第29話 雪と血と(三)
クリストッフェション佑教は意味がわからなかった。なぜミーニングレスが現れたのか。そこから理解出来なかった。
汚らわしいソル派の走狗となったミーニングレスには関係のないことでは無いか。ラケルに施していたのは神聖なるモールン教の神事なのだから。何故、傭兵風情がそこに割り込んでくるのか?
しかし、そんな憂慮は後回しだ。今は何としてもミーニングレスの凶刃から逃れなければ。冬の神聖な寒さが身を引き締めてくれる。冬の優しさが熱くなった身体を冷ましてくれる。クリストッフェション佑教の思わず胸元の
つい先ほどまで、異端に触れた罪深い者を浄化していたのである。主神たるモールン神は許してくれるだろう。
今はただ、森の中を駆けてゆくしか無い。それに信仰厚いものに必ず救いの手は差しのばされる。生き残った二名の傭兵がクリストッフェション佑教に付き従っていた。いざとなれば――
積もった真っ白な雪を蹴散らしながら、クリストッフェション佑教は生き延びることが出来るであろう方向へと突き進んだ。その根拠はモールン神が自分を見捨てるはずが無いという自らの信仰心。進みやすい方向に進むことは即ち神の導きに従うことだからだ。
しかしそれが真実だったとしても、雪に埋もれる森の中を進むことが果たして“進み易き道”と言えるものであったか? それはもちろん――否である。
安易に身を隠そうとしたためにミーニングレスはさらに容易くクリストッフェション佑教に追いついてしまった――木の枝を伝い獣のように飛び跳ねることで。
音が近付く。匂いが近付く。陽光を反射する刀身の光が近付く。そして死が片方の傭兵の首筋に噛みついた。すでに長剣は折れてしまっている。刃も毀れすでに斬ることも能わないであろう。
だがしかし、それだけに傭兵に噛みついた剣はさらなる悲惨な運命をもたらした。たちまちの絶命を傭兵にもたらさなかったのである。頭上から襲いかかったミーニングレスは怒りのままに傭兵の首筋に折れた剣をねじ込んだ。膂力にまかせて力任せに。
だがそれはミーニングレスに徹底的な隙を生じさせた。もう一人の傭兵が抜き身のまま引きずっていた剣を振り上げる。ミーニングレスは首筋から血を吹き出し、のたうち回る傭兵に巻き込まれて躱すこともままならない。
傭兵が渾身の力を力を込めて振り下ろした剣がミーニングレスに吸い込まれ――ない。
(そんな馬鹿な――!)
その光景を見ていたクリストッフェション佑教は胸の内で絶叫した。その剣の一振りは必ずミーニングレスの命を奪ったはずなのだ。それが目前で繰り広げられるはずの光景。それをねじ曲げてしまうことが出来るのは――
(「ネイ」シリーズか! あの化け物達がこの男の正体!)
僭王オリヴェルを除くためにモールン教が作り出した人間兵器。異世界からヒトを呼び出し、互いに戦わせ超絶した加護を付与させた怪物達。共食いの最中、召喚者の心は壊れ、人形を操るようになると計算されていたが、その目論見は外れた。その理由は単純にヒトが壊れすぎてしまったためである。何が
クリストッフェション佑教はそう聞いていたはずだが……
ミーニングレスは当たるはずだった振り下ろされた剣。その剣を振るった傭兵の腕に絡みついた。同時に身体を反らし、傭兵の肘を挫くと同時に後頭部から地面に叩きつける。暴れ回る剣がミーニングレスの頬を切り裂くかに思えたが、傭兵の腕がさらにおかしな方向へとねじ曲がった。剣は弾け飛び次にミーニングレスの腕が絡みついたのは傭兵の首――そして同時に傭兵の首を挫く。
もちろん挫くだけでミーニングレスは済まそうとはしない。もつれて絡まっていた自らの下半身を抜くと、弾け飛んだ剣を拾い上げる。そして未だ呻き声を上げていた首筋を抉り取った傭兵の顔の中央に切っ先を差し込んだ。そのまま傭兵の感情を消し去るように顔面を切り刻む。次には首を挫かれた傭兵へと目標を変えて、二人いた事がわからなくなるまで、全てを肉片に変えてしまった。もちろん剣は再び折れ、ただ湯気を立てる血だけが、そこに「生」があったことの名残を残している
「お。お、おお、お主――は……」
クリストッフェション佑教はこう言いたかったに違いない。「ネイ」シリーズは感情が摩滅した人間兵器。それなのに今のミーニングレスからは明確な感情が伝わってくる。一体誰が細工を加えたのか? と。
その疑問は永久に疑問のままに終わる。最終的にクリストッフェション佑教は死んでしまうからだ。しかし、死までの道のりは長かった。何故ならミーニングレスの手にはもう武器が残っていなかったからである。
ただ憎しみに満ちた眼差しと拳がふくよかなクリストッフェション佑教の下腹にめり込んだ。血の混じった胃液が逆流する。膀胱も傷つき血の混じった尿が氾濫する。
――しかし絶命には至れない。
怒りに我を忘れたミーニングレスはクリストッフェション佑教に効果的にとどめを刺すことが出来ない。腕を掴み、ねじ切り、股を裂き、顎を砕く。眼球が飛び出し、だんだんと人間だった物体に姿を変えてゆくクリストッフェション佑教。
何時、慈悲深い「死」がクリストッフェション佑教に訪れたのかは、判然としない。ただミーニングレスの雄叫びが森の中にこだましていた。
その響きが木々を揺さぶり、積もっていた雪を落とし、モールン教の教えのままに全てを覆い隠そうとしていたのは必然か――それとも皮肉か。
ミーニングレスを叫びを耳にしたラケルは立ち上がっていた。裸身の上に
結われていた髪はぼさぼさ、その顔はたっぷりとした獣臭が染みついていたが、ラケルはそれに構わず眼鏡を掛けていた。その徹底的な証拠を確認するために。
証拠――
それはラケルの足の間から零れた血。それらが足下の雪の上にたれる。
全てを覆い隠すと教義に謳われたモールン教が奉る神聖な雪。
嘘だ。
雪は覆い隠したりはしない。むしろ自分が多くの男達によって穢されたことを顕著に示しているでは無いか。モールン教の教えは全て間違っていたのだ。それがはっきりした。
では、ソル派が正しかったのか?
ラケルはそう考えなかった。だがソル神は利用出来ると考えた。自分を穢したモールン神を逆に穢すという目標に利用出来ると考えた。ラケルの脳漿が沸き立ち、豊かと呼ばれたその学識をねじ曲げ、ただひたすらにモールン神を陵辱した。
そうせざるを得なかった。そうすることしか出来ないと理解することも出来ないまま、ラケルはモールン神を教義をバラバラに切り刻んだ。
そして、その結果を周知させることでモールン神を葬り去ることを決意したのである。それがラケルが生を欲した理由。
――こうしてソル派にミーニングレス以上の“剣”が誕生した。
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