その上合気道の黒帯でもある。

「そんなことはある。現に昨日我々は宇都宮で捕獲に失敗した。初めてだ。それは彼女のミスだ。相手は男、彼女は囮の役だったが、捕獲前に逃げられた」

 ロンはそう静かに言った。

「・・・気付かなかった」

「お前は悪魔以外に何にも興味がないからなぁ。不幸なやつだよ」

 潤の軽口にも反応せずに龍は考え込んだ。あの時、澤村楓は龍と自分の母親が性的関係にあったことを口にした。まさか・・・その事で?あのビデオはロンたちが見ることはない。見ることができるのは上位にいるものたちだけで、必要に応じて限定的、あるいは非限定で公開される。だが、ヒカルはあの場にいた。そして龍はそのことを否定しなかった。

「覚えがあるようだな」

 ロンが溜息を吐いた。

「ない・・でもない」

「弱っている。もしもミスが続くようだと、彼女を変えなければならない。俺自身としては彼女を変えたくはない。いいパートナーだったからな。何とかならないか?」

 自衛官から引き抜かれたロンは物言いもストレートだった。

「考えさせてくれ」

 龍の慎重な言葉に、潤が、

「一回連れ出して寝ちゃえばいいんじゃねえの?いい女だし」

 と茶々を入れたがロンに睨みつけられて肩を竦めた。

「自衛官もそうだが警察官の女性もみな真面目で、女性であることに内心ひけめを持っている。それでいてなぜか女としては自衛官や警察官であることにもひけめを持っているのが多い。ヒカルがそうだとは言わないが、大切に扱ってくれ」

「できるかぎり・・・」

 そう言った龍を一瞥すると、ロンは黙って部屋を出て行った。

「モテる男はうらやましいねえ」

 潤は再びペンを手に取ると空中に放り投げ始めた。






















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