第五章 美佐子

 新谷しんたに美佐子みさこはバスツアーの三日目を迎えていた。

 一日目は長男の雄太ゆうたが生まれた日、二日目は初孫が生まれた日、三日目には夫を亡くした直後の、二人目の孫が生まれた日に戻った。いずれの場所も病院だったのは、偶然なのだろうか。

 夫を弔い、初七日が過ぎた直後に孫娘が生まれた。雄太の嫁、佐奈恵さなえはこんな時にと恐縮していたけれども、彼女には何の責任もない。悪いとすれば、孫娘の出産まで生きていられなかった夫であり、彼を殺した犯人である。

 弔事の後、孫の誕生という祝い事と、もう一人の孫、翔太しょうたの面倒に美佐子は追われた。その忙しさのおかげで、落ち込んだり悲しんだりする暇がなかったことは、今も思えば幸いだったと思う。

 さらに嫁達が気を利かせたのか、誠二郎せいじろうという夫の名から一文字をとり、二人目の孫を美誠みまと名付けてくれた。宗派などによって解釈は多少異なるようだが、初七日を過ぎれば亡くなった人は、この世から離れて仏様となるそうだ。

 そんな時に生まれたせいか、女の子なのに孫はどこか亡くなった夫と似ている気がした。もしかすると生まれ変わりではないか。そう思うことで美佐子の心を軽くしてくれた気がする。余り喪失感を覚えずにいられたのも、そのおかげかもしれない。

 彼が病院で刺殺されてからすでに三年が経っていた。

 この三日間、ツアーで訪れた時と場所は、雄太や孫に関わりがあるところばかりだ。その為昨日までは自らの人生を振り返り、幸せだった時のことを回想してきた。

 しかし初孫や二人目の孫の世話をすることで、心の奥にある寂しさや恨み、または自身が犯した罪の重さから逃れてきたことも確かだ。蓋で覆い隠そうとしていたことが、改めて身に染みた二日間だった。

 一つ年上の夫と知り合ったのは、美佐子が地元の看護学校を卒業して、全国各地に病院や施設を持つ大きなグループ企業に入社し、実家から通える病院に配属されて十年ほど経った頃だ。 

 地方都市に住む農家の次男坊として生まれ、東京の大学に合格して上京した彼は同じグループ企業に就職していた。そして二か所目の転勤で、新たな事務局員として美佐子のいる病院に配属されたのだ。

 当時はバリバリ働いていた中堅の看護師だったが、その分過酷な勤務により疲れが溜まっており、仕事を辞めたがっていた時期だったと思う。

 そのタイミングで彼が、

「結婚を前提に、私と交際をしてください」

と申し込んできたため、喜んで受け入れたのである。

 そして一年程付き合ってから結婚した。しかし看護師はしばらく辞めることなく続けた。結局子供ができるまで、同じグループの別の病院で働いたのだ。

 そんな共働きをしていた時期を経て、三十二歳で雄太を妊娠したため、ようやく病院を辞め子育てに専念することとなった。その二年後に長女のかおるを産んでから、十数年間専業主婦を続けた。

 しかし雄太が中三、薫が中一と大きくなって子供達に手がかからなくなったため、五十歳近くなっていたが、再び看護師として働き始めたのだ。

 理由は時間を持て余し始めたことに加えて、子供達の将来の教育費や自分達の老後の資金も必要になるからと夫や子供達には説明していたが、本心は別の所にあった。

 やはり看護師という職業に誇りを持っていて、人の役に立てるのであればまだ体が元気な間はやれるだけやってみよう、と考えていたのだ。

 そして十数年振りに夫と同じグループ会社でもあり以前勤めていた病院で、看護師が不足としていると聞いたため復職した。そこから十年余り、看護師の仕事に従事したのである。

 付き合っていた時や結婚後も過酷な仕事と理不尽な医師、使えない看護師達への愚痴を、職種は違うが同じ職場にいたため夫には聞いてもらっていた。その為再び働きだした後も、ほぼ同じような内容を繰り返すこととなった。

 十数年経っても看護師の立場から見る病院の問題点というものは、それほど変わっていなかったことに驚いたものだ。

 夫の晩年の職場は結婚当時とは異なり、一般の病院ではなく介護施設だった。それでも介護士だけでなく、看護師の資格を持った従業員は複数人いる。そのため美佐子が放った愚痴の中で事務局として対応できるものがあると、聞き流せなかったらしい。

 実際に指摘された問題点を、職場でも当てはまることがあれば、参考にして改善しようと心掛けたりもしていたようだ。そのおかげか、夫は事務局の中でも看護師達の働く環境に理解がある職員とみられ、評価されるようになったという。

 それが後に、事務局長という立場まで昇進した要因の一つになったことは間違いない。だから彼の出世は、美佐子による内助の功があったからだと自負している。

 昇進し順調に年を重ねていった夫もそうだっただろうが、美佐子自身も六十近くなって仕事も体力的に厳しいと感じ始めていた。そこでそろそろ仕事を辞めようかと考え始めた頃、長男夫婦の間に子供が生まれたのである。

 雄太は地元の高校を卒業した後東京の大学へと進学したが、その後はUターン就職で地元の信用金庫に勤めることとなった。そして同じ銀行の支店内で佐奈恵と出会い、社内結婚をしたのだ。それはまるで美佐子達夫婦と同じだった。

 佐奈恵は結婚を機に一度銀行を辞めることも検討したようだが、彼女が別の支店に異動し、そのまま働くことにしたという。中学の頃から共働きをする両親を見ていた雄太にとっても、妻が働きに出ることには寛容だった。

 それに彼らは将来、自分達の一戸建ての家を購入するか、または実家を二世帯住宅に建て直すための資金を溜めなければ、と言い出していた。

 だからだろう。雄太は実家近くの支店で働いていたにも関わらず、独身寮に入っていた。その為結婚を機に二人で住める部屋を探して住み始めていたが、ある日突然同居を切り出されたのだ。

「俺達さ。結婚して共働きしているだろ。それで将来の事を話していたら、今支払っている部屋代とか光熱費とかが馬鹿にならないことに気付いたんだ。やはり将来自分達の家を持つか二世帯住宅を建てるとなれば、生活費なども節約しないといけないと思ってね。そこで少なくとも資金が溜まるまでは、親父達と同居したらどうかと考えたんだけど、どうだろう?」

 部屋数はある。転勤族だった夫も美佐子と結婚して雄太が生まれたことで、この地に愛着を持ったため四LDKの家を購入していた。その為会社に対して職場の異動は、家から通える範囲内に限定されるよう申請し、認められていたのである。

 ローンの支払いもすでに完済していた。娘の薫は離れた土地へ嫁に出ていたため、子供達が昔使っていた二部屋は空いたままだ。二人が親離れしてから二階にあった三部屋はほぼ物置に代わり、自分達夫婦は主に一階にある和室とリビングとキッチンを使っていた。

 しかし雄太が家へ一人でやってきて同居の提案をしてきた時、夫は嬉しさよりも問題が起こりはしないかという懸念が先行したのだろう。心配気に尋ねていた。

「同居って簡単に言うけど、お前はともかく佐奈恵さんは本当に良いと言っているのか?」

 舅はともかく、嫁姑というものは同居をし始めるとよく問題が起きると世間では広く言われている。だからと美佐子の事を気遣ってくれたようだ。実際身近にもそういう家庭があった。

「大丈夫。ちゃんと二人で話し合って決めたんだ。二人共働いているから、部屋にはほとんどいないし。だからと言ってやらなければいけない家事は、二人で分担しなきゃいけないだろ。だったら親父達も今は共働きだし、四人で分担して一つの家で過ごした方が経済的で効率的じゃないかと思ってさ」

 その話が出た頃は、夫も事務局長として忙しい毎日を送っていた。美佐子も年齢を考慮して多少の融通は利かせていたものの、急な人手不足に陥った時にはヘルプ要員として夜勤を含め、変則的な勤務体系に組み込まれることもあった。

 したがって夫とさえ、生活のリズムが異なる日は少なくなかったのだ。食事だって自分が作り置きした物を食べさせる時もあれば、外食で済ませて貰う事もあった。場合によっては夫自身が朝食や夕食を作るなど、二人だけの不規則なりの習慣が出来上がっていた。

 そんな中、一つ屋根の下に同じく共働きであるとはいえ、基本的に土日は休みで朝晩の勤務時間が規則正しい二人と住むのだ。お互いの暮らしに悪影響を与えはしないか、嫁姑問題が当家でも起こりはしないか、と夫が心配したのも当然である。 

 そんな不安をよそに、とうとう雄太夫婦は二階へと越してきたのだ。美佐子達にそう決断させた理由の一つに、佐奈恵には両親がいなかったことも大きく関係していた。

 彼女が大学一年生の時、日帰りのバス旅行へと出かけた先で事故に遭い、二人とも亡くなったらしい。事故は運行していたバスの運転手が不慣れだったらしく、山道の急なカーブを曲がり切れなかったことにより起こったそうだ。

 スピードを出し過ぎたまま崖に転落し、乗客を含めて多くの死傷者が出たという。不幸なことに死亡した人達の中に、彼女の両親が含まれていたのである。

 一人っ子で未成年だった彼女は、その後母方の親戚とは疎遠だったこともあり、一時的に父方の祖父母が保護者となったらしい。

 幸い運行していたバス会社側の、若い運転手に対する指導不足なども過失の一因だったことが明らかとなり、保険以外にもそれなりの賠償金が支払われた。その為経済面で苦労することはなかったそうだ。

 それに親元を離れて一人暮らしをしていた彼女は、もうすぐ成人を迎える年齢だったことも運が良かった。祖父母の世話になることも実際にはほとんどなく、無事大学を卒業して就職することもでき、それからは自立した生活を送っていたようだ。

 しかし社会人になってから彼女の祖父母が相次いで亡くなったことで、今は頼れる親戚が誰もいないらしい。だから天涯孤独となった彼女は、これまで以上にしっかりと働いて生きなければならないと強く思ったようだ。

 そんな理由もあって雄太と結婚した後も、不測の事態に備えて専業主婦になることを拒み、働き続けることを選択したという。息子も彼女の意向を尊重し、その上で結婚を申し込んだと聞かされていた。

 そんな二人が一緒になって将来の人生設計を見据えた時、備えあれば憂いなしと考え、出来るだけ貯蓄しようと決めたのも無理はない。生活における効率性なども考慮した結果、美佐子達と同居することを選んだのは、そういった背景が影響したのだろう。

 その決断に至った過程の中で、義父母ではあるけれども一度失った両親との生活を求めている、という彼女の隠れた心の内を雄太が読み取ったらしい。後にこっそりとそう教えてくれた。

 そのような話を聞かされた為に、美佐子達も強く断ることができなくなったのだ。それ以上に自分達が彼女の親代わりとなり、心の支えになれるのならば協力したいと考えるようになった。そうして息子夫婦との同居生活が始まったのだ。

 そこで家に住む四人共が働きに出ていたことから、家事における役割をそれぞれに割り振った。台所に関しては美佐子と佐奈恵の間で、都合を付け合いながら行うことに決めた。

 勤務が不規則になりがちな美佐子とは違い、彼女は朝の九時から夕方六時までか遅くとも七時までの勤務と決まっている。その為朝食は夫や雄太、時には美佐子の分のお昼の弁当まで彼女が作ることになった。

 夜は夫と雄太が早く帰宅しても七時頃、遅くなれば十時を過ぎることもあった。よって基本的には美佐子が主導権を持って作るが、夜勤が入ったりして時間的に無理な場合は佐奈恵が対応する、と取り決められたのだ。

 そうなると彼女の負担が大きすぎる。それを軽減するために、家の中の掃除や家族の洗濯物などは主に美佐子が担当した。その主導の元で夫や雄太にも、それぞれ担当を持たせるなどの工夫を凝らした。

 そうして恐る恐るスタートした同居生活だったが、心配していた嫁姑問題も起きず、大きく揉めるような事態にはならなかった。細かい諍いは多少あったものの、全員が働きに出ていた時には、互いに顔を突き合わせている時間が少なかったことも影響していたと思う。

 しかし事態が大きく変わったのは、佐奈恵が妊娠をして産休に入った頃からだった。そろそろ仕事を辞めようかと考えていた美佐子は、そこですっぱりと看護師から足を洗い、今まで彼女が担っていた家事全般をやるようになったのだ。

 美佐子が仕事を辞め、家事の主導権を握ると決めたことは正しかったと思う。無事翔太という男の子を出産した嫁を労り、初孫の面倒も看られたことは間違いなく幸せだった。

 だから彼女が産後休暇を貰った後にすぐ職場復帰すると言い出した時も、代わりに家事だけでなく、孫の世話をすることなど全く厭わなかったのだ。そうすることで引き続き嫁姑問題は起きずに済んだことだけは幸いだった。

 ただ問題があったとすれば、孫の育て方に関することだろう。この件については良く揉めた。ついつい甘やかしてしまう美佐子に対し、雄太と佐奈恵は困ると何度も注意されたからだ。

 そんな時夫は立場上、妻の味方をせざるを得ない。孫が可愛いのは彼も同じだ。自分も早く定年退職し、毎日孫の顔を見てのんびり暮らしたいと言い出していたほどだった。  

しかしそれを美佐子が諌めた。

「あなたにはもっと働いてもらわないと困るわよ。孫の将来の為にも二世帯住宅を建てる資金を確保するためにもね。私が仕事を辞めた分、あなたは働ける限り仕事を続けてくださいよ」

 この言葉が後で大きな悔いになるとは、この時想像もしていなかった。

 夫は事務局長という立場でそろそろ定年を迎えようとしていた。しかし会社からは、期間を延長してその後も引き続き働いて欲しい、と声をかけられていたという。

 しかしその頃仕事で様々な問題が発生していたため、正直再就職をする気力は徐々に無くなっていたようだ。年々施設の入居者達への対応が難しくなる中、責任のある管理職についていたため、様々な調整で神経をすり減らす毎日だったらしい。

 加えて家に帰るとそれこそ目に入れても痛くないほど愛らしい孫がいる。夫にとってかけがえのない安らぎを与えてくれる、唯一と言っていい癒しをもたらす存在だったのだろう。その為本音は、できれば定年の延長を避けたかったようだ。

 しかしその希望を断ち切ったのは、美佐子による一言だったのかもしれない。夫の死後葬儀に出席してくれ、同じ施設に勤めていた部下達から話を聞いた。すると一日でも早く会社を辞め、一秒でも長く孫と過ごす時間を増やしたいと話していたことを知ったのだ。

 とはいっても施設では様々な問題が毎日のように起き、現実問題としてはそれもままならなかったという。特に患者による職員に対するセクハラ問題が解決せず、泥沼化していた件は最悪だった。

 そのような問題があることは、美佐子も多少把握していた。夫が帰宅した時にアドバイスを求められたからだ。しかしそれが殺人事件にまで発展するなど、あの時は考えもしなかった。

 事件の経過を知るにつれ、夫はできれば早期退職でもして厄介な揉め事から解放されたかったのではなかったのかと想像し、それを阻んだのは自分だと責めた時期もあった。

 もちろん上層部からも続けて欲しいと頼まれていたことは確かだ。現場で起こる様々な問題解決に、力を貸して欲しいと頼られていたらしい。

 ただ部下達からは毎日のように苦情が集中し、夫自身の疲労は溜まる一方だったのだろう。そうかといって生真面目な彼が、目先にある仕事を放り出すことなどできるはずもない。

 セクハラ事件に関して、問題を起こしていた入居者を追い出すという強引な手法を取る判断に至るまでは、なかなか時間がかかり難しい状況だったと聞く。おそらく夫は上層部と現場との板挟みになっていたはずだ。 

 彼は現場職員のまとめ役に指示して注意をさせたり勧告させたりしたが、一向に収まる気配は無かったらしい。その為止む無く担当替えで様子を見ることにしたという。それがさらに騒動を大きくしてしまったそうだ。

 問題を起こしていた入居者の行動は、すでに動画などで証拠を押さえていた。行為自体はかなりエスカレートをしており、警察に相談しても良いレベルだったともいう。

 それでも上からは、何とか施設内で対応しろと言われたようだ。しかしそこまで酷くなると被害女性から警察に通報されたり、会社が訴えられたりすることもあり得る。

 そうなる前に、どうにかして解決しなければならない。夫は入居者の強制退去もやむを得ないと、何度も上層部にかけあっていたらしいとの説明を後に受けた。

 そしてようやく上の承認を得て背水の陣で対応に及んだところ、事件が起こってしまったのだ。

 前担当者である五十嵐を呼べと入居者が騒ぎ出したらしい。その為最後に一度だけ直接彼女によって説明し、最終通告する案が事務局で出た。

 それは危険だという意見もあったそうだが、他に解決策も代替案も無い状況だったため、やむなく上層部の指示を仰ぎ了承を得たそうだ。

 やがて新担当者の男性と夫が同席する中で、問題を起こす入居者に対し説明することが決まった。それでも施設側の言い分を聞いてもらえない場合、会社としてもこれまでの行き過ぎた行為を考慮し、退去して貰うしかないと決断したらしい。

 だがその考えが甘かったのだろう。女性職員が説明をし始めた途端、問題の入居者が逆上してナイフを振り回す騒ぎとなったのだ。そして咄嗟に止めに入った夫達は被害に巻き込まれ、標的となった彼女は複数回刺されて死亡した。

 結果、夫と女性の二名が命を落としたのだ。新担当者の男性も重傷を負ったこの大事件は、全国ニュースでも流れるほど大きく取り上げられた。そして現場となった施設は後に閉鎖されたのである。

 しかし犯罪被害者遺族となった美佐子は、この事件で思い知ることになった。被害者やその関係者達の怒りは、加害者である高齢の殺人犯に対してだけに向けられるのではない。 

事件を起こした経緯からも、責任者だった夫の対応は適切だったのかと、殺された五十嵐という女性の遺族に責められたのだ。

 マスコミも同様だった。会社上層部の対応にも問題があったと記事を書いて叩いた。その余波として、被害者であるはずの夫さえも過失があったのでは、と強い非難と誹謗中傷を受けたのである。佐奈恵が美誠を産んでしばらく経った頃の事だ。

 その為生活は一変した。ただ周囲からの風当たりが強い中でも、美佐子や息子夫婦達は生きていかなければならない。

 夫の死によって会社から死亡退職金や掛けていた保険金などが出たため、自分一人ならば経済的に困ることはなかった。しかし若い息子夫婦やその子供達は違う。

 本心を言えば、彼らはこの家からすぐにでも出て行きたかったのかもしれない。だが現実問題として二人の幼い子供がいる。その為美佐子の手を借りなければ、佐奈恵は育児に時間が取られ、会社を辞めなければならなくなるだろう。

 子供にはお金もかかるため、家を建てるどころか将来の生活に不安が残ることも考えられた。家を売って別の所に新居を構える手もあったが、夫と長く暮らした家とこの街から離れることなど、美佐子にとって簡単に決断出来ることではなかった。

 やがて佐奈恵が産休により三カ月ほど家の中で籠っている間、マスコミや近所の人達によるプレッシャーが少しずつ落ち着いてきた。そのタイミングを見計らって、彼女は職場へと復帰したのである。

 一人目の出産時における産休が会社でのキャリアに響いていたらしく、また少しでも蓄えておかなければと考え焦っていたのかもしれない。この時はさすがに美佐子も異を唱えた。翔太の時は六カ月ほど産休を取っていたため、同程度は会社を休むと思っていたからだ。

 佐奈恵の代わりに孫の面倒を看ることはできても、あくまで自分は祖母であり母親ではない。子供はある一定の期間、母親の愛情というものを与える必要があると考えていた。もちろん働きに出ること自体を反対していた訳ではない。

 だが実の母親でないといけないものもある。だから少なくとも翔太の時と同じ期間は一緒にいてあげて欲しかったのだ。しかも沈静化しつつあったとはいえ、まだ近所の目もあった。

 しかしそれは聞き入れられなかった。佐奈恵は会社に早く戻りたいと言い張ったのだ。その思いを止められない雄太は、結局彼女の味方をした。

 そうなると我が家での結論は自ずと決まる。夫がいなくなってからは、見解が分かれると必ず長男夫婦との間で二対一になった。つまり美佐子の意見は通らず、彼らの意向に沿わなければならなくなったのだ。

 いなくなって初めて痛感したのは、やはり夫という重しが存在していたからこそ、息子夫婦達との同居が上手くいっていたことだ。

 彼を失ってからの家の主が自分ではなく雄太に移ってから力関係が変わり、生活しづらくなった。情けないことに、それまでないがしろにしていた夫の有り難みをそこで知ったのである。

 皺寄せは全て美佐子が被ることになった。家事全般を担うだけでなく、一人目の時にはいなかった小さな子供の世話をしながら、赤ん坊も看なければいけない。

 それでも夫の死による悲しみを紛らわすかのように、忙しい毎日を過ごし没頭していた。そういう暮らしが当たり前になってしまったから、息子夫婦をさらに甘やかしてしまったのだろう。

 夫亡き後の新谷家の跡継ぎは俺だと、長男である雄太の意識と責任感が高まったこと自体は悪くない。けれど息子と共に、嫁である佐奈恵の発言力もまた大きくなったことはいただけなかった。

 特に美誠の面倒を見始めた途端、働きに出ていた彼女は以前に増して仕事が忙しくなったようだ。その為家事や子育てを疎かになっていないかと、何度も感じるようになった。その為雄太達と意見の相違から、美佐子の意向が通らないことに苛立つことも増えた。

 もちろん辛いことばかりではなく楽しい事もあった。最も可愛い盛りである二人の孫の成長が毎日間近で見られるのだ。

 翔太の世話をしていた頃、夫もたまの休みにはともに面倒を看てくれ、鼻の下を長くして相手をしてくれた。彼は早く会社を辞め、孫の世話をして過ごしたかったと言っていたほどだから、本当によく可愛がっていたものだ。

 それが叶わない今となっては、美佐子が代わりにこの得難い感動を味わえるだけでも幸せなことだと思えた。大変ではあったがそれ相応の喜びを得られたことは確かだ。

 しかし子供といる時間を過ごす幸せより、佐奈恵は仕事を選んだ。息子夫婦の考え方もあるのだろう。しかしどうしても納得できなかった。それでもあの頃はそんな生活を続けていくしか方法がなかったのかもしれない。

 二人の孫の世話はとても忙しく厳しいものだった。美佐子には雄太と薫の二人を産んで育ててきた経験がある。しかしその頃は若く、ずっと体力があったからできたのだろう。還暦を超えた今となっては当時のように体が動かない。

 それに翔太一人だった時は、たまに夫がいたから助かった面もある。翔太と夫の二人を看なければならないという面倒な部分もあったが、片方は大人だ。放っておいたってそうそう死にはしない。

 だが翔太は違う。それゆえ目が離せない。食事を作ったりしている間は、火を使うため傍に置いておけない場合がある。そういう時には夫がいれば、しばらく相手をして貰うこともできた。しかし今はそれができない。

 夫の世話をする必要が無くなった時間を、美誠の相手に充てればいい、といった単純なものでもなかった。成長した翔太がうろちょろと走り回るために、以前よりもっと注意が必要となったからだ。

 といって美佐子一人しかいない中で、掃除や洗濯の他にも食事の準備を行わなければならない。そこで美誠を背負いながら翔太には走り回らないよう、好きなアニメを流してじっとテレビの前に座らせておく、といった工夫をしなければならなかった。

 しかし問題はそれだけではなかった。最近までは歩いて五分もかからない所にあったスーパーが潰れてしまったのである。その為歩けばおよそ二十分かかる別の店へと出かけなければならなくなったのだ。 

 そうなると家に置いておいけない孫達を連れ、買い物に行くことになる。美佐子は運転免許を持っていなかったため、車で移動することができない。代わりに電動自転車はあった。とはいえ前後に二人を乗せてバランスを取ることは、美佐子にとって難しく怖かった。

 だが歩けば時間もかかる。その上他の自転車もやたら通る道だったため、出かける度に何度も危険な目に合ってきた。それも当然と言えば当然だ。

 というのも美佐子達の住む県は、全国で死亡事故件数が十数年連続一位だった。しかも近年、自動車事故の死亡者数が減少傾向にある中、自転車による事故件数と死亡者数は増えているという。

 さらにこの街を含む地域は、自転車事故による死亡者数、事故件数が県内でもトップクラスだったと広報誌でも取り上げられていた。

 生協などを利用して宅配して貰うことも考えたが、長年の習慣から生鮮食品などはやはり自分の目で見て購入したかった。ネットによる買い物を躊躇したのもそれが理由だ。その為佐奈恵にお願いすることもできない。

 そこで止む無く孫二人の手を引いて歩き、遠いスーパーまで行くしかなかった。しかし歩く距離が長くなれば、それだけ危険度は増す。良く通る自転車の乱暴な運転に何度も困らされた。

 スピードを出して我が物顔で歩道を走る自転車に怯え、時には退けと言わんばかりにベルを鳴らされたこともある。そういった行為が道路交通法違反になることを、彼らは理解していないのだろう。

 美佐子は無謀な運転をする自転車を見て、何度も腹を立てたものだ。加害者になってしまったらどうなるかなど、考えに至らないのだろう。逆の立場になった場合どうなるかなんて想像力は無いに違いない。

 そこでほぼ毎日続くこの危険な状態に我慢がならなくなり、美佐子は孫達と安全な生活を送るためにも、町内会長の押田おしだに相談してみた。

「何とかなりませんか」

 今年確か七十歳になる、長年市役所に勤務して退職した方だ。今は老後を満喫しながら地域活動に勤めている会長とは昔からの馴染みで、奥さんの雅恵まさえとも懇意にしている。  

 押田夫妻もまた共働きの息子夫婦と同居していた。翔太と同い年の真由まゆという孫娘がいて、平日の昼間は彼女の面倒を看ていることが多かった。

 そのためどこへ行くにしても二人の孫を引き連れていかねばならない美佐子にとって、押田家は数少ない避難場所でもあったのだ。

 雅恵や会長と話をしている間は、目の届く範囲で孫同士を遊ばせることが出来た。他の家では迷惑をかけてしまうという遠慮があったため、長話をすることなどなかなかできない。

 その点、押田家なら幼い子供同士が夢中になって遊んでいても、見守ってくれる大人が一人はいた。そして孫達が疲れて眠ってしまえばしめたものだ。大人同士でゆったりとしたひと時を過ごすことが出来る。

時には孫を連れた雅恵が新谷家へ遊びに来ることもあった。ママ友ならぬ婆友ばばともだ。

「難しい問題だね。この町内だけのことなら回覧板を介して注意喚起したり、住民に呼びかけて自転車教習会を開いたり、ある一定の時間帯だけ歩道に立って監視したりもできるだろう。だけど新谷さんが行くスーパーまでは、いくつもの別の町内を通らなければならないでしょ。地区をまたげば、私の力だけでは解決できないから」

 押田会長がそう言うと、雅恵が横から加勢してくれた。

「でもあなた、私もあそこのスーパーへ買い物に行くけど、同じ危ない目に何度もあっているのよ。私が出かける時は、あなたに真由を預けて一人だからまだいいけど、美佐子さんのように二人も連れて歩いていたら、それは大変だと思うわ」

「来年になれば、翔太を幼稚園に預けられるし、美誠一人になるから少しは楽になるのだけれど」

「そうね。真由も来年からは預けようという話をしているし、美誠ちゃん一人なら買い物の間だけでもうちで見てあげられるけど」

 美佐子の悩みに彼女はそう声をかけてくれたが、自分の家の孫を他人の家に預けて買い物へ行くというのは甘えすぎだ。そうそう頼める話ではない。看るほうだって責任があるため、何かあっては大変である。 

 しかも自分達の子なら、そういうこともできるかもしれない。しかしあくまで孫は、息子夫婦達の子だ。面倒を看ているのは自分だと言っても、彼らの許可なくして勝手なことは出来なかった。

「孫の世話をしたくないとは言わないが、面倒を看るというのはそれだけ大変なことがあると、もう少し息子夫婦達も認識してくれていればいいんだが」

「そうよね。うちは二人で一人を看ていても大変だと思うことがあるのに、美佐子さんは一人で二人も世話をしているんだから」

 風向きがお互いの息子夫婦達への愚痴に傾きかけたので、美佐子は話題を戻した。

「確かに町内は違っても、近くのスーパーが無くなったことで同じように苦労している方は多いんじゃないかしら。遠くなって歩く距離が増えたでしょう。。私達よりもっと高齢な方々なら、危険も多いから買い物に出られないと思う人もいらっしゃるんじゃないかな」

「そうだね。テレビのニュースなんかでもたまに扱われているけど、いわゆる買い物難民問題がこの地域にも起こりだしたんだよ。今までは他人事だと思っていたが、そんなことも言っていられなくなったな」

「そうよ。他の自治会との集まりかなにかで、どうにか対策を取ってもらわないと。あなた、今度の集まりはいつなの?」

「ちょうど来週にあるから、そこで一度問題提起してみるか。その前にいろいろ根回しをしておこう。そのほうが話も進めやすい」

 そうして元市役所職員だった押田会長はこれまでの人脈を使い、買い物難民問題を含めて道路交通マナーの改善、歩行者、特に高齢者や小さな子供達の安全を確保する対策を取るよう、各所に働きかけ始めたのだ。

 そういった活動の中で紹介されたのが元民生委員のみなとだった。彼はかつて長い間、隣の地区で民生委員と児童委員を務め、地域活動を積極的に行ってきたらしい。

 今は七十五歳の定年を迎えて後任に席を譲っていた。だが押田達の話を聞いて全面的に協力すると言ってくれたのだ。彼が口だけではなく、実際に動き出してくれたことはとても幸運なことだった。

 というのも押田を中心とした自治会や、それぞれの地区における現役の民生委員達は、事が重要な案件だと理解しながらも、現実に抱える目の前の仕事で忙しい。よって新たな課題に取り組むほどの余力がなかったからだ。

 該当する地区の住民の中から選出される民生委員とは、民生委員法という法律に基づき、都道府県知事の推薦により厚生労働大臣が委託する、非常勤の特別職の地方公務員にあたる。

 しかし活動における交通費などの実費や年数万円程度の手当てが支払われるだけで、給与の支給はない。

 それでも各担当地区における住民の生活状態を把握し、援助することを目的とされ、複雑な家庭事情まで入り込むことを求められる民生委員は、相当な人望や見識、信頼を得た人でないと務まらない役割であり、誰でも良いというわけにはいかないのだ。

 それなのに近年の個人情報保護法による世帯情報の管理問題を抱えながら、独居老人の見回りや保護、幼児虐待や若者、老人の引きこもりといったことに対応している。さらには妊産婦問題など、多様化する家庭環境の対応も困難を極めているらしい。

 その為やってもいいと手を挙げる人は年々減少し、常に人材不足の状態だという。それも仕方がないだろう。どんどんと核家族化が進む中で、地域活動のたぐいが少なくなった。

 都会であればあるほど周りの人々との交流も希薄で、関心を持たない、いや関係を持ちたがらないという世の中である。

 さらに様々な人と関わることでトラブルも発生しやすい環境の中、美佐子などもその一人だが、現状は自分達の生活のことで精一杯だった。そのような状況で国の法律に基づく厳しい制限を課された中、厄介な仕事をほぼタダ働きでするのだ。なり手がいなくなるのも無理はない。

 しかし湊は五十五歳で役所を定年退職した後、二十年にわたって民生委員兼児童委員を続けていたという。

 民生委員法には、“援助を必要とする者がその有する能力に応じて自立した日常生活を営むことができるように生活に関する相談に応じ、助言その他の援助を行うこと”とある。

 さらに、“援助を必要とする者が福祉サービスを適切に利用するために必要な、情報の提供その他の援助を行うこと”が職務であると、条文には記載されていた。

 湊はこれらの精神に則り、現役の民生委員達が手に負えない、美佐子達が訴えた新たな取り組みに自ら手を挙げて動いてくれたのだ。

 まず彼はこれまで築いてきた伝手を使って警察へと足を運ぶと言い出した。そこでスーパー周辺と住宅地を結ぶ地域を管轄する交番勤務の警察官や、交通課の人達に交渉してくれたらしい。

 そのタイミングが良かったのだろう。相談を受けた所轄の警察署も実は頭を悩ましていたという。というのも県警本部から自転車事故が多い地域だから、事故防止に対する取り組みを特に強化せよ、とのお達しがあったそうだ。

 その結果湊達の陳情が効いた。そしてまずは自転車事故の取り締まりに特化した部隊の編成が計画された。そして今後大きな事故が起きないよう、注意喚起する取り組みについて検討し始めたのだ。

 早速湊が依頼した次の週から、試験的にスーパーと近くの幼稚園や保育所に、交通課や交番勤務の警察官が出向いてくれた。そして集まってくる客や通ってくる保護者達に対して、声かけを行ってくれたのだ。

特に近年増えている自転車事故に関して、交通ルールの徹底と、マナーを守ることの大切さを訴えてくれたのである。そうした運動が評価されたのか、実施する地区が徐々に拡大され、とうとう市内全体で特化部隊が本格活動することが決定した。

 加えて湊を始め、地域の現役である民生委員や町内会の人達も立ち上がった。子供達や地域に住む高齢者達を守るために、交差点などに立って交通ルール順守の呼びかけ運動を行ってくれたのだ。

 とはいっても交通違反やマナーの悪い人達は完全にいなくなる訳では無い。一部には若い学生や、何度注意されても理解しようとしない老人や若いママさんなどは必ずいる。

 そこで交番勤務の方々や交通課の人達が、特に危険と思われる個所は定期的に巡回したり、道に立って取り締まったりもしてくれた。

 自転車事故に対する取り組みを継続して行う体制がこうして整った。そのおかげで危険な自転車の運転をする人は徐々に減り、美佐子達は以前よりずっと安心して出かけられるようになったのだ。

 買い物へ行くことに対する不安とストレスは、徐々に軽減されていった。こんな有難いことはない。そしてより住みやすい環境へと改善が進んでいく間に新年度に入ったため、翔太が幼稚園へと通えるようになったのだ。

 それからは買い物へ出かける時は美誠と二人になったことで危険はさらに減った。そして道に立つ方々へ声をかけたり挨拶をしたりするなどの、地域における交流もますます増えたのである。

 これまでは孫の世話など、自分達の事だけで精一杯だった。それ以前も仕事で忙しく、勤務先などでの狭い世界でしか、長い間美佐子は生きてこなかった。

 それが周囲と関わることで繋がりが生れ、人脈も広くなって助け合い、声をかけあい励まし合うようになったのである。知らない間に、自分は孤独な狭い世界で生きていた事に気付かされた。そこから解放され、目の前が広がったような幸せを感じるようになったのだ。

 しかし全てが順調に動き出していると思われていた頃に、あの事件は起こった。

 いつものように買い物を済ませて食事の支度を始めようとした美佐子は、買い忘れた調味料があることに気がついた。

 外は少し暗くなり始めていたのでどうしようかと躊躇したが、佐奈恵はまだ帰宅していなかったため孫達の事は頼めない。押田夫妻も今日は外出して遅くなると聞いていた。

 目的のものはスーパーまでいかなくても、少し割高だが近くにある自然食品の販売店でも売っている。家には美誠だけでなく、すでに幼稚園から帰ってきた翔太もいたが大丈夫だろう。そう油断したことが間違いだった。

 孫達の手を引き、歩いて数分の店までの薄暗い歩道を、自転車に注意しながら歩いていた時だ。顔見知りの人に会った。ちょうど買い物に出かけ、帰ってきたらしい近所の若い女性である。大きな荷物を抱えながら、よちよち歩きの男の子の手を引いていた。

「あら、こんばんは」

 距離が近づいたため、そう声をかけた時だ。

 相手が返事をするかしないかのタイミングだった。スピードを出して車道を走ってきた車が、何故かこちらに向かって走ってくるのが見えたのである。

 この道路は夕方の時間なら交通量は少ないものの、片道二車線で昼間は多くの車が走る大きな道路だ。時々トラックなどがスピードを出して走っている場合もあった。

 アッと思った時には無意識に体が動いていた。彼女は重い荷物を抱えてしかも幼い子供を連れている。すぐには動けそうもなく、しかも車に背を向けていたため、危険が迫っていることに気付いていない。

 車が飛び込んでくる前に、まず子供達と彼女を避難させなければと思った。そこで叫びながら最も近くにある玄関先へ、全員を抱えるようにして飛び込んだのである。

「危ない! 避けて!」

 その時すでに車は目の前まで接近していた。相手はありえないほどの速度で、一直線に歩道へと向かってきている。

 全く想定外のことだった。注意して歩道を歩いていれば安全だと思っていたが、こんなことが目の前で起こるなど想像したこともなかった。

 美佐子は子供達と女性を引きずるように他人の玄関先へと走ったが、もう間に合わない。撥ねられると思った瞬間、咄嗟に子供達を突き放した。

 その後に衝撃を感じたが、そこからの意識はない。

 後で判ったが、車は美佐子を撥ねまいと咄嗟にハンドルを切っていたらしい。だが間に合わなかったそうだ。そのままコントロールを失って歩道へと突っ込み、電信柱に衝突して大破したという。

幸い孫達と若い女性とその子供は、擦り傷程度の怪我で済んだ。しかし気付かなかったが自分の他にもう一人、車が衝突して停車した場所の近くに立っていた老人がいたらしい。その人も被害にあって病院へと搬送されたという。

 完全に意識を失う前に、美佐子の脳裏によぎったことは、これで夫の元へ行けるという喜びと、残された息子夫婦や孫達には迷惑をかけてしまい、悲しみと苦しみを与えてしまうだろうというやり切れない思いだった。

 こうして亡くなってから自分の人生を顧みた時、本当に良かったのだろうかと考えさせられる。

 途中十数年のブランクがあったとはいえ、看護師として二十年以上勤めてきた。今回のツアーで訪れた思い出の地もなぜか病院だ。自分でもよく働いてきたと思う。ここで多くの患者と出会い、感謝されることも少なくなかった。

 もちろん悲しい別れだって経験したこともある。看護師を含め医師達があらゆる手を尽くしたが力及ばず、遺族達に責められたこともあった。

 だが夫のように命を奪われるほど恨まれたことはない。当時はあの事件の犯人を憎んだ。裁判では高齢で障害者、独り身で同情したくなる環境により、情状酌量されはしないかと心配したものの、二人も殺して一人に重傷を負わせたのだから死刑になることを望んだ。

 しかし裁判が長く続き判決が出るまでの間に、心境は徐々に変わった。孫達の世話をすることで忙しく、またその後は街の交通事情を良くするため湊らと動き、安心安全な地域コミュニティの形成に邁進していたからだろう。

 犯人への憎しみが時薬によって和らいだことも事実だ。それにどんな判決が出ようとも夫は帰ってこない。

 しかも加害者は高齢なため、例え死刑になったところで刑が執行されるより病気などで亡くなる可能性の方が高いと思われた。

 それに彼は暴走する車に巻き込まれ、交通事故で障害を負った被害者なのだ。もちろんそれでも人を殺していい理由にはならない。

 だが年齢を考慮して無期懲役となり、死の瞬間まで犯した罪を反省し続けた方が良いのではないかと思い始めたのである。

 しかし被害者は夫だけではない。もっと若く、そしてあの事件の一番の被害者である若い女性の父親は、強く死刑を望んでいた。というのも彼は若い頃に母親を、さらに奥さんと父親も亡くしていたため、娘を殺されたことで一人きりになってしまったらしい。

 そのためそれまで仕事で忙しかった彼は会社を辞めて被害者遺族の会に入り、犯人を死刑にする運動を懸命に続けていたというのだ。

 美佐子は彼の気持ちも痛いほど判った。だからこそ刑に対する思いの変化は、ずっと心の中だけに閉まっておくしかなかったのだ。結果、時間はかかったが当初望んだ通りの死刑判決が出た。

 そして刑が確定した後、同時に進行していた民事による賠償金の請求を行っていたため、彼の所持していた財産から約一千万円の賠償金を受け取ることとなったのだ。

 息子夫婦達は、夫の命をたった一千万かと憤っていたがそれもやむを得ない。他の遺族や被害者達がいる中で、一千万円も支払われることは他の刑事事件と比べればまれだと聞いた。

 支払い能力がない、または加害者遺族を含めて支払う意思がないために、賠償金が一円も手に入らないというケースも多々あるそうだ。

 しかも夫の死によって他の死亡保険金などが入った。おかげで経済的に困窮する状況ではなかったが、お金が入ってきても来なくても夫は生き返らない。挙句の果てに、自分自身が交通事故で命を失うことになった。こんな皮肉な事があるだろうか。

 夫を殺した犯人を、一時死刑にして欲しいと願ったために起こった天罰なのだろうか。それともこれまで自分が見送った患者さん達や、その遺族の恨みが祟ってのことなのだろうか。

 そうではないと信じたい。これでも一生懸命、病や怪我で苦しむ人達の手を取り、励まし、力になってきたと思う。看護師を辞めた後も、孫達の面倒を看ながら地域の為に力を尽くしてきた。

 だがその結果が暴走車に撥ねられて死ぬという結末を迎えたのだ。これが理不尽でなくて何というのだろう。まだやりたいことはたくさんあった。孫達の面倒だってそうだ。美佐子が世話をしないと佐奈恵は大変になるだろう。

 夫から受け取った遺産や自分の死による保険金などにより、雄太や薫達に残される財産は少なくない。家だってある。よって彼女が仕事を辞めることになっても、しばらく経済的には困らないだろう。

 将来自分達の家を建てると言っていた夢も、二世帯住宅にする必要が無くなった今となっては、あの家を自分達の好きなように改装・改築すれば良い。または土地ごと売却してしまって別の場所で新しい家を購入したっていいのだ。

 それでも彼女は仕事を辞めたくなかっただろう。将来の事を考えて貯蓄しなければと口では言っていたが、本当は仕事をし続けたかったに違いない。子供の面倒を看るのが嫌だったとは思わないが、それ以上に家の中で居続けることが怖かったのかもしれない。

 彼女は両親を亡くしてから、一時期は祖父母の世話になっていたとはいえ、社会人になってからも一人でいることが多かったと思う。その寂しさを紛らわすために一生懸命働いていたのだろうと、雄太から聞いたことがある。

 夫を亡くした頃の美佐子と同じく、忙しく動き回ることで気を紛らわしていたのかもしれない。だからこそ美佐子は生きていたかった。彼女の代わりに孫の面倒を看てやりたかった。

 そして雄太達のような若い世代や翔太達の孫の世代でも、安心安全に暮らせる街にするため、もっともっと取り組めることはあったのだ。

 それなのに何故、自分だったのか。愚かな若者の不注意による暴走のせいで死ななければいけなかったのか。夫婦揃って他人に殺されなければならなかったのか。

 夫の時もそうだ。裁判での証言によると、犯人は担当から外れた女性職員に対して裏切られたという憎しみから殺意を持っていたという。彼女は十数か所刺されたことからもそれが伺える。

 ただ担当を変えた施設への恨みに関しては確かにあったことを認めているが、それは主なものではなかったらしい。

 つまり夫が殺されたのは、単なる巻き添えだったのだ。現に 一緒にいた若い新担当者は二か所刺されたが、場所が幸いしたのか一命を取り留めた。

 対して同じく二か所刺された夫は致命傷を負って亡くなった。裁判でも犯人は夫や若者への殺意を否定している。

 しかし犯人の行為は大変身勝手なもので悪質だと裁判員達も判断し、高齢で障害者ではあったが死刑という厳しい判決が出たのだ。

 一方、車で轢き殺された美佐子の場合、運転者は電柱に激突して死亡している。ただ彼の場合は命で罪を償ったのではない。結果的に自らの過失で亡くなっただけだ。

 裁判にかけられることもなく、反省する機会も与えられず、非難も浴びずにこの世を去っていた。この男に対しては夫を殺した犯人とは違い、全く同情の余地はない。

 彼の死後、明らかになった仕事上での悩みなど、美佐子の知ったことではなかった。それに事故を起こした原因は、スピードの出し過ぎと運転中にスマホを操作していたからだ。    

 もし彼が事故で亡くなることなく裁判になっていたとしても、夫を殺した老人のような死刑判決がでることはない。

 それどころか過失運転致死障害であれば最大でも懲役七年以下だから、下手をすれば数年で出所してきただろう。事故の被害者で死亡したのが美佐子一人、重傷を負った老人一人と残り四人は軽傷で済んだからではない。

 例えその場にいた六人全員が死んだとしても、車によって引き起こされた事故だから、運転者が死刑になることはないのだ。三人を死傷させた老人が死刑判決を受ける一方で、六人を殺した運転手でも死刑にならないのが、この日本における法律だ。

 人を殺した凶器がナイフか車か、そこに殺意があったかなかったかという違いでそうなっている。こんな馬鹿なことがあっていいのだろうか。

 車というものはとても便利なものだが、普通車でも重さ一トン以上あるものを動かしているのだ。少し運転を誤れば簡単に人を殺すことができる、とても危険な凶器でもあることを忘れてはいないか。

 現に大量殺人を目論んだテロ事件の多くで、車が使われている。それなのに自動車事故で人を殺した場合の罪が軽過ぎはしないか。

 だからといって他の殺人事件同様、二名以上殺したら死刑にして欲しいと思っている訳ではない。事故の場合、そこに殺意があるケースは少ないだろう。死者数は場所やその時の状況による偶然性に左右される。

 だがやはり死者を出す、または被害者が後遺障害を残すような事故を起こした場合、罪を反省すべき期間を今以上に長くすることが必要ではないだろうか。

 それに軽傷だったから良いという問題ではない。それだって結果論だ。もしかして打ちどころが悪ければ死んでいたかもしれない。事故であろうと刺殺されようと、その人の人生と残された遺族の人生に大きな影を落とすことは変わらないだろう。

 軽傷で済んだ被害者も、目の前で人が跳ねられた瞬間を見ていたことで、心に傷を負ってPTSDに陥ることだってあるのだ。事故の恐怖でまともに道を歩けなくなったり、車を運転することができなくなったりするかもしれない。

 美佐子は少なくとも翔太や美誠がそんなことにならなければ良いが、と心配した。それほど車というものが危険な物だということを周知徹底するためにも、厳罰化はやむを得ないのではないだろうか。

 近年は車の性能が良くなったからか、事故件数や死亡事故は減少傾向にあるという。それならば尚更、人を死なせるような事故に対しては、より厳罰に処することが求められてしかるべき、という意見が近年多くなっているのも当然だろう。

 美佐子が被害に合った事故で加害者は死亡している為、刑を与えることも反省を促すこともできない。そうなるとどういうことが起こるか。それは加害者遺族への風当たりが強くなるのだ。

 今回もそうだった。運転者は仕事上のストレスを解消するために、夜な夜な峠へと車を走らせ、爆走させていたという。加害者が亡くなっているがために、やり場のない怒りの矛先は、それを黙認していたという家族に向けられた。

 彼の家族はマスコミや近所の人達からも集中砲火を浴びたらしい。家にはどこから調べたのか無言電話や罵詈雑言を浴びせる電話が鳴りやまなかったという。

 だがそれだけで済まないのが現在のネット社会だ。全く関係のない第三者が匿名という陰に隠れて、心無い誹謗中傷をSNS上で拡散させる。そして事実でないことまで書き加え、世界中に広めるのだ。

 中には彼の同僚が告発したことにより、罪に問われた市の職員や関連企業の人達が、逆恨みして書き込んだり電話を掛けたりしていたものもあるかもしれない。

 しかし加害者家族がそこまでの仕打ちを受けて当然かどうかと問われれば、美佐子でさえ首を捻ることは多々あった。それは彼らだけでなく、被害者である美佐子の家族までそのような被害にあったから余計にそう感じたのだろう。

 事故の件が報じられた際、何故夕方の遅い時間に二人の幼い子を連れて歩いていたのかということにも焦点が当たった。

 さらにどこから聞きつけたのか、経済的に困っていないはずなのに、母親である佐奈恵が自分の子供を義母に預けっぱなしで働きにでていたからだ、と暴露され非難されたのだ。

 職場で頑張っていることを快く思わない同僚や上司達もいたのだろう。だからこそ彼女は早く産休を切り上げ、仕事に打ち込んでいたに違いない。

 それが逆に仇となったのだろう。ここぞとばかりに、匿名の人達に紛れ込んで彼女を仕事場から追い出すように仕向ける噂が流れ出たようだ。

 実質、美佐子がいない中で孫達の世話をする人が必要だった。それゆえ彼女は周囲からの圧力もあり、その後は専業主婦にならざるを得なかったようだ。

 あの事故一件により人生が大きく変わったのは、加害者や被害者達だけではない。その周辺にいる加害者の家族や職場の人間、そして被害者家族にまで及び、全くの赤の他人による軽率な行為一つが、多くの人達を巻き込むのだ。

 うっかりでは済まされない。一度しかない自分の人生をどう生きようと、それは自由だ。しかし他人の人生、そして運命まで変えるほどの自分勝手な行為は決して許されるものではない。犯罪者となった多くの人は、余りにもそういった想像力に欠けているとしか思えなかった。

 だが一方で、美佐子自身にも非はなかったのかと思うことがある。

 あの時、孫達を連れて外へ出ていなければ事故に遭うことはなかった。それ以前に二人の面倒を看なければならない状況に陥っていたことが間違いではなかったのだろうか。

 もっと佐奈恵や雄太を含めて家庭内で話合った方が良かったのかもしれない。しかし実際はそうすることなく、解決策を見出すために外へと目を向け過ぎていたのではないか。

 孫達の世話をする大変さを紛らわすために、押田夫妻を始めとして湊らと街の住環境整備を良くしようと動いていたのではないだろうか。そしてそれらが成功していい気になり、調子づいて浮かれていたため、バチが当たったのではないか。

 いやそれよりずっと前に、夫が刺殺された寂しさや苦しみを一人で抱え込んでいた。あの事件でも悩みを抱える彼の辛さを理解しきれず、適切なアドバイスが出来なかったから起こったのではないか。

 もっと働いて貰わないと、など尻を叩くような真似をせず早期に退職させてあげられていれば、今頃二人で楽しく孫達の世話をしていた人生を送っていただろう。

 このツアーに参加して、美佐子は改めて思う。思い出の時と場所へと戻る度に、後悔と反省、怒りと憎しみが交互に湧いてきた。

 辛いことばかりではない。幸せを感じる瞬間も多々あった。これからもそういった時間を過ごすことは出来ただろうが、もう美佐子にはそれが許されていない。

 自分の人生とは一体何だったのだろう。

 答えの出ない考えを繰り返してばかりいる自分に、また美佐子は涙した。

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