第四章 恭子
ガラス窓に映った様子では、あの時身につけていた喪服姿だ。昨日同様にサイズは合っている。
ツアー初日は、息子を出産した産婦人科病院の前だった。
肝臓癌にかかった夫を亡くした後、両親に頼りながら懸命に育てたその一人息子も、何の因果か十八歳の若さで夫と同じ病にかかり、亡くなってしまった。
バッグに入っていた残りの服は、息子の葬式の際に着ていたもう一つの喪服だ。今着ているものは、その後痩せてサイズが合わなくなったため、新しく購入したことを覚えている。
もう一度葬儀場の厚いガラスに映る自分の姿を見た。あの頃のようにふっくらとした体形をしている。二十代に戻った昨日よりも、顔は少し老けて見えた。
今は三十半ばの顔をしているが、それでも若い。夫の死後から約十年経ったのだから当然だ。
初日は息子が生まれて幸せだった思い出の時と場所だったため、夫を亡くすまでの記憶を辿った一日だった。
もちろん彼と出会い、そして結婚して色々なことがありながらも幸せな生活を過ごし、三人で過ごした日々も振り返っていた。
しかし当然その間には、夫の死という悲しい過去が含まれている。だから昨日は嫌なことをできるだけ考えないようにしていた。
それなのにその事実を思い返せと言わんばかりの場所に再び連れて来られ、恭子の頭の中は混乱していた。しかもこのままいけば、明日は息子の葬儀の日に戻るのだろう。
そんな場所に行って今更どうしろと言うのだ。やはり自分は不幸だったということを再認識し、自ら取った行動は間違いだったとでも思わせたいのだろうか。
夫を失った恭子は、まだ小学生だった息子を独り立ちできるまで立派に育てる責任があった。それゆえこれまでパート勤めをしていた地元中小企業の店長に、正社員として採用してくれるよう申し入れたのだ。
これまで真面目に勤務していた実績と、簿記二級の資格を持っていることを武器にして、懸命に働きかけた。結果、それなりの有名大学を卒業していた学歴があったことと、独身時代に勤めていた会社での経験も考慮されたのか、運よく希望が叶ったのだ。
恭子は銀行員の夫と結婚してから息子が小学校に入るまでは、専業主婦を続けていた。その後子供に手がかからなくなったため、少しは子供の学費の足しにと思って始めたパートが、急激な環境変化に対応するための一助に繋がったのだ。
地元ではそれなりに有名な女子校の進学校を卒業した恭子は、東京の私立大学に合格して一部上場企業に入社したが、結婚を機に辞めた。
寿退社するまでの三年間だけだが、その会社では経理部で働いていた。大学時代まではキャリアウーマンを目指し、就職時に優位となる資格を得ようと簿記やファイナンシャルプランナーの勉強をしていたほどだった。
しかし実際に就職活動をし始めてみれば、資格があろうとなかろうと同じ大学の男子学生と比べて、女性に対するハードルが高いことを痛感させられた。男女雇用機会均等法なるものが制定されてはいたが、名ばかりではないかと憤りを感じていた時期でもある。
それでもようやく名の知られた企業から内定をもらい、配属先も実家から通える距離の支店に決まったのだ。今考えれば、地方の出先へ勤務させるには丁度いいから採用されたのだろうと判る。
だがその頃は、自分の存在が認められたようでとても喜んでいた。しかし簿記の資格所有者ということで経理部門へと配属されたが、会社での女性社員に対するぞんざいな扱いにはうんざりさせられた。
その為入社して一年過ぎた時点ではすでに会社勤めが嫌になり、早く辞めたいとばかり考えるようになっていた。そんな時に地元の地方銀行に勤める、後の夫となる彼と出会ったのだ。
銀行員であればそれなりに給与も良いため、結婚すれば共働きせず専業主婦でいられる。そうすれば会社を辞められるのでは、という邪まな気持ちがあったことは確かだ。
その為なんとか彼に気に入られようと努力し、結婚を申し込まれるように仕向けたことも事実だった。とはいっても経済的な条件だけで彼を選んだ訳ではない。
当然人柄も考慮し、とても優しく誠実で真面目だった彼と結婚すれば、自分は幸せになれると信じていた。だからこそ積極的な行動に出たのだ。
恭子の目に狂いはなかった。交際を始めて三つ年上の彼からプロポーズされたため、勤めていた会社を辞めて結婚した。その後子供を授かり、三人で暮らしていた十年余りはとても幸せな時間だったのだ。
しかしその彼が突然病に侵され、あっという間にこの世を去ったことで恭子の人生は大きく変わった。
幸いだったのは、彼の勤めていた銀行の福利厚生がしっかりしていたことで、多額の死亡退職金が支払われたことだ。さらに仕事の付き合いで契約したと夫が言っていた、決して少なくない額の生命保険金が出たこともある。
おかげで息子と二人になっても、それほど贅沢をしなければ経済的に困ることはない見通しが立った。
しかし息子は夫や自分の血を引いていたからか、学校や塾での成績が良かった。そして彼も含め優秀な生徒は皆と言っていいほど、県内でもトップの進学校である中高一貫校を目指す環境にあった。
けれどその学校は私立のため学費も決して安くはない。さらに電車通学で片道一時間ほどかかることから、交通費だってばかにならなかった。
それでも片親だからとか、お金の事で息子が将来歩む道を狭めたりはしたくない。だから息子の人生を応援することに全力を注ごうと、恭子は正社員になって働いたのだ。
もちろん夫の死後、実家に戻って両親の協力を得られたことも大きかった。だからフルタイムで働くことができた。そこで得た給料と彼が残した遺産の後ろ盾があったため、なんとかやっていける目処がついたのだ。
おかげで本人の努力もあり無事合格させることができたし、卒業させることもできた。けれどそこまで大事に育ててきた息子まで、夫と同じ病によって奪われたのだ。
不幸はそれだけで終わらなかった。当初夫を亡くした頃は同情的であった会社だったが、息子の死後からはいつしか災いを呼ぶ死に神呼ばわりをされ始めたからだ。
十年も経たないうちに同じ病気で二人も身内を失ったことは確かに珍しいだろう。一人は十代で、もう一人も四十前と言う若さだったから余計に稀有なケースだったことは間違いない。
といって恭子に非があるわけでもないのに、そのような誹謗されるいわれはなかった。それでも人の口には戸が立てられない。様々なやっかみが入り混じり、そのような酷い風評が広がったのだろう。
息子の死後から旧性に戻していた恭子は両親と三人で暮らしていた。しかし心に空いた大きな穴を埋められず、残酷な仕打ちに合いながら生きる希望を見出せないまま、孤独に耐える毎日だった。
そんな時、さらなる追い打ちに合ったのである。会社での不正経理が発覚し、そこで犯人扱いされたのだ。
もちろん恭子はやっていない。犯人は別にいるはずなのだが、これまでにも流れた噂の出所から、それが誰だかは薄々気付いていた。それは同じ経理部に所属する
彼は同僚で同い年だが、入社当時から正社員だった。それなのに中途で正社員となった恭子と今や同じ肩書であることが気に入らず、また学歴コンプレックスもあったようだ。
恭子に対して妙な嫉妬心や対抗心を持っていることに気付いてはいた。死に神というあだ名をつけ、周囲に吹聴していた張本人であることも知っている。加えて最近はよからぬ話も耳にしていたからだ。
その為会社で不正経理があったと聞いた時は、すぐに彼の仕業だと疑った。しかし他の社員達も彼の評判を知っているはずだったが、真っ先に疑われたのは恭子だったのだ。
その理由もなんとなく想像はついていた。
恭子達の上司である女性課長の
不正経理の件で、恭子は経理部長に呼び出しを受けた。事情を聞かれて個別に調査もされた。だがもちろん不正した証拠など出てこない。しかしそれでも誤解は解けず、疑いがなかなか晴れなかったのだ。
恭子は不思議に思っていた。直属の上司である勅使河原が、堀田の不正に感付かない訳がない。同じく部長から事情聴取を受けながらも、真相を究明するために調査しているはずだ。その彼女もまた不正を明らかにすることができていなかった。
だが恭子自身は正直な所、誰が犯人なのかはどうでも良かった。それよりも息子の死による悲しみが癒えない事が辛かった。そして会社で起こった悪意に取り囲まれたことで、人生そのものに嫌気が差し始めたことの方が問題だったのだ。
夫や息子の元へ行きたいと思い、自殺することも考えた。しかし七十を超えた両親はまだ健在だ。彼らの老後の面倒を看るためにも、自分はなんとしてでも生きなければならないと、なんとか思い留まってきた。
その反面、生き続けることで多くの嫌な出来事に襲われ、荒涼とした日々が続く。さらに頼れる人が誰もいないことへの苛立ちもあった。
会社での不当な扱いがそのことに拍車をかけたのだ。不遇の日々が続いたある日、苦悩に耐えきれず、会社を辞めて夫と息子の元へ行こうと真剣に考え始めた。
寂しさや残された者が、何の希望もなく生き続けることの辛さは、誰にも判らない。仕事での辛さも重なった。
絶望した恭子の心は限界を超え、正社員で働く必要があるのかと疑問を持ちながら、毎日のように死にたいと思い続けるようになったのだ。そして恭子はとうとう決断をし、実行に移すことにした。
☆
堀田は神保恭子のことが気にくわず、大嫌いだった。パートから中途で正社員になったくせに、入社当時から経理部の正社員だった自分と、今や同じ主任の肩書を持っている。同い年だが会社では自分の方が先輩だ。
それでも学歴が堀田よりも良いからなのか、彼女の方が担当している仕事のレベルは高度なことを要求されている。その点も気に障った。自分より上の簿記資格を持っていたことも忌々しい。
さらに彼女が卒業した大学をかつて受験し、落ちたという苦い経験がある。醜い男の嫉妬と言われるかもしれない。しかしこの会社では近年女性を優遇する傾向があり、これは逆差別だと日頃から感じていた。
直属の上司である課長の勅使河原も女性だ。五十を過ぎている彼女は、結婚を一度もせずにずっと独身を貫いている。
堀田も今は一人身だが、離婚したとは言え一度は結婚して子供を育てた身であり、彼女とは違う。そんな課長を軽視することはあっても、嫉妬したことは無かった。
だが神保は結婚もして子供を育て、亡くしたとは言え優秀な進学校に入学させていた。しかも今は課長や堀田と同じ独身だが未亡人であり、世間的には扱いや見られ方が違う。
妻や子供に逃げられバツイチになった自分とは異なり、彼女は夫と子供を病気で亡くした。そんな不幸を一身に背負ったかのように振舞ったことで、周りから同情されてもいる。そんな様子を見ているだけで、余計に疎ましく思えたのだ。
同じ独身でもバツイチになった堀田と一緒にするな、と心の中では嘲笑っているかのように感じられた。おそらく課長も同じ思いだったに違いない。
そこで腹立たしさも手伝って、身内を二人も同じ病で亡くした彼女の事を、死に神ではないか、不幸を呼ぶ女性だと陰口を叩くようになったのだ。
これが思いのほか会社内で広まった。課長を始め、彼女の事を良く思わない人が自分以外にも多くいたからだろう。そのことに安堵したものだ。
彼女は夫の死後、子供を育てるためにしっかりと経済的な基盤を作りたいという理由で、正社員となったらしい。
だが聞くところによると多額の死亡保険金が手に入ったらしい。それに決して貧しく無い両親が住む実家に戻ったことで、経済的には相当余裕があったそうだ。
その証拠に夫の死後も息子を進学塾に通わせ続け、その結果この地域では最も有名な進学校である私立の中高一貫校に入学させた。しかも片道一時間ほどかけて電車通学をさせていたのだ。
学費や交通費のことを考えれば、決して安くない出費だろう。子供にそれほどお金をかけず、地元の公立学校へ通わせていれば良かったのだ。そうすれば彼女が正社員になってがむしゃらに稼がなくても、悠々とした生活は出来たはずだ。
そんな彼女の家庭環境が、片田舎にあるこの街に住むごく一般的な社員やパート達にとっても、嫌味に感じられたのだろう。特に同じ女性である課長など、結婚もして子供も産んで幸せだったはずの彼女が、不幸になったこと自体を喜んでいる節があった。
しかし中傷することで彼女の立ち位置を貶めただけでは、日頃の鬱憤など晴れない。不幸なのは彼女だけではないのだ。
堀田は二カ月に一度、別れた妻に対し子供の養育費を振りこんでいる。その額は決して少なくはない。そのため自由にできる金は限られていた。
そんな息苦しい日々を送っていた堀田の唯一の楽しみは女と酒だ。週末の夜には若い女性のいる店へ通うことが数少ない息抜きであり、ストレスの発散になっていた。それぐらいしか男やもめにすることなど無い。
そしていつも行く店に新しく入った一人の若い女性に惚れてしまった。その為に週末だけだった通いが、彼女の勤務に合わせて週に二回、多い時は四回と通うようになったのだ。
気付いた時には遅かった。入れ込み過ぎて毎月の出費が予定より大幅にオーバーし、二カ月に一度送金していた養育費を払うお金が通帳に残っていなかった。それでやむなく、一時的であり次の給料日には必ず返せると踏んで、会社のお金に手をつけてしまったのだ。
最初は給与が振り込まれるとすぐに補てんし、なんとか不正経理を誤魔化してきた。それでも彼女の店に通うことは辞められなかった。店に通う頻度を少なくした途端、彼女から冷たくされて相手にされなくなったからだ。
しょうがなく足繁く通い始めると彼女の機嫌は直り、時には外で会うこともできるようになった。そこから自分だけが他の客とは違い、特別扱いを受けていると気分を良くし、さらに彼女と大人の関係を持てる可能性まででてきたのだ。
そうして関係を深める中で彼女から色々なものをねだられた。関係を続けるためには言われるがままプレゼントせざるを得ない。
どんどんと出費は重なったが、その頃の自分にはいざとなれば経理部のお金がある、という安心感があった。外からの借金なら利息はかかるが、社内のお金を一時的に流用するだけならタダで借りられる。
そんな行為を繰り返したことで感覚が麻痺していたのだろう。返金するタイミングが徐々に遅れ出した。それでもばれなかったので何度も繰り返していたところ、社内監査でひっかかってしまったのだ。
慌てて消費者金融へと走り、お金を融通して帳尻合わせをしたが、一度発覚したものを取り消すことはできない。それゆえ経理部全体で犯人探しが行われ始めた。
そこで堀田は疑いの目を逸らすため、犯人は神保ではないかという噂を意図的に流したのだ。それはあっという間に広がり、当然のように彼女は経理部の一人として社内監査の手続き上という建前の元、事情聴取を受けることになった。担当していた書類一式を取り上げられ、徹底的に調べ上げられたそうだ。
しかし彼女の書類から不正の証拠が出るはずはない。その後、堀田も同じく事情聴取と経理処理の書類のチェックを受けることになった。だが戦々恐々としている中で、なんとか上手くすり抜けることができたのだ。
その理由は後に課長が上手くフォローし、隠してくれたということが判明した。おかげで堀田に対する疑いはまだ僅かに残っていたようだが、確実な証拠にはならなかったらしい。
そのため犯人探しが続く中、課長から呼び出しを受けて驚くべきことを言われたのだ。
「今回の不正経理の件、犯人はあなたよね」
図星だったが、なんとか首を横に振って反論した。
「ば、馬鹿なことを言わないでください。この前の個別監査で私が担当した書類を調べられましたが、何も出てこなかったじゃないですか」
しかし彼女は鼻で笑ってこう告げたのだ。
「それは私が見つけた後で、管理職の権限を使ってあなたがやったことだとばれないように、うまく操作してあげたからでしょう。部の検査でも怪しい箇所を何点か指摘を受けていたよね。でも私が押した課長印があったおかげで何とかしのげた。違う?」
ここでようやく監査から逃れられた理由を初めて知った。言葉を失い黙っていると、彼女は続けて言った。
「この事を暴露されたくなければ、それなりのモノを用意しなさい。あなたもこの件で会社を首にはなりたくないでしょう。別れて住んでいる子供への養育費を稼がなくちゃいけないのよね。その割には女遊びで浪費しているらしいけど、そのお金をこっちに回しなさい」
最初は何を言っているのか理解できなかったが、やがて自分は脅迫を受けているのだと悟った。堀田の行為を知った上で彼女が持つ権限で書類を偽造し、庇った理由はこれだったのだ。
堀田が犯人だという証拠を見つけた際、すぐ指摘して上に報告すれば済む話だった。しかしそうなれば部下の堀田は処罰され、下手をすれば会社を首になる可能性は高い。
だがそれだけでは済まず、上司である彼女も監督責任が問われ、被害が及ぶかもしれない、と考えたようだ。お金は全て戻っているために、会社として損失は無い。
それならば部下の不正に蓋をする代わり、見返りを求めた方が良いと判断したのだろう。堀田は思わず唇を噛んだ。
しかし彼女に逆らえば、会社を解雇されてしまうかもしれない。そうなれば今の生活を失ってしまう。
危険を冒してまで金を使い、お気に入りの彼女と関係が持てるところまで辿りついたこれまでの苦労と努力が、すべて無駄になってしまうのだ。
さらに養育費の支払いまで滞れば、元妻からどんな復讐を受けるかを想像しただけで恐ろしい。子供とは二度と会うことが許されなくなるばかりか、弁護士を雇ってでも支払わせようとするはずだ。そんな事態に陥る訳にはいかなかった。
つまり課長の命令を受け入れるしかなかったのだ。
「しょうがありません。それで、私は何をすればいいのでしょうか」
堀田の言葉に彼女は意味ありげな笑みを浮かべ、二つの指示を出した。
一つは死に神扱いした時のように、今回の不正の犯人は神保だと流した噂をもっと広めろ、というものだ。彼女は死に神や不正の件も、堀田が発信したものだと感づいていたらしい。
二つ目は大変厳しい要求だった。それはお金だ。しばらくの間、月々五万円支払うことを約束させられた。
「これくらいは払えるでしょ? 養育費の支払いもあるはずなのに、週に何日も飲み歩いて馬鹿な女相手に金を落としているそうね。だったらその分を私に払いなさい。あなたが会社のお金に手を出したのも、通い詰めている店の女のせいでしょ。早くそっちと手を切ればいいだけじゃない。そうすれば二度とこんな馬鹿なことをする必要がなくなるわよね。これはあなたのためでもあるのよ。女遊びを止めて生活態度が改まったと確認できたら、その時に改めて支払いの事は考えてあげる」
金の使い道まで知られていたため、頷くしかなかった。だからといってすぐに用意できる金は無い。それに店の彼女からそう簡単に手を引く気も無かった。
堀田にとって彼女は今のつまらない人生において、唯一喜びと癒しを与えてくれる存在だったからだ。お金は再び消費者金融から借りて用意した。
だがもう会社の金を流用する手は使えない。よって入ってくる給料の額が急激に増えることもないため、出ていく金ばかりが増えていった。
そうしている間にも、店の彼女につぎ込んでいた金と養育費の支払い、さらには消費者金融への支払期限がやって来る。そのため再び窮地に立たされた。
どうにも首が回らない状態になった堀田はそこで課長の協力を仰ぎ、一時的に会社のお金を流用する計画を立てたのである。
そうしなければ利子を支払うことすら苦しくなるばかりだ。元本の減らない消費者金融への借金はいつまでも経っても返せない。そうなれば課長に支払う金もいつかは払えなくなると言って説得したのだ。
当初は課長も抵抗を示した。
「何を言っているの? いつまで若い女にうつつを抜かしているつもりなの。最初に言ったでしょ。早く手を切りなさいって。そんな馬鹿な状態に陥らせないために、あなたから毎月支払わせているんじゃない!」
「それでは今まで払ったそのお金を、借金の支払いに充ててもらえますか?」
そう言い返すと課長は言葉に詰まっていた。口では偉そうなことを言っているが、彼女も人から巻きあげた金で高価な物を購入したり、飲み歩いたりしていることは知っている。
だがそこを責めて逆上させてはいけない。その為に土下座をして頭を下げた。
「一回だけです。額は大きくなりますが、まずは高い利子を取る借金を元本含めて返してしまえば、課長への支払いも楽になり苦しまなくて済みます。だから協力して下さい。今後は夜遊びも控えますから」
そう嘘をついて、なんとか協力させることに成功したのだ。
まず課長のチェックを通して会社のお金を流用し、消費者金融への支払いを全て済ませた。だがそれでも支出は大きく、また会社から借金をして補てんするといった自転車操業をするしかなかったのだ。
しかしそんなことがいつまでも続くわけが無い。これでは埒が明かないと思い、堀田は意を決した。毎月現金で支払っている五万円を持って課長の元へ行き、告げたのだ。
「これで最後にしてもらえませんか。これ以上支払えというのなら、今まで会社のお金を不正利用していたことに課長も加担している、いえ、課長の指示でやったと証言しますよ。その証拠は全て揃っています。最初に私が行った不正に関しても課長が隠蔽したのですから、私の言い分が通る可能性は十分にあります」
そうやって課長を逆に不正経理の主犯にすると脅したのだ。これ以上彼女への支払いを断るにはこうするしかなかった。
この脅しは思いのほか効いた。当然だ。全ての書類には課長印が押されている。全ての不正には課長の関与なしでは成り立たなかったのだから当たり前だ。
「わ、判った。今回が最後ね。ただし、一つだけ条件がある。一度持ち上がった不正疑惑自体を解決しなければ、事は終わらないから」
了解が取れた代わりに、彼女はこういった。
「これまで全ての不正経理の罪を、神保さんに被って貰いましょう。あなたも協力しなさい。彼女が処罰を受ければ、私もあなたも今後罪に問われる心配は無くなる。あなたにとっても悪い話ではないでしょう。私が握っていた弱みもこれで消えるのだから」
彼女の言う通りだ。ここで交渉が終わっても、互いに弱みを握りあったままでは安心できない。一度奇麗にリセットできるものならそうしたいと常々考えていた。
そのための犠牲になるのが神保なら一石二鳥だった。二人が共通する嫌いな奴を、この会社から追い出すことができるのだ。
そこで早速その工作をし始めようとした途端に事件は起こった。
神保が突然会社に退職願を出したのだ。その結果、彼女に責任をなすりつける工作が間に合わなかった。経理部での犯人探しが振り出しに戻ってしまったのだ。
しかもそれだけで事は済まなかった。なぜなら彼女が自殺を図ったからだ。
さらに遺書を残しており、その中で会社での苛めや不正経理についての恨みなどを綴っていた。堀田達の知らない間に、彼女は不正経理のからくりを調べていたらしい。
そこには不正の手口も詳細に記載されて証拠となる書類のコピーや、音声を録音したものまで添付されていたのだ。
その為事実は後に明らかにされてしまった。彼女の残した書類を元に会社では本格的な調査が始まり、堀田と課長が関与していることが証明されたのだ。
結果課長と共に、堀田は会社を解雇されることとなった。
☆
自殺は殺人罪であるだけでなく、傷害または傷害致死罪だ。自分を殺すだけでは済まない。残された人達を傷心させ、時には死に追いやることもあるからだ。
自殺という手段は全く愚かな行為でしかない。夫や息子の光一朗のように、もっともっと長く生きたかっただろう人生を、自らの手で放棄するのだから。
そんなことなど頭では理解できていた。夫の死、そして光一朗の死により恭子がどれだけ傷つき、苦汁を舐めてきたか。
両親だってそうだ。それなのに自死を選ぶことは、残された両親に再び悲痛な思いをさせることは明らかだった。
しかも親より子が先に亡くなることがどれだけ親不孝なことかは、夫の両親を見て、また自らの体験により痛感している。
それでも生き続けることの苦痛と比べれば、この世界から逃れたい気持ちが優ったのだからしょうがない。体や心が、残される人達の気持ちになって考えることを拒む。自己中心的で身勝手だということは百も承知だ。
しかしその衝動から逃れられない。だったらこの窮状を誰が救い、心を和らげてくれるのか。生き続ける限り苦難は続く。死んだ夫や手塩にかけて育てた息子も帰ってこない。この孤独と悲哀はいつになったら消えるのか。分かる人がいるのなら教えて欲しい。
死というものは、どんな人にも平等に訪れるものであり、逃れることはできないという。だから受け入れるしかなく、または時間が解決してくれるまで待つことしか克服するしか方法はないようだ。
けれど恭子は生き続けていけばいくほど煩悶した。生き続けることで昔の傷を癒すどころか傷に塩を塗るように、新たな人の悪意が襲ってくる。その苦しみは減ることはなく増えるばかりだった。ならばそこから解放される方法は、一つしかないのではないか。
いや、そうすればまた新たな苦しみを生むに違いない。憎しみの連鎖と同じだ。どこかで断ち切らなければならない。何度もそう思った。しかし現実社会の醜さと残酷さが、恭子に一線を越えさせたのだ。
他人から言わせれば、そんな些細なことでと思うかもしれない。だがかけがえのない者を二人も奪われた立場では、もう我慢ならなかった。
初めのきっかけは、ひょんなことからだった。
十年も前に亡くなったはずの夫が注文したという海産物をお届けしたい、という電話が実家の固定電話にかかってきたのだ。詐欺であることは明らかだったのですぐに電話を切ったが、おかしな点はいくつかあった。
まず夫と生前暮らしていたマンションから実家へと引っ越した際、契約していた固定電話は解約していたからだ。恭子は日頃、両親が昔から契約している固定電話と、自らが契約している携帯を使っていた。
ネットやテレビのニュースなどで、身に覚えのないものを注文したと言って勝手に代金着払いで送ってきたり、住所などを聞き出そうとしたりする詐欺があることは知っている。
しかもその悪徳詐欺業者が入手している電話番号などの個人情報が古いと、今回のように亡くなっている人物の名を使うこともある、という話も耳にはしていた。
だが今回の電話は夫が亡くなってから十年も経っていただけでなく、引っ越した先の連絡先にかかってきた。生前に使っていた電話番号へかけてきたのなら合点もいくが、その後引っ越した先とはいえ、なぜ恭子の実家にかかってきたのだろうか。
考えたのは、夫の名でかかってきたけれども、恭子の古い個人情報を元にした電話だったのかもしれないということだ。
彼の死後に実家へ戻った恭子だったが、しばらくは夫の姓である中竹を名乗っていた。そして息子が亡くなったことを機に、旧姓の神保へと戻したのだ。
くだらない電話だとすぐに忘れてしまえばよかったのかもしれない。世の中には愚かな犯罪者が多数いる。今後の事もあるから、歳を取った両親達にも注意するよう促せばいいだけの話と言えばそれだけだ。
しかし心が弱っていたこの時の恭子には、そう思えなかった。他人が発する夫の名前を久しぶりに聞き、それが何故か頭に強く残ったのだ。
死者の名を使って詐欺を働く犯罪者達に対して怒りを覚えるよりも、彼が生きていた頃の幸せだった時を追懐した。彼を失った時の絶望感に陥った感情が蘇ったのだ。
夫のことを忘れたことは決してない。それでも折れそうになった心を、長い時間をかけて少しずつ癒してきた。その古傷を無造作に抉られたことで、再び痛むようになったのだ。
さらに追い打ちをかけた出来事が起こった。成人式に関するハガキが、亡くなった光一朗宛で届いたのだ。
確かに彼が生きていれば今年、成人を迎える年ではあった。しかし死亡届を出しているため、当然役所からの案内はこない。届いたのは着物のレンタル業者によるダイレクトメールだった。
近年、成人式に和服を身につける女性達が多く出席するためなのか、それに合わせて袴を着用する男性も増えているらしい。そこでどこからか高校卒業名簿などを仕入れた業者が、対象者に対して送付したのだろう。
亡くなってすぐの頃は、予備校などからのハガキがいくつか届いた。その度に連絡を入れて、対象名簿から外して欲しいと依頼したのだ。おかげで最近は息子宛の郵便物をようやく見なくて済むようになっていた。
そんな矢先、夫の件に続いて息子の名まで突きつけられたのである。もちろんその業者にクレーム電話を入れた。
「どこから入手したか知りませんが、即刻名簿から外してください! うちの子はもう亡くなりました! 出席したくても成人式には出られません! どういう嫌がらせですか!」
以前にも何度か行ったことだが、この時ほど感情的になったことはない。こういった場合、たいていの会社は失礼しましたと電話口で素直に謝罪をしてくれる。そして名簿から削除するよう上に伝えますと答えてくれた。
だが中には電話に出た人間がいい加減だったり、会社自体の質が悪かったりすると、謝るどころか言い分を聞いてくれようともせず、
「必要がなければ、廃棄していただいても結構です」
などと答える輩もいた。
そんな場合は、責任者を出してもらうよう伝えて苦情を入れるのだが、その時でも今回のように激高したことはなかった。幸いなことに、今回のレンタル業者は素直に謝ってくれたため、それ以上揉めなかったが、心に大きなしこりができたことは確かだ。
光一朗が生きていれば、成人式を迎えていたはずだった。その時はどこかの大学に合格して実家を離れていただろうから、地元に戻って出席したかどうかは不明だ。
それでも出られる資格を持って出ないのと、出たくても出られなかったのでは意味が大きく異なる。
この件を機に再び夫の時のように、彼が生きていた頃を懐かしみ、生きていればどうなっていたかを楽しんで想像する一方、病室で息を引き取った時の喪失感が蘇った。
精神的に弱っていた恭子の心を打ち砕いたのは、大きなストレスに加えてこうした小さな出来事の積み重ねだったのだ。
もう耐えきれなかった。両親達には申し訳ないが、夫と息子の元へ行こうと決心した。
けれどその前にどうしてもやっておかなければならないことがあった。
命を絶つだけでも周りには迷惑をかける。それなのに、無実の罪を被せられたままでこの世を去るわけにはいかない。
いつまでも解決しない会社の不正経理問題のために、犯人ではないかという噂が消えないことを不思議に思った恭子は、独自で調べてみた。そこで犯行の証拠をとらえることができたのだ。
犯人が堀田だという目星はついていたため、まずは彼が関わった経理書類を書庫から引っ張り出し、こっそりと家に持ち帰って目を通してみた。一度は本部監査をすり抜けただけあって、一見しただけでは判明できなかった。
しかし犯人であると確信していたため、自分ならどう処理するかという視点で書類の束を追ったところ、数か所に不自然なやり取りをしている個所を見つけたのだ。
ただしそれらには全て課長の確認印が押されていたため、問題ないと見過ごされたことまで把握できた。
そこでこの不正に課長も一枚噛んでいるのでは、と感付いたのだ。そう疑って書類を精査してみれば、他にも複数の矛盾するやり取りが見つかった。
それらをコピーした上で第三者がみても明らかになるよう、不正の流れを詳細に記載しておいたのだ。もちろん不正経理に利用された取引先へも確認の電話をし、担当者とのやり取りを録音した物も残して、裏付けをしっかりと用意した。
それら全てを自分の遺書と共に残し、それまでに受けた誹謗中傷と犯人扱いされた恨みや、堀田のプライベートや課長に対する悪い噂も書き連ねたのだ。
夫の葬儀が行われた斎場は大きく、同時にいくつかの葬儀が行われていた。
そのうちの一つが終わったようで多くの人達が外へと流れ出てくる。そのまま残る人もいれば、帰る人達もいるため、その人達に紛れて恭子は斎場を後にした。周囲には同じく喪服を着た人達が多いため、このまま駅に向かっていても浮くことはない。
だが歩きながら考えていた。何故ここだったのだろう。それが不思議でならなかった。
そんな時、周りにいた人達の話す内容が耳に入ってきた。
「まだ若いのに大変よね。残された奥様も可哀想だし、お子さんもまだ小さかったわよね」
「そうね。でも急なご病気とはいえ、奥様は気付いてあげられなかったのかしら」
「そうよね。専業主婦だったんでしょ。旦那さんの様子をずっと見ていたら、もっと早く病気にかかっていることが判ったかもしれないのに」
「不仲だったとは聞いていなかったけど、もしかして家庭内では色々あったのかもね」
「あなた、そういえば奥さんに何か聞いてなかった?」
「私が聞いたのは、どうしてお亡くなりになったの、ってだけよ。病気でとしか伺っていなかったから」
「あなたも声をかけていたでしょ」
「私は励ましていただけよ。まだ小さいお子さんがいるからあなたがしっかりしないと、ってね」
「私もあなたの気持ちがよく判るから、って声をかけてあげたのよ」
聞いている限りでは、どうやら恭子と同じような境遇でご主人を亡くした人の葬儀だったようだ。
驚いたことに、夫の時も全く同じと言っていいほどの会話が、目の前で繰り広げられた経験がある。その為、思わずあの頃以上の怒りと殺意を覚えた。
この人達は自分が何を言っているのか理解しているだろうか。いや、していないからこのような馬鹿げた発言をしたことを話し合い、恥ずかしげもなく堂々としているのだろう。
まず、気付いてあげられなかったのか、とはどういう意味なのか。まるで妻の健康管理が悪かったために夫が亡くなった、とでもこの人達は言いたいのだろうか。
それなら自分達は己の夫達を日頃どれだけ観察しているというのか。そして同じ言葉を逆に浴びされた場合どう思うかを想像したことはあるのか、と問いたい。
夫は年に一度受けていた健康診断で自覚症状が全くない中、再検査が必要だと言われて入院した。その後精密検査をした時点ではもうステージⅣと言われたのだ。そしてあっという間に病状が進み、一年も経たないうちに息を引きとった。
後に自分でも本を読んで調べて見たが、すい臓がんや肝臓がんは自覚症状が出にくいらしい。痛みが出た頃にはもう手遅れ、というケースが多いと医者からも説明を受けた。
そんなことを知らない無責任な人達が、あのような言葉を吐くのだろう。無知なだけでなく想像力が欠如した、思いやりのない一言で遺族がどれだけ傷つくのかも認識できないのだ。
今なら毅然として激怒することもできただろう。しかし実際に夫が亡くなった際、そう声をかけられた時は呆然としている状態だった。その為そうか、自分が至らないせいで亡くなったのか、と本気で思い悩み苦しんだ。
光一朗が肝臓がんだと医者から告知を受けた時はもっとひどかった。
彼自身に自覚症状が出て苦しみだしたのは秋だ。しかしそれよりも前の夏の時点で、冬の試験本番までに何かあってはいけないと、念のため受けさせた健康診断で引っ掛かった。そして精密検査をしたところ夫と同じような結果が出たのだ。
その時も手遅れで余命は一年もないでしょうと言われ、恭子は言葉を失ったと同時に頭を抱えこむことになった。夫の場合は自らがその病気のことを知って死を受け入れたが、未成年の彼に告知するかどうかは保護者の判断だと医者に言われ、迷ったからだ。
息子が目標としている大学へ親友達と一緒に合格したいと、毎日夜遅くまで一生懸命受験勉強をしている姿をずっと見てきている。
その為悩み抜いて、本人には告知しないという結論を出した。せめて元気でいる間だけでも、命ある限りはできるだけやりたいと思うことをさせてあげようと決断したからだ。
しかし黙っていた期間、痛みに耐えながら懸命に努力している彼を見ながら何度も涙した。夫の時以上にあの頃は運命と言うものを恨んだ。何故私の息子なのか。夫だけでなく、どうして光一朗の命まで天は奪おうとするのか、と。
しかも病魔と闘いながら必死になって受験した結果は、全て不合格だった。そのおかげですぐに入院をすることができたが、すでに体のあちこちへとガンは転移している。そのため延命治療にも限界があった。
その間も彼に真実を伝えようかと考えたものだ。しかしその勇気が持てなかった。そして少しでも彼に心残りを持ったまま、この世を去って欲しくないと考えたのである。
その末、息子が特に親しくしていた友人達だけには、最後に顔を会わせてやりたいと思った。そこでこちらから連絡して真実を告げ、お見舞いに来て貰えないかとお願いをしたのだ。
彼らには酷な事をしたと思う。光一朗には黙っていることを告げ、彼らの方から連絡をもらい、偶然入院していることを知ったと嘘をつかせたからだ。
さらに余命いくばくもない事など知らないよう装い、そう演じてもらうよう依頼もした。まだ十代である若い彼らにはとても辛い経験をさせてしまったと後悔したこともある。
しかし光一朗が息を引き取った後、お葬式にも来てくれたあの子達は、最後のお別れが出来たと言ってくれたことで救われたのだ。
そしてあれが最善の方法だったのだと、自分に言い聞かせてきた。だからこそなんとかこれまで、心を折らずに生きて来られたのだろう。
そういえば彼の葬儀の時も夫の時と同様に、心無い言葉を浴びせられたことがあった。あなたがしっかりしないと、という声をかけられたが、どれだけ上から目線で言っているのかと憤ったものだ。
もちろんいつまでも気を落としてばかりいてはいけないことなど承知している。だがまだ亡くなって間もない葬儀の時に言われたくはなかった。その時だけでも気が済むまで泣かせて欲しいと思っているのに、その行為さえ許されないのか。
しかもそれほどの関係ではない、家庭内の状況もよく把握していない人達ほど、そんな慰めにもならない言葉をかけてくるのだ。
あなたの気持ちはよく判るから、なんてどの口が言うのか。あなたに夫や息子を亡くしたこの悲しみがどれだけ理解できているというのか。心のこもっていない無神経な一言が、どれだけ人を苛立たせているかなど、想像もできないのだろう。
やり場のない怒りを抱えながら、恭子は雑談をしている集団からそっと離れた。あのような思慮が欠けた言葉による暴力とも呼べる攻撃は、夫や光一朗の葬儀の後もずっと続いた。
まだ親しくない間柄で新たに知り合った人からは、旦那さんは何をしているの? とか、息子さんは何人? などという質問などもそうだ。
ある時までは何て答えていいのかと悩み、言葉を濁したこともある。だからと言って正直に答える度に、場の空気を固まらせることがあったからだ。
しかしたまたま読んだ本の中で見つけた言葉を使うようになってからは、多少気まずい雰囲気が流れることがあっても、少しだけ気分は楽になった。
それは夫や子供のことを聞かれた際に、こう答えることだった。
「主人は今、天国に出張中です」
「子供は天国に留学中です」
そう返しておけば、よほど察しの悪い方以外は家族の話題をそれ以上深く尋ねてこなくなる。自分自身も前向きな回答をすることで、落ち込むことが少なくなった。
それでもやはり考えざるを得なかった。夫は、そして光一朗は幸せだったのだろうか。平均寿命と呼ばれる年齢よりもはるかに早く亡くなった二人に、良い思い出などはあったのだろうか。死に神と呼ばれた恭子と暮らした日々は、不幸だったのではなかろうか。
思い出の時、場所へと辿り着いてはみたものの、楽しかったことよりも苦しんだ日々の方が数多く回想してしまう。しかもこのままいけば、明日は光一朗の葬儀が行われた場所へ訪れるはずだ。
行く当てもないまま駅に着き、恭子はぼんやりと路線図を見上げた。
一駅先に行けば両親のいる実家へと近づく。だがいくら自殺を図った時よりも十年ほど若返っているとはいえ、喪服姿で近所を歩けば騒ぎになるだろう。
ならばどこかへ行くとすれば夫と縁があり、なるべく恭子の事を知る人達がいない場所を選んだ方がいい。そこで一つの駅名が目についた。
まだ結婚する前の彼と、一度だけだがデートで訪れた花火大会が開かれた場所だ。ここからは少し遠い。
夫の葬儀が行われたのは六月の中旬だ。ツアーに参加した時の肌寒くなった晩秋の季節とは異なる。その証拠に先程通った家の庭に紫陽花が咲いていた。こんな時期にあの場所へ向かったとしても花火の打ち上げが見られる訳はない。
しかしあの時は夜の七時から始まる会場へと向かう前、混雑してはいけないからとその日の午前中に待ち合わせをして、電車に乗った記憶がある。
当然早めに着いたため、事前に調べていたランチを食べる店に入って食事を終えた後、近辺の街を散策したはずだ。
大きな川が流れており、その広い河原から花火が打ち上げられる。そのため観客は、少し離れた河原や川の堤防に場所を確保して見物するのだ。
川沿いの道には集まった客のために多くの出店が並ぶため、少しずつだが早めに設置し始めている店がちらほらあった。頑張って浴衣姿に着替えていた恭子とそれに合わせて甚平を着てきた彼で、その様子を見ながら時間を潰していたことを覚えている。
その後ようやく始まった花火を見て夜九時に終わった後、多くの観客達が駅に向かうために道は混雑していた。そこで少し時間を潰そうと駅から少し離れたホテルで休憩を取り、初めて関係を持ったのだ。
日曜の夜だったため、翌日からお互いに仕事があった。だからゆっくりと宿泊することはできなかった。それでもあの日を境にして急速に結婚へと向かったのだから、いろんな意味で記念すべき日だったと言える。
そこで恭子は光一朗の形見の一つである、ウォレットチェーンのついた財布を取り出した。そして切符を買い、改札を通って目的地へと向かう電車が到着するホームへと歩く。
せっかくこのような機会をもらったのなら、嫌な事ばかり顧みたってしょうがない。昨日は思い出せなかった楽しかったことを、出来るだけ記憶から呼び覚まそう。特に今日は夫との思い出に浸る日なのだ。
ようやくそう割り切ることができたため、足取りが軽くなった。あの場所に行けば、もっと色んなことを追想できるに違いない。
あの時とは極端に異なる格好をしているが、そんなことを今更気にする必要もないだろう。いや喪に服した姿で夫の事を考えるのであれば、これが正しい姿だとも言える。
そうだ、あの時綿アメの店を出す準備をしていた人から、機械の試運転した時に作ったものだとタダで貰ったことがあった。そんな小さな事などすっかり忘れており、夫が亡くなってから初めて追憶したかもしれない。
それはそうだろう。彼とは出会ってから十年余りの歴史がある。結婚生活を含めても決して長くはないかもしれないが、全て覚えているということはない。
今まで記憶から漏れていたことも、ここにきて蘇ることがあった。そのことが判るとなんだか嬉しくなってくる。
そう、不幸な事ばかりではなかったのだ。自分は死に神なんかじゃない。これまで過ごしてきた人生は間違ったことばかりではなかった。
永遠に続くと思われた苦しみや不幸な出来事も、振り返ってみれば一時の事だ。それなのに自分を責め、生きることから逃げることばかり考えていた。それがどれだけ愚かな事だったか、今なら理解できる。
過去の己の失敗や不幸を否定せず、そのまま受け入れていれば良かった。楽しかったことや嬉しかったことに目がいかず、悪い事ばかりに捉われ過ぎていたのだろう。
しかし全てをひっくるめて自分の人生であり、それを受け止めることが必要だったのだ。そして嫉妬や中傷を浴びることもあったが、温かい目で見守ってくれていた人もいたことを忘れてしまっていた。
だが後悔は先に立たず、だ。よってここにいることも受け入れた上で、今日は前向きな気持ちで夫との幸せだった日々に浸ろう。恭子はそう改めて決心をしたのだった。
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