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 外は引き続き雨で、雨滴の重みに庭の躑躅つつじの枝葉がたわんでいた。空は灰色一色で、日が差す気配は全くなかった。頭が重く、滅多に思い出さない祖父の記憶を引き摺って気分が優れなかった。午前中は何もせずにテレビを見て過ごし、昼食もコンソメスープだけで済ませてしまった。子供のない専業主婦の恩恵を受けるのはこのように心身が優れない時で、他の時は家の内外でまあ色々とあった。

 ローテーブルに置きっ放しにしていたスマホをふと見ると、ようちゃんからラインのメッセージが入っていた。これから施設行くけど一緒にどうと書かれてあり、私は行くと返信した。

 施設とは小田急線の線路沿いにある、三階建てでガラス張りの市民交流施設のことで、広いフロア中に誰が使用しても良いテーブルが並んでいた。施設には予約制の個室も幾つかあった。元々私と瑶ちゃんはその個室を使ったピラティスやストレッチのサークルに入っていたが、そのうちサークルから足が遠のき、そこで知り合った何人かの主婦たちで単にテーブルを囲んで駄弁るだけになった。

 私たちがよく使う席は、フロア奥の円柱にくっ付いた勾玉みたいに湾曲したテーブルだったが、既に瑶ちゃん、久保くぼさん、私たちの右隣りに住む新山にいやまさんが座っていた。私がテーブルに座ると、久保さんがのど飴をくれた。私はタッパーに詰めておいた林檎の切り身を皆に振る舞った。私たちの間をお菓子や軽食が次々と飛び交って、それらを摘まんでわいわい喋っているうちに、二時間程度ならあっという間に過ぎてしまう。

 年齢が一つしか違わないので、私が一番仲が良いのは瑶ちゃんだった。愛嬌のあるあひる顔をして程良くいい加減な瑶ちゃんは、接していて一番疲れない人だと私は常々感じていた。今日の面子で一番年長の久保さんは、堂々とした肉付きで声の大きな女性で、特に笑い声が大きかった。皆の中で一番若く小顔美人なのが新山さんで、自分が喋るよりは真剣そうに話に耳を傾けている方が多かった。

 私たちの話は他愛のない世間話や噂ばかりで、今日は天候の話で持ち切りだった。昨日の天気雨が異様に思えたのは、私一人だけではないらしかった。私の気鬱の原因は天気雨以外にあったがその話をするのは憚られたので、昨日は雨の前に買い出しできて助かったと話すに留めた。

「水木さん、昨日、買い物何処行ったの?」

 尋ねてきたのは久保さんだった。私がコープと返事をすると久保さんがはっと息を呑み、私たちは久保さんの反応に驚いた。久保さんが更に尋ねてきた。

「買い物行った時間って、ひょっとして三時過ぎ?」

「ですけど。それが何か?」

 私が久保さんを窺うと、久保さんは素早く周囲を一瞥してからテーブルに身を乗り出し、差し障りのある話をする時のような小声で尋ねてきた。

「水木さん、ひょっとして、昨日駅前の駐輪場で倒れてた人見てない?」

「えっ、久保さんも?」

 驚いた私が訊き返すと、瑶ちゃんと新山さんが揃って身を乗り出してきたので、久保さんが手短に説明した。それが済むと、久保さんは再び喋り始めた。

「私ね、その時、ちょうど一階のコーユーで買い物してて、駐輪場に自転車停めてたの。自転車停めた時には何にもなかったけど、買い物終わって外出たら、もう駐輪場の脇に救急車が停まってて、周りに人だかりができてて」

 久保さんはみんなの反応を窺うように言葉を切った。瑶ちゃんも新山さんも固唾を飲んで、次の久保さんの言葉を待っていた。

「私ね、倒れてた人が、担架で運ばれるとこをね、ばっちり見ちゃった。もうほんと驚いちゃって。だって運ばれてったの、田中さんの奥さんだったのよ」

「うっそ」

 私は思わず大声を漏らした。田中さんの家は、私たちの家のすぐ近所だったからだ。坂の麓の私たちの家から、上り坂に沿った三軒先の家が田中家だった。私は田中家と大した接点はなかったが、それでも路上ですれ違えば奥さんとは雑談を交わす程度の間柄ではあった。田中さんの奥さんは私より数歳上に見える、からっとした気質の人で、決して接し辛い人ではなかった。

「大丈夫なのかなあ?」

 瑶ちゃんが誰にともなく呟いたが、その質問に反応する人はいなかった。私は何となく駄目だと感じていた。私は久保さんを窺ったが、私と同じことを考えているように見えた。通夜の席のように場が沈んだことを久保さんが詫びると、スマホに目を落としていた新山さんが、計ったような絶妙のタイミングで声を上げた。

「あ、美久みく迎えに行かなきゃ」

 美久ちゃんは母親に似て、大きな瞳をした西洋人形みたいに可憐な女の子で、三丁目の保育園に通っていた。新山さんが席を立ったのに乗じて、私たちもめいめい帰路に就いた。

 私が家に着く頃には、既に日が沈み始めていた。家の前の交差点から坂道を見上げると、すぐ右側に私たちの家があった。外壁がクリーム色で灰色の三角屋根の、大きい以外に特徴のない家だ。私たちの家の奥に、坂道に沿ってドミノのように重なり合う家屋が見えた。三軒先で瓦屋根と二階部を覗かせているのが田中家で、二階の窓から黄色い灯りが漏れていた。レースのカーテン越しに人影が過ったが、私はその人影から逃れるように家に入ると玄関の鍵を閉めた。

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