第15話 逃亡者(二)
すでに雇っていた傭兵達の姿は無い。あっという間に逃げ出してしまったようだ。丁寧に宣言して逃げ出す傭兵などいない。いつの間にか――そういつの間にか、ノルドマン佑教は天幕の中で一人きりになっていた。
ファイン・カールシュタインとトーデンダルの息女の心を折るための包囲。それを指揮するノルドマン佑教は、普段の敬虔な祈りを捧げるための環境が整えられた天幕の中で、落ち着き無くウロウロしている。
禿頭で綺麗に手入れされた口髭を蓄えた彼は、その額に脂汗を浮かべていた。何しろ、全てが逆になってしまったからだ。
ファイン・カールシュタインへカクニスタから救援が差し向けられる可能性は当然想定の範囲内だ。そしてその手段とは、その身を隠して包囲網を突破する。それしか無いとノルドマン佑教は考えていた。
そしてその考えの正しさを証明するかのように、今まで現れたカクニスタに雇われた傭兵達は問題無く処理することが出来た。何しろ資金力が違う。つまりは動かせる兵力が違うのである。
だが今度カクニスタが送り込んできた傭兵は勝手が違いすぎた。隠密行動など全く行わずに、逆にこちらが雇った傭兵を丁寧に排除していった。離宮に向かうこともせずに徹底的に、こちらの傭兵を真っ先に殺して回っていた。畏れ多いことに練教に対してさえも。
そういった情報が設置された天幕に集められるに至ってノルドマン佑教も悟らざるをえなかった。自分たちがどれほど不利であるのかを。何しろファイン・カールシュタイン達に隠密行動をとらせないためには、せっかく集めた戦力をバラバラに配置するしか無いのだから。
そうしてバラバラになったこちらを、新たに派遣されたカクニスタからの使いは各個撃破していった。まるで狩りでもするかのように。今までは間違いなく、こちらが狩りを行っていたはず――
ノルドマン佑教の思考はその瞬間途切れた。天幕の布越しに長剣が、その延髄を突き刺していたからだ。剣がかえる。後頭部が裂かれ血飛沫が天幕を紅に染めた。
こうしてミーニングレスはノルドマン佑教を始末した。そして、それで一端はケリが付いたと考えることにした。あとは離宮周りの傭兵、それにモールン教の関係者を始末すればカクニスタまでの行程で邪魔されることは無い。元々、大した距離では無いのだから。
「行こうか」
やはり血に染まり始めたミーニングレスに向けて、カルバスに横乗りしたフーハが話しかける。そのスタイルがメイド服にも似たスカート姿ではそれがもっとも適したスタイルである事は言うまでも無い。さらには手綱を持って、もう一頭を御していた。カルバスの訓練は元よりフーハの力量もかなりのものだ。
ミーニングレスは小さく頷き、フーハの乗るカルバスの後ろへと身を翻した。とりあえず時間は稼いだ。しかし余裕があるわけでは無い。モールン教を相手にすると言うことは、それは“自分以外全て”と事を構えるに等しい行為なのだから。
ヴァールン離宮とは、元は砦だったに違いない。この辺りは基本的に湿地帯なのだ。そこで地盤がしっかりしている場所に砦を築きたいと考えるのは必然的な欲求であるとも言える。だが当たり前に、建造は難事を極めた。
ある程度形になったところで急襲される。そうやって持ち主が変わり、同時に建造を引き継いだところでまた急襲される。この繰り返しであった。やがてモールン教が秩序をもたらすことになるのだが、そうなってしまうとこの砦の戦略的価値は激減する。結果として半端に積み上がった石組みと、どうにか格好だけを整えた居住スペース。それがヴァールン離宮の全貌であった。
そんな孤島のような僻地――それも飛び地――をあてがわれたカールシュタイン夏領家。最低ランクである弱小貴族の一家として、相応しい扱いとも言えるが権威である事に間違いは無い。モールン教が手をこまねいてしまうだけの歴史的根拠は確かにあった。
もちろん、モールン教がしびれを切らせば強引に事を進めることになったのであろう。しかし、ファイン・カールシュタインを囮にしてカクニスタを牽制する。そんな狙いがモールン教にはあったようだ。こうなってしまえば、その判断の迂闊さが浮き彫りになるわけだが……
そして、そんな砦にミーニングレス達は到着した。
居住出来るとはいっても、せいぜいが雨露が凌げるぐらいのもの。石壁では寒さすら防ぐことも出来ない。そのためのタペストリーであり、床に関しては絨毯があるのであるから。しかし、それらはもう燃やされてしまっていた。何しろ薪を集める事すら出来なかったのだから。
それはつまり、使用人すら逃げ出したということである。食事を用意することも出来なかった。干し肉を囓り、乾いたパンの黴びた部分をこそぎ落としながら、何とか口に運ぶ。
ファイン・カールシュタインとラケル・トーデンダルはまさにそう言った、追い込まれた状態で離宮の中にひっそりと佇んでいた。いやラケルに関しては、もはや体力より先に精神力が尽きようとしていたらしい。今はフーハが面倒を見ている。
「礼を言う。それが君の仕事であったとしても」
ファイン・カールシュタインは。まだ幾分かは余裕があるようだ。ミーニングレス達が持ってきた新鮮な食料とエールが胃に入れば、カクニスタまでの旅程にも耐えうるだろう。ミーニングレスにとってはそれが肝心な所だ。
ファイン・カールシュタインは貴族位を持つ女性――ファインという女性用の称号を持っていることから明らかなように――であったが金髪を随分短くカットしていた。そして額には夏領位を示す緋色のサークレット。
そしてファイン・カールシュタインは眉目秀麗、かなり汚れきってはいるが仕立ての良い濃緑の貴族服から窺えるスタイルも、求婚者が引きも切らない程に女性として魅力的ではあった。
だが彼女はソル派であることを宣言してしまっている。もはや貴族社会で日を見ることは無いだろう。その美貌は徒花というほかはなく、それであるからこそ“男装の麗人”であり、荒んだ逃亡生活にもある程度は対応できたのであろう。
もっとも夏領位ぐらいでは、どちらにしろ生活には困窮していた可能性もある。裕福な商人や、モールン教の練教達の方がよほど余裕があったに違いない。
だが、その辺りの事情はミーニングレスには関係ない。
「すぐに発つ。カルバスに乗れるな?」
そこがミーニングレスにとって肝心な部分だ。この前提が違えば、かなり話が変わってくる。だがシェルストレームの情報は確かだったらしい。ファイン・カールシュタインは余裕をもって頷いた。
「無論。大事なのは“時”だね?」
どうやら物分かりの良い警護対象らしい。ミーニングレスは剣帯に吊した長剣をガチャリと鳴らすことでファイン・カールシュタインの確認を肯定して見せた。
驚くべきはすでに半身以上を血で染めたミーニングレスの姿を見ても、動揺する様子を見せなかったファイン・カールシュタインの胆力であったのかも知れない。
果たして彼女が信奉する「ソル派」とは一体、どういった異端であるのか。
――それが最大の問題であるのかも知れない。
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