第七章 ゴンとトオル

「今回のツアーはどれだけの人が戻ってきますかね」

「さあ、どうやろ。生きていた場所に未練が残っているようやったら、その場所に居続けて地縛霊になるか、その周辺をうろつく浮遊霊になるんやろうけど、私の知ったこっちゃないわ。それにナカムラ君だって本当はどうだっていいんじゃないの?」

「ゴンドウさんには敵いませんね。そう、ただの暇つぶしで聞いてみただけです」

「それはそうやろ。私らも今回が初めてとちゃうからね。もう数え切れんほどなく亡くなった人らを乗せてこのツアーをしてきているんやから」

 鈴子すずこはトオルと二人で、ツアー四日目、最終日の集合場所であるバスターミナルに停車されたバスの中、もう何千回と繰り返してきた会話を交わす。だがこれは単なる強がりによって出た軽口であり、決して本心から言っている訳ではない。

権藤ごんどう鈴子、通称ゴンちゃんと呼ばれる自分や運転手の中村なかむらとおるも、ツアー参加者達と同様にこの世の人間ではない。いわゆるあの世と呼ばれる場所へ行く間の、ちょっとした寄り道をする案内人だ。

 このツアーは、亡くなった人達が悔いのないようあの世へと旅立つためのプランだ。そう願った天の上に住む人達が無差別に選別し行われる、知る人ぞ知る特別なものらしい。

 鈴子達にもその仕組みはよく知らされていないが、ツアー代金や亡くなった人達が持つお金や服は、遺族達には気付かれないようこっそりと回収して用意されたものだという噂があった。

 例えば死者のお棺に入れられた物品や、死後に廃棄されるような遺品を密かに換金する部署が存在するとかしないとか。本当の所は謎だ。

 様々な理由で人は亡くなる。ただその人達全てがすぐにあの世へと旅立てる訳ではないらしい。中にはそういう人もいるが、多くは様々な形で現世に未練があるため残ろうとするそうだ。

 そのような悩める死者達を、三か所だけ思い出の時と場所へと戻るツアーに参加させ、改めて死を受け入れる機会を設ける。そしてすっきりとした気持ちであの世へと向かえるよう、お手伝いするのが鈴子達の務めだった。

 しかしそれでも思い切れない人がいる。そういう人達は行った先々で留まり、時間厳守といわれている最終日の集合時間に戻ってこない。

 つまりあの世へと向かうこのバスに乗り遅れ、結果的には現世で漂い続けることになるのだ。その姿を生きている人が見かけた場合、地縛霊だとか幽霊だと呼ぶのだろう。

 バスに戻ってくる人が多いか少ないかはまちまちだ。戻ってこない人が多い時もあれば、ほぼ全員が戻ってくる場合もあった。

 思い出の時や場所へは本人、または遺族の強い想いが導くという。そしてどうやって死を受け入れるのかを、生きていた時代の中で三度、三か所の世界に戻って過去を振り返り考えさせるらしい。

 生きてきた道がどのようなものだったか、どう捉えるか、しがらみがあるならそれをどう断つことができるかなど、模索する時間を与えるいわば試練の道とも言えるだろう。

 鈴子達はこのツアーを通じて、今までいろんな人達を見てきた。後悔ばかりの人や人生悪くなかったと思う人もいる。

 例えば十八歳の若さで病死した中竹光一朗という子がいた。余りにも早すぎる死だった場合、この世に未練を残す死者は多い。それは仕方がないことだろう。

 それこそ若くして命を落とした人間の中で、素直に死を受け入れることが出来てあの世へと旅立てる人間は稀だ。

 病というものは軽いものから重いものまである。しかし死や老いと同じく、生きていく上で避けることのできないものの一つだ。人によっては風邪すらもひかず、医者や病院の世話にほとんどならず死んでいくものも中にはいる。

 だが多くの人達は、病により苦しんだ経験が多かれ少なかれあるだろう。それが命にかかわるものであれば尚更だ。

 平均寿命も、生まれた国や地域によって大きく異なる。鈴子達が担当するこの日本では、男性が約八十歳、女性が約八十七歳と長寿だ。

 それだけ長く生きることが当たり前の社会において、十八歳の若さで死を迎えるというのはやはり酷と言っていいだろう。

 悲しむ者は遺族だけではない。彼の場合、人生の中で重要な位置を占める大切な思春期を六年間共に過ごした親友が五人いた。彼らもまた、友人を失ったことで心に大きな傷を負っている。若くして死んでいく友の無念さは、痛いほど理解していることだろう。

 また本人には死を免れない病であることを伏せていると聞かされた上で、最後の見舞いという名の別れの機会を与えられた彼らの心境は、いかばかりのものだっただろうか。

 人間は年を重ねれば重ねるほど、関係性の浅い人から深い人まで様々だが、多くの方の死と接する機会を持つ。

 しかしまだ精神的にも成熟していない段階で、身近な人との別れを経験した者の多くは、なかなか消えない深い哀惜を抱き続けながらその後を生きることになる。

 それが決して悪いことだとは言わない。そのことを糧にして、強くなる人間もいるからだ。しかしその逆の危険性も併せ持つことは否定できない。

 親しい人との別れに対する恐怖が心を支配し、死を極端に恐れたりまたは死を怖がらない危うさを持ったりすることもあるからだ。

 大抵は年齢や回数を重ね、そして時が経てば悲痛な思いは徐々に回復していくと、心理学的には立証されているという。ただそれが全ての人に当てはまるとは限らない。

 光一朗の母親、旧姓神保恭子がそうだ。息子の死の前に愛する夫を同じ病で亡くしていた彼女は、自死したことでこのバスに乗った。年齢を重ね、かけがえのない人との別れを経験してきたにも関わらず、である。

 彼女はいくつかのきっかけにより二人の死を悲しみ、生きることに希望を持てなくなったのだろう。そして自ら命を絶った人間は、覚悟して死んだはずだと思われがちだがそれは違うようだ。

 そのような死を選んだ多くの人はこの世に恨みを持っているからか、このツアーに参加した後、帰ってくることなくしばらくの間この世を漂ったりしている。中にはすんなりと死を受け入れ旅立つ人もいるが、数としては少ないかもしれない。

 もちろん光一朗が亡くなった事は、彼女だけでなく彼の祖父母を含む家族、そして五人の親友達にとって痛哭の極みだったに違いない。近しい人を失ったものの悲しみ、喪失感というものは人の心を大きく傷つけ、時には人をも殺してしまう。まさしく彼女は夫や息子の死をきっかけにして、自殺という道を選んだ。

 しかし残された者の辛さを知っている人間だからこそ、彼女は自ら死を選ぶべきではなかった。なぜなら自死により彼女は再び両親を悲しませ、その心を切り刻むほどの苦しみを与えたからだ。

 自分の命を亡くす罪深さは、残された遺族や親しかった人達にとって許しがたい。遺族にとって、自殺は寿命だと考えるしかないと言う人もいる。

 しかしそう考えなければ、残された人間達が生きていくには辛すぎるからこその言葉にも思える。それは一種の逃げ道の考え方ではないか。

 もちろん逃げることが悪いとは言えない。辛いことを全て受け止めることで心が崩壊することもある。だからこそ生き続けるため、時には人は逃げる事や避ける、遠ざかることも必要だ。

 けれど確実に、自殺は殺人でもあることを忘れてはいけない。自らの命を殺すだけでなく、周りの人をも殺してしまう危険性を含んでいる。だから人が生きていく中で、やってはいけない行為の一つに挙げられるのではないだろうか。

 病死や自殺の他に、事故で命を落とすケースがある。その場合でも大きく分けて二つのパターンが挙げられるだろう。

 一つは自らの過失によって起こした事故で死ぬ場合と、もう一つは他人の責任または自然の猛威で起こった事故に巻き込まれて命を落とす場合だ。

 このバスに乗った客で言えば、片岡虎次郎と新谷美佐子がそれに当てはまる。虎次郎が前者で美佐子が後者だ。しかも二人が亡くなったのは同じ事故によるものだった。つまり虎次郎が加害者で、美佐子はその被害者となる。

 人を撥ね殺した彼の行為は全く軽率なものだった。スピードを出しすぎていただけではなく、スマホを操作して歩道へと突っ込んでいったのだから、悪質極まりない。

 死者一名、重症一名、軽症者四名の事故ではあったが、亡くなった彼女の咄嗟の行動がなければ、死者はもっと増えていた可能性もあった。幼い子供三人の将来と若い女性の人生を奪っていたかもしれないのだ。

 自動車という、大きな鉄の塊を動かす運転手の注意責任は大きい。簡単に多くの人を殺す武器になりえるからだ。ほんの少しのうっかりだったり不注意だったりが、人の尊い命を一瞬にして奪ってしまう。

 だからその罪は決して小さなものではない。しかも事故死によって悲しむのは、被害者だけではないのだ。加害者にも家族がいることを忘れてはいけない。

 美佐子を轢いた後もう一人の老人をも跳ね飛ばし、自身は電柱にぶつかり即死した虎次郎には、妻とこれから生まれてくる子がいた。

 それに本人の両親や兄、妻の両親などの家族もいる。その人達の悲しみと苦しみはいかばかりだったかを想像してみれば判るだろう。彼は妻にとって愛する夫であり、これから生まれてくるお腹の中の父親であり、家計を支える大黒柱だ。その彼を彼女達は失った。

 それだけではない。加害者家族として世間から責められる運命を背負わされたのだ。それは虎次郎の両親や義父母達も同様だった。

 他にも彼の死により人生が大きく狂ったものがいた。会社の後輩である六三四は、彼の死を機に役所の不正を証言して仕事を辞めている。またその告発により上司や不正に関わった企業の社長や議員達は逮捕されたのだ。

 ほんの少しの時間スマホに目を移したことが、そしてアクセルを踏み過ぎていたことが、多くの人間の人生に影響を与えたことになる。

 もちろん悪事を働いていたことが明らかになり、一つの社会悪を正したきっかけになったことは事実だ。それが唯一と言っていい救いだろう。

 しかしその事故が起こらなくても告発することは出来たはずだ。それこそ事故で命を落とすことと比べれば、勇気を出して悪事をばらすことなど簡単な事ではないか。

 それこそ死ぬ覚悟があればなんだって出来ただろう。それに彼が上司や関連会社の行っていることを正したからと言って、命を奪われることなどまずない。

 実際、事故に触発されて告発した六三四という同僚は一時的に職を失ったものの新たな職場を見つけ、罪の意識を背負うことなく今は生き生きと働いている。それも仕事上で悩んでいる事に感付いた義母による後押しもあって、勇気を振り絞った結果のようだ。

 虎次郎も自己保身に走らなければ、彼と同じ道を歩むこともできただろう。例え厳しい生活が待っていたとしても、それこそ死んで妻や生まれてくる子供や両親達を悲しませ、苦しませることを考えればましだ。

 それに罪悪感を背負ったままその後仕事を続けていたとしても、必ずどこかで彼を苦しめる局面は出てきたに違いない。一度悪事に手を染めて弱みを持った人間は、より深みにはまる可能性が高い。

 だからこそ傷が深くなる前に、抜け出すことを考える必要があったのではないか。彼は逃げても良かったのだ。仕事を放棄することも選択肢の一つだった。その道を選ぶ勇気さえあれば、不幸の連鎖は起きなかったかもしれない。

 また被害者である美佐子の死によって、悲しんだ人も大勢いた。まずは同居していた息子夫婦とその孫達だ。また町内会長の押田と妻の雅恵や元民生委員の湊もいる。

 彼らを含め、町の高齢者や幼い子達を持つ若い人達は、彼女が取り組んだ功績を知っていた。その恩恵に与かった多くの人達が彼女の死を惜しみ、涙を流したのだ。

 ちなみに彼女の葬儀では予想を遥かに上回る人達が駆け付け、息子夫婦達を驚かせたという。人が生きてきた価値というものは、亡くなってから判るものだとも言われる。

 彼女の場合、まさしく生前では判らなかった死者の偉大さを、遺族や周囲の人達は気付かされたことだろう。

 また残された遺族の中でも特に辛い目に遭ったのが、嫁である佐奈恵だ。美佐子が多くの人達から慕われていたことも要因の一つだったに違いない。

 何故二人の幼い子を連れて夜道を歩いていたのかが話題となり、母親の彼女が義母に預けっぱなしで働いていたからだと非難されるようになったのだ。

 押田夫妻や湊を始め、美佐子が孫達の面倒に苦労していたことを知っている人達は大勢いた。さらに佐奈恵が職場で片意地を張って頑張れば頑張るほど、同僚や上司達の反感を買ったのだろう。匿名の人達に紛れた誹謗中傷を受ける中、仕事場にいられない空気が作られたらしい。

 義母の死後、子供達の面倒を看るためにも止む無く仕事を辞めた彼女は、不本意ながら専業主婦になった。もちろん働かなくても遺産などがあったため困ることはなかった。しかしお金の問題ではないのだ。

 経済的に恵まれていても、心が満たされていなければ人は狂ってしまう。働き続けたかった彼女は、子供達に囲まれ家の中で大半の時間を過ごすことに不満を持ってしまったらしい。

 上の子の翔太を幼稚園に預けていることまでは良かった。しかし下の美誠まで早期に預けることは、周囲の環境が許さなかったようだ。

 彼女が子供の世話を放棄していたせいで美佐子が命を失ったと考える人達は、彼女が子供から手を放して自由になることを、快く思わなかったという。

 やがて彼女はそういった周りからの無言の圧力に苦しみ、悩み、育児ノイローゼと住環境の影響によるうつ病にかかってしまった。そして美佐子の死からしばらく経った後、我が子二人に手をかけて自らも死ぬという最悪な結末を迎えたのだ。

 彼女の子供達は鈴子達のバスに乗ることはなかった。他にも同じバスツアーが存在するらしいと聞いているからそちらに乗ったか、または幼かったために良く分からないまま、あの世へと旅立った可能性もある。

 しかし偶然にも佐奈恵は鈴子のツアーに参加している。ただ今の時点で彼女が無事あの世へと行けるかどうかは定かでなかった。

 負の連鎖というのは恐ろしいものだ。例えば事故死の他に、佐奈恵が起こしたような殺人によって命を落とした人の多くも、このツアーに参加している。

 介護付き老人ホームで看護師兼介護士だった五十嵐綾女と新谷誠二郎が、和合治によって刺殺された事件の被害者などもそうだ。そこに関わった人達の内の三名が鈴子のバスツアーに参加していた。

 皮肉なことに加害者となった和合が足に後遺障害を負った原因は、虎次郎が起こした事故と同じく、運転操作を誤った若者に撥ねられたからだ。

 虎次郎が事故を起こさなければ、美佐子が死なずに済んだだけではない。同じ事故ではないにせよ、和合が若者の不注意による事故に巻き込まれなければ、彼が車椅子での生活を余儀なくされることもなかったはずだ。

 それならば意図しない条件で工場を売却することも、施設に入る必要もなかっただろう。さらにいえば、あの殺人事件も起こらなかったかもしれない。綾女も誠二郎も死なずに済んだ可能性だってあった。

 しかし人生においてそういった様々なタイミングで不幸が重なり、連鎖することは多々ある。今回のケースだって特別珍しいものでもないだろう。それに事故に遭った被害者全てが殺人犯になるわけでもない。綾女の祖父のようなケースだってある。

 この事件でも綾女の死により多くの人が悲しみに暮れた。彼女の父親はもちろん、施設にいた人々も目の前で起こった悲劇に大きな衝撃を受けただろう。

 また事件に巻き込まれた和合の新担当者に任命されていた虎次郎の兄、竜一もそうだ。彼は以前から綾女に好意を抱いていたという。

 だが日頃の業務に忙殺されていたこともあり、また仕事上における接点もそれほど多くなかったようだ。そのためなかなか自分の気持ちを打ち明ける機会がなかったらしい。

 けれどセクハラ問題が起こったことで、彼女の担当していた和合治を代わりに担当する案が出たことで一気に二人の距離は縮まった。事あるごとに彼女を含めたミーティングにも呼ばれるようになり、会話を交わす機会も多くなったのだ。

 施設内では大きな問題が起こっているというのに不謹慎だったと、後に彼は後悔したらしい。それでもその頃の彼にとっては胸が躍る毎日だっただろう。

 好きな相手と話すことが多くなり、また新担当者として頼られる立場になったことで、心が浮足立っていたことは否めなかった。

 その上和合とのトラブルが一段落した後に、勇気を振り絞って思いの丈を伝えようと決めていたようだ。その為には何としても彼女を守らなければならない。

 そう誓って最後の交渉の場に立った彼だったが、和合が予想を遥かに超える行動を起こしたために、反応が遅れたのだ。

 先に刺されたのは近くにいた事務局長だった。そこでナイフを取り上げようとしたが、横一線に振り回した刃先が彼の腕を裂き、怯んだ所で太ももを刺されたのだ。

 余りの激痛にその場で倒れて立てなくなったため、恐怖で腰を抜かして座り込んでいた彼女に襲い掛かる和合を止めることが出来なかった。

 しかも驚いたことに、足が動かないはずの彼が車椅子から立ち上がったのだ。そして彼女に覆いかぶさり、滅多刺ししている姿を竜一は目の当たりにした。現実に起こっていることだと認識するには時間がかかったほど、呆然としていたという。

 彼は刺された痛みで動かない足を抑え、なす術もなく彼女の命が奪われていく様子を眺めているしかなかったのだ。その無念さは想像を絶するものだったに違いない。

 ようやく駆け付けた警備員の人達と周りにいた介護士達に取り押さえられた和合は、力を使い果たしたようにぐったりしていたという。床にはおびただしい血で覆われ、その中に浸っていた彼女の命は、その時すでに絶たれていたのだ。

 余りの衝撃で何があったかよく覚えておらず、病院で治療を受けた後警察に色々質問をされて答えていたらしいが、詳しい記憶は抜け落ちていた。

 事件後、施設は閉鎖されて他の入居者達も同じグループの別の場所へと移った。しかし怪我が完治した後も、竜一はショックから立ち直ることが出来ず、介護士の仕事を辞めてしばらくは精神病院へ入院したのだ。

 そして退院後も心の治療のために通院しながら一人暮らしをしていた部屋を引き払い、実家へと戻って引き籠る日々が続いた。

 その数年後、弟の虎次郎が起こした事故で人を轢き殺してしまい、自らの命も失った。そのことで両親を含め加害者家族となり非難を受けたことがきっかけで、将来に光を見出せなくなった彼は、首を吊って自殺したのだ。

 鈴子は彼の姿もツアーで見かけている。しかし佐奈恵同様、あの世へと向かうかどうかは分からない。彼の自殺が病気からくる発作的なものだったのかどうかは不明だが、それでも先に亡くなった綾女を追うために、死を受け入れてくれると心の中では信じている。

 綾女は他の同僚達にも慕われていた。また献身的な介護に救われた施設の患者達の多くは、悲惨な最期を迎えた彼女を偲んで涙を流した。

 同じく刺殺された事務局長の誠二郎の死を悲しんだ者もいる。最も辛かったのは妻である美佐子や息子夫婦、そして孫達だったのではないか。そして綾女と同じく、施設の職員や入居者達も彼の死を惜しんだ。

 誠二郎の死後の事は、その後美佐子が事故で亡くなり、嫁が事件を起こしたことで一家離散状態に陥ったことは前述した通りだ。

 一方で事件を起こして死刑判決を受けた治は、ガンにより医療刑務所で息を引き取った。彼の死を悲しんだ者もいる。彼の懺悔を聞いた医療刑務所の医師や教誨師や刑務官達だ。しかしそれ以上に怒りを持った人達もいた。殺された綾女と誠二郎の遺族達がそうだ。

 ただ生き残ったが事件に巻き込まれた竜一の心中は複雑だったと思われる。弟の虎次郎が事故を起こして人を撥ねて殺してしまったために、殺人事件の被害者の一人でもありながら加害者家族の苦しみも経験することになったのだ。彼の自殺もまた治の病死とは無関係ではなかったのかもしれない。

「一人でも多くの人に戻ってきて欲しいな」

 トオルが先程までの口調とは異なり本音を呟いたので、今度は鈴子も素直な気持ちになって肯定し、真面目に答えた。

「そうね。私達のバスに乗った人達はできるだけ目的地へと連れて行きたい。この世とあの世を繋ぐことが私達の使命であり、この世で果たせなかったことへの罪滅ぼしだから」

 鈴子達もまたこの世に未練を残しているからこそ、このバスに乗っている。そしてこの世に思いを残した人々をあの世へと導く仕事に就いたことも、また自分達の過去と大きく関わっていた。

 二人はある小さな旅行会社に勤めるバスガイドと運転手だった。ガイド歴うん十年のベテランだった鈴子がトオルと組んだのは、たった一度だけだ。そしてそれがこの世における最後の仕事になった。

 まだ若いトオルの指導役として乗車した、日帰りのいちご狩りのツアーで事故は起こった。経験が浅く、また当時のバス会社では若い運転手への指導もいい加減だった事もあったのだろう。

 ただでさえ緊張して肩に力が入っていた彼は、無事目的地へ着いたためにその帰り道で少し気が緩んだらしい。スピードを出し過ぎていることに気付かず、急なカーブを曲がり切れずにガードレールへと突っ込んでしまったのだ。

 その少し前から鈴子は嫌な予感がしていた。注意するよう声をかけようかと迷っていたが、二人の間には複雑な関係があったことも手伝って、彼が委縮してはいけないと躊躇したことがいけなかった。

 彼のことよりもまず、お客様の安全を第一に考えなければならなかったのだ。危ない、と思った時には遅かった。山道の大きなカーブでガードレールを突き破ったバスは崖へと転落し、乗客を含めて二十数名が亡くなった。彼も鈴子もその中に含まれている。

 また美佐子の義理の娘、佐奈恵の両親もこの事故で命を落としていた。わずか数名は命を取り留めたけれど、未だ後遺障害に苦しんでいる人もいるのだ。

 この事故により鈴子とトオルは、この世で大きな後悔を残すことになった。お客様を最終目的地である、それぞれの家へと無事に帰すことができなかったからだ。

それゆえこの世をさ迷っている間、何故かこのバスツアーの案内人としての役割を与えられていた。 

 このツアーを一体どれだけ続けているのか、時間感覚の無い鈴子達は全く認識していない。ただ相当数の亡くなった方々をこのバスへと招き、そしてあの世へと導いてきた。

 だが毎回、乗客全てを目的地へと送り届けられたことがない。最終日に戻らなかった客はそのままこの世に漂い続ける。その度に鈴子達の願いと使命は果たせずにいた。

 鈴子にもこの世に残した家族はいる。しかし長いお勤めの間に両親や夫も亡くなり、自分が産んだ息子は家族を持って孫までいるという。平凡ながら幸せな生活を営んでいるらしい。よってこの世に残した未練は一つしかない。

 何故かそのような情報だけは、不定期に訪れる奇妙な姿をした案内人らしき男により知らされた。おそらくこの世に残した未練を、少しでも減らそうとしているのだろう。

 トオルも同じく、近しい人達のその後を伝えられている。彼には恋人がいたそうだが、彼の死後に別の男性と結婚して幸せに暮らしているようだ。

 彼の義理の弟は生きているが他の家族は皆、鬼籍に入ってしまったために彼もまた鈴子と同じ未練のみが残っていると想像できた。

 いつになれば残した思いを断ち切り、あの世へと行けるかは不明だ。しかしこのバスに戻らない人達がいる限り、そして未練を残したまま命を失ってやってくる乗客がいる限り、鈴子達のツアーに終わりはないのだろう。

 例えば光一朗はツアー最終日にこのバスへと戻ってきた。若くして亡くなった彼なら、未練を残してこの世に居続けてもおかしくはない。それでも帰ってきたのだ。

 彼が送った人生は短かったけれども、中身の濃い充実した生活を送ってきたに違いない。そうでないと彼ほどの若さで、わずか三日の間に死を受け入れることなどできるものではないだろう。

 しかも自殺ではなく病死した彼のような場合、多くの者はあれもこれもしたかったと悔いが残るはずだ。そしてこの世にいつまでもしがみついてしまう傾向が強いことは、このツアーのガイドを長く続けた経験により知っていた。しかし彼はこのバスに乗り、あの世という目的地に向かったのだ。

 後に同じく鈴子のバスに乗った、母親の恭子もまた彼の後を追うようにバスへと戻り、あの世へと旅立った。彼女のように愛する人を失って自殺した者は、戻ってくる確率が高い。彼女は先に亡くなった夫とそして息子を追うようにして命を絶ったのだから当然だ。

 しかし先に亡くなった者があの世におらず、この世に漂っていれば会うことは叶わない。時にはそういうケースも起こりえる。幸い光一朗と恭子の一家は、無事に会えただろう。といっても、あの世へ行ったことの無い鈴子にはそう想像するしかなかった。

 思わぬ事故で死んだ者も戻ってこない場合が多い。その中で美佐子は帰ってきた。彼女もまた恭子同様、先に刺殺され亡くなった夫がいたからだろう。彼の後を追うようにして、鈴子達の誘導するバスに乗ってあの世へと移動した。

 とはいえ、彼女の夫があの世にいるかどうかは鈴子達も知る由はない。光一朗達のように、関係者が時を隔てていても偶然同じバスに乗ることがあれば、少なくともこの世とあの世で分かれ分かれになったかどうかは判るが、そうでない限りは不明だ。

 鈴子達はそれこそあの世で一緒になってくれるよう願うことしかできない。

 一方で、綾女と虎次郎はバスに戻ってこなかった。つまりこの世の未練を断ち切れず、どこかでさ迷っているのだろう。綾女のように、若くして殺された被害者はやはり死を受け入れることは難しかったのかもしれない。あまりにも突然の事であり、死を覚悟する暇もなかったのだから余計だろう。

 戻ってこない人がいることは、鈴子達にとっても大変辛いことだ。また目的地へと連れていけなかったという後悔の念が強くなる。綾女の場合もそうだった。覚悟はしていたとはいえ、いざ彼女を残してバスを出発させた時の切なさは忘れていない。これは何度経験しても慣れるものではなかった。

 また、今の鈴子には彼女を愛していた竜一が自殺したことを知っている。そして先に逝ったはずの彼女を追いかけるように命を絶った彼が、死を受け入れてあの世へと向かったとしても、彼女に会えるとは限らない。

 そのことが判るだけに余計、苦しみは倍増した。彼が会いたい彼女は、鈴子の知る限りあの世へとは向かっていない。つまり彼らはあの世とこの世で、別れ別れになることを意味する。

 ただ彼がこの世に残れば、一緒に現世で漂い続ける間に会える可能性があるかもしれない。もちろん何かの拍子で彼女がこの世の未練を断ち切ることができ、死を受け入れて鈴子達とは違うバスに乗って、すでにあの世へと向かったということもあり得る。

 具体的には知らないが、そのような方法があると耳にしたことがあった。今はただそうあって欲しいと希望を持つしか手は無い。この世に未練を残して長年さ迷っているバスガイドに出来ることと言ったら、それぐらいしかないのだ。

 戻ってこなかった虎次郎は、おそらくこの世に残した妻と生まれてくる子供を見守るつもりだったのだろう。また、自分が起こした事故で命を奪った美佐子やその遺族に対しての申し訳なさや両親達への罪の呵責があったかもしれない。

 彼が留まるだろうことはある程度覚悟していた。それでも身を裂かれるような思いをしながら、バスを発車させたことはつい最近の事のように覚えている。

 病死した死刑囚の治は、意外にも戻ってきた。二名を刺殺したことを悔い、死刑により罪を償うことすら許されなかったために、帰ってくる確率は五分五分だろうと考えていたからだ。

 しかしあの世へと向かうバスの中で本人に尋ねてみた所、その原因が判明した。彼はこの世での未練を断ち切り、死を受け入れてあの世へと向かう心づもりができた訳ではなかったのだ。

 罪を償うことが出来なかった自分を罰するのはあの世にある地獄であろうと考え、その為にこの世でさ迷うことなど許されないからと、集合場所へ向かう決心をしたという。

 理由はどうあれ、戻ってきてくれたことは単純に嬉しかった。鈴子達の目的は一人でも多くの乗客を無事このバスに乗せて、あの世へ届けることだ。それだけがガイドとしての勤めであり、唯一の喜びでもあった。

 だからこそ毎回祈るように、無駄だと知りながらも全員が揃うことを待ち続けている。その回数は一体どれだけになったのだろう。そしてどれだけの人をあの世へ送り届け、どれだけの人をこの世へ置き去りにしてきただろうか。

 あの大きな震災が起こった時などは、大量のバスが増便されたがそれでも間に合わず、鈴子達は一日に何度も往復したものだ。ただあの時、全員をあの世に送り届けたいとは考えていなかった。

 なぜなら突然の自然災害で亡くなった方々が、そう簡単に死を受け入れられるとは思えなかったからだ。

そして彼らがこの世で生き残った人々の周りに漂い、時には夢枕に立って一言二言残すことで遺族に勇気や希望を与え、その後にあの世へ去ったという話を他の案内人達からも聞いていた。

 現世に残ることも悪いことばかりではないことを、あの時初めて理解できたと言える。

 今待っているのは、三日前に三十五人ほど乗せた死者だ。これまでと同じく、病死した者、事故または自然災害に遭って死んだ者、殺された者、自ら命を絶った者で、若い者から年寄りまで多種多様な人達だった。

 そろそろ時間になる。ツアーの最初に伝えた通り集合時間は厳守だ。一分たりとも遅れると、このバスはあの世へと出発する。運転を担当しているトオルが遅らせようとしてもそれは叶わない。鈴子がいくらドアを閉めさせまいと抵抗しても、出来ないのだ。

 バスの運転席上部についている時計を見た。トオルもつられるように上を向く。出発まであと十五分だ。これまでの経験だと、そろそろ集まりだす頃だろう。

 不思議なことに、あまりにも早く到着する死者はいない。すっきりとした表情をして、死を受け入れましたと堂々とした態度でやってくる人もいるが、それでも何故か集まってくるのはこれくらいの時間からだった。

 最初に一人目が現れた。確かブラック企業に勤めており、過労で倒れて心病んで自殺した女性だ。彼女は来ると思っていた。恨みは数多くあっただろうが、この世との関係を断ち切りたくて死を選んだために、受け入れることも容易かったのだろう。

 彼女の乗車をきっかけに、次々と乗客達が現れ始めた。今回は比較的順調な滑り出しだ。このままでいくと、過去最高記録の乗車率九割五分に届くかもしれない。それは大変喜ばしい。

 この世に置いていく死者が少なければ少ないほど、あの世へ連れていく死者が多ければ多いほど、心に負う傷は浅くて済む。しかし全く無傷という訳にはいかない。毎回数名は戻ってこないからだ。

 多い時は半数以上帰ってこないこともあった。そんな時はボロボロになってあの世へと向かうのだ。その道中でのガイドには全く力が入らない。くだらない冗談など口にする元気などなかった。

 それでも今回は人数が多くなりそうだったため、出発時に乗車する死者達へ声をかけた時と同じく口が良く回る。

「ハイ、みなさ~ん! 出発した時に言った通り、時間を守られましたね~!」

「ハイハイ、テンさん、お帰りなさい」

「あらあら、タマさんにトヨさんも良く戻ってきましたね、お疲れ様です」

 行きの時と同様、次々と顔を見ながら名簿に載っていた名前をチェックする。帰りは顔と名前がすぐ一致するため、それほど時間はかからない。思っていた以上のハイペースで名簿の横に付けるレ点が増えていく。本当に今回はこれまでの記録を更新しそうだ。

 しかし明るい声を出しながらも、心の中のざわつきは増すばかりだった。今までこの名簿のレ点が全て埋まったことはない。

 多いに越したことはないが、たった一名でもこの世に置き去りにし、そして目的地へと誘うことが出来ない苦しみは同じだ。どんな人であっても命の重さがそれぞれ平等なように。

 だがここで奇跡が起こった。懸命に大声を張り上げ、無駄だと判りながらも空元気を出すことに必至だったため、入り口の外に並んでいる人数まで目が届かなかった。気付いたのは、残り三名というところまで来た時だ。

 まさかと思いながら顔を上げると、入り口のドアの外に二人、バスの中のステップに一人上がっているではないか。

ここからは慎重に顔と名前を見る。間違って違うバスに乗っていた死者を乗せていることはないか、名簿に載っていない死者が混じってはいないかを確認した。だがいない! 全員が集まっている!

 しかも最後の二人は竜一と佐奈恵だった。竜一がこのバスに戻ってくる確率は高いと思っていたが、佐奈恵の場合は正直この世に留まるのではないかと覚悟していたから、喜びは一塩だった。

 彼女が子供達に手をかけたことを含め、どう自分の死を受け入れたのかは他人に理解しようがない。それでも思いを断ち切り、あの世へと向かう決心をしてくれたことを素直に喜びたい。美佐子も誠二郎も彼女の両親と共に待っていることだろう。

 トオルも全員揃ったことが分かったようで喜んでいた。特に佐奈恵の両親の命を奪ってしまった二人だからこそ、家族の元へ無事戻すことが出来なかったからこそ、佐奈恵の事は特に最終目的地へ届けたいと願っていたからだ。

 そこで時計を見た。ちょうど出発の時間だ。三日前に見送った死者達が、時間通りに皆揃っている。こんな経験は初めてだ。運転席にいたトオルもその事を理解したらしく、目を丸くして鈴子を見つめていた。

 そこで自動的にドアが閉まった。いよいよ出発だ。しかも誰一人欠けることなく目的地へと向かうことが出来る。

 思わずテンションが上がった。初めての事だからしょうがない。出した声が裏返った。

「さ、さあ皆さま、お揃いですね! そ、それでは窓側に座っている方々は、申し訳ございませんが、出発の時と同様にカーテンを閉めていただけますか?」

 窓側の席に座っていた人達が、一斉に鈴子の指示通りカーテンを閉めた。トオルがエンジンをかけてバスは走りだしたが外の景色は見えない。当然だ。これから向かう場所を考えれば、通常では見られない空間を通過するため、何を目にするかは予測不能である。

 例えばこの世に漂う死者の姿を目にすることもあるだろう。その場合、もし見知った人がいたならば、せっかくあの世へと旅立つ決心をした乗客達の意思が揺らぎ、下車しようと騒ぎだすかもしれない。その為のカーテンなのだ。

 前方の窓も見えないよう、行きと同様に鈴子もカーテンを引いた。順調に走行するバスの中で、いつも通りにマイクを持つ。しかし今まで感じたことの無い緊張感があった。

それでもこれまで数えきれないほど繰り返してきた言葉を放った。

「はい、改めまして、皆さまお帰りなさい。出発の際、私がこのツアーはミステリーツアーで、行先は誰も知らないと言った意味を今では理解できているでしょう。そうです。行先は一人一人が違う日時の、異なる場所へと向かったからです。三日間、思い出の時と場所へと辿り着いたことでしょう」

 ここからは丁寧な標準語を止めて、おかしな関西弁に戻す。

「何や反応が悪いでんな~! 皆さん、ちゃんと、あの日へ戻れたんでっしゃろ? そりゃあ、思い出したくもなかった時や場所に連れていかれた人も中にはおったでしょうけど、それは堪忍して遅れやす。しかしね。無事このバスへと戻ってくるためにはしょうがおまへんのや。それくらいの荒治療をせんと死を受け入れられんし、あの世へ旅立てんままこの世に漂ってしまうさかい。ちゃんと上の方も一人一人の事をよう考えて、三か所選んどるんやで。まあ、それでも未練を断ち切れずに残ってしまう人はおるんやけどね。でも今回は全員、ちゃんと戻ってきましたな。おおきに」

 乗客は皆、何も言葉を発しなかったが、表情は行きに比べて明るい人が多い。中には暗い者もいるがそれはいつものことだ。ただ違うのは全員が揃っていることと、その目の前の現実に戸惑っている鈴子自身の精神状態だけだ。

 それでも何とかおどけて見せた。

「行きと同じでノリが悪うおますけど、まあええですわ。では改めて今回このバスを運転し、あの世へ連れて行ってくれるナカムラトオルくんを紹介しましょう。ナカムラくん!」

 そう言って後ろを振り向き、閉まっているカーテンを見つめた。しかし行きと違ってそこに乗客の目が集中することはない。

 だがしばらく後に、運転席にいるはずのトオルが姿を現した。そのため前を見ていた客達が声を上げて騒ぎ出す。これも想定内の展開だ。

「出てくるわけ無いと思ってました? 実はこのバス、自動運転ですねん。運転手として座っている彼がいなくても、勝手にこのバスは目的地へと連れて行ってくれるんですわ。便利でっしゃろ? やったら何で運転手がおるねん、って話やけどそれはそれなりに理由がおましてな。ではトオル君、皆さまにご挨拶しましょか」

 マイクを彼に手渡すといつもより緊張しているのか、少し声を裏返しながら挨拶を始めた。

「え、え~、皆さま、お帰りなさい。運転手のナカムラトオルです。先程ガイドがお話ししたように、このバスは自動運転であの世へと向かっておりますのでご安心ください。事故を起こすことはありませんし、例え起こっても死ぬことはありません。すでに皆さんは死んでらっしゃいますからね」

 これまた定番のブラックジョークだったが、予想通り車内は静まり返ったままだ。それでも彼は何事もなかったように言葉を続ける。しかし内容はいつもとは違った。

「皆さま、時間通りにこのバスへとお集まりいただき、本当にありがとうございます。お気づきの方もいらっしゃるかとは思いますが、この三日間は自分の死を受け入れ、あの世へと旅立てるよう手配されたものです。ですから時間通りに戻ってこられない方は、死を受け入れる事ができないまま、または未練を残したままこの世をさ迷うことになっていたでしょう。ですから時間厳守、とガイドから何度も説明があったかと思います。そして間に合わなかった時は責任を持ちませんとお話ししたのです」

 彼の説明に、少し車内がざわついた。理解できた人もいただろうが、そこまで考えが及ばなかった人もいたのだろう。さらに話は続いた

「しかし今回のように乗客の皆様が全員揃ったのは、私達がこのツアーの案内人になってから、実のところ初めてでございます。といいますのも参加者の中で数人、多くて半分以上戻ってこない方がいるのです。それだけ死を受け入れることがいかに難しい事なのかが分かるでしょう」

 乗客の一部は深く頷き、また一部では首を傾げている方もいた。確かにあの世へ行くことを選んだここにいる人達にとって、そうでない選択をした人の気持ちは理解しづらかったかもしれない。

 彼は車内をゆっくりと見渡して、乗客達の反応を見ながら言った。

「そういう私やここにいるガイドの彼女も、死を完全に受け入れられずにいるため、この世とあの世との境を行ったり来たりする役目を仰せつかっております。その回数は数えきれません。ですからここにいる皆様の事をとても羨ましく、また誇らしく思います。そして何よりも今回、私達は初めてこのバスに乗車した皆さま全員を、目的地へとお連れすることができることに感謝いたします。この度は誠にありがとうございました」

 彼が深々とお礼をすると乗客達も困惑していたが、一人、二人と拍手が起こり、最後には全員が、まるで彼を励ますように大きく手を叩いた。

 挨拶を終えて鈴子へマイクを返す時に見せた彼の目には、うっすらと涙が溜まっていた。それを見てもらい泣きしそうになるのをなんとか堪え、再び標準語に戻して喋った。

「ハイハイ、皆さん、温かい拍手、ありがとうございました! あと帰りはアイマスクの着用をしませんが、電気は消して目的地に着くまで音楽を流します。ですから皆様は目を瞑り眠ってください。目を覚ました頃には着いているでしょう。それでは皆様、この度、私達が乗車するツアーにご参加いただきまして、誠にありがとうございました」

 深々と頭を下げ終えると、再び拍手が起こった。ありがたい。こんな温かい気持ちでツアーを終えられるとは夢のようだ。

 鈴子は感動しながらカーテンをくぐった。すると先に運転席へと戻っていたトオルが止まらぬ涙を流し、懸命に手で拭っていた。

 そこで持っていたハンカチを彼に手渡し、鈴子はガイド用の椅子へと腰を下ろし、静かに目を瞑る。そして自分なりに過去を回想しながら今日の幸せを噛み締めていると、同じく涙が溢れてきた。

 バスの中ではクラシックの音楽が流れている。今までとは異なる心境だったからだろう。いつもなら最後まで目を覚ましているのだが、鈴子はバスの振動が心地よくなり、いつの間にか眠ってしまっていた。

「ゴンさん、ゴンドウさん、着きましたよ」

 鈴子はトオルに起こされ目を覚ました。こんなことは初めてだった。目的地に着くとドアを開け、眠っている乗客達を起こしてバスから降りてもらうまでが自分の仕事だ。

それを終えるとバスのドアが閉まり、再び新たな死者を迎えに出発をする。その繰り返しだった。その為、到着するまで寝てしまうことなどなかったからだ。

「ああ、ごめん、ごめん」

 慌てて起きた鈴子はバスの電気を点けてカーテンを開け、マイクを持ち乗客達に声をかけた。

「さあ、皆さん着きましたよ。まだ寝ている方がいたら起きてくださいね。それでは順番に前の席の方から降りてください」

 一人二人と席を立った乗客を見送るために、トオルと二人で外に出た。この時も一応名簿を手に持って、間違いなく揃っているかの最終確認を行う。

 一人一人の顔を確認しながら、頭を下げた。

「お疲れ様でございました。行ってらっしゃいませ」

 客はぼんやりと靄がかかったような場所に降り立ったが、自然とどこへ向かうかを知っているかのように、そのままスタスタと歩いていき、すぐに姿が見えなくなる。

 そんな見慣れた光景の中で、最後の乗客を降ろし終わった。名簿通り全員送り届けたことを確認し、トオルに目で合図しながら話しかけて微笑んだ。

「さあ、全員無事降ろしたわよ。良かったわね」

 しかしそこで思わぬことが起こった。目の前にあるバスのドアが、何もしていないのに閉まったのだ。

「え? 何?」

 突然の事で何が起こったのか分からなかった。こんなことも今までなかったことだ。二人で顔を見合わせる。しかしそんなことをしたところで、ドアが開くわけではない。

 二人でドアに手をかけ、何とか開けようとしたがビクともしなかった。それもそのはずだ。元々バスの扉の開け閉めは、車内からしかできない。

 ただ例外があることを思い出す。そう、死者をそれぞれの思い出の地へ送り出した後、集合時間が来た時には鈴子が操作しなくてもドアは閉まるのだ。

 しかし今はその場面とは違う。故障か? いや、あの世の物が故障なんてあるのかと考えていた所で今度は突然、目の前からバスが忽然と消えたのだ。

「え? バスは? え? どういうこと?」

 二人でパニックに陥る。周りを見渡したが、ぼんやりと霧がかかった空間には何も見当たらない。これではどうすることもできないではないか。これからどこへ行けばいいのか。

 そう当惑していた時、二人の所へ近づいてくる人物がいることに気がつく。

「だ、誰?」

「ああ、もしかして案内人かな」

 訝しんでいた鈴子達の目の前にその人物が立った。老人なのか、若者なのか、年齢不詳の怪しげな男は、軽く頭を下げて言った。

「お二人共、長い間のお勤めご苦労様でした。今回のツアーで無事全員を目的地に送り届けたことで、あなた達がこれまで思い残してきたことは達成できたのではないですか?」

 再び二人は顔を見合わせた。わせた。言われてみればそうかもしれない。今回のツアーの帰りに流した涙で、ようやく自分の死を受け入れられた気がしていた。

 トオルもそうだったようで、何度か首を縦に振っている。

「お二人はようやく死を受け入れられたようですね。それならもうこれまでのようなお勤めも必要ないと、上はお考えになったのでしょう。ですからバスのドアが閉まり、姿を消したのだと思います」

 なるほど、そういうことかと納得したが、ではこれからどうすればいいのだろう。

 そんな鈴子の疑問を読み取ったかのように、目の前に立った男の人が告げた。

「先程、あなた達が降ろされた乗客と同じです。向かう先はそれぞれに決まっていますから、気の赴くままに前へ進んでください。そうすれば自ずとあなた達は、あの世のどこかへと辿り着くべき所に向かうことでしょう」

 そう言い残した男は、二人に背を向けて音もなく遠ざかったかと思うと姿を消した。

 呆然として彼を見送った鈴子は我に返り、横で棒立ちになっているトオルに声をかけた。

「あ、あなたはいいの?」

 驚いたようにこちらを向いた彼は、尋ね返してきた。

「ゴンさんこそ、いいんですか?」

 良いのだろうか。それともまだ心残りがあるだろうか。再びバスツアーのガイドとして死者を出迎え、そして戻ってきた彼らをここへ送り届ける使命を遂行し続けたいと思っているのか。

 鈴子は自らに問う。時間の感覚が麻痺したまま、長い間何千回なのか、下手をすると一万回を超えたかもしれないほど繰り返してきた行動を、急に止めてもいいと言われて正直動揺している。

 しかしもう目の前にバスはない。これまで通りの使命を果たそうとしても、その手段自体がないのだ。つまり後戻りするという選択肢はなかった。死を受け入れられないのなら、ここでさ迷うしかない。

 だがここは未練を断ち切った死者達が到達する場所だ。そこで自分に何ができるのか。

「良いも悪いも、行くしかない、のかな」

 どうにか絞り出した答えがこれだった。

「そう、ですね。バスも消えちゃいましたし、他に行く当てもありませんよね」

「うん。でも、どこへ行くんだろう」

 これまで何度となく、ぼんやりとした空間に吸い込まれるよう散っていった死者達の背中を見送ってきた。しかしその行き先がどうなっているかなど、想像すらしてこなかった。

「行けば判るんじゃないですかね。今までここへ到着した乗客達が、何の道標もない先に迷いなく歩いて行ったのは、そういうことなんじゃないでしょうか」

 トオルの言葉に鈴子は何となく頷いた。

「行けば判る、か。どこか判らないけど、歩いて向かえば目的地が見えてくる、ってことなのね」

「でもそれって、生きている時と同じでしょうか。遥か昔の事のようで余り思い出せないですけど、とにかくどこかへ向かっていたような気がします。もちろん、高校へ行くために勉強するとか、就職するために色んな会社の事を調べたり、訪問したりと目的を持って歩いていた時期もあったでしょうけど」

「そうね。学生でいる時もテストはあったし、働きはじめてからも、その時々なりの目標を持って、それを達成するために頑張っていたことがあったし。でもそうじゃない時もあった気がする」

「そうです。でもとにかくその日を生きる、というかとにかく歩く、前に進もうとしていた気がします。立ち止まったり後退したりもしたけど、あの事故に遭って命を失うまで、なんとか前を向いて歩いていたんじゃなかったかな」

「そうやっている間に色んな壁にぶつかって、何とか超えようとしたり、迂回して別の道が無いか探してみたりしていたかも」

「ここでも同じなのかもしれません」

「死んでいるのに? 生きている人と同じように歩く訳?」

「そうなんじゃないですか? でも生きている時のように苦しい事や悲しい事や壁にぶつかるようなことがあるかは知りませんけど」

「そうか。でも人に傷つけられたり、殺されたりすることはなさそうね。今まで見送った人達も全員が別々の方向へ歩いて行ったから、関わることってなさそうだし。それに偶然会って何かの拍子で恨みを買ったとしても、既に死んでいるから殺される心配もないしね」

 少しふざけて答えると、彼は笑いながら首を縦に振って話を続けた。

「傷つけ合うこともないんじゃないでしょうか。先に逝ってしまった、会いたい人と遭遇することはあっても、必要以上に人と関わることはなさそうですよ。だって死んでいますから、食欲もないので食べる必要はないし、働く必要もないから出世欲とかもっと稼ぎたいとかの金銭欲もないでしょう。あと後輩や上司を嫌ったり、嫉妬したり、妬むんだり、貶めたりする必要もありませんから」

「そうか。ここでは欲、というか悪い煩悩のようなものを持つ必要がないのかもね」

 鈴子は彼の言葉に共感した。

「だと思いますよ。自分達の国や土地を持っている訳でもないし、お金だってないでしょうから、手に入れようとか他の人から奪おうとする必要もない。つまりあの世には戦争だって無く、喧嘩だって起こりようもなさそうだとは思いませんか」

「そうよね。国も無いし収める税金もないから、馬鹿な政治家に腹を立てたりしなくてもいいのか。第一、政治家なんてここにいるとは思えないし。あとは週刊誌なんかもないだろうから、他人のプライバシーを暴いて喜んだり、暴かれて怒ったり、他人の言動や行動に腹を立てることもないよね」

「ああ、でも小説とか本も無いかもしれません。それはちょっと残念かな」

「そうか。死んでいるから今更自己啓発やノウハウ本は必要ないと思うけど、テレビもないだろうから、小説の他にもドラマや映画や舞台などの物語を楽しむことが出来ないね。それはちょっと辛いかも」

「でも死んでいた時間が長かったから解りますけど、問題が起こりそうな欲が無い分、そういう楽しみたいというか、幸せになりたいとか、幸せにしたい、助けたいという思いは何故か残っていますよね。バスに乗って死者を送り迎えしている間もそうでしたけど、それは今、ここに立っていても変わりませんから」

「だったらもしかすると、そういう小説や本はあるんじゃないかな。死んでしまっても、こうやって考えることはできるから、物語を作ろうとする人達がいてもおかしくないわよね。もしあったら生きている時には叶わなかった、そういった本を読みながら穏やかにまたは楽しく幸せに過ごす、ということはできそうかも」

「そうであって欲しいですね」

「そんな都合の良い事、できるのかな」

 鈴子の呟きに、彼は下を向いて寂しそうに答えた。

「出来るかどうかは、向こうへ歩いて行ってみないと分かりませんけど、ゴンさんは大丈夫じゃないですか。僕は事故を起こして沢山の人の命を奪ってしまった責任があります。だから地獄行きが決まっていて、そんなのんきで平和な世界が待っているなんて考えちゃいけないのかもしれませんけど」

 これには鈴子が猛反論した。

「そんなことはないって! 責任は私にもあるんだから。それにもし死なずに済んで刑務所に入っていたとしても、最長でも七年程度で出てこられたでしょう。あなたは私とそれよりもっと長い間、案内人として死者をここへ送り届け、その度に犯した過ちを思い出しながら悔いてきたじゃない。罪を償う期間として十分だったかどうかなんて私達に判断はつかないけれど、これからさらに地獄へ行くなんてあり得ない!」

「そうでしょうか」

「そう信じましょう! バスが消えて案内人の仕事から解放されたのも、おそらくこれからは他の人達と同じように、あの世へ行く資格が持てたと思いましょうよ」

「いいんですかね。そういう欲は持っていいのでしょうか」

「それは行ってみないと分からないけど、とりあえず私達に出来ることは、前へ進むしかないのよ」

 ここでようやく彼は吹っ切れたかのように顔を上げた。

「そうですね。生きている時と同じように、この先何があるかは進んでみるしかないんですよね」

 元気を取り戻した彼を見て安心した鈴子は、冗談交じりに言った。

「そうよ。でも前よりも生きやすい世界だったらいいよね」

 彼は苦笑しながら、しかし自分に言い聞かせるように答えた。

「死んでいるのに生きやすいっていうのも変ですが、そうだと信じましょう。ここまで来たんですから」

「そうね。ここでいろいろ考えていてもしょうがないから、行きましょうか」

「行きましょう」

「じゃあね。私は何となくあっちへ行ってみたい気がするから」

「僕はこっちかな。別々になっちゃいますけど、それでいいんですよね」

「会いたいと思ったり寂しいと思ったりしたら、またどこかで会えるんじゃないかな」

「そうだといいですね」

「ここはあの世、天国なんだから何でもありだと思ってみようよ」

「そうですね。じゃあ、ゴンドウさん、いや、ゴンドウ先輩、いや、これも違うな」

 彼はそこで少し恥ずかしそうにして、顔を赤らめながら再度言い直して頭を下げた。

「お義母かあさん、長い間お世話になりました」

 鈴子は目頭が熱くなり、涙が溢れそうになった。そう、彼はすでに亡くなった夫の連れ子で、生前は余り懐かなかった義理の息子である。それは自分が夫との間に彼の弟となる子を産んだからかもしれない。

 それなのに、彼は成人してから鈴子の勤めるバス会社の運転手として就職を決めたと聞いた時は驚いた。しかし手塚六三四の母子が生き残ったケースとは逆に、義理の母とその息子が共に命を落としたのだから皮肉なものだ。

 ちなみに中村というのはバツイチの子連れだった夫の姓で、鈴子の本当の姓でもある。仕事上では結婚する前から名乗っていた旧姓を使っていたため、権藤のゴンちゃんと呼ばれ続けてきたのだ。

 鈴子は零れ落ちそうなる涙を堪え、答えた。

「トオル、こちらこそ長い間ありがとう。あなたがいてくれたから、これまで何千回とこのツアーをやってこられたのよ」

 頭を上げた彼の眼は赤かった。

「では失礼します。お元気で」

「死んでいるけど、そちらもお元気で。さようなら」

 最後に少しだけ笑い合い、鈴子は彼に背を向けて前へと歩き出した。彼も別の方向へと向かっている気配がした。

 しかし後ろは振り向かない。別れはとっくにあの事故が起こった時点で果たしたはずだ。今は二人の新たな出発点である。それこそ生まれ変わって別の人生を歩むことになるのだろう。そして会うべき時が来れば、またどこかで巡り合えるはずだ。

 この先に何が待っているのかは定かではない。それでも辛い事、悲しい別れを沢山経験してきた分、これ以上不幸になることはないだろう。生きている時もそうだったが、いろんな経験をしてきたからこそ、様々なことを乗り越えることができた。

 おそらくこれまでのバスツアーにおける体験は、自分が歩んでいくために必要な使命であり、試練だったのだろう。そしてようやく今、前へと進む資格を得たのだと思いたい。 

 そう、自分は生まれ変わったのだ。ここで新たな命が心に宿ったことを素直に喜ぼう。そしてこれからの未来は明るい事を期待したい。

 前方に会った霧のようなものが少し薄くなってきた。光が差しているように見える。バスに乗車した際に浴びた日の明かりとはまた違う温かさを感じた。鈴子の心は希望で満ち溢れていた。

 生きるということ、幸せな気持ちというものは、まさしくこのことなのだろう。鈴子は見えてきた光の先にある場所へと歩き続けた。

 その足取りはとても軽い。生老病死、あらゆる苦難を受け入れ、ありのままの自分でいる時こそ今なのだと確信し、顔を上げて前を向き、胸を張って進んだ。 (了)

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あの日、あの時、あの場所へ しまおか @SHIMAOKA_S

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