第三章 虎次郎
「どこだ、ここは? あれ、この店は確か」
おばちゃんバスガイドの指示により、
最初は状況を把握するのに時間がかかった。しかし目の前にある店に見覚えがあり、そこから少しずつ記憶を遡ることができた。そして一通り十八歳前後の時代を含めて自分の過去を振り返り、己のふがいなさと幸せを感じた日々に想いを寄せていたのだ。
代々教師や役所、または地元企業に勤めてきた片岡家に生まれた虎次郎は、何の疑いも無く高校を出ると、公務員試験を受けて市役所に入った。
生まれ育った地方都市であるこの街が好きだった虎次郎は、都会に出たいと言う友人達の気持ちが理解できなかった。実際にどんどんと町から人が去っていくことが不思議でならなかったほどだ。
四つ年上で優秀だった兄も、地元の学校に通って様々な資格を取り就職を決めた。しかも全国各地に店舗や施設を持つグループ企業に就職したにも拘らず、本人の希望により配属されたのはやはり地元の施設だった。
虎次郎も早くから地元での就職を決めており、大学へは進学をせず公務員になりたいと考えていた。その為苦手な勉強も必死にやり、無事公務員試験に合格して市役所へと入ることができたのだ。
しかしこの街を離れたくなかった理由の一つには、自然豊かな山を走る峠道があったことも否定できない。幼い頃から車が大好きで、大きくなったら免許を取り、父親の運転で何度も通ったあの峠の道を自分の車で走りたい、という夢を描いていた。
そんな理由もあり、行きたくもない大学へ進んで親に余計なお金を払わせるよりも、早く働き自分でお金を稼げるようになって、自分の車を購入したかったのだ。
それゆえ五月生まれだった虎次郎は両親を説得し、十八歳を過ぎた高三の夏休みに自動車の教習所へ通うお金を出して貰った。そして念願の免許を取得したのだ。
高校を卒業後、市役所への就職が決まると、虎次郎は早速中古だが峠を走りやすいスポーツタイプの車を購入した。もちろんローンを組んでではあったが、やがてこの趣味がその後の自分の人生を大きく狂わすとは、思いもよらなかった。
駐車場に降り立った初日は学生時代の事や、社会人になってから仕事が休みになると無邪気に走り回っていた昔を顧みていた。平日は真面目に役所の仕事をコツコツとこなす、平凡ではあるが平和な時間を過ごしていたことを主に回想していたのだ。
そんな中で一見大人しそうに見えた今の妻と知り合い、付き合いだしてから一年半の交際を経て結婚したことは、自分の人生において大きな出来事だった。
だからこそ二日目の今朝、目が覚めた時には妻にプロポーズをした日に身につけていた服を着て、デートの待ち合わせ場所に立っていたこと自体にはあまり驚かなかった。
持参していたバッグの中身を見て、なんとなく予想していたからでもあったが、もう一つの服は、妻の妊娠が判明した後、二人でお祝いをした時のものが入っている。
おそらくこのままいけば三日目はあの頃に戻るはずだ。ならば旅行最終日の四日目は、初日に着ていた服に戻り、元の集合場所へと帰ることになるのだろうか。そのような事を想像しながら実際思い出の場所に立ってみて、また前日とは異なる感慨に耽った。
初日にも追想していたことだが、後に妻となった彼女と出会ったきっかけは、実家の両親が飼っていた“つばめ”だった。そう名付けられた二匹目の飼い犬のパートナーを探す、というお見合いの場で彼女と初めて会ったのだ。
成人式を済ませ、仕事を始めて数年が経つというのに彼女の一人もできない息子に対し、両親はいつになったら結婚するのか、孫は抱かせてくれないのかと口煩かった。だがもうすぐ三十に手が届くその頃にはようやく諦めたのか、そういった話題をしなくなった。
そんなある日の休日に、突然両親から実家に呼び出された虎次郎は、“つばめ”を預けられて頼まれたのだ。
「急で申し訳ないけど、お母さん達は昔の共通の友人に不幸があったからすぐに出かけないといけないの。だからあなた、代わりにこの子を連れて行って頂戴。これはずっと前から予約していて、お金もすでに払っちゃったからキャンセルするのは勿体ないのよ」
と無理やり押し付けられたのである。
それが人生で大きな転機を迎えることになった。
“つばめ”は虎次郎の名の由来になった剣豪
だが虎次郎が物心ついた頃からいたその犬も、寿命が来たのだろう。二年前に亡くなってしまった。その後に実家で新たに飼われたのが雄犬の“つばめ”だ。長年可愛がってきた“サカモト”がいなくなり、両親はとても寂しい想いをしたらしい。
そこで“つばめ”にお嫁さんを貰って子供を生ませ、その子犬も一緒に育てたいと考えたようだ。そうすれば、例え犬の寿命と言われる十数年後に“つばめ”が亡くなったとしても、引き続きその血を受け継いだ子を飼うことができると思ったのだろう。
そうさせたのは虎次郎達のせいでもある。自分達が生んだ息子は近くに住んでいるとはいえ、とっくに親離れして家から出ていた。
それだけではない。同じく一人暮らしをしていた兄も独身だった。しかも数年前に起こったある事件の被害者になり重傷を負ったことがきっかけで、仕事を辞めて実家へ戻り部屋で引き籠るようになっていたのだ。
その結果両親はまだ孫を抱くという夢を叶えていなかった。よって飼い犬を孫の代わりのように可愛がり、愛情を深くしていったのだろう。
そこで“つばめ”のパートナー探しの為に、犬同士のお見合いの場があると聞きつけた両親は、申し込みをしたらしい。だがその約束の日取りに緊急の用事ができたため、代役として虎次郎を呼び出したという訳だ。
しかし両親の思惑とは全く違った、嬉しい誤算がそこで生まれた。
犬のお見合い先で雌犬の“カノン”のパートナー探しに来ていた、良い所のお嬢様らしき飼い主の女性に、虎次郎は一目惚れてしまったのだ。
そして“つばめ”をダシに使って彼女の連絡先の入手に成功すると、その後は積極的に何度もデートに誘い、自分から好きだと告白して付き合うことになった。そしてこの場所でプロポーズしたのだ。
ただ結婚に至るまでには色々と問題はあった。例えば高卒という学歴の男との結婚に彼女の両親が難色を示していたことだ。
しかし勤め先が市役所というお堅い職場だったことと、次男であったことなどが評価され、ある条件を飲むことで何とか許してもらい、長い独身生活に終止符を打つことができた。
条件とは虎次郎が次男で彼女は長女の一人娘だったことから、地元の銀行に勤める義父と専業主婦である義母と同居することだった。ただ婿に入るわけではなく姓は片岡のままだった。
だが実際に始まった共同生活は、思い描いていた以上に肩身が狭かった。さらに大人しいと思っていた同い年の彼女が徐々に本性を現したのだ。
しかも一緒に暮らし始めてみるとなかなか気が強く、決して自らは謝らないという態度に負け始め、どんどんと頭が上がらなくなり、結局は尻に引かれる毎日だった。
ちなみに“つばめ”と“カノン”の方は残念ながら相性が悪く、互いに別々の相手を見つけた。“つばめ”の相手を探していたのは両親であり、虎次郎にとっては正直どうでも良かったが、代わりに“カノン”とパートナー犬、“フクタロウ”との間に生まれた子犬三匹の内、一匹の飼い主となったのだ。
しかし、血を継ぐ子供を欲しがっていたのは犬だけではない。虎次郎は自分の両親だけでなく、義父と義母や彼女の親戚一同からも早く子供を産みなさいというプレッシャーを受けることになったのだ。
けれど妻はなかなか妊娠しなかった。何度も病院へ通って問題が無いかを調べてもらったが、二人とも特に異常があった訳でもない。
それでも妊娠しないことで、彼女もまたストレスが溜まっていたのだろう。両親や親戚に対しては強く言い返すことができないため、その分の不満は全て夫へと向けられたのだ。
そこで二人の喧嘩が絶えなくなり、その度に家を出た虎次郎は唯一の楽しみであるドライブに出かけ、山道を暴走することで憂さを晴らしていたのだった。
そんな妻も今は妊娠八カ月だ。もうすぐ二人の間に待望の子供が生まれる。こんな幸せなことは無い。苦しみが長かったこともあり喜びも大きく、周囲は皆とても歓迎してくれた。
それなのに何故あんな馬鹿なことをしたのだろう。これは昨日から何度も繰り返し思っていたことだ。確かに妻が妊娠した頃と時を同じくして仕事上様々な悩みを抱え始め、ストレスが溜まっていたことは否めない。
だが大切なものを守るために良心を殺し、身も削られる思いまでしていたことが、ほんの一瞬の油断により全て台無しになってしまったのだ。
事の発端は、市が所有する土地を上司である
偶然だが自分と同じ、昔の剣豪にちなんで名付けられた後輩が同じ部署にいたことから、読んで字のごとく名前がコジロウとムサシというだけで、二人は良くセットでからかわれることが多かった。またこのような仕事も一緒に巻き込まれることも少なくなかったのだ。
その度にこんなことをする為役所へ入ったんじゃない、と腹の中では叫びながらも仕事だからと自分に言い聞かせてやってきた。
それほど大げさな理想を掲げていた訳ではないが、代々続いてきた片岡家に生まれてこの街で育った限りは、何か恩返しができないかと考えて公務員試験を受けたのだ。
決して私利私欲の為に、そして一部の地元企業へ利益を与えるためにこの仕事を選んだのではない。告発したい気持ちはもちろんあった。
だが現実は妻が妊娠したばかりの時期でもあったため、その考えを思い止まらせたのだ。もし内部告発により騒ぎが大きくなれば、身重である妻にも悪影響を及ぼすかもしれない。
また最悪なのは、万が一市役所を追い出されるような目に合えば、生まれてくる子を自分の力で育てることさえできなくなる。もちろんそれなりに裕福な彼女の実家に頼れば、なんとかなっただろう。
だがただでさえ彼女の家で婿扱いを受けている自分が、これ以上惨めな思いはしたくなかった。その為しぶしぶ不正に目を瞑り、黙認しつつ手続きを行うこととなったのだ。
そんな虎次郎とは対照的に、仕事の手伝いを命じられた六三四は飄々としており、普段と変わらない態度でいた。彼は一見して市役所の職員には見えない。
ちゃらんぽらんで軽く、日頃から服装などで上から注意されても全く言うことを聞かない男だった。酒と女、そして楽しいことが大好きで、酷い時には朝まで飲んでいたらしく、赤ら顔で臭い息を吐きながら通ってきたこともある。
幸い虎次郎達のいる部署は、不特定多数の市民の方達とは直接触れ合う機会が少ないため、苦情を受けることは無かった。相手をするのは特定の企業や事業主が対象だ。その対応も電話や書類上で行うことが多かったから、これまでやってこられたのだろう。
また家庭環境の複雑さが、彼をそのようにしてしまったのかもしれない。今現在は母子二人で生活しているが、その母親とは血が繋がっていないそうだ。実の母は彼が幼い頃に病で亡くなっており、その後父親が今の母親と結婚したため、いわゆる後妻にあたるという。
さらに彼には父親と義母との間に生まれた弟がいたらしい。だが家族四人で車に乗って旅行へと出かけた際、土砂崩れに巻き込まれて車ごと川に流され、父と弟の二人は亡くなったそうだ。
流される車から父親は懸命に皆を脱出させ、泳ぎながら流れが弱い場所までなんとか動かして助けようしたらしい。だが川の流れから身を挺していた分体力を消耗したのか、最後には力尽きて幼い弟と共に流されてしまったという。
しかし救助が来るまで必死に手を放さずにいてくれた義母のおかげで助かった彼は、残された二人で生活するため、高校を卒業して市役所に入ったそうだ。
そうした経験からか、意外に正義感の強いところがあった。気さくな性格で相手の懐に飛び込み年上に可愛がられやすい分、調子が良いだけの男だと馬鹿にされやすい男だが、実の所は芯が通った奴だとあることをきっかけに知ったのだ。
休みの日に妻と義父母に頼まれ、“カノン”とその娘の“ラン”の散歩をするため、実家から少し離れた公園に向かっていた時だった。役所から支給されているジャンパーを着て木の陰に隠れるように立っている六三四の姿を偶然見かけたのだ。
その公園は市が管轄している場所で、彼が担当している地域だったらしい。最初は休日だというのに、何故ここにいるのだろうと不思議に思った。休日出勤をするという話は聞いていない。
だからと言って彼の住んでいるマンションは、虎次郎が知る限りこの近くではなかったはずだ。そこで少し遠巻きに見守っていた所、その公園では禁止されているボール遊びをしている児童が以前からいる、と市役所に苦情が来ていたことを思い出す。その対応に彼が休みを返上して現場に来ていたのか、と気付いた。
おそらくルール違反している現場を抑え、注意しようとしていたのだろう。実際にしばらくするとサッカーボールを持った少年達が現れた。そして他に遊んでいた子供達を蹴散らすように遊び始めたのだ。
そこで彼はしばらくその様子を、持参していたタブレットで動画撮影した後、少年達の所に歩み寄り話しかけていた。しかしそこで問題が起こる。
注意された少年達が反抗して大声を出したため、近くに住んでいるらしい彼らの保護者が現れたのだ。そして大人達による反撃に合い、複数の少年と親達に囲まれ揉めだした。
しかもそれだけでは収まらなかった。同時に市役所へ苦情を出した人達であろう住民達が騒ぎを聞きつけて集まりだし、彼の背後に立って抗議し始めたのだ。
「この公園はボール遊びが禁止されているでしょう。ルールは守ってください」
だがボール遊びをしていた少年達の保護者も負けてはいない。元々規則に反していることを認識していながら遊ばせている大人達だ。周囲の住民による注意を聞かないからこそ、市役所まで苦情が寄せられる迄に発展したのだろう。
一人の女性が一歩前に出て言い返した。
「ルールがおかしいのよ。公園だって私達の払った税金で管理しているんでしょう。それに最近の公園は昔と違ってどこもかしこも、あれはダメ、これもダメって言い過ぎ。もっと子供達が自由に遊べるようにしないと、公園の意味がないじゃない」
そうだ、そうだ、と彼女を味方する保護者達が同意する。しかし六三四の後ろにいた住民が、彼を盾にしながら反論した。
「だからって他にも遊んでいる子供達がいるのに、邪魔だ、どけと言わんばかりに自分達で占拠するのはおかしいでしょ。それに蹴ったボールが他の子達に当たって怪我でもしたら、どう責任を取ってくれるの」
ここで言い争いが始まった。
「うちの子達はそんな危険なことをしていません。ちゃんと他の人に当たらないよう気を付けて遊ぶように言い聞かせています」
「何言っているの。それが守られていないから言っているんじゃない」
「守られていないって何か証拠でもあるんですか? 誰か怪我をした子が実際にいるの?」
六三四の背後にいる住民の別の一人が声を上げた。
「うちの子にボールが当たったことがあります。幸いたいしたことはありませんでしたが、それはたまたまであって、大きな怪我をしてからでは遅いんです。そうなる前に規則を守って下さいと言っているんじゃないですか」
「少し当たった程度なんでしょ。ちゃんと他人が怪我をしないように遊んでいるならいいじゃない。子供の自由を奪わないでよ」
これには抗議していた側の住民が一斉に声を上げた。
「公園はあなた達の子供のためだけにあるんじゃないのよ!」
「そうよ! 今日だって他の子達が先に遊んでいるところを後から入ってきて、追い出すように場所を広くとって遊んでいたんだから」
「どっちが子供の遊ぶ自由を奪っているんだよ。そっちじゃないか!」
それでもボール遊びをしていた子供の保護者は怯まない。ゆっくりと後ろを向いて自分の子供達に問いかけた。
「そうなの? そんな事をしたの?」
だが子供達は黙ったまま、一斉に首を横に振った。それを確認した上で前を向き直した女性は鼻で笑いながら反論した。
「ほら、やってないって言っているじゃないの。いい加減なことを言わないで頂戴」
しかしそれで抗議している住民側が納得する訳はない。その中の一人が怒鳴った。
「あなた達、嘘を言っているんじゃないわよ。ちゃんと見ていたんだからね!」
そこでその女性は開き直るように言った。
「何よ、子供達はやっていないって言っているでしょ。それとも証拠でもあるっていうの?」
収拾がつかないほど騒然としだした住民達の対立と、その間に挟まれて何も言葉を発しない後輩の姿を見ていた虎次郎は、間に入り助け舟を出すべきかどうか悩んでいた。
しかしこの場所は虎次郎の住む家とは違う町区だ。下手に口を挟んでも部外者扱いされて余計に混乱させるかもしれない。しかも市役所の人間だと言っても仕事中ではないし、今は休日に二匹の犬を連れているただの一市民で、さらに担当管轄外の話だ。
出て行ったとしてもあれだけ感情的になっている人達を相手に、六三四の力になってあげられるとは思えない。かえって足手まといになってしまうだろう。とはいってもこのまま彼を見捨てて傍観するだけでよいのかと、良心が痛みだす。
それではどうすればいいのか、色々考えてみたけれどもこれだと言う案が出ない。その為最初の一歩が踏み出せず、身動きが取れないままその集団を見つめ続けていた。
そんな時、それまで黙って聞いていた六三四がようやく口を開いたのだ。
「証拠ならありますよ。たまたま今日、この公園の管理状態に問題がないかを撮影していたら、そこにいる子達がボールを持ってやって来て、先に遊んでいた子達を追い出すようにして遊び始めたんです。ですから私は彼らに注意をしました。ここではボール遊びが禁止になっているから止めて欲しいと。他で遊んでいる子達が危ないし、公園は皆が楽しく安全に過ごす場所だから、と言っていたんですけどね」
これには前に出ていた女性が目を見張って彼に詰め寄った。
「撮影? 子供達を勝手に盗撮していたわけ? ねぇ、あなた。その恰好は市役所の人でしょ。だったら今日は休みじゃない。仕事中でもないのにそんなことをして良いと思っているの!」
「盗撮ではありません。それに今日は休日勤務届を出し、仕事としてこの公園に来ています。市民の方からこの公園で決められた規則を破り、危険な遊びをしている子達がいる、という苦情が何件か寄せられていたので、その実地調査をしていました。すると苦情通りのことが目の前で起こったので状況を撮影した後、この子達に注意をしていたのです。どうですか? 見られますか?」
彼は相手の答えを待たずして、持っていたタブレットの画面を女性とその背後にいる人達に向けた。
そこでは先程繰り広げられていた、子供達の傍若無人な振る舞いが写っていたのだろう。リーダーらしき女性を含めた子供達の保護者らは、顔をしかめながら横目で見ていた。
打つ手なしと思い傍観していたが、ここで形勢が逆転し空気が変わったことを読み取った虎次郎は、彼が普段見せている態度とは全く異なっていたことに驚く。
感情的にもならず、毅然とした態度で決められた規則を守ってもらわないと困る、と主張している彼の姿が頼もしく見えたのだ。
彼は言葉を続けた。
「ボール遊びをさせたいという親御さんのお気持ちも判りますが、このまま放置すれば決められた規則を破ってもいいという、間違った行為を子供達に教えることになります。あくまでルールに従った上で、主張したいことは言ってください」
「だったらこの公園の規則を変えてよ。ボール遊び禁止なんて馬鹿げたルールを止めればいいでしょ」
開き直った保護者達は、あくまで自分達の子供にこの公園でサッカーをさせたいようだ。しかし彼は首を横に振った。
「それは今すぐにできません。危険なので禁止して欲しいという要望もございますから。それにこの近くだとボール遊びが禁止されていない公園もあります。そちらへ行かれたらいかがですか?」
「あそこはここより遠いじゃない。しかも事前に許可を取らなければいけないんでしょ」
どうやらそのような公園があることは知っているが、その保護者や子供達にとって使い勝手が悪いらしい。だから家に近いこの場所で遊ばせたいようだ。
そんな勝手が許されるわけがない。当然のように規則を守らせたい住民達から、一斉に抗議の声が上がった。
「ただ面倒くさがっているだけじゃないか!」
「そうだ、そうだ、規則を守れ!」
「これ以上、ボール遊びをさせるのなら、証拠もあるし学校や警察へ届けてもいいんだぞ!」
そこまで言われてしまえば分が悪いのは違反した側だ。今までは近所のパワーバランスもあり、なかなか正面切って注意をする機会がなかったのだろう。
だが今回市役所の職員である彼が動いたことで、正しいことを堂々と言える場ができたのだ。しかも集まった住民も複数いる。証拠もあれば自分達が有利なため、ここぞとばかり強気に出ていた。
そこでボールを持った子供達やその保護者達は、虎次郎が立っていた場所には聞こえない程度の声で、捨て台詞らしき言葉を吐きながらその場を去っていった。すると六三四の後ろにいた大人達が歓喜の声を上げ、彼はお礼を言われていた。
彼は彼なりの正義感を持って仕事をしているのだとその時は意外に思い、それからはひそかに見直すこととなったのだ。また実は彼の義母の知人がその地域に住んでおり、困っているという話を耳にしたから何とかしようと動いたらしい事を後に聞いた。
そんな彼さえも上の指示には逆らえず、金乃森建設の件は淡々と不正に手を貸し、事務手続きを行っていた。もちろん彼にも家庭の事情があったのだろう。
普段は関係がぎくしゃくしているし鬱陶しいと強がってはいたが、まだ幼い彼が川に流された時、最後まで自分を生かそうと踏ん張り、その後もパートの収入等で育ててくれた義母の事を大切にしていたはずだ。その為自分が無職になって迷惑をかける訳にはいかない、と考えていたに違いない。
そうこうしている間に事態はどんどんと進み、もうこれ以上やると後戻りできない時点まで来たため、虎次郎は再び悩み始める。そんな時だった。
一部の市会議員の中から、今回の市有地売却に関して不正があるのではないかと嗅ぎつけた人物が声を上げ、調べ始めたのだ。また市議会の議題にこの問題が上がり、多くの質問と追及がされることとなった。
その度に上司であり責任者である馬原が議会へと呼び出されたが、彼はのらりくらりと質問をかわした。そんな光景が何度も続き、議場では大きな罵声が飛び交ったのだ。
しかもそれだけでは済まなかった。馬原がどうしても他の会議などで出席できない場合は、部下である虎次郎が代わりに質問を受けることもあったのだ。
今となればこの時が、最初に訪れた最大のチャンスだったのだろう。しかしその機会を活かすことはできなかった。
チャンスの神は前髪しかなく、後ろ髪がないと言われる。来たと思った時にタイミングを逃さず前で捉えなければ、掴み取ることは出来ない。通り過ぎた後では遅いのだ。
しかしこの時の虎次郎には、その勇気がなかった。そうなると上司が述べてきたように知らぬ、存ぜぬ、としらを切る答弁しかできない。当然これは公になり、やがて自身の責任問題にもなりかねない問題へと発展していく。
馬原と協力する議員もいたため、その後も議会で取り上げられる度に上司達は追及から逃れる答弁をし、別の議題へとすり替える姿が見られた。
そこでようやくこの案件には、馬原個人だけでなく利権に関わっている議員が数名いるのだということを、初めて察したほどだ。
様々な手続きをして概略は知っていたつもりでも、実は自分も知らされていない根深い闇が存在しているのだと感づいた。しかし時すでに遅し、だ。追及する側の多くの議員達からは、虎次郎や六三四の元に、内部告発しないかという誘いもあった。
この時が第二のチャンスだったのだろう。しかし一回目以上にハードルが高く、超えられるほどの気概を持つことが出来なかった。
なぜならすでに虎次郎は議会で虚偽の答弁をしてしまっている。そんな自分が、相手方へと寝返れば無事では済まされず、罪に問われることは間違いない。それを恐れたのだ。
しかしこの話題が大きくなるにつれて町でも噂が広まった。家に帰れば義父からも実際の所はどうなのか、悪事に手を貸したりはしていないのだろうな、と詰問されるようになった。
また義母や親戚からも万が一関わっているようなら、この家から出て行ってもらうとさえ脅されたのだ。この時が三度目のチャンスだったのだろうが、この時も今までと同じく捉えて掴むことは出来なかった。
妻からも、そんなことはないよねと念を押されたことがその一因だった。身重の彼女に余計な心配をかける訳にはいかないと考えてしまい、その都度自分は関係ない、何も知らないと言い張ったのだ。
それでも役所に顔を出す度、これ以上隠しだては難しいのではないかと考えるようになった。そこで馬原や時には電話で金乃森にやんわりと直訴してみたが、逆に罵倒され、もし告発などすればどうなるか、と脅されたのだ。
「いまさら何を馬鹿なことを言っている。今までやってきた我々や君の仕事を、全て無駄にするつもりなのか」
「しかしこれだけ追及が厳しくなりさらに続くようであれば、これ以上隠し通せるとは思えません」
「君は勘違いをしていないか。何を隠す必要がある。堂々としていればいい。市としてはきちんとした手順を踏んで金乃森建設に土地を売却し、開発をお願いしたんだよ。あの場所に大きなマンションと、併設するレジャー施設や保育施設が建設されれば、市民にとっても喜ばしいことじゃないか」
確かに計画通りにいけば、街の活気を取り戻す拠点となり、若い子育て世代にも喜ばれて、町に残る人達が増える可能性はあった。それだけでなく他の地域からも移り住む人がでてくるかもしれない。
よって計画自体に問題があるとは思わなかった。ただその過程に疑義があるからこんな目に遭っているのではないか。税金を使った公共事業や補助金目当てで、一部の企業だけに利益を吸い取らせる動きがあったこと自体、間違いなのだ。
さらにそこから賄賂をもらっている議員がいる可能性がある為、余計に悪質だった。
そのことを指摘すると、馬原に大声で怒鳴られた。
「君は何の確証を持ってそんな事を言っている! 君はどっちの立場にいると思っているんだ! いい加減な憶測でいちゃもんをつけている野党議員の言葉を信じるんじゃない! 君は言われたことをやっていればいい。いいか。余計なことをするんじゃないぞ。間違っても告発なんて馬鹿な真似をしてみろ。今後この街を歩くことなどできなくなるからな」
余りの迫力に押されたが、尋ねざるを得なかった。
「そ、それはどういう意味ですか」
すると彼は不敵な笑みを浮かべた。しかし目は真剣だ。
「言葉通りだよ。お前だって無傷じゃ済まない。それだけじゃないぞ。今妊娠中の奥さんや、お前の家族、親戚一同が後ろ指を指されるようになる。今まで通りこの街で暮らしたかったら、大人しく言う通りにしていろ」
ここまできたら、完全な脅しであり恐喝だ。この時が最後のチャンスだったのだろう。そこから抜け出すことをこの時点で思い付くべきだった。
しかし家族の安全と自分の身を守るため、彼の言う通り大人しくするしかない、と言い聞かせる方法を虎次郎は選んでしまったのだ。
そうなるとストレスがさらに溜まっていく。そこで行き着いた先が、唯一の趣味である車で発散することだった。
休みの日だけでなく、平日の夜でも仕事が終われば家の中に入ることなく、ガレージに止めてある車に乗り込んだ。そして峠を一走りしてから帰宅することが習慣となった。
これにはさすがに義父母が心配し、最初は車でどこに行っているのかを聞かれた。そこで答えた。
「気分転換のためのドライブです。噂になっている件もあって、自分には後ろめたいことはなくても、責められ疑われれば気分が腐ってきますから。そのイライラを家に持ち込まないよう発散させた後、帰るようにしたんです。身重で大事な時を迎えている彼女に、迷惑をかけたくないですから」
すると仕方がないと思ったのか、ドライブ自体を止めるようには言われなくなった。しかしくれぐれも運転には気を付けて欲しいとだけ頼まれたのだ。虎次郎の言う通り、あなたはもうすぐ子供が生まれる身であり、父親になる大事な時なのだからと諭された。
それがまた新たなストレスとなる。仕事とプライベートの生活で板挟みになり、どんどんと膨らんでいく不満を解消する必要があった。虎次郎にとってそれが峠を攻めることであり、アクセルを強く踏み、スピードを出して憂さを晴らすことだったのだ。
そんなことを繰り返していれば、いつかはただで済むはずがないことは理解していた。少し考えれば踏み止まることも出来ただろう。だがあの時の精神状態は異常だった。
暴走行為を止めることができず、ますます積み重なっていくストレスを晴らすため、毎日のように車を走らせていたのだ。それは一種の麻薬のような依存症だったのかもしれない。
そしてあの事故が起こった。その日の事はよく覚えている。
議会の追及が激しくなる一方で、馬原は平然とした態度で毎回のように噛み合わない回答を繰り返していた。
人というものは自らの利益を守るためなら、どんなに非難を浴びても平気なのだろうか。嘘をつかないにしても、真実を語ろうとはしない彼の姿勢には舌を巻くしかない。
それでも議場から戻ってくる度に彼は虎次郎や六三四に対し、理不尽な命令や言動をすることで鬱憤を晴らしていた。
あの時も攻撃してくる議員達の目があるため、建設予定地の工事をもう少し延期するよう、金乃森建設に対し連絡しておけと命令を受けたのだ。
正直もうこれ以上巻き込まないでくれと思っていたが、そうはいかない。止む無く指示通りに電話をすると、先方からはいつになったら工事が再開できるのだ、とクレームを受けた。
それは上に聞いてくれと言いたい所だったが、相手は取引先だ。なぜかこちらが頭を下げるように、申し訳ありません、もう少しお待ちくださいと答えるしかない。
そのようなやり取りがあったため、この日は少し仕事を早めに切り上げることにしたのだ。自宅のガレージに着くとすぐ車に乗り込み、峠へと向かった。
ボリュームを大きくした音楽を車内でかけて走りながら、大声を出す。
「馬鹿野郎! なぜ俺があんな犯罪者達の手先になって働かなきゃいけないんだよ! 本当に告発してやろうか、あのボケ! 市民の税金を使って金儲けをするんじゃねえ! 人の金で勝手なことをやりやがって!」
そう怒鳴り散らしていると、携帯が震えた。役所からだと判ったので、舌打ちをしながら音楽のボリュームを下げた。そしてスマホの画面を操作しようとしたのだ。その時、間違ってアクセルを踏み込んでしまっていたらしい。
普段なら曲がりくねった峠の道を爆走し、途中で車とすれ違って危うく衝突しそうになっても、これまで上手くかわしてきた。反射神経には自信がある。
時にはタイヤを滑らし、キィーと音を鳴らしながら鋭く曲がるカーブを走り抜けた。そんなスリリングな瞬間がたまらない。
一瞬の油断により、命を落とす危険性があることは承知していた。ここで自分が死ねばどれだけ家族に迷惑をかけてしまうかも、頭では理解していたつもりだ。
それでも止められなかった。いつの頃からか走り続けていなければ、これ以上仕事を続けることはできず生きていけない、と思い込んでしまっていたのだろう。
それでも無謀な運転はしていないつもりだった。家に戻ればもうすぐ生まれる子供をお腹の中に抱えた妻やその両親が待っている。だから無事に帰らなければならない。
だがあの時はまだ峠へと向かう途中の一般道であり、遅い時間ではなかったため油断していたのだろう。
しかも街中の道を走っていたにもかかわらず、まだ怒りによる興奮状態が収まっていなかったことと、たまたま他の車が少なかったことが災いした。いつの間にかスピードを出しすぎていたようだ。
そこで携帯の着信に気を取られたため、気付いた時には車が歩道へと突進していた。スマホの画面から目を離して前を向いた時に、数人の子供と女性二人が目に入る。しかしそれが遅すぎた。
アッと思ってハンドルを切った時はすでに歩道へ突っ込んでおり、操作不能になった車はそのままの勢いで人を撥ねた。また不幸にも近くを歩いていた老人を巻き込みながら電柱に激突し、虎次郎はそこで意識を失ったのだ。
この事故で最初に轢いたのは六十代の女性で、その後死亡が確認されたらしい。また歩道でいた七十過ぎの男性は、車と衝突したため下半身に後遺障害が残り、ほとんど歩けなくなるという重傷を負ったという。不幸中の幸いだったのは、幼い三人の子供達ともう一人の女性は軽傷で済んだことだ。
虎次郎の起こしたこの馬鹿な事故の為に、その後の人生が大きく変わった。
多大な迷惑を被ったのはもちろん最大の被害者となった二名の死傷者だが、残された遺族や家族達もそうだ。それだけではない。当然、身重の妻や彼女の両親、また自分の家族にまで大きな被害を及ぼした。
死傷者六名を出す大事故を起こしたのだから当然だろう。さらに妻にとっては生まれてくる子供達を養う働き手を失ったばかりか、父親となるはずだった男が犯罪者になったのだ。
死者が出た場合に苦しむのは、何も被害者遺族ばかりではない。加害者家族もまた世間から後ろ指を指され、非難を浴びるようになる。しかも事故を起こした原因が問題だった。
まずは事故当日に突然かかってきた警察からの連絡を受け、義母は卒倒したらしい。代わって話を聞いた義父は怒りと悲しみで震えたという。そして安定期に入っていたとはいえ、娘にどう説明したらいいものかと悩んだらしい。
しかし黙っている訳にもいかず、一旦電話を切った後に説明したようだ。最初は信じられないという顔で話を聞いていた妻も、現実だと理解した途端、泣き叫んだという。
少し落ち着いたところで警察に言われた通り、義父の車に三人が乗り、被害者達とは別に運ばれた病院へと駆けつけたそうだ。途中で虎次郎の両親にも連絡したらしい。
ここでまず大きな問題が起きた。病院で被害者家族と顔を合わせることはなかったものの、何故事故が起こったのかという警察による事情聴取が、同居していた義父母や妻に対して行われたのだ。
その後、虎次郎の両親と部屋に籠っていた兄までも駆け付けたため、事情を聴かれたらしい。ここで初めて最近は休みの日だけでなく、平日も勤務を終えると毎日のように車を出し、峠に向かって走っていたことを彼らは知ったのだ。
そこで激怒した片岡家の面々が、義父母や妻に対して詰め寄った。
「毎日のように、仕事が終わったら家に入らず車に乗って峠を暴走させていたってどう言うことですか! どうしてそんな馬鹿なことをあなた達は黙認していたのですか!」
初めは警察からも同じことを指摘され、注意を受けていたようだ。そのため義父母や妻もしばらくは大人しく聞いていたらしい。だがしつこく続く批判に、まずは義母が反論したという。
「黙認していたのは確かですが、事故を起こしたのはお宅の息子さんですよ! なぜ私達ばかりが責められなければならないのですか! あなた達が育てた子供でしょう。その教育が間違っていなかったとでも言うのですか! しかも峠を走るようになったのは最近の話ではなく、就職してからすぐだというじゃありませんか。うちの娘と結婚するより十年以上前の話でしょう」
これに対し、虎次郎の母が言い返した。
「確かにあの子が峠を走るようになったのは、就職してすぐです。しかし結婚する前までは、休みの日にしか走っていませんでした。それこそ十年以上そうやってきたんです。無茶な運転をするような子ではありませんでしたよ。それが何故、毎日仕事で疲れて帰ってくるはずのあの子が、家の中にも入らず峠を走るようになったんですか。お宅の家で何か問題があったんじゃありませんか!」
「そんなことはありません! 警察の方にもお話ししましたが、平日の夜も車を走らせるようになったのは、ここ最近のことです」
義母に変わって今度は義父が話に加わった。
「私達も最初は注意しました。しかし彼は言ったんですよ。この街で噂になっていますからお宅もご存知でしょうが、市有地の不正売却を疑われていた件に関わる部署で、彼は仕事をしています。そのため自分には後ろめたいことがなくても、責められ疑われれば気分が腐ってくる。だからそれらのストレスを家に持ち込まないよう発散させている、と。それを聞いて私達は仕方がないと思い、それでも運転には気を付けて欲しいとは頼んでいましたよ。当り前じゃないですか。もうすぐ子供が生まれる身で、父親になる大事な時ですから。彼も分かっていますと言ったので、私達も信じたんです。でも彼はその言葉を守らなかった。裏切られたのは私達ですよ」
こうなればどっちが悪いと責任をなすりつけるばかりで、関係は悪化するしかない。
また次の日の朝早くからマスコミ各社が動き出したという。そして両家の周りを取り囲み、取材させろとしつこく何度もインターホンを鳴らされたようだ。その結果、互いの家の溝がさらに深まったらしい。
もちろん被害者の方々やその遺族の方達には、大変申し訳ないことをした。多少の罵詈雑言を浴びることはやむを得ないだろう。だが最近のマスコミの報道は度を越してはいないか。家に引き籠っていた兄もまた相当苦しんでいたようだ。
しかしそれ以上に虎次郎が住んでいた義父母の家の周辺では、激しい取材攻勢で騒がしくなった。そのことに怒り出す住民も出始めたという。特に亡くなった被害者の家や重症を負った人の家が近所だったことも影響したのかもしれない。
妻や義父母は、人殺しの家だと攻撃されたという。外から石が投げ込まれたり、いたずら電話や無言電話が頻繁にかかってきたりするようにもなったらしい。
そこで妻や義父母は離れた場所に部屋を借り、しばらくは身を潜めて生活せざるをえなくなったそうだ。
虎次郎の実家でも悲劇が起こった。時々「人殺し!」と言って電話を切る人もいたらしい。憔悴していく両親を見たからなのか、家に引き籠っていた兄はとうとう生きることに疲れたのだろう。しばらく経ってから首を吊って自殺したのだ。
酷い目に合うのは加害者遺族達だけではない。それが現代の社会現象における恐ろしい風習と言える。
今回の事故の原因が、スマホを操作していたことによる事故と明らかになったことから、世間が大きく騒ぎ注目した。その分、幼い子供を連れて歩いていた被害者にも落ち度があったのではないか、と理不尽な攻撃しだす人達も現れたのだ。
さらに自動車事故だったため、虎次郎が加入していた自動車保険の対人賠償により、死亡した人の遺族や後遺障害を負った被害者に対し、それなりの賠償金が支払われたこともその要因を作ったと思われる。
死亡したり怪我をしたりした歩行者に、全く過失はない。しかしマスコミや大衆にはそんなことなど関係ないようだ。
死んだ女性が連れていた幼い子はその人の孫だったため、母親は何をしていたのだと責められたという。子供の世話を親に押し付け、母親は働きに出ていた実態が明らかになると、事故とは直接関わりのないことがネットで炎上した。
そんな人達にお金が入る事自体が気に食わないとの意見もあったらしい。こういう場合、全く関係のない第三者までが騒ぎ出すから厄介だ。そのため被害者遺族もまた、姿の見えない人達からの心無い誹謗中傷にさらされたのだという。
いずれにしても死亡者や怪我人を出してしまうような事故を起こせば、その罪と罰を背負うのは本人だけで済まない。関係者も含めて多くの人達を不幸にすることを、今回の件で文字通り痛感した。
ただ一点だけ、救われたこともある。今回の事故によって一つの悪事が世に暴かれたことだ。虎次郎が愛したこの街の人々の税金が、不正使用されることは防がれたのである。それだけが僅かばかりではあるが、心を軽くしてくれた。
きっかけは市役所の職員が起こした死亡事故で、しかもその職員が疑惑の渦中に関係する部署に所属していたと聞きつけたマスコミが、六三四に目を付けたことから始まった。
さらに事故を起こした原因の一つである虎次郎のスマホに、電話をかけていた相手が上司の馬原だったことまでもが週刊誌で暴露されたからだろう。
彼は飄々として新聞の取材のインタビュ―に答えたのだ。
「運転していた片岡先輩は、日々過酷な仕事を任され荒れていましたね。例の市有地の不正取得に関して上司と関係企業の間に挟まれ、相当悩んでいたと思います。ですから日頃の溜まったストレスを発散するために、あんな暴走をしていたんでしょう。しかも退所した後の勤務時間外に上司から電話がかってきて、それに出ようとしたことが事故原因の一つだったのでしょう? だったら先輩は、その人達に殺されたようなものじゃないですか」
彼の発言が発端となり、役所での勤務形態に問題がなかったかも調べられたようだ。警察の他に、県による労働実態調査が始まったのである。そこから馬原や金乃森建設が行っていた不正が暴かれる事態となったのだ。
彼の告発とも取れる一言から、後に馬原と金乃森、そして同じく利権に関わっていた議員数名が逮捕された。ちなみに馬原が虎次郎に電話をかけていたことを週刊誌にリークしたのも彼だったようだ。
「なんだよ、あいつさっさと帰りやがって」
と怒りながら虎次郎を呼び出している所を、職場に残っていた時に近くで様子を見ていたらしい。そこで馬原が怒鳴り散らしているのを聞いていたのだ。
「なんだよ! 電話に出たと思ったら突然切れやがったぞ!」
その時間が後に事故が起こった時と同じだったと知った彼は、家で義母にその話をしたという。それを聞いた彼女はマスコミに告発するよう促したそうだ。
虎次郎が起こした事故は、家族やその周辺の人々に災いをもたらしたことは確かだ。反省してもしきれない大きな過ちを犯したことは、間違いない事実である。
自身が失ったものも多い。妻との幸せな結婚生活、そして生まれてくる子の父親になることや義父母との三世代揃っての生活もそうだ。
また役所において町の人々のために働くという事、唯一の趣味だったドライブやちゃらんぽらんな六三四との楽しい会話、犬のお見合いまでさせて無償の愛情を注ぐことを望んでいた両親に孫を抱かせてあげることなど、これから訪れただろう数えきれないほどの幸せや楽しい事が手元から離れていった。
そしてそれらを手にすることは、二度と出来なくなったのだ。
人生は一度きりしかない。そんな当たり前の事を忘れ、目先の苦しみから逃れるために取った行動は、明らかに間違いだった。じっくりと過去を振り返る機会を与えられたことで、そのことだけは断言できる。
虎次郎は何度も訪れたチャンスの神を掴み損なったのではない。機会はいつだって自分の心の中にあったのだ。告発することができなかったのは、全て自分の弱い心のせいだったことを、今になって理解できた。
妻にプロポーズするため待ち合わせた駅前で、昨日以上に後悔しきれない想いに浸っていると、知らぬ間にもうお昼過ぎになっていた。
あの日は朝九時半に待ち合わせて一時間ほど電車に揺られ、目的地である海の近くの水族館へと向かったはずだ。大事な日だからと早くから出かける用意をし、部屋にいても落ち着かなかったので、ここへは三十分も前に着いた。
そして緊張と興奮を繰り返しながら待っていたため、彼女が姿を現した時は心臓が張り裂けそうな程胸が高鳴った。余りに気持ちが高揚し、人目もはばからず抱きしめてしまいそうになる自分を、必死に抑えたものだ。
その後水族館で楽しみながら、中にあるフードコートで昼食を済ませた。確か彼女がパスタ、虎次郎は海鮮丼を注文したと思う。そして泳ぐ魚達を見た後で海鮮丼を食べるなんて、と呆れられたのだ。
食後は水族館の外にある遊園地で楽しみ、事前に予約していた夜景の見えるレストランでプロポーズをするシミュレーションを、頭の中で何度行ったことか。
そこで虎次郎はようやく待ち合わせ場所から移動し、あの水族館へ行こうと決めた。
このツアーに参加したことで、己の犯した過ちを何度も追憶してはその度に悔いて、もがき苦しんだ。罪を見つめ直し懺悔することからは、この先ずっと逃れることなど出来ないだろう。
しかし今回、思い出の時と場所に戻る機会を与えられたことは別の意味を持っているのではないか。何故なら昨日も今日も、そして明日行くだろう時と場所も、虎次郎がこれまでの人生で幸せと感じた、または大きな転機となったものばかりだからだ。
その証拠にあの事故を起こした日や場所には戻ってはいないし、明日も戻らないと思われる。愚かな自分を許すことはできないが、せめて大切で楽しい時間に戻ることが許されるのならば、自分の人生も捨てたものではなかったと思いたい。
だから今日の残された時間は、あの水族館と遊園地で過ごしたかけがえのない日のために使おう。そして忘れてしまっているかもしれない出来事や彼女との会話を、ほんの少しでも記憶から呼び戻してみようと考えたのだ。
それくらいは許して欲しい。昨日も今日もそうだったが、おそらく明日も自分の罪に向かい合うことになるはずだ。それは覚悟している。
しかし自分勝手なことかもしれないが、僅かな時間だけでも、後悔ではなく、過ごしてきた自分を褒めてあげられる時を過ごしたかった。
そう願いながら、虎次郎は駅で切符を買い、改札口を通った。
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