第28話 雪と血と(二)

 クリストッフェション佑教。

 それはトーデンダル佑教貴の右腕だった「男」の名前。背の小さい、丸い身体の。人好きのする笑みと、赤い頬を輝かせた穏やかな人柄。ラケルも随分良くして貰った覚えがある。それこそ子供の頃から。家族同様に。

 だからこそ、それは親切であったに違いない。クリストッフェション佑教は異端に触れてしまったラケルを浄化するために、まず彼女を裸にした。眼鏡も取り上げた。穢れていないか確認するために。そして手でしっかりとラケルの反応を確認した上で“仕上げ”を行った。大きく曲がった角を図案化した聖印シンボルを胸元で揺らしながら。


 ――いたい。


 聖商ダールストレーム。

 ラケルが世話になったと言えば、この人物の方がクリストッフェション佑教を上回るだろう。ラケルが欲しがった書籍を手に入れてくれたのは、余さずこの聖商の手配によるものであるのだから。もちろん書籍だけでは無い。美味なる食事、ワイン、身のまわりにある数々の品物。それにドレス。それらもこの男の手配による物だ。

 この男は妻帯しており、その睦まじさにラケルはかすかな憧憬を抱いていた。自らの将来像として、想像の中だけとは言えこの「男」の側に身を置いたこともある。品良く整えられた口髭を持つ、金髪碧眼の紳士。出自は貴族であるのかも知れない。

 だからこそ、この男は形式にこだわったのだろう。裸のラケルに縄をたのである。そしてラケルの動きを封じて自らの意思が完全に優先される状態になることを喜んだ――まるで最高位の貴族のように。

 それでも慈悲深くラケルの穢れを丹念に浄化した。何度も……何度も。自分はこれほどに汚れてしまっていたのか。ラケルは絶望した。本当に自分は浄化されるのであろうか? と。ダールストレームの聖印に思わず救いを求めるラケル。


 ――いたいいたいいたい。


 多くの「男」達が浄化に参加してくれた。もう指先も動かせない。瞬きも出来ないラケルを慮ってのことか話しかける様なことも無かった。入れ替わり立ち替わりラケルの浄化具合を確認していった。ラケルとは違って良く動く指先と舌先で。

 ラケルは「それ」を受け入れていた。他にやりようが無かった。一体何をすれば良いのか。何をすれば浄化が終わるのか。


 ――いたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたい。


 ラケルの身体が乱雑に起こされる。そのラケルの視界に現れたのは、カクニスタから連れだしてくれた、あどけなさの残る護衛の少年。その少年が頬を上気させ、ラケルの浄化に勤しんでいた。眼鏡を掛けていないとは言え見誤るような距離では無い。少年の顔はラケルの目の前にあるのだから。すでに濡れそぼった縄はラケルの身体を覆ってはいない。だからこそ少年は必死になってラケルの肢体に組み付いていた。

「これは浄化ですから! 僕は正しい行いをしています! ラケル様も正しい信仰に戻られますよう!」

 ……ああ、そうか。少年の正しい信仰を援助出来るなら、きっとそれは「浄化」に違いない。森の中の開けた場所に広げられた天幕の中。クリストッフェション佑教をはじめとした優しい「男」達が笑顔で私を見守ってくれている中で、私は正しい行いをしている。なんて光栄な事なのだろう。


 ――いたいいたい――


「何だ?」

「順番が待ちきれない物が騒いでいるのでしょう。私が――」


 ラケルの良き行いは中断され、誰かの言葉も中断された。天幕内を照らすカンテラの光を照り返す長剣の輝きによって。天幕の外から差し込まれた切っ先が、仕事を引き受けようとしていた男の舌を貫いていた。その剣先はさらに喉の奥に差し込まれる。血が男の口内に溢れ溢れていく。その血は無論、男の喉にも流れ込み男は己の血で溺死した。

 しかし、その剣は

 ただ真っ直ぐに突き出され、天幕を引き裂き、すでに血の褐色に全身を染めたミーニングレスを出現させた。同じように血に濡れたつば広帽子。そのつばの先から零れる血のように朱い瞳が男を見据えている。

 激怒していた――そう察せざる得ないほどミーニングレスの朱い瞳が天幕内に殺意を振りまいていた。そしてそれを証明するかのように長剣がすでに命を失った男の身体を微塵に切り裂く。人の形である事すら許さぬと言わんばかりに。

 肉と骨と剣とがぶつかり合って軋んだ音を奏でる。ミーニングレスはそれ一向に構わず血振りすら行わずラケルに――つまりラケルにしがみついていた少年へと近づき脳天から肛門まで背骨に沿って串刺しにした。絶命。それでいて当たり前に少年は、その姿勢を維持させられている。ミーニングレスは刺さったままの剣で引きずって少年の身体をずらした後、その背骨を踏み砕くようにして少年の身体を引き千切った。

 むせ返るような血と、それから血以外の色々な液体から立ち上る臭いと白い湯気。一番脆かった首が捻れて身体から外れて落ちた。落ちて割れた頭蓋骨から脳漿が溢れる。その少年の首をミーニングレスはさらに蹴飛ばす。同時にミーニングレスは改めて赤く染まった身体を翻した。怒りで朱く染まった瞳をさらに輝かせて。

 ――ミーニングレスは激怒していた。


 そのあとに起こったことは、ただ殺戮。「男」達――モールン教に携わる者達はその天幕の中では、ほぼ全員が全裸に等しい出で立ちだったのである。防具で身を固めていてさえミーニングレスの剣から身を守ることは困難を極めていたのだ。

 男達は無様な悲鳴を上げながら逃げ惑うことしか出来なかった。そして、それ以上にミーニングレスは執拗だった。命を奪ったあとに、人間であったという過去まで消去するように、ことごとくを切り刻んでゆく。

 それは家畜――いや死んだ後にも使い道があるだけ家畜の方が上等な生き物であったのかも知れない。ミーニングレスの手によって乱雑に解体された男達は、あらゆる“意味”を喪失していた。

 そんな中であっても、動くことが出来なかったラケルの裸身に何処からか調達してきた長衣サーコートが被せられている事に、ある意味では不条理さを感じてしまう。頭の横には眼鏡も置かれていた。そんな状況であるのに最終的に天幕はバラバラに解体されてしまっている。

 ラケルを気遣いながらも、自らの内に秘めた破壊衝動がどうしても制御できない。ミーニングレスの怒りは圧倒的に本物だった。

 そしてミーニングレスの怒りに触れた時。


 ――ラケルの“いたみ”が別な“いたみ”への変化を始めていた。

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