②
***
俺様の城の中でも、その部屋は初めて見るつくりをしていた。
広さは無数にある客室と同じ程度だが中にあるものは全く違う。部屋の中央には作業台があり、
それにしても他の部屋とあまりにも違いすぎる。トールが言う通り室内は古いようで壁にひび割れも入っている。それに他の部屋にはしつこいほどある様々な装飾が
ともかく手出しはしない方がいいだろう。作業台に腰をかけトールを見る。
トールは
「……おい、よこせ」
「自分で開けられますっ」
「無理をするな」
その手から瓶を
「……泣くようなことではない」
「こんなっ料理ひとつもまともにできないなんてっ」
「お前は自分に厳しいな」
弱い割に、と続けそうになった言葉を飲み込む。言う必要がない言葉だ。
トールは瓶を持つと「明日までには改善いたします」と
「……トマトがあるなあ、お肉はこれで……」
トールはなにを聞いても
この魔王城にこのような幼い子どもがひとりで来れるはずもない。何者かの手引きがあったことは確実だ。しかしトールはそれを覚えていない。どうやってここに辿り着いたかを
トールは『生命値9』だ。拾ったときなど毒にやられていて『2』まで落ち込んでいた。魔力値に至っては数値にするほどもないらしく『0』だ。石がぶつかっても死ぬ可能性があるほどに弱い。こんな子どもになにができるというのか。こんな子どもにどうこうされる魔王と思われたのだろうか。それともこのような子どもなら魔王を
記憶の
調理を始めているトールの頭に向かって、先ほども描きかけた『強制的に記憶を取り戻す』ための魔法陣を描いていく。城の魔力が俺様の指先に集まり、魔力の光が青く輝く。
「……きみ、は、だあれ、ぼくは、きみの、こっくさん」
トールは急に楽しそうに歌いだした。
「まっかな、とまと、ぐつぐつ、ことこと、おなべで、ことこと、ぐつぐつ」
魔法陣を描くのをやめ、集めた魔力を散らす。
「おにくは、ぐっさぐさ、さします、さします、ひにかけて、じゅうじゅ、じゅうじゅ。おまめは、ざらざらいれましょ、ざらざら……あっ!」
「どうした?」
トールが急に歌うのをやめ、
「……なんだ?」
「……聞いてましたか?」
質問の意味を考える。
「ふ、」
「あ! 笑いましたね!」
「笑ってない」
「違うんですよ! いつもはちゃんとしてるんです! 今は浮かれちゃっただけで……」
「分かった、……分かった」
顔を赤くして「本当ですよ!」とトールが言う。鑑定を使うまでもなく、表情だけで何を考えているのかよく分かる。
『だから』だ。だから、トールと話しているとすぐに
「いつもは調理ぐらいぱぱっとやっちゃっているんですよ! 鼻歌なんてもう十年ぐらいはしてないレベルでして、本当に想定外というかっ……」
顔を赤くしながらあれやこれや言い訳をしているトールを見る。ただの子どもだ。こんな子ども相手に警戒もなにも必要ないだろう。
「お前の歌は聞いていて
「そんなこと言われても……いえ、なんでも歌います! 魔王さん賛歌でいいですか!?」
「なんだそれは」
「あっそれっ! うーちの魔王さーんはっ世界一ーぃ!」
「妙な歌はやめろ」
「……はい……すいませんでした……」
落ち込んでいるその顔が妙におかしくてまた笑ってしまいそうになるのをこらえる。
「なにを作っているんだ?」
「え? あ、これは
鉄製の機材の上で肉が熱せられている。
「すぐできるのか?」
「煮込みますのでここから二十分ぐらいですかね」
「そうか。
「そうですね、待っている間に他のものを作りましょう。そうだ! パンケーキ作りますね!」
「ぱんけーき」
トールは
「ふわふわとしっかりしているのと、どっちがいいですか?」
「ふわふわ、しっかり?」
「
「あまいの、しょっぱいの?」
よく分からず言われたことを
「……なんだ?」
「魔王さんは、
「実か肉だな」
「どのように加工されるんですか?」
「そのまま食べている。……なんだ、その顔」
トールは呆れたように俺様を見ていた。鑑定すると『
「お前なんなんだ」
「あなたの部下です」
当たり前のようにそう返されると、それ以上聞きようがなかった。
トールが戸棚から白い粉と黒い液体を持ってきた。小皿に少量ずつ出して、俺様に差し出してきた。
「ちょっと
「これをか?」
「はい」
渡された粉と液体を言われた通りに舐める。
「それは砂糖なので、糖分による甘さの代表になります。……嫌な味ですか?」
「嫌、ではない。
「なるほど、分かりました。では、こちらはどうでしょう」
「……なんだこれは……」
「それは
「しょっぱいとはなんだ?」
「えっ……舌がびりっとなったりしますか? 食べられないと感じますか?
「……嫌いではないが、単体で舐めるものか?」
「なるほど、分かりました!」
「……なにが分かったんだ?」
頭の中を覗くと『あとは苦味だなあ……魚焼くかなあ……』と考えていた。もしや、……俺様の味覚を試験したのだろうか。だとしたら何故そんなことをしたのか。……俺様の味覚に合うものを作ろうとでもいうのだろうか。……ありえない。毒を入れられる方が信ぴょう性が高い。どうせ毒など効きはしないのだから好きにすればいい、そんなことを考えながらその小さな背中を
トールは「じゃあ作りますね」と卵や粉や液体を
「魔王さんに
「……、……そうか」
この魔王城には今までこんな部屋はなかった。この魔王には今まで部下などいなかった。だから正しい
「お前は、……
こいつがいると城が変わる。こいつは俺様の思考を超える反応をする。それが面白い。トールは俺様の顔を見て、破顔した。
「魔王さんに面白がってもらえるのは嬉しいですね! 私も魔王さんが返事をしてくださるからお話しするの楽しいですよ。今までずっと無視されていたので!」
「……は?」
トールの言葉は全く予想していないものだった。しかしトールの笑顔には少しも
トールの手から器を奪い取り、
「えっいや、私がやるので……」
「無視されていたというのはどういうことだ?」
「へ?」
「どういうことだ」
トールは元から丸い瞳をさらに丸くした。俺様が視線を
「大したことじゃないですよ。
「何故? 人は群れるものだろう?」
「あっもうそのぐらい混ぜていただければ
トールは俺様の手から器を取った。それから俺様に背を向けて装置を操作し、火を
「焼けたら出来上がりですからね」
「そうか……」
その視線がこちらに戻らない。
「……トール」
呼びかけるとやっとトールはこちらを向いた。
「話したくないのか? それほど
「そう、いうわけではないですが……私の話なんて楽しくないですよ?」
「楽しいかどうかを判断するのは俺様だ。それに、今まで話し相手などいなかったから
「あ。とも……」
「友達がいないとかそういうことではない、俺様は魔王だぞ」
「まだなにも言ってないじゃないですか!」
「うるさい」
「あはっふふっ……」
トールが笑うと、そうやって楽しそうにしている方がずっといいと思う。けれど、ずっと笑われるのは
「なにがおかしい」
「いや、魔王さん天使だなって」
「魔王だ」
その頭を軽く
「……それで、トール、……無視されていたというのはどういうことだ」
「そうですね……どう言えばいいかな……」
トールは首をかしげると鉄製の機材の上で焼かれているものを見た。しかしその視線はそれを見ているというよりは、もっと遠く、ここではないどこかを見ているようだった。
「私は、……
「どういう意味だ?」
「……ああ、……そうか、そこから疑問を持たれるのか……」
トールは口元を
口角が上がっているだけの、まるで仮面のように不自然な顔だ。
「魔王さんからすれば、私はなにもできない
「トール、皮肉で言ったつもりはない。なににおいて優秀かを聞いている」
「えっ……」
トールがはたとなにかに気が付いた様子で顔を上げた。その顔には仮面の笑顔は消え去っていた。トールは心底慌てた様子で「ごめんなさい」と頭を下げた。
「謝るな。俺様の言い方が悪かったんだ。すまなかったな」
「いや、その、……皮肉ばっかり聞いてきたもので……ごめんなさい」
「かまわない。それも
俺様の言葉にトールは深呼吸をしてから口を開いた。
「……私は今までそこになかったものを作り出すことが得意なんです。ひらめきや思いつきではなく考えついたことを『現実』に起こしていくこと、その点において私は優秀だと自負しています。でも、考えついたことを他人に理解してもらうには、思考に至った全ての前提を分かっていただかないといけません。それには恐ろしいほどに時間がかかります。時間をかけても理解してもらえないことの方が多いですしね」
説明を続けていくトールの目がまたどこか遠くを見始める。その頭の中を
『気味が悪い』と大人がトールを責める。『
「結果が出ていても、過程が理解できないのって怖がられるんですよ。だからこそ大きなことであればあるほど理解は必要で、むしろ結果よりも重要だったんです。なのに私は他者の理解を得ようとしないまま、ひとりでやってしまった。その方が早くて楽だからという理由で。……そんなやつは可愛げがないでしょう? ちゃんと空気を読んで、
その小さな頭の中には様々な数字が浮かんでは消えていく。それに対し周りの大人たちは『頭がおかしい』と笑う。トールの思考の重さと周りの大人たちの言葉の軽さはどこも
「それでも結果が
「結果? なにをしたかったんだ?」
「今となってはただの過去の『夢』ですから話せることはありません」
トールの思考は欲しかった『結果』まで進むことなく切り上げられた。しかし、そこには深い痛みがあった。
トールは俺様を見て、困ったように眉を下げて笑った。
「あー、ごめんなさい。やっぱり楽しい話にできませんでした。そんな顔しないでください。もう全部終わった話で、全部私が馬鹿だったって話ですよ。だから、笑ってください。あー、馬鹿なやつだなーって……」
その頭の中には
子どもが自分のことを第一に考えられない不幸は世界に『ふたつ』もいらない。
「トール」
右手で小さな頰に
「……えと……魔王さん?」
どう言えばこの子どもの考えを変えてやれるだろうか。
終わってしまった『夢』の痛みに寄り
少し考えてから口を開く。
「環境がお前に合っていなかっただけのことを、お前のせいにするな」
トールは俺様の言いたいことが分からないのか、不思議そうに俺様を見上げる。
「お前は『夢』を追い求めればいい。そこに理解など求めなくていい。ただお前がひとりで煮詰まってしまったときは俺様がお前の話を最後まで聞こう。何度だって聞こう。楽しい話じゃなくていい。だから、……そんな風に自分を
トールは眉を下げて笑う。卑下ではなく自分が悪かったのだと言いたげに笑う。だからその口が余計なことを言いだす前に口を開く。
「ならいっそ馬鹿でいい」
「え?」
「俺様は魔王だ。そうだな?」
「……はい、魔王さんです」
「だから、群れなければいけない人間とは違う」
「……えと……そうなんですね?」
「お前は今ここに魔王の部下としているのだ。そうだろう?」
「そうです、私は魔王さんの部下です」
何故それをそんなに嬉しそうに宣言するのかは分からないが、それがトールにとって嬉しいことなら──右手でその髪を
「俺様は部下に可愛げなど求めない。空気なども読まなくていい。たとえお前がなにもできなくても、役に立たなくてもいい。
トールの顔から表情が消えた。
「……」
トールは無言でぱんけーきをひっくり返した。いい
しかしトールの顔に表情は全くない。頭の中を覗いてみても完全な無である。
「……トール?」
呼びかけてみるが反応が全くない。
「……おい、どうした……?」
まるで死者のようだ。獣の方がまだ感情がある。
『もふもふ!』
……こいつ、やはり馬鹿かもしれない。
「おい、こら、おい」
「ぷにぷに」
「トール!」
「ひゃい!」
声を大きくするとようやくその瞳の焦点が合った。しかし何故かすぐに
「どうした?」
「え……と、あの、……そんな扱いというか……評価されたことなかったので、
「は? 子どもはいつでも評価してもらえるものだろう?」
「子どもではないので!」
「子どもだろう……? なにを言っているんだ?」
「はい、パンケーキ焼けました!」
鑑定のためにその顔を覗き込もうとしたら、何故か赤い顔でトールがぱんけーきの
「あっトマト煮もできましたよ! どこで食べますか?」
「ああ……、食事のための部屋があったはずだが……」
「じゃあそこで! はい!」
トールがざらざらと煮込み料理を器に入れていく。
「なんだ、急に」
「なにがですか!」
「早口だ」
「そんなことっ、ない、です! あっちょっ今、鑑定するのはやめていただきたくっ」
『こんな理想の上司がいていいのかよっ神様っ天使かよっ最高すぎるんですけどっ意味分かんないっ最高っ魔王さん最高っ好き! めっちゃ好き! さっきまでも好きだったけどもう意味が分からないぐらいに好き! ときめくなってのが無理なんですけど!
ひとまずトールから目を逸らした。
「……、……食べる部屋を、探してくる」
「……はい、いってらっしゃいませ」
***
魔王さんが見つけてくれた部屋はまさに
三十人は一度に座れそうな長いテーブルが中央に置かれ、その机には背の高い花器が置かれ色とりどりの
こんな格式高い夕食のつもりで料理は作っていないし、こんなとんでもないところで食事などしたことがない。フォークは外側に置かれたものから使うというが、どのタイミングで変えろというのか。パンケーキとトマト煮なんてほぼワンプレートだぞ。
ちらり、と魔王さんを見ると、魔王さんは
こんなことなら先生が再三言っていたマナーのいろはをちゃんと聞いておけばよかった。『透は女の子なんだからいいレストランでご飯
「……ごめんなさい」
「なにがだ?」
魔王さんは全く気にした様子なく食事を続けている。何故これほど音が鳴らないのか。その手元を観察すると、私のように気合を入れて切ってはおらず、むしろゆったりとした動作だ。……たしかに勢いよく切ると皿と
手先に神経を集中させ、鶏肉の
「……うまい」
小さい声だった。けれど他に音がなかったから、たしかに魔王さんがそう言ってくれたのを聞くことができた。顔がにやけるのが分かる。
「よかったです」
パンケーキはトマト煮に合わせて甘いものではなくカリっとして少し塩気のあるものに仕上げた。魔王さんは説明せずとも肉と合わせてパンケーキを一口に切って、一緒に食べている。それでうまいと感じるということは、やはり私の味覚と魔王さんの味覚はそれほどブレがないのだろう。そのことにも安心していると、ふと魔王さんがこちらを見た。
「甘いものも食べてみたい」
「かしこまりました! おやつのときにしましょう!」
「おやつ?」
「午後三時に食べるものですね」
「……? 日に何度も食べるのか?」
「もしかしてあまり食事をしない……ですか?」
私の質問に魔王さんは少し考えるように目を伏せた。
長い睫毛の影が頰に落ちる。その影ひとつとっても完成されている。
「月に一度は獣を食べる」
「ん? 蛇かな?」
「魔王だが?」
「ちなみに獣というのは」
「
「やっぱり蛇かな?」
「魔王だが?」
「ちなみに獣はどう食べるんです?」
「しめて、飲む」
「蛇だな?」
「魔王だが?」
そう言いながら魔王さんは大きめに切られた肉をひょいと一口で
「こういった食事は自分で作るとうまくいかなくてな、……うまいな……」
「あっ! しあわせにしますね!」
「なんなんだ、それは……」
「アップルパイ焼きますね!」
「あっぷる? ……好きにしたらいい」
そうだった、料理しようとしたら毛が入っちゃうんだよね! 分かります分かります、
「……」
綺麗に全て食べきった魔王さんはナプキンで口を
「……、そういえば」
ぱちん、と魔王さんは右手で指を鳴らす。
「ぎゃあっ!? なんですかっこれ!?」
「これは最下層の
「しょくじん!?」
ホールの床から突然生えた草は机や椅子ごと私たちを押し上げていく。
それどころか、私の足から腰のあたりまで締め上げてきている。あれ、これ死んじゃうぞ!? しかもこの草、何故か魔王さんには蔦を
「なんで私ばかり!?」
「お前が人で、俺様が魔王だからだ」
「っぐえっ」
「この城には必要なときに必要なものが現れる。食材についても、この城の中にあるものを好きに使ってくれてかまわない。俺様もそれが食べてみたい」
「えっ!? ちょっうわっ!! 私も食材のひとつってことですかっ!?」
「ああ、……人は食べたことがなかったが、そういうことかもしれん」
「うえっ!?」
腕まで蔦に
「え」
助けてくれるのかと思ったら、魔王さんはひょいと私の皿からパンケーキを
「うまい」
「ちょっ」
魔王さんはぱくぱくと私の皿に残っていた料理を食べていく。意味が分からずその顔を見上げると、にんまりと──初めて見る──実に悪役らしい微笑みが浮かんだ。
「弱肉強食だ」
「言ってくださればおかわり作りますからね!?」
「それじゃつまらないだろう」
「つまるつまらないじゃなくて、うえっ、もう完全に絞められてるこれっおえっ」
「大丈夫だ、まだ生命値5もある」
「なんですかっそれ! 生命値!?」
「0になったら死ぬ」
「じゃあ5って
「うまいな、これ」
「うぐっありがとうございますっ」
結局下ろされたのは魔王さんがきっちり私の分まで食べきった後だった。
正直食欲はなかったのでちょうどよかったのだが、目の前で「うまい」「うまい」と盗られるのはストレスだったので、次からは魔王さんの量は五人前にしようと決めた。
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