第24話 悪名(二)

 ラケル・トーデンダル。

 モールン教で一大派閥を惹いていたトーデンダル佑教貴の息女。彼女の履歴としてはそれだけで十分だったはずだ。シェハンダという大都市で、その豊かさだけを受け取りながら、ただただ優しい環境に恵まれて育ってきた。彼女本人はその環境に安穏とせず学識豊かな才女として名を知られるまでになっていたが――あるいは彼女という有力な後継者の存在が非トーデンダル派閥に非常手段を執らせたのか。

 結果としてトーデンダル佑教貴は暗殺された。そして異端と言われたソル派と誼を通じていたと後付けされ、その娘も追放された。ソル派である事を隠しもしなかったファイン・カールシュタインと共に。もちろん、そうやって形を整えて後は闇に葬られる。

 それがラケルの運命であったはずなのだ。しかし、その運命は覆された。


 今やソル派の本拠地とも目される港湾都市カクニスタ。そんな都市に住むことになるとはラケルは想像したことも無かった。そのせいか彼女の目に映る風景すべてが、彼女にはぼんやりと感じられてしまう。高級品である眼鏡を掛けていることは関係なのであろう。

 カクニスタに匿われてから、お仕着せとは言えアイボリーを基調としたドレスを身につけることが出来た。逃亡生活の間に乱れきった長いブルネットの髪も今は丹念にくしけずられてシェハンダで暮らしていた時と同じように二つ括りの三つ編みに結われている。それでもラケルが自分の身の上に違和感を感じ続けているのは、やはり周囲にいる者達がソル派である事が大きいのだろう。

 ラケルは今も胸元に大きく曲がった角を図案化したモールン教の聖印シンボルを掲げている。そしてそれを咎められたことは無い。だがしかし、周囲の人間達はそのシンボルを奇妙な物でも見るような目つきで見るのだ。

 まるでラケル自身が奇妙であると言わんばかりに。つまりはカクニスタに“在る”限りラケルに平穏は訪れない。

 しかし、そんな中でもラケルが唯一、心を休ませる事が出来る視線があった。逃亡生活の間に迎えに来た恐るべき男と、そのパートナー……フーハ。

 その琥珀色の眼差しだけには色がついていなかった。だからこそラケルはその琥珀色に縋った。彼女の眼差しを感じることが出来るのなら、ラケルは少なくとも自分が奇妙であるという想いに囚われることは無いのであるから。

 彼女との間に多く言葉を交わしたわけでは無い。しかしそれでもフーハはラケルと外部との接触を促した。何時までも籠もりきりでは、もはやどうにもならない。

 そんな思惑がフーハにあったのかは不明だが、このままの状態ではフーハに負担が掛かりすぎることは明らかだった。そしてそれをカクニスタの参事会は危険な兆候と受け取った。

 フーハに限界が訪れれば、それは同時にミーニングレスの造反を招く事になりかねないのである。今の段階ではそれを座視することは到底出来ない。

 では、どのように対処すべきか? フーハに付き添って貰うことは当然として、どのようにラケルの目を外に向けさせるか。それが問題であった。

 即座に思いつくのはエーファに出向いて貰うことだ。しかし彼女はソル派なのである。そしてそれを隠そうともしないし……隠すようでは問題がある。

 ミーニングレスについては論外。となれば結局は参事会の構成員の中でも、物腰の柔らかい人間が出向くしかない。――つまりはシェルストレームの出番だ。


「まずは会ってくれた事に感謝を。トーデンダル女史」

 ミーニングレスのために用意したはずの屋敷に赴いたシェルストレームとしては、そうやって話しかけるしか方法が無かったのであろう。髭に表情を隠したまま、それでも薄茶色の瞳に浮かぶ感情は――やはり戸惑いと呼ぶべきものだった。

 実際、カクニスタが彼女を匿ったのは成り行き以上の理由は見いだせない。それでも理由を探すのならソル派としての矜持。空に輝く太陽のように、あまねく救済こそがソル派にとって中心となる教義なのであるから。

 不意に父親を喪い慣れぬ環境で自分自身をも見失いそうなラケルに向けられるシェルストレームの胸の内はやはり同情と言うべき心境であったのだろう。しかし、それは同時にモールン教の旧派である彼女にとって自分が接する事が負担になるのではないか? そんな危惧がシェルストレームにはあったのである。

「…………いえ」

 それでも辛うじてラケルの声が返ってきた。ソファに浅く腰掛け今にも逃げ出しそうな態勢でありながら、それでも留まり続けているのは傍らに腰掛けるフーハの力が大きいのだろう。

 シェルストレームもラケルを刺激しないように、無理に近付いたりはしない。何のための部屋なのかはシェルストレームにはわからなかったが、さほど広い部屋では無い。これが、そもそもラケルにあてがわれた部屋――いやその場合なら自分が入室することをラケルは許さないであろう。ため息をつきながらシェルストレームは、そう推測した。

「トーデンダル女史。我々に何かお手伝いできることはありませんか? 無理なこともありますが最大限便宜を図りたいと我々は考えております」

 もはや時候の挨拶すらラケルには負担となると考えたシェルストレームは本題を切り出した。つまり「自分たちに敵対するつもりは無い」と伝えること。それをラケルが理解してくれればフーハの負担は減り、必然ミーニングレス絡みの危険は遠ざかってゆく。

「あ、あの……」

 そんなシェルストレームの想いが通じたのかラケルから声が発せられた。しかし、その内容は――

「ち、父は……?」

 おおよそ最悪に近い問いかけだった。その問い掛けにどう答えるとしても、それは彼女にとっては絶望を謳うことと同義である。それぐらいの状況はもう整理してくれているとシェルストレーム達は考えていたのだ。

 しかしラケルはそんな仮定よりもずっと手前で立ち止まったままであったのだ。その問い掛けに対して、本当に希望に満ちた答えが返ってくると彼女が考えているなら、もはや処置無しであるし、状況を理解した上でそれを心が拒否しているのであれば――

「――残念ながらトーデンダル佑教貴はお亡くなりになったと考えるべきでしょう。シェハンダからの情報がそれを示しています」

 投げやりになったようにシェルストレームはそう告げた。結局、他にやりようが無い。ここで嘘を付いても……さらに「父に会わせてくれ」という要求が出てきてしまえば、さらに無慈悲な宣告を行うしか無い。

 それに耐えられるとは思えなかった。ラケルも。そしてシェルストレーム自身も。

「本、とかはないの? この都市まちの事がわかるような」

 フーハがそんな二人に助け船を出すように、幾分かは建設的な提案を行った。シェルストレームがその提案に大きく頷いた。

「そうですね。学識豊かで知られるトーデンダル女史のこと。きっと興味を惹かれる書物が見つかることでしょう。何冊か見繕って明日にでも届けさせますよ」

「……そう……ですか。わかりました」

 ラケルも戸惑いながら、その提案を受け入れた。

 そう。彼女は戸惑い続けていたのだ。シェルストレームとは比較にならない程に。

何故ならソル派は異端。悪名高い無知蒙昧な輩。それなのに――


 ――それなのにソル派はこんなに優しく自分に接してくれるのか?


 と。

 そして、それを理解してしまえばラケルの世界は崩れてしまう。その予感が彼女を戸惑わせていた。 

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