第26話 絶望の底

 ……。



 あれからどれだけの時間が経ったのだろうか。両の目を開いていても閉じていても、変化のない暗闇。そんな中で、彼はようやく静寂を手に入れた。



 (……一体、俺は)



 驚く事に、亡霊はあれだけの地獄を味わって、まだ何かを考える事が出来た。



 そんな時、彼は自分の体に違和感を感じていた。



 (目が、ある)



 それを追うように無いはずの両腕に意識を集中させると、そこには違和感はあれど確かに体がある。それだけではない。殺されている最中に消えたはずの感覚や、えぐり取られた記憶すらも取り戻していたのだ。



 それをしたのは、言うまでもなくミザリーだ。理由は不明だが、魔女は亡霊に腕と目を与えた。しかし、彼がそれを喜ぶわけがない。体を与えたからには、必ず思惑があるのだ。



 ポトっ……。ポトっ……。



 先程から、何分か置きに頭上へ水滴が落ちてくる。何も見えず、音もしないこの部屋で、水滴だけが間隔をランダムに亡霊へ落ちる。



 これは、『水滴の拷問』と呼ばれる、人の精神を狂わせる拷問方法の一つである。何もない場所でそれだけに意識を集中させる事で人間の意識は水滴の事だけを考えるようになり、ついには気が狂ってしまうというモノだ。



 常人では二十時間で精神を崩壊させるという。しかし、彼はこれにも暗闇の中永遠と言っても差し支えのない時間耐えていた。しかし。



 「あ……、あぁ……」



 とうとう、その時が訪れた。



 「あぅ……、あぁああぁ……」



 彼は想いを胸に、必死に自我を保っていた。しかし、たった一滴の水と、暗闇の中に放置されるという虚無が亡霊を追い詰めた。水滴を待つ時間が無限に感じ、そして落ちてきた水滴に性的興奮すら覚えてしまうようになっていたのだ。



 (一応は成功かしら)



 壁越しにそれを視るミザリーは思う。亡霊に腕と目を与えたのは、水滴を身体全体で味合わせる為だった。そして、その目論見は見事に的中。今まで無かった部分にまで水の冷たさが澄み渡る感覚は、亡霊にとってこれ以上ない絶望だったのだ。



 気の狂ったまま水滴を受け、また無限を彷徨う。……彼の感覚がいよいよ極限に達した状況で水滴を落としたその時。



 「……っ」



 絶頂の感覚と共に、命を落とした。



 ……。



 さて、今の亡霊の命は幾つ目のモノだろう。気の狂ったまま生き返り、水滴を受け続ける。



 「……」



 何も言わない。極限にまで研ぎ澄まされた感覚を持ちながら、彼は落ちる水滴になんのリアクションも取らなくなっている。何も、言わなくなっている。そんな予兆。



 ……変化は、落ちる雫が数億を超えた頃に訪れた。



 (……来る)



 思考の瞬間、亡霊の頭に水滴が落ちる。当然、水滴の落ちる感覚に法則はない。それなのに、一体何故彼は予測が出来たのか。



 それは、勇者の攻撃や魔女の雷を交わした時に発揮された見切りが、この拷問によって極限へと達し、更に進化を遂げたからだ。狂った気は時間によって落ち着き、超感覚だけが残ったのだ。



 ……果たして、彼は人間なのだろうか。



 水滴を予測出来る今、彼にこの拷問は通じない。ミザリーがそれを知ったのは、彼が飢餓によって命を散らした時だった。



 (最終局面ね)



 ……。



 目を覚ますと、そんな彼にすら予測出来なかった二人の少女が立っていた。



 「……ランス」



 「……っ!?」



 その名前で彼を呼ぶのは。



 「う、嘘だ。そんなわけねえ……」



 それは、十年前の戦いで失った仲間、クラリスとリーシェだ。彼女たちは暗闇の中で佇み、彼を見ている。あの時の姿のままで、そこにいてくれている。



 「ミザリー……。ミザリーっ!今すぐ消してくれ!それだけは……。それだけはやめろ!!」



 彼が手にした予知の力は、あろうことか絶望を知らしめる。



 「よく、頑張ったね」



 前触れもなく、クラリスが言う。その瞬間、彼の目には枯れた筈の涙が浮かんでいた。



 「ランスは、やっぱりかっこいいね」



 「やめろ……」



 思わず、口をついて出た。たったそれだけの言葉で、魔女は忘却の彼方へ追いやられた。



 分かっている。分かっていているのだ。彼女たちが既にこの世にいない事など。二人は、確かに亡霊の腕の中で息を引き取ったのだ。もう戻らない事は、彼自身が一番理解しているはずなのに。



 揺らぐ。彼の持っている心の芯が。耐え続けた事を認められてしまえば、もしそれが壊されるのではなく、取り除かれるのであれば。



 「お疲れ様。……大変、だったね」



 何よりも甘い言葉。これまで誰にも認められなかった者が、誰よりも生きていて欲しかった者に慰められたのだ。



 これ以上に酷たらしい事が、この世界にあるのだろうか。



 言葉を言ったクラリスの首が、ベキベキと不穏な音を響かせてあり得ない方向へ曲がっていく。心身の摩耗から来る疲労が現れる。しかし亡霊から目を逸らさない。



 「頼む……」



 リーシェが手を握る。鎖を揺らす音の後、優しい笑顔を亡霊に向けた。聖女のような、温かい表情だ。……肩胸にかけて浮かび上がった傷からは、大量の血が流れ始める。



 「お願いだ……。止めてくれ……」



 彼がこの拷問の中、思い浮かべていたのは彼女たちの最後の姿だった。自分の境遇など、彼女たちに比べれば容易いと本気で思い続けていたからこそ、彼は自我を保てていたのだ。だがこれでは思い出が思い出ではなくなってしまう。居ないと解っていても、これが嘘だと解っていても、目の前にいてくれることで自分が立てなくなることを解ってしまう。



 魔女は、それを見抜いていた。だからこそ、水滴に意識を向けて彼の想いを掻き消した。そして、最後に彼女たちの幻影を見せる事で、真に彼の精神を崩壊させられると予想していたのだ。



 (素晴らしい。ようやく弱音を聞かせてくれたわね)



 魔女の実験は、全てがこの瞬間への布石であった。彼の体感する時間は、もう数えきれない。その期間の全てが、この時だけの為に行われていたのだ。言わばそれは、最悪の飴と鞭。



 ミザリーは、幸福と絶望の混じった彼の表情を見る為だけに、実験を行っていたのだ。



 「ランス。あなたは誰よりも頑張ってる。凄いよ」



 リーシェは、彼の手を優しく包み、自分の頬に当てた。柔らかい感触と心地よい人肌の温もりが伝わる。……リーシェの血が、赤黒い線となって二人を繋ぐ。



 亡霊の歯が震え、涙が流れる。横に首を何度も横に振り、しかし振り払う事を本心が拒み、彼女たちを心から欲して、恐れた。



 そんな彼に、クラリスは、亡霊を支え続けたあの言葉を。



 ――あなたは、私たちの。



 「やめてくれええぇぇえぇぇええぇぇえ!!」



 叫び同時に、二人は目から大量の血を流して、優しい笑顔のまま地面に倒れた。



 その時、亡霊を支えていた何かが、小さな音を立てて崩れた。

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