4

 楽なので夕食は筑前煮にした。私は普段、夫が真っ直ぐ帰宅すれば間に合う時間に夕食を取って今日は食事前に背広の膝下を濡らした夫が帰宅してきた。夫は寝間着に着替えて一階に降りてきた。額の後退が目立つのと、癖の強い髪が放射状に膨張しているので第一印象はかなりインパクトがあるが、顔付きも性格も地味で、お茶らけているのは髪型だけだった。

 夫とは真面目さの尺度が合わないと、私は常々感じてきた。夫は腹を割ってとか、ざっくばらんにという姿勢を好んだが、私は改まって話し合うこと自体に違和感があった。そうならないように日頃から話し合えば良いと思うのに、夫は何かの局面に達したと思うと、率直になどと切り出してきた。喋る段階を判断するのはたいてい夫の方だった。段階に達しないと思った時は考えを明かさず、率直にと言うその当人が普段は何を考えて生きているのか、私にはさっぱり分からないのだった。

 私は今後の身の施し方について、いつか夫が率直に話し合おうと切り出してくることを、私は密かに恐れていた。私たちが二人で住むには大きすぎる家を、それこそ全てをさらけ出すほど率直に話し合って購入に踏み切ったのは、将来は子供を持つ希望があったからだ。しかし互いにもう三十五を過ぎ、その予定が未だ有効と思うかどうかで、私と夫の認識に差が生じたと私は思っていた。今の私にはわざわざそれを掘り返すことが賢明とは思えなかった。

 そんなこともあって、私はなるべく一緒の時は夫と話すようにしていた。夫も話をすること自体は嫌いではないので、私たちは割合よく話す夫婦だと思う。私が久保さんから聞いた話を夫に伝えると、キッチンで筑前煮のお代わりをよそっていた夫が冗談めかした口調で、こういうことは続くからな、と言い出した。テーブルに着いた夫は、先週は会社で社員の家族の不幸が二度も続いたことを、冗談めかした口調で口にした。私はそういう悪乗りが好きではなかった。私が内心で面白くなく感じていると、夫はさらに調子付いてきた。

「きっと死は永遠の苦しみだから、死んだ人間はそれに耐えられなくて、身近な他の誰かを呼ぶんだよ」

 私に手招きでもしかねない夫の喜悦ぶりが、私の神経を逆撫でした。

「あれ? 普段は現実主義者って言ってたのに、実はそういうの、信じてたんだ?」

 私が露骨に当て擦ると夫がしおらしくなった。私も引かない性格なので、自身が引くことにしたのだろう。

「ごめん。ちょっと悪ノリしちゃったけど勿論信じてないし、単なる偶然に、勝手に繋がりを見出しただけだと思うよ」

「でも気分良くないよね。ご近所さんだし」

 私も態度を軟化させて呟くと、夫も同じく柔らかい口調で答えた。

「うん。良くないね」

 そんなやり取りで夕食を終えて二人でテレビを見ていると、バラエティ番組の嬌声に混じって遠くから甲高いサイレンの音が響いてきた。私と夫は顔を見合わせた。六丁目はメインの通りからは相当奥まった一角で、こんな場所までサイレンが聴こえることは滅多になかった。明らかにこの界隈を目指して、パトカーか救急車が入り込んできたということだった。サイレンはどんどん近付いてきて、ついにはテレビの音声を掻き消すほどの音量になった。タイヤが路面を踏み分ける音やブレーキの軋みまで聴こえた。家のすぐ傍で停車したらしかった。

 不審そうに目を細めた夫が、キッチンの嵌め殺しの窓から玄関前の路上を覗いた。私はシンクの辺りから、窓を覗く夫の背中を見ていた。窓一面にランプの赤い光が明滅して、その度に夫の背中がシルエットとなって窓に浮き上がった。

「救急車が見える」

 私を振り返って言った夫の顔も、黒い陰に覆われていた。

 キッチンの窓からだと救急車のバンパーが僅かに覗くだけで、何処に停まっているのかよく見えなかった。私と夫は外に出ると、玄関口の前で並んで路地を見渡した。雨が降りそぼる中、ランプを明滅させながら救急車が坂の上の大貫おおぬき家の門前で停車していた。大貫家は田中家の右隣りで、坂を一軒分こちら側に下った家だった。傘を差しているせいで誰かは判別しないが、近所の女性が一人、坂道の真ん中で様子を窺っていて、私たちの斜向かいにある鈴木すずき家の二階の窓に、人影が二つ並んで外を見下ろしていた。

 大貫家の玄関は開けっ放しになっていて、やがてヘルメットをした二人の救急隊員が、黄土色の毛布で覆われた担架を担いで現れた。取り乱して担架に取り縋っているのは大貫さんだった。大貫さんは人目も憚らず、大声で夫の名前を連呼していた。大貫さんのすぐ後ろを二十歳くらいの眼鏡をかけた長男が付いてきて、担架が載せられた救急車に一緒に乗った。救急車が再びサイレンを鳴らしながら坂道を下って右折していった。

 サイレンの残響が木霊する中、私と夫は無言で家に入った。私たちはたった今見た光景のことは口にせず、ソファでテレビを見て、日付が変わる前にそれぞれの寝室に引き上げた。私は今夜も眠れないと思ったが、仰臥して息苦しさを遣り過ごしているうちに眠りに落ち、寝過ぎて重くなった頭で翌朝を迎えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る