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 このところ起きると空が鉛色に沈んでいて気分が晴れなかったが、今朝はスモークを炊いたような白い雲に覆われ、激しく雨が降り注いでいた。風も強く、庭の木々が枝葉を騒々しく揺すらせ、電線が上下に揺れていた。夫は珈琲を啜りながら、テレビの天気予報に齧り付いていた。九州の南西部に到達した台風二十七号が、明日の午後から夕方にかけて関東上陸の可能性ありと、ヘルメットみたいな髪型の女性予報士が警戒を促していた。夫はゴム長靴を履いて出勤した。

 そろそろ洗濯物が溜まってきたが、この雨ではどうしようもなかった。午前中に家事全般で一番嫌いな水回りの掃除に費やすと他にやることがなくなって、録画の溜まった韓流ドラマを観ながら午後を過ごした。ドラマが二話目に突入したところで煎茶とおかきを食べていると、ふいにインターホンが鳴った。受話器を取ると返ってきたのが、向かいの金田かねださんの声だったので私は驚いた。私は金田さんの一家とは殆ど面識がなく、決して互いの家を行き来する間柄ではなかった。

「どうかされましたか?」

 怪訝に思った私が尋ねると、ジジジというノイズとともに金田さんの逡巡している気配がはっきり伝わってきた。

「あの、突然、不躾に訪ねてしまって本当に恐縮なんですけど、ちょっと、直接お伝えした方が良いと思うことがありまして」

 金田さんの畏まった口調からは、誠意しか感じられなかった。私は少々お待ち下さいと声をかけると、玄関の扉を開けた。

 玄関前に赤いカーディガンを纏った金田さんが立っていた。私は金田さんの顔色を見て肝を潰した。たった今途轍もなく良くない事態に遭遇した人のように、顔色は白を通り越して青みがかり、唇は紫になっていた。元々白髪で髪が灰色に見える年齢の人ではあったが、今の金田さんは一気に私の母ほどまで老けたように見えた。

「まあ、どうしたんですか?」

 思わず私が声を発すると、金田さんは声が出ないという風に小声で囁いた。

「ごめんなさい。今、酷い有様だって、自分でも分かってはいるんですけど」

 私は脇に退いて家に入るように促した。遠慮深くリビングの隅で立ち尽くす金田さんに、私は湯飲みとお椀の乗ったローテーブルに座るよう促した。力なくソファに腰を下ろした金田さんに私はお茶を勧めたが、金田さんは固辞した。私が金田さんの向かいに腰を下ろすと、金田さんが一つ咳払いをしてから口を開いた。

「突然お邪魔して、本当にごめんなさい。でも水木さんには、どうしてもお伝えした方が良いと思いまして」

 そこで金田さんは後が続かなくなった。

「そのお話って、きっと、良くないお話なんですよね?」

 私が金田さんの顔色を窺いながら尋ねると、項垂れたまま金田さんは頷いた。口を開きかけた金田さんの唇が頼りなげに震えた。

「買い物に行かなきゃいけなかったので、雨でしたけど、Tマートに行ってたんです」

 私は頷いた。場所も知っていた。近所のスーパーでは最安値に近いスーパーだが、家からは遠いので私は使っていなかった。Tマートは町田バイパスとも直結する車通りの激しい国道沿いにあって、私の家からだと国道を横断するのに長い信号待ちがあるのも、足が遠のく原因の一つだった。

「それでね、その帰りにね、見ちゃって」

 金田さんは、自分の口調が変わったことに気付く様子もなかった。金田さんの唇が中途に開きかけた形で停止し、たった今眼前でその光景が再現されているかのように、黒い瞳が虚ろに揺れた。私は瞬間的にその先は聞きたくないと思ったが、先を聞かずに済ませられる状況ではなかった。

「見たって、何をですか?」

 私が恐る恐る尋ねると、たどたどしい口調で金田さんが答えた。

「目の前で、人が轢かれて死んじゃうとこ。即死。脳味噌出てた」

 一瞬で空気が凍ってしまった。私が言葉を喪っていると、一時停止から再生ボタンを押したような唐突さで金田さんが口を開き、信号へ向かっていると、反対側の歩道で母親の手を突然振り切って車道に飛び出した小さな女の子が、ブレーキをかける暇もなかった白いワンボックスカーと母親の眼前で正面衝突して、投げ捨てられた人形のように高々と空を舞った一部始終を、途切れ途切れに私に語って聞かせた。

 周辺が混迷に陥る中、半狂乱で喚き続ける母親が、車道の端にうつ伏せに倒れた娘に縋り付いて、西瓜みたいに真っ二つに割れた頭から零れ出る真っ赤な肉片を、必死に中に押し込もうとしている光景を、金田さんは雨の中に立ち尽くしながら目撃したそうだ。言葉を継ごうとした金田さんの顔が、苦痛に苛まれた時のように一瞬くしゃくしゃに歪んだ。その表情をまた平静に戻すと、金田さんは言葉を継いだ。

「それでね、最悪なのがね、その亡くなった子、新山さんのところの」

 金田さんのその一言に、私は頭を鈍器で殴られたような衝撃を受けた。つい先日会ったばかりの、あの美人の新山さんが半狂乱で喚いて、娘の脳味噌を頭蓋に押し込もうとしている光景など、断じて私は想像したくなかった。

 私は立ち上がると、水の入ったグラスを二つ用意して戻った。私は金田さんにグラスを差し出すと、しばし無言で同様を抑えるのに集中した。水をほぼ飲み終えて多少自分を取り戻した金田さんは、手の甲で唇を拭って言った。

「本当にごめんなさい。こんな惨い話。それで、伝えた方がいいと思ったことなんですけど」

「まだ何かあるんですか?」

 ぎょっとした私が反射的に尋ねると、金田さんは申し訳なさそうに頷いた。

「これがただの気のせいだったら、本当にいいんですけど」

「何がですか?」

 私が尋ねると、逆に金田さんが尋ね返してきた。

「水木さん、お気付きですか? これ、だんだん近付いてるように私には思えるんですけど。もうお隣まで」

「あ」

 私は間抜けな声を発した。中学の全校集会の時にグランドで直立して校長の話を聞くうちに、頭からゆっくりと血の気が引いて後ろに倒れかけたことが一度だけあったが、今の私が感じたのはその時の状態に近く、視界が斜めに傾いで床に吸い寄せられそうになった。私が持ち堪えると、金田さんが息を詰めたようにこちらを凝視していた。私が立ち直った合図のつもりで頷くと、小声で金田さんが続けた。

「うちはお宅の真向かいなので、お宅の側の家の並びが真横に見えるんです。それで窓から通りを見ると、不幸のあった家が一軒ずつ右隣に移っていってるのに気付いて。あの、ほんとは、昨日大貫さん家に救急車が停まった時に、もしかしてって思って、新山さんにお知らせした方がいいって思ったんですけど、その時は気のせいかなって躊躇しちゃって」

 金田さんの言葉が途絶えた。私は金田さんを励ましたくて声をかけた。

「分かります」

「昨日、もし私が新山さんにお伝えできてたら、ひょっとして」

 金田さんはハンカチで目を覆うと、背を丸めてしまった。ややあって顔を上げた金田さんは、私の顔を見ながら申し訳なさそうに微笑んだ。目が真っ赤に充血した、弱々しいその笑みを見た途端、私の喉も詰まってしまった。私は鼻を啜って込み上がるものを押し殺すと、金田さんに尋ねた。

「金田さん、もし金田さんが今の私の立場だったら、この後どうされますか?」

「さあ」

 金田さんは困ったような顔をして首を傾げた。金田さんは私の為に真剣に悩みながら、言葉を継いでくれた。

「こんなこと、どう対処して良いのか。正直全然分かりません。私だったらですけど、多分、明日は家を出て、何処かで一泊すると思います。馬鹿馬鹿しい気もしますけど、やっぱり家にはいたくないと思うから」

 礼を述べた後に、真剣に考えますと私が言うと、金田さんは口元に笑みを浮かべて頷いてくれた。

 金田さんがお暇すると言うので私は玄関まで見送りながら、ローファーを履く金田さんに最後の質問を発した。

「こんなことを訊くのは、本当に差し出がましいんですけど、私にお話し戴いた後は、松井さんにもお話されるおつもりですか?」

 松井さんとは、十字路を挟んで私たち家の左隣にある家だった。金田さんは哀しげに首を横に振ると、私に会釈して玄関の扉を閉めた。

 金田さんが帰ってしばらくしてから私は外に出た。陽がだいぶ沈んだせいで、空を覆う雨雲が墨汁のように真っ黒く見えた。風が顔を嬲り、庇にいても細かい雨滴が頬に跳ねてきた。私は玄関の庇から上り坂の方角に目をやった。瓦屋根を覗かせた田中家から、大貫家、新山家と、徐々に私たちの家に向かって下ってくる家の並びを眺めるうちに、私は自然と両腕を組んで二の腕を擦っていた。

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